7月18日説教「真の神であり、真の人」

2021年7月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節     

ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「真(まこと)の神であり、真(まこと)の人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。きょうはその4回目です。わたしたちの教会が戦後、日本基督教団を離脱して新しい歩みを始めてから70年、日本キリスト教会はどのような教会であることを目指してきたのかをご一緒に確認しながら、わたしたちの信仰を養っていきたいと願います。 信仰告白の冒頭の文章は、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは真(まこと)の神であり、真(まこと)の人です」。これを、1890年(明治23年)の(旧)『日本基督教会信仰告白』と比較してみると、二つの点で大きな違いがあります。(現行の『信仰告白』を参照して比べてください)。旧の方を紹介します。「吾等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の独子にして」と告白されています。「神と崇むる」が「主とあがめる」に変更され、「真の神であり、真の人です」が付け加えられています。ここに、新しい日本キリスト教会を建設した時に先輩たちが目指した教会の特徴が言い表されています。その一つが、「主告白」であるということを前回学びました。イエス・キリストは教会と全世界において、唯一の主であって、他の何ものも主ではない。国家であれ、元首であれ、天皇であれ、軍隊であれ、それらは主ではない。それゆえに、教会は主イエス・キリスト以外の何ものにも決して服従しない。礼拝しないと、いう告白をまず冒頭で告白した。それは、戦時中の反省から、再び教会が失敗を繰り返してはならないとの強い決意があったということを学びました。 「真の神であり、真の人」という告白が付け加えられたということに、もう一つの特徴があります。これについて、きょうから数回にわたって学んでいくことにします。 この告白が信仰告白の冒頭に置かれているということは、これ以降のすべての告白が「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」という告白を土台にして展開されていくということを意味しています。そして、その告白の中心的な意図をあらかじめ結論的に言うならば、主イエス・キリストは真の神であり真の人であるゆえに、わたしたち罪びとの救いを完全に成し遂げることがおできになる。わたしたちすべてを罪から救い、永遠の命の保証を固くし、終わりの日に神の国の民として招きいれてくださるという約束のすべてが確かにされているということです。もし、主イエス・キリストが真の神であり真の人であるというこの信仰告白が少しでもゆがめられたり、どちらかが否定されたりするならば、わたしたちの救いが不完全になってしまわざるを得ないということです。それほどに重要な意味を持つ告白だということです。  「真の神であり、真の人」という言葉はそのままでは聖書の中には見いだせません。この言葉は、紀元451年に小アジア(今のトルコ)の北西にあるカルケドンという町で開催された世界教会会議で決議され『カルケドン信条』の中にある言葉です。『カルケドン信条』は、『使徒信条』、『ニカイア信条』、『アタナシウス信条』とともに、世界信条、基本信条と言われ、全世界の正統的教会が受け入れています。日本キリスト教会はそれらの基本信条を告白している世界の、公同の教会の信仰を受け継ぎながら、それをさらに宗教改革時代のカルヴァンの流れをくむ改革教会の伝統によって深めることを目指している教会、教派であると言えます。  「真の神であり、真の人」という言葉が聖書の中にないのに、のちの教会が勝手に創作したということではありません。信仰告白は(信条と同じ意味で用いられますが)聖書で語られ、証しされている信仰の中心、その要約を教理の体系に沿って短くまとめたものですが、その中で用いられる語句や文章は聖書本文にあるものが多いと言えますが、聖書にはないが、教会の歴史の中で正統的な教理として教会会議などで認められた語句や文章も用いられます。「真の神であり、真の人」もその一つであり、また「三位一体」という教理の名称も聖書の中にはありませんが、正統的なキリスト教信仰の中心的教理であるということは言うまでもありません。  では、紀元451年に開催された世界教会会議、カルケドン会議に至るまでの背景について、なぜ「真の神であり、真の人」という信仰告白が生まれたのかについて簡単に見ていきましょう。  主イエスの十字架の死と復活が紀元30年代の初めころ、その年のペンテコステの祭りの時(5月から6月にかけて)、弟子たちの上に聖霊が注がれ、エルサレムに世界最初の教会が誕生しました。教会はエルサレムからパレスチナ全域へと広がっていき、紀元40年代後半からはパウロの計3回にわたる世界伝道旅行がなされ、紀元60年代には小アジアからギリシャ、ヨーロッパへと拡大していきました。聖書の中のパウロの書簡はその時代に書かれていますが、その中には、すでにそのころからキリスト教の教えが様々な異端的な教えとの厳しい戦いにさらされていたということをわたしたちは読み取ることができます。  パウロが最も激しく戦った相手は主キリストの十字架を否定するユダヤ教徒であり、またその伝統に縛られて、律法や割礼を重んじていたいたユダヤ主義的キリスト者でしたが、それとは別に、当時のギリシャ思想の影響を受けたグノーシス主義者と呼ばれる人たちがおりました。彼らは主イエスの人性(人間であること)を軽視する傾向にありました。主イエスの人間性が軽視されると、主イエスが人となられたこと、苦難を受けられ十字架で死なれたこと、そしてそのお体が復活したことの意味が薄められ、キリスト教信仰の中心である罪の贖いと罪からの救いがあいまいにされてしまいます。それはキリスト教会にとっての危機でした。パウロはそのようなグノーシス主義者たちに対して、主イエスは真の神であられたが、また同時に真の人となられたことを力説したのです。 聖書を読んでみましょう。【ローマの信徒への手紙1章3~4節】(273ページ)。また、【フィリピの信徒への手紙2章6~8節】(363ページ)。  パウロ以後も、教会は「キリストとはだれか、どのような方か」に関して、いわゆるキリスト論に関する論争を続けました。それは主イエスの神性(神であること)と人性(人間であっること)をめぐっての論争でした。紀元3~4世紀で最も影響力があった異端的教えはアリウス(250/56~336年ころ)という人の説でした。彼は、主イエスの神性(神であること)を否定し、天地万物を創造された神だけが唯一の神であり、主イエスは神によって造られた被造物の一つであって、神ではないと主張しました。このアリウスの説に同調する者も多く、大論争になったために、紀元325年に、先ほど紹介したカルケドンと同じ小アジアにあるニカイアという町で世界教会会議が開かれ(これが最初の世界教会会議と言われる)、そこでアリウスの説は異端として退けられ、『ニカイア信条』が採択されました。この信条の最も重要なポイントは、主イエスが父なる神と全く同質(本質が同じ)であるという告白です。すなわち、主イエスは真の神であるという信仰告白が確定されたのです。  ニカイア教会会議以降もキリスト論論争は続けられ、451年のカルケドン会議で制定された『カルケドン信条』が、古代教会のキリスト論論争に終止符を打つこととなりました。その最初の部分をご紹介します。「我らの主イエス・キリストは、唯一同じなるみ子であって、神性においても完全、また人性においても完全である。真の神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間である。神性においては父と同一本質であり、人性においては我らと同質にして、罪を除くすべてにおいて我らと等しい」。ここに、日本キリスト教会信仰の告白の中にある「真の神であり、真の人」という語句があります。  『カルケドン信条』によって告白された「真の神であり、真の人」という信仰は、こののち今日に至るまで、正統的なキリスト教会の中心的な信仰告白となりました。いつの時代にも、ある人は主イエス・キリストの人性を強調して神性を弱め、またある人は神性を強調するあまり人生を軽視するという異端的な教えが教会を惑わしましたが、教会はいつの時代にも、古代の教会が長い信仰の戦いの中で勝ち取ってきた「真の神であり、真の人」という信仰告白の上に固く立って、正統的な信仰を守り通してきました。この信仰によってのみ、わたしたちの罪びとの完全な救いがあり、また永遠の命があると告白してきました。  また、16世紀の宗教改革の時代には、カルヴァンや彼の流れをくむ改革教会は、「真の神であり、真の人」という信仰告白を仲保者キリスト論との関連で展開しました。その代表例が、1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』です。神と人との間の唯一の仲保者であられる主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」として、神の義の要求を完全に満たし、罪びとに対する神の怒りと裁きとを完全に耐え忍ばれ、そのようにしてわたしたちの罪のための完全な贖いとなってくださったのです。わたしたち人間が犯した罪を、真の人間として担ってくださり、また同時に、真の神として罪と死とに勝利してくださいました。この神と人との間の唯一の仲保者主イエス・キリストによって、わたしたちは罪あるままで神に義と認められ、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によってわたしの罪がゆるされ、救われるのです。『日本キリスト教会信仰の告白』はこのような改革教会の信仰を受け継いでいます。  主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」であるという信仰が、確かに聖書全体が語り、証ししている信仰であるということをわたしたちはあらゆる個所から確認することができます。  マルコによる福音書1章1節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。主イエスは神のみ子であられましたが、一人の人間として、罪びとの中に入って来られ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられました。ガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教されました。主イエスは神の権威によって、神の生けるみ言葉を説教されました。主イエスがお語りになるみ言葉は、力があり、すべて実現しました。主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。  マタイ福音書とルカ福音書によれば、主イエスはおとめマリアの胎に聖霊によって宿り、真の人間として誕生されました。主イエスは人の子として、時に怒り、時に涙を流され、時に額に血のような汗を滴らせながら祈られました。真の人として、十字架で苦しみを受けられ、死んで、葬られました。主イエスのご生涯は、「真の神であり、真の人」としてのご生涯でした。  「真の神であり、真の人」であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちと神との間の唯一の仲保者として、神とわたしたちの間に立っておられ、わたしたちの罪を完全に贖ってくださり、わたしたちに罪のゆるしと永遠の命の保証を与え、わたしたちを神の国へと招き入れてくださる、わたしの唯一の救い主であられます。  (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、み子主イエス・キリストがわたしたちを罪から救うために人となられ、十字架で死んでくだったことを感謝いたします。どうか、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの十字架の福音が宣べ伝えられますように。住イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月11日説教「あなたの敵を愛しなさい」

