7月30日説教「聖霊なる神の働きー聖霊の実」

2023年7月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(25回)

聖 書:出エジプト記20章1~17節

    ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖霊の実」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の中で、聖霊なる神のお働きについて告白されている箇所を学んでいます。『信仰の告白』で聖霊について告白されているのは次の3箇所です。今学んでいる箇所の前文2段落目、二つ目の文章、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」。次は、同じ前文の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し……」。そして、後半の『使徒信条』では第三項目、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます」。この全体が聖霊なる神に関する告白と考えられます。

 このように見ると、日本キリスト教会は聖霊についてそれほど強調はしないと前回申し上げましたが、告白されている文章の量やその内容から言えば、父なる神、子なる神・主イエス・キリストとほとんど同じほどに聖霊なる神のお働きを重んじているというべきです。決して聖霊を軽んじているということではありません。ただ、実際には、礼拝説教の中で、あるいは聖書の学びの中で、聖霊を取り上げることは、確かに少ないというのは認めなければなりません。そこで、数少ない機会に、聖霊について正しい理解を深めるように心がける必要があります。

 きょうは、「聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」の後半部分、「御心を行わせる」という箇所を、聖書のみ言葉に導かれながら学びます。

「御心を行なわせる」の主語は聖霊です。また、「聖化し」の後にすぐ続けて「御心を行わせる」と続くので、「御心を行わせる」のは聖霊の聖化のお働きの一部、あるいはその結果という意味に理解すべきと考えられます。聖霊がわたしたち信仰者を日々に聖化し、この世に属する者からわたしたちを区別し、神に属する者たちとし、神にささげられた聖なる者たちとし、また主キリストに似た者たちとするという聖化のお働きは、わたしたち信仰者が神のみ心を行う者たちとして造り変えられていくということなのです。そして、聖霊の実を結ぶようになるということなのです。

 聖書はこのような聖化の働きと聖霊の実を結ぶことについてどう教えているでしょうか。【ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節】。ここでは、霊の導きに従って歩む信仰者の新しい生き方について語られています。それは、聖霊なる神のお働きによって聖化の道を歩む信仰者の新しい歩みのことです。ここで強調されていることは、信仰者が生きる主体となるのは常に聖霊なる神であるということです。わたしが自分の道を切り開いて歩まなければならないのではなく、またそうすべきでもなく、聖霊がわたしに働かれ、聖霊がわたしの道を導かれ、聖霊がわたしのすべての行動、考えの主体となってわたしを導かれるゆえに、わたしはその聖霊の導きに従うのだということです。『信仰の告白』では「御心を行なわせてくださいます」と表現しているのはそのことです。文語文では「御心を行なわしむ」となっていました。聖霊なる神の強い意志、導きが強調されています。わたしがこの聖霊なる神の強い意志を知り、信じ、それに服従する時、聖霊はわたしを神のみ心にかなった歩みへと造り変え、導いてくださるのです。

 この箇所で繰り返して語られているもう一つのことは、聖霊の導きによって歩む生き方は、肉によって歩む生き方と真っ向から対立するということです。【17節】と書かれています。「肉によって歩む」とは、生まれながらの人間の生き方のことです。それは罪に支配されています。罪に支配されているので、自分でこうしたいと願っていても、それを行うことができないという弱さを持っています。人間の心も意志も行動も、すべてが罪の奴隷とされているからです。

 ガラテヤの信徒への手紙の著者であるパウロは、彼自身がそのような弱さを持つ人間であることを強く自覚していました。彼はローマの信徒への手紙7章18節以下でこのように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(18~20節)。こう告白するパウロは24節でついにこう叫ばざるを得ません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(24~25節)。

 パウロはローマの信徒への手紙8章でも人間の肉と神の霊・聖霊との対立について語っています。パウロがそこで強調している点は、肉と霊の対立は、わたしたちにとって死と命の問題なのだということです。肉に従っている人は死ぬほかにない人であり、死んだ人なのだ。なぜなら、その人は神に敵対しているからだと彼は言います。反対に、霊に従っている人は生きる人であり、神から平安を与えられ、神の子たちとされると言います。人間はだれも自分自身を肉の支配から解放することはできません。罪と死の奴隷状態から自由になることはできないとパウロは繰り返します。

 わたしたちを罪と死の法則から解放されるのはただお一人、主イエス・キリストだけです。ご自身がわたしたち人間と同じ肉のお姿でこの世においでくださり、十字架と復活によってわたしたちを罪と死の法則から解放してくださった主イエス・キリストだけが、わたしたちに命をもたらす霊の法則へと導くことができるのだとパウロは言います。8章11節にはこのように書かれています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべきはずの体をも生かしてくださるでしょう」。

 そのようにして、主イエス・キリストの十字架の福音によって、罪と死の法則から自由にされる時、わたしたちは初めて神のみ心に喜んで従っていく者とされ、聖霊の実を豊かに結ぶことができるようにされていくのです。

 ではここで、パウロがガラテヤの使徒への手紙5章とローマの信徒への手紙8章で教えている聖化への道、聖霊の実を結ぶ歩みについて重要なポイントを4つにまとめてみましょう。

 第一点は、人間の生まれながらの肉と聖霊とは両立しない、両者は厳しく対立し、どちらか一方を選び取ならければならないということです。そしてそれは、わたしたちが命を選ぶのか、それとも死を選ぶのかという選択だということです。つまり、生まれながらの肉に従って死を選ぶのか、そうではなく、聖霊に従って生きる命の道を選ぶのかという選択なのです。肉に従って生きる時、人間のすべての行い、わざは、それがどんなに精魂込めてなされたとしても、それは神のみ心からは遠く離れており、罪と死と滅びに支配されているので、実りを結ぶことはできません。

 第二点は、わたしたちが生まれながらの肉の支配から解放されるためには、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰による以外にはないということです。わたしたちはだれも肉の支配に負けてしまう弱い者でしかありません。自分の力で肉の欲を制御することも、それを死滅させることもできません。わたしたちのために罪と死とに勝利された主イエス・キリストだけが、聖霊によって肉と罪と死の支配からわたしたちを解放してくださいます。従って、わたしたちの聖化への道、聖霊の実りを結ぶ歩みは、ただひたすら主イエス・キリストと共に歩む道であり、主イエス・キリストが備えられた道を歩むこと以外ではありません。

