9月24日説教「異邦人コルネリウスが見た幻」

2023年9月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    使徒言行録10章1~8節

説教題:「異邦人コルネリウスが見た幻」

 使徒言行録10章1節から、カイサリアでの「コルネリウスの回心」と言われる出来事が始まります。これは11章18節まで続きます。使徒言行録の中で、一つの出来事としては最も長く記録されており、出来事の経過が詳しく語られ、また同じ内容が繰り返して語られています。この出来事が使徒言行録の中で非常に重要な意味を持っていることを表しています。そして、最後に11章18節には、次のようなまとめの言葉が記され、この出来事の頂点に達します。そこをあらかじめ読んでみましょう。【11章18節】。

 神は、主イエス・キリストの福音によって、先に選ばれた民イスラエルだけでなく、異邦人にまで救いのみ手を差し伸べてくださった。そして、全世界の、すべての人々に対しても、まことの命に至る悔い改めの道を、罪からの救いの道を開いてくださった。そのことが、コルネリウスとその一家、また彼の友人たちも含めて、多数の異邦人が洗礼を受け、また聖霊の賜物が与えられるということによってはっきりと示されたのです。

 異邦人の回心については、すでに8章26節以下に、エチオピアの高官がピリポから洗礼を受けたという出来事が記されていましたので、そのこと自体は新しいことではありませんが、ここでコルネリウスの回心について多くのスペースを割いて報告されていることには、理由があります。と言うのは、初代教会においては、異邦人への伝道の道が開かれたことによって、それに伴っていくつかの重要な課題が浮かび上がってくることになったからです。その課題の一つが、旧約聖書の律法の問題です。律法では、神に選ばれた聖なるものと、そうではない宗教的に汚れたものとの区別を明確に定めています。異邦人伝道においては、その区別をどのようにして乗り越えるかが大きな課題となりました。その課題を念頭に置きながら、きょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~2節】。カイサリアはエルサレムから北西約100キロメートル、地中海に面したパレスチナ地方最大の港町でした。当時は、ローマ帝国に属するユダヤ州の首都が置かれ、ローマ軍が駐留していました。カイサリアにはすでに8章40節に書かれてあったように、エルサレム教会の大迫害によって市内から追放されたフィリポが福音を宣べ伝えていました。その後のフィリポの活動についてや、この町に教会がすでにあったのかどうかについては書かれていませんが、やがてこの町に異邦人の教会が建てられていくことになる、その次第について、わたしたちはこのあとで読むことになります。

この町の駐留ローマ軍の百人隊長(百人の兵士を指揮する隊長)で、コルネリウスとう人物についての紹介が2節に詳しく書かれています。彼は「イタリア隊」と呼ばれる部隊の隊長ですから、生粋のローマ人であったと思われます。ユダヤ人から見れば、神の選びの民ではない異邦人ということになります。

でも、彼は旧約聖書のイスラエルの民、ユダヤ人の宗教、ユダヤ教の神を信じていました。異邦人でありながらイスラエルの唯一の神を信じている人を一般には「敬神家」と呼びます。正式にユダヤ教に改宗するためには、割礼の儀式を受け、洗礼を受けることが必要でしたが、敬神家は正式な改宗者ではありませんでしたが、その信仰は非常に熱心でした。

イスラエルの民・ユダヤ人は紀元前8世紀ころから世界各地に散らされていきましたが、彼らをディアスポラ・ユダヤ人と呼びますが、彼らは散らされた地で会堂を立て、旧約聖書の律法を守り、主なる神を信じる信仰を貫いていきました。彼らディアスポラ・ユダヤ人の信仰の証しによって、旧約聖書が教えている唯一神教や神の天地創造の信仰、高い倫理観や道徳心、さらに固い共同体意識が各地の教養ある人々に強い影響を与えました。それらの敬神家は、正式にユダヤ教に改宗するには至っていませんでしたが、ユダヤ人の会堂に出入りし、ユダヤ人と一緒に礼拝し、ユダヤ人と同じように律法を守り、祈りの生活をし、旧約聖書の教えを学んでいました。

 コルネリウスはそのような敬神家の一人でした。彼の家族もみなイスラエルの神を敬っていました。彼はその信仰の証しとして、貧しい人々のために施しをし、日に三度の祈りをささげ、おそらくはエルサレム神殿への巡礼も欠かさず行っていたと思われます。彼は非常に熱心な敬神家でした。けれども、彼の信仰はそのままどれほどに熱心を極めたとしても、そこには真実の救いはないのだということを、わたしたちは言わなければなりません。いや、わたしたちがそう思うよりもはるか前に、神ご自身が彼を真実の信仰へと、まことの救いへとお導きくださるために道を備えておられるのです。主なる神はこの熱心な敬神家コルネリウスが主イエス・キリストの十字架の福音によって本当の意味で救われるために、また彼の家族と彼の周囲の親しい友人たちも本当の救いを経験するために、使徒ペトロをお用いになり、そのみわざをお進めになります。