2021年7月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記15章12~18節

    ルカによる福音書6章27~36節

説教題:「あなたの敵を愛しなさい」

 キリスト教は愛の宗教であると言われます。事実、愛は聖書の中心的な教えであると言えます。聖書の中には、「愛する」という動詞形と「愛」という名詞形の言葉が、旧約聖書と新約聖書で合計500回以上用いられていることからも、そのことが確認できます。愛という言葉が直接用いられていなくても、聖書はその全ページで愛について語り、また教えていると言ってよいでしょう。  聖書が語り、教えている愛は、まず第一には神の人間への愛です。神の人間への愛は、聖書の最初のページから読み取ることができます。創世記に書かれているように、神は人間をすべての被造物の頭(かしら)、冠として、ご自分のかたちに似せて、ご自分に最も近い生き物として創造されました。神はまた世界の民の中からイスラエルの民をお選びになりました。ここでははっきりと神の愛が語られています。申命記7章にはこのように書かれています。「主なる神があなたがたイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民とされたのは、あなたがたが大きな民であったからではない。あなたがたはどの民よりも貧弱であったが、ただ、あなたがたに対する主なる神の愛のゆえに、神はあなたがたを奴隷の家エジプトから導き出されたのだ」(6~8節参照)。人間に対するこのような神の愛は、新約聖書に至って、神がご自身のひとり子をわたしたち罪びとの救いのために十字架におささげくださったほどにわたしたちを愛されたということによって頂点に達しました。  聖書はまた、わたしたち人間が神を愛すべきこと、さらにはわたしたちが互いに愛し合うべきことをも教えています。申命記6章4、5節ではこのように命じられています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。また、レビ記19章18節では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられています。主イエスは、「神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」というこの二つの愛の戒めが旧約聖書の中で最も大切な戒めであり、旧約聖書全体の戒めがここに集約されているとお語りになりました(マタイ福音書22章37~40節参照)。旧約聖書と新約聖書の教え、そしてまた主イエスの教えの中心また全体が愛であるということを確認できたと思います。  そこで次に、きょうの聖書のテキストであるルカ福音書6章27節以下を読んでいくことにしましょう。この個所は、マタイ福音書5章からの主イエスの「山上の説教」に対応して「平地の説教」と呼ばれています。ここにはクリスチャンでなくても一般的によく知られた聖句がたくさんあります。「敵を愛しなさい」(27、35節)。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(29節)。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)。これらの聖句は、聖書を読んだことがない人でも、一般的な教訓として口に出すことがありますし、キリスト教の愛、キリスト教の倫理の特徴として取り上げられることもあります。 けれども、あまりにもよく知られているために、かえって安易に理解されたり、誤解されたりすることもあります。たとえば、キリスト教の愛を一つの理想として追い求めたり、あるいは人に愛を強要するためにこれらの聖句を持ち出したり、あるいはまた、非暴力主義とか無抵抗主義という言葉で説明されたりすることもあります。ドイツの哲学者ニーチェはこれらの主イエスの教えを「弱者の倫理」「敗北者の倫理」と批判しました。  しかし、わたしたちは主イエスのこれらの説教を正しく理解するために、主イエスご自身と主イエスの父なる神にまず目を向ける必要があります。主イエスは35、36節でこのように言われます。【35~36節】。このみ言葉から二つの重要な点を聞き取ることができます。一つには、主イエスがここで語っておられる愛は、本来は憐れみ深い天の父なる神から来るということです。二つには、主イエスはわたしたちを天の父なる神の子どもたちとなるように招いておられ、その神の愛へと招いておられるということです。つまり、わたしたちが真実の愛とは何かを考える場合、まず自分自身や人間から目を離して、天の神へと向けなればならない、主イエスへと目を向けなければならないということなのです。  わたしたち人間は、本来どのような者であるのか、またわたしたちの愛は本来どのようなものであるのかについて、32~34節で主イエスはこのように言われます。【32~34節】。自分を愛する人を愛する愛は罪びとの愛だと主イエスは言われます。自分によくしてくれる人に善いことをするのは罪びとの善意だと主イエスは言われます。返してもらうつもりで貸すのは罪びとの親切だと主イエスは言われます。それらはみな罪びとの愛であり、罪のこの世に属する愛であり、それがわたしたちの愛なのです。わたしたち人間の愛は、愛すべきものを愛します。美しいものとか、価値あるものとか、自分にとって何か益あるものを愛します。しかし、主イエスはそのような愛は真実の愛ではない、それがどんなにか強く、激しくあっても、それは罪びとの愛であって、罪と死と滅びとに支配されていると言われます。真実の愛とは何かを考える時、わたしたちはまず自らの愛の貧しさと破れを告白しなければなりません。主イエスがここでわたしたちに命じておられる愛は、そのような愛ではありません。天の父なる神、情け深く、憐れみ深い神から来る愛のことであり、そのような愛へと主イエスはわたしたちを招いておられるのです。  では、神の愛とはどのような愛なのでしょうか。その神の愛へとわたしたちを招くとはどういうことなのでしょうか。35節で、主イエスは父なる神を「いと高き方」と呼んでおられます。この神の呼び名は、旧約聖書の時代からイスラエルの民が用いていた伝統的な神のお名前の一つであり、その中には、神は人間が住んでいるこの地から遠く隔たった高い所におられ、この地上にあるどんなものよりもはるかに高く、偉大であり、力あり、聖なる方、永遠なる方であるという意味が含まれています。それゆえに、神は人間世界やこの地上にある価値基準、あるいは倫理や社会秩序をはるかに超えておられます。それゆえにまた、神は「恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」あることができるのです。そのような神の愛を、無条件の愛、無限の愛、一方的に神から与えられる愛ということができるでしょう。神の愛は、愛される対象によって左右されません。いやむしろ、神の愛は愛される価値がなく、小さなもの、貧しいものにこそ集中的に注がれるのです。  そして、そのような神の愛をわたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、いよいよはっきりと知らされました。いと高きにいます主なる神は、地に住むわたしたち罪びとと共にいますインマヌエルなる神となってくださり、天から下って来てくださいました。聖なる永遠の神が罪と死とに支配されているこの罪の世に人間のお姿でおいでくださったのです。ここに、すでに神の偉大な愛が現わされています。神はわたしたち人間がまだおのれの罪に気づかず、神を知らず、神に背いていた時に、ご自身のみ子主イエス・キリストをわたしたちの罪のための贖いの供え物として十字架におささげくださいました。ここに、神の無条件の愛、無限の愛、一方的に罪びとに注がれる愛があります。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる時、その神の愛が信じる者たちに注がれ、罪ゆるされ、救われるのです。  「あなたの敵を愛しなさい」と命じられる主イエスご自身が、罪なき神のみ子でありながら、敵対する者たちの侮辱とあざけりの中を十字架の死に至るまで従順に父なる神のみ心に服従され、わたしたち罪びとに対する愛を示されました。「あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」とお命じになった主イエスご自身が、十字架の上で「父よ、彼らをゆるしたまえ」と祈られ、わたしたち罪びとたちに対する無条件の愛、無限の愛をお示しくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストの愛によって、罪ゆるされ、救われるのです。これが35、36節で教えられている第一のことです。 第二のことは、主イエスはわたしたちを神の子たちとしてお招きくださり、神の偉大なる愛へとお招きくださるということです。神は恩を知らない者にも悪人にも、情け深く、憐れみ深いお方であるだけでなく、わたしたち信仰者をもそのような者になるようにとお招きになるのです。わたしたちをそのような者として造り変えてくださるのです。主イエス・キリストによって注がれた神の偉大な愛はわたしたちの罪をゆるし、わたしたちを神と結びつけ、わたしたちを神の子たちとするのです。  35節では、「あなた方はいと高き方の子となる」と言われ、36節では、「あなたがたの父が」と言われています。主イエスは説教を聞いている弟子たち、群衆、そしてわたしたちを、神の子たちと呼び、神をわたしたちの父と呼んでおられます。どのようにして、わたしたちは神の子たちとされるのでしょうか。もう少し深く探っていきましょう。ヨハネ福音書1章12、13節にこのように書かれています。【12、13節】(163ページ)。また、ヨハネの手紙一3章1~2節にはこう書かれています。【1節ab】(443ページ)。  わたしたちが神の子とされるのは、主イエスを信じる信仰によってであって、それ以外によるのではありません。また、わたしたちが神の子とされるのは神の大きな愛によるのであって、それ以外によるのではありません。父なる神の家から迷い出て、罪の支配下にあり、罪の子であったわたしたちを主イエスはご自身の十字架の死という尊い贖いの代価を支払って買い戻してくださいました。神の所有としてくださいました。この主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白することによって、わたしは神の子とされるのです。  神の子とされたわたしたちは、父なる神が情け深く、憐れみ深いように、わたしもまた隣人に対して愛と憐れみを示すことができます。なぜなら、わたしは罪の支配から解放され、自己中心的な自我から自由にされ、この世の欲望や所有欲からも解き放たれているからです。主イエス・キリストの十字架の福音に生かされているわたしたちは、喜んで神と隣人とに仕える者とされているからです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、愛の貧しさや破れを覚え、時に傷つき倒れるほかないるわたしたちを憐れんでください。わたしたちにあなたの真実な愛を注いでください。この世界をあなたの真実な愛で満たしてください。 〇主なる神よ、大きな試練の中にあって苦悩している日本とアジアと世界を顧みてください。あなたから与えられる慰めと平安といやしによって、まことの光と希望を見いだすことができますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月4日説教「約束の子イサク誕生の予告」

2021年7月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記18章1~15節    

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「約束の子イサク誕生の予告」  

きょうの礼拝で朗読された創世記18章14節のみ言葉にまず注目したいと思います。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。「主に不可能なことがあろうか」、この疑問文は、反語的な問いかけであって、「否、そんなことはない、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない」ということを強調しています。神の約束のみ言葉を聞いて25年近くになり、今ようやくそれが実現されるという神の確かなみ言葉を聞かされた年老いたアブラハムとサラは、何と幸いなことでしょうか。ルカによる福音書1章37節で、同じように「神にできないことは何一つない」というみ言葉を聞かされた主イエスの母となるおとめマリアは、何と幸いなことでしょうか。そして、また、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というみ言葉を礼拝の冒頭で聞かされているわたしたちは、何と幸いなことでしょうか。わたしたちはこのみ言葉を聞き、信じるために、きょうの礼拝に招かれているのです。このみ言葉を聞くことができる場、またこのことを信じる信仰へと招かれる場は、教会の礼拝以外にはありません。もし、わたしの耳に他のすべての言葉が聞こえず、あるいは他のすべての言葉が空しく消え去っていくしかないと思われる時でも、この神のみ言葉が強く響いているならば、それは何と幸いなことでしょうか。また、もしわたしが他のすべての言葉が信じられなくなり、絶望するほかない時でも、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というこのみ言葉が信じられているならば、何と幸いなことでしょうか。  わたしたち人間にとっては、不可能なことは何一つないということは決して当てはまりません。むしろ、わたしたちはたくさんの不可能に取り囲まれており、時としてそのことがわたしを苦しめ、不安にし、いらだたせます。わたしが長く願ってきたこと、努力してきたこと、それらの多くは未だに実現していませんし、将来とも実現の可能性がないように思われます。その中には、いくつかの非常に切実な願いがあり、また信仰的な願いや祈りもあります。確かに、わたしたち人間は多くの不可能に取り囲まれているのです。真剣に人生に取り組もうとすればするほど、まじめに生きようとすればするほど、自分の能力の及ばないことがどんなに多くあるかを知らされると言ってよいでしょう。  しかし、わたしたち人間にとってはそうであることが確かだとしても、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない、神のみ言葉には不可能はない、神がお語りになったことはことごとく実現するということを、聖書はくり返して語っています。そして、たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたちにも、その神のみ言葉を聞き、「神には何も不可能はない」ということを信じる可能性は残されているという事実をわたしたちは思い起こすべきです。おそらくは、これこそがわたしたちに与えられている最大の可能性なのではないでしょうか。「主なる神には不可能はない」という聖書のみ言葉を聞き、それを信じることができるという大きな可能性へと、わたしたちはきょうの礼拝で招かれているのです。  では、アブラハムにとってこのみ言葉はどのような意味を持つのでしょうか。彼は75歳の時、神の約束のみ言葉を最初に聞き、それを信じて故郷カルデアのウルを旅立ち、神が示されたカナンの地へと移り住みました。神の約束の一つは、アブラハムの子孫を星の数ほどに増やし、神の祝福を受け継がせるということ、もう一つは、カナンの地を彼と彼の子孫との永遠の嗣業の地として受け継がせるということでした。けれども、それから25年近くが過ぎても神の約束はまだその実現を見ていませんでした。アブラハムも妻サラも年老いて、人間としての能力からみれば、子孫を授かるということは全く不可能な年齢に達していました。  そのようにして、アブラハムには全く可能性がなくなった時に、「主にとって不可能なことがあろうか」というみ言葉が語られ、「来年の今ごろ、あなたの妻サラには必ず男の子が生まれている」という神の約束の成就のみ言葉が語られているのです。わたしたちはここに至って、神の約束の実現が25年間もの長い間延期されてきたのは、アブラハムがこの神のみ言葉を聞き、信じるためであったのだということに気づかされるのです。「主なる神にとっては何一つ不可能はない」。アブラハムの不可能性のただ中で、全能なる神の可能性について語られているのです。いや、それだけではありません。このみ言葉はアブラハム個人に対して語られているだけでなく、すべての時代のすべての信仰者にとっての永遠の真理として語られている偉大な神のみ言葉なのだということに気づかされるのです。  さらにここで気づかされるもう一つのことは、全能なる神の可能性ついて語られる時、アブラハムの不可能が可能に変えられることになったということです。100歳と90歳という高齢の夫婦に神の奇跡によって子どもが与えられるようになるというのです。あらゆる不可能に取り囲まれているわたしたち人間に対して全能なる神の可能性が語られる時、わたしの不可能が可能に変えられるということなのです。そのようにして、神のみ言葉を聞き、信じるわたしたちのために、神は無から有を呼び出だし、死から命を生み出されます。  18章の冒頭を読んでみましょう。【1節a】。主なる神がアブラハムに現れて、彼と出会われることから、不可能のただ中にいたアブラハムに新しい可能性が開かれました。たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたち人間に神が出会ってくださり、神の命のみ言葉を語ってくださり、それをわたしたちが聞き、信じる、そこからわたしたちの新しい可能性の道が開かれていきます。  神はここで3人の旅人の姿でアブラハムに出会われます。神は時に天使の姿で、あるいは人間の姿で、あるいはまた自然現象の雲や風、火、雷などによっても信仰者と出会ってくださいます。アブラハムは初めはそれが神の使い、あるいは神ご自身だとは気づいていなかったようです。いつの時点で気づいたのかは聖書の記述からは分かりません。2節では「三人の人」と書かれています。そのあとでは「その人たちは、彼らは」と言われています。10節でそのうちの一人が語ります。ところが、13節になって「主はアブラハムに言われた」と書かれ、14節では「わたしはここに戻ってくる」と言っています。16節以下のソドムに関する箇所では、16節では「その人たち」、17節では「主は」、19章1節では「二人の御使い」と言われていますが、それらはすべて神ご自身のことです。  パレスチナ地方の南部の夏の時期は非常に暑く、当時の遊牧民は昼にはテントの中で休んでいるのが一般的でした。アブラハムはテントの入り口で目を上げて3人の旅人が彼に向かって立っているのを見ました。昼の暑い中を旅行することはめずらしいことですし、またアブラハムがたまたま目を上げたら目の前に3人の旅人が立っていたということも不思議です。アブラハム自身はまだそのことに全く気づいてはいなかったのですが、神はこのようにして彼と出会われたのです。ヘブライ人の手紙13章1~2節には、おそらくこの場面を想起して、このように書かれています。「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」。  旅人や客人を丁寧にもてなすことは古代近東諸国の遊牧民では一般的な慣習でした。そのことは、アブラハムとイスラエルの民にとっては特に意味あることであったということをわたしたちは知っています。アブラハム自身、このカナンの地で長く寄留者、旅人として過ごしてきました。また、イスラエルの民は400年間エジプトで寄留者として過ごし、そののちに主なる神によってそこから導き出されたという経験を持っていたからです。そこで彼らは旅人や寄留者をもてなすことを神から命じられていたのです。それは、神の導きと救いのみわざを忘れないためです。  アブラハムが3人の旅人たちを最大限の愛をもってもてなす様子が、生き生きと描かれています。彼はまず旅人の足を洗います。客人を木陰で休ませてから、急いで食事の用意に取りかかります。料理を並べてからは客人のそばで給仕をします。アブラハムは100歳近い老人とは思えないほどに、俊敏に行動していることがここでは強調されています。2節には「アブラハムはすぐに天幕の入口から走り出て迎え」とあり、6節には「アブラハムは急いで天幕に戻り」、サラには「早く」と命じ、7節でも「牛の群れのところに走って行き」、「急いで料理させた」と書かれています。アブラハムは若者のように、新しい命を注ぎ込まれた人のように行動し、客人たちをもてなしています。イザヤ書40章31節のみ言葉を思い起こします。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神を信じる信仰者に与えられる力、命、希望です。 食卓でのアブラハムと客人の会話を読んでみましょう。【10~15節】。この突然の訪問者はアブラハムの妻がサラという名前であることを知っています。また、二人には子どもがいないということ、子どもが与えられるという神の約束が二人に語られていたということをもこの訪問者は知っているようです。それだけでなく、一年後には子どもが与えられるという話を聞いた時に、サラが天幕の入り口で笑ったということまでをも、彼らは見ています。それもそのはずです。主なる神はすべてを見ておられ、すべてをなさいます。神はアブラハムに対する約束を必ず実行されます。彼らの不可能を超えて、彼らの不信仰を超えて。 サラが笑ったのは、不信仰の笑いです。神のみ言葉がこの年老いたわたしの身に成就することなどあり得ないと考え、神には不可能なことは何一つないということを信じることができない疑いの笑いです。この個所では、アブラハム自身の反応については書かれていませんが、17章17節には、神の約束のみ言葉を聞いた時にアブラハムも笑ったと書かれていました。アブラハムにとっても妻サラにとっても、自分たちの現状を知っている彼らにとっては、「主に不可能なことがあろうか」というみ言葉を聞くことは大きな驚きであり、信じがたいことであるには違いありません。神のみ言葉の真実の前では、人間の不信仰と罪が浮き彫りになります。しかしまた、神はそのような人間たちの不信仰と罪の中で、彼らを通して、み言葉を成就さるのです。神にとっては不可能なことは何一つありません。わたしたちはそのことを信じる信仰へと招かれています。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天においてすべてのみ心を行われます。また、あなたは天において地の出来事のすべてをご覧になっておられ、すべてのことを知っておられます。主なる神よ、どうぞわたしたちを顧みてください。わたしたちを憐れんで、罪の世からわたしたちをお救いください。あなたがこの地ですべての人たちのために救いのみわざを行ってください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月27日説教「この名による以外、わたしたちの救いはない」