 第三点は、わたしたちが聖化への道を進むためには、常に罪のゆるしを土台にし、罪のゆるしと固く結びついていなければならないということです。『日本キリスト教会信仰の告白』でも、「キリストにあって義と認められ」に続いて「信じる人を聖化し」と告白されているように、信仰義認による罪のゆるしと聖化の道は切り離すことはできません。聖化は罪のゆるしのあとに続き、罪のゆるしを土台としています。わたしたちは日々主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、主キリストと固く結ばれ、肉の支配から解放されることによって、聖化への道を進むのです。

 第四点は、わたしたちは主イエス・キリストによって肉の支配と罪と死の法則から解放されているだけでなく、それらに対する勝利を約束されているゆえに、わたしたちは勇気と希望をもって肉の弱さと戦い、罪と死の法則に抵抗し、聖霊の導きに喜んで従うものとされるということです。そのようにして、神のみ心を行い、聖霊の実を豊に結ぶようにされていくのです。

 パウロがガラテヤの信徒への手紙5章22~23節で挙げている聖霊の実は、「霊の結ぶ実}と言われているように、聖霊なる神がわたしたちの中で働いてくださり、わたしたちの朽ち果てるべき肉の体をお用いになって、わたしたちにお与えくださる実です。

 「愛」「喜び」「平安」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」、これらの聖霊の実は、信仰者が他者との交わりの中で、他者に対して好意を示し、他者の徳を立て、他者に仕える生き方の中で与えられる聖霊の実です。これを、19~21節に書かれている肉のわざと比較してみるとその違いは直ちに明らかになります。肉のわざがすべて自分自身を楽しませ、自分自身の利益を求める生き方であることが分ります。聖霊に導かれて聖化の道を歩む信仰者は、主イエスがそうであられたように、愛と真実とをもって他者に仕えていく時に、豊かな聖霊の実を与えられるのです。

 わたしたちは最後になお一つのことを付け加えなければなりません。わたしたちの聖化の道は神の国の完成の日まで続けられるということです。その日には、神はわたしたちに朽ちず、汚れず、しぼまない、天に蓄えられている財産を受け継がせてくださるでしょう(ペトロの手紙一1章4節参照)。わたしたちは神が最後にお与えくださる天にある賞与を得るために、前のものに全身を向けつつ、目標を目指して走り続けるのです(フィリピの信徒への手紙3章13~14節参照)。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちがあなたのみ心に喜んで聞き従い、十字架の主キリストを仰ぎ見つつ、あなたの栄光を現わす歩みを続けることができますように。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月23日説教「起きて、床を取り上げなさい」

2023年7月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    使徒言行録9章31~35節

説教題:「起きて、床を取り上げなさい」

 使徒言行録9章31節にこのように書かれています。【31節】。これは、これまでの教会の歩みをまとめた文章です。使徒言行録の著者であるルカは、前にも何度かまとめの句を書いていました。すぐ前では、6章7節でこのようにまとめていました。【6章7節】(223ページ)。ここでは、初代エルサレム教会が2度のユダヤ人による迫害を経験しながらも、神の言葉が力強く広まっていったことが強調されていました。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない(テモテへの手紙二2章9節参照)ということをわたしたちはそこで確認してきました。

 きょうの31節でまず取り上げたいことは、聖霊なる神のお働きについてです。聖霊はペンテコステの日に弟子たちの上に豊かに注がれ、エルサレム教会を誕生させました。聖霊はそののちの教会のすべての歩みを導かれました。教会の宣教活動にも教会員の交わりと奉仕の働きにも、賛美や祈りにも、あるいはまた、迫害や試練の時にも、聖霊は常に教会と教会員一人一人の歩みと共にあり、その歩みをみ心のままに導かれました。

 聖霊は使徒言行録の最初から最後まで、教会と信仰者の歩みを導かれる主体です。そこで、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれます。今日のわたしたちの教会でも、聖霊のお働きは絶えず続けられています。この日本の異教の地にあっても、聖霊はすべての偶像の神々に対する勝利をわたしたちに確信させます。あらゆる困難や試練の中でも、わたしたちの歩みを力強く導かれ、希望と励ましを与えてくださいます。そして、終わりの日の完成へと導いてくださいます。

 31節では、「聖霊の慰めを受け」と書かれています。「慰め」と訳されているもとのギリシャ語は「パラクレーシス」であり、これは「傍らに呼び出された」という意味を持ち、「弁護」とか「慰め、励まし、呼びかけ」と訳されます。聖霊は常に教会のすべての歩みに伴っていてくださいます。わたしたち信仰者の傍らに立ち、時に、失望しているわたしに勇気と希望を与え、時に、道に迷っているわたしを正しい道へと呼び返し、時に、この世のことで心を煩わせているわたしを神のみ言葉へと差し向けてくださいます。そのようにして、聖霊は教会とわたしたち一人一人の信仰を終わりの日の完成へと導いてくださるのです。

 次に、「平和を保ち」とあります。わたしたちがこれまで学んできたように、初代教会は同胞のユダヤ人、あるいはユダヤ教から幾度も激しい迫害を受けました。エルサレム市内から多くの教会員が追放され、散らされるという大迫害もありました。そして、その迫害の急先鋒であったサウロ、すなわちパウロが復活の主イエスとの衝撃的な出会いによって、迫害者から福音の宣教者に変えられたという驚くべき出来事を9章の前半で読みました。教会は今、しばしの落ち着いた平安な時を迎えています。けれどもそれは、教会に迫害がなくなったという保証ではもちろんありません。12章1節で新たな迫害が始まることをわたしたちは読むことになるでしょう。それまでの少しの間の平和です。

この平和の期間もまた、教会の内的な充実と成長の時です。迫害の時に、神のみ言葉の力によって教会が成長したように、この平和の期間にも教会は成長し続けます。平和の中で休んでいるのではありません。神のみ言葉はいつも生きて働きます。聖霊はいつもわたしたちと共に歩まれます。教会は与えられた平和に感謝しながら、たゆみなくその歩みを続けます。

