10月29日説教「ペトロが見た幻」

2023年10月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記14章3~21節

    ルカによる福音書10章9~23節

説教題:「ペトロが見た幻」

 使徒言行録10章1節から11章18節までは、異邦人であるコルネリウスが回心してキリスト者になったという出来事が記されています。ここでは、初代教会にとって大きな問題であった重要なテーマがいくつか取り扱われています。それは三つにまとめられます。

 一つは、旧約聖書の律法に定められている食物規定をキリスト者も守らなければならないのかどうか。特に、ユダヤ人ではない異邦人であって、キリスト者になった場合はどうか、という課題がありました。食物規定というのは、レビ記11章や申命記14章に書かれていますが、イスラエルの民にとって食べてもよい清い生き物と食べてはならない、宗教的に汚れた生き物とが定められていました。これは、その生き物が何か体に害になるとか、それを食べたら病気になるというのではなく、神がイスラエルの民を神に選ばれた聖なる民として訓練するために定め、それを守るようにと命じた神の戒めでした。

 二つには、その食物規定と関連していますが、イスラエルの民は長く汚れた生き物を食べず、自らを聖なる民として保ってきましたが、異邦人はこれまで宗教的に汚れているとされた生き物を食べてきたので、その体に汚れがまといついている。だから、イスラエルの民は異邦人と食卓を共にすることを避けてきましたが、キリスト者になってからもこの慣習を続けるべきかどうかが初代教会にとって大きな問題とされました。

 三つめは、異邦人伝道という課題です。いわゆるユダヤ教はイスラエルの民、ユダヤ人だけが宣教の対象でした。しかし、主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人の救いを目指していることを自覚した初代教会は、先に選ばれたユダヤ人がまず第一に宣教の対象であると考えましたが、ユダヤ人以外の異邦人にも主キリストの福音を宣べ伝える使命を神から託されているのだということが、ここに記されているコルネリウスの回心の出来事によって、より明確にされたのです。

 以上の初代教会の課題を考えながら、きょうのみ言葉を読んでいくことにしましょう。前回学んだ1~8節では、カイサリアに駐留していたローマ軍の百人隊長コルネリウスはユダヤ教に正式に改宗はしていませんでしたが、旧約聖書の神を信じ、その教えを重んじる、いわゆる敬神家と呼ばれる信心深い異邦人でした。彼が午後3時の祈りをささげていると、神の使いが現れ、「ヤッファに滞在しているシモン・ペトロを家に招きなさい」との命令を聞きました。彼はすぐに使いをヤッファに送りました。

 同じころ、きょう朗読した9節に、3人の使いがヤッファに近づいたと書かれています。昼の12時、ペトロは祈るために屋上に上がりました。その時、ペトロは「天が開いて、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りて来る」という幻を見ました」(11節)。

 コルネリウスとペトロにはいくつかの共通点があることに気づきます。第一に、二人とも祈りの時に神からの語りかけを聞いたということです。コルネリウスは午後3時の祈りの時(3節)、ペトロは昼の12時の祈りの時(9節)でした。いずれも当時の敬虔なユダヤ教の信者が毎日三度の祈りの習慣をもっていた時間帯です。神はユダヤ人キリスト者ペトロの祈りを、また敬神家の異邦人コルネリウスの祈りをもお聞きくださり、その祈りに応えてくださいました。

 第二には、二人とも神から与えられた幻を見たということです。3節に、「神の天使が入って来て、『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た」とありました。ペトロは天からつるされた大きな布のような入れ物を見ました。これも幻です。聖書で言われている幻とは、ぼんやりとした幻想とか幻影のことではありません。神がご自身を人間に現わされる際の、はっきりと目に見えたり、耳に聞こえたりする、神の顕現を意味します。罪に汚れている人間は聖なる神のお姿を直接に見ることはできませんので、聖書ではそれを幻を見たと表現しています。

 三つ目の共通点は、神から与えられた幻は目に見える形と同時に神の語りかけとが一緒になっているということです。目に見える形としては,3節では神の天使の姿、11節では天からつるされた大きな布でした。神の語りかけは4節以下と13節以下に書かれています。この両者が一緒になって神の顕現、神がコルネリウスとペトロとに出会ってくださったということの確かさを強調しているのです。

 そして、二人が見た幻に導かれて、コルネリウスとペトロとが24節以下で直接出会うことになるのです。

 さて、ペトロが見た幻がどんなものであったのか、それによって神はペトロに何をお語りになったのかをみていきましょう。11節に、「天が開き」と書かれています。これは、ペトロが見た現象が天におられる神からの啓示であること、神からの幻であることを意味しています。

