2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編100編1~5節
使徒言行録13章42~52節
説教題:「神の言葉はユダヤ人から全世界へと広げられる」
パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行は、地中海北部の、小アジアと今日一般に呼ばれている地域、今のトルコ共和国ですが、当時のローマ帝国ではピシディア州のアンティオキアでの活動について、使徒言行録13章14節から記されています。その町でのユダヤ人会堂でのパウロの説教が16~41節まで続きます。パウロはその説教の終わりで、主イエスの復活と、その主イエスによる罪のゆるしの福音を信じる信仰によってすべての人に与えられる神の義と救いについて語りました。このような福音の説教を、その町の人はまだだれも聞いたことがありませんでした。そこで、多くの人たちは驚きと感謝とをもって、パウロたちの福音の説教を、また次の安息日の礼拝でも聞きたいと願い出ました。42節に、このように書かれています。【42節】。
パウロの説教を聞いた人たちは、それまで安息日ごとにユダヤ人会堂で聞いてきた説教とは、根本的に、まったくと言ってよいほどに違っていると感じたのでした。当時のユダヤ人会堂での説教は旧約聖書の解き明かしでした。その点においては、両者は同じでした。けれども、その中味はまったく違っていました。パウロの説教は旧約聖書のみ言葉に示された神の預言や約束を説きあかし、そのみ言葉によって神が今わたしたちに何を語ろうとしておられるかを明らかにするだけでなく、その旧約聖書のみ言葉が、今や主イエス・キリストによって完全に成就されたのだということを語ったのです。34~37節を読んでみましょう。【34~37節】。旧約聖書のダビデに約束されていた復活の命、朽ち果てることのない永遠の命が、今や主イエスによって成就したのだとパウロは語ったのです。また、【38~39節】。旧約聖書の律法によってはだれ一人として神のみ前で義とはされ得なかったのに、今や主イエスを信じる信仰によってすべての人が義とされ、罪ゆるされ、救われるのだとパウロは語ったのです。
このような旧約聖書の解き明かしは、これまでだれも聞いたことがありませんでした。神が旧約聖書をとおして語られた預言と約束のみ言葉が、今や、主イエス・キリストによって成就されたのです。神の救いのみわざが主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって成就されたのです。この初めて聞く驚くべき福音に接した多くの人たちが、次の安息日の礼拝でもまたこれと同じ説教を聞きたい、そして救いの確信を強めたいと願ったのでした。このように、神の救いのみ言葉を心から慕い求めて、また次の礼拝でも神のみ言葉を聞きたい、神の救いの恵みにあずかり、自分の信仰を強めたいと熱心に願う、そのような思いを、わたしたちもまた持ち続けたいものです。
42節に、「次の安息日にも」と書かれていますが、ユダヤ人会堂では、彼らの安息日である土曜日に礼拝がささげられていました。パウロたちも最初はその習慣を受け継ぎました。しかし、初代教会では次第に、主イエスが復活された日曜日を主の日として、この日に礼拝するように変わっていきました。
次に、43節を読みましょう。【43節】。安息日の礼拝が終わってからも、多くの人たちがパウロたちの周りに集まってきました、これは、いわば、礼拝後に開かれた聖書研究会のようなものと考えてよいでしょう。パウロはそこで、神の恵みのもとに生き続けるように勧めました。礼拝からこの世へと出ていくと、たくさんの誘惑が待ち構えています。信仰者を神の恵みから引き離そうとする悪しき力が多く働いています。教会で開かれる聖書研究会やその他の勉強会、研修会は、わたしたちがこの世の誘惑に負けることなく、礼拝で聞いた福音の説教のもとにとどまり続け、その恵みによって生き続けるための、訓練の機会となります。
では次に、【44~45節】。「ほとんど町中の人」とありますが、当時このアンティオキアの町の人口がどれくらいあったのかは分かりませんが、そんなに大きくもなかったと思われるユダヤ人の会堂にあふれるほどの人たちが、そのほとんどはユダヤ人以外のギリシャ人だったと思われますが、多く集まってきたのを見て、ユダヤ人は自分たちの会堂が異邦人たち占領されていると感じたのかもしれません。
ユダヤ人たちの妬みや怒りにはいくつかの原因があったと思われます。第一に、自分たちの神聖な礼拝場所が異邦人に占領されているという不満、それだけでなく、自分たちがユダヤ教の宣教活動をしてもこれほどの人々が集まらないのに、よそ者のパウロたちがたくさんの人を集めているのとへの妬み、さらには、パウロが語った説教の内容に対する不満や反対も大きかったと思われます。ユダヤ教では、律法を守ることによって人は救われ、神の国に入ることができると教えられていたのに、パウロが語った福音は、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる人はすべて、律法のわざなしに救われると教えている。これはユダヤ教が重んじている律法を否定することだと、かたくなで悔い改めることをしないユダヤ人は考えたと思われます。
実は、これこそがまさに、主イエスご自身がエルサレムでユダヤ人指導者によって捕らえられた原因でもあったのです。そして、わたしたちがこれまで読んできたように、初代教会がユダヤ人から迫害を受けた主たる原因であったのでした。さらには、パウロの世界伝道旅行で幾度も繰り返されるユダヤ人による迫害の原因でもありました。