もう一つ31節で重要なことは、「主を畏れる」ということです。主なる神を恐れるという信仰は、旧約聖書時代からの信仰者の最も基本的、中心的な信仰の姿勢です。主なる神を恐れるとは、神を神とし、人間を人間とすること、そして主なる神以外のいかなるものをも神とはしないということです。主なる神への恐れがなければ、教会のわざは人間的なもの、この世的なものになり、終わりの日のみ国での真の実りを結ぶことはできません。教会の伝道活動、熱心な祈り、聖書の学び、信徒の交わり、一人一人の奉仕、あるいは喜びや悲しみを分かち合うこと、それらのすべてが主なる神への恐れをもってなされる時、人間の計画や思いや努力をはるかにまさった神のみわざが行われ、神の奇跡が行われ、豊かな祝福と実りが与えられるでしょう。

このように、聖霊なる神が共におられ、信仰者が神への恐れをもって共に仕える時に、教会は神のみ言葉の上に固く建てられ、また神のみ心かなって成長していくのです。

32節からは使徒ペトロの働きについてしばらく語られ、これは10章の終わりまで続きます。【32節】。ペトロの活動について最後に語られていたのは8章14節以下でした。そこでは、ペトロはヨハネと一緒に、誕生して間もないサマリア教会を視察するために、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者としての務めを果たしていました。この箇所で、ペトロが方々を巡り歩き、リダという町の信者たちを訪問したのも、同じ巡回視察の務めのためと思われます。

初期のころの教会は、エルサレム教会をいわば母なる教会と考える意識が強くありました。パレスチナ各地に建てられた諸教会は、だれかが勝手に自分の好みに合わせた教会を形成するのではなく、母なる教会、エルサレム教会に連なる一つの教会として、その信仰を受け継いだ教会でなければなりません。更にその源流をたどれば、エルサレムで起こった主イエス・キリストの十字架の死と復活という出来事から始まっているのであって、全教会は母なる教会、エルサレム教会に連なっていると考えられていました。

ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、またエルサレム教会のリーダーともなりました。彼はエルサレム教会を代表して各地に建てられた教会を巡回していたようです。このあと巡回する36節のヤッファ、10章24節のカイサリア、そして12章2節でエルサレム教会に戻るという道のりです。

リダの町はエルサレムから北東の方角へ40キロメートルほどに位置しています。この地に最初に伝道活動をしたのがだれであるかは知られていませんが、おそらくは8章1節に書かれていたエルサレム教会が受けた大迫害でエルサレムから追放された信者たちではないかと推測されます。サマリア教会もそうであったように、迫害で散らされて行った信者たちが、このようにして各地に宣教活動を展開していました。神は迫害という不幸な出来事をもお用いになって、教会の宣教活動を拡大させてくださるのです。

「リダに住んでいる聖なる者たち」と書かれていますが、ここではまだ教会という群れを形成するには至っていなかったようです。信者たちは「聖なる者たち」と言われています。この世から区別され、主キリストによって神のものとされ、神にささげられる者となったという意味です。彼らがエルサレムから追い出され、散らされた者としてリダに住むようになったにしろ、あるいはもともとリダに住んでおり、この町でだれかの宣教活動によってキリスト者となったとしても、そしてリダに住民登録をしているとしても、彼らは主キリストの十字架の血によって買い戻され、神のものとされ、本来は神の国の住民であり、天に国籍を持つ者たちです。わたしたちすべてのキリスト者もまたそのような意味での「聖なる者たち」です。

【33~34節】。ペテロは巡回視察のためにこの町の信仰者の様子を見に来ただけではありません。この町でも、ペトロは主キリストの福音を宣教する伝道者として、主キリストの救いのみわざのために仕えます。長い間重い病気で苦しむ一人の人と出会い、その人を信仰と救いへと導きます。

「会った」と33節に書かれています。人と人が出会うという経験はわたしたちの人生にとってとても貴重です。多くの良き出会いの経験をとおして、わたしたちは成長していきます。けれども、人間が人間と出会うだけではまだ決定的な出来事が起こりません。その出会いをとおして、主キリストとの出会いへと導かれることこそが、重要です。ペトロはアイネアを主イエス・キリストとの出会いへと導きます。わたしたちの伝道活動もこのようにして行われます。

ペトロは単刀直入に、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と命じます。ペトロ自身がアイネアの病気をいやすのではありません。あるいはペトロが優秀な医者のところへ彼を連れて行くのでもありません。ペトロはただ主イエス・キリストを信じる信仰者として、主イエス・キリストこそが彼の病をいやしてくださることを信じて、命じているのです。命じているのはペトロですが、いやしのみわざを行っておられるのは主イエスです。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主としてわたしたちのすべての罪をゆるし、また病をいやしてくださいます。詩編103編の詩人は3~5節でこのように預言しています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒やし、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐みの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のように若さを新たにしてくださる」。主イエスはこの預言を成就されたのです。

アイネアに対するペトロの命令は3章6節で彼が神殿の境内に横たわっていた足の不自由な人に語りかけた言葉と似ています。3章6節にこう書かれていました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。それはまた、ルカ福音書5章24節で主イエスご自身が語られた言葉と似ています。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に、わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。ペトロのいやしのわざは、この主イエスご自身のみわざの継続と言ってよいでしょう。それらのすべてにおいていやしのみわざをなしておられるのは、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストご自身にほかなりません。ペトロをはじめ初代教会の使徒たちは主イエスによる罪のゆるしのしるしとして、このような病のいやしの賜物を与えられていました。

長い間寝たきりであったアイネアが起き上がり、それまで自分が寝ていた床を整えることは、主イエスを信じて罪をゆるされ、新しい信仰の歩みを始めたことの目に見えるしるしです。アイネア自身がそのことを体験したしるしであり、また周囲の人たちに対しても主イエスによる奇跡的ないやしと救いのみわざの目に見える、確かなしるしとなりました。それは、アイネアが長い間縛りつけられていた罪の奴隷からの解放のしるしであり、彼が縛りつけられていたすべての束縛からの解放のしるしです。

