4月21日説教「聖書はイエス・キリストを証しする」

2024年4月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(32)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    ルカによる福音書24章44~49節

説教題:「聖書はイエス・キリストを証しする」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。きょうはこの中の「主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し」という箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、この文章の主語は何かを、改めて確認しておきましょう。「主イエス・キリストを顕らかに示し」の主語は、すぐ前の「聖霊」ですが、その聖霊は「その中で」、すなわち「旧・新約聖書の中で」語っておられると、いう具合に、順に前の方につながっていく文章になっています。一般的には、「旧・新約聖書はイエス・キリストを顕らかに示している」と告白されるべきところを、「旧・新約聖書の中で語っておられる聖霊なる神が、主イエス・キリストを顕かに示している、あるいは証ししている」という告白になっていることが分ります。このように、聖書に書かれている神の言葉と聖霊なる神のお働きとが固く結び合わされているという点が、わたしたちの『信仰告白』の大きな特色です。

 前回も学んだように、聖書の第一の著者は聖霊なる神です。聖霊なる神が、旧約聖書時代の預言者や信仰者たちをお用いになって、また新約聖書の福音書記者たちや使徒たちをお用いになって、彼らの筆によって聖書が書き記されたのです。そして、聖霊なる神は今もなお、書かれた聖書の言葉によって、わたしたちに語りかけておられるのです。それゆえに、わたしたちが聖書を読む場合には、聖霊なる神のお導きによらなければ、聖書を正しく理解することはできず、聖書が与える救いの恵みを正しく受け取ることができないということです。聖書の正しい理解者は聖霊であり、またその聖書の言葉によってわたしたち一人一人に信仰を与え、救いの恵みを与えるのも聖霊なる神です。

 次に、「顕らかに示し」という言葉についてですが、1953年制定のいわゆる「文語文」では、「主イエス・キリストを顕示し」となっていましたが、2007年に制定された「口語文」では、漢字をそのまま用いて「顕(あき)らかに示し」と読ませています。この「顕示する」という言葉は、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』で用いられていました。ただ、その場所は、今の『信仰告白』のように「聖書論」の中ではなく、一段落前の「聖霊論」の箇所で、「父と子と共に崇められ、礼拝せられる聖霊は我等が魂にイエス・キリストを顕示す」と告白されていました。「聖霊がわたしたちに主イエス・キリストを顕示する」と言われていたのが、今の『信仰告白』では、「聖書が、そこで語っておられる聖霊によって、主イエス・キリストをわたしたちに顕示する」というように変更され、「聖書論」の中で、聖書と聖霊と主イエス・キリストとを結びつけて理解すべきことを強調しています。日本キリスト教会の特徴がより明確にされていると言えます。

 「顕示する」とは、明らかに、はっきりと示す、疑いの余地がないほどに明確に表わすという意味ですが、1890年の『(旧)信仰告白』で最初に用いられましたが、なぜこの言葉が用いられたのかについては分かっていません。わたしたちの教会の大先輩である林三喜雄先生によると、「顕示するとは、教示または指示ではない。人格的顕現である。主イエス・キリストは聖霊においていまここに現在し、活ける主として、聖書をとおして語りかけ給うのである」と解説しています。

 『日本キリスト教会小信仰問答 1964年版』の第5問では、「聖書とは何ですか」という問いの答えとして、「聖書は旧約聖書・新約聖書66巻からなっていて、預言者や使徒たちが聖霊に導かれて書いたものです。それはイエス・キリストを証しし、わたしたちの信仰と生活との誤りのない基準です」と教えています。ここでは、「証しする」という言葉が用いられています。顕示する、証しする、あるいは啓示する、いずれの言葉でも大差はないと思います。重要な点は、わたしたちが何度も確認したように、また林三喜雄先生が強調しておられたように、聖書のみ言葉が生ける、また命と力とを持つ神のみ言葉として、今ここでわたしたちに語りかけられ、またわたしたちに救いの恵みを与える、そのような命と救いのみ言葉として、わたしたちが聞き、信じ、受け入れることができるように、聖霊なる神が働いてくださるのだということです。

 それでは次に、旧約聖書と新約聖書が主イエス・キリストを顕示する、証しするという、『信仰告白』の中心部について学ぶことにしましょう。

 新約聖書が主イエス・キリストを顕示する、証しするということについては改めて説明を必要としないでしょうが、旧約聖書の中にはイエス・キリストというお名前が一度も書かれていないのに、なぜそのように告白されるのでしょうか。

きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書24章44節以下で、復活された主イエスが弟子たちにお姿を現されてこのように言われました。【44~47節】(161ページ)。「モーセの律法」とは旧約聖書の最初の5つの書を指しています。それに「預言者の書と詩編」で、旧約聖書全体を言い表わしています。つまり、旧約聖書はその全体が、「わたしについて」すなわち主イエス・キリストについて書いている。主イエスのご受難と十字架の死と三日目の復活、そして悔い改めと罪のゆるしの福音が全世界へと宣べ伝えられることが書かれている、そのように主イエスご自身が言われました。また、ヨハネ福音書5章39節でも、主イエスはこのように言われました。「あなたたちは聖書の中に(旧約聖書の中に)永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」と。そのほかにも、主イエスご自身が「旧約聖書はわたしについて書いてある、わたしのことを預言している」と語られている箇所がいくつもあります。旧約聖書は創世記の最初の1ページから最後のマラキ書まで、全39巻、その全ページが主イエス・キリストを証している、主イエス・キリストの到来を預言している、来るべきメシア・救い主である主イエスを待望しているということを、主イエスご自身が何度もお語りになりました。

 創世記1章で神が天地万物と人間を創造されたその時から、神はこの世界を救うために主イエス・キリストをこの世界にお遣わしになるご計画を始めておられたのです。最初の人アダムとエヴァが罪を犯したその時から、神の救いのみわざは始められていました。アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代、モーセ、ダビデなどの旧約聖書の信仰者たちは、やがて来たりたもうメシア・キリスト・救い主を待ち望んでいました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちは、永遠の王、まことの預言者、唯一の大祭司である、油注がれた者、メシア・キリストの到来を預言しました。

 その預言の一つ、イザヤ書53章3節以下を読んでみましょう。「苦難の主の僕(しもべ)」と言われる箇所です。【3~10節】(1149ページ)。この預言はまさしく新約聖書の福音書が語っている主イエスの十字架のお苦しみのことであり、その主イエスの十字架によってなし遂げられた罪の贖いとゆるしの福音のことです。預言者イザヤは主イエスが誕生されるおよそ700年以上も前に、神の永遠の救いのご計画を知らされ、この預言をしたのです。他の預言者たち、旧約聖書の信仰者たちもまた同様です。

旧約聖書は、このようにして、預言というかたちで、また待望というかたちで、来るべきメシア・キリスト・救い主であられる主イエス・キリストを顕示し、証ししています。わたしたちが聖霊なる神のお導きによって旧約聖書を読むとき、そこでわたしたちの救い主であられる主イエス・キリストと出会うのです。

次に、新約聖書は4つの福音書、使徒言行録、パウロの書簡、その他の書簡、そして最後のヨハネの黙示録まで、全27巻。主イエスの誕生から、そのご生涯、ご受難、十字架の死、葬り、三日目の復活、40日目の昇天、聖霊降臨と教会の誕生、初代教会の発展、そして主イエス・キリストの再臨の時、終末の神の国完成の時に至るまでのことが描かれています。主イエス・キリストが新約聖書全体の主人公、中心人物、また主語であられる、新約聖書全体が主イエス・キリストを顕示し、証ししているということは全く疑う余地はありません。

しかし、もちろんそこで聖霊なる神のお働きがなければ、だれも本当の意味で主イエスを知ることはできませんし、主イエスとの生ける出会いを経験することもできません。主イエス・キリストから差し出されている救いの恵みを受け取ることもできません。新約聖書のみ言葉をとおして働かれる聖霊なる神のお働きによって、主イエスのお苦しみがわたしの罪のためであったことを、主イエスの十字架の死によってわたしの罪が贖われていることを、そして主イエスの復活によってわたしに復活の命が約束されていることを、わたしが信じる信仰へと招き入れられていることを知らされるのです。

主イエス・キリストを顕示し、証しする旧約聖書と新約聖書との関係について、いま一度まとめておきましょう。旧約聖書は主イエス・キリストを預言し、その到来を待望する書、また主イエス・キリストによる救いの完成を待望しながら歩んだイスラエルの民の信仰の書であり、新約聖書は主イエス・キリストの到来によって成就された救いと、その救いに生きた教会の民の信仰の書であると言えます。わたしたちは旧約聖書においても新約聖書においても、聖霊によって聖書を読む時に、そこで主イエス・キリストと出合うのです。わたしたちの信仰の創始者であり、また完成者であられる主イエス・キリストが、聖書のみ言葉と聖霊によって、常にわたしたちと共にいてくださり、わたしが健やかな時も、わたしが病める時も、そしてわたしの死の時にも、常にわたしと共におられ、終わりの日までわたしをお導きくださることを信じるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちが朽ちるこの世のパンによって生きるのではなく、あなたの生けるみ言葉によって真実に生きる者となりますように。聖書のみ言葉がわたしの命の糧となり、苦難の時の希望の光となり、死の時の慰めの言葉となりますように。

○全能の父なる神よ、この世界にまことの平和をお与えください。憎しみや復讐ではなく、愛とゆるしをお与えください。飢え乾いている人たちに食糧を、家を失っている人たちにテントと毛布を、傷ついている人たちに適切な医療を、孤独な人たちに共に歩む友人を、重荷を負う人たちに主キリストの愛をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。