1月22日説教「12弟子の派遣」

2023年1月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書61章1~4節

    ルカによる福音書9章1~6節

説教題:「12弟子の派遣」

 ルカによる福音書9章1節に、「イエスは十二人を呼び集め」と書かれています。主イエスによって12弟子が選ばれたことについては、すでに6章12節以下に書かれてあり、14節からは12弟子の名前が紹介されています。彼らはこれまで、日夜、主イエスと行動を共にし、主イエスの宣教のみわざのために共に仕え、信仰の訓練を受けてきました。今、改めて主イエスのみ前に呼び集められ、宣教の使命を与えられ、この世へと派遣されて行きます。6章で、12弟子が選ばれたことは、のちの教会の原型であり、始まりであることを学びましたが、ここではその教会の働き、使命、務めが明らかにされています。

 1、2節には、教会の本質を表す最も特徴的な言葉が二つ書かれています。一つは、「呼び集める」、もう一つは2節の「遣わす」です。主イエスによってこの世から呼び集められ、また主イエスによってこの世へと遣わされる、それが12弟子であり、またそれが教会の本質であり、さらには主の日の礼拝の本質でもあります。わたしたちはきょう、主の日の礼拝へと、主イエスによって呼び集められ、この会堂に集い、共に主なる神を礼拝しています。この世のそれぞれの町々村々や、家庭、職場、地域から、主イエスによって呼び集められ、主のみ前に結集して、一つの群れとされ、一つの礼拝の民とされています。そして、この礼拝で神のみ言葉を聞き、罪のゆるしの福音を聞き、慰めと希望とを与えられ、信仰の訓練を受け、また新しい使命、務めを与えられて、祝福と平安のうちに、再びこの世へと遣わされて行きます。このように、主イエスによる招集と派遣が繰り返して起こる所、それが礼拝であり、それが教会の本質なのです。

 その招集と派遣において重要な第一のことは、そのいずれも主イエスがなさるということにあります。1節に「イエスは十二弟子を呼び集め」とあり、2節の「遣わす」も主語は明らかに主イエスです。教会と礼拝の招集と派遣の主語はいずれも主語は主イエスです。主イエス以外のだれかや何かが主語になることはありません。教会の群れを呼び集め、一つに結集させ、またこの世へと派遣するのは主イエスであり、わたしたちが自分自身の意志や願いでそうするのではなく、他のだれかとか、他の何かとかがそうするのでもありません。教会は何か共通の思想とか目的とか利益によって結ばれている団体ではありません。むしろ、各自の人生観や性格、職業、政治的立場とか、あらゆる点において違ってはいても、ただ主イエスによってこの世から呼び集められ、一つに結び合わされている共同体なのです。ここにこそ、教会の一致の確かさと堅固さがあるのです。

 次に、1節、2節には、主イエスが弟子たちにお与えになる特別な力と権威、また使命、務めについて書かれています。それは、彼らが新しい人に造り変えられて、再びこの世へと派遣されていくためです。そのために、主イエスは弟子たちに特別な賜物をお与えになります。この賜物は二つの種類に分けられます。一つは、1節の「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」です。2節にも、「病人をいやすために」とあり、6節では、弟子たちが「病気をいやした」と報告されています。もう一つは、2節の「神の国を宣べ伝える」ことです。6節では、弟子たちが「福音を告げ知らせた」と報告されています。

 この二つのことは、主イエスのお働きの中でも常に結びついていました。7章18節以下で、洗礼者ヨハネからの「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」との問いに対して、主イエスは22節以下でこのようにお答えになりました。【22~23節】(116ページ)。主イエスが様々な重い病気をいやされたことは、旧約聖書に預言されていたメシア・キリスト・救い主であることの証しであり、神の国が到来し、神の恵みのご支配が開始されたことのしるしなのです。人間の目に見え、体で体験する奇跡のみわざと、言葉による福音の宣教とは、互いに結び合い、神の救いの時が成就したことをはっきりと告げているのです。

 主イエスの弟子たちは、主イエスから全権を託された使徒として、主イエスの救いのみわざを引き継ぐために、同じ賜物を与えられました。彼らは言葉とわざとによって、主イエスによって開始された神の国、神の恵みのご支配と、主イエスが成就される救いの時を告げ知らせるために、この賜物を携えてこの世へと派遣されていくのです。

 「神の国を宣べ伝える」、「福音を告げ知らせる」ということについて、もう少し詳しく考えてみましょう。「神の国」(マタイ福音書では「天の国」と表現されますが)とは、神のご支配のことです、神がただお一人の王として君臨しておられ、支配しておられる国、それが神の国です。そこでは、神以外のすべてものは神に服従しています。悪しきもろもろの霊も病気も、罪も死も、すべては神のご支配のもとにおかれます。それが人間にとっての本当の救いです。

 それゆえに、神の国の到来は「福音」、喜ばしいおとずれといわれます。それはこの世にあるすべての喜びよりもはるかに大きな喜び、天の神から与えられる喜びです。また、もはや他の何ものによっても奪われることなく、破壊されることのない永遠の喜び、平安がそこにあります。主イエスがこの世においでくださったことによって、そのような神の国が開始されたのです。主イエスが悪霊を追い出し、病気をいやし、死人を生き返らせる奇跡をなさったのは、そのことの確かな目に見えるしるしなのです。そして今、弟子たちは主イエスによって開始されたこの神の国の福音を宣べ伝えるために、この世へと派遣されていくのです。

ここでも、重要なポイントは、彼らに与えられた力や権威は、彼らが持っていたものではなく、彼らが自分たちの手で得たものでもなく、主イエスから与えられたものであるという点です。彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり」、「神の国の福音を宣べ伝え」る務めをお与えになったのは主イエスです。1節と2節の文章の主語はすべて主イエスです。弟子たちの能力や知恵ではなく、彼らが自分たちの考えや努力によってその務めを果たさなければならないのでもありません。むしろ、選ばれた弟子たちは当時の宗教的・社会的指導者ではなく、学者や資産家でもなく、無学で、貧しく、力弱い人たちでした。主イエスはあえてそのような人たちをお選びになったのです。それは、だれも自分の力に頼らず、自分を語らず、ただ主イエスから与えられた力と権能によってのみ生きるためでした。主イエスから託され、委ねられた務めに生きるためでした。

3節からは、派遣される弟子たちに対する主イエスの命令が語られます。【3~5節】。3節に挙げられている「杖、袋、パン、金、下着の着替え」は旅に出る際に最低必要なものです。けれども、主イエスは最低必要なそれらのものをすらも持っていくなとお命じになります。なぜでしょうか。その理由の一つは、弟子たちは旅を楽しむために出ていくのではないからです。神の国の福音を宣べ伝えるために出かけるからです。持っていくべきものは、主イエスから託された神の国の福音です。それで十分です。主イエスの到来とともに、すでに神の国、神の恵みのご支配が始まっています。だから、この世で生活するための配慮や心配を一切する必要はないからです。神のご支配を信じ、それに身を委ね、従うことによって、神が必要なものを備えてくださることを信じるからです。彼らはただ神の国の福音だけを携えて出かけていくのです。彼らを派遣される主イエスが「何も持って行ってはならない」とお命じになるときには、「何も持つ必要がない」ということを意味しています。主イエスは12章22節以下でこのように教えておられます。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父なる神は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(12章22節、30~31節参照)と。

旅に必要なものをすらも何も持っていくなと主イエスがお命じになるもう一つの理由は、神の国が完成される時がすぐに近づいているからです。この世の終わりの時、終末の刈り入れの時が迫っているからです。あれこれと旅の支度のために時間をかけている余裕がないからです。今すぐに、急いで、神の国の福音を宣べ伝えるために出発しなさいと主イエスは言われるのです。主イエスご自身も、初代の教会も、そのような終末が接近しているという緊張感の中に生きていました。弟子たちにとって、またわたしたちにとってもそうなのですが、福音を宣べ伝えるという務めは、滅びに向かおうとするこの世界にあって、最も緊急な課題であり、まず第一にしなければならない重大な使命なのです。

4節では、家から家へと渡り歩くことが禁止されています。当時のユダヤ人社会では、巡回伝道者は一般的に尊敬され、どこの家でも歓迎され、良いもてなしを受けました。そのために、より良い待遇をしてくれる家を探して、滞在する家を頻繁に変える巡回伝道者が多かったようでした。しかし、神の国の福音を宣べ伝える弟子たちは巡回伝道者に対するもてなしを期待すべきではありません。この世の人々の称賛や報酬を求めるべきではありません。なぜならば、福音を宣べ伝える伝道者は、それよりもはるかにまさった神からの祝福が与えられているからです。

最後に、5節では、【5節】と命じられています。「足についている埃を払い落とす」とは、神の国の福音を受け入れない人たちに対する抗議のしるしであり、最終的な決別のしるしでもあります。信じない人たちには神の最後の審判が待っています。彼らが自ら招いた滅びの運命に対して、弟子たちには一切の責任がないことのしるしでもあります。それゆえに、弟子たちは福音を信じないかたくなな人たちに出会っても、そのことで失望する必要はないし、あるいはまた彼らの宣教の働きが大きな成果を得ても、それを誇ることはできません。

主イエスの時代がそうであったように、今のわたしたちの時代にも、主イエスの福音を信じ、受け入れる人は多くはありません。わたしたちが主イエスの福音を携えてこの世へと出ていく時に、しばしば無理解や無関心、時として反発を受けることもあります。けれども、わたしたちは失望したり恐れたりする必要はありません。わたしたちが人を裁くのではなく、わたしたちを派遣された主イエスが裁きと救いをみ心にかなってなしてくださるからです。そのことを信じて、わたしたちはこの世へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、この世界は主なる神を見失い、不信仰と不従順を続け、滅びへと向かっています。けれども主なる神よ、あなたはこの世界が滅びることを願ってはおられません。この世界があなたによって救われ、あなたのみ心が行われ、全人類が和解と共存のうちにあって、共にあなたを礼拝する一つの民となることを願っておられます。

〇願はくは、あなたの委託を受けた主キリストの教会が、神の国の福音を携えて、この世へと出ていき、救いを必要としているすべての人々に、主キリストの十字架の福音を告げ知らせる使命を果たすことができますように、導いてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月15日説教「ヤコブとエサウの再会」

2023年1月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記33章1~20節

    ルカによる福音書15章11~24節

説教題:「ヤコブとエサウの再会」

 きょうの礼拝で朗読された創世記33章で、わたしたちは二人の人が20年ぶりで感動的な再会をする場面に出会います。ヤコブとエサウの兄弟、同じ母リベカから生まれた双子の兄弟であった二人。しかし、弟ヤコブが兄エサウの長男の特権を奪い取り、父イサクをも欺いて長男が受けるべき神の祝福を自分のものとしたために、兄エサウから憎まれ、命をねらわれる身となったので、兄から逃れて遠いハランの地にいる母リベカの兄ラバンのもとへ旅立ったヤコブ。そして、20年の歳月が流れ、今その双子の兄弟が再会しようとしているのです。

3節、4節を読んでみましょう。【3~4節】。これは何と感動的な再会の場面であることでしょうか。一方は、かつて怒りと憎しみに燃え、敵意を募らせてその命をも奪おうとしていた兄のエサウ。他方は、兄の復讐に対する恐れと不安におびえている弟ヤコブ。その二人が今ここで固く抱き合い、口づけし、共に泣き、涙を流ている。何が、二人をこのように変えたのだろうか。何が、このような感動的な和解へと二人を導いたのであろうか?