「アイネアはすぐに起き上がった」と書かれています。主イエスを救い主と信じる人は、すべての奴隷と束縛の鎖から解き放たれ、自由にされ、罪と死の中から起き上がることができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたがみ子の十字架の死と復活によって、死の床から起き上がらせてくださり、新しい命に生きる者としてくださったことを感謝いたします。願わくは、わたしたちを日々新たに造り変え、あなたのみ心を行う者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月16日説教「十字架を背負って主イエスに従う」

2023年7月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書9章21~27節

説教題:「十字架を背負って主イエスに従う」

 ルカによる福音書9章18節から27節までは、福音書の前半の頂点であると言われたり、あるいは前半と後半を分ける分水嶺とも言われます。また、18~20節で、弟子のペトロが主イエスに対して、「あなたは神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白したペトロの信仰告白と、21~22節の、主イエスの第1回目の受難予告、そして23~27節の、だれでも主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるとの主イエスの勧めと、この三つのことは互いに関連しあっており、その関連の中で読まなければならないということ、これらのことを今までにも確認してきました。きょうはそれらのことを考慮しながら、23節以下の三つ目のことを学んでいきます。

 18節から27節までに語られている三つのことの中心は、二つ目の21~22節の主イエスの受難予告にあります。この受難予告を中心にして、その前のペトロの信仰告白を読まなければなりませんし、また23節以下の主イエスの勧めをも読む必要があります。

 つまり、「あなたは神から派遣されたメイア・キリスト・救い主です」というペトロの信仰告白は、主イエスが受難予告で語っておられるように、ご受難と十字架のメシア・救い主であるということが明らかにされているのです。当時のユダヤ人たちが期待していたような、イスラエルを武力でローマ帝国から解放する英雄的な王としてのメシアではなく、また、多くの人が期待するような、わたしの人生を経済的にも精神的にも豊かにし、わたしの望みをかなえてくれるようなメシアでもなく、主イエスはご受難と十字架のメシアである、すなわち、全人類を罪から救うために苦難の道を歩まれ、最後にはご自身の命を犠牲にして十字架で死なれるメシアであるということを主イエスはここで明らかにされたのです。ペトロとのちの教会は十字架の主イエスこそが全世界の唯一の救い主であると告白すべきであり、教会は十字架の主イエスを信じ、告白することによって生きるべきであり、ただそうしてのみ、生きることができるのだということが、ここでは教えられえているのです。

 次に、主イエスの受難予告と23節以下の主イエスの勧めとの関連は、これについてはきょうの礼拝で詳しく学ぶことになりますが、その関連についてはすぐに明らかなように、わたしたちキリスト者が日々に自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるのは、主イエスご自身がわたしたちに先立ってその道を歩まれたからにほかなりません。

 そこで、わたしたちに先立って十字架への道を進まれた主イエスご自身のことをまず考えてみましょう。9章18節から27節までの箇所は、福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半の分水嶺であると紹介しましたが、このあとのルカ福音書を読むと、これ以後主イエスは確かにご自身の歩まれる道がエルサレムに向かっているということ、エルサレムでのご受難に向かっているということを深く意識しておられることが分ります。すぐに続いている28節以下の「山上の変貌」と言われる箇所もそうですし、44節の2回目の受難予告、そして51節にはこのように書かれています。【51節】。「天に上げられる時期」とは、主イエスのご受難と十字架の死、復活、そして昇天のすべてを含んでいます。それによって、神の救いの出来事が成就することを意味しています。主イエスは父なる神が備えられたこの道を、ご受難と十字架への道を、固い決意をもって進んで行かれます。それは、わたしたちの救いのためです。

 では、23節のみ言葉を読みましょう。【23節】。ここでは、主イエスの弟子であること、キリスト者であることが四つの表現によって言い表されています。一つには、「主イエスについていくこと」、二つに、「自分を捨てること」、三つは、「日々、自分の十字架を負うこと」、そして四つには、「主イエスに従うこと」。

 まず、一つ目の「わたしについて来る」は、直訳では「わたしのあとを行く」となります。主イエスをわたしの人生の先頭に立て、自分は主イエスの後をついて行くということです。わたしが自分の人生の先頭に立って、自分の道を切り開いていかなければならないのではなく、またそうする必要はなく、そうすべきでもないということです。わたしが自分の意志や知恵で選び取る道は、どれほどに慎重に選び、また熱心に努力しようが、それは罪の道であり、滅びに向かう道であるからです。わたしたちの心や思い、願い、また行動のすべては、神のみ心から離れており、神に背いているからです。主イエスの十字架がそのことを明らかにしました。わたしたち人間が自ら選び取ろうとするすべての道は神との交わりを破壊し、隣人との関係を破壊し、ついには自らを死と滅びへと至らせるほかにないのです。わたしたちの罪をゆるすために十字架の道を進み行かれた主イエスの後について行くことこそが、キリスト者とされたわたしたちが歩むべき道です。また、十字架の主イエスだけが、わたしたちの罪をゆるし、わたしたちが喜んで主イエスの後を行くことができる道へと、導いてくださるのです。

 二つ目には、「自分を捨てる」ことです。捨てるとは否定することです。これと同じ言葉が、主イエスのご受難の場面で用いられています。ルカ福音書22章56~57節を読んでみましょう。【56~57節】(156ページ)。ここで「打ち消して」と訳されている言葉と同じです。このときペトロは自分を守るために、自分を捨てるのではなく、逮捕されて裁判を受けている主イエスを否定し、捨てました。ペトロは十字架の主イエスにつまずき、十字架の主イエスを否定しました。自分の命と安全を守るために、十字架の主イエスを捨てました。主イエスの十字架の前では、そのようなすべての人間の罪が明らかにされるのです。