 【3~8節】。「午後3時」はユダヤ人の祈り時でした。熱心なユダヤ人は朝9時と正午と午後3時に、神に祈りをささげる習慣がありました。敬神家のコルネリウスもその習慣を守っていました。その時、神の天使が現れました。「神の天使」と「幻」は、旧約聖書以来、神が人間に現れ、語りかけられる時の啓示の手段の一つです。そこでは、神ご自身が人間と出会われ、人間に語っておられます。

 4節の「怖くなって」と訳されている箇所は、「恐れる」という言葉です。聖書の中にしばしば書かれている、人間が神と出会う際に覚える、いわば「聖なる恐れ」のことです。罪に汚れている人間が聖なる神と真実の出会いをする際に覚えざるを得ない恐れのことです。わたしたち人間はだれもみな罪に汚れ、滅ぶべき者です。いと高きにおられる聖なる,永遠なる神、最高の裁き主なる神のみ前に立つときに、わたしたちはだれもみな恐れざるを得ません。このような聖なる恐れがなければ、そこには真実な神との出会いも起こりません。もし、神に対する聖なる恐れを失っていたら、その信仰は単なる教養とか、道徳や倫理とか、あるいはご利益主義的な信仰になってしまうでしょう。

 コルネリウスは聖なる恐れの中で、「コルネリウスよ」という呼びかけを聞き、彼は「主よ、何でしょうか」と応答します。主なる神を恐れ、そのお招きに応える時、神はわたしたち人間から恐れを取り除き、恐れに替えて喜びと感謝とをお与えくださいます。コルネリウスの場合もそうでした。

 神は彼の熱心な信仰とその証しである祈りと施しを覚えていてくださると天使は告げます。神はすべての人の信仰の歩みを、たとえそれが人々の目には隠されていても、だれにも気づかれなくても、そのすべてを見ておられ、覚えておられます。覚えるとは、よく見ておられるとか記憶にとどめておられるという意味だけでなく、神が彼の信仰の歩みとその行ない、奉仕に対して正しく報い、応えてくださるということでもあります。

 神はコルネリウスに対して、どのように報い、応えてくださるのでしょうか。彼自身はまだその恵みの大きさに気づいてはいませんが、神は彼の信仰のわざや祈りに、はるかにまさる大きな恵みをもって、お応えくださいます。コルネリウスはあとになってそのことに気づきます。すなわち、神が使徒ペトロをお用いになって、彼と彼の家族とがいまだ聞いたこともなく、見たこともないほどの限りなく大きな、豊かな救いの恵み、主イエス・キリストの十字架の福音と出会い、それによって悔改めへと導かれ、罪のゆるしを与えられ、朽ちることのない永遠の命を受けとるという、大きな恵みをもって神が応えてくださるということを、コルネリウスはやがて知ることになるのです。

 神はわたしたちの小さな、欠けの多い信仰に対しても、貧しい証しのわざや、たどたどしい祈りをもみな覚えていてくださり、それらに対してもわたしたちの願いにはるかにまさった大きな恵みをもって、お応えくださるということを、わたしたちは信じたいし、信じてよいのです。

 神の使いは、ヤッファにいるペトロを招くようにとコルネリウスに指示します。エルサレム周辺の町々に宣教活動をしていたペトロは、9章43節によればヤッファで皮なめし職人のシモンの家に滞在していたと書かれていました。ヤッファはカイサリアから地中海沿岸に沿って50キロメートルほど南にある町です。ヤッファではペトロが病気で死んだタビタを生き返らせたという奇跡について、すぐ前に書かれていました。ヤッファにはすでに信仰者の群れができていました。シモンもすでに洗礼を受け、その群れの一員だったと推測されます。

 シモンは皮なめし職人であると紹介されています。当時の社会では、皮なめしという職業は最も尊敬されない、汚れた職業と考えられていました。しかしながら、シモンは主イエス・キリストを信じる信仰という、最高に尊い宝を与えられていました。神によって罪ゆるされ、救われている、神の民の一人とされていました。そして、初代教会のリーダーである使徒ペトロに宿を提供するという名誉を与えられています。それは、何という大きな恵みであることでしょうか。

 ペトロがシモンの家に滞在していたということは、ペトロが次の9節以下で見ることになる幻と何らかの関係があるように思われます。ペトロはその幻によって、神が清められた生き物はすべて清く、それを食べても汚れることはないということを神から示され、それによって旧約聖書の律法で定められていた宗教的に清い生き物と汚れた生き物の区別が取り除かれることになるのですが、それに先立って、主イエス・キリストを信じる信仰によって、どの職業が尊いとか汚れているとかの区別が取り除かれているということを、ここではあらかじめ語られていると読むことができます。