20年という歳月が二人の憎しみと怒り、不安と恐れを和らげたのであろうか。確かに、そういうことがあるだろうとは予想されます。20年の時の経過が人を変えるということはあり得ることです。時の流れが人の感情を和らげたり、過去を忘れさせたりもします。

わたしたちはこれまで、二人が分かれてからの20年間について、兄のエサウについては全く情報はありませんでしたが、弟ヤコブについては28~32章までに書かれている彼の歩みについて詳しく聞いてきました。ヤコブは身を寄せた叔父ラバンの家で、美しい妹娘ラケルと結婚したいと願い、7年間夢中になって働きました。けれども、ラバンの策略によって結婚相手として渡されたのは姉のレアでした。そこで、彼はもう7年間働いて、ようやくラケルと正式に結婚できましたが、またしてもラバンの策略によって、さらに6年間働かされることになりました。

ラバンの家でのヤコブの20年間の歩み、その苦労と試練の意味についてわたしたちは考えてきました。その一つは、ヤコブにとってこの20年間は神から与えられた信仰の訓練の時であったということです。ヤコブは何度もラバンにだまされながらも、愛する妻ラケルのために、また父の祝福を受け継がせる彼の11人の子どもたちのために、忍耐し、誠実に、そして黙々と働き続けました。その間、彼は謙遜になること、従順になることを学びました。かつて、兄と父までも欺いて,自分の欲しいものを手に入れようとする彼の傲慢な思いが次第に打ち砕かれていったのです。

ヤコブが学んだもう一つのことは、約束の地カナンから遠く離れたハランの地でのこの20年間、父イサクから受け継いだ神の約束、それはイサクもまた父アブラハムから受け継いだものでしたが、その約束は決して無効にはなっていないということでした。神は何度もヤコブに語りかけられました。「わたしはあなたの子孫を空の星の数ほどに、海辺の砂の数ほどに増やすであろう。また、カナンの地をあなたとあなたの子孫に受け継がせるであろう」と。ヤコブはこの神の約束のみ言葉を信じ続け、約束の地カナンへ帰ることを忘れることはありませんでした。ハランの地での20年間は、約束の地カナンに帰る準備の期間であったのです。彼はその地で蓄えた多くの財産や、その地で生まれた11人の子どもたちと共に、そのままハランに定住してもよかったのです。復讐を恐れていたエサウとの再会をしなくてもよかったのです。

でも、彼はそうしませんでした。彼はカナンの地へ帰ります。エサウとの再会を望んでいます。なぜならば、その地が神の約束の地であるからです。エサウは同じ父イサクから生まれた契約の子どもたちだからです。そのようなことを考えてみますと、ここでヤコブとエサウとを和解へと導いているのは、神ご自身なのではないかと思わされます。そして、事実、主なる神こそが、この二人の感動的な再会と和解の場面の背後におられるということに、わたしたちは次第に気づかされていくのです。

33章1、2節を読むと、ヤコブが兄エサウの出迎えを恐れていた様子が分かります。すでに32章で、エサウが400人を引き連れて待ち構えているとの報告を受けたヤコブは、「非常に恐れ、思い悩んだ」と8節に書かれていました。エサウが自分たちを襲ってきて、子どもたちや家畜、財産を奪うかもしれないと考え、隊列を二組に分け、愛する妻ラケルと最愛の子ヨセフを列の最後に置いたと書かれています。そのようにしてまで、ヤコブは恐れと不安の中にありながらも、エサウとの再会を果たそうとしているのです。そして、自らはその先頭に立って、エサウの前に進み出ていきます。

ヤコブのこのような知恵と勇気は、ハランの地での20年間を導かれた主なる神から与えられたものであると、わたしたちは推測します。そしてまた、この場面でのエサウに対するヤコブの姿勢からも、神ご自身がそこで働いておられるということを、わたしたちは読み取ることができます。ヤコブはここで徹底して兄エサウの前に身を低くし、兄に敬意を表しています。3節には「兄のもとに七度地にひれ伏した」とあり、5節では、「あなたの僕であるこのわたし」と言い、また8節、13節、14節では、エサウを「御主人様」と呼んでいます。このようなヤコブの態度には、彼が20年間に学んだ謙遜が確かに反映されていると言ってよいでしょう。

エサウの20年間については、わたしたちは何も知ることはできません。また、この場面でなぜエサウが弟ヤコブを許し、和解を受け入れたのかについても、何も説明されていません。4節には、ヤコブから謝罪の言葉とか和解の申し出を聞くよりも先に、彼の方から先にヤコブを迎えるために走って行ったと書かれています。ヤコブが和解のしるしとして多くの家畜を差し出した時には、エサウは最初はそれを受けとるには及ばないと断っています。これが、この時代の慣習であって、最初は断るのが礼儀であったとしても、この場面ではヤコブに対するエサウの怒りや恨みといった感情は全く読み取ることはできません。20年前のエサウの怒り、憎しみは、なぜ消えたのでしょうか。わたしたちにはわかりませんが、主なる神がヤコブに働きかけ、彼を導いておられたように、エサウに対しても主なる神が働いておられ、この二人に和解の道を備え、このような感動的な出会いの場面を演出しておられるのだということを、わたしたちは信じるのです。

創世記の神,アブラハム、イサク、ヤコブの神,のちにイスラエルをお選びになり、この民と契約を結ばれた神、そして、主イエス・キリストによってわたしたち罪びとを罪から救ってくださる主なる神は、和解の神であり、平和の神であり、すべての人の罪をゆるし、全世界の国民を一つの神の国の民としてくださる神であられます。その神がここでヤコブとエサウとを再会させ、和解させてくださったのだということを、わたしたちは信じることができます。

ヤコブの発言からそのことを確認することができます。5節で、ヤコブはハランで生まれた彼の11人の子どもたちについてこのように説明しています。「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです」。また、10節でも、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから」。ヤコブはエサウと和解する前に、ペヌエルで神と和解したことが32章23節以下に書かれていました。そこでヤコブは「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったと31節に書かれています。その時にヤコブに与えられた神との和解が、10節の「エサウの顔が神のように見える」という告白を導き出していると考えられます。

かつての傲慢で、他者を押しのけてでも自分の思いどおりに事を運ぼうとしたヤコブが、兄エサウの前でこのように告白することによって、ヤコブもエサウも共に神のお導きを信じ、神の永遠の救いのご計画に自分たちが招き入れられていることを悟ったのです。

12節からは、神に選ばれたヤコブと、神の選びからはもれたエサウとが、別々の道を進むことが語られています。二人が出会っている場所は、ヨルダン川の東側のヤボク川を渡ったペヌエルと呼ばれるようになった地です。エサウはそのころ32章4節によれば塩の海(死海)の南、セイル地方のエドムに住んでいました。12節によれば、エサウは自分が住んでいるセイル地方にヤコブを誘いたかったようでした。けれども、ヤコブはそのエサウの申し出を丁寧に断っています。15節では、エサウが自分の一族の何人かを道案内のために残しておく提案をしていますが、ヤコブはそれをも丁寧に断りました。そこで、16節には、「エサウは、その日セイルへの道を帰って行った」と書かれています。

ここには、エサウとヤコブの誕生の時にすでに定められていた神の選びが、実際に成就していく次第が描かれているのです。すなわち、25章23節で母リベカが聞いた神のみ言葉の成就です。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で別れて争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」。このみ言葉がここで最終的に成就し、弟ヤコブが神に選ばれ、神の契約を受け継ぐイスラエルの民となり、兄のエサウはのちのエドム人の祖先となるのです。

ヤコブは17節によれば、ヤボク川の近くのスコテというところにしばらく住み、それから18節以下によれば、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入り、シケムに定住しました。【18~20節】。創世記12章6節によれば、シケムはアブラハムが神に導かれてカナンに入った最初の地でした。そこで、アブラハムは「この地をあなたの子孫に与える」との神の約束のみ言葉を聞きました。ヤコブはその地の一部を買い取り、そこに祭壇を築き、その場所を「エル・エロヘ・イスラエル」と呼びました。これは、「神・イスラエルの神」という意味です。ヤコブはこの地で、神を礼拝しながら、神の救いのみわざがさらに前進するときに備えます。

父祖アブラハムの生涯が約束の地カナンで神を礼拝し続ける歩みであったように、ヤコブの生涯も神礼拝を続けながら、神の約束の最終的な成就を待ち望む歩みでした。今日のわたしたちの信仰の歩みもまた同じです。共に主の日の礼拝を続けながら、神の国の完成の時を待ち望みましょう。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがアブラハム、イサク、ヤコブをお選びになり、イスラエルの民との契約によってお始めくださった救いのみわざが、今わたしたちに主イエス・キリストの十字架の福音によって、全人類の救いのご計画となって受け継がれておりますことを感謝いたします。どうか、罪や不正義によって分裂しているこの世界を、あなたが真実の和解と平和の福音によって、一つに結び合わせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月8日説教「救いの御業を信じる人はみな救われる」

2023年1月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書55章1~7節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「救いの御業を信じる人はみな救われる」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、第二の段落の最初の部分、「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」の箇所を、前回に引き続き、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 「神の選び」については、これまで2回にわたって学んできました。神の選びの教理は、わたしたちの教会、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の信仰と神学の大きな特徴であることを確認してきました。日本キリスト教会は、ルター派教会ではなく、バプテスト教会でもいわゆる福音派教会でもなく、改革教会の伝統を受け継いでいる教会であって、その特徴の一つが神の選びを強調するという点にあります。わたしたち人間の側の選択や決断、経験が重要なのではなく、神がわたしたちの決断に先立って、あるいは、わたしが生まれる以前から、永遠の救いのご計画に従ってわたしを救いに定めてくださった。わたしを選び、わたしを信仰の道へと導いておられる。そして、この教会ときょうの礼拝に招いてくださった。わたしが今ここに、このようにして存在しているということをも含めて、わたしのすべての命と歩みは、神の主権と自由によるのであり、神の恵みの選びによることなのです。

この神の永遠で、自由な、恵みの選びがわたし自身の決断とか経験に先立ってあるのです。わたしは、このような神の選びを、すなわち、神によってわたしが選ばれているということを、信仰によって選び取るのです。それがわたしたちの信仰です。また、そこにわたしたちの信仰の確かさがあるのです。

 主イエスはヨハネによる福音書15章16節で弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。ヨハネ福音書14~16章は、主イエスが十字架につけられる前日、受難週の木曜日の弟子たちとの別れの説教、告別説教と言われている箇所です。翌日の金曜日には、主イエスは地上から取り去られ、弟子たちだけが取り残されます。恐れと不安の中にある弟子たちに対して、主イエスはこの説教をされました。

 もし、弟子たちが自分たちの判断で主イエスを選び、自分たちの決断ですべてを捨てて主イエスに従ったのであれば、もしかしたら彼らの判断が間違っていたということがあるかもしれない、あるいは彼らの考えが途中で変わるということがあるかもしれない。そして、自分の弱さや迷いのために、倒れることがあるかもしれない。しかし、そうではないと主イエスは言われます。主イエスが永遠なる神の予定と恵みの選びによって彼らを信仰の道へとお招きくださったのです。主イエスが彼らを弟子としてお選びくださったのです。だから、彼らは自分たちの足で立つのではありません。立たなければならないのでもありません。主イエスによって支えられ、導かれているのです。それゆえに、主イエスが地上から取り去られたのち、彼らがどのような困難や試練の道を歩むことになろうとも、決して倒れることはありません。だからまた、彼らは確かな信仰の実りを結ぶことができるし、父なる神との固い交わりの中で、すべての必要なものを備えられるのです。主イエスは決別説教でそのように約束しておられます。

 わたしたちはここで、神の選びについて3つの点にまとめてみたいと思います。第一には、神の永遠なる予定と恵みの選びは、主イエス・キリストによって、わたしたちひとり一人に適用されるということです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じるわたしたちは、主イエス・キリストによって選ばれていることを信仰によって選び取るのです。第二には、わたしたちが自分の判断とか意志によって信仰の道を選んだのではなく、主イエスがこのわたしを、取るに足りない、貧しく、弱く、欠けの多い、罪びとであるこのわたしを選んでくださったという、主イエスの選びこそがわたしの選びの確かさであり、わたしの信仰の確かさなのだということ。第三は、それゆえにこそ、わたしの信仰の歩みは豊かな祝福のうちにあり、神に喜ばれる信仰の実りを結ぶようになるのだということ。わたしたちは、このような神の予定と選びを信じているのです。

 主イエスの選びについて、ヨハネ福音書のこの個所から、もう一つのことを確認しておきたいと思います。15章19節にこのように書かれています。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」。ここでも、主イエスの選びの重要な意味が語られます。わたしたちが主イエスによって選ばれ、キリスト者にされるということは、この世から選び分かたれるということでもあるのです。わたしたちは主キリストのものとされ、もはやこの世のものではありません。この世には住んでいますが、この世に属しているのではなく、主キリストに属しています。それはある意味ではこの世と対峙して生きることです。時には、この世から憎まれ、迫害される生き方を強いられます。なぜなら、この世は依然として罪に支配され、神を憎み、主イエス・キリストを拒む世だからです。

 それゆえに、主イエスによってこの世から選び分かたれたキリスト者のこの世での信仰の戦いは、時として過酷なものになることもあるでしょう。しかし、主イエスは告別説教の終わりで、このように約束しておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。

 次に、「神に選ばれて」のあとの「この救いの御業を信じる人はみな」という告白について学んでいきましょう。この個所は、文語訳では「おおよそ神の選びを受け、この救いの御業を信ずる者は」となっています。文語訳の「おおよそ」という言葉は、「だれであれ、だれでもみな」という意味で用いられていると理解されます。英語の翻訳ではWhosoeverという言葉が用いられています。Whoever(だれでも)を強調した言葉です。「信じる人はだれでも、ひとり残らず」という意味・内容です。

 「信じる」という言葉が『信仰告白』の中ではここで最初に用いられます。この後を見ると、「信じる人を聖化し」とあり、その後には「信仰と生活」という名詞形で出ています。後半の『使徒信条』の部分では、「父なる神を信じます」、「イエス・キリストを信じます」、「聖霊を信じます」と告白されています。

