6月23日説教「ヘロデ王による迫害と教会の祈り」

2024年6月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記13章3~10節
    使徒言行録12章1~5節
説教題:「ヘロデ王による迫害と教会の祈り」

 使徒言行録12章から、紀元1世紀の初代教会の歴史にとっての新しい展開が始まります。新しい展開とはいっても、それは教会にとって必ずしも好ましい展開とは言えないものですが、それは国家権力による教会の迫害という事態です。わたしたちはこれまで、世界最初の教会として誕生したエルサレム教会が経験した何回かの迫害について聞いてきました。それらの迫害は、どちらかと言えば、サドカイ派やファリサイ派からの告発による、ユダヤ教内部からの迫害でした。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる教会の信仰は、ユダヤ教にとっては、彼らが最も大切にしている律法を軽視し、ユダヤ人の伝統を無視する異端的な教えだと考えられていましたから、ユダヤ教の指導者たちは自分たちの教えを守るために教会を迫害したのでした。
 使徒言行録4章には、使徒ペテロとヨハネが捕らえられ、ユダヤ最高法廷で裁判を受けたことが、また5章では使徒たち数人が獄に監禁されたことが、6章ではエルサレム教会の指導者ステファノの逮捕と、7章終りには教会の最初の殉教者となったステファノの死が、そして8章にはエルサレム教会が経験した大迫害のことが書かれていました。
 けれども、教会は幾度の迫害によっても決して弱ることも立ち止まることもなく、かえって、大迫害によってエルサレム市内から追放された教会員がパレスチナや小アジア地方へと散らされることによって、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられ、各地に新しい教会が建てられていったということをも、わたしたちは聞いてきました。そのたびごとに、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」ということを、わたしたちは何度も確認してきました。
 ところが、この12章で、教会は新たな、より厳しい状況を迎えることになります。【1~2節】。キリスト教会が経験した迫害は、これまではユダヤ人の内部での宗教観の違いに由来した迫害だったと言えますが、ここで初めてより強大で、恐るべき敵である国家権力による迫害を経験することになります。しかも、主イエスの直弟子である12使徒の中から殉教者が出るという、衝撃的な出来事を経験することになります。誕生してまだ10年少しの若い初代教会にとって、それはどんなにか大きな打撃であったことか、どんなにか大きな危機であったことか。わたしたちはここでもまた、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」ということを確認することができるでしょうか。初代教会はこの危機をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。
ヘロデ王とは、主イエス誕生の時にユダヤの国を治めてしていたヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世です。ヘロデ大王は主イエスが誕生した際にベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をみな殺せと命じたことからも分かるように、悪名高い、残忍な王として恐れられていましたが、彼の孫であるヘロデ・アグリッパ一世はユダヤ人にもローマ政府当局にも評判がよく、国を治める能力もあったことから、紀元41年からはユダヤ全土を支配する権限をローマ政府から託されていました
 温厚で、王としての統治能力もあったヘロデ・アグリッパ一世が、なぜキリスト教会を迫害するようになったのか、使徒ヤコブを殺したのかについては使徒言行録には何も書かれていません。性格的にどんなに温厚で、政治的手腕に優れていたとしても、その支配者がキリスト教に対してどのような政策をとるかは、全く関連がないと言えましょう。この世の支配者は、ヘロデ大王がそうであったように、彼の孫であるヘロデ・アグリッパ一世もまた、ユダヤ人国家の最高の地位を手に入れた時に、その地位が少しでも危うくなることを恐れ、その地位に必死でしがみつき、キリスト教会に自らの地位を脅かされていると感じたのかもしれません。教会が信じている主イエス・キリストが永遠なる神の国の王であるという教えに、危機感を抱いたのかもしれません。神を恐れることをしないこの世の支配者たちは、いつの時代にも、その地位にしがみつくためにこの世の小さなものを恐れなければならなくなるのです。
 この時の迫害で殉教したヤコブは、マタイ福音書4章で最初の主イエスの弟子として召された4人のガリラヤ湖の漁師の一人です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟のヤコブであり、エルサレム教会で指導的立場にあった主イエスの実の弟ヤコブとは別人です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネについては、マルコ福音書10章38節で主イエスはこのように言われました。「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」。彼らは「できます」と答えました。主イエスがこの時に予告されたように、ヤコブは実際に12使徒の最初に、主イエスと同じ殉教の杯を飲むことになったのです。