 主イエス・キリストの福音は、職業の違いによるすべての差別を取り除きます。職業に就くキリスト者は、その職業の違いにかかわらず、すべてのキリスト者は自分の職業をとおして主なる神に仕え、主キリストの福音を証しする使命を託されています。また、主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、男と女の違いからくる差別はすべて取り除かれます。みな互いに主キリストによって愛され、罪ゆるされている兄弟姉妹たちとして隣人に仕えるように招かれています。主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、民族や言語の違い、社会制度や生活様式の違い、その他のどのような違いも、お互いを分断したり、上下関係にしたりすることはありません。みな主キリストにあってみな一つだからです。みな主キリストの救いの恵みに生かされているからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの福音によってわたしたちを一つの群れとして集めてくださったことを感謝いたします.どうか、この国と、アジアの諸国と、全世界とが、主キリストの福音によって一つに結ばれ、全き平和が築かれますように。

○分断や侵略によって多くの血が流され、多くの破壊がなされている国や地域に、あなたが和平と分かち合いとを与えてください。災害や食糧難によって犠牲にされている子どもたちや弱っている人たちに、助けの手が差し伸べられますように。そして、あなたからの平安と慰めが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月17日説教「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

2023年9月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    ルカによる福音書9章37~42節

説教題:「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

 ルカによる福音書9章37節にこのように書かれています。【37節】。「一同」とは、28節によれば、主イエスペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちです。主イエスはこの日に、この三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られました。すると、祈っておられるうちに、主イエスのお姿が真っ白に光輝きました。「山上の変貌」と言われる場面です。その時、旧約聖書時代の偉大な二人の預言者、モーセとエリヤが主イエスと話している様子を、弟子たちは見ました。

 この「山上の変貌」と言われる出来事は、主イエスの最後の勝利と栄光のお姿を、先取りしています。この出来事が、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子たる者は日々自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めの箇所に続けて描かれていることには、深い意味があります。すなわち、ご受難と十字架の主イエスは、また同時に復活と栄光の勝利者なる主イエスであられるということです。あるいはこう言い換えてもよいでしょう。主イエスはご受難と十字架の死の道を通って勝利と栄光に入られるのだと。そして、主イエスの弟子であるわたしたちキリスト者もまた、主イエスと同じように、苦難と十字架の死の道を通って勝利と栄光のみ国が約束されているのだと。

 前回わたしたちがそこで確認したもう一つの点は、旧約聖書の律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤが主イエスと共にいて、主イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期のことについて話し合っていたということは、主イエスがこれからエルサレムで成し遂げようとしておられる十字架の死と三日目の復活、40日目の昇天、そして50日目の聖霊降臨によって、旧約聖書で約束されていた神の律法と預言とのすべてが成就されるということが、ここであらかじめ明らかにされているのです。主イエスはその救いの完成される日に向かってなおも歩みを進めていかれます。

 その翌日、主イエスは山から入りてこられ、大勢の群衆が待っている所に再びおいでになります。山の上での主イエスの栄光のお姿は一瞬にして終わり、主イエスは再び貧しい人間のお姿で、地上で待っていた群衆の中に入られました。主イエスは天の父なる神から遣わされた人の子として、この地に住む罪びとや病める人々のただ中にお帰りになりました。そして、エルサレムでのご受難と十字架への道をお進みになられます。

 ここに至って、わたしたちはなぜ前の場面でペトロが主イエスとモーセとエリヤのために山の上に小屋を建てる提案をしたとき、それが間違った判断であったのか、その理由をはっきりと知らされます。主イエスの栄光と勝利の時はまだ来ていません。主イエスの栄光のお姿を山の上に留めておくことは、主イエスのご受難と十字架の死を回避すること、それを避けていくことになります。十字架の主イエスがなければ、栄光の主イエスもありません。それゆえに、主イエスは今なお、しばらくはこの地上にとどまり、エルサレムまでのご受難と十字架への道をお進みになるのです。今なおしばらくは、この地上の罪びとたちと病める人たちの中にとどまり続けられるのです。彼らの一人をもお見捨てにはなさいません。主イエスが山の上に留まり続けることをなさらずに、いまだ罪と悲惨の中にあるこの地上に下ってこられたのはそのためでした。

 【38節】。37節には、大勢の群衆が主イエスを出迎えたと書かれていましたが、この時点ではまだ主イエスと群衆との出会いは起こっていませんし、救いの出来事も起こりません。わたしたちが群集の中の一人として主イエスを見ているならば、そこではまだ真実の出会いは起こっていません。群衆の中から、一人飛び出して、一人で主イエスのみ前に立ち、主イエスと対話をするとき、そこに主イエスとの出会いが起こり、主イエスによる救いの道が開かれます。

 この男の人は群衆の中から飛び出し、主イエスのみ前に立ち、大声で叫びました。と言うのは、彼にはそうせずにはおれない緊急の大きな課題があったからです。今すぐに主イエスの助けを必要としていたからです。主イエス以外には、彼の願いをかなえることができないように思われたからです。