 わたしたちはここで「信じる」とはどういうことか、「信仰」とは何かを考えようとしているのですが、それに先立って、『信仰告白』の文章の続き具合をもう一度確認しておきたいと思います。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」とありますから。神の選びは信じること、信仰を目ざしているということが分かります。わたしたちが神に選ばれているのは、わたしたちが信じるためであり、神によってわたしが信仰へと招かれるためなのだということです。

 神に選ばれているということは、何か、特権階級につくとか、人間として優秀で有能であるというお墨付きを神からいただくとか、それで神の特別な保護を約束されているということではありません。旧約聖書時代のユダヤ人の一部や、主イエスの時代のユダヤ教ファリサイ派・律法学者たちは、イスラエルの民が神によって選ばれたことをそのように誤解したために、預言者たちから非難され、また主イエスも彼らを厳しく叱責されたということを、わたしたちは聖書から知らされています。イスラエルが神に選ばれたのは、彼らが優秀な民であったからではなく、また彼らが選ばれたことを誇るためでもありません。神との契約を忠実に守り、ただ神だけを信じ、礼拝し、神の救いのみわざの証人となるためでした。弟子たちが主イエスによって選ばれたのも同様です。わたしたちが主イエスによって選ばれたのも、それ以外ではありません。わたしたちが主イエスをわたしの唯一の救い主と信じ、その信仰を告白するためにほかなりません。

 では、信じるとはどういうことなのでしょうか。まず、何を信じるのでしょうか。『信仰告白』では、「この救いの御業を信じる」と告白されています。「この救いの御業」とは、その前の「主は、神の永遠のご計画に従い」から「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」までの主イエス・キリストの救いのみわざを指しています。つまり、信じるとは、主イエス・キリストの救いのみわざを、十字架の福音を信じるということです。

 信じるとか、信仰を持つということは、神の存在を信じるとか、何か人間の力や能力を超えた漠然とした神の力や働きを信じるとか、神聖なものや神々しい、神秘的なものに心を動かされるとか、あるいはまた、何かの真理を信じるとかいうことではありません。神が、ご自身の独り子であり、まことの神であり、まことの人となられた主イエス・キリストによってわたしたちのためになしてくださった、具体的な、歴史的な、十字架と復活による救いの出来事、救いのみわざを信じるということなのです。

 さらに進んで、主イエス・キリストの救いのみわざが、2千年前にパレスチナの一角で起こった歴史的な出来事であったと信じるだけでなく、また、全人類の救いのためのみわざであったと信じるだけでもなく、ほかでもない、このわたしのための、このわたしを罪から救うためのみわざであったと信じること、この信仰へとわたしを導き入れるために、神はわたしを選ばれたのです。主イエス・キリストが、ほかでもないこのわたしのために、わたしを罪から救い出すために、苦しみを受けられ、十字架で死んでくださり、その尊い血を流して、わたしを罪の奴隷から贖い出してくださった。主イエス・キリストは、ほかでもないこのわたしが朽ちることのない永遠の命に生きるために、来るべき神の国の民として生きるために、三日目に復活され、天に昇られ、今もこのわたしのために執り成しておられる。そのことを信じるために、神はわたしを選ばれたのです。

預言者イザヤはイザヤ書55章でわたしたちをこのように招いています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく、ぶどう酒と乳を求めよ。なぜ、糧にもならならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(55章1~3節)。「主を尋ね求めよ。見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6~7節)。

わたしたちはこのような信仰へと招かれています。信仰とは、全くの無代価で、神から差し出される恵みを受け取ることです。わたしたちが神に何かを支払ってその代価として恵みをいただくというのではなく、糧にもならないもののために高額な代金を支払って無駄に労してきた愚かなわたしたちに、最もよい魂の糧によって養うために、神が無償で差し出してくださるゆるしの恵みを、神の側の一方的なあわれみによって受け取ること、これが信仰です。

また使徒パウロは、主イエス・キリストによってわたしのために備えられている信仰について、ローマの信徒への手紙3章21節以下でこのように語っています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3章21~24節)。

わたしたちはだれでもみな、神に選ばれて、この主イエス・キリストの福音を信じるなら、その信仰によって、神のみ前に義と認められ、罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅びにしか値しなかったわたしたちを、あなたがみ子の十字架の血によって、罪と死と滅びから救い出してくださったことを感謝いたします。どうか、全世界のすべての人がこの福音へと招き入れられますように。主イエス-キリストのみ名によって。アーメン。

1月1日説教「ペトロとヨハネのサマリア伝道」

2023年1月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書31章1~9節

    使徒言行録8章14~25節

説教題:「ペトロとヨハネのサマリア伝道」

 昨年の主の日の礼拝では、旧約聖書から創世記、新約聖書からはルカ福音書と使徒言行録、それに『日本キリスト教会信仰の告白』の4つのテキストを取り上げ、それらの連続講解説教というかたちで礼拝を守ってきました。今年もしばらくそれを続けることにいたします。神のみ言葉である聖書、そしてわたしたちの信仰と生活の唯一の規範である聖書を丁寧に、深く、また真剣に学び、そのみ言葉に忠実に従って生きる信仰の歩みを共に続けていきたいと思います。

 きょうは使徒言行録8章14節以下を学びます。初代エルサレム教会は最初の殉教者となったステファノの死後、12使徒以外のほとんどの教会員はエルサレム市内から追放されるという大迫害を受けることになりました。それは誕生して間もない教会にとっては大きな試練であり、教会の存続を脅かすほどの危機でしたが、散らされていった信徒たちはパレスチナの町々村々で主イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。それによって、福音がエルサレムだけでなくパレスチナ全域へ、さらには北の地中海沿岸の諸国にまで広がっていきました。教会の迫害という大きな試練の時が、教会の成長と拡大の時となったのです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれることはないということを、わたしたちはこの年の最初の礼拝でも確認しておきましょう。

日本もアジアも世界の国々も、またその中にある教会も、さまざまな災いや病、戦争による人の命と自然の破壊、貧困、飢餓、難民、社会の分断など、数えきれないほどの苦難と試練に行く手をさえぎられて、希望を見いだせないような今日の状況の中にあって、しかしそれでもなおも、わたしたちは神のみ言葉の力と命とを信じ、天から差し込んでくるまことの光に向かって、希望を抱いてこの一年を歩み出したいと切に願っています。主キリストの福音は暗い時代の中でこそ、試練と災いの中でこそ光り輝き、その豊かな恵みを現すことを信じて。

 さて、エルサレムから散らされた一人、フィリポはサマリア地方に主キリストの福音を宣べ伝えました。彼は最初の殉教者ステファノと共にエルサレム教会の貧しい人たちの食卓の世話をするために選ばれた奉仕者7人のメンバーでしたが、ステファノもそうであったように、フィリポも肉体を養うパンのための奉仕者であっただけでなく、人間の魂を養い、人間を罪から救う主キリストの福音のための奉仕者となりました。しかも、彼はユダヤ人との間で長く民族的・宗教的対立関係にあったサマリア人に平和と救いの福音を語ったのです。それは、ユダヤ人とサマリア人との長い歴史的な対立と分断を終わらせるという意味を持っていました。主イエスの十字架の福音はゆるしと和解の福音であり、人間の魂と民族・社会・国家に真実の平和をもたらす福音であるからです。

 サマリアではさまざまな異教の宗教が流行していましたが、その中でも魔術師シモンが特に多くの信奉者を集めていました。しかし、フィリポが主イエス・キリストの福音を語り伝えると、多くのサマリア人がその福音を信じ、洗礼を受けるようになり、シモン自身も洗礼を受けたと書かれています。それは、人間が考え出した偶像の神々や、人間の力によって人々を驚かす魔術に対する十字架の福音の勝利であり、神が救いの恵みによって支配される神の国が到来したことの目に見えるしるしでした。

 きょう朗読された14節以下では、エルサレムから使徒ペトロとヨハネがサマリアに派遣されたことが書かれています。【14節】。なぜ、ペトロとヨハネがサマリアに派遣されたのか、その理由についてはここでは説明されてはいませんが、このあとでも同じように、新しい伝道地にエルサレム教会から使徒が派遣されるということが、10章のカイサリア伝道や11章のアンティオキア伝道でも繰り返されていますので、ここには何らかの共通した意図があったのではないかと考えられています。

 おそらくそこには、エルサレム教会をそののちに誕生したすべての教会にとっての、いわば母教会とする考えがあったと思われます。主イエス・キリストの福音とそれに基づいて建てられた教会は、そのルーツをエルサレムに持っています。実際に、エルサレムから散らされていった信徒たちによって多くの教会は建てられたのですが、その地域の教会がエルサレム教会と具体的につながっているということを、使徒たちの派遣によって確認したのではないかと推測されています。だれかが、個人的な思いつきで、その地に自分の好みに合った教会を建てるというのではなく、エルサレム教会との結びつきの中で、初代教会であるエルサレム教会の信仰と教理、あるいは教会政治を正統に受け継ぐ教会として建てられるということを確認する意図が、ペトロとヨハネの派遣にはあったと思われます。

 わたしたち日本キリスト教会において、新しい教会が誕生する際にも、同じような制度が適用されます。数人の信徒が集まって教会を建てようとする時には、所属の中会に申し出て、その群れが日本キリスト教会の信仰を受け継いでいることを確認し、そのあとで中会から派遣された教会建設委員によって、教会建設式と長老任職式が執行されます。その際には、『日本キリスト教会信仰の告白』が共に告白され、信仰と制度の一致が告白されます。それと同じような意図がここにはあったと思われます。

 もう一つの重要な意図があったことがこのあとで明らかになります。それは、サマリア伝道のある意味での不完全さを補い、それを完成へと導くためでもありました。【15~16節】。サマリア伝道とサマリア教会の誕生が聖霊なる神のみ業であるということが、そして聖霊なる神によって完成されるということがここで明らかにされていきます。

 フィリポから洗礼を受けたサマリアの人たちは、魔術師シモンも含め、まだ聖霊を受けていなかったと16節に書かれていますが、これがどういうことを意味するのかは、はっきりと分かっていません。使徒言行録の他の箇所を読むと、2章38節のペンテコステの時のペトロの説教では、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」とあり、洗礼を受けることと聖霊が注がれることは切りなせない一つのこととして語られています。また、他の箇所では、主イエスを信じ、聖霊を受け、そののちに洗礼が執行される例もあります。しかし、サマリアの人々の場合、フィリポが授けた洗礼の際には聖霊が彼らに注がれていなかったと16節に書かれています。

そして、17節に「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」とありますが、手を置くとは按手のことで、一般には信徒が何か特別な務めに就く際に按手をするのですが、ここでの按手は聖霊が注がれることのきっかけになっています。なぜ、サマリアの人々には洗礼の際に聖霊が注がれていなかったのか、なぜ、ペトロとヨハネの按手によってはじめて聖霊が彼らに注がれたのか。それは、洗礼の時に彼らに真実の悔い改めが欠けていたからなのか。それとも、洗礼を授けたフィリポに何らかの欠けがあったためなのか。あるいはまた、エルサレムから派遣された使徒たちによらなければ、サマリアの群れの信仰が未熟だということなのか、そのあたりのことはよくわかっていません。

ここに記されている按手と聖霊の注ぎについては分からない点がいくつかありますが、わたしたちはここで、聖書全体で教えられている聖霊なる神のお働きについて確認しておくことが必要と思われます。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一12章3節で、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であるとは言えない」と書いています。わたしたちが主イエスの福音を聞き、それを信じ、「主イエスはわたしの救い主である」と告白することができるのは聖霊なる神のお働きによります。わたし自身の知恵とか判断とかによるのではありません。わたしたちはみなこの世の朽ちるものに縛られ、わたしたちの知恵や決断も神のみ心から離れており、罪と死に支配されています。聖霊なる神がそのようなわたしの罪やかたくなさを打ち砕き、主イエスの十字架の福音へとわたしの心の目を開いてくださらなければ、だれも主イエスをわたしの救い主と告白することはできません。聖霊なる神がわたしの中に潜んでいた罪を明らかにし、それをわたしに気づかせ、わたしに悔い改めの思いを与え、主イエスの十字架こそがわたしの唯一の救いであることを悟らせ、信じさせてくださるのです。わたしが主イエスを主と信じ、洗礼を受けるときに、そこで働いておられたのは聖霊なる神にほかなりません。