しかしながら、パウロたちはユダヤ人の反対や攻撃に決して屈することはありませんでした。というのは、彼らは主なる神のみ言葉に仕えているという確信があったからです。自分たちの考えや主張を語っているのではありません。自分たちの利益を求めて活動しているのでもありません。主イエス・キリストの福音に仕えているからです。パウロたちを支えているのは主なる神ご自身であり、罪と死とに勝利された主イエス・キリストであるからです。
【46~47節】。パウロとバルナバはまず神の選びの秩序について語ります。神が全世界の民の中からイスラエルの民、ユダヤ人をお選びになられ、この民と契約を結ばれ、この民にみ言葉をお語りになって、ご自身の救いのみわざを始められました。この神の選びの秩序は重んじられます。パウロはすでに16節以下の説教でもそのことを語っていました。【17節】。46節では、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした」と言われていますが、「はずである」と訳されているギリシャ語は、本来は「ねばならない」という強い意味を持つ言葉であり、神の強い意志と永遠のご計画を意味しています。
ところが、彼らユダヤ人は神から与えられた特別の恵みを拒否し、自ら投げ捨ててしまったのです。神がこの世にお遣わしになったメシア・キリスト・救い主であられる主イエスを受け入れず、十字架につけて処刑することによってそのことが明らかになりました。そして、今またパウロたちが語った主イエスの福音を受け入れず、その活動を妨害しようとしていることによって、いよいよユダヤ人のかたくなさと罪とが明らかにされたのです。
彼らユダヤ人には「永遠の命」を約束されていました。彼らが主イエスを救い主と信じて、主イエスの福音を受け入れるならば、約束されていた永遠の命が彼らに与えられるはずでした。しかし、彼らは最後の目標の前でつまずき、神の恵みを拒絶し、自らを滅びの道へと誘いこんでしまったのです。
けれども、イスラエルの民・ユダヤ人が神の救いの恵みを拒絶したことによって、神の救いのみわざそのものが終わってしまうのではありません。いやむしろ、イスラエルのかたくなさによって、主イエス・キリストによって与えられる永遠の命への道が、異邦人にも開かれるようになったのだと、パウロが語ります。
47節に引用されている旧約聖書のみ言葉は、イザヤ書49章6節と思われます。イザヤ書49章1~6節は、イザヤ書の中で特別に重要な意味を持つ「主の僕(しもべ)の歌」と言われている4つの歌の中の第二の歌です。その箇所を読んでみましょう。【49章1~6節】(1142ページ)。この歌で、神から直接に「わたしの僕(しもべ)」と呼びかけられているのが、神によって特別な使命を託されて選び出された「主の僕」です。この主の僕は「いたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たし」たけれども、しかし、それによって主の僕は諸国民の光としての務めを果たし、神の救いを地の果てにまで、全世界へと告げ知らせるようになると預言されています。
実は、このイザヤ書のみ言葉は、ルカ福音書2章28節以下では、エルサレムの神殿で、幼な子・主イエスを抱き上げたシメオンが語った言葉の中にも引用されています。シメオンはイザヤが預言した主の僕が今エルサレム神殿に現れたのだと告白しています。パウロもまたイザヤ書に預言されていたこの主の僕こそが主イエス・キリストのことであると理解し、それゆえに主イエスの福音が今や自分たちによって異邦人へと、全世界のすべての民へと宣べ伝えられるのだと語っているのです。
わたしたちがこれまで使徒言行録を読んできて何度も見てきたことでしたが、主イエスの福音がユダヤ人だけにではなく、ユダヤ人以外の異邦人にも宣べ伝えられ、彼らもまた主の教会の民へと加えられていったことを確認してきましたが、今やここでよりはっきりと、ユダヤ人からの迫害をきっかけにして、パウロが異邦人の使徒パウロとしての自覚をいよいよ強くし、異邦人に主イエスの福音を宣教する使命をより強く決意させたのでした。
【48~49節】、ユダヤ人たちのつまずきと不信仰にもかかわらず、またそれによってより激しくなるユダヤ人による迫害にもかかわらず、神のみ言葉が前進していきます。新しい救いと命とを生み出していきます。
パウロたちは反対者たちの迫害によって、アンティオキアの町を追い出されることになりました。しかし、52節にはこう書かれています。【52節】。ここには、主イエスの福音を聞いて信じた人たちが「弟子たち」と呼ばれ、ユダヤ人会堂からは独立して、主イエスの教会を建てたことが暗示されています。神の言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはなく、新しい弟子たち、新しい信仰者たちを誕生させ、新しい教会を生み出していくのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画は、この世の反対や不信仰にもかかわらず、いつの世にも、力強く前進していくことをわたしたちに信じさせてください。その希望をもって、どのように困難は時代にあっても、み言葉を宣べ伝える務めにいそしむことができますように、わたしたちを支え、導いてください。
〇主なる神よ、重荷を負っている人、試練の中にある人、病んでいる人、道に迷っている人を、どうぞあなたが助けてください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和とが、この世界に与えられますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。