 【12~14節】。ペトロが天からの声が神のみ言葉であることを直ちに理解しています。そして、「自分は旧約聖書に定められている食物規定を厳格に守っているので、清い生き物と汚れた生き物が一緒に入れ混じっている入れ物から食べることはしない」と彼は答えます。同じ入れ物に清いものと汚れたものとが一緒に入っていると、清いものに汚れが移り、皆汚れてしまうと考えられていたからです。ペトロはキリスト者となっていましたが、この時点ではまだ旧約聖書の律法を厳格に守るユダヤ人でした。

 しかしながら、天から聞こえてきた神のみ声はペトロの考えを根本からくつがえす内容でした。【15~16節】。この神のみ言葉は、神が創造されたすべての被造物は神によって清められているという意味に理解されます。福音書に書かれている主イエスのお言葉もこれと同じです。【マルコによる福音書7章18~20節】(74ページ)。主イエスは、口から体の中に入る食物で人が汚れることはない。かえって、人から出る悪い思いや人が語る悪い言葉こそが、その人と周りの人とを汚すのだと言われました。

 では、これらのみ言葉から結論づけられることは、旧約聖書の食物規定の律法は廃棄されたということなのでしょうか。主イエスご自身は、「私は律法を廃棄するために来たのではなく、律法を完成するために来たのだ」(マタイによる福音書5章17節)と言われましたが、それと矛盾することにはならないだろうかという疑問が出てきます。この点について少していねいに考えていくことにしましょう。

 この疑問に答えるために、そもそも旧約聖書の食物規定がどのように定められたのか、それが何を目指していたのかを、神のみ心は何であったのかを読み取っていかなければなりません。礼拝では申命記14章の食物規定の箇所を朗読しましたが、食物規定に触れているもう一つの箇所、レビ記20章を読んでみましょう。【24節c~26節】(195ページ)。

 ここには、神が清い動物と汚れた動物との区別をお与えになった根本的な理由、目的が語られています。それは、イスラエルの民自身が神によって他の諸民族から区別されていることを教え、自覚させるためであり、それによって彼らが他の諸民族の宗教や生活慣習に習うことなく、自らを神に属する聖なる民として生きるためであると語られています。食物規定はイスラエルの民の選びを確かにすることを目指していたことが語られています。

 ところが、今や、主イエスの到来によって、主イエスの十字架の福音によって、救いの道がイスラエルの民だけではなく、諸国民のすべての人々に対して開かれました。主イエスの十字架の福音を信じる信仰によってすべての民が神に選ばれた民とされ、すべての人が神の恵みの選びに招かれているのです。それゆえに、清い食物と汚れた食物の区別をする必要がなくなりました。神が主イエス・キリストによって、すべての人の罪をゆるし、すべての人を罪から洗い清め、聖なる一つの神の民としてくださったからです。

 ペトロは同じ幻を三度見ました。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」というみ言葉を三度聞きました.それによって、ペトロは、ユダヤ人からは汚れた民と思われていた異邦人もまた神によって清められ民として、教会が受け入れるべきであるとの神のみ心を知らされたのです。

 ペトロはまだそのことをはっきりとは理解していませんでしたけれど、17節以下で、彼はそのことを確認することになりました。【17~22節】。コルネリウスの祈りの時に彼に現れて幻によって語られた聖霊なる神、またペトロの祈りの時にも彼に現れ、彼に幻を見せ、み言葉を語られた聖霊なる神、その神がこのようにして、23節以下に記されているように、コルネリウスとペトロに出会いの機会を備えてくださったのです。

ペンテコステの日に、弟子たちの上に注がれた聖霊によって、エルサレムに最初の教会が誕生し、その後教会が経験した数々の迫害にもかかわらず、否むしろそれらの迫害をお用いになって、教会を成長、拡大させてくださった聖霊が、今またユダヤ人だけでなく異邦人をも教会にお加えくださるためにお働きくださったのです。聖霊は今もなお世界の教会をとおして働いておられ、わたしたちの教会においても働いておられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子・主イエス・キリストによって全人類の救いのためになしてくださったみわざは、今もなお続けられていることを信じます。多くの困難を抱えている世界の教会を、また日本の教会を、そしてわたしたちの教会を、あなたか顧みてくださり、聖霊による力を増し加えてくださいますように。

○わたしたちは今特に、世界の平和のために祈ります。武器によって人間の命を奪い、家や自然を破壊することは、どのような理由であれ、あなたのみ心ではないと信じます。どうか、世界の為政者たちに戦争の愚かさとその罪とを覚えさせてくださいますように。和解と平和への道をあなたが備えてくださいますように、切に祈ります。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月15日説教「主イエスの二回目の受難予告」