では次に、18節以下に書かれている魔術師シモンの場合を見ていきましょう。【18~24節】。シモンも洗礼を受けたときに聖霊を注がれてはいませんでした。また、彼は聖霊のお働きを正しく理解していませんでした。シモンはペトロとヨハネの行動を見て、自分もまた聖霊を自分の自由に操ることができるようになりたいと考え、その能力をお金で手に入れることができると考えました。そうすれば、自分はこれまで魔術師として人々の尊敬を集めてお金儲けができたように、聖霊を自由に操作して、それを商売にできると考えたようです。彼はまだ魔術師シモンとしての名残を完全に捨てきれてはいませんでした。聖霊によって彼のすべてが打ち砕かれ、新しい人間として生まれ変わってはいませんでした。

そこで、ペトロはシモンに対して、彼が自らの罪を悔い改め、過去の自分から全く解放されて、新しい人となり、主イエスの福音によって生きる信仰者となるようにと勧めます。そのために祈るようにと勧めます。シモンはペトロの勧めに忠実に従い、悔い改め、祈る信仰者となりました。また、ペトロの執り成しの祈りに支えられる信仰者になりました。

使徒言行録がここで明らかにしていることは、聖霊とはそれ自身で自由に働かれる神の霊であり、人間がこれを思いのままに操作したり、人間の間でやり取りしたりできるものではないということ。あるいはまた、聖霊は洗礼式とか聖餐式とかの儀式と結びついているものでもなく、聖霊はあくまでも生ける神ご自身であり、自由と権威とをもって信じる人の救いのために働かれる神の霊であるということです。聖霊は今ここでも、わたしたち一人一人の救いのために働いておられます。

【25節】。エルサレム教会から派遣された使徒ペトロとヨハネの働きによって、フィリポから洗礼を受けたサマリアの人々と魔術師シモンに聖霊が注がれ、このようにして最初のサマリア伝道が締めくくられます。このようにして、ユダヤ人からは異教徒、異邦人としてさげすまれていたサマリア人に主キリストの十字架の福音が、罪のゆるしと和解の福音が宣べ伝えられ、サマリア教会が誕生したのです。主イエスが天に昇られる際に約束されたみ言葉、「あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、このみ言葉が成就したのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、この世界は罪と憎しみ、争いと分断によって、いくつにも引き裂かれています。それによって、多くの人々が傷つけられ、住む土地と家を追われ、パンに飢え、尊い命を奪われ続けています。憐み深い主よ、この世界にまことの和解と平和をお与えください。すべての人々にあなたからの慰めと励まし、喜びと希望をお与えください。新しい一年が主の恵みの年となりますように。あなたのみ心が行われる年となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月25日説教「闇の中に現れた大きな光」

2022年12月25日(日) 秋田教会降誕日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ヨハネによる福音書1章1~18節

説教題:「闇の中に現れた大きな光」

 預言者イザヤは紀元前8世紀のイスラエルの暗い時代の中にあって、大きな光を見ています。9章1節にこのように書かれています。【1節】。この時代のイスラエルの「闇」とは、何を指しているのでしょうか。「死の陰の地に住む者」とはどういう人のことなのでしょうか。そしてさらには、その闇を照らす大いなる光とは? 死の影を歩んでいた人々の上に輝く光とは、どのような光のことなのでしょうか。なお、今一つの問いを、わたしたちは投げかけてみたいと思います。その光は、今現在も、この世界を、またこの世界に住むわたしたち一人一人を照らしているのでしょうか。きょうのクリスマス礼拝で、わたしたちはこの問いに対する答えを見いだしたいと願います。

 イザヤが預言者としての活動を開始したのは、イスラエル南王国ユダのウジヤ王が死んだ年、紀元前742年ころでした。ウジヤ王は40年以上もの長い間ユダ王国を統治し、この間、国は安定し、繁栄していましたが、彼の死後、国の内外に急速に混乱と危機が迫ってきました。そのころ、アッシリア帝国が近東地域全体を支配し、パレスチナにもその勢力が及び始めていました。北王国エフライムはこのアッシリアの脅威に対抗するために隣国であるシリアとシリア・エフライム同盟を結び、外国の軍事力に頼ろうとしました。

しかし、イザヤはこれに強く反対しました。外国と同盟を結ぶことは、神との契約を破ることだと考えられたからです。イスラエルは神と契約を結んだ神の民でした。いついかなる時でも、主なる神に信頼し、主なる神にのみ服従して生きるべき信仰の民でした。他の国と同盟を結ぶことは神との契約を破ることであり、神に対する信仰によって生きるのではなく、この世の人間の力や武力に頼って生きることであり、それは神に対する不信仰であり、罪だったのです。神はこの罪に対する厳しい裁きをお与えになるであろうとイザヤは語りました。

紀元前733年に、このイザヤの預言は一部実現しました。アッシリア軍が北王国エフライムの北東部に攻め入り、この地域をアッシリアの属州としました。イザヤ書8章23節に挙げられている地名、「ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ」がその時にアッシリアに占領された地域と考えられています。そしてついには、紀元前721年になって、北王国の首都であったサマリアがアッシリア軍によって占領され、イスラエル北王国エフライムは滅びることとなりました。イザヤが預言したとおりです。それは、北王国エフライムの神への不従順と罪に対する神の裁きだったのです。

他方、南王国ユダはアッシリア帝国に対抗する道ではなく、アッシリアに貢物を送り、帝国の援助を受けることによって国の安泰を図る道を選択しました。けれども、これも神のみ心にかなった選択ではありませんでした。国内にアッシリアの異教的な宗教が入り込み、エルサレム神殿での礼拝にも異教的な偶像が持ち込まれました。預言者イザヤはこのような南王国ユダの不信仰と罪をも繰り返して非難しています。

そのようなイスラエル全体の混乱と危機の中で9章の預言が語られたと考えられています。この歴史的背景とイザヤの預言の内容から判断すると、「闇」とは、イスラエル北王国に迫っている滅亡の危機のことであり、それ以上に、南王国ユダの偶像礼拝と宗教的堕落のことであり、彼らの神に対する不従順と罪のことであると言うことができます。また、「死の陰の地に住む人」とは、主なる神に信頼することをせず、人間の知恵や力、武力によって国を守ろうとする愚かな国の指導者たちのことであり、預言者が語る神のみ言葉に耳を傾けず、この世の繁栄や安定にしがみつき、罪を悔い改めて神に立ち返ろうとしない、かたくなな人々のことであると理解されます。主なる神と共に歩もうとしないイスラエルの民は、もはや信仰によって生きる民ではなく、死んだ民なのです。

けれども、そのようなイスラエルの民が、今や大いなる光を見るであろう、彼らの上に光が照り輝くであろうと、イザヤはここで預言しています。「大いなる光」とは、この世界にあるもろもろの光とは違う、天からの、神からの特別な光のことを言い表しています。この世界の大小の光は一部の人々や一部の地域だけを照らしますが、天からの大いなる光は、すべての人を、すべての世界を照らし、すべての暗闇をその中に飲み込んでしまい、闇に勝利します。

では次に、どのようにしてその光がやってくるのかを見ていきましょう。2節には、「あなたが深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った」と書かれています。神は不従順で罪を悔い改めないイスラエルの民に大きな喜びと楽しみをお与えくださるのです。それは、神の側からの一方的に差し出される恵みであり、救いです。イスラエルの側には、神の怒りと裁きを受けて滅びるべき理由しかないにもかかわらず、神は罪のイスラエルをなおもお見捨てにならず、彼らを憐み、彼らの罪をゆるしてくださるというのです。

ここでも、「深い喜び」「大きな楽しみ」と言われています。これもまた、この世でわたしたちが経験するような大小の喜びや楽しみとは違って、他のすべてのものを、悲しみをも苦しみをも、あるいは不安や恐れをも、それらのすべてを飲み込んでしまうような特別な喜び、楽しみのことであり、それは天の神から与えられるものです。

3節以下で、その光の到来についてさらに説明されます。一つには、その天からの光がイスラエルの民が負っていたすべてのくびきを折り、彼らを全く自由にする光であり、もはや兵士が履いていた靴も彼らが着ていた軍服も焼き払われ、彼らが敵の血を流すために持っていた武器も必要なくなる、そのような完全な平和をもたらす光であると言われています。

そして5節以下では、その大いなる光の到来がひとりの男の子の誕生と関係づけられています。その子の名前は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれ、その子がダビデの王国を平和と公平と義によって永遠に支配するであろうと預言されています。

紀元前8世紀前半の混乱と危機の中にあったイスラエルの時代の中で、預言者イザヤが語ったこの大いなる光の到来、その光をもたらすためにやがて誕生するであろうひとりの男の子とは、いったいだれを暗示しているのか。多くの旧約聖書研究者が具体的な名前を挙げています。預言者自身のことだとか、イザヤの子どもの一人、あるいはイスラエル南王国の歴代の王のだれかとかの名前が挙げられていますが、だれかに決定する決論には至っていません。というのも、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるにふさわしい人物、そして神がダビデ王に約束された平和と公平と義とをもって永遠に王国を支配する王にふさわしい人物は、イスラエルのその後の歴史の中では見いだせないからです。

その問いに最終的に答えが与えられるのは、イザヤの時代から700年以上の時を経て、新約聖書になってからからです。すなわち、すべての人を照らす天からのまことの光として、クリスマスの時にこの世においでになった神のみ子・主イエス・キリストこそが、すべての問いに対する答えであるということを、わたしたちは新約聖書から教えられるのです。

きょうの礼拝で朗読されたヨハネによる福音書1章もそうですが、他の3つの福音書と使徒言行録、そして多くの書簡、最後のヨハネの黙示録に至るまで、すべての新約聖書はその全ページの中で、ただ一人の救い主・主イエス・キリストを証ししています。この主イエス・キリストこそが、預言者イザヤが待ち望んでいた、闇を照らす大いなる光であり、死の陰の地に住む人々にまことの命をお与えになる救い主であり、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、そして永遠に神の国を支配される王であられます。この主イエス・キリストこそが、全旧約聖書の預言の成就なのです。そして、全世界の唯一の、まことの救い主なのです。これがクリスマスの中心的なメッセージです。

ヨハネ福音書1章9節にこのように書かれています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。この短いみ言葉の中に、主イエス・キリストの救いの恵みが豊かに言い表されています。

まず、「世に来て」とは、神がこの世を救うためにご自身のみ子を世に遣わされたことを言っています。神はこの世が神から離れ、神なしで滅びの道を行くことを望まれませんでした。神は罪に支配されて神を失っているこの世界を憐れまれ、愛されました。この世界と全人類を罪から救うためにご自身の一人子を人間のお姿でお遣わしになりました。その一人子を十字架の死に引き渡されるほどに、神は罪びとを愛されました。それは、だれ一人として罪の中で滅びることがないためです。この福音書の3章16~17節にこのように書かれています。【16~17節】(167ページ)。

「まことの光」とは、暗い場所を照らす何らかの光、たとえばろうそくの光とか、太陽の光、電球の光ではなく、その光に照らされた人をまことの命によって生かす光、命を与える光のことです。わたしたちが人生の歩みの中で、時に道を見失ったり、生きる希望を失ったりする時に、わたしに新しい道を指し示し、生きる希望を与える光のことであり、さらに言うならば、わたしがこの地上の歩みを終えて死に赴くときにも、なおもわたしを離さず、わたしの神であり続け、わたしに朽ちることのない永遠の命を約束してくださる光、死をも照らす光、それがまことの光です。

「すべての人を照らす」とは二つの意味を持ちます。一つは、だれもこの光によって照られなくてもよい人はいない、すべての人がこの光によって照らされることを必要としているということです。なぜならば、すべての人が、神なしではまことの命を生きることができない罪びとだからです。クリスマスの時に語られるひとつの大きなメッセージがここにあります。わたしたち人間は、この世界の全人類は、クリスマスのこの時に神のみ前に自らの罪と破れと貧しさとを告白しなければなりません。そして、主なる神の憐みとゆるしとを願わなければなりません。この世界は、またすべての人は神の憐みとゆるしなしにはまことの命を生きることができないからです。

もう一つは、すべての人がこのまことの光に照らされているということです。まことの光なる主イエス・キリストは、すべての人の救い主としてこの世においでになりました。すべての人の罪のゆるしと救いのために十字架で死んでくださいました。だれ一人として滅びることがないように、すべての人が救われるように、これがクリスマスの時にわたしたちに現わされた神のみ心なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、独り子を十字架におささげくださるほどにわたしたち一人一人を愛してくださいましたことを覚え、心から感謝いたします。どうか、この世界があなたのみ心に背いて滅びることがありませんように。主なる神であるあなたを恐れ、あなたのみ心が行われるように祈り願う世界となりますように。この世界にまことの救いと平和をお与えください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月18日説教「恐れるな。ただ信じなさい」