2021年6月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編118編20~29節    

  使徒言行録4章1~22節

説教題:「この名による以外、わたしたちの救いはない」

 使徒言行録4章8~12節では、ユダヤ最高議会の裁判でのペテロの弁明が語られています。3章1節以下に書かれていたように、エルサレム初代教会のペトロとヨハネは生まれつき足が不自由だった人を主イエス・キリストのみ名によって立ち上がらせるという奇跡を行いました。エルサレムでそれが大きな騒ぎとなったために、ユダヤ人の指導者たちが二人を捕え、獄に入れました。翌日、ユダヤ最高議会での裁判の席で語ったのが8節以下のペトロの弁明ですが、彼はここで自分たちの無罪を主張して弁明しているというよりは、主イエス・キリストの救いの恵みを語る説教をしていると言うべきでしょう。 誕生したばかりの初代教会が最初に経験した迫害、それはユダヤ人からの迫害ですが、その迫害の場が、主キリストの福音を宣べ伝える宣教の場となったのです。主キリストの福音を信じ、神のみ言葉を語るキリスト者にとっては、この世のいかなる迫害をも恐れず、世の権力や暴力の脅かしにも決して臆することなく、またわが身の死の危険をも超えて、大胆に、力強く主キリストを証しすることがゆるされます。なぜなら、神の言葉はこの世のいかなる鎖によってもつながれることはないからです。神の言葉、神の真理はわたしたちを真の自由人にするのです。  この説教でペトロは、生まれつき足が不自由だった人が歩き出したのは、神が死者の中から復活させられた主イエス・キリストの名によるのだということを説教しましたが、彼の説教はそれにとどまらず、そのいやされた人にとってだけではなく、あなた方にとっても、いやだれにとっても、すべての人にとって、主イエス・キリストの名による以外には救いはないと12節で語ります。「わたしたちが救われるべき名は」の「べき」と訳されている言葉は、主イエスが福音書の中でご自身の受難予告をされた際に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け……殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ福音書8章31節)と言われた箇所の、「必ず、することになっている」と訳されているのと同じ言葉です。これは神の強い意志、神の決断、神の永遠の救いのご計画を表現する言葉と言われています。神はご自身のみ子、人となられ、おとめマリアからお生まれになり、わたしたちの罪のために苦しまれ、十字架で死なれ、そして三日目に復活された主イエス・キリストによって、ご自身の永遠の救いのご計画を成就されたのです。ただ、この主イエス・キリストによってのみ、すべての罪びとをお救いくださったのです。これ以外のどこにも、だれにも、救いを求めることはできません。  「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。この12節のみ言葉には、非常に強い意味が込められています。主イエス・キリストのみという、この狭い、ただ一筋の道だけが、わたしたちすべての人の救いの道であるとペトロは説教します。宗教改革者たちも「主キリストのみ」を強調しました。このように救いの道を狭めること、限定することは、救いの恵みを小さくすることでは全くありませんし、わたしたちが救いの道を進むことを困難にするのでもありません。いやむしろ、わたしたちの救いの道を確かなものにし、救いの恵みを豊かにし、それを信じる人に大きな慰めと平安を与えるのです。  では、ここで否定され、拒絶されている他の救いの道とは何でしょうか。主イエス・キリストのみ名を信じる信仰の道以外のすべての道のことですが、その主なものを考えてみましょう。世の多くの人々はさまざまな神々に救いを求めます。しかし、聖書の神は言われます。それらのすべては人間が造りだした偶像であって、真に人を救うことはできないと。ユダヤ人は神の律法を守り行うことによって救われると考えました。しかし、使徒パウロが言うように、律法によっては、それを守り行うことができない人間の罪がいよいよ明らかにされるだけです。多くの人々は、究極的に信じられるのは自分だけだと言います。しかし、その自分とはいったい何者でしょうか。時に迷ったり、時に人を傷つけたり、時に悲しんだり、時に肉体が病んで痛みを覚えたり、そして最後には死を迎え、朽ちていく存在、そのようなものに救う力などあるでしょうか。ある人は哲学、科学、知識や知恵に、宇宙的な原理とか真理とかに、何かの思想、信条に、救いを求めます。しかし、それらはひと時人間の腹を満たすことがあっても、魂の永遠の救いを与えることはできません。  そのようなすべての道によっては得られなかったまことの救いの道を、神は主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに備えてくださいました。主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、わたし自身には全く救われる望みも可能性もないのに、神から与えられる一方的な恵みによって、わたしたちが信仰によってそれを信じ受け入れることによって、神はわたしに罪があるままで、主キリストのゆえに、わたしを義と認め、わたしの罪をゆるし、救ってくださるのです。  13~14節には、ペトロのこの説教を聞いた最高議会の議員たちの反応が書かれています。【13~14節】。議員たちはペトロの証言を聞いて不思議に思い、驚き、また戸惑っています。けれども、彼らの心はかたくなに閉ざされたままです。彼らの前には今、一本の救いの道が備えられています。彼らは今、法廷に立つ二人の囚人を裁くべき裁判官であるというよりも、ペトロの説教によって救いへと招かれている一人の罪びとなのです。けれども、彼らは神の救いへの招きの言葉に心を閉ざし、かたくなに自分たちの立場を守ろうとし、体面を取り繕うことだけに心を用いています。  ここで、ユダヤ最高議会の法廷に立たされているペトロとヨハネの二人と、彼らを取り囲んでいる議長の大祭司と70人の議員たちとの、対照的な姿が浮かび上がってくるように思われます。一方では、この世の鎖につながれてはいるが、主キリストの福音によって全くこの世の権力とその脅しから自由にされて、大胆に主イエス・キリストを告白し、喜びに満たされて、勝利を確信して被告席に立っている二人の使徒たち。他方では、民の指導者であることを自認し、この世の権力を身にまといながら、根拠のない罪状で二人を裁こうとしている大祭司と70人の議員たち。しかし自ら裁くべき立場にありながら、神のみ言葉によって裁かれなければならないことを感じながらも、心をかたくなにし、困惑し、不安におびえている彼ら。その両者の対照的な姿がここで浮き彫りにされています。  13節に、「ペトロとヨハネの大胆な態度を見」と書かれています。「大胆な」という言葉は、このあと4章29節、31節などでも繰り返して用いられます。迫害の中にあっても、少しも恐れず、語り続ける使徒たちの勇敢さを言い表しています。彼らの大胆さはどこからくるのでしょうか。それは、言うまでもなく主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じている信仰と、それを支えている聖霊なる神のみ力からです。使徒たちは「無学な普通の人」(13節)であり、彼らを迫害している人たちのように政治的・宗教的な力をも持ってはいません。あるいはまた、自分たちの何らかの利益やこの世からの称賛を期待しているのでもありません。ただ、ひたすらに主イエス・キリストの福音を信じ、主イエス・キリストによって捕らえられ、それによってこの世のすべての束縛から自由にされ、死の恐れからも解放されている信仰者に与えられている大胆さであると言えます。  ユダヤ最高議会はペトロとヨハネを裁くことはできませんでした。なぜならば、彼らは主イエス・キリストのみ名を恐れていたからです。主イエス・キリストの福音を恐れていたからです。彼らは16~17節でこのように言っています。【16~17節】。彼らはここで注意深く「主イエス・キリスト」というお名前を口に出さないように、「あの名によって」と言っています。彼らは主イエス・キリストのお名前を口に出すことを恐れています。主イエスのお名前に偉大な力があることを彼らもまた認めざるを得ません。ペトロが生まれつき足の不自由だった人に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、その人はすぐに躍り上がって立ち、歩き出したと3章6節に書かれていました。また、4章12節でペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と説教しています。主イエスの名とは、主イエスご自身のことであり、主イエスの救いのみわざ全体のことでもあります。十字架につけられ、三日目に復活された主イエスこそが、奇跡の力の源であり、すべての人の救いの源であり、またペトロとヨハネを大胆な伝道者としている力の源なのです。ユダヤ最高議会の議員たちもそのことを認めないわけにはいきません。けれども、彼らは主イエスを信じることを拒みました。それだけでなく、自分たちの地位と名誉が危険にさらされていることを感じ、主イエスのみ名がこれ以上人々の間に広がることを恐れ、それをとどめることに必死になっています。主イエス・キリストを信じる信仰が広まれば、ユダヤ教の指導者としての自分たちの立場が失われることを恐れているのです。  それに対して、ペトロとヨハネはこのように答えました。【19~20節】。ここでも、ユダヤ最高議会の議員たちとペトロとヨハネの二人の使徒たちとが対比されています。対比されているというだけでなく、対決していると言うべきでしょう。それは、神に従うのか、それとも人間に従うのかという対決です。議員たちは主イエスの偉大なみ名を恐れ、自分たちの立場がくつがえされることを恐れ、また主イエスの福音を信じ始めている民衆を恐れています。それに対して、ペトロとヨハネはこの世のいかなる権力をも恐れず、迫害をも恐れず、自らの死をも恐れていません。主イエス・キリストが罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。ペトロとヨハネはこの世に属する朽ち果てるしかない人間の言葉に従うのではなく、救われた信仰者を永遠の命へと導かれる神のみ言葉に聞き従う道を選び取りました。  ペトロは言います。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と。かつての預言者たちも同じように告白しました。アモス書3章8節にはこうあります。「獅子が吠える、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか」。また、エレミヤ書20章9節にはこう書かれています。「主の名を口にすまい、もうその名によっては語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃えあがります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。神のみ言葉は預言者たちの中で激しく燃え上がる火となり、彼らを突き動かし、彼らの全身を支配し、彼らを神のみ言葉を語る者に造り変えるのです。それと同じように、神のみ言葉はわたしたちの中で力となり、命となり、希望となり、勝利となります。