 彼はこれまでのいきさつを説明します。彼の一人息子が悪霊に取りつかれ、けいれんなどのてんかんの症状によってひどく苦しめられていたので、主イエスの弟子たちに悪霊を追い出してくれるようにお願いしたが、弟子たちにはそれができなかった。それで、主イエスに直接にお願いに上がったというのです。

まず、父親としてのこの男の人の苦悩と、その息子の悪霊による苦しみのことを考えてみましょう。父親にとってこの子は一人息子であると強調されています。イスラエル社会においては、長男はその家の全財産と信仰と神の祝福を受け継ぎます。一人息子は父にとって、その家と氏族にとっても、大切な存在です。もし、一人息子が病気で死ぬことになれば、その家に与えられている神の祝福をも失うことになります。父親は必死になって主イエスにお願いしています。

病気の息子にとっては、苦しい戦いの連続です。悪霊は人間の意志や力をはるかに越えた暴力的な威力を発揮して、この子を苦しめます。この当時は、人間の重い病気や身体的・精神的障害は悪霊、あるいはサタンが働いていて、神のご支配から人間を引き離し、悪霊自身の支配下に置いている状態と考えられていました。4章31節以下に、主イエスがカファルナウムの町で安息日に会堂で悪霊に取りつかれた人を神の権威によっていやされたことが、また8章26節以下にも、ゲラサ人の地で悪霊に取りつかれた男の人を悪霊から解放されたという奇跡が記されていました。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主として、神の権威によって悪霊を追い出され、その人を再び神の恵みのご支配の中へと招き入れられました。主イエスが悪霊を追い出されたことは、神の恵みのご支配が始まり、神の国が到来したことの目に見えるしるしでした

この父親が主イエスのみ前に立って、「わたしの子を見てやってください」とお願いをしたのは、弟子たちにはできなかったけれど、主イエスには確かに悪霊に勝利するみ力があると信じたからでした。主イエスは彼の願いをお聞きになります。

でも、その前に、主イエスは不信仰なこの時代と弟子たちの信仰の弱さを問題にされました。【41節】。9章1節によれば、12弟子たちが神の国の福音を宣教するために派遣されるにあたって、主イエスは彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権能をお授けになった」とありますが、にもかかわらず弟子たちに悪霊を追い出す力がなかったということは、彼らにはまだ信仰がなかったからでしょうか。でも、ルカ福音書のこの箇所では弟子たちの不信仰は直接には非難されておらず、この時代全体がよこしまで不信仰な時代だと言われています。だから、いまだに悪霊がこの世で力を発揮し、人間を神の恵みから遠ざけているのだと、主イエスは言われるのです。

主イエスはここで、「いつまで、わたしは不信仰なあなたがたと共にこの地上に留まり、あなたがたの不信仰に耐えねばならないのか」と言われます。「いつまで」という言葉には二重の意味が含まれています。一つには,この時代の不信仰と弟子たちの不信仰がいつまでも続くかのように思われるほどに大きく、深く、信仰であるという主イエスの嘆きの大きさの強調です。しかし、もう一つには、やがてその不信仰には終わりがくる、終わりの時が定められているということです。主イエスご自身がその不信仰の時代を終わらせてくださるからです。

それはいつの時でしょうか。主イエスがこの地上で弟子たちと一緒におられる期間、邪悪でよこしまで不信仰なこの時代の人々と主イエスが共におられる期間はいつまででしょうか。主イエスがわたしたちの不信仰に耐えねばならない期間は、いったいいつまでなのでしょうか。わたしたちはこう答えます。それは,主イエスのご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、わたしたちを罪の支配から解放してくださる時までだと。主イエスが再びこの地上に立ってくださり、神の国を完成させてくださる終りの日までだと。

主イエスはその子どもをご自身のみ前に連れてくるようにと命じます。主イエスは悪霊に取りつかれて苦しむその子を、決してお見捨てにはなりません。そのために、栄光に包まれた山の上から罪が今なお支配しているこの地上へと下ってこられたのですから。

弟子たちにはその子をいやすことができませんでした。悪霊の支配からその子を解放する信仰がまだ足りませんでした。でも、その子を主イエスのみもとへと連れてくるための手助けはできます。それはわたしたちにもできることです。病んでいる人や苦しんでいる人、迷っている人を主イエスのみもとへと連れてくる、これが今わたしたちにできる伝道の基本です。

【42節】。悪霊、汚れた霊は人間をはるかに上回る暴力的な力で人間を支配します。人間を神の恵みから遠ざけようと、驚異的な力をふるいます。人間はそれに立ち向かうことはできません。しかし、悪霊の抵抗は主イエスのみ前に引き出され、自らの最後を知った者のあがきでしかありません。主イエスは神のみ子として、父なる神から託された権威によって悪霊、汚れた霊を叱責されます。「サタンよ、引き下がれ。この人から出ていけ」とお命じになります。