 ヤコブの殉教について、紀元2世紀末ころの伝説が記録されています。それによれば、ヤコブがヘロデ王の審問を受けた時、彼は何ものをも恐れず、力強く主イエス・キリストを証ししたので、それをそばで聞いていたヤコブを告発ちたユダヤ人がその場で悔い改め、回心してキリスト者になった。そして、ヤコブと一緒に処刑され、殉教したと伝えられています。このエピソードが史実であるかどうかは確かではありませんが、自らがこの世の権力にしがみついていて、恐れと不安の中にいるヘロデ王と対比されるかたちで、主イエス・キリストの福音に生き、神のみ言葉に信頼するヤコブの勇気と大胆さ、そして自らの死をも恐れずヘロデ王の前で主イエス・キリストを証しする彼の力強い信仰を語るエピソードとして、興味深いものがあります。
 次に、3節以下を読みましょう。【3~5節】。ヘロデ王はユダヤ人の歓心をかうために、初代教会のリーダーであるペトロをも捕らえ、処刑しようとします。ペトロが捕らえられたのは除酵祭の時期であったと書かれています。除酵祭とはユダヤ人最大の祭りである過越し祭に引き続いて一週間行われるパン種が入っていない固いパンを食べる祭りを言いますが、この時代には過越し祭と同じ意味で用いられています。主イエスが十字架につけられたのも過越しの祭りの時期でした。23節に書かれているヘロデ王の死は紀元44年であったことがほぼ確定されていますので、ペトロの逮捕が同じ年であったとすると、紀元44年の3月から4月にかけてのころと考えられます。ヘロデ王は祭りのために集まってくる多くのユダヤ人にペトロの処刑を見せしめにしようとしていました。主イエスの十字架も同じ時期だったことをヘロデ王が知っていたかどうかは定かではありませんが、彼はこのようにして自らは気づかずに、過越しの祭りと主イエスの十字架の死と復活いう神の救いのみわざを指し示す役割を担うことになったのです。
 ヘロデ王は投獄したペトロを見張るために4人一組の兵士を4組、計16人の兵士を配備して監視させたと書かれています。牢から逃げ出す道も、牢の外から救出する道も、完全にふさぐという念の入れようでした。本人は全く武器を持たず、支援者もまた何らの力も勢力もない、小さな群れである教会を、ヘロデがなぜこれほどまでに恐れなければならなかったのか。ここにもまた、神なき世界に住み、神を恐れることをしないこの世の権力というものの、弱く、もろく、あわれな姿が浮かび上がっているように思われます。反対にまた、神を信じているペトロと教会の民に与えられている力と勇気とが、おのずと浮かび上がってくるようにも思われます。
 では、教会でのこの困難な事態にどう対処するのでしょうか。指導者ペトロが捕らえられ、使徒ヤコブと同じように処刑されるかもしれないというこの危機に、教会は何もなしえず、ただ黙って、遠くで推移を見守るほかにないのでしょうか。いや、違います。たとえ教会が窮地に陥り、何もなしえなくなったとしても、教会には祈ることだけはできます。ただ祈ることだけが、唯一の教会ができることです。否、むしろこう言うべきでしょう。教会はこのような時にこそ、祈ることができるのであり、祈ることが許されているのであり、また祈ることが命じられているのだと。そして、それこそが、教会できる最も大きな力強い行動であり、最も強力な抵抗であり、危機を乗り切る最も力強い戦いであるのだと。
 「ペトロは牢に入れられていた」。しかし、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と5節に書かれています。その教会の祈りを神がお聞きにならないことなどあり得るでしょうか。わたしたちは旧約聖書でしばしば聞いています。詩編50編の詩人は歌っています。「悩みの日に、わたしを呼べ、わたしはあなたを助けると、神は言われる」。また、118編5節には、「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた」とあります。神は苦しみ悩みの中で主を呼び求める信仰者を決してお見捨てにはなさいません。
 新約聖書では、わたしたちは繰り返して主イエスご自身の祈りのお姿を見ています。十字架の直前に、ゲツセマネの園で徹夜の祈りをされた時には、「誘惑に陥らないように、あなたがたは目を覚まして祈っていなさい」と弟子たちにお命じになりました(マタイ福音書26章41節参照)。エフェソの信徒への手紙6章18節では、「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖な者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とも命じられています。祈りこそが、苦難の時、試練や迫害の時、信仰の戦いにとっての信仰者の最も力強い、最大の武器であり、敵の攻撃を防ぐ最強の盾です。信仰者は祈りによって、祈りをお聞きくださる主なる神によって、信仰の戦いに勝利するのです。
 事実、わたしたちは少し先の12節で、教会で祈りがささげられていたまさにその時に、ペトロが神の奇跡によって牢から解放され、祈っていた彼らの前にペトロが姿を現したというみ言葉を読むことができます。
 このようにして、教会はこの新しい国家権力による迫害とリーダーであるペトロの逮捕という緊急事態にも、決してあわてることも不安で心を閉ざすこともなく、共に祈ることによって力と希望とを与えられ、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」という信仰に生き続けたのです。わたしたちにもこの信仰が与えられています。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたは苦難や試練の中にあって祈る信仰者を、決してお見捨てにはなりません。あなたはこの世のあらゆる抵抗や不信仰の中でも、あなたの救いのご計画をおすすめになります。主よ、この世界の中で、またこの国の中で、あなたを信じて祈る者たちの祈りを、いよいよ強くしてください。あなたの命のみ言葉の勝利をわたしたちに確信させてください。
○主なる神よ、重荷を負って苦しんでいる人、悩みや迷いの中で希望を失っている人、飢えや渇きによって倒れている人を、どうか顧みてください。あなたの助けのみ手を差し伸べてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。