(執り成しの祈り) 〇天の神よ、あなたの命のみ言葉を信じ、それに生きる者としてください。主イエス・キリストのみ名を信じ、その救いの福音によって生きる者としてください。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と預言者は告白しました。わたしたちもあなたの永遠のみ言葉の上に堅く立たせてください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月20日説教「我らの罪をも赦したまえ」

聖書: エゼキエル書   18章30~32節

    ルカによる福音書 11章 1~ 4節

説教題: 「我らの罪をも赦したまえ」  

説教者: 長老 柴田 理

 先ほどお読み頂いた新約聖書は、ルカによる福音書に記された“主の祈り”です。 主の祈りは、新約聖書のマタイによる福音書6章と、ルカによる福音書11章に記されています。  このうちマタイによる福音書では、山上の説教の中で主イエスが集まった人々にお教えになったとされています。  また、ルカによる福音書では弟子達が、“ヨハネの弟子達のように、私たちにも祈りを教えてください”とお願いしたことに答えて、主イエスがお教えになったと記されています。  いずれにも共通で大切なのは、人がこの祈りを考え出したのではなく、真の神でありながら真の人でいらっしゃる、主イエスが直接“このように祈りなさい”と教えてくださったことです。  ところが、主の祈りは、最も大切な祈りとされている反面、様々な場面で便利に用いられているのではないかと感じられることもあります。多くの場面で捧げられている主の祈りが、果たしていつも畏れをもって捧げられているかと問われると、自分自身のことも含めて自信を持って“はい”と答えられないように思います。  いろいろな集会の締め括りに、“主の祈りをもって終わります”として会を終えていたことが思い出されます。それはそれで理にかなったことかも知れませんが、その時の主の祈りの位置づけや重さをそれぞれが認識していたでしょうか。祈り会などは別にして、“いつでもどこでも主の祈り”と言った便利な役割を主の祈りに求めたりはしてこなかったでしょうか。  それは、主の祈りは皆様が数え切れないほど祈ってきたものですから、思考回路を通さなくても言葉が口をついて出てくることも一因と思われます。祈りに意味を乗せることなく、いわば“音”だけの祈りとなることもあります。このため、不謹慎にも祈りながらも他のことを考えることもできるのです。 “天にまします……ああ、雨が降ってきた。傘を忘れて来ちゃったな”とか、“日用の糧を今日も……今日はパンがなかったな”などと、考えることもできるのです。  遠藤周作という、カトリック信徒の作家がいました。彼はある随筆の中で、“畏れると恐れるの違いを若い人は知っていない”と書いています……聞くだけではおわかりにならないと思います。 “畏れる”と“恐れる”……声に出して読むと同じ言葉であり、辞書で“恐れる”を引くと、“畏れるとも書く”と同じ意味に見なされることが多いのです。しかしそれはちがうと遠藤周作は言います。一方の恐れるは恐怖の“恐”と書くものです。それを遠藤周作は、“強大な威力を前にして、怯え、縮こまること”としています。もう一方の畏れるは、畏怖の“畏”、畏まると書く字です。こちらは“自分を遙かに超える存在を目の当たりにして震撼し、おののくこと”としています。後の方の“畏れる”の顕著な例は、エジプトを出てシナイ山で十戒を受けるために主の前に立ったモーセのような様子でしょうか。私たちが主の前に立つ時、この世の全てを遙かに超える神様を前にして、深い畏れを持っているでしょうか。また、畏れを持って祈っているでしょうか。  短い祈りであっても、いえ、短い祈りであるからこそ、ひとつひとつの言葉に込められた意味があります。  神様が言葉によって世界をお作りになったことを初めとして、キリスト教は言葉を大切にしてきた宗教です。祈りにおいても、記されたひとつひとつの言葉を大切にしたいと思います。  マタイによる福音書6章7節に、“祈る時は異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼等は言葉数が多ければ聞き入れられると思っている。”と記されています。短い言葉に凝縮された祈り、研ぎ澄まされた祈りを、しっかりと噛みしめながら畏れを持って捧げていきたいと思います。  さて、先にお話ししましたように、主の祈りはマタイによる福音書と、ルカによる福音書に記されていますが、主の祈りについては、ルカによる福音書に記されている短い方が元の形に近いとされています。  今日はルカによる福音書を基に、主の祈りについて御言葉を聞きたいと思います。とりわけ、罪を赦してくださいという祈りに聞いてまいります。  罪についての祈りの部分は、ルカによる福音書には次のように記されています。 “わたしたちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから” この部分は二つの要素で成り立っています。ひとつは“わたしたちの罪を赦してください”と願う部分。今ひとつは、“自分に負い目のある人を皆赦しますから”と言う部分です。 ■ 初めに前半の部分を見ましょう。 “わたしたちの罪を赦してください”  罪を赦してくださいと願い、祈る時、その“罪”とはなんでしょう? もし、“あなたが赦して欲しいと願う罪とはなんですか?”と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。  それについては、主の祈りの初めにヒントがあるように思います。“父よ”という呼びかけに続いて“御名が崇められますように”と記されています。 最も新しい日本聖書協会の新共同訳聖書では、“御名が聖とされますように”と訳されています。聖とすると言うことは、聖別する、別扱いすると言うことです。やさしく言うと、神様をそれ以外の作られたものとは全く別のものとすると言うこと、神を神とする、と言うことです。  私たちはどうして今、ここにいるのでしょうか? それは神が私たちを、今、この地にいるように創ってくださったからであり、全ては御心によるものです。世の存在のすべて、時間と空間の中で動いている全ては神の御支配の下にあります。その神を神としないことが罪であります。  主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、40日間、悪魔の試練にお遭いになりました。“パンを石に変えたら?”、“ここから飛び降りて神を試しては?”、“私にひれ伏したら?”。 ……全ては主イエスを神から引き離そうとするもの、主イエスが神様を離れて悪魔に仕える、神を神としないようにさせる企みでした。主イエスはその罪を斥けたのです。  神を神としない時、人はどのようになるのでしょうか。 ・ まず、自分自身を神のようにすることがあります。神などなくても生きられる、自分の力で未来を切り開いていると勘違いします。価値判断の基準は全て自分自身になってしまいます。 ・ また、神以外の物を神とし、それに囚われたり、ひれ伏したりすることがあります。財産、学問、思想、名声、人、等があります。もちろんそれぞれに価値があり、重要でありますが、それらは人によって作られた価値を超えるものではありません。 ・ また、主にあるきょうだいとしての隣人を愛さないことがあります。   肉親としてのきょうだいのみならず、隣人は自分自身と同じく神様に創られたきょうだいなのですが、そのことに目を注げなくなり、そのため隣人の傷に気が付かず、または素知らぬ振りをして通りすぎることがあります。   さらには教会から遠ざかってしまったりするのです。  このように私たちには、神を神とすることができない、神以外の物を、時には自分さえも神としてしまう罪があります。神を神としないことから多くの罪へとつながり、逆に多くの罪は神を神としないことと結びついているのです。  今日の箇所で“私たちの罪を赦してください”というところの“罪”という言葉は、マタイによる福音書では“負い目”とされています。“私たちの負い目を赦してください”。 負い目とは、金銭的な負債をも意味することがあります。  ある意味で、私たちは神様に対して大きな負債を負っており、それをきちんと返さないといけない責任があるのです。  マタイによる福音書18章に、“タラントンの譬え”があります。 主君の憐れみによって1万タラントンを帳消しにしてもらった家来が、100デナリオン貸した仲間の借金を帳消しにすることなく牢に投げ込むというものです。  1デナリオンは当時、一人の人が1日働いて得られる賃金でした。このため、100日分の賃金である100デナリオンは、現代風に、仮に時給800円で1日8時間働いたとして 64万円です。一方、1万タラントンは6千万デナリオンとなり、3,840億円になります。 普通に暮らす私たちには到底返せる金額ではありません。  もちろん罪の大きさを貨幣に換算することなどできませんが、私たちの神様に対する負い目は、どれだけ努力しても到底返せるものではないと言うことがイメージできるのではないでしょうか。どんなに努力しても、どれだけ良いことをしても、決して帳消しにされることはできない負い目。そして、神がどこまでも厳格な方であるとすれば、私たちを待っているものは滅びでしかないのです。  唯一解決できるとすれば、それは相手の一方的な好意、あるいは憐れみによってその負い目を帳消しにしてもらう、和解して頂くと言うことです。  そのような私たちの罪が赦されるために、赦して頂くためにできること、それは、ひたすら神の憐れみを請うことです。  自分の信仰を誇るファリサイ人から遠く離れて胸を打ちながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った徴税人(ルカ18:13)のように、ひたすら憐れみを請うことです。  赦して頂くとすればこの方にすがるしかない、この方以外に人を赦すことのできる方はいない、この方こそ私を赦してくださる唯一の方ということを信じて希うのです。  どうしてそのようなことを信じられるのでしょうか……それは、神が独り子イエス・キリストを十字架につけ、滅びるはずの人の命を買い取って下さった出来事です。  このように見ていくと、この部分は赦しを請う祈りの前に、信仰告白であると言うことができます。“あなただけが私の罪を赦してくださる方であると信じます”、“ですからあなたに請い願います。私を憐れみ、私の罪をお赦し下さい。”……“私の罪を赦してください”という一言に、信仰の告白と願いが込められているのです。  自ら十字架について死んでくださり、それによって私たちの罪を償ってくださった、本来であれば私たちが十字架に付くべきところを代わって付いてくださった、その主イエスが教えてくださったものがこの祈りです。 ■ 続いては後半部分、“我らに負い目あるものをすべて赦しますから”です。 前半と続けますと、“私たちの罪をお赦し下さい。 私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから”となっています。  自分に負い目のある人を皆赦しますから、私たちの罪をお赦し下さい。  ここは、私たちの罪を赦して頂くために、隣人を赦すことを条件としていると読むことができます。 私たちへの神様の赦しに比べたら、私たちの隣人への赦しは取るに足らないような小さなものです。まさに1万タラントンに対する100デナリよりもっと小さなものです。 私たちはその小さな赦しをもって、創り主への罪というとてつもなく大きな罪を赦してくださいと祈るのでしょうか。 再び振り返ってみます。 主の祈りは、人であり神の独り子である主イエスが“このように祈りなさい”と言って教えてくださった祈りです。 主イエスが、“私たちの罪をお赦し下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから”と祈りなさいと教えてくださったのです。 と言うことは、驚くべきことに私たちができるような小さな赦しであっても神様は“よし”としてくださり、認めてくださって、とてつもなく大きな負い目、罪を赦してくださるという事です。 マタイによる福音書25章には、終わりの日の裁きのことが譬えで記されています。王は、祝福された者達に言います。“お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいる時に訪ねてくれた”。 ……“私がいつそのようなことをしたでしょうか”と聞くと、王は“これらの最も小さい者達の一人に対してなしたのは、私に対してなしたのと同じことである。”と答えます。神は、小さい者のために行った小さなことさえ、祝福の基としてくださるのです。 もちろん私たちは、隣人の罪を赦すことによって私たちの罪が赦されることをあたりまえのこととして祈ることはできません。 しかし、「神様はこのような小さなことでも“よし”として下さる、そのように私たちの大きな罪をも赦して下さる」と言うことを信じ、告白することができるのです。 前半と合わせると、“あなたは、私たちが隣人の小さな罪を赦すことをも“よし”として下さいます。そしてあなただけが私の罪を赦したもう方です。そのことを信じ、讃美と感謝、悔いをもってお願いいたします。私たちの罪をもお赦し下さい。”と言うのが、主の祈りのこの部分の意味ではないでしょうか。 主イエスがお教え下さった、最も大切な掟がマルコによる福音書12章30節に記されています。 ・ あなたの全ての心から、あなたの全ての思いから、あなたの全ての命から、あなたの全ての力から、主なるあなたの神を愛しなさい。 ・ 第二はこれです。自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい。 ⇒ 神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つが今日聞いている、罪の赦しを願う祈りに凝縮されているのです。 今まで聞いて参りましたように、主の祈りの、その中の小さな1節だけでも、聖書の様々な箇所と結びつき、反響し合っています。聖書の御言葉の大きな集約が、この祈りにあります。 主の祈りが“小さな教会”と言われる所以がここにあります。  何度も申し上げましたように、主の祈りは私たち人間が作り上げた祈りではありません。 自ら十字架について私たちの罪を贖ってくださった主イエス、 そして今も神と我々罪ある人との間に執り成し手として立っていてくださる主イエスが、“こう祈りなさい”と教えて下さった祈りです。 その主が祈れと言われたとおりに祈ることは、必ず聞いていただけるのです。 “我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え” 喜びと感謝をもって信仰を告白し、また畏れつつ祈り続ける者でありたいと思います。