2022年12月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編23編1~6節

    ルカによる福音書8章40~56節

説教題:「恐れるな、ただ信じなさい」

 ルカによる福音書8章40~56節には、時間の経過を追って、主イエスの二つの奇跡が並べて記述されています。初めに、会堂長ヤイロが主イエスのもとにやってきて、自分の一人娘が重病で死にそうなので、急いで家に来てくださいとお願いをします。主イエスが弟子たちとヤイロの家に向かっている途中で、12年間出血が止まらずに苦しんでいた婦人が群集の中に紛れて主イエスに触り、それによって出血が止まってたちまちに健康になり、今度はこの婦人が主イエスによって救われたことを群集に向かって証しをしたというのが、第一の奇跡です。

 ところが、この婦人のことで時間を費やしている間に、ヤイロの家に行くのが遅くなり、家に着く前に娘がなくなったとの知らせが、主イエスに届けられます。その人は娘がなくなってしまったので、もう主イエスに来ていただく必要がありませんと伝えますが、主イエスはヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」と言われ、彼の家に入られました。そして、その娘を生き返らせました。これが第二の奇跡です。

 この二つの奇跡は、時間が連続しているので二つが並んで記述されているというだけではなく、そこにはもっと深い連続性があり、その連続性には重要な意味が含まれています。時間の経過から見るならば、12年間出血が止まらなかった婦人のために主イエスが時間を費やし、そのことでヤイロの家に到着するのが遅くなり、主イエスの到着を待たずに彼の娘が息を引き取ったということであるならば、ヤイロにとっては何とも残念なことだったに違いありません。聖書にはそのことについては何も書かれていませんが、ヤイロの気持ちとしては、主イエスはなぜもっと急いでくださらなかったのか、途中で時間を取らずにまっすぐに家に向かっていれば、娘がまだ生きているうちに主イエスに祈っていただき、病気をいやしていただくことができたかもしれないのに、という思いがあったと推測できます。

 けれども、そのようにはなりませんでした。ヤイロの願いと期待は裏切られたことになるのでしょうか。ヤイロの家に向かう主イエスの歩みはここで終わってしまうのでしょうか。そうではありません。主イエスの歩みはなおも続けられます。ヤイロはもっと偉大なる主イエスの奇跡を見るのです。彼は主イエスが死にかけている彼の娘をいやしてくださる神の力をお持ちであると信じ、期待しています。彼はまた今目の前で、病気の婦人が主イエスによっていやされたという奇跡を見ました。しかし、彼が見るべき奇跡はそれだけにとどまりません。彼は主イエスと共にさらに先へと進むようにと招かれているのです。すでに息を引き取った彼の娘が、主イエスによって死から生き返るというさらに偉大なる奇跡を見るようにされるのです。そのために、ヤイロはしばらくの時の経過を待たなければなりません。

 これが、二つの奇跡が時間の経過とともに連続していることの隠された意味です。前回もそのことについて少しお話ししましたが、きょう改めて今一度そのことを確認しておきたいと思います。主イエスはわたしたちの願いや期待にはるかにまさった豊かな恵みをもって、わたしたちの祈りにお答えくださる救い主であるということをここで改めて教えられるのです。

わたしたちはヨハネ福音書11章のラザロの死と復活の出来事を思い起こします。主イエスはラザロが病気だとの知らせをお聞きになってからもなおも二日間もその場所に滞在しておられ、ついにラザロが死んだあとになって、ようやく彼の家に向かわれました。その時、主イエスはこう言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」(14~15節)。主イエスは重病のラザロのところに、あえてすぐには行かれませんでした。それは、「神の栄光のため、神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました(4節参照)。そして、ラザロが墓に葬られて四日たってから、主イエスは彼を墓の中から起き上がらせました。

わたしたちはヤイロの娘の生き返りとラザロの生き返りの奇跡によって、神のみ子であられる主イエス・キリストの十字架の死と、三日目の復活とを信じる信仰へと招かれているのです。そして、罪のゆるしによる救いへと招かれているのです。

では、第二の奇跡の序文にあたる40~42節を読みましょう。【40~42節】。主イエスの一行はガリラヤ湖の対岸のデカポリス地方からカファルナウムに戻ってきました。群衆が主イエスを迎えました。彼らは主イエスに何を求めて集まってきたのでしょうか。ここではそれは明らかにされていませんが、はっきりしていることは、これから起こる二つの奇跡はいずれも群衆の中から飛び出して主イエスのみ前に進み出た人に対しての奇跡だったということです。群衆の中にとどまっているだけでは、群衆の中に身を隠しているだけでは、その人の奇跡は起こりません。信仰は生み出されません。

会堂長ヤイロは主イエスの足もとにひれ伏したと書かれています。ひれ伏すという姿勢は、礼拝の姿勢であり、完全な服従と謙遜の表明であり、また打ち砕かれた魂を表しています。今ヤイロが直面している危機がいかに重大であるか、それとともに主イエスに対する信頼と期待がいかに大きいかをここから知ることができます。

カファルナウムは大きな町であり、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)がいくつもありました。ヤイロはその中の一つの会堂の指導者、管理者でしたので、社会的にも宗教的にも高い地位にあり、人々から尊敬を受ける立場にありました。けれども今、彼はそれらのすべてを捨てるようにして、主イエスのみ前にひれ伏し、ひたすらに主イエスの助けを願う以外にありません。主イエスのみ前にくずおれるほかありません。主イエスの奇跡はそのようなヤイロに現わされるのです。

主イエスはカファルナウムの諸会堂で説教をしておられましたから、ヤイロは何度か主イエスの説教を聞いていたと推測できます。彼はおそらく、会堂長として礼拝の準備をし、会衆を迎え入れ、安息日の礼拝が神のみ心にかなって執り行われるように配慮していたと思われます。主イエスの説教を聞いた時には、彼は礼拝者の一人でした。けれども、その時には彼はまだ真実の礼拝者ではありませんでした。主イエスが語られる神の国の説教を、本当の意味で聞いてはいませんでしたし、信じてもいなかったと言わざるをえません。主イエスのみ前に、自らの弱さと破れをさらけだし、罪を告白し、悔い改め、主イエスの救いを呼び求める真実の礼拝者ではありませんでした。

けれども今、ヤイロは一人娘が病気で死にかけているという危機的な状況の中で、主イエスの足もとにひれ伏し、主イエスを礼拝し、この主イエスにこそわたしの最後の希望があることを信じて、主イエスの助けを願い求めています。ここに、真実の礼拝者の姿があります。ヤイロは一人娘を失うかもしれないという試練と不安、恐れの中で、主イエスに対する信仰へと導かれ、主イエスによる死から命を生み出す奇跡を見ることへと導かれたのです。

ユダヤ社会では12歳で成人となります。ヤイロがこれまでどれほどの愛情を注いでこの一人娘を育て、その成長を楽しみにしていたかは想像できます。ところが突然の病気と危篤状態に、ヤイロは動揺し、不安と恐れ、絶望の淵に立たされます。彼がこれまで娘に注いできた愛情の何倍もの愛情を注いでも、この事態をどうすることもできません。彼がこれまで築いてきた社会的地位や財産のすべてをもってしても、またその他どのような高価なものをもってしても、娘を死の危険から救い出すことはできません。死の前では,それらのすべては力を失い、空しいものでしかないことが明らかになります。その時ヤイロは真剣に主イエスに助けを求めました。主イエスにこそ救いがあるということを信じ始めました。

49節から、会堂長ヤイロの娘の奇跡の出来事についての記述が再開されます。【49~50節】。ヤイロの家から来た人は、娘さんが息を引き取ったのでもう主イエスに来ていただく必要はないと考えました。ヤイロ自身もそのように考えたに違いありません。まだ息があるうちなら、主イエスによって祈っていただき、手を置いていただくかして、いやしてもらう希望がありましたが、死んでしまえば、もはやだれにも手の施しようがなくなり、だれもが死の前でくずおれるほかにありません。

しかし、主イエスは死の中を、死を超えて、さらに先に進まれます。人々がもはやだれにも何も期待できなくなって、絶望するほかになくなったその先へ、主イエスはなおも進んでいかれます。死を打ち破る救い主として、死に勝利される復活の主として。

主イエスはヤイロに言われます。「恐れるな」と。これは強い命令です。恐れを否定する命令です。恐れを取り除く命令です。恐れに勝利する命令です。人はみな死の前で恐れざるをえません。死の前で立ち尽くし、くずおれるほかありません。死の前ではなすすべを失い、ただ泣き悲しみ、死に対して屈服するほかありません。そのようなわたしたちに、主イエスは「恐れるな」とお命じになるのです。死に対して勝利される主イエスだけが、このようにお命じになることができ、また実際わたしたちが死をもはや恐れる必要がない信仰へと、わたしたちを招き入れてくださるのです。

主イエスは「ただ信じなさい」とお命じになります。これも強い命令です。ただ、主イエスを信じる信仰によってこそ、死の恐れから解放されるからです。なぜならば、主イエスご自身が死に勝利される救い主だからです。主イエスはわたしたちを罪と死から救うために、十字架への道を進まれ、死んで三日目に復活されました。この主イエスをわたしの救い主と信じる信仰によって、わたしたちもまた罪と死の支配から解放され、神の国での永遠の命に生きる希望が与えられるのです。

ヤイロの家ではすでに葬儀が始まっていました。【52~56節】。52節の「泣くな」。これも強い命令です。54節の「娘よ、起きよ」。これも主イエスの強い命令です。わたしたちはこの場面で何度も主イエスの強い命令を聞きます。「恐れるな」。「信じよ」。「泣くな」。そして「起きよ」。わたしたちにこのようにお命じくださる主イエスは、事実ご自身のご受難と十字架の死、そして復活によって、わたしたちからすべての恐れを取り除き、わたしたちを信仰の道へと導き入れ、わたしたちの目から涙をぬぐい取ってくださり、死ぬべきわたしたちの体を新しい命に生かしてくださる唯一の救い主であられます。わたしたちは待降節の今、すべての人にこの救いをもたらしてくださる主イエスが、全世界の主としておいでくださるのを待ち望んでいるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、み子の十字架の死と復活によって、罪から救い出してくださいましたことを、心から感謝いたします。どうかわたしたちが再び罪の奴隷になることがありませんように、あなたの命のみ言葉でわたしたちを導いてください。

〇神よ、この世界を憐み、顧みてください。戦争や殺戮、飢えや飢餓、憎しみや恐れが、この世界に満ちています。どうか、あなたが天からまことの光で照らしてくださり、すべての人に平安と慰めをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月11日説教「ヤコブからイスラエルへ」

2022年12月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記32章23~33節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ヤコブからイスラエルへ」

 ヤコブはハランにいる叔父ラバンの家で過ごした20年間の逃亡生活を終えて、故郷の地カナンに帰ろうとしています。創世記32章1~22節までには、ハランから長い道のりを旅して、ヤボク川の近くのマハナイムまでやってきたヤコブが、その地で兄のエサウとの再会の準備をしていることが描かれています。後半の23節からは、ヤボク川を渡ろうとしたヤコブが何者かと一晩中格闘したことと、その時に彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたことが書かれています。きょうはこの32章全体のみ言葉から学びたいと思います。

 【2~3節】。「マハナイム」とは「二組の陣営」という意味だと2節で説明されていますが、なぜその名がつけられたのかについては8節と11節に暗示されています。マハナイムはヨルダン川の東側のヤボク川のそばにある町です。ハランからは直線距離でも800キロメートル以上あり、兄のエサウが住むエドムまでは100キロメートル足らずです。その場所に到着した時に、神のみ使いたちがヤコブに現れたと書かれています。ヤコブをその地へと導かれたのが、主なる神であることを示しています。ヤコブは20年前に、兄のエサウを欺いて長男の特権を奪い、そのことでエサウの怒りを買って、殺されそうになったために逃亡したのですが、ヤコブは兄と和解しようとして故郷の地へと帰ってきました。

 でも、兄と和解することだけがカナンの地に帰ってきたことの理由ではないということを、わたしたちはここから知らされます。この地は、神の約束の地なのです。「この地を、アブラハム・イサク・ヤコブに永遠の嗣業として受け継がせる」と約束された神のみ言葉が成就されるために、ヤコブはこの地に、神によって導かれてきたのです。神の約束は、人間たちのすべての偽りや憎しみ、争い、そして罪を超えて、必ずや成就していきます。

 ヤコブは20年ぶりで兄のエサウに再会するにあたり、あらかじめ使いの者を遣わして、ヤコブのご機嫌を伺おうとしています。その使いの者が帰ってきてヤコブに報告します。【7~9節】。ヤコブはエサウの怒りがまだ解けていないことを恐れています。自分や家族の命、また財産が奪われることを恐れています。ヤコブはここで、ハランに引き返してもよかったのかもしれません。これからもラバンの家で労苦することになるとしても、ここでエサウにすべてを奪い取られるよりはましかもしれません。