主イエスはその子どもを悪霊の支配から解放され、神の恵みのもとへと連れ戻され、父親にお返しになりました。その一人息子は長い間の悪霊の支配から解放され、主イエスを信じた父親と共に主なる神の恵みのもとへと連れ戻されたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、わたしたちを罪と死の奴隷から救い出してくださり、あなたの民の一人としてわたしたちを教会の群れの中にお加えくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再びあなたを離れて、罪の支配に屈することがありませんように。喜んであなたのみ言葉に聞き従い、忠実な僕としてあなたにお仕えする者としてください。

○主なる神よ、この世界とそこに住む人間たちを顧みてください。あなたから離れて、滅びへと向かうことがありませんように。わたしたちの間から争いや憎しみ、独善や傲慢を取り除いてください。ゆるし合ういや分かち合いの心をお与えください。あなたから与えられる義と平和で、この国を、アジアの諸国を、そして全世界を満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月10日説教「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

2023年9月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記43章1~34節

    ローマの信徒への手紙13章8~10節

説教題:「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

 兄弟たちによってエジプトに売り渡された族長ヤコブの子どもヨセフは、エジプト王ファラオが見た夢を解き明かし、7年間の大豊作のあとにやってくる7年間の大飢饉に備えて、エジプトの倉庫に穀物を蓄えさせるという知恵をファラオに示しました。それによって、彼はエジプトの総理大臣に任命さることになりました。ヨセフの夢解きの知恵と、その夢によって、将来の飢饉のために備えるという知恵もまた、主なる神から与えられたものでした。神は異教の地エジプトに売り飛ばされたヨセフと共にいてくださり、ヨセフを祝福し、彼の信仰を導き、やがてヨセフによってヤコブの家族全員を飢饉から救うことへと導かれました。それによって、のちの民イスラエルと教会をお用いになって、全世界のすべての人々を罪から救われるという大いなる救いのみわざを前進させてくださったのだということを、わたしたちは創世記のみ言葉から教えられます。

 42章では、世界を襲った大飢饉のために、カナン地方のヤコブ一家にも食物が途絶え、ヤコブの子どもたちがエジプトのヨセフのもとへ穀物を買うためにでかけたことが書かれていました。彼らはそれがヨセフとは知らずに、エジプトの大臣の前にひれ伏して、穀物を分けてくれるようにお願いしました。この第一回目のエジプト訪問によって、ヨセフが子どものころに見た夢、すなわち、37章7節に書かれていた夢、ヨセフの兄弟たちがみんな彼の周りに集まって、彼の前にひれ伏すという夢が、一部、実現することになりました。

 でも、それはまだ一部でした。12番目の子ども、ヨセフの弟で、ヨセフと同じ母ラケルから生まれた子、ベニヤミンはその時エジプトに同行してはいなかったからです。と言うのも、父ヤコブが末の子ベニヤミンを特別にかわいがり、かつてヨセフを失ったように、このたびはベニヤミンを失うかもしれないと、エジプト行きを認めなかったからでした。

 ヨセフが見た夢、それは神のみ心であり、神の救いのご計画なのですが、それが完全に実現されるためには、ベニヤミンが欠けています。また、それとの関連で、ヨセフにとって、また創世記全体に貫かれている神の救いのご計画で、どうしても解決されなければならない問題、それは父ヤコブと最愛の妻ラケルとの間にようやくにして生まれた年寄子であるヨセフとベニヤミンに対する偏った父の愛、偏愛が克服されなければならないということです。

 そして、実は、この二つのことが、43章に書かれている二度目のエジプト訪問のテーマでもあるのだということに、わたしたちは気づかされます。その二つのことに注目しながら、43章を読んでいきましょう。

 【1~2節】。世界的な大飢饉が7年間も続くことになります。パレスチナ地方のヤコブ一家にもその影響は及びました。エジプトから買い求めてきた穀物は1年もすれば食べつくしてしまいます。父ヤコブは、彼はこの章では新しい名前であるイスラエルとして6節、8節、11節に書かれていますが、彼は年老いてはいましたが、族長として、また一家の長として、その一族や家族が一人も飢饉で死ぬことがないようにと、気をつかっています。それは単に一族、一家の長としての責任からくる配慮であるのではありません。彼は、アブラハム、イサクから受け継いだ神との契約を忘れてはいません。神はこう言われました。「わたしはあなたとあなたの子孫とを永遠に祝福する。わたしはあなたの子孫の数を増し加え、空の星、海の砂ほどに増やし、あなたの子孫にこの地を永久の所有として受け継がせる」と。ヤコブはこの神の約束のみ言葉を信じるがゆえに、毎年繰り返される飢饉という試練の中にあっても、冷静に、また希望をもって家族と一族のために行動することができたのです。

 けれども、ヤコブには人間的な弱さがありました。末の息子ベニヤミンに対する特別な、偏った愛から、彼はまだ解放されてはいませんでした。かつて、おなじ偏愛から、ヨセフを特別にかわいがったために、兄たちの憎しみを買い、エジプトに売り飛ばされました。兄たちはヨセフは野獣にかみ殺されたと父には報告していました。ヤコブはヨセフに続いて最愛の子ベニヤミンをも失うこと恐れて、最初のエジプト行きには同行させませんでした。