【祈り】  

 父なる神様、今日も私たちの思いを超えた、あなたの大きな恵みを聴くことができましたことを感謝いたします。  どうか私たちを、あなたに従い、あなたの御業に加わり、隣人のために働く者としてください。  今日、福島伝道所で御言葉を語る牧師を支え、その群れを祝してください。  この礼拝を覚えつつ、共に御前に立つことのできないきょうだいを省みてください。  小児洗礼を受け、まだ信仰告白を行っていないきょうだい、礼拝に出席しながら今は教会を遠ざかっているきょうだいをあなたの前に立たせてください。妨げがありましたらあなたが取り除いてくださいますように。教会員の子弟をあなたの前に集めてください。そのために働くきょうだいを支えてください。  戦争・災害・病・飢え・失業・差別などで苦しむきょうだいを助けてください。国々の指導者をあなたに従う者としてください。  この週の全てをあなたの御心の内に置いてください。  主の御名によって祈ります。アーメン   

6月13日説教「神のひとり子イエス・キリスト」

2021年6月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:詩編2編1~12節

    ヨハネによる福音書1章14~18節

説教題:「神のひとり子イエス・キリスト」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。わたしたちが属している日本キリスト教会にはどのような特徴があるのか、どのような信仰を告白し、どのように教会を形成し、宣教活動をしようとしているのかをご一緒に学んでいきたいと思います。きょうはその3回目、信仰告白の最初の文章「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真(まこと)の神であり真の人です」の「神のひとり子イエス・キリスト」の個所について学びます。

 信仰告白の冒頭にはその信仰告白の最も大きな特徴、一番強調したい内容が語られます。その一つが、「わたしたちが主とあがめる」という「主告白」であるということを前回学びました。わたしたちが信じ、あがめ、礼拝している救い主イエス・キリストは、教会と世界における唯一の主である。ほかに主はいない。国家であれ、天皇であれ、軍隊であれ、あるいは自分自身であれ、他のいかなるものであれ、それらは決して主ではない。主とはなり得ない、という「主告白」が、戦後新しい日本キリスト教会を建設した先輩たちの熱い思いだったということを確認しました。

 それに続いて「神のひとり子イエス・キリスト」という告白がなされています。ここにも、信仰告白の特徴が表されています。「神のひとり子イエス・キリスト」は信仰告白の後半の『使徒信条』の第二項、「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白と一致しています。つまり、『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で『使徒信条』の中心的な告白との共通性が強調されているということが分かります。日本キリスト教会は、初代教会、中世の教会、宗教改革の教会、近代の教会との連続性の中に建てられているということをここで確認できます。

 日本キリスト教会は、戦後日本基督教団から離脱して以来70年、旧日本基督教会時代から数えても150年足らず、世界の教会の歴史と規模からみれば幼く未熟で小さな教派に過ぎませんが、その信仰的伝統は2千年の世界の教会に連なっている教会であり、使徒的教会、公同の教会であるということをここで告白しているのです。秋田教会もその枝枝の一つです。きょうのわたしたちの礼拝も、2千年の教会の歴史に連なり、全世界の諸教会の礼拝に連なっているということを覚えたいと思います。さらに言うならば、きょうのわたしたちの礼拝は終わりの日のみ国が完成される日の神の国における盛大な祝宴へと連なっているということも覚えたいと思います。

 では次に、告白の内容ですが、「神のひとり子」とは、父なる神と子なる神イエス・キリストとの特別な関係を言い表しています。その意味は、第一には、主イエス・キリストは神からお生まれになった神であるということです。第二には、主イエス・キリストはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であるということです。

 第一の意味についてもう少し詳しく見ていきましょう。神からお生まれになった神のみ子であるということは、主イエスは父なる神と本質を同じくする神であるということ、人間から生まれた子が人間であるように、神からお生まれになった神のみ子イエス・キリストは神であられます。

 その関係はいつから始まったのでしょうか。永遠の昔からです。父なる神が永遠の昔からおられたように、み子もまた永遠の昔から父なる神と共におられました。ヨハネによる福音書1章1節以下では、神のみ子が「言(ことば)」(ギリシャ語ではロゴス)と言われています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1~2節)。永遠から永遠に父なる神と共におられた「言」である主イエス・キリストが、時が満ちて、人間となられてこの世にお生まれになったことを、14節では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。これが、クリスマスの出来事です。永遠の昔から父なる神と共におられた神のみ子が、肉となられ、人間のお姿でこの世においでになり、マリアの胎内から人間としてお生まれになりました。神のみ子は人間となられたのちにも、神のみ子であり、神であることには変わりはありません。そのことについては、次の「真(まこと)の神であり、真の人です」という告白で学ぶことになります。

 「ひとり子」という告白のもう一つの意味は、ひとり子であるから、ほかには神の子はいないということです。主イエス・キリストだけが神の子どもであり、ほかにはだれ一人神の子である者は存在しない、神と本質を同じくする者はいないということです。人間であれ、他の生き物であれ、他の何かであれ、それは神ではありません。他のすべてのものは、自らそう名のろうとも、他からそのように名づけられようとも、それは神以外のものであって、それらはすべて神によって創造された被造物であり、したがってわたしたちの信仰の対象ではなく、礼拝の対象でもありません。この告白もまた「主告白」と並んで重要な意味を持つ告白です。

 「ひとり子」のもう一つの意味をつけ加えるとすれば、神はご自身のひとり子によって、ご自身を最もよく、最もはっきりと、わたしたちにお示しになられたということです。ヨハネ福音書1章18節ではこのように語られています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。神はご自身のひとり子である主イエス・キリストによって、ご自身がどのような神であられるのかを最も完全に啓示されました。わたしたちは神のひとり子であられ、人となってこの世においでになられた主イエス・キリストによって、彼の地上でのご生涯と、お語りになったみ言葉、みわざによって、特にそのご受難と十字架の死と復活によって、神とはどのようなお方であるのか、神がわたしたち人間をどのように愛しておられるか、そしてわたしたち人間を罪から救うためにどのような救いのみわざをなされたのかを、最もはっきりと知らされ、信じることができるようにされているのです。

 神のひとり子なる主イエス・キリスト以外によっては、わたしたちは神を正しく知ることはできません。神がお造りになった被造世界によっても、幾分は神について知ることができます。しかし、それは不十分です。自然や宇宙、あるいは歴史や世界の出来事から、哲学とかその他の学問によっても、神について知りうることは不十分です。ただ、聖書に証しされている主イエス・キリスト、人となられた神、神のひとり子あられる主イエス・キリストからのみ、わたしたちは神についてはっきりと、そしてすべてを知ることができるのです。したがって、わたしたちは主イエス・キリスト以外のところには神を尋ね求める必要がないのであり、また尋ね求めるべきでもありません。主イエスはヨハネ福音書14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。神の一人り子なる主イエス・キリストによってこそ、この主によってのみ、わたしたちは神に至る道を進むことができ、神の真理と神の命に至る道を見いだすことができるのです。

 「神のひとり子」という告白にはもう一つの意味が込められています。わたしたち人間にとっても、ひとり子は親である者にとっては、大切で欠けがえのない、尊い宝であり、自分の命そのものにも等しいと言えます。神にとっても当然そうでしょう。神はそのひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたち罪びとである人間の救いのために、十字架におささげくださるほどにわたしたちを愛されたのです。神のひとり子という言葉は、そのような神の偉大な愛を表す言葉でもあるのです。ヨハネ福音書3章16節に次のようなよく知られたみ言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。神はご自身の最愛のみ子を、ご自身の命そのものであるひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたちを罪から救うために、十字架の死に引き渡されました。わたしたちはこれほどに大きな神の愛によって愛されているのです。これほどの大きな愛によって、罪から救われているのです。わたしたちが「神のひとり子イエス・キリスト」と告白する時、このような救い主をわたしの主と信じ告白するのであり、この信仰によって救いにあずかるのです。

 主イエス・キリストだけが神のみ子ですが、聖書では信仰者が神の子、神の子たちと呼ばれている箇所がいくつかあります。ローマの信徒への手紙8章15節、エフェソの信徒への手紙1章5節などです。そこでは、わたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、神の愛と豊かな恵みによって罪ゆるされ、神の子とされていると言われています。わたしたち人間は神から生まれたのではなく、神によって造られた被造物です。しかも、父なる神の家を離れ、神を知らず、時に神に反逆し、罪と死と滅びの中をさまよっていた罪びとでした。そのようなわたしたちを、神はひとり子なる主イエス・キリストによって与えられた大きな愛と恵みとによって、見いだしてくださり、神の家に招き入れてくださり、神の子としてくださったのです。信仰によって父なる神との、いわば養子の関係に入れられたということです。

 したがって、わたしたちはもはや罪の子たちではありません。滅びの子たちではありません。神から与えられた新しい命によって生かされている神の子たちです。罪の奴隷から解放され主イエス・キリストの僕(しもべ)として、喜んでわたしの新しい主にお仕えしていく、神の子たちです。わたしたちはもはや闇の子たちではありません。主イエス・キリストによって真の光に照らされ、光の中を歩む者とされている神の子たちです。主イエス・キリストによって神の家に招き入れられ、神の国の民とされている神の子たちです。

 最後に、イエス・キリストについてですが、イエス・キリストとは、苗字と名前ではありません。これ自体が「イエスはキリストである」という、信仰告白なのです。おとめマリアの胎からお生まれになり、ナザレの町に住まわれたイエス、最後に十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスこそが、キリストである、メシア・救い主であるという最も原初的で根本的な信仰告白なのです。

 イエス、これはユダヤ人には一般的な名前です。旧約聖書のヘブル語ではヨシュア、ヨシア、「神は救い」と言う意味です。ルカによる福音書1章およびマタイによる福音書1章によれば、主イエスの誕生の時に、神ご自身が命名されました。神の強い意志、永遠の救いのご計画が表されていました。神は実際に、このイエスによってご自身の救いのご計画を実現されたのです。

キリスト、これはヘブル語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルにおいては、預言者・祭司・王がその務めに任じられるときには、頭からオリブ油を注がれました。それは、神からの恵みと祝福が注がれるしるしであり、神の選びによって、神からの務めを託されたしるしです。主イエスは、真の預言者、真の祭司、真の王として、旧約聖書で待ち望まれていたメシア・救い主であるという意味で、キリストと呼ばれます。

この主イエス・キリストによって、わたしたちの救いが成就され、わたしたちは神の子たちとされ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、父の家を失い、父から遠く離れて暗黒と死の中をさまよっていたわたしたちを、あなたはみ子主イエス・キリストによって見いだしてくださり、あなたの子どもたちとしてくださった幸いを、心から感謝いたします。わたしたちが再び魂の父であられるあなたを離れて、失われることがありませんように、あなたの生けるみ言葉によってわたしたちをつなぎとめてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月6日説教「貧しい人々は、幸いである」

2021年6月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編126編1~6節

    ルカによる福音書6章20~26節

説教題:「貧しい人々は、幸いである」

 ルカによる福音書7章20~49節が主イエスの「平地の説教」と呼ばれるのに対して、マタイ福音書5章1節~7章までは「山上の説教」と呼ばれます。ルカ福音書7章17節に、「イエスは山から下りて、平らなところにお立ちになった」とあるのに対して、マタイ福音書5章1節に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と書かれていることから、主イエスの説教の場所が両福音書では違っています。どちらが本当なのかと問う必要はありません。主イエスは山の上でも、平地でも、たびたび弟子たちや群衆に説教されたと思われるからです。それをルカ福音書は平地での説教としてまとめ、マタイ福音書では山上での説教としてまとめたと考えられるからです。

 ここには、二つの福音書の神学の違いが反映されていると思われます。マタイ福音書では、山の上から説教される主イエスの神のみ子としての権威が強調されています。主イエスは偉大な宗教家とか哲学者、あるいは知恵ある学者として説教されたのではありませんでした。人間となられた神が、天の権威をもって、この世の倫理とか秩序をはるかに超えた、神のみ言葉を説教されたのです。それゆえに、わたしたちは主イエスの説教を人間の言葉としてではなく、神のみ言葉として聞き、これに全精神を傾け、わたしの命を懸けて従っていくようにと招かれているということをマタイ福音書は強調しているのです。

 ルカ福音書が強調しているのは、主イエスは神のみ子でありながら、ご自身を低くされて、人間のお姿で、わたしたち罪びとの中に入ってきてくださり、わたしたちのために仕えてくださった、そのようなわたしたち人間と連帯される救い主として説教されたということです。しかしながら、主イエスがわたしたち罪びとのただ中に入って来られ、いわばわたしたちと同じ地平に立たれたということは、それによって主イエスの説教が神の権威を失い、この世的なものになったということでは全くありません。むしろ、主イエスの説教はわたしたちに直接に語りかけられることによって、その鋭さ、その厳しさがより増してくるのです。主イエスの説教はまさにわたしたちの現実に対して直接に鋭い挑戦状となって迫ってくるのです。これがルカ福音書の平地の説教の大きな特徴なのです。