 では、自分を捨てるとはどういうことでしょうか。それはどのようにして可能になるのでしょうか。自分を捨てるためには、まず自分から解放されなければなりません。自分から自由にならなければなりません。自分の命と安全を守ることを第一に考える自分から、自分の地位や名誉や富を得ること第一とする自分から、自由になることです。そのような自分を否定し、わたしのために十字架につけられた主イエスをわたしの唯一の救い主として受け入れ、信じることです。それによって、わたしは罪に支配されていた自分から解放され、自由にされることができます。

 使徒パウロはそのことを、「古い罪の自分が十字架につけられて死んだ」(ローマの信徒への手紙6章6節参照)とか、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのだ」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)と言っています。主イエスの十字架によって罪の奴隷からは解放されたわたしは、喜んで神と隣人の僕(しもべ)として仕えるように変えられていくのです。

 三つめは、「日々、自分の十字架を背負うこと」です。「日々」と言われているように、それがキリスト者とされているわたしたちの毎日の信仰生活であるということです。この「日々」という言葉の意味を、「ペトロの信仰告白」で教えられていることとの関連で考えてみましょう。

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会です。信仰告白を重んじるとは、『日本キリスト教会信仰の告白』を礼拝の中で全員が唱和するとか、その『信仰の告白』について深く学ぶとかいうことだけではありません。わたしたち一人一人の日々の信仰生活が、「主イエスこそが神から遣わされたメシア・キリストであり、わたしたちの罪のために十字架で死なれた唯一の救い主である」という告白に生きるということ、日々の信仰の歩みで、今の時代の中で、自分が置かれている場で、そのことを証しして生きるということ、それが信仰告白を重んじる教会であるということなのです。

 「自分の十字架を背負う」とあるように、主イエスの十字架ではなく自分の、わたしの十字架を背負うと言われています。これはどういうことでしょうか。わたしが主イエスと同じように自分の罪の贖いのために十字架で死ななければならないということでしょうか。そうであるはずはありません。わたしの救いは主イエスがご自身の十字架の死で完全になし遂げられたのですから、わたしがそれに何かを付け加えなければならばいということでは全くありません。

 ある人たちは、わたしたちキリスト者がこの世で担わなければならない重荷や苦難、あるいはキリスト者が不当に負わされている重圧とか迫害のことではないかと考えます。でも、それは正確ではありません。十字架が持っている負のイメージをここで強調するべきではありません。むしろ、自分が背負うべき十字架はすでに主イエスがわたしのために背負って、ゴルゴタの処刑場まで歩まれた十字架であることを強調すべきでしょう。だから主イエスは言われました。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに平安が与えられる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11章29~30節参照)。

 わたしが背負うべき十字架はすでに主イエスが負ってくださった十字架です。そこから、わたしの十字架が理解されます。すなわち、すでに主イエスの十字架によって罪ゆるされたいるわたしが、罪ゆるされていることの確かなしるしとして背負う十字架です。それは感謝と喜びのしるしとしての十字架です。あるいはまた、主イエスが死と復活と昇天によって罪と死とに勝利され、わたしたちを天にある神の国へとお招きくださっておられることの確かなしるしとしての十字架です。それゆえにわたしは、日々罪の自分に死に、日々に悔い改めつつ、日々に主イエス・キリストによって新しい命に生かされながら、神の栄光のために仕え、神と隣人のために自らをささげて生きる道へと招かれているのです。

 四つ目は「主イエスに従うこと」です。主イエス以外のだれをも、いかなるものをも、わたしの主とはしない、それらには従わないということです。ただ、主イエスにだけ聞き従うということです。なぜならば、これまでに学んだように、主イエスがわたしのためにご自身の尊い命をささげつくして開いてくださった命の道へ、幸いな道へとわたしを招いてくださっておられるからです。わたしはその道で、感謝と喜びに満たされつつ、主イエスによって託された務めを担っていくでしょう。「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」(5章10節参照)との主イエスの招きを聞くでしょう。「あなたの敵を愛しなさい」(6章27節参照)との命令を聞きます。「あなたのともし火を高く掲げて、すべての人に見えるようにしなさい」(8章16節参照)との勧めを聞きます。その他のすべての主イエスの招きの言葉、務めへの召し、幸いの約束、それらのすべてのみ言葉を、喜んで聞き、主イエスに従って行くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪から救うために苦難と十字架への道を歩まれた主イエスの大きな愛と恵みを心から感謝いたします。どうかわたしたちが、罪ゆるされ救われている信仰者として、あなたのご栄光を表す歩みを続けることができますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月9日説教「夢を解き明かすヨセフ」

2023年7月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記40章1~23節

    コリントの信徒への手紙二4章7~18節

説教題:「夢を解き明かすヨセフ」

 創世記37章から「ヨセフ物語」が始まります。これは創世記の最後50章まで続きます。ヨセフは族長ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どもの11番目に生まれた子です。彼は父ヤコブが年取ってから生まれた子であり、しかも愛する妻ラケルにようやくにして与えられた子でしたから、ヤコブはことさらに彼をかわいがり、他の子どもたちの中で特別扱いをして育てました。

 あるとき、ヨセフは夢を見ました。その夢で、兄たちがみんな自分の周りに集まり、自分の前にひれ伏していたと話しました。また別の夢で、父と母と11人の兄弟みんなが自分の前でひれ伏していたと話しました。これは何とも傲慢で、わがままで独りよがりな夢の内容です。父ヤコブはヨセフを叱り、兄たちはいよいよ彼を憎むようになったのは当然でした。ある日、兄たちは羊の放牧で家から遠く放れていたとき、ヨセフをエジプトに向かう商人に売り飛ばしました。しかし、父にはヨセフは野獣に食い殺されたと報告しました。以上が37章のあらすじです。

 39章では、ヨセフがエジプトの宮廷の役人ポティファルの家で奴隷として働いていたことが語られます。39章2節には、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と書かれています。同じような主なる神の導きについて、3節、4節、また21節、23節にも繰り返されています。兄たちの憎しみをかい、エジプトに売られ、奴隷となったヨセフでしたが、そのエジプトにあっても、神は常にヨセフと共におられ、彼の道を導かれたことが強調されています。

神はイスラエルの約束の地カナンだけでなく、異教の地、奴隷の地であるエジプトにあっても、ご自身が選ばれた民の一人をお忘れにはなりません。このことは、やがて400年以上もの時を経て、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される出エジプトの出来事を用意しているように思われます。