 しかし、ヤコブはそうしませんでした。あえて危険を冒してまでも、兄エサウがいるカナンへ帰る決意を変えません。なぜならば、そこが神の約束の地であるから、神の約束が成就される地であるからです。31章3節と13節で、神が彼に「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい、わたしはあなたと共にいる」とお命じになった神のみ言葉に従うべきだからです。「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ」と8節に書かれているにもかかわらず、彼をこのような決断へと至らせたのは、この神の約束のみ言葉だったのです。

 兄エサウに対する恐れを取り除くために、ヤコブは知恵を発揮し、彼の一行を二組に分けました。しかし、この知恵は神やだれかを欺くための知恵ではありません。神から与えられた豊かな恵みを神に感謝し、その神のみ前に自らの貧しさを告白し、自分がそのような神の恵みを受け取るに値しない者であることを知らされるという、信仰による知恵だということが次のヤコブの祈りによって明らかになります。【10~13節】。

 あのヤコブの口からこのような告白を聞くとは、まったくの驚きというほかありません。わたしたちはヤコブがどのような人間であったかを知っています。彼は生まれたとき、先に生まれ出た兄エサウのかかとをつかんでいました。ヤコブという名前はヘブライ語の「かかと」の意味であり、実際に彼はそのかかとで兄のエサウを「押しのけ」ました。彼は母と組んで父イサクと兄エサウとを欺き、長男の特権を奪い取りました。ラバンの家に逃亡してからも、彼以上に悪賢いラバンと競いながら、互いにだましあいを続けていました。

 そのヤコブが、ラバンの家での20年間の試練の時を経て、また故郷に帰るにあたって、神の約束のみ言葉を何度も聞くことによって、傲慢で、人間的な知恵によって生きていたヤコブがこのように変えられていくのです。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りないものです」。今や、ヤコブはこのように神のみ前で告白するのです。神から与えられた大きな恵みを、信仰をもって受け取り、それを心から感謝する人は、自分がその恵みを受け取るに値しない罪びとであることを知らされます。神の豊かな恵みと永遠に変わらない神の約束のみ言葉が、ヤコブを神のみ前でへりくだる者とし、罪を告白する信仰者としたのです。ヤコブの20年間の労苦に満ちた逃亡生活は、神が彼にお与えになった信仰の訓練の期間であったのだということが、今わたしたちにも明らかにされました。

 ヤコブが彼の家族と財産を二組に分けたのは、エサウに襲われた時に、どちらかが生き残るための知恵であったと8節に書かれていましたが、11節では、一本の杖だけを持ってこの地を出た自分が、今や二組の陣営を持つまでになったという、神の恵みの豊かさを強調するための知恵に変化しているのです。このようにして、ヤコブの人間的な知恵が、今や清められて、神から与えられた信仰による知恵へと変えられていったということに、わたしたちは気づかされます。

 次に、23節以下を見てみましょう。【23~25節】。ヤボク川はヨルダン川の支流であり、ヨルダン川東側を南北に分けている深い渓谷を流れる川です。その川を多くの家族や家畜を渡らせるのは大変な労苦でした。ヤコブは彼の家族や家畜を先にヤボク川を渡らせ、彼らが安全に渡り終えたことを見届けたのちに、彼は最後に渡りました。

その時、何者かが夜明けまで彼と格闘したと書かれています。この何者かとは、この場面では正体は明らかにされていませんが、これが神のみ使いであったということは、29節の「お前は神と人と闘って勝ったからだ」というその人自身の言葉から暗示されています。また、31節では、ヤコブ自身が「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と告白しています。ホセア書12章4~5節では、この場面を背景にしてこう語られています。「ヤコブは母の胎内にいたときから、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」。この何者かとは、神のみ使いであり、それは神ご自身を表しています。

 では、「ヤボクの渡しでの神との格闘」と言われるこの場面にはどのような意味が含まれているのでしょうか。いくつかのポイントにまとめてみましょう。一つには、ヤコブは今20年間の逃亡生活を終えて、兄エサウと再会し、彼と和解するという大きな課題を抱えて苦悩しているのですが、しかし本当に和解しなければならない相手はエサウなのではなく、神なのだということがここで明らかにされているのです。ヤコブは父イサクや兄エサウを欺き長男が受けるべき神の祝福を奪い取りました。しかし、それはイサクやエサウを欺いたというだけではなく、神ご自身を欺いていたのです。彼の傲慢でわがままな性格は、神に対する不従順であったのです。ヤコブはエサウと和解する前に、神と和解しなければなりません。神のみ前に立ち、神と向かい合い、神のみ前に自らのすべてをささげて、一晩中かけて、神の真実と取組まなければなりません。神と真実の、真剣な出会いをしなければなりません。それが、「ヤボクの渡しでの神との格闘」の第一の意味です。

 第二には、ヤコブは神との格闘の末に、自らの弱さと欠けを知らされたということです。ヤコブが怪力の持ち主であったことが29章10節で暗示されていました。そこには、数人で動かす大きな石をヤコブは一人で動かしたと書かれています。きょうの箇所でも、神のみ使いであるこの人はヤコブと格闘して勝ち目がなかったと26節に書かれています。さらに29節では、「神と人と闘って勝った」とも言われています。それほどの怪力の持ち主であったヤコブですが、最終的な結果としては神のみ使いによって腿の関節を外されました。32節には、「ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた」と書かれています。怪力の持ち主であったヤコブは、今や肉体の痛みと欠けを持つ人になりました。自らの弱さと破れを知る人とされたのです。

 使徒パウロは神から何かの肉体のとげを与えられていましたが、彼はそれを自分が思い上がらないために神から与えられた痛みだと、コリントの信徒への手紙二12章で書いています。そして、彼は続けて、「神の力は自分の弱さの中でこそ発揮されるのだから、わたしはむしろ自分の弱さを誇る。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからだ」とも言っています(12章7~10参照)。

 第三には、ヤコブはかつて父と兄を欺き、長男が受けるべき祝福を自分に奪い取りました。しかし、ここでは、ヤコブは神の祝福を受け取るために一晩中神のみ使いと格闘し、勝敗がついてからもなおもみ使いを離さず、ついに神の祝福を受け取りました。ヤコブの戦いは神の祝福を受け継ぐための戦いであったといってよいでしょう。これによって、ヤコブは事実上、神が初めにアブラハムに約束された万民のための祝福を受け継ぐ者となったのです。

最後にもう一つ、それは、ここで彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたということです。神によって名前が付けられること、また途中で変更されることは大きな意味を持っていました。その人自身が、その人の全体が、神によって変えられ、新しい人間とされ、新しい使命を与えられるということです。

ヤコブとはヘブライ語で「かかと」あるいは「押しのける者」という意味でした。その名のように、彼は兄エサウのかかとつかんで生まれ、彼を押しのけて長男の権利を奪いました。自己中心的に、自分の意思を押しとおし、自分の願いをかなえることが彼の生きる目的でした。けれども、これからはイスラエルという新しい名前が与えられます。イスラエルとはヘブライ語では、本来「神が支配されるように」という意味だと推測されていますが、ここでは、「神と闘う」あるいは「神が闘う」という意味で説明されています。いずれがより正確な意味なのかははっきりしていませんが、いずれにしても、彼の名前の中に「エル」すなわち「神」という名が付け加えられました。これからは、彼自身が彼の人生の主となるのではなく、神が彼の主となり、彼の人生のすべてがより明確に神のための人生となるのです。そして、彼の12人の子どもたちが神に選ばれた聖なる民、イスラエルとなり、イスラエルから出たメシア・キリストによって、教会の民が誕生するのです。

わたしたちが主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、キリスト者という新しい名が与えられたこともまた、わたしが主キリストのものとなったということなのであり、パウロがガラテヤの信徒への手紙2章20節で言っているように、「生きているのはもはやわたしではなく、主キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。わたしのために十字架に付けられ、死んで復活された主イエス・キリストにあって,主イエス・キリストのために生きるように召されているのが、わたしたちキリスト者です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中にあって滅びにしか値しないこのわたしを、あなたがみ子の血によって罪と死から救い出してくださったことを、感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの救いの恵みにお答えし、あなたの栄光のためにお仕えするものとしてください。

〇待降節の中にあって、全世界があなたのみ子のご降誕を心から待ち望んでいます。どうか、この世界をお救いください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月4日説教「神の選びと召命」

2022年12月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章1~10節

    ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節

説教題:「神の選びと召命」

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会であり、信仰告白によって立つ教会であるということを、最も大きな特徴にしています。1951年5月に新日本キリスト教会が創立されてすぐに、信仰告白の制定に取りかかり、2年後の1953年10月の第3回大会で現在の『日本キリスト教会信仰の告白」』を制定しました。教会の礼拝の中で、会衆一同が共に声を合わせて告白するほか、洗礼式と聖餐式のある礼拝では必ず告白されます。また、大会、中会の会議の開会礼拝で、教会建設式や牧師就職式などでも告白されます。もちろん、わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になり、この教会の教会員になるときにも、「あなたはこの信仰告白を誠実に受け入れますか」と問われます。わたしたちの教会は信仰告白によって一つにされている教会です。

 きょうは「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」の冒頭の部分、「神に選ばれて」という告白について、前回に続いて学びます。キリスト教教理では「神の選び」というテーマになります。今回は、神の選びに加えて、それと結びついている「召命」ということについても、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 神の選びの教理が、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の神学と信仰の特徴の一つであることを前回もお話ししましたが、神の選びにおいては、神の主権的な自由や神の先行的な恵みが強調されます。わたしたち人間の側の行動や判断、決断、あるいは知恵とか知識とかのすべてに先立って、神の恵みの選びがあり、その神の側での一方的な、自由な選びこそが、わたしたちの信仰を生み出し、またわたしたちの信仰を支え、導いているというのが改革教会の選びの教理の大きな特徴です。

 このことをより具体的に理解するために、他の教派の教えと比較してみるのがよいでしょう。たとえば、バプテスト派と一般に呼ばれている教派では、本人の自覚的な信仰体験が重んじられます。神の主権や神の自由、神の恵みの選びよりも、人間の側の決断や応答が重視されます。そのために、自分がどのような劇的な回心の体験をしたかとか、どれほど困難な状況の中で洗礼を受ける決心をしたかなどが好んで語られます。またそのようなことが、その人の信仰を計るバロメーターにされたりします。本人の決断が決定的な意味を持ちますので、まだ自分で決断ができない小児には洗礼を授けることはできません。小児洗礼は否定されます。

 それに対して、カルヴァンやその流れを汲む改革教会は、旧約聖書時代のイスラエルの民から新約聖書の初代教会と中世の教会から受け継がれてきた伝統的な小児洗礼を重んじてきました。それは、人間の側の判断や決断に先立つ神の選びと契約を強調するからです。わたしたち人間は信仰の家庭に生まれるや否や、いや、生まれる以前から、神との契約の民の中に招き入れられており、またすべての人は神の永遠なる予定のうちに恵みによって選ばれているからです。わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になるということは、その神の主権的自由と神の先行する恵みの選びを信じ、それを受け入れることにほかなりません。

 でも、そうなれば、神の主権的な自由が強調されて、人間の自由な意志が無視されるのではないかという反論が予想されるかもしれません。しかし、人間の自由意志とは何でしょうか。それは、神を信じるために働く自由意志ではなくて、神の戒めに背き、神に反逆し、神から遠ざかろうとする自由意志なのではないでしょうか。最初に創造されたアダムとエヴァがそうであったように。それは、自ら罪の奴隷になろうとする自由意志なのではないでしょうか。人間がだれもが、そのような意志しか持っていないのではないでしょうか。それは本当の自由意志なのでしょうか。いやそうではなく、それはむしろ奴隷意志なのではないかと、宗教改革者カルヴァンが言っているとおりです。

 神の主権的な自由と神の先行する恵みによる予定と選びを信じるときにこそ、わたしたち人間に本当の自由が与えられ、感謝と喜びとをもって神のお招きに応える自由な意志が与えられるのです。

 では、きょうの礼拝で朗読された二か所の聖書のみ言葉に目を向けてみましょう。エレミヤ書1章は預言者エレミヤの召命の箇所です。【4~5節】。次に、ガラテヤの信徒への手紙1章はパウロが復活の主イエスと出会い、異邦人の使徒として召されたときのことが記されています。【15~16節】。

 きょうのテーマと関連して、この両者に共通している点があることにすぐに気づきます。それは、聖書の他の多くの箇所でも見いだすことができる共通点ですが、エレミヤが預言者として神に選ばれ、立てられたことも、またパウロが異邦人の使徒として選ばれ、立てられたことも、神の永遠なる予定によることであり、神の先行する恵みの選びによることであるということです。エレミヤが将来どんな人物に成長するかがまだ全く分からない時に、まだ母の胎に造られる前から、神がエレミヤを選び、彼を万国の預言者となるべく定められたと書かれています。また、パウロの場合には、彼がまだ母の胎内にいるときから、彼がのちにキリスト教会の迫害者になるであろうことがあらかじめ分かっていたのにもかかわらず、神が主権的な自由と恵みによってパウロを選び、彼を異邦人の使徒となるべく定められたと書かれています。