 マタイ福音書では、「幸いである」という言葉が9回語られています。それに対して、ルカ福音書では4つの「幸いである」と、24節からの後半ではそれどれに対応して4つの「不幸である」が語られます。また、マタイでは「これこれの人は幸いである。その人たちは何々だから」と三人称で語られているのに対して、ルカでは「あなたがたは何々だから」と二人称で語られています。ここに、今挙げたルカ福音書の特徴が現れていると考えられます。主イエスは直接にわたしに対して「あなたは幸いだ」、「あなたは不幸だ」と語りかけ、しかも「幸い」と「不幸」の違いを際立たせているのです。今主イエスの説教を聞いているあなたがた、すなわち弟子たちや群衆に対して、それだけでなく聖書のみ言葉を聞くすべての時代のすべての人たち、きょうのわたしたちに対しても、直接に迫ってくる語りかけなのです。それは、わたしたちの現実に対する鋭く、厳しい挑戦だと言ってよいでしょう。

 では、その最初の鋭く、厳しい挑戦を読んでみましょう。「貧しい人々は、幸いである」(20節)。それに対して、「しかし、富んでいるあなた方は、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている」(24節a)。ここで主イエスが言われる「幸い」と「不幸」は、その内容を正反対にすべきだと多くの人は、いやすべての人は考えるでしょう。貧しいよりは富んでいる方がより幸いだとだれもが考えるのではないでしょうか。一般的に言ってそうだというのではなく、これがわたし自身に対して語られているのだとしたら、なおさらのこと、わたしにとっては貧しいよりはやはり富むことの方が幸いだと、だれもが考えるのではないでしょうか。いつの時代の人たちも、貧しさから抜け出すために一生懸命に働いてきた、幸いを求めて努力してきた、特にわたしはだれよりも頑張ってきたと言うのではないでしょうか。

 しかし、主イエスの説教は、そのようなわたしたちに対して、「いやそうではない、あなたの考えやあなたの生き方は正しくはない。そこには幸いはない」と言われるのです。これは、わたしの現実に対する主イエスの鋭く厳しい挑戦状です。

富を求めることに幸いを見いだそうとしてきたわたしの考えや生き方だけがここで問われているのではありません。さらに続けて読んでいきましょう。「今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる」(21節a)。これに対して、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」(25節a)。三つ目は、「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(21節b)。これに対して、「今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(25節b)。そして4つ目には、【22~23節】。これに対して、【26節】。

 主イエスは4つの「幸いである」に対して4つの「不幸である」を対比しておられます。それらのいずれもが、わたしたちの常識的な価値判断とは正反対な内容が並べられています。飢えているよりは満腹している方がよいと多くの人は考えます。泣いているよりは笑っている方がよいし、人々に憎まれるよりはすべての人にほめられる方がよいと、だれもが考えます。主イエスの説教はそのようなわたしたちの常識や価値判断に対する鋭く厳しい挑戦です。挑戦と言うだけでは不十分かもしれません。わたしたちの常識や価値判断の否定だと言うべきでしょう。

 なぜ、そうなのでしょうか。なぜ、主イエスはそう言われるのでしょうか。4つの例に共通していることがあるのに気づきます。幸いだと言われているのは、何かに不足している状態、満たされていない未完の状態、それゆえに何かを求めて手を差し伸べている人であるのに対して、不幸だと言われているのは、すでにそれを手に入れている、満たされている、それゆえにもはやこれ以上求める必要がなく、現状に満足している人のことであると言えるのではないでしょうか。

そこからさらに言えることは、主イエスは前者に対して約束を与えておられるということです。20節では、「神の国はあなたがたのものである」。21節では、「あなたがたは満たされる」。「あなたがたは笑うようになる」。そして23節では、「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」。これら4つの文章には、日本語訳では省略されていますが、「なぜならば」というはっきりとした理由づけの言葉がついています。

 それらのことを考慮してきょうの個所を言い換えるならば、このようになるでしょう。「貧しい人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに神の国を約束してくださるから。今飢えている人々は、幸いである。なぜならば、あなたがたは神によって満たされるから。今泣いている人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに笑いをくださるから。人々に憎まれとき、また、人の子(これは主イエス・キリストご自身のことですが)のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。なぜならば、その日には、天におられる神があなたがたに大きな報いをお与えくださるから。だから喜び踊りなさい」。主イエスはこのように言われるのです。

 ここから教えられることは、幸いだと言われている人とは、いつも神に対して開かれている人のことであるということです。自らは貧しい者、餓え乾いている者、悲しむ者であることを知っている、また、主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、この世にあっては憎しみや迫害を受けなければならず、それゆえにただひたすら主なる神の助けと救いとを願い求めなければならず、必死に神にしがみつき、神からすべてを与えられることを信じるほかにない人、神の憐れみによらなければ生きていけないことを知っている人、そのような人こそが幸いだと言われているのです。

反対に、富んでいる人は、その富に頼り、富の中に安住して、もはや神を求める必要性も覚えず、次第に富に心を奪われて神から遠ざかってしまう。それゆえに、神からは何も与えられず、受け取ることができないゆえに、あなたは不幸だと言われているのです。今満腹している人は、神から何も期待しなくなり、神なしで生きていこうとするゆえに、やがて飢えるようになった時に、神から見捨てられるゆえに、あなたは不幸だと言われています。今笑っている人は、今の生活を楽しみ、それに満足しているゆえに、真剣に神のみ心を尋ね求めようとせず、自分の思いのままに生きることができると考えているゆえに、やがて悲しみが襲ってくるときに、たちまちに倒れてしまうほかないから、あなたは不幸だと言われています。世の人からの誉れだけを求めている人は、神の真理や神の栄光のために心を砕いて生きることをしないゆえに、神からの報いを何も与えられず、だからあなたは不幸だと言われています。このような人たちは、たとえ自分自身がどれだけ豊かであり、今幸福感に充たされていようとも、神に対して心が開かれていない、神から何かを期待しようとしない、神のみ心と神の真理に少しも心を向けないので、神から与えられる幸いを受け取ることができないのです。

ここで改めて「幸いである」という主イエスの呼びかけを注目してみましょう。この言葉は文章の冒頭に置かれていて強調されています。その点を考慮して翻訳すれば、「何と幸いなことでしょう」と訳すのがよいと思われます。詩編1編1節や2編12節などでは、「いかに幸いなことか」と訳されています。

では、主イエスが「幸いである」を強調しているのはなぜでしょうか。それは、この幸いは人がこの地上で、日常生活の中で感じたり手に入れたりできる幸いとは比べものにはならないほどに、それらのどれよりもはるかに勝った、大きな幸いであるということなのです。

よりはっきりと言うならば、この幸いは、天から、神から与えられる幸いだということです。主イエスが言われる約束の言葉がそのことを証明しています。「神の国はあなたがたのものである」。神が唯一の王として支配しておられる神の国、そこでは罪と死とサタンの支配は終わりを告げられ、神の救いの恵みだけが支配している、そのような神の国が貧しいあなたがたに約束されているのです。また、神が飢えている人をなくてならない命のパンで満たしてくださり、神が泣いている人の悲しみと憂いを喜びと希望に変えてくださり、また神が迫害を受けている人の傍らに立っていてくださり、最後の勝利を約束していてくださる、そのようにしてあなたがたに天からの永遠の命を約束していてくださるのだから、あなたがたは幸いであると主イエスは言われるのです。この幸いは主イエスご自身が信じるわたしたちのために獲得してくださり、お与えくださる幸いなのだということが分かります。「あなたは幸いだ」と呼びかけてくださる主イエスご自身が、わたしのためにその幸いを創り出してくださり、その幸いの中へとわたしを招き入れてくださるのです。

主イエスはこの幸いへとわたしたち一人一人を招き入れるために、十字架の道を歩まれました。そして、十字架の死と三日目の復活によって、わたしたちにこの天にある幸いをお与えくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちを常にあなたと共にある永遠の幸いへと招きいれてください。わたしたちがあなたを離れて、この世の過ぎ去りゆくものに心を奪われることなく、固くあなたのみ言葉に結びつけてください。

〇大きな試練と苦悩の中にある日本の国と全世界のすべての人々を憐れみ、顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月30日説教「神の契約と割礼のしるし」

2021年5月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:創世記17章1~19節

    ローマの信徒への手紙4章9~12節

説教題:「神の契約と割礼のしるし」

 創世記17章で、アブラハムは神の二つの約束を聞きます。一つは、【1~6節】。もう一つは、【7~8節】。アブラハムがこの二つの神の約束を聞くのは、実にこれが4度目なのです。最初は12章1~3節と7節、彼が70歳になった時、神の召命を受けて故郷をいで、約束の地カナンに着いた時でした。二度目は13章14~17節、一緒に旅立った甥のロトと別れた後でした。三度目は15章4~7節、ここでアブラハムは古い契約の儀式に従って神と正式な契約締結をしました。そして、きょうの17章が4度めということになります。なぜ神は同じ約束をこのように繰り返してお語りになるのでしょうか。

 その理由の一つは、わたしたちがこれまでアブラハムの生涯について読んできたことから知らされるように、彼がしばしば神との約束を忘れ、時には約束の地カナンを離れてエジプトにパンを求めたり、時には自分たち夫婦に子どもが与えられないことにしびれを切らして、自分たちで勝手に家族計画を立てたりして、神の約束を投げ捨てるというようなことを繰り返してきたからです。アブラハムの罪と弱さ、疑いと背きが繰り返されてきたから、神は何度も同じ約束を語らなければならなかったのでした。しかしまたそこには、アブラハムの繰り返しての罪と背きにもかかわらず、神の忍耐とゆるし、神の約束のみ言葉の確かさがあったということをも、わたしたちは聞いてきました。アブラハムの繰り返しの罪と背きにもかかわらず、神の約束は廃棄されることはありません。神は忍耐とゆるしとをもって、アブラハムを導かれました。

 もう一つの理由は1節から推測できます。「アブラムが九十九歳になった時」と書かれています。彼が12章で最初に神の約束を聞いたのが75歳の時、それから24年の歳月が過ぎました。すぐ前の16章3節にはカナン地方に住んで10年後と書かれていますので、あの彼らの家族計画の失敗から14年が過ぎていたことになります。この間、相変わらず神の約束は二つともに果たされてはいません。アブラハムとサラ夫妻には子どもは与えられず、約束の地カナンではその地の一角をも所有しておらず、旅人、寄留者のままです。しかも、アブラハムもサラも年老いています。彼は17節でこう言っています。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。人間の側の可能性が全く消え去ってしまったあとにこそ、神の約束のみ言葉が語られ、それが成就するのだということをわたしたちはここで知らされるのです。そのことのために、神は今一度、4度目に同じ約束をアブラハムに語られるのです。

 1節で神は「わたしは全能の神である」と言われるのはその意味からです。神を「全能の神」と表現するのは創世記ではこれが最初です。このあと、創世記や出エジプト記などでたびたび用いられます。イスラエルの古い時代の神の呼び名であったと推測されています。全能の神というイスラエルの古い伝統的な神の呼び名が、そのままわたしたちキリスト者の信仰に受け継がれています。神の全能のみ力がアブラハムとサラの人間的な可能性が全く消え去ってしまったときにこそ、最もよく現わされるということは、わたしたちの信仰でもあります。それゆえに、わたしたちは弱った時にこそ神のみ力に頼り、絶望しかないときにもなおも希望をもって前進することがゆるされているのです。

 「わたしは全能の神」という神の自己宣言に続いて、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」というアブラハムへの命令が語られます。「全き者」とは人格的・道徳的な意味ではなく、神との関係において完全であるということです。神と自分との間に何か第三者の中間的な存在を置かない、あるいは主イエスが教えられたように、神とこの世の富の両方に仕えることをしない、ただ神にのみ従って生きるということです。99歳になったアブラハムの残りの人生はこの神の命令によって規定されています。彼の残りの人生は神によって、いわば差し押さえられているのです。アブラハム自身は、もう残りの人生には何の希望もない、神の約束を担っていく可能性もないと考えていたのかもしれません。けれども、神にとっては彼はもう御用済みの人間なのではありません。神はなおも彼をお用いになります。のちの世のすべて信じる者たちの信仰の父となるべく、アブラハムはなおも神の約束を担い、それを信じ続けていくために、今99歳になって再び、いや四度(よたび)、神に呼び出され、神の命令を聞かされているのです。