2023年10月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書44章1~5節

    ルカによる福音書9章43~45節

説教題:「主イエスの二回目の受難予告」

 主イエスが、悪霊に取りつかれていた一人息子をいやされ、悪霊の支配から解放されたという奇跡に続いて、ルカによる福音書9章44節で主イエスは二回目の受難予告をされます。『新共同訳聖書』では43節を前半と後半とに分けて、その間に段落を設けて、「再び自分の死を予告する」という小見出しを付けていますが、これは42節までの奇跡のみわざと44節の受難予告とを分断させてしまうように思われるので、適切ではありません。

実は、この二つのことには深いつながりがあるのです。そのつながりは、わたしたちが18節から何度も確認してきたつながりと同じです。つまり、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の一回目の受難予告とがつながっているように、また23節以下の、キリスト者は日々に自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めが、その二つとがつながっているように、さらには28節以下の主イエスのお姿が山の上で栄光に輝いたという山上の変貌がそれにつながっているように、そして37節以下の悪霊に取りつかれた一人息子をいやされ、悪霊から解放されたという奇跡がそれにつながっているように、44節の二回目の受難予告もまたそれにつながっているのだということです。

ルカ福音書はそれぞれのつながりを強調しながら、一つ一つの主イエスのみ言葉、主イエスのみわざ、主イエスの出来事の意味を、より強め、深めているのです。わたしたちは聖書の記述の前後関係をていねいに考えながら、一つ一つの事柄の深い意味を探っていくことが求められています。

以上のことに注目するならば、43節はその節全体が前の悪霊追放の奇跡と、あとの二回目の受難予告とを結びつける役割を果たしているということに気づきます。しかもそれは、ある意味で逆説的な意味あいを持ったつなぎの文章と言えます。つまり、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれ、イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」が、そのような偉大な神のみ力を与えられていた主イエスが、ここで二度目の受難予告をされているのだ。罪びとたちの手に引き渡されようとしているのだ。偉大な力と権威とを持っておられた神のみ子が、このように無力になり、罪びとたちによって葬り去られようとしているのだということを、ルカ福音書は強調しているのです。あるいは、このように言い換えてもよいかもしれません。悪霊に取りつれた人から悪霊を追い出され、悪霊をすらも支配される主イエスに人々が驚いているけれども、本当に驚かなければならない神の最も偉大なる奇跡は、人の子・主イエスが十字架につけられるということなのだ。それによって、神は全人類を罪から救ってくださったということこそが、世界中の人々が心を打たれ、驚き、そして見上げるべき神の救いのみわざなのだ。そのことをルカ福音書は強調しているのです。

 では、以上のことに注意を向けながら、43節を読んでみましょう。43節の前半では「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」とあり、後半では「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」と書かれてあります。ここではまず、主イエスの悪霊追放の奇跡が神の偉大な、驚くべきみわざであったことが強調されています。それは、すべての被造物を支配しておられる全能の主なる神だけがなしうるみわざです。それとともに、ここでは神と主イエスとが結びつけられています。主イエスは神のみ子であり、神であることがここでは告白されているのです。主イエスが悪霊を追い出され、悪霊を支配していることは、そこに神のみ力が働いていることの目に見えるしるしなのであり、神のご支配のしるしなのです。

 主イエスは11章20節でこのように言われます。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスは神のみ子として、悪霊に勝利され、罪と死とに勝利され、神の救いの恵みによってすべての人を支配される神の国の王として、この世においでくださいました。そして、エルサレムで十字架にかかり、ご自身の罪なき尊い血をおささげになることによって、全人類の罪の贖いを成し遂げられ、救いのみわざを成就されるのです。

 【44節】。これは主イエスによる二回目の受難予告ですが、主イエスはまず「この言葉をよく耳に入れておきなさい」とお命じになります。主イエスはしばしば弟子たちに「よく聞け」とお命じになりました。8章8節や14章35節では、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。主イエスがこのように繰り返して弟子たちに「聞け」とお命じになった理由は、第一には、弟子たちは、またわたしたち信仰者は、主イエスのみ言葉を聞いて生きる者だからです。主イエスから聞かなければ、わたしたちの信仰の歩みは始まりませんし、正しく歩むこともできません。主イエスのみ言葉を聞き、それに教えられ、導かれて生きるのが、わたしたち信仰者です。

 第二には、弟子たちも、またわたしたちも、しばしば主イエスのみ言葉を忘れたり、他の言葉に耳を傾けたりしてしまう弱い者だからです。そこで、主イエスは繰り返して「よく聞け。耳を傾けよ」とお命じになります。わたしたちはその主イエスの命令を聞くたびに、わたしがそれまでいかに主イエスのみ言葉から離れた生活をしていたか、主イエスの導きに従っていなかったかに気づかされ、自らの罪に気づかされるのです。