 ヨセフはポティファルの家で全財産の管理まで任せられるほどの信頼を得ていましたが、ある時彼の妻の策略によって無実の罪をきせられ、投獄されてしまいます。しかし、主なる神は獄につながれたヨセフをお見捨てにはなりませんでした。【39章21~23節】。かつて、兄たちによってエジプトに売り呼ばされたヨセフ、そして今またエジプトで獄に捕らわれの身となっているヨセフを、神はお用いになって、ご自身の救いのご計画をさらに進められるのです。

 次の40章では、夢を解くヨセフのことが語られます。41章でも、エジプトの王ファラオの夢を解くヨセフのことが語られます。きょうはこの2章から、夢を解き明かすヨセフについて学んでいくことにします。

 ヨセフがつながれていた牢獄に、エジプト王の給仕役の長と料理役の長が一緒に投獄されることになり、ある夜に二人とも同じ夢を見ました。その夢の不吉さにゆううつな顔をしている二人を見たヨセフが、彼らに尋ねます。【6~8節】。

ヨセフは二人の囚人仲間の顔色の変化に気づいています。今まではいつも自分が中心で、自分のことだけを気にして生きてきたヨセフでしたが、一人異教の地エジプトで労苦を重ね、少しずつ他者へと目が開かれていったのかもしれません。他者の心が理解できるように神によって変えられていったのでしょう。

夢を解き明かすことは古代エジプト時代では一つの学問でした。夢解きに関する多くの文献が残っているそうです。この二人の給仕役と料理役の長も、自分たちが見た不吉な夢の解き明かしを依頼すべき学者がたくさんいたと思われますが、ここは牢獄ですからそれも自由にできません。

 その時、ヨセフが発言します。「夢の解き明かしをなさるのはイスラエルの主なる神です。どうぞわたしにその夢を話してください。神からの知恵を与えられているわたしが解き明かしましょう」と。ここには、エジプトで重んじられていた夢解きの学問に対する軽蔑が含まれているのかもしれません。ヨセフの発言の意味はこうです。どんなに優れた知恵であっても、それは人間の限界ある能力によるものに過ぎない。イスラエルの神は人間の能力をはるかに超えて、未来に起こるべきことをすでに今見ておられ、あるいはまた、ご自身の計画を確かに実現に至らせる全能の力を持っておられる。そして、その夢解きの知恵を、選ばれた民であり、神の僕(しもべ)であるこの自分に霊的な賜物として授けてくださっておられる。ヨセフはそのように語るのです。

 聖書では、夢は神の啓示の手段の一つです。神は人間が寝ている間に、夢でご自身のみ心を、ご計画をお語りになります。ヨセフは兄たちから「あの夢見る者」と言われ、からかわれていましたが、彼が見た二つの夢、すなわち11人の兄弟たちと両親までもが自分の前にひれ伏すようになるという夢は、傲慢でわがままなヨセフの独りよがりの夢物語というのではなく、確かにそこに主なる神の隠されたご計画があったのであり、そのことが実際に創世記の終わりで実現するようになるということを、わたしたちはやがて読むようになるでしょう。

 ヨセフは神から与えられた知恵によって二人の夢を解き明かします。給仕役の長の夢は、三日後に彼がファラオのゆるしによって再び元の職務に戻されるという意味です。料理役の長の夢は、三日後に彼はファラオによって処刑され、木にかけられて、鳥がその肉をついばむという意味です。そして、三日後のファラオの誕生日には、実際にその二つのことが起こったと書かれています。

 ヨセフの夢解きがそのとおりになったので、釈放された給仕役の長がヨセフのことを王に執り成して、ユセフを牢から解放することを期待していたヨセフでしたが、給仕役の長はヨセフのことを忘れてしまったので、ヨセフはなおしばらく投獄されたままで、41章へと続いていきます。

41章でも、わたしたちはイスラエルの神、族長たちの神は、その後2年間の獄中のヨセフを決してお忘れにはならなかった、エジプト王ファラオの前に立つヨセフを絶えず支え、導かれたということを何度も確認することになるでしょう。給仕役の長がヨセフのことを忘れていたという事実が、かえってヨセフをエジプト王ファラオの前で神から与えられた知恵を示すきっかけとなるのです。

 2年後に、ファラオは不吉な二つの夢を見ました。一つは、良く肥えた七頭の雌牛がナイル川から上がってくると、その後に上がってきた醜い、やせ細った七頭の雌牛がそれを全部食べ尽くしたという夢でした。王がすぐ続けてみた夢は、良く実った七つの穂が、そのあとから出てきた実が入っていない干からびた七つの穂によってのみ込まれてしまったという、これもまた不吉な夢でした。

 不安に思った王は、エジプト中の魔術師や賢者を呼び集めて、夢の解き明かしをさせましたが、だれも解き明かすことができる者はいませんでした。その時になって、給仕役の長が2年前に牢獄で自分の夢を解いてもらったヨセフのことを思い出し、そのことを王に申し出ました。そこで、王は獄中からヨセフを呼び寄せることになりました。

 【14~16節】。16節のヨセフの言葉は40章8節の言葉を思い起こさせます。夢を解く知恵をヨセフにお与えくださるのは主なる神です。ヨセフはその神に仕える僕です。ヨセフはエジプト王ファラオの前でも、イスラエルの主なる神の証し人として立っています。自分自身はその主なる神の仕え人、僕であるにすぎないことを告白します。同じようなヨセフの信仰は、【25節】、【28節】、そして【32節】でも告白されています。ファラオとその国の歴史のすべてを支配し、導いておられるのは主なる神です。だれもそれに逆らうことも、そこから逃れることもできません。これがヨセフの信仰です。

 ヨセフはかつて父の寵愛を受けて、わがままで高慢な子どもに育ちました。兄たちからは憎まれました。でも、エジプトに売られ、そこで奴隷として仕え、また2年以上もの長い投獄生活を強いられ、そのような試練の中で、ヨセフは信仰の訓練を受けたのだと思います。異教の地にあっても、族長アブラハム、イサク、ヤコブが信じた主なる神を、ヨセフは信じ続けました。