ここでは、エレミヤの自由意志とか、エレミヤの決断とかについては全く語られてはいません。いやむしろ、エレミヤは彼の意志によって、6節で「わたしは若者にすぎませんから」と神の招きに抵抗しています。パウロの場合も、彼はキリスト教会の迫害者として神の永遠の選びに抵抗し続けていました。にもかかわらず、そのようなエレミヤやパウロの抵抗よりもはるかに強い神の主権的自由による、神の断固とした選びの意志によって、二人は共に、いわば神によって強引にねじ伏せられるようにして、信仰者とされ、神の特別の使命につく者とされたのでした。これが、聖書が語る神の選びであり、『日本キリスト教会信仰の告白』によって告白されている「神の選び」なのです。

 では、このような神の選びは、わたしたち信仰者として選ばれた者にとって、どのような意味を持つのでしょうか。三つの点にまとめてみましょう。

 第一点は、ここにこそ、わたしたちの選びの確かさがあるということです。永遠から永遠にいます神が、永遠なる予定と主権的自由の意志とによって、人間のすべてのわざに先行する恵みの選びによって、このわたしを選ばれ、わたしをこの教会へと招き、信仰の道へと導き入れてくださった。ここにこそ、わたしの選びとわたしの信仰の確かな保証があるのだということです。わたしの決断や選択は、時として誤ることがあります。時として変わることがあります。しかし、神の選びは永遠であり、確固として、不動であり、不変です。わたしの死のときにも、死ののちにも、変わることはありません。主なる神ご自身がわたしの選びを永遠に保証してくださるのであり、わたしの信仰の道を終わりまで導いてくださるのです。そして、わたしが地上の歩みを終えるときにも、わたしと共にいてくださり、「あなたが選んだ信仰の道は正しかった。わたしがあなたの信仰の道を完成させる」と言ってくださり、わたしを永遠なる神のみ国へと導き入れてくださるのです。

 第二点は、神によって選ばれた者を、神のみ前で謙遜な者にするということです。わたしの側には神の選ばれる理由となるべきものは一切ありません。ただ、神の一方的に与えられる恵みによって選ばれたからです。それゆえに、わたしは神のみ前で何ら誇るべきものを持ちません。ただ、神の恵みの選びに感謝するのみです。すべてはただ神の栄光のため、神の誉れのためであることを告白するのみです。神の選びはわたしたちの中にあるごう慢な思いと誇りや高ぶりを取り除き、あるいはそれとは反対の、卑屈な思いや、不安、恐れ、絶望のすべてをも取り除き、わたしたちに救われた者に対する真の平安を与えるのです。

 第三点は、神の選びは、選ばれた者に強い召命感を与えます。エレミヤが神に選ばれ、万国の預言者として立てられたように、パウロが神に選ばれ、異邦人の使徒として、主イエス・キリストの福音を全世界に宣べ伝える伝道者として立てられたように、神に選ばれた者は神からの特別な務めを授けられます。神の選びはただちに召命につながっていきます。神の選びと召命の結合が重要です。神は選んだ人を特別な務めへと召すのです。

その召命と務めの種類や内容は、必ずしもその人の能力とか意志とか、あるいは努力とかによって決められるのではなく、それもまた、お選びくださった神から与えられる賜物です。神は年若い預言者エレミヤに、「あなたはだれをも恐れるな。あなたが語るべき言葉はわたしが授けるから。わたしがいつもあなたと共にいて、必ずあなたを救うから」と7、8節で約束しておられます。エレミヤは神に選ばれ、万国の預言者として立てられたとき、その務めを担うことができるように、神から賜物と力とを同時に与えられたのです。神の選びと召命は固く結びついています。

 教会の迫害者であったパウロの場合はどうだったでしょうか。彼が迫害の息を弾ませながら、ダマスコの近くまで来たとき、突然天からの強い光に打たれて地に倒れ、復活の主イエスと出会いました。そのとき彼は「血肉に相談するようなことはせずに」と16節で言っています。自分自身をも含めて、自分の家族や友人、またエルサレムにいる先輩の使徒たちにも、全く相談しなかったと彼は言うのです。それらのすべては、やがて滅び朽ち果てるしかない血肉であり、永遠なる神の選び前では、なんら力を持たないからです。彼はただひたすら、神の恵みの選びに彼の全生涯をかけたのです。迫害者であった自分を選び、それまで迫害していたまさにその主イエス・キリストのために仕える使徒としてお立てくださった神の驚くべき恵みの選びに、彼の生涯のすべてをかけたのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙一15章9~10節でこうも言っています。「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打のない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。神の恵みの選びによって主キリストの福音を宣べ伝える使徒として召されたパウロは、その務めを担うための恵みをも豊かに与えられました。

 神はわたしたちひとり一人をも恵みの選びによって主イエス・キリストを信じる信仰者としてくださいました。また、それぞれに賜物を与え、それぞれの務めに召していてくださいます。わたしたちはもはや自分自身のためだけに生きるのでありません。わたしのために死んでくださった主イエス・キリストと主キリストによって愛されている隣人のために生きる者とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがとるに足りないこのわたしをお選びくださり、あなたのみ子主イエス・キリストの救いにあずからせてくださいました幸いと大きな恵みとを覚えて、心からの感謝をささげます。どうか、あなたから与えられたこの信仰の道を全うさせてください。あなたがいつも共にいてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月27日説教「福音がエルサレムからサマリアへ」

2022年11月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    使徒言行録8章4~13節

説教題:「福音がエルサレムからサマリアへ」

 エルサレム初代教会は誕生して間もなくから繰り返してユダヤ人からの迫害を受けましたが、ついに最初の殉教者を出すに至ったということが、使徒言行録7章の終わりに書かれています。エルサレム教会の7人の奉仕者として選ばれた中心人物であったステファノの殉教は、誕生して間もないエルサレム教会にとっては大きな衝撃であり、また打撃であったことは言うまでもないことですが、それにとどまらず、その同じ日に、教会に対する大迫害が起こったと8章1節に書かれています。12人の使徒たち以外の多くのユダヤ人の教会員がエルサレム市内から追放されるという大きな困難が教会の試練と苦難に追い打ちをかけるようになったのです。それは、エルサレム教会の存亡の危機と言ってよいでしょう。

 けれども、神はこのような教会の大きな危機の時を、何と、教会の大きな発展の時に変えてくださったということを、わたしたちはすぐに続けて読むことができるのです。【4~5節】。迫害によってエルサレムから散らされていった信徒たちは、恐れて身を隠すようなことはしませんでした。彼らは主イエスによって立てられた「地の塩、世の光」として、主イエスとその福音の証し人であることを止めませんでした。主イエスが天に上げられる直前にお命じになった使徒言行録1章8節のみ言葉に忠実に従ったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この主イエスのみ言葉が、エルサレム教会を襲った大迫害を契機として成就されていくのです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決して繋がれることはありません。神のみ言葉に生きるキリスト者もまた、この世のいかなる鎖にもつながれることはありません。

 エルサレムから追放された信徒たちは、町々村々を巡り歩きながら各地に主イエスの福音を宣べ伝えましたが、使徒言行録8章ではこの後、その一人であるフィリポの働きについて報告しています。フィリポは6章に書かれてあったようにエルサレム教会の奉仕者として選挙された7人の一人です。6章5節では、殉教したステファノの次にその名が挙げられています。

 フィリポはサマリアの町に降って行ったと書かれています。サマリアはエルサレムの北、主イエスの故郷であるガリラヤの南に位置しますが、エルサレムの都からは降るという言い方をします。当時の信仰深いユダヤ人はエルサレムからガリラヤへ降る際には、サマリア地方をまっすぐに通り抜ける道を選ばずに、ヨルダン川の東側を迂回して行くのが普通でした。と言うのは、サマリアにはユダヤ人以外の民族がたくさん移り住んでおり、伝統的なユダヤの民族的な伝統も信仰も失われてしまっていたために、サマリアは異邦人の地、宗教的に汚れた地と考えられていたからです。

 その事情について少し説明しておきましょう。ユダヤ人とサマリア人との民族的・宗教的対立は、紀元前922年にイスラエル王国が南北に分裂した時にさかのぼります。そして、紀元前721年に北王国イスラエルが(その首都はサマリアでしたが)アッシリア帝国に滅ぼされ、アッシリアはその地に外国人を移住させるという占領政策をとったために、サマリア地方には他国の文化と宗教が入り込むようになったという次第です。その後も、長い間ユダヤ人とサマリア人との対立は続き、深まっていきました。ルカによる福音書10章で主イエスが語られた「親切なサマリア人のたとえ」はそのような歴史を背景にしています。

 迫害によって散らされていったフィリポがサマリアの人々に主イエスの福音を宣べ伝えたことによって、ユダヤ人とサマリア人の間の幾世紀にもわたる深い対立と分裂が、いま乗り越えられたということを、わたしたちは知らされるのです。しかも、そのことが、エルサレム教会を襲った大きな試練と災いという出来事をとおして実現されることになったのです。これは、まことに奇しき神のみわざ、神の奇跡というほかありません。神の救いのご計画はこの世にあるあらゆる抵抗や攻撃にもかかわらず進められていきます。いや、むしろ、神はそれらをお用いになって、人間の予想に反して、ご自身の永遠の救いのご計画を成就されるのです。主イエス・キリストの福音は、あらゆる民族的・宗教的対立の壁を突き破って、全世界のすべての民に宣べ伝えられていきます。なぜならば、主イエス・キリストの福音はゆるしと和解の福音であるからです。神が主イエスの十字架の福音によって、すべての人間の罪を取り除き、神と人間とを隔てていた罪という壁を、また人間と人間との間にあった罪という壁を取り除き、神と人間とを和解させ、人間と人間とを和解させてくださったからです。フィリポはこの和解の福音を携えてサマリアへ散らされていったのです。この和解の福音は、すべての時代の、すべての教会にも託されています。

 エルサレム教会に対する大迫害をきっかけにして散らされていったフィリポをはじめとした使徒たちの伝道活動を、きょうの個所ではいくつかの違った表現で語られています。4節では「福音を告げ知らせる」、5節では「キリストを宣べ伝える」、12節では「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせる」とあります。フィリポが語った説教の内容については具体的に記されてはいませんが、これらの表現から、その内容が推測されます。

 フィリポがサマリアの人々に語った説教の内容は、第一には、神のみ言葉、神の福音であったということが分かります。この世の知恵ではありません。ユダヤ教の律法の解説でもありません。天の神から語られる神の言葉、天の神から与えられる喜ばしいおとずれであり、地にある悲しみや痛み、恐れや不安を取り除く天の神から与えられる福音です。朽ちるこの世の命ではなく、永遠の命を与える神の言葉です。異邦人の地としてユダヤ人からはさげすまされていたサマリアの人々は、今やこの福音によって生きる道へと招かれているのです。

 第二には、主イエスの十字架と復活によって、すべて信じる人は罪と死と滅びから救い出され、永遠の命の約束を受け取ることで許されるという福音をフィリポは語りました。すべてのユダヤ人、すべての人は律法を行うことによってではなく、この福音を信じる信仰によって救われるという福音です。

 第三には、神の愛と恵みのご支配の時が始まり、神の国が到来しているという福音です。主イエスが最初にガリラヤで宣教活動を始められた時に語られたみ言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、この説教をフィリポもまた語ったのです。

 そして、彼が語った福音にはしるしが伴っていました。そのことが6節以下に書かれています。【6~8節】。福音書に書かれている主イエスのいやしの奇跡がそうであるように、フィリポが行った汚れた霊からの解放や病める人のいやしは、主イエス・キリストの福音による罪のゆるしの目に見えるしるしであり、神の国が到来したことの目に見えるしるしです。

サマリアの町に大きな喜びがあったと書かれています。ユダヤ人からは異邦人と言われ、辱めを受けていたサマリアの町、憎しみや敵意が満ちていたサマリアの町に、今や主イエス・キリストの福音によって与えられる喜びが満ちています。主イエス・キリストの十字架の福音が長い間の民族的・宗教的対立と憎しみに勝利したのです。

 主イエス・キリストの福音の勝利は次の9節以下にも語られています。【9~13節】。ここでは、主イエス・キリストの福音が魔術師シモンの魔術に勝利したことが語られています。サマリアにはさまざまな異国人が住んでいたために、さまざまな宗教がはびこっていました。その中でも、特に魔術師シモンは長年にわたってその驚くべき魔術を行って、人々の関心を集めていました。彼自身もまた自らを神のような偉大な者だと自称し、多くの信奉者を集めていました。子どもから大人まで、あらゆる年代の人々が彼の周りに群がっていました。