 4度目の契約更新となるこの章には、「契約を立てる」「契約」という言葉が何度も用いられています。一般にアブラハム契約と呼ばれる神とアブラハムとの契約について、その特徴などをここから学んでいきましょう。第一の特徴は、この契約のイニシャチブ・主導権はすべて神の側にあるということです。2節では、「わたし(神)はわたしの契約を立てる」、4節でも、「わたしがあなたと結ぶわたしの契約」と神は言われます。この契約を結ばれるのは神です。また、この契約を実行し、実現するのも神です。アブラハムとサラにはまだ子どもがおらず、二人ともすでに年老い、人間的には子どもが生まれる可能性はほとんどなくなっているのですが、にもかかわらず神が、この契約をお立てになった神が、アブラハムの子孫を増やし、彼を多くの国民の父とされると言われます。アブラハムはこの契約のために神によって選び出されました。神の契約にはこのような神の側の恵みの選びがあり、また神ご自身がその契約を実行されるという確かな約束があるのです。アブラハムはその神の契約のみ言葉を聞き、それを信じる以外にありません。また、それで十分なのです。

 カナンの地を受け継がせるという契約についても、7節では「わたしはあなたと子孫との間に契約を立てる」と神は言われます。アブラハムはカナンの地に来て24年、しかし未だその地の一角をも所有しておらず、旅人・寄留者のままですが、神はアブラハムをご自身が定められた国の民として、すべての必要な物を備えて彼を導かれます。アブラハムは地上では旅人・寄留者のままですが、すでに神の嗣業を受け継いでいるのです。わたしたちキリスト者が今すでに来るべき神の国の世継ぎとされ、神の国の民として生きる者とされているように。

 第二の特徴は、7節に「永遠の契約とする」、13節、19節でも「永遠の契約」といわれているように、契約の永遠性です。この契約の永遠性は、子孫を増やすという約束にも、カナンの地を受け継がせるという約束にも共通する特徴です。それはまた、神のすべての契約にも共通しています。「ノアの契約」にも、「アブラハム契約」、「ダビデ契約」にも、そして主イエス・キリストによって教会の民に与えられた「新しい契約」にも、この永遠性はみな共通しています。

 神はある時代のある特定の人物や特定の民を選んで契約を結ばれます。でも、その人物の生涯が終わり、その民の歴史が終われば、その契約は無効になってしまうということはありません。あるいは、その人物やその民が神の契約に違反したり、その契約を忘れてしまえば、それで契約が無効になってしまうということでもありません。たとえ、人間の側がそうなったとしても、神は決してご自身の契約をお忘れになったり、廃棄されたりすることはありません。神は人間たちのすべての不従順や、不信仰を超えて、あるいはまた、人間の死をも超えて、ご自身の契約を最後まで守られ、それを成就してくださいます。それゆえに、わたしたちは神の永遠の契約を覚えて、いつでも神に立ち返ることができます。死をも恐れることなく。

 神とアブラハムとの契約のもう一つの特徴は、その契約にはしるしが伴っているということです。【9~11節】。アブラハム契約には割礼というしるしが伴っています。このしるしには二つの役割があります。一つは、神とアブラハムの契約がアブラハムとのちの子孫とにとって永遠で確かな目に見えるしるしとなるということです。のちの子孫は割礼を受けることによって、神の契約が確かに自分たちの契約であるということを確認するしるしとなるのです。二つには、この割礼のしるしはアブラハムとのちの子孫とが神の契約に対して忠実であることのしるしとなるということです。割礼のしるしはアブラハムとのちの子孫とが神の契約を忠実に守り、その契約を喜びとし、神に応答し、服従し、信仰の歩みを続けていく目に見えるしるしとなるのです。

 割礼については11節以下に説明されているように、アブラハムの子孫として生まれた男子と、イスラエルの民の中に加えられた男子が、子どもの場合は生まれて8日目に、男性の性器の皮の一部を切り取るという儀式です。古代社会ではエジプト人やアラビア人の間で広く行われていました。古代社会では男子の成人式の儀式として行われていたのではないかと推測されていますが、アブラハムとその子孫にとっては全く違った意味を持っていました。生後8日目に行われると定められていますので、人間の成長段階とは関係なく、神との関係の中で、神が一方的に選び、神との契約の相手とされたという、人間のわざや意志や決断に先行する神の恵みの選びを表すしるしなのです。今日の教会は、小児洗礼の意義もまたそこにあると考えています。神の選びと神の恵みの契約は人間のあらゆるわざに先立っている、またそれを超えています。そのことは、大人になってから神の選びを受け、神の契約の民の中に加えられた人にとっても同様です。

 終わりに、もう一つここで特徴的なことについて触れておきます。それは、この4度目の契約更新の時にアブラハムとサラの名前が変えられたことです。【5節】。「アブラム」という前の名前の意味は、「わたしの父は高い、あるいは偉大である」という意味だろうと考えられています。「アブラハム」はそこで説明されているように「多くの民の父」という意味に理解されています。また、妻サラについては、【15~16節】。サライもサラもその正確な意味の違いは分かっていません。両方とも「女性の王、女性の君主」という意味だろうと考えられています。アブラハムの場合にもサラの場合にも、その名前の意味の違いがはっきりとは分かっていませんが、重要なことは二人ともここで神から新しい名前が与えられたということです。

 一般に古代社会に共通していることですが、特に聖書の民にとっては、名前はその人自身と、その人格、またその運命、生き方と深く結びついています。神から新しい名前が与えられるということは、神から新しい務め、使命が託されるということを意味します。100歳近くなったアブラハムと90歳近くなった妻サラとに今改めて神の使命が授けられ、彼らは共に神の契約を担って、その契約の成就に向かって進んでいくのです。わたしたちもまた、老いた者も若い者も共に、神の約束の民として、神の国の完成の時に向かって前進していくのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ子イエス・キリストによってわたしたちと新しい契約を結んでくださり、わたしたちがあなたの福音を聞いて、罪ゆるされ救われた民として、み国の到来の時までみ手によって導かれておりますことを感謝いたします。わたしたちは時として迷い、疑い、また不安や恐れによって心を悩ます者ですが、どうかあなたのみ言葉によって、わたしたちを強くとらえてください。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月23日説教「主イエスによる聖霊派遣の約束」

2021年5月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(聖霊降臨日)

聖 書:イザヤ書32章15~20節

    ヨハネによる福音書16章1~15節

説教題:「主イエスによる聖霊派遣の約束」

 教会の暦では、きょうはペンテコステ・聖霊降臨日です。ペンテコステとはギリシャ語で50日目という意味で、ユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目に祝う祭りです。旧約聖書のレビ記23章や申命記16章などによれば、「七週の祭り」とか「初穂の祭り」とも言われる収穫祭でした。主なる神によって約束の地に導きいれられたイスラエルの民が、その地での小麦の初穂や家畜の初子(ういご)を神にささげ、感謝する祭りです。使徒言行録2章に書かれているように、このペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、その聖霊なる神のお働きによって、世界最初の教会が誕生しました。ペンテコステは教会の民にとっては聖霊が注がれた日であり、また教会が誕生した日です。

 旧約聖書時代の二つの祭りが新約聖書時代になって新しい意味と内容を持つようになりました。主イエスが十字架につけられ、三日目に復活したのが過ぎ越しの祭りの時でした。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民がエジプトの奴隷の家から主なる神によって解放された救いの恵みを祝い、感謝する祭りでした。主イエスの十字架と復活は、すべての人の罪を贖い、罪の支配から解放する神の救いの恵みの完成です。次に、ペンテコステは救われた民が約束の地で与えられた収穫の恵みを神にささげ、感謝する祭りでした。主イエスの弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに教会が誕生したことによって、主イエスの福音によって救われた信仰者たちが自分たちの救われた体と魂とを神にささげる新しい礼拝の時が始まったのです。神の救のみわざは過ぎ越しの祭りからペンテコステの収穫祭へ、主イエスの十字架と復活からペンテコステの教会の誕生へと前進していったのです。

 きょうの礼拝で朗読されたヨハネによる福音書16章1節以下は、主イエスが十字架につけられる直前に弟子たちに語られた、いわゆる「決別の説教」の個所です。決別の説教は14章から始まり、17章の「大祭司の祈り」まで続きます。主イエスはこの決別の説教の中で、ご自身が十字架と復活ののちに天に昇られてから、弟子たちに聖霊を派遣されることを繰り返して約束しておられます。その主な個所を読んでみましょう。

 【14章15~19節】(197ページ)。【14章25~29節】。【15章26~27節】(199ページ)。そして、【16章7~13節】。

では、これらの個所で主イエスが約束しておられる聖霊の派遣について、それが今日の教会とわたしたちにとってどのような意味があるのかを、いくつかにまとめてみていきましょう。

 第一に考えておくべきことは、聖霊とは聖霊なる神のことであり、キリスト教教理の最も重要な「三位一体論」で扱われる神の三つの位格の中の一つであるということです。神は、旧約聖書の神、イスラエルの神も新約聖書の神、すなわち主イエスの父なる神も同じですが、その本質と実体においては永遠にお一人の神であるというのがキリスト教信仰の基本です。本質・実体においては一つですが、神には三つの位格がある。すなわち、父なる神としての位格、子なる神・イエス・キリストとしての位格、そして聖霊なる神としての位格がある。この三つの位格は分かちがたく、分離されることなく、また混同されることもなく、永遠に一つの実体を形成している。これが「三位一体論」です。位格とは、ラテン語でペルソナ、英語ではパーソンですから、神には三つの人格、あるいは神格、あるいは顔、働きがあると理解してよいでしょう。神はその三つの神格、お働きによって、わたしたちの救いのみわざを完璧になしてくださいます。父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、いわばご自身の全人格をお用いになって、ご自身の全存在をかけて、わたしたちの救いを完成させてくださる。それが「三位一体論」の中心的な意味です。したがって、この三位一体論が崩れれば、わたしたちの救いは不完全になってしまいます。

 この三位一体論から理解すれば、聖霊なる神は永遠の昔から神の本質の一つであったのであり、もちろん旧約聖書の中にも聖霊なる神のお働きについて数多く書かれています。イザヤ書32章15節以下には、神の霊が注がれて荒れ野が園に、園が森になると書かれていますが、実はこの聖句は1872年(明治5年)3月10日に日本で最初のプロテスタントとして建てられた日本基督公会(横浜海岸教会)の建設式で選ばれたみ言葉です。今日、横浜海岸教会の庭に野の聖句が刻まれた石碑を見ることができます。新約聖書での聖霊なる神のお働きは、その神の救いのみわざの完成であると言ってよいでしょう。主イエスがヨハネ福音書で約束しておられる聖霊の派遣は、神が主イエスによって成就された全人類の救いのみわざを最終的に完成されるためであったのです。

 では次に、主イエスが約束しておられる聖霊のお働きについて、その主なものを取り上げていきましょう。16章7節で聖霊が「弁護者」と言われています。14章でも15章でもそうです。弁護者とは、元のギリシャ語の意味を直訳すれば、「そばに呼びだされた人」という意味です。口語訳では「助け主」と訳されていました。弱い立場にある人や困っている人を弁護したり助けたりするために、その人の傍らにいる人のことです。宗教改革者ルターは聖書を母国語であるドイツ語に最初に翻訳した人ですが、彼はこれを「慰め主(ぬし)」と訳したことが知られています。

 聖霊はどのようにして弁護者、助け主、慰め主としての役割を果たすのでしょうか。14章16節では、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と主イエスは言われました。「別の弁護者」と言われているのは、主イエスご自身が第一の弁護者であるということです。主イエスが地上におられる間は、主イエスはいつも弟子たちと共におられ、彼らを罪の誘惑から退けられ、不信仰な敵対者たちの攻撃から守られ、彼らに必要なすべての物を備えられました。主イエスこそが弟子たちにとっての第一の弁護者、助け主、慰め主であられました。けれども、主イエスは間もなく地上でのお働きを終えて天にお帰りになられます。そうすれば、弟子たちだけがこの世に取り残されることになります。しかし、主イエスは14章18節で、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」と言われました。つまり、天に昇られた主イエスが天の父なる神のもとからお遣わしになる聖霊が別の助け主、いわば第二の主イエスとして弟子たちと共にいてくださるという約束なのです。

 この別の弁護者、いわば第二の主イエスである聖霊は永遠に弟子たちと共にいてくださると約束されています。地上におられた時の主イエスは、パレスチナ地方の限られた地域で、限られた弟子たちと共におられ、彼らの弁護者、助け主、慰め主であられました。しかし、天に昇られた主イエスがお遣わしになる聖霊は、全世界のすべての人と、いつまでも永遠に共にいてくださるのです。そこで主イエスは、16章7節でこのように言われました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところには来ないからである」と。それゆえに、主イエスの十字架の死と三日目の復活、そして40日目の昇天は弟子たちにとって、教会の民にとって、大きな喜びになるのだと主イエスは言われるのです。聖霊なる神のお働きによって、救いが完成へと導かれるからです。聖霊が信じる人たちと永遠に共にいてくださるという約束は、聖霊なる神がわたしたちの信仰を終わりの日まで支え、導いてくださる、神の国が完成される終末の時まで永遠にわたしたちと共にいてくださり、決してわたしたちをお見捨てにはならず、わたしたちの信仰を完成させてくださるという固い約束なのです。