 ところが、3節以下で、ユダが発言します。彼はこう言います。「最初のエジプト訪問の際に、自分たちの身の上をエジプトの責任者に話したところ、その人は次に来るときには末の子も一緒でなければならないと厳しく命じました。だから、ぜひベニヤミンを連れて行かせてください。もし、ベニヤミンにもしものことがあったら、自分が全責任を負いますから」と。

ここでのユダのベニヤミンに対する忠実で責任ある言葉と42章37節の最年長ルベンの言葉とを並べてみましょう。まず、【42章37節】。この言葉によっても、父ヤコブはベニヤミンを連れて行くことには同意しませんでした。次に、【43章9節】。父ヤコブは、このユダの言葉によって動かされました。それがなぜであったかについては、何も説明されていませんが、ルベンとユダの二人の子どもたちの弟ベニヤミンに対する愛と責任ある言葉を聞いて、自らの感情に任せた偏愛の愚かさを、ヤコブは気づかされたのだろうと思われます。また、ルベンとユダの言葉の中には、かつて父の偏愛を受けていた弟ヨセフを憎み、彼を売り飛ばそうとした兄たちの罪の告白がなされていると、読むこともできるでしょう。人間的な愛の破れが、このようにして克服されていくのです。そして、神の救いのご計画が進行されていくのです。

13、14節の父ヤコブの発言は、まさに奇跡的と言ってよいかもしれません。【13~14節】。ヤコブは末の子ベニヤミンに対する偏愛から解放されています。ルベンとユダという二人の子どもの忠実な兄弟愛に刺激されたからでしょうか。自分の命を捨てる覚悟までもって守るべき真理があることを知ったからでしょうか。それもあったでしょうが、ここでははっきりと「全能の神」が、「全能の神の憐みが」がと言われています。彼は今、全能の主なる神の憐みを知る者とされたのです。

ヤコブ自身も母の偏愛を受けて育ちました。父を欺いて兄エサウの長子の特権を奪いました。そのヤコブが、多くの試練を経験し、その中でも神に守られて、そのようにして神は彼の信仰を練り清められたのです。ただ主なる神の全能のみ力に頼り、人間のすべての欠けや破れをもお用いになってご自身の救いのご計画を進めてくださる全能の神の憐みを求める信仰者としてくださったのです。その全能の神にすべてをお委ねするヤコブとしてくださったのです。

主イエスはマタイ福音書10章37節以下で言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。ヤコブはこの信仰に生きる決断をしたのです。

そのようにして、ヤコブの子どもたち11人による二度目のエジプト行きが実行されました。【15~16節】。ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、彼らを自宅での昼食に招きました。ところが、ヨセフだとまだ気づいていない兄弟たちは、自分たちが特別扱いされているのを不安に感じました。最初のエジプト行きの時に、穀物の代金として持参した銀が自分たちの袋に戻されていたのを思い起こし、そのことがとがめられるのではないかと思ったからです。

そこで、彼らはヨセフの使いである執事にあらかじめそのことを尋ねます。執事は、彼らの袋に銀を戻したのがヨセフの命令によってしたことを知っていましたから、23節でこのように答えています。【23節】。これは族長たちの主なる神を知らない異邦人であるエジプトの執事の言葉ですが、わたしたちはここにも主なる神のお働きを見るように思います。主なる神が異邦人の口をお用いになって、ご自身の測りがたく限りない恵みと導きを語っておられるように思います。

23節の冒頭を直訳すると、「あなたがたに平安あれ。恐れるな」となります。この言葉は神ご自身がエジプト人の執事の口をお用いになって、ヤコブの子どもたちに語った言葉と読むことができます。神はご自分の民イスラエルの試練や危機の時に、しばしば同じみ言葉をお語りになりました。出エジプト記14章で、エジプトを脱出したイスラエルの民がエジプト軍に追いかけられ、行く手を海に阻まれた時に、神はモーセによってこう言われました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい。……主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14章13~14節参照)。また、バビロンに捕虜として連れ去られていたイスラエルの民に、神はイザヤの口をとおしてこう語られます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(43章1~2節)。そして、罪と滅びの中を歩んでいた世界の人々に最初のクリスマスの夜に語られたみ言葉は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ福音書2章10~11節参照)。

このようにして、神は今もなお、迷ったり、悩んだり、恐れと不安の中にあるわたしたち一人一人に対して、「恐れるな。安心せよ。平安があるように。わたしはいつもあなたと共にいる」と呼びかけてくださいます。

ヨセフと11人の兄弟たちとの食事が始まりました。ヨセフはまだ自分の身を明かしていません。でも、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンの顔を見るとこらえきれずに、別室に移って涙を流しました。このところの記述は非常に感動的です。【29~31節】。ヨセフはまだ自分の身を明かしてはいませんが、20数年ぶりの兄弟12人の再会、そしてただ一人の弟ベニヤミンとの再会がこのようにして実現しました。

