11月2日説教「エルサレム使徒会議の決議と使徒通達」

2025年10月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:レビ記17章10~14節

    使徒言行録15章22~35節

説教題:「エルサレム使徒会議の決議と使徒通達」

 紀元48年か49年ころに開催されたエルサレム使徒会議は、二つの重要な意味を持っていました。一つは、当時の原始キリスト教会、初代教会とも言いますが、そこで大きな問題となっていたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の信仰理解の違いからくる論争と分裂の危機に、この会議によって一定の共通理解が与えられ、原始キリスト教会が主イエス・キリストの福音のもとで一致することができたということです。第二には、のちの二千年にわたる全世界のキリスト教会にとって、教会の諸問題や諸課題に取り組む際に、教会の代表者が集まり、会議を開いて、話し合いによって事の解決を図るという、教会会議の原形がここで示されたということです。この二つのことは、今日のわたしたちの教会にとって、どれほどに有意義であったか、どれほどに世界の教会の存在を支え、健全に導く役割を果たしているか、そのことはどんなに強調しても強調し過ぎることはありません。

 きょうは、エルサレム使徒会議がのちの教会の歩みに与えた大きな意味を考えながら、その会議で決議されたことと、その決議を他のすべての教会に伝達するために作成された「使徒通達」と言われる文書について学んでいきます。

 会議に出席したメンバーは、現地のエルサレム教会からは使徒ペトロ、彼はエルサレム教会の指導的な立場にありましたが、それと主イエスの肉親の弟で、ペトロのあとにこの教会の指導者となったと考えられている長老のヤコブ、このヤコブが会議の議長を務めたと推測されます。それにユダヤ教のファリサイ派から信者になった何人かの長老たち。一方、エルサレムから北へ5、600キロのアンティオキア教会からは、使徒パウロとバルナバ、それに数人の長老たちでした。このほかの教会からの出席者があったかどうかは、具体的には記されてはいませんが、この会議に集まった議員たちは、当時パレスチナ地域だけでなく、地中海沿岸と小アジアの各地に広がっていた全世界の教会の代表者であるとの意識を、強く持っていたことは確かです。

 エルサレム教会とアンティオキア教会の成り立ちについて確認しておきましょう。エルサレム教会は、紀元30年ころ、主イエスがエルサレムで十字架につけられ、死んでから三日目に復活され、50日後のペンテコステのときに弟子たちの上に聖霊が降り、エルサレムに集まっていた3千人余りのユダヤ人がペトロの説教を聞いて、主イエスの福音を信じ、洗礼を受けてキリスト者となった、その時に誕生した世界最初の教会がエルサレム教会でした。教会員の全員がユダヤ人であり、かつてはユダヤ教の信者であり、神に選ばれた契約の民のしるしである割礼を受け、また旧約聖書の律法を重んじていました。彼らの多くはキリスト者になってからも、かつてのユダヤ教の教えや慣習を捨てきれずにいました。

 アンティオキア教会は、それから10年ほど後、エルサレム教会で起こった大迫害によって、使徒以外の多くのユダヤ人キリスト者がエルサレム市内から追放されたのですが、その何人かがアンティオキアまで逃れて来て、そこでユダヤ人以外のギリシャ人にも主イエス・キリストの福音を語り、多くのギリシャ人が洗礼を受けてキリスト者となりました。そのようにして誕生したのがアンティオキア教会ですから、そのメンバーのほとんどはギリシャ人でした。したがって、彼らは割礼を受けていませんでしたし、律法やユダヤ教の慣習を守るということもありませんでした。アンティオキア教会には、ペトロやバルナバのようにユダヤ人からキリスト者になった人もいましたから、各地に誕生した教会の多くも、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一緒に教会生活をしていたと思われます。

したがって、エルサレム使徒会議で協議されたことは、エルサレム教会とアンティオキア教会だけの問題ではなく、全世界の教会の課題であったのです。すなわちそれは、異邦人にも割礼と律法が必要なのかどうか、ユダヤ人のように割礼を受け、律法とユダヤ教の慣習を守るように義務付けるべきかどうか、そうしなければ異邦人の信仰は不十分であり、救いは不完全なのかどうかという問題です。

使徒言行録15章7節以下の使徒ペトロの証言も、12節のパウロとバルナバの証言も、そして13節以下のヤコブの証言も、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、全世界のすべての人の救いにとって十分であるから、異邦人に割礼や律法の重荷を負わせるべきではなく、その必要もないということで一致していました。

 議長の役を務めたヤコブは、その結論とともに、20節で次の項目を付け加え、それを文書にして諸教会に届けることを提案しました。【20~21節】。前回にもお話ししましたように、ヤコブがなぜこの項目を付け加えたのかの理由については、はっきり分かっていません。会議で最終的に決議された内容は、異邦人には割礼も律法の重荷をも負わせないというものであったはずなのに、ヤコブは20節で、旧約聖書のレビ記などに書かれている律法を守らせる必要があると言い、また21節でもユダヤ教の慣習を持ち出していますので、これが会議全体の決議に基づくものなのか、それともヤコブ個人の意見が反映されているのかは不明ですが、いずれにしても、会議での決議からは少しそれて、ユダヤ人キリスト者の理解に傾いているという印象はぬぐえません。