 人は目に見える物や感覚でとらえられるものにはすぐに関心を示します。人間の能力を超えた不思議なわざとか、いわゆる超能力とか、だれもが驚くような魔術、あるいは現実的な利益を約束する言葉などには、だれもが飛びつきます。けれども、それらはいずれも、人間の能力をいくらかは越えてはいても、人間のわざであり、本当に人間を救うことはできません。魂の平安を与えることはできません。なぜなら、それらはいずれもやがては朽ち果てるしかない人間から出たものであるからです。

 魔術師シモンは自分の優れた能力や人を驚かせるような魔術によって、自らを神の位置に高めようとしてしていましたが、しかしそれはいずれにしても人間から出たものに過ぎません。神から出たものではありません。人間が創り出した偶像は、人間に好まれるものではあっても、人間を根本から造り変えることはできません。人間を罪の支配から救うことはできません。

 それに対して、フィリポが語った神の国と主イエス・キリストの福音は、永遠なる神、全能なる神から与えられた命の言葉であり、人間の罪を打ち砕き、人間を新たに造り変え、新しい神の国の民とする命の言葉です。天におられる神が地に住むわたしたち人間を罪と死から救うために、ご自身が地に下って来られることによって成し遂げてくださった救いの福音です。

 サマリアの人々はフィリポの説教を聞いて、ここにこそ真実の救いがあると悟り、主イエス・キリストの福音を信じ、洗礼を受けました、魔術師シモンもまた信じて洗礼を受けたと書かれています。シモンとサマリアの人々は罪の支配から解放されました。異教の魔術からも解放されました。彼らは主イエス・キリストのものとなれました。神の国の民とされました。神の愛と恵みのご支配のもとに移されました。

 わたしたちもまた主イエス・キリストの十字架の福音によって罪から救われ、この世のさまざまな偶像から解放され、神の国に生きる自由へと招き入れられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、この世はわたしたちの目を惑わす多くの偶像や罪の誘惑に満ちています。わたしたちは愚かで弱い者であり、たちまちにしてそれらに目や心を奪われてしまいます。神よ、どうか弱いわたしたちをお守りください。あなたのみ言葉によって武装させ、主キリストの福音によって、それらと戦う知恵と力とをお与えください。

○神さま、病んでいる人、弱っている人、道に迷っている人、試練の中にある人、孤独な人を、どうぞ顧みてください。主キリストにあって、平安と慰めと希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月20日説教「安心して行きなさい」

2022年11月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編1~9節

    ルカによる福音書8章40~56節

説教題:「安心して行きなさい」

 ルカによる福音書8章40~56節には、主イエスによる二つの奇跡が語られています。一つは、40~42節と49~56節にまたがっている、会堂長ヤイロの12歳になる娘を主イエスが死から生き返らせたという奇跡。もう一つは、43~48節の、12年間出血が止まらなかった、長血を患っていた婦人を主イエスがいやされたという奇跡です。長血を患っていた婦人の奇跡がヤイロの娘の奇跡の記述に前後を挟まれたような構造になっています。これは、時間的な経過からこのような構造になっているのですが、この二つの奇跡が密接な関連を持っていることにも関係しています。つまり、主イエスがヤイロの家に向かっている途中に、長血を患っていた婦人と出会い、彼女の病をいやすという奇跡のために時間を取っている間に、ヤイロの娘が死んだとの知らせが入ったのですが、主イエスはその知らせを聞いたにもかかわらず、ヤイロの家に行かれ、彼の娘を死から生き返らせるという奇跡を行われました。ここでは、病をいやされる主イエスの権能と、それ以上に、死に対してさえも勝利される、より偉大な主イエスの権能が語られているのです。

 主イエスはこれまでにも何度も悪霊を追い出し、重い病をいやし、全能の父なる神の権能と大いなる力とを持っておられることを証しされました。また、神の国が到来し、神の恵みのご支配によって悪しき霊やサタンがすでに敗北を告げられていることを証しされましたが、ここではさらに人間の死をも支配しておられ、死から命を創造される神の権能を持っておられることを証しておられるのです。

 この二つの奇跡には共通点が多くあります。一つは、主イエスの奇跡のみわざを体験した人がいずれも女性であるということ。二つには、ヤイロの娘の年齢が12歳であることと長血を患っていた婦人の病気の期間が12年間であるということ。さらに重要な共通点は、いずれの奇跡においても、「信じること、信仰」と「救い」を主イエスは強調しておられるということです。48節と50節を読んでみましょう。【48節】。【50節】。わたしたちはこの二つの奇跡をとおして、信じて救われることへと招かれているのです。

 では、きょうは43~48節の、長血を患っていた婦人のいやしの奇跡について学んでいくことにします。【43節】。43節冒頭の「ときに」とは、前からの時間的なつながりを言い表しています。この時、主イエスは会堂長ヤイロという人の12歳になるひとり娘が重病で死にそうなので家に来てほしいとの依頼を受け、彼の家に向かおうとしていました。しかし、その途中で群衆がまわりに押し寄せてきて、前に進めないような状況だったと40~42節に書かれています。主イエスは道を急いでいました。早く行かなければ、その娘さんの息が絶えて、主イエスに祈っていただき、病気をいやしていただくことができなくなるかもしれません。

 そのような時に、主イエスは雑踏の中で一人の婦人と出会われ、彼女の重い病気をいやされ、彼女を救われるという奇跡が起こされたということを、聖書は語るのです。この奇跡は、いわば道の途中で起こったものでした。けれども、主イエスにとっては、ある目的地に向かう途中であっても、すべての道、すべての時が、福音宣教の時であり、救いのみわざを行う時であるということを、わたしたちはここでも気づかされるのです。そこに、いやしを必要としている人が一人でもいるならば、そこに、救われるべき人が一人でもいるならば、主イエスはその人のために足を止めてくださり、その人と出会ってくださり、その人のための救いのみわざを行ってくださいます。

 この婦人の病気は12年間も出血が止まらず、その病気の治療のために全財産を使い果たすほどの重い病気であったことが書かれています。12年間と言えば、彼女が成人した女性になって、その青春時代のすべてをこの病気に苦しめられ、この病気と戦ってきたことが分かります。肉体的にも精神的にも、また経済的にも、それはどんなにか辛く苦しい戦いであったことでしょうか。それにもかかわらず、すべての手段が無駄に終わってしまうほかになく、全く希望を失ってしまうほかにないと思われました。

 それだけでなく、旧約聖書レビ記15章によれば、血の流出がある女性は、その期間は宗教的に汚れているとされ、公の場に出ることも他の人と交わることも禁じられていました。イスラエルでは血は命そのものであり、神聖なるものと考えられていて、それに人が触れることは神聖さを汚すことと考えられ、このような規定が定められたと推測されています。そのために、彼女はイスラエル宗教共同体の中には入って行けず、家族や隣人と自由に交わることもできないという、孤独と不安の時を過ごさなければなりませんでした。それが12年間も続いていたのです。肉体的な苦痛と精神的な苦痛、それに加え宗教的な苦痛、彼女の苦しみ、痛み、孤独、恐れ、絶望。だれが彼女のこの12年間の苦悩の人生に終わりを告げることができるのでしょうか。

 しかしながら、そのような彼女にも主イエスと出会うという、この大きな機会は失われてはいないということを、わたしたちはここで知らされるのです。否、むしろ、そのような多くの困難と重荷と痛みを抱えていた彼女にこそ、神がお遣わしになった救い主なる主イエスと出会う機会が与えられたのです。彼女はその大きな苦悩と試練の中でこそ、主イエスと出会うという、他の何ものにも代えがたい恵みの時が備えられたのです。

 【44節】。ここには、当時の律法の定めによって宗教的に汚れているとされていたこの婦人の大胆で勇気ある、また必死の行動と、しかし控えめで、恐れを覚え、自分を隠そうとする消極的な行動と、そしてまた、それらのすべてを超えている主イエスに対するあつい信仰と大きな期待とが、入り混じっているように感じられます。三つを区別することはできませんが、分かりやすくするために、分けてみていきましょう。

 律法の規定によれば、彼女は公の場に出ることはゆるされてはおらず、人と接触することも避けなければなりませんでした。また、一般的に言っても、女性から男性の方へ近づいて、その人に触るということも、当時の社会ではすべきではないと考えられていました。しかし、彼女は律法の定めや当時の慣習という壁を突き破って群衆をかき分け、主イエスに近づいて行っています。

 彼女にはまた恐れやためらいもありました。主イエスの正面から向かって行って、主イエスに自分の顔を見せ、直接言葉で主イエスにいやしをお願いする勇気はなかったように思われます。あるいはまた、宗教的に汚れている自分がだれかに触ればその人もまた汚れてしまうことに対する恐れもあったのかもしれません。彼女は気づかれないように主イエスの後ろから近づき、主イエスが着ている服の一部にでも触りたいと思いました。しかし、これでは主イエスとの真実の出会いは起こりません。彼女は何か魔術的な力を信じていたにすぎません。

 しかし、ここには彼女の主イエスに対する並々ならぬ信頼、期待、信仰があったことも確かです。彼女は主イエスのことを耳にし、この方がもしかしたら自分のこの重い病をいやしてくださる力を持っておられるかもしれないと思ったのでしょう。この方が、自分の12年間の苦しみから解放してくださることができるかもしれないと、彼女は最後の望みをかけて、主イエスのところへと行く決意をしました。その信仰が彼女に大胆で勇気ある行動をとらせていると言えるでしょう。そして、彼女を家から出させ、群衆をかき分け、主イエスに近づけさせたのです。その時、彼女の重い病気がいやされました。

 しかし、これで彼女の救いが完了したのではありません。主イエスは彼女との真実の出会いを求められます。【45~47節】。「わたしから力が出て行った」という主イエスのみ言葉は、非常にリアルで、興味深い表現です。主イエスのお体の中にみなぎっていた力が主イエスの着ていた服を通して、彼女の手と体全身へと移っていった。そして、彼女の病気がいやされたという事実が、何か目に映るような、現実的で、実感できるような表現のように思われます。主イエスはご自身の中にある力や恵み、そして命を、あたかも一人一人に移し入れるかのようにして、わたしたちに分かち与えてくださるのです。そして、ご自身が全く無になるまでに、その力を、その恵みを、その愛を、そしてその救いと命を、わたしたち一人一人に分かち与えてくださるのです。それが、主イエスの十字架のみわざでした。主イエスは、わたしたち罪びとのためにご自身の肉と血のすべてを注ぎ出すかのようにして、十字架でおささげくださったのです。この十字架の愛が、この婦人をいやし、救い、そしてまたわたしたちをも救うのです。

 主イエスからの力を受け取り、いやされた婦人は、もはや自分を隠しきれないことを悟りました。主イエスから与えられた神のいやしのみ力の大きさに、彼女は恐れを覚えて震え上がりました。そして、自分の身に起こったことを群衆に向かって語りだしました。これまでは、病気のために、人前に出たり、人と話をすることもできなかった彼女が、今は群衆の前に立ち、主イエスの救いのみわざを、主イエスの福音を証しする人へと変えられたのです。何と大きな変化でしょうか。

 48節で主エスはこう言われます。【48節】。この婦人は主イエスによって、長年苦しめられてきた重い病気をいやされただけではありません。彼女は主イエスと真実の出会いをして、その罪がゆるされ、救われたのです。福音書に書かれている主イエスのいやしのみわざは、単に肉体のいやしだけではなく、その人の全存在、その人の体と魂の全体、全人格の救いを含んでいます。主イエスとの真実の出会いを経験することによって、その人の罪が取り除かれ、神との交わりが回復されるからです。神の子どもたちとされ、神の国の民の一人とされるからです。

 そこで、主イエスは「安心して行きなさい」とお命じになります。信じる人には、主イエスのみ言葉を聞き、それに聞き従って生きる道、主イエスの憐みとゆるしの中で生きる道が備えられています。「安心して」とは「平安のうちに」という意味です。平安とは,ヘブライ語ではシャローム、ギリシャ語ではエイレーネーです。満ち足りている状態を意味する言葉だと言われます。主なる神がすべての必要なものをもって養い、生かしてくださる道。主なる神がわたしの行くべき道を備え、その道に常に神が伴ってくださる歩み。そこにこそ、わたしたちの平安、平和があります。わたしたちもまたこの道を、平安のうちに歩みましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは多くのことで思い煩い、不安や恐れに襲われ、また多くの破れや欠けをもって、迷いながら歩む者です。神よ、どうかわたしたちを憐れんでください。わたしたちをまことの救いへとお招きください。あなたと共にある平安でわたしたちを満たしてください。

○天の神よ、この世界もまた深く病み、傷つき、苦悩しています。この世界を憐れんでください。あなたのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。