これはまた、ヨセフが子どものころに見た夢の実現でもありました。26節と28節に、11人の兄弟たちがヨセフの前にひれ伏し、ヨセフを排したと繰り返されています。でも、ヨセフ自身はそのことを全く誇ってはいません。すべては神のみ心だからです。神の救いのご計画がこのようにして進められていくからです。神はお選びになった信仰者たちをお用いになって、ご計画にしたがって、万事を益となるように導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ。天地創造の初めから今に至るまで、そして終りの日にみ国が完成する日まで、あなたは永遠なる救いのご計画を進めてくださいます。主よどうぞ、今この時代にも、あなたのみ心が行なわれますように。弱っている人を励ましてください。迷っている人を導き返してください。倒れている人、壁の前でたたずんでいる人を、希望の光で照らしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月3日説教「三位一体なる神」

2023年9月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(26回)
聖 書:申命記6章4~5節
    マタイによる福音書28章16~20節
説教題:「三位一体なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の基礎と中心について学んでいます。きょうは、前文の2段落、3つ目の文章、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」、この告白の中の「三位一体なる神」について、聖書のみ言葉から学んでいきます。
 まず、1890年(明治23年)に制定された『(旧)日本基督教会信仰告白』との比較ですが、この『信仰告白』では「その恩(めぐみ)によるに非(あら)ざれば罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていて、「三位一体なる神」という言葉がない以外は、今の『信仰の告白』とまったく同じです。1953年の『信仰の告白』で、なぜこの言葉が付け加えられたのかについての理由ははっきりしませんが、おそらくは古代教会と宗教改革時代からの教理的伝統を強調するためであったと推測できます。
 「三位一体」という言葉、またキリスト教の教理は、古代教会の神学者たちが様々な異端的な教えや間違った福音理解との戦いの中で、正しいキリスト教教理を形成していく段階で考え出された教理です。「三位一体」という言葉そのものは聖書の中にはありませんが、「三位一体論」という教理、教え、信仰理解は聖書の最も中心的で大切な真理であると言ってよいでしょう。
 「三位一体」という言葉を最初に用いたのは、紀元2世紀から3世紀にかけての神学者であるテルトゥリアヌスと言われています。彼は、父なる神と子なる神と聖霊なる神は三つの位格を持ちつつ、一つの実体であり、父、子、聖霊の三者は神性という一つの実体を共有すると説きました。その後、紀元4、5世紀に成立したと考えられる『アタナシオス信条』では、その全体で三位一体なる神について告白されています。それを要約すれば、「すべて信じて救われることを願う者は、唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめなければならない。父と子と聖霊の三つの位格を持つ唯一の神を三位一体の神として信じ、礼拝しなければならない」と告白されています。
 「三位一体論」はその後も宗教改革の時代から今日にいたるまで、キリスト教会の最も重要な教え、教理として熱心に論じられてきました。すべてのプロテスタンと教会とカトリック教会が「三位一体論」を重んじています。「三位一体論」を信じるかどうかが、正統的な教会か異端かを判別する基準になっていると言ってよいでしょう。
 現在のキリスト教3大異端と言われる統一教会(世界平和統一家庭連合)、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教はいずれも「三位一体論」を否定します。彼らはしばしばそれを否定する理由として、「三位一体」という言葉が聖書の中にはないからだと言いますが、しかし彼らは「三位一体論」を否定することによって、聖書には書かれていないより重要な誤った教えを数多く考え出しています。たとえば、主イエスは神ではないとすることによって、彼らの教派の創設者、教祖が主イエスの代わりに神になります。また、聖霊が神ではないとすることによって、人間の努力とか精神とか、あるいは人間の信仰的な行動が聖霊なる神に代わって重要視されます。それによって、主イエスの十字架と復活の福音によって救われるという信仰だけでは不十分であり、他の何かによって主イエスの救いの不十分さを補わなければならないと主張します。しかし、それはもはやキリスト教ではありません。「三位一体論」を否定するならば、だれも正しい信仰に至ることはできませんし、真実の救いに至ることもできないのです。
 「三位一体論」は古代教会の神学者たちが聖書の中で証しされている信仰の真理から必然的に導き出された教理であり、聖書で証しされている神について、より正確に、より深く理解するための教理です。さらに言えば、神の救いのみわざをより確実に、より強力にわたしたちのものとするための教理なのです。三位一体なる神の救いのみわざは完全であり、永遠です。
 では、聖書の中で「三位一体論」はどのように証しされ、教えられているかを、聖書の主な個所を読みながら確認していきましょう。旧約聖書のイスラエルの信仰から新約聖書の教会の信仰に至るまで一貫していることは、神は唯一の神であるということです。一神教、唯一信教が聖書の教えです。ただお一人の神を信じ、この神だけを礼拝します。他の神々が多数共存しているギリシャや東洋、日本の宗教観とは根本的に違っています。