 主イエスがご自身の受難予告を三度もされた理由も同様です。特に、主イエスの受難予告は、主イエスがどのようなメシア・キリスト・救い主であるのかを明らかにしていますから、誤ったメシア待望やご利益宗教界からわたしたちを守るために、非常に重要な内容を含んでいます。それゆえに、主イエスは何度もご自身のご受難と十字架、復活についてあらかじめ語っておられるのです。弟子たちとわたしたちを正しい信仰へと導き返そうとされるのです。

 一回目の受難予告は9章22節にありました。【22節】。そして、三回目は18章31節以下にあります。【31~33節】(145ページ)。二回目の受難予告は最も短くなっています。二つの点を取り上げましょう。

 一つは、主イエスはご自身のことを「人の子」と表現されているのは三つの受難予告に共通しています。受難予告の箇所に限らず、福音書の中で主イエスはご自身のことを「人の子」と表現しておられます。ご自身が「神の子」であるとか、「メシア・キリスト・救い主」であると、ご自身の口で言われるケースはありません。それはおそらく、当時のユダヤ人の間にあった、誤ったメシア待望論と混同されたり、誤解されたりするのを防ぐためではなかったかと推測されています。

 「人の子」という表現は、一般的に人間を意味する場合もありますが、福音書の中では特別な意味あいで言われているように思われます。それは、神が人の子、人間となられたたという意味です。主イエスは神が人となられた神のみ子であるということがこの表現で暗示されていると考えられています。特に、旧約聖書イザヤ書で預言されているような、神から特別の使命を託されて創造され、選ばれた人の子、特にまた、神の使命を果たすために苦難の道を歩む主の僕(しもべ)としての人の子という意味も含まれているように思われます。主イエスは旧約聖書のすべての預言を成就する神のみ子であり、「人の子」なのです。

 次に、「人々の手に引き渡される」についてです。「引き渡される」という言葉は三回目の受難予告でも用いられています。この言葉は、新約聖書の中で特別の意味を持った、いわば専門用語です。福音書の中では主イエスの受難予告の箇所と受難の場面にしばしば用いられます。パウロの書簡でも用いられています。この言葉がイスカリオテのユダについて用いられるときには、「裏切る」と翻訳されます。22章22節で主イエスはユダについてこう言われます。「人の子は、定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。ここで「裏切る」と訳されている言葉と「引き渡す」と訳されているもとのギリシャ語は同じです。

 この「引き渡す」という言葉には次のような意味が込められています。主イエスは人となられた神のみ子でしたが、罪びとたちの手から手へと引き渡され、ついには十字架に引き渡されたということです。まず、イスカリオテのユダに引き渡されます。ユダは主イエスをユダヤ人指導者の祭司長、長老たちに引き渡します。彼らは主イエスをユダヤ最高議会の法廷に引き渡します。ユダヤ最高議会はその裁判の際に、異邦人であるローマの総督ピラトの手に引き渡します。そして、ピラトはローマの処刑方法であった十字架刑に主イエスを引き渡します。そのようにして、主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、次々に罪びとたちの手に引き渡され、時に吟味され、時に侮辱され、そして捨てられ。十字架で死なれたのです。ここには、神がお遣わしになったメシア・キリスト・救い主である主イエスを受け入れず、信じないで、罪ありとして裁く人間の傲慢と、深く大きな罪とが暗示されているのです。

 使徒パウロはこの同じ「引き渡す」という言葉を全く違った意味で用いています。ローマの信徒への手紙8章32節にこのように書かれています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。パウロはここで、主イエスが罪びとたちの手によって次々と引き渡されていったという人間の罪の連鎖、その罪の深さ、大きさをもはるかにに上回る神ご自身の「引き渡し」のみわざを見ているのです。神はご自身のみ子を罪のこの世にお与えになっただけでなく、そのみ子を罪びとたちの手によって、最後には十字架の死へと引き渡されたのです。主イエスを十字架に引き渡したのは罪びとである人間たちであるかのように思われましたが、しかし実はそこで、人間のすべての罪をはるかに超えた神の大いなる愛があったのです。神はご自身の最愛のみ子をわたしたち罪びとにお与えくださったほどにわたしたちを愛されたのです。神はこのようにして、人間の罪のわざを神の救いのみわざへと変えてくださいました。ここに、神の偉大なる愛の「引き渡し」があります。ここにこそ、全世界のすべての人が驚きをもって見上げ、あがめるべき神の大いなる奇跡のみわざがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち罪びとたちのためにご自身の最愛のみ子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛され、わたしたちを罪から救ってくださいました。もはや何ものも、あなたのこの大きな愛からわたしたちを引き離すことはできません。主よ、どうかわたしたちをあなたが愛される民として、み国の完成の時に至るまで、守り、支え、導いてください。