 さて、ヨセフの知恵はファラオの夢を解くことにとどまらず、神がこれから計画しておられることに対する備えをする知恵にまで及びました。ファラオの夢は、7年間の大豊作と、その後の7年間の飢饉を予告しているとヨセフは語ります。この神の決定はだれにも変更できません。そこで、ヨセフは王に提案します。7年間の大豊作の期間に、収穫物の五分の一を国民から徴収して倉庫に蓄えさせ、その後の7年間の飢饉にあらかじめ備えておくようにと進言します。

 ヨセフのこの提案を聞いた王は、彼の知恵に感心し、ヨセフをエジプト全土の宰相、すなわち総理大臣に任命しました。【37~42節】。エジプト王ファラオがイスラエルの神についてこのように告白することは全くの驚きと言えます。神はこの世のもろもろの王にも、世界のもろもろの神々にも勝利しておられます。それらのすべてをお用いになって、ご自身の救いのお計画をお進めになります。

そののちヨセフは、王の勧めによってエジプト人と結婚し、7年間の大豊作の期間に国中の食料を集めて倉庫に貯蔵させました。【50~52節】。二人の子どもの名前に、ヨセフの信仰告白が言い表されています。エジプトで大成功をおさめ、最高の位につき、幸せの絶頂にいるときでも、ヨセフの信仰は揺るぎませんでした。彼が与えられた幸いのすべては、主なる神から与えられたものであり、彼が自分の手で得たものではありません。ヨセフの生涯は確かに苦労の多い、悩みに満ちた日々でした。その中で、神は彼に憐みを施し、彼の生涯を祝福されました。

 飢饉は世界中に広まり、世界の国々は食糧を求めてエジプトの大臣ヨセフのもとにやってくるようになりました。カナン地方にいた父ヤコブとその11人の子どもたちも、エジプトに穀物があるというニュースを耳にしていました。そのようにして、ヨセフが子どものころに見た夢が、図らずも実現することになるのです。すべては主なる神のご計画です。

 神の救いのご計画は、ヨセフの時代から400年以上を経たモーセの時代の出エジプトの出来事へ、さらにそれから千数百年を経て、主イエス・キリストの誕生へと前進していきます。主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を経て、その後の2千年の教会の歩みをとおして、さらに前進していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もなお造られたすべてのものをみ手のうちに治め、導いておられます。あなたはまた、永遠の救いのご計画により、全世界の歴史とわたしたち一人一人の歩みをも導いておられます。あなたは時に、わたしたちが経験する試練や苦難をとおして、あなたの尊いみ心を示したまいます。願わくは主なる神よ、どのような時にも、あなたが最もよい道をわたしたち一人一人に備えてくださることを信じ、あなたに聞き従って行く信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月2日説教「聖霊なる神の働き-聖化」

2023年7月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(24回)

聖 書:イザヤ書6章1~7節

    ローマの信徒への手紙8章1~16節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖化」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の四つ目の文章は、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」と告白しています。ここでは、聖霊なる神のお働きについて告白されています。キリスト教教理で「聖化」と言われる教えです。ここでは、キリスト教教理の用語の「聖化」という言葉がそのまま用いられていますが、聖書の中に、「聖化」あるいは「聖化する」という言葉が用いられている箇所はありません。類似した言葉としては、「聖である」「聖なる」「聖とする」「聖別する」「清める」などの言葉が数多くあります。聖書で用いられているこれらの言葉は、キリスト教教理の「聖化」とは、厳密に言えば少し違った意味を持ちます。

 そこできょうは、「聖化」という教理を正しく理解するために、聖書で用いられているこれらの言葉の意味をまず学んでいきたいと思います。旧約聖書でも新約聖書でも、「聖」は、神の本質を言い表す言葉です。神は聖なる方です。ただ、神だけが聖なる存在です。神以外の、他のすべてのものは、聖ではありません。この世に属するもの、この世界、地上に属するものです。

 その意味で、聖とは、この世からは全く区別されたものであると言ってよいでしょう。神はこの世のすべてのものからは全く区別された聖なる方、永遠なる方、完全なる方、全能なる方、罪や汚れのない清い方、義なる方、そして唯一の創造者なる方であられます。それに対して、神以外のすべてのものは、わたしたち人間を含め、神以外のすべてのものは、神によって造られた被造物であり、過ぎ去り、移りゆき、滅ぶべきこの世に属し、不完全なもの、限りあるもの、弱くはかないもの、罪あるものです。このように、神と人間との絶対的な違い、区別に基づいた神の超越性が、神の「聖」です。

 預言者イザヤはエルサレム神殿で神と出会ったとき、神の使いセラフィムが互いにこう呼び交わす声を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ書6章3節)。そのときイザヤは言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者、しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(同5節)。このあと、イザヤは神によって罪と汚れがゆるされ、清められ、イスラエルの預言者として派遣されていきます。

 この世に属する人間は、本来、聖なる神のお姿を見ることも、そのお声を聞くこともできない。もしそうすれば、人間は滅びなければならない。死ななければならない。聖なる存在である神は、聖でない存在に対して、超越的な力、破壊的な力を持つ。そのように考えられていました。

 では、聖なる神に罪びとなる人間が近づくことは全くできないのでしょうか。この世に属する、罪に汚れた滅ぶべき人間が、聖なる神に近づくことが許される唯一の道を、神は備えてくださいました。それが、神礼拝です。わたしたち人間が聖なる神のみ前に恐れと全きへりくだりとをもって神を礼拝するときに、初めてわたしたちは神に近づき、神と交わることが許されます。

 けれども、そのままでは人間は汚れた者ですから、聖なる神のみ前に立つことができません。神のみ前に立つために、人間は聖別されなければなりません。聖別とは、聖なる神のみ前に出るために、この世のものから区別され、分離され、神に属する者に、神にささげられた者に変えられることです。