 聖霊は天におられる父なる神と天に昇られた主イエスの両方から派遣されるというのがわたしたちの教会の理解です。14章16節では、父なる神が弁護者なる聖霊を遣わすと言われており、15章26節では、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき」と言われています。聖霊が父なる神からだけ出るのか、それともみ子からも出るのかということが中世の教会で論議され、西方教会と東方教会が分離するきっかけとなりました。興味深い論争ですが、きょうはこれ以上触れることはしません。

 聖霊なる神のお働きについて、更にみていきましょう。聖霊は14章17節では「真理の霊」と言われ、15章26節では「真理の霊はわたしについてあかしをなさる」と言われ、また16章13節では「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われています。聖霊は神の真理であられる主イエスを証しし、わたしたちに主イエスの福音を悟らせ、主イエスが開かれた真理への道へとわたしたちを導きます。主イエスは14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われ、また8章32節では、「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。聖霊はわたしたちに真理であられる主イエスを悟らせ、主イエスの十字架の福音を信じさせ、その信仰によってわたしたちを罪の奴隷から自由にし、すべての束縛から解き放ち、心から喜んで神にお仕えする人とします。

 聖霊なる神のもう一つのお働きは、不信仰な罪のこの世を裁くということと、信じる人を聖化する(聖なる存在へと変えていく)ということです。【14章17節】。また、【16章8~11節】。聖霊はわたしたちを主イエスの福音を悟らせ、信じさせ、主イエスのみ名を告白させます。聖霊はわたしたち信仰者を父なる神とみ子主イエス・キリストに固く結びつけます。しかしまた同時に、聖霊は信じない人たちの不信仰と罪を明らかにし、裁きます。聖霊は両者をはっきりと区別します。信じる人々には神の国での永遠の命の約束を固くし、信じない人々には滅びの道が備えられます。

 それは、わたしたち信仰者にとっては聖化への道です。聖化とは、わたしがいよいよ罪のこの世から離れ、おのれの罪を憎み、神の義を愛し、神の救いを願い求め、悔い改めの思いを強くし、いよいよ神と主キリストへと近づいていく、これがわたしたちの聖化への道です。聖霊はわたしたちをこの道へと導いてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちのためになしてくださった救いを、聖霊によって固く信じさせてください。わたしたちの教会と全世界の教会に聖霊を注ぎ、福音宣教の働きを強めてください。

〇多くの不安や恐れの中で希望を失っている人たちを顧みてください。病や貧困や紛争によって命をおびやかされている人たちを顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月16日説教「主イエスの復活を宣べ伝える」

2021年5月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エゼキエル書37章1~10節

使徒言行録4章1~10節

説教題:「主イエスの復活を宣べ伝える」

 使徒言行録4章1節以下には、エルサレムに誕生した初代教会が経験した最初の迫害について書かれています。エルサレム教会のペトロとヨハネが主イエスの復活について説教したためにユダヤ人指導者によって逮捕され、投獄され、ユダヤ最高議会での裁判を受けたということが書かれています。わたしたちがすでに学んだように、3章1節からはエルサレム初代教会の最初の伝道活動が書かれていました。それにすぐ続いて、4章では最初の迫害の記録です。キリスト教会は誕生してすぐに、その最初の宣教活動のあとにその最初の迫害が続いたのだということを、わたしたちはここで気づかされます。この時以来、教会の2千年の歩みは、さまざまなかたちでの教会の迫害の歴史でもあったと言ってよいでしょう。教会の宣教活動は教会の迫害の歴史でもあったのです。

 けれども、このことを起こるはずがない、あるいは起こってはならない、予想外のことと考えるには及びません。否、むしろこのことは教会の建設者、また教会の頭であられる主イエス・キリストご自身が弟子たちに語っておられた預言の成就であり、神のみ心なのです。主イエスはマルコによる福音書13章9節以下でこのように言われました。ご一緒に読んでみましょう。【9~13節】(88ページ)。主イエスを信じ、主イエスに従う信仰者の道はその最初から、人々からの反対と憎しみと迫害の道であるのだということを主イエスは言われました。そして、それはまた主イエスご自身が歩まれた道でもありました。主イエスはすべての人を照らすまことの光として、神が約束しておられた世の救い主としてこの世においでになりましたが、この世の民は彼を受け入れず、使徒言行録3章のペトロの説教によれば、ユダヤ人たちは「このイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前で彼を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求しました」(13~14節参照)。神がメシア・キリストとしてこの世にお遣わしになった主イエスは罪のこの世の反対と憎しみの中で十字架への道を進まざるを得なくされました。主イエスを信じる信仰者もまた同じ道を歩まざるを得ません。

 なぜそうなのでしょうか。それは、主イエスが神の国の福音を宣教され、救いのみ言葉をお語りになる時、この世の罪が明らかにされるからです。神から離れ、神を失って、罪と死と滅びとに支配されているこの世の罪が明らかにされ、主イエスの福音を信じない罪、差し出されている救いの恵みを喜んで受け入れることをせず、かたくなで不従順で悔い改めることをしない人間の罪がそこであらわにされるからです。

使徒言行録3章と4章でも、同じようなことが起こっているのをわたしたちは見ることができます。ペトロが生まれつき足の不自由な男の人に、「ナザレの人イエス・キリストのみ名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、40年間一歩も歩いたことがなかったその人がすぐに躍り上がって立ち、神を賛美しながら神殿に入っていきました。けれども、その奇跡を見たエルサレムの人々は長く病んでいた一人の人が主イエス・キリストのみ名によっていやされ救われたという大きな恵みを喜ぶことができず、ペテロが語った主イエス・キリストの福音を信じ受け入れることをせず、かえって憎しみや怒りを覚え、ペトロとヨハネを逮捕したのです。主イエスの福音が語られ、救いのみわざが行われる時、それを喜ばず、受け入れず、反対に主イエスの福音に対して敵対するという人間の罪が浮き彫りにされるということが起こるのです。いつの時代にも、このようにして、主イエス・キリストの十字架の福音は罪に支配されているこの世の人々の疑いや反対や迫害に出会わざるを得ないのです。

 しかし、それにもかかわらず、「神の言葉は決してつながれてはいない」(テモテへの手紙二2章9節参照)という実例をもわたしたちはここで同時に見ることができます。4節にこのように書かれています。【4節】。神の救いのみ言葉はどのような人間の反対や迫害の中でも、むなしく消え去ってしまうことはありません。神のみ言葉は必ず成就します。実を結びます。人間の罪を打ち砕き、人間のかたくなさを打ち砕き、信仰を生み出していくのだということをわたしたちは知らされます。

 さて、ペトロとヨハネが逮捕された直接の理由は2節によれば、「彼らが民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていた」からであると書かれています。これにはサドカイ派が深く関与していたと思われます。と言うのは、ファリサイ派と並んで当時のユダヤ教の二大勢力であったサドカイ派は、人間の復活や天使に関する教理を否定していたからです。サドカイ派は貴族階級や祭司階級が多く属しており、彼らの信仰は現実主義・保守主義で、当時イスラエルを支配していたローマ帝国とも手を結び、現在の秩序を乱すような運動には反対していました。ペトロとヨハネが不思議な奇跡によって人々を騒がせたり、主イエスの復活について説教して民衆の心をひきつけていることは、自分たちの立場や身分に危険を与えることになるのではないかと考えて、二人を逮捕させたと考えられます。ここにも、人間の罪やかたくなさが潜んでいます。現実の安易な生活や偽りの平和に安住するために、主イエス・キリストの福音によって自分が変えられることを願わない。自分の罪を認めず、罪の中にとどまっているために心を閉ざし、自分の身の安全を守ろうとする、そのような人間の罪がここにもあります。

 ペトロとヨハネは初代教会の最初の逮捕者となり、獄につながれました。しかし、すぐ続けて4節に先ほども読んだ【4節】というみ言葉が語られていることには特別な意味があるように思われます。本来ならばこの4節は、ペトロの説教が終わった3章26節のあとに書かれるべきなのですが、彼らが逮捕された後に書かれているのは、彼らの逮捕を、いわば無意味にし、否定する意図があるように思われます。たとえ、この世の権力がペトロとヨハネを獄につないだとしても、神のみ言葉は決してこの世の鎖によってはつながれることはない。否、むしろ神のみ言葉は人間たちの反対や迫害、この世の権力や暴力、そして人間の罪という鎖を断ち切って、救いのみわざを前進させ、主イエスの福音を信じる信仰者を生み出していくのだということを聖書は語っているのです。

 まさに、このことこそが主イエスの復活の福音にほかなりません。ユダヤ人たちがこぞって罪なき神のみ子であられる主イエスを犯罪人、神を冒涜する者として断罪し、ユダヤ人にとっては神に呪われた忌まわしい十字架刑にひきわたしたという彼らの恐るべき罪にもかかわらず、その罪が最後に勝利するのではなく、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順な僕(しもべ)として父なる神への服従を貫き通された主イエスが、ついにはすべての罪と死とに勝利されて、三日目に死の墓から復活されたという、復活の命と力がここでは働いているのです。

 翌日、エルサレム最高議会が招集されました。この最高議会はサンヘドリンと言われ、大祭司と70人の議員からなるイスラエルの政治・宗教の最高議決機関であり、また裁判の最高法廷の役割も果たしていました。主イエスもここで裁かれました。大祭司を議長とし、そのメンバーが5、6節に紹介されています。ペトロとヨハネの逮捕理由について7節でこう言われています。【7節】。「ああいうことをしたのか」とは3章に書かれていた生まれつき足が不自由な人を主イエスのみ名によって立ち上がらせたという奇跡を問題にしていると考えられます。そうだとすれば、2節に書かれていた逮捕理由とは違うことになります。2節では、サドカイ派が逮捕に深くかかわっていたので、自分たちが否定していた復活について語ったことを問題にしていましたが、裁判で多数派を占めていたファリサイ派は復活を信じていたので、実際の裁判では、ペトロとヨハネが何か悪魔的な力とか魔術とかによって奇跡を行ったのか、あるいは神のお名前を冒涜したのではないかということを問題にしていると考えられます。ここにも、人間の罪の姿が見え隠れします。サドカイ派とファリサ派は聖書の理解や教えに違いがあり、政治的立場も違っており、それぞれの利益を守ることを裁判の目的にしています。そして、彼らのそのような違いにもかかわらず、主イエスの福音に反対し、ペトロとヨハネを裁くということにおいては一致しているのです。このことで一致するためには、多少の自分たちの意見や主張を捨てようとしています。これもまた、聖書の中で、あるいは現実の人間社会でしばしば起こる罪びとたちの現象であると言えます。人間はみな主イエス・キリストの福音に反対し、悔い改めることをしないという罪においては一致します。結束します。

 しかし、ここでもまた、そのような人間の罪の結束を破るかのようにしてペトロが説教します。【8~10節】。ペトロは今鎖につながれ、自由を奪われています。多くのこの世の権力者たちの疑いや憎しみの目にさらされています。しかし、彼は少しも恐れず、たじろがず、彼らの真ん中に立ち、主イエス・キリストの福音を語り、自分の信仰を告白しています。彼は数カ月前に、この同じ場所で主イエスが裁判にかけられていた時に、彼は中庭に身を潜めていましたが、「あなたもあの男の仲間ではないか」と問われて、「いや、わたしたあの男を知らない」と三度も否定したのでしたが、あの弱くつまずいたペトロが今は迫害の中にあっても、しっかりと立っている姿をわたしたちは見るのです。

 それは、聖霊なる神が彼と共におられ、彼を支えていてくださるからにほかなりません。福音書で主イエスがすでに約束しておられたとおりです。「あなたがたは裁判所に引き渡され、鞭うたれるであろう。その時、あなたがたはわたしのために証しするであろう。しかし、何を言おうかと心配するには及ばない。聖霊なる神が語るべき言葉を授けてくださるであろう」。この主イエスのみ言葉がここで成就しているのです。

 8節からのペトロの説教は、これまでの二度の説教と同様に、その中心的主題は主イエス・キリストの十字架の死と復活です。また、ここでも同じように、裁く人と裁かれる人との立場が逆転していることに気づきます。被告席についているのはペトロです。裁いているのは大祭司と70人の議員たちです。しかし、ペトロは語ります。「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリストの名によるものです」と。本当に裁かれるべきは、あなたがたであり、すべての罪びとなのです。本当の裁きは地上の法廷での裁きではなく、天にある神の法廷での裁きです。神はその天にある法廷で、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに無罪を宣告してくださり、わたしたちの罪をすべてゆるしてくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの裁きを受けて滅びなければならなかったわたしたちを、み子の贖いによってすべての罪をゆるし、あなたにある義と平安と祝福とをお与えくださいましたことを、心から感謝いたします。主イエス・キリストの十字架と復活の福音が、全世界のすべての人々に宣べ伝えられますように。世界にまことの義と平和とが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。