○主よ、世界は混乱と危機に満ちています。戦争や破壊、災害や略奪、貧困や飢餓に苦しむ人たちが、全世界至る地域に、数多くおります。どうかこの悩める世界をあなたが顧みてください。憐れんでください。為政者たちに戦争の愚かさを気づかせ、あなたの愛と恵み、義と平和を与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月8日説教「神によってエジプトに遣わされたヨセフ」

2023年10月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記45章1~28節

    使徒言行録7章9~16節

説教題:「神によってエジプトに遣わされたヨセフ」

 きょうの礼拝で朗読された創世記45章では、37章から始まったヨセフ物語のクライマックスとも言うべき感動的な場面が展開されています。ヨセフはここで、20数年前に分かれた11人の兄弟たちに自分の身を明かし、彼らとの涙の再会をします。1節に、「ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした」とあり、2節には、「ヨセフは声をあげて泣いた」と書かれています。また、14節、15節にはこう書かれています。【14~15節】。ヨセフにとって11人の兄弟たちとの再会がいかに感動的であったことか、特に、ただ一人の弟ベニヤミンとの再会がどれほどに感動的であったことか、熱い涙と抱擁なしにはなしえなかったものであったということを、聖書は繰り返して強調しています。

 彼らがどうして別れなければならなかったのか、20数年前に彼らにどのようなことがあったのかを知っているわたしたちには、彼らの感動と涙の意味はよく理解できます。少し過去へと振り返ってみましょう。

 族長ヤコブの年寄子として生まれたヨセフは、父からの特別な愛を受け、他の兄弟たちからはねたまれていました。しかも、生意気で、夢見る少年であったヨセフは、父と母と11人の兄弟たちがみな自分の前にひれ伏して自分を拝んでいる夢を見たと話したために、兄たちの怒りと憎しみは頂点に達し、ついに彼らはヨセフをエジプトに向かう商人たちに売り渡してしまいました。そして、父ヤコブにはヨセフは野獣に食い殺されてしまったと報告しました。それ以来、ヨセフの消息は20数年間、彼らには全く分かりませんでした。

 一方、ヨセフはエジプトの高官の奴隷として仕え、主人の信頼を得ていましたが、根拠のない嫌疑をかけられ、投獄されてしまいます。ヨセフは異教の地で、家族から離れ、生きるか死ぬかもわからないまま、暗い牢獄の中で不安と試練の日々を送ることになったのでした。

 しかし、主なる神はエジプトのヨセフとも共におられ、彼をお見捨てになりませんでした。彼をお用いになって、新しくエジプトの地において救いのみわざを前進させてくださいます。

 ヨセフは神から与えられた知恵によって、エジプト王ファラオの夢を解き明かし、その知恵が王に認められたために、ファラオに用いられてエジプト全土の総理大臣の位につかされました。ヨセフの知恵によって、7年間の豊作の間にエジプトの倉庫は穀物で満杯になり、続く7年間の飢饉に備えました。

 カナンの地にも飢饉は広がり、ヤコブはエジプトにある食料を買うために子どもたちを派遣します。第1回目には、末の子ベニヤミンを除いて10人の子どもたちで出かけました。彼らはエジプトで自分たちがひれ伏して食糧を買い求めた大臣が、かつて自分たちが売り渡したヨセフだとは全く気づいていませんでした。ヨセフは次に来るときには末の子も一緒に連れて来なければならないと命じました。

 そして翌年、ベニヤミンを加えた11人の子どもたちは再び食糧を求めてエジプトの大臣ヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフが子どものころに見た夢が実現しました。その2回目のエジプト訪問のことが、43~44章に詳しく記されています.その続きがきょうの45章です。そこで初めて、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かしました。3節にはこのように書かれています。【3節】。このようにして、兄弟12人全員の感動的な再会の場面が描かれていくのです。

 けれども、ここでわたしたちはもう一つのことに注目しなければなりません。ヨセフと11人の兄弟たちの再会を感動的にしているのは、彼らの不思議な運命のめぐりあわせとか、しばらく離れていた肉親の情とかによるのではなく、あるいはまた、ヨセフに対する兄たちの憎しみや悪意、ヨセフ自身が経験した多くの試練、あるいは幸運とかの、それぞれのこれまでの起伏に富んだ人生の歩みとかによるのでもなく、それらのすべてを越えて働いている主なる神のみ手、神のみ心、神の導きこそが、この章では何度も語られており、強調されているということ、それこそがこの章全体を大きな感動で包んでいるのだということ、そのことにわたしたちは気づかされるのです。