 神は全世界の中からイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民として聖別されました。神はまた一週間のうちの一日を聖なる日、安息日として聖別されました。この日に、神に選ばれ、聖別されたイスラエルの民は、自分自身を神にささげられた者として、この世から自らを分離し、この世でのあらゆる関係やこの世での働きをすべて中止して、神を礼拝しました。そのようにして、彼らは聖なる神との交わりを持ち、神と出会い、神のみ言葉を聞き、神の救いのみわざを経験したのです。

 また、イスラエルの礼拝の中では、罪の贖いのためにささげられる動物も聖別されなければなりません。神にささげられる羊、ヤギ、牛などの家畜は、群れの中の傷がない肥えたものが選ばれ、数日前から群れからは分離されて備えておかれなければなりません。神は言われました。「わたしが聖なる者であるゆえに、わたしを礼拝する者もまた聖なるものとならなければならない」と。

 以上のことから確認されるように、聖書の中で言われる「聖」あるいは「聖別する」とは、神に属するもの、神にささげられるためにこの世から選び出され、この世から分離されるという意味です。

 さて、『日本キリスト教会信仰の告白』で告白されている「聖化」を考える場合にも、このような「聖」という言葉の意味から出発しなければなりません。聖化とは聖なるものに変えられていくことだからです。それは端的に言えば、わたしたちが神のものとされていく過程であると言ってよいでしょう。わたしがかつてはこの世に属していたが、次第に神に属する者へと変えられていくこと、わたしがこの世のものを求め、この世を基準にして生きてきた生き方から、神を求め、神を基準にして生きる生き方へと変えられること、わたしが自分自身のために生きていた生き方から、神に自らをささげ、神のために生きる生き方へと変えられていくこと、そのようにしてわたしが一歩一歩、神のものとされていく、その過程が聖化なのです。

 ここで、もう一つの重要なポイントは、その聖化は徹底して聖霊なる神のお働きであるということです。『信仰告白』のこの箇所の主語は聖霊です。わたしが自分の努力や自分の行動、意志によって自分を聖化するのではありません。あるいは、わたしの信仰がわたしを聖化するのでもありません。聖化は聖霊のみわざです。

 「聖霊は、信じる人を聖化し」と告白されているように、わたしたちがなすべきことは信じることです。主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしの罪がゆるされているということを信じること、その信仰によって生きることです。もちろん、わたしにその信仰を与えてくださるのも聖霊なる神です。主イエス・キリストの十字架の死と復活がわたしの救いのためであることをわたしに信じさせ、その信仰によってわたしを義と認め、わたしを罪から救ってくださる、そのすべてが聖霊なる神のお働きです。その聖霊がそののちも常にわたしをとらえ、導き、わたしを聖化の道へと進ませてくださるのです。

 『信仰告白』の一つ前の文章では、「キリストにあって義と認められ」とあり、続いて、「信じる人を聖化し」とあります。義認と聖化は結びついています。義認には聖化が続きます。義認だけでは救いは完成しません。義認に聖化が続き、終わりの日の信仰の完成へと至ります。

 ところで、日本キリスト教会はどちらかと言えば聖化をそれほどには強調しないと言ってよいかもしれません。18世紀イギリスのジョン・ウェスレーを源流とするメソジスト派や今日の聖霊派と言われる教派は聖霊を強調します。彼らが考える聖化は、キリスト者が日々の生活の中で,祈りや学び、愛のわざなどの信仰の訓練を積み重ねることによって、罪と悪に勝利し、清められ、ついには全き聖化に達すると言います。ウェスレーは『キリスト者の完全』という書物を書いています。

 けれども、このような聖化の理解によれば、人間の意志や努力がどうしても重要視され、人間のわざ、道徳、倫理が強調されることになります。わたしたちの教会はそのことを警戒して、聖化を極端に強調することはしません。聖化はあくまでも聖霊なる神のみわざなのであり、わたしたち信仰者の努力義務をそこに持ち込むことは避けるべきだと考えています。

 では、わたしたちの聖化は具体的にどのようになされるのか。聖霊の聖化の働きはどのようにしてなされるのでしょうか。わたしたちの信仰にとって重要なポイントを二つにまとめましょう。

 第一には、わたしたちの聖化の道の出発とその過程、そしてその最終目的は主イエス・キリストにあるということです。ヘブライ人への手紙12章2節に、「信仰の創始者また完成者であるイエス」と書かれています。わたしたちのために十字架への苦難の道を進み行かれ、その死を耐え忍ばれ、今や勝利者として天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストのみあとに従って行く道が、聖化の道です。主イエスはこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と。「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリントの信徒への手紙一1章30節)主イエスの招きに応えて、主イエスが歩まれた道、主イエスが備えてくださった道を、従順に従い行くこと、それがわたしたちの聖化です。そして、主イエスが再びおいでになられるときには、わたしたちは主イエスのお姿をありのままに見ることが許され、わたしたちも主イエスのお姿に似た者に変えられるのです(ローマの信徒への手紙8章30節、ヨハネの第一の手紙3章2節参照)。そのとき、聖化の道は最終目的に達するのです。

 もう一点は、わたしたちは常に聖化の道の途上にあるということです。わたしたちは宗教改革者たちが言ったように、常に、罪びとです。しかしまた、常に、罪ゆるされている罪びとです。それゆえに、日々、罪を悔い改めつつ、また日々、罪ゆるされていることを感謝しつつ、神を礼拝する信仰生活を続けることが、聖化への道です。

わたしたちはまだ完全な者になっているのではありません。しかし、そうでありつつ、最後の勝利と完成の時に向かっていることを知っています。だから、わたしたちが「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(フィリピの信徒への手紙3章12節以下参照)にほかなりません。この聖化への道を、聖霊は常にわたしと共におられ、わたしを導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪と滅びから解放し、救いの道へとお導きくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちはなおも弱くつまずきやすく、迷う者です。どうか、あなたが聖霊をもってわたしたちの信仰の道を導いてください。終りの日の完成に至るまで、希望と喜びとをもって信仰の道を歩ませてください。

○父なる神よ、不安や恐れの中にある人たちを天からのまことの光で照らし、慰めと平安をお与えください。重荷を負い、生きる困難を覚えている人たちに、主キリストにある励ましと勇気をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。