 このヤコブの提案については、今日の研究者の間でも種々の議論がありますが、結論的に言えることは、このエルサレム会議で初代教会のユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の信仰理解の違いとそこから生じる諸問題のすべてが解決されたわけではないということです。そのことは、あとで見るように、パウロの書簡からも確認できます。

 議長ヤコブの提案により、エルサレム会議の決議とヤコブが提案した20節の付帯事項とを書簡にしてアンティオキア教会やその他の教会に通知することになりました。パウロとバルナバ、それにエルサレム教会から派遣されたバルサバと呼ばれるユダおよびシラスが書簡を携えて、この書簡は「使徒通達」とか「使徒教令」と言われますが、彼らはまずアンティオキア教会を訪問します。この教会はパウロとバルナバが議員として派遣された教会ですが、今回はエルサレム会議から派遣された使者として、エルサレム教会から派遣された長老たちと一緒に教会員の前に立ちます。

 【23~29節】。ここでは最初に、15章1節に書かれてあったこと、すなわちエルサレム教会からアンティオキア教会に行ったある人たちが、「あなたがた異邦人キリスト者もユダヤ人キリスト者と同じように、割礼を受けなければ救われない」と勝手に語って、アンティオキア教会の人たちを混乱させたことをお詫びすることから始まっています。彼らはエルサレム教会から正式に派遣されたのではないということを明確にしています。そして次に、エルサレム会議での決議事項を伝え、さらに議長のヤコブが提案した付帯事項が29節で告げられます。その内容は、20節と少し順序は違いますが、一致しています。

 しかし、28節、29節の表現から解釈すると、会議での決議の中心は、異邦人に割礼を受けさせる必要はないし、律法を守る義務を負わせる必要もない、ユダヤ教の慣例に縛られることもないという内容であったはずなのに、この文章だと29節の付帯事項の方に強調点が置かれているように読めます。なぜもっとはっきりと、のちにパウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で語っているように、「ユダヤ人であるかギリシャ人であるかに関係なく、あるいはまた割礼があるかないかでもなく、だれであっても、すべての人は律法の行いによって救われるのはなく、ただ主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、一方的に神から差し出されている恵みによって罪ゆるされ、救われ、神のみ前に義とされ、神の民とされるのだ」と、明確な結論を出せなかったのかと、不思議に思われるかもしれません。パウロがこの付帯事項に賛成したとは、どうしても思えません。今日の研究者たちもこの点に疑問を投げかけています。

 では、パウロ自身はこの付帯事項で言われていることについて、どのような考えをもっていたのか、聖書から確認しておきましょう。

 コリントの信徒への手紙一8章では、偶像の神々にささげられた肉を食することについて書かれています(309ページ)。ユダヤ人は伝統的に異教の神である偶像にささげられた肉は汚れているとして、食べることをしませんでした。もしその肉が、偶像の神々にささげられた後で市場に卸され、うっかりその肉を買って食べると、食べた自分も罪に汚れてしまうと考え、その肉がどこから来たのかを慎重に吟味してからでないと、食べませんでした。しかし、異邦人からキリスト者になった人にとっては、肉はみな同じ肉であって、その汚れが食べて人の中に入ってくることはないと考えました。そこで、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が同じ教会で共同の食卓を囲むということが困難になってきました。このような問題が、初代教会では頻繁に起こっていたのです。。

 パウロはこの問題を取り上げ、教会の中に分裂が起こっていることを嘆いて、8章4節以下でこのように書いています。【4~6節】。天地万物の唯一の創造者なる神と、そのみ子である唯一の救い主なる主イエス・キリストを信じる信仰によって、そもそも偶像なる神は存在しないのだから、どれが汚れた肉であるかそうでないかと吟味することは愚かなことだと言っています。教会は、国や人種の違い、男女の違い、社会的地位の違い、その他あらゆる違いをはるかに超えて、主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、すべて一致するからです。これがパウロの結論です。

 「みだらな行い」については、少し前の5章から6章で取り扱われています。ここでは主に二つのみだらな行いが挙げられています。一つは、5章1節で「ある人が父の妻をわがものにしている」ということ、つまり親と子の近親相姦です。6章15節以下では、神殿娼婦と交わることです。そのいずれも、神から賜った体を大切にしない、それを汚し損傷する行為であるから、みだらな行いを避けなさいと命じたあとで、6章19節でこのように言います。【19~20節】。神から賜っているあなたの体、主イエスの血という尊い代価を支払って買い取られたあなたの体を、聖霊が宿る神の神殿としなさい、その体で神の栄光を現わしなさいと勧めています。

 主イエス・キリストによって罪ゆるされ、新しい命を与えられているキリスト者は、それまでの自分とは全く違った新しい自分に再創造されているのですから、古い倫理や道徳や社会的慣習から解放され、また世にあるさまざまな偶像礼拝から解放されているのであり、そしてまた、罪と欲望からも解放されているのであるから、自由と喜びをもって、神への感謝と献身に生きる者とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストの御血潮によって、わたしたちを罪の奴隷から贖いだしてくださり、あなたのものとしてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように、あなたに固く結びついて、あなたのみ心を行う者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。