 そのことが4節以下で、ヨセフの信仰告白として語られています。【4~8節】。ここに語られている内容は、37章から始まったヨセフ物語の中心的な意味であり、テーマであり、それはまたヨセフのこれまでの信仰の歩みを振り返っての信仰告白でもあります。さらにまた、それは新約聖書と旧約聖書全体を貫いている聖書の中心的なテーマであると言ってもよいでしょう。もう一度確認してみましょう。【5節b】。【7節】。そして【8節a】。三度も同じ内容が繰り返されています。これらの文章の主語はいずれも神です。しかも、人間たちの様々な悪意や憎しみや罪、あるいは苦難や試練の数々を越えて、それらを貫いてみ心を行なわれた主なる神が、すべての文章の主語です。すべての出来事、すべての事柄の主語です。その主なる神がわたしをこのように導いてくださったのだということを、ヨセフは繰り返して告白しているのです。

 ヨセフは自分が兄たちによってエジプトに売り飛ばされたということを忘れてしまったのではありません。4節では、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフである」と言っています。にもかかわらず、自分は神によってここに遣わされたのであって、それは神があなたがたの命を救うために、あなたがたの子孫を地に残すため、そのようになさったのだと告白しているのです。これは一体どういう意味なのでしょうか、なぜ、ヨセフはそう言うことができたのでしょうか。そのことをきょうのみ言葉から読み取っていきましょう。

 まず第一に言えることは、ヨセフはここで人間のはかりごとや行動ではなく、神のご計画、神の摂理、神のみわざを見ているということです。なぜならば、神の永遠なる摂理に基づいた神のみわざこそが、人間たちのすべてのはかりごとや行動を越えて、ヨセフの人生を導き、また人間の歴史を導いているということをヨセフは信じ、また今その現実を実際に見ているからです。すなわち、兄弟たちがヨセフをねたみ、憎しみを募らせて彼に悪しき計略をたくらんだにもかかわらず、神は20年の歳月を経て、今ここに兄弟たち全員を和解へと導かれ、しかも、かつて兄弟たちによって命を狙われ、売られたヨセフを、今は彼らの命を救うヨセフとなしたもうたからです。人間たちのどのような悪しき計略や罪のわざも、また苦難や試練も、神のご計画、神の救いのみわざを変えることも、止めさせることもできないのです。むしろ、神はそれらのすべてをお用いなって、それらのすべてを神の救いのみわざとなしてくださるのです。

 創世記最後の章で、ヨセフはもう一度このように言います。【50章19~20節】(93ページ)。また、使徒パウロはローマの信徒への手紙8章28節でこのように書いています。「神を愛する者たち、つまり、御計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神がわたしたちの人生を導かれる主でありたもうとき、また神が歴史の支配者であられる時、わたしたちもまたヨセフと共に,パウロと共に、そのように信じ、告白することができるのです。

 わたしたちはさらに進んで、主イエス・キリストの十字架の福音に思いを至らせるでしょう。当時のユダヤ人指導者たちが、またローマの総督が、こぞって神を冒涜する者、世を混乱させる者として裁き、十字架刑に処した主イエスを、神は全世界のすべての人の罪を贖い、その罪をゆるす救い主としてお立てくださり、この主イエス・キリストによってご自身の救いのご計画を最後の完成へと至らせたもうたのです。そのようにして神は族長アブラハム、イサク、ヤコブとその12人の子どもたちによって着々と押し進められてきた救いのみわざを成就されたのです。

 創世記45章のヨセフの信仰告白の基礎になっているもう一つのことは、7節に暗示されています。【7節】。この言葉は、わたしたちが創世記12章から繰り返して聞いてきた神の約束のみ言葉を思い起こさせます。創世記12章2節で神はアブラハムにこのように言われました。【12章2節】(15ページ)。また13章16節ではこう約束されました。【13章16節】。これをアブラハム契約と言います。この契約はアブラハムの子イサクへ、さらにその子ヤコブへ、そしてヤコブの12人の子どもたちによって形成されるイスラエルの民ヘと受け継がれていきました。ヨセフは今その神の約束のみ言葉、神の契約を確認しているのです。神の約束はエジプトと全国を襲った大飢饉の中でも有効に生きています。神の約束のみ言葉は、今食糧難にあるヤコブ一家の命を救うだけでなく、全世界のすべての人を罪と死とから救い、まことの命へと、永遠の命へと導くことによって、その最終目的に達するのです。

 9節以下で、ヨセフは兄たちに言います。「カナンの地に帰ったら、父ヤコブを連れて、一族みんなでエジプトに移住してきなさい。エジプトの最も良い地をみんなのために用意するから」と。

 このようにして、ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたち全員がエジプトに移住することになったのでした。しかし、もちろんエジプトが彼らの最終目的地ではありません。さらにそれから400年以上のエジプトでの寄留の生活を経て、彼らイスラエルの民は指導者モーセと共にエジプトの奴隷の家を脱出し、荒れ野の40年間の旅を経て、神の約束の地カナンへと帰っていくことになります。それからさらに千数百年のイスラエルの民の歴史を導かれた主なる神は、ついにこの民の中からメシア・救い主をお遣わしになるという、壮大な神の救いの歴史が展開されていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは創世記のみ言葉をとおして、あなたの永遠なる救いのご計画を知らされました。あなたは今もなお、その救いの歴史を導いておられます。今この世界はあなたのみ心から離れ、不義と邪悪に満ちているように見えますが、あなたは見えざるみ手をもって、この世界とその中に住む一人一人の歩みを導いておられます。どうか、あなたのみ名があがめられ、あなたのみ心が地にも行われますように。