 出エジプト記20章2~3節にはこう書かれています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしのほかに神があってはならない」。また、申命記6章4~5節では、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられています。神は唯一である。主なる神はただお一人である。これが旧約聖書以来の信仰の基本です。
 主イエスはマルコによる福音書12章28節位以下の箇所で、この申命記6章のみ言葉を引用しながら、「唯一の主なる神を愛し、またあなたの隣人を愛しなさい」と教えられました。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章30節で、「実に、神は唯一だからです」と教え、コリントの信徒への手紙一8章1節以下の箇所で、「唯一の神以外にいかなる神もいない。万物はこの唯一の父なる神から出て、わたしたちはこの神へ帰って行く」と書いています。
 「三位一体論」はこの唯一神教から出発します。この唯一信教の信仰を土台にし、そのうえで、主イエス・キリストが神であり、聖霊が神であると証しされている聖書の証言とを、どのように調整し、統一させるのか。つまり、父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと、聖霊なる神が、いずれもまことの永遠なる神であり、しかも三つの別々の神であるのではなく、一つの神、唯一の神であるという聖書の証言をどのように言い表すかが「三位一体論」の課題になるわけです。
 では次に、三位一体なる神についての具体的な聖書箇所を読んでみましょう。マタイ福音書28章18~20節にはこうあります。【18~20節】(60ページ)。今日、わたしたちが洗礼を受ける時もこの聖句が読まれますが、ここで「父と子と聖霊」の名前と言われる場合、普通ならば三つの名前ですから、「名によって」の名は複数形にならなければなりませんが、原文のギリシャ語では単数形になっています。つまり、父なる神の名前、子なる神、キリストの名前、そして聖霊なる神の名前は三つの別々の神の三つの名前なのではなく、一人の神の一つの名前であるということが、ここには暗示されているのです。
 主イエスご自身に「三位一体なる神」という認識があったのかどうかとか、この福音書が書かれた時に、これを書いた著者にその信仰があったのかどうかということは議論の余地があると言えますが、少なくとも初代教会が「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けていた際に、三つの別々の神を信じていたのではなかったということは明らかです。もちろん、わたしたちの場合も同様です。父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと聖霊なる神が、わたしたち人類の救いのために、またわたしの救いのために、受難と、十字架の死と、復活と、昇天と、聖霊降臨とによって、一つの救いのみわざをなしてくださった、その救いのみわざは完ぺきであった、完全であり永遠であり普遍であったということを、「三位一体論」は強調しているのです。父なる神としても、み子なる神としても、聖霊なる神としても、神はいつでもだれに対してもご自身の全ご人格をフル動員され、その愛と恵みとをすべてお用いになって、わたしの救いのためにお働きくださっておられる、そのことを「三位一体論」は強調しているのです。
 新約聖書からもう一箇所を読んでみましょう。コリントの信徒への手紙二13章13節です。【13節】(341ページ)。これは、初代教会以来、全世界の教会の礼拝で用いられている祝祷のみ言葉です。わたしたちはこの三位一体なる神の祝福を受けて、この世へと派遣されていきます。礼拝から始まるわたしたち信仰者の歩みは「三位一体なる神」の祝福によって包まれており、父なる神、み子なる神、聖霊なる神が常にわたしたちの歩みに伴っていてくださるのです。パウロはここでも、他のところでも「三位一体」という言葉を用いてはおりませんが、彼の手紙の至る箇所から「三位一体なる神」のお働きを読み取ることができます。
 最期に、エフェソの信徒への手紙1章3節以下を読んでみましょう。まず、【3~5節】(352ページ)。ここでは、父なる神のお働きが天地創造から始まり、み子主イエス・キリストによってわたしたちを救いの民としてお選びくださったことが告白されています。
 次の【6~12節】。ここでは、み子主イエス・キリストの十字架の血による贖いと、救いの完成に至るまでの執り成しのお働きが告白されています。
 そして、【13~14節】。ここでは、聖霊なる神のお働きが告白されています。終りの日に、神の国が完成され、わたしたち信仰者が神の国の民として神の栄光にあずかる者とされる確かな証印として、補償として、聖霊はわたしたちに与えられています。
 このようにして、「三位一体なる神」は、父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、そのすべてのご人格をお用いになり、わたしたち一人一人の救いの完成のためにお働きくださるのです。この「三位一体なる神」によらなければ、罪の中で死んでいる人は、本当の命を生きることはできませんし、またこの「三位一体なる神」以外の何かによっては、だれも本当の救いを与えられることはありません。したがってまた、この「三位一体なる神」によって、わたしたちすべてに確かな、そして完全な救いが与えられているのです。わたしたちは大きな感謝と喜びとをもって、「わたしは三位一体なる神を信じます」と告白するのです。

(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍であることを信じます。どうか、だれもあなたの救いから漏れることがありませんように。すべての人が主キリストと聖霊によるあなたの救いに招かれますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。