○主なる神よ、あなたがこの世からお選びくださり、お建てくださった主キリストの教会もまた、多くの破れを持ち、痛み、弱っています。どうぞ、あなたを信じる民を強めてください。あなたのみ言葉によって力と勇気と希望とをお与えください。この時代の中で、それぞれの建てられている国や地域で、主キリストの福音を大胆に語り、あなたのご栄光を現わしていくことができますように。その群れに連なっている一人一人にあなたからの豊かな祝福が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月1日説教「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

2023年10月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(27回)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付け加えた構成になっています。『使徒信条』は紀元4~5世紀ころにかけて完成したと考えられています。基本信条の一つに数えられ、世界のすべての教会が信じ、告白しています。

 『使徒信条』に付け加えられた前文では、『使徒信条』の中でままだ十分に告白されていない、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の特徴、特に宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の信仰と神学の特徴をより鮮明に言い表しています。

 今わたしたちが学んでいる箇所でもそのことが確認されます。「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。この箇所で用いられている「三位一体」という言葉は『使徒信条』では用いられていません。また、「神の恵みによらなければ」という表現も『使徒信条』にはありません。「三位一体」なる神の恵みによってのみ救われるという教理は、宗教改革者たちが聖書から再確認したプロテスタント教会の神学の中心です。

 きょうは、「三位一体論」というキリスト教会教理に触れながら、「神の恵みによってのみ」という宗教改革が強調した信仰について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『使徒信条』と「三位一体論」との関係ですが、『使徒信条』の中には三位一体という言葉は用いられてはいませんが、そこにはすでにその信仰が前提にされていることは確かです。『使徒信条』の第1項では、「わたしは、天地の造り主、全能なる神を信じます」と告白し、第二項では「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」、そして第三項で「わたしは、聖霊を信じます」と告白しています。これは、三つの別々の神を信じることを告白しているのではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一人の神であり、唯一の主なる神が、父として、子として、また聖霊として働いておられ、一つの救いのみわざをなしておられるという、「三位一体」なる神が告白されていることは言うまでもありません。

 『日本キリスト教会信仰の告白』がその前文で「三位一体」というキリスト教教理の用語を用いているのは、古代教会から中世の教会、宗教改革の時代から今日に至るまでの教会の教理の歴史を重んじていることの表明であり、またその中で「三位一体論」が成立し、構築され、今もなお試みられているキリスト教教理の確立に向けての営みに自分たちもまた参加していることの表明でもあるのです。さらに言うならば、近代になって、キリスト教教理の伝統から外れて、全く独自の教えを説いてキリスト教会を混乱させている異端的キリスト教(彼らは一様に三位一体論を認めません)に対する明確な反対の表明でもあるのです。

 では次に、「神の恵みによらなければ」という告白の意味について考えていきましょう。この言い方には,強い否定の意味があります。「この三位一体なる神の恵みによらなければ」、だれ一人として、また他のどのような手段や方法によっても、決して救われることはなく、永遠の命を与えられることはなく、神の国に入ることはできないという、強い否定です。と同時に、このただ一つの道だけがある、これ以外にはない、これで十分だという強い断定でもあります。

 宗教改革者たちはこれを、「神の恵みのみによって」と表現しました。「神の恵みのみ」は「聖書のみ」「信仰のみ」と共に、宗教改革の、いわば合言葉でした。彼らはこの「のみ」という言葉を用いて、他のものを厳格に排除し、そのものだけに固執し、それだけに集中することによって、自分たちの信仰をより鮮明にしようとしたのでした。と言うのは、当時のローマ・カトリック教会がそうであったように、いつの時代にも、「神の恵みによってのみ救われる」というキリスト教信仰の真理がゆがめられ、あいまいにされ、神の恵み以外の他の何かによっても救われると考えたり、あるいは罪人が救われるためには神の恵みのほかに、これもあれも必要だと考える、そのような誤った信仰が教会を誘惑するからです。

 そのような誤った信仰理解との戦いは、すでに新約聖書の時代から始まっていました。主イエス・キリストの十字架の福音による救いが示されているにもかかわらず、ユダヤ人キリスト者は律法を守り行うことや、契約の民のしるしとしての割礼を受けることを救いの条件に加えました。パウロをはじめとする初代教会の使徒たちは、「神の恵みのみ」の信仰をゆがめるそのような誤った理解を教会から取り除くために戦いました。

 ローマの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚が生じるだけだ」(20節参照)と。それに続けて23節以下でこう言います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(23~24節)。ここに、「神の恵みにより」「無償で」と書かれています。神の恵みとはどのようなものであるのかがここから分かります。また、別の視点から、11章6節では、神の恵みによるとはどういうことであるのかが語られています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうなれば、恵みはもはや恵みではなくなります」。

 以上の2箇所の聖書から、神の恵みとはどのようなものなのかを教えられます。第一に、神の恵みとは、無償で、値なしに与えられるということです。何らかの報酬として与えられるものでは全くありません。神の恵みを受けるに値しない、いやむしろ神に背く罪びとであるわたしたちに対して、神の側から一方的に、神の憐みによって、神からの贈り物として、差し出され、与えられる恵みなのです。わたしたちはそれをただ驚きと感謝とをもって受け取る以外にない恵み、それが神の恵みなのです。そして、その恵みによってわたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

 第二に、神の恵みは他のすべてのものを排除するということ、不必要とするということです。あるいはまた、神の恵みに何かを付け加えるならば、それはもはや神の恵みではなくなってしまうということです。神の恵みは神の恵みだけで十分であり、純粋に神の恵みだけであるときに、最も大きな救いの力を発揮し、すべての人を罪から救うのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』で「神の恵みによらなければ」と表現し、宗教改革者たちが「神の恵みのみ」と言ったのは、そのような内容を含んでいるのです。

 では、もう一箇所、きょうの礼拝で朗読されたエフェソの信徒への手紙2章4節以下を開いてみましょう。ここには「恵み」という言葉が3度用いられています。5節に、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。7節では、「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです」。また8節では、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。神の恵みは豊かであり、限りなく広く、深く、数多くあります。その中で、ここで強調されているのは「救いの恵み」です。神の恵みの中で最も尊く、最も大きな恵みは「救いの恵み」です。罪の中で死んでいたわたしたちを、主キリストの十字架と復活の福音によって罪から救い、新しい命に生かし、来るべき神の国での勝利と栄光を約束してくださいました。その豊かな神の恵みの前で、わたしたちはだれも自らを誇ることはできません。わたしたちはただ信仰によって、主イエス・キリストがわたしのためになしてくださった救いのみわざを信じ、受け入れるのです。それがわたしたちの救いです。

 最後に、もう一度「三位一体なる神の恵みによらなければ」と告白されている、「三位一体なる神」という表現に注目してみましょう。別の言い方をすれば、「三位一体なる神」でなければ救われない、救いは完成されないということであり、また「三位一体なる神」の救いのみわざであるからこそ、それは完全であり、永遠であり、普遍的であるということを強調していることにもなります。

 『日本キリスト教会信仰の告白』でこれまでに告白されていた「三位一体なる神」のそれぞれのお働きについて振り返ってみましょう。冒頭の告白では、「わたしたちの唯一の主であるイエス・キリストがまことの神でありまことの人として、十字架で完全な犠牲をささげてくださり,復活して永遠の命の保証をお与えくださり、わたしの救いが完成される終わりの時まで、わたしのために執り成していてくださる」と告白されていました。

 次に、「父なる神の永遠の選びによって、この救いのみわざを信じるすべての人は、神によって義と認められ、罪ゆるされ、神の子どもたちとされる」と告白されていました。

 第三に、「聖霊なる神が、救われた信仰者を聖化し、神のみ心に喜んで従っていく人へと造り変えてくださる」ことが告白されていました。

 このようにして、お一人の神が、父なる神として、子なる神として、聖霊なる神として、三つの位格をフル稼働させるようにして、ご自身の全人格、すべての愛と恵みを注ぎ尽くすかのようにして、一つの救いのみわざのためにお働きくださっておられるのです。それゆえに、その救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍的であり,全人類を、すべての人を、罪から救う力を持つのだということが、ここで告白されているのです。その救いのみわざは、何かによって補われる必要は全くありません。また、それから何かを差し引いたり、付け加えたりする必要も全くありません。「この三位一体なる神の恵みによって」、わたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中で滅びにしか値しなかったわたしたちを、あなたがみ子の十字架の血によって罪から贖い、救いの恵みをお与えくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたを離れては、わたしたちはまことの命を生きることはできません。どうか、これからのちも日々あなたの命のみ言葉によってわたしたちを養い、み国が完成される日まで、わたしたちの信仰の歩みをお導きください。

○天の神様、病んでいる人を、またその人を介護する家族を励まし、支えてください。重荷を負って苦しんでいる人を助け、導いてください。孤独な人,道に迷っている人、飢え乾いている人、迫害されている人に、あなたが伴ってくださり、一人一人に希望と慰めと平安をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。