11月29日説教「神を礼拝する旅人アブラハム」

2020年11月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「神を礼拝する旅人アブラハム」

 アブラハムは、旧約聖書においても新約聖書においても、すべて信じる人の信仰の父と呼ばれています(創世記17章4~6節、ローマの信徒への手紙4章参照)。アブラハムはわたしたち信仰者の信仰による父であり、信仰の模範であり、信仰の原型です。創世記12~23章に描かれているアブラハムの信仰の歩み、人生の歩みは、そのすべてが信仰とは何かをわたしたちに教え、わたしたちが信仰をもって生きるとはどういうことなのかを示しています。

 彼は「あなたは故郷を出て、父の家を離れ、わたしが示す地へと旅立ちなさい」との神のみ言葉を聞いた時、まだその地がどこであるのか、その地での生活がどうなるのかを全く知らされてはいませんでしたが、神がすべてを導き、備えてくださることを信じて、行先を知らずして、ただ信仰だけによって、いでたちました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙11章1節に書かれているとおりです。

それは、信仰を持たない人にとっては、無謀な冒険とか将来設計のない行き当たりばったりの生き方と思われるかもしれません。しかし、アブラハムにとってはそうではありませんでした。彼の信仰の歩み、彼の人生の旅路を満たしてくださるのは神だからです。「生まれ故郷と父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」とお命じになる神の命令には、約束が伴っているからです。

【1~3節】を読んでみましょう。神がアブラハムを選び、彼に特別な約束をお与えになること、これを契約と言います。創世記12章と同じような内容の約束が15章、17章にも繰り返し語られます。これを神がアブラハムと結んでくださった契約、「アブラハム契約」と呼びます。すでに創世記9章で神がノアと結んでくださって契約を「ノア契約」と呼ぶことを確認してきました。旧約聖書の中には、このほかにも神が指導者モーセによってイスラエルの民と結ばれた「シナイ契約」や「ダビデ契約」、預言者エレミヤの「新しい契約」などがあります。神はご自身が選ばれた人、選ばれた民とこれらの契約を結ばれ、その契約を継続されて、救いのみわざをなし続けられました。たとえ、契約の相手が不忠実であっても、それを忘れるようなことがあっても、神は絶えずその契約を覚え、その契約を実行されました。そして、旧約聖書のそれらのすべての契約は、新約聖書に至って、主イエス・キリストによって完全に、そして最終的に成就されたのです。

では、ここで語られている「アブラハム契約」、神がアブラハムに与えられた約束の内容を整理してみましょう。第一には、神が示し、神が導かれる地のことです。ここではまだその内容は確かではありませんが、7節に「あなたの子孫にこの地を与える」と語られています。アブラハムが神の約束の地カナンに導かれる、そしてその地が彼の子孫に与えられるという約束です。神の約束の地についてはあとでまた触れます。

第二は、神がアブラハムを大いなる国民とするという約束です。大いなる国民とは、大きな民、大きな国とするということです。15章5節では、天の星のように数えることができないほどに多くの子孫がアブラハムから出ると言われています。この神の約束が、アブラハムと妻サラにとっていかに実現困難な約束であるかということを、【11章30節】のみ言葉があらかじめ暗示しており、しかしまた神の偉大な奇跡によってその約束が実現へと向かうようになるということを、わたしたちは創世記21章以下から知らされます。アブラハムがこの約束を聞いたのは75歳の時でした。しかし、彼が百歳になるまで、彼には一人の子どももいませんでした。そのような時に、「あなたの子孫は星の数ほどになる」と言われた神のみ言葉を、アブラハムは信じたのでした。これがアブラハムの信仰です。

第三は、アブラハムを祝福するという約束です。「祝福する」という言葉は、旧約聖書では、新約聖書でもそうですが、非常に重要な意味を持っています。「祝福」という言葉が2節、3節で5回も用いられています。祝福するのはもちろん神です。神から与えられる祝福のことです。それは、人間が地上で得られる祝福とか幸いとは全く質が違った祝福であり、天からくる祝福です。詩編では、「いかに幸いなことか、主の教を愛する人は」(詩編1編1~3節)と歌われています。主イエスは「山上の説教」、の中で、「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」と教えられました。天から与えられる神の祝福は、祝福がないところに、いや、むしろ禍や苦難や試練のあるところにも、天からの祝福を与え、天からの幸いを創り出していくような祝福なのです。

祝福の具体的な内容は、旧約聖書においては、長寿やたくさんの子ども子孫、また財産が与えられること、そして何よりも神を信じ、神に喜んで従っていく信仰が与えられること、信仰による救いの恵み、平安です。イスラエルの社会では、その家の長男が特別な神の祝福を受け継ぐと考えられていました。それを長子の特権と言います。新約聖書では、主イエスの説教から教えられているように、天国、神の国の約束が与えられていることこそが最も大きな神の祝福です。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、神の子どもたち、神の家族とされ、神の国の民として招かれている幸い、神の国で朽ちることのない永遠の命の約束を与えられている幸い、これこそが最も大きな神の祝福です。

アブラハム契約の4つ目の内容は、アブラハムの名を高めるという約束です。名を高めるとは、名誉が増し加わるとか有名になる、偉い人間になるというような意味を持ちますが、ここでは神がお与えくださる名誉のことで、彼の名が全世界に広まり、全世界の人々が彼を信仰の父として尊敬するようになるということを含んでいます。事実、アブラハムはユダヤ教でもキリスト教でも、すべて信じる人の信仰の父としてその名が高められています。彼の名が高められるとは、結局は彼が信じている神のみ名が崇められることに他なりません。

第5は、アブラハムに与えられた祝福が彼を基にして地上のすべての人々に広められていくという約束です。アブラハムと同じ信仰に生きる、彼ののちの時代のすべての信仰者にも彼と同じ神の祝福が約束されています。アブラハムの祝福は彼の子イサクへと、さらにイサクの子ヤコブへと、そしてヤコブがイスラエルと名を変えて、イスラエルの12人の子どもたちへ、その長男のユダへと受け継がれていきました。そしてついに、ユダの部族のダビデの子孫としてお生まれになったヨセフの子イエスへと神の祝福は受け継がれ、この主イエスによって、彼を救い主と信じるすべてのキリスト者へと受け継がれていくのです。そのようにして、アブラハムに与えられた神の契約、すなわちアブラハム契約は主イ

エス・キリストによって完全に成就されました。

4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。アブラハムがこの神の契約に生きるためになすべきことは、何よりもまず第一に、神の約束のみ言葉を聞いて、それを信じ、それに従うことです。彼にどんな能力あるかとか知恵や力があるかというようなことは、全く問題ではありません。神のみ言葉を聞き、信じ、従うこと、ただ信仰のみ、ただ信仰一筋、その人にアブラハムと同じ神の祝福が与えられます。

次に【5~9節】。1節で神が示す地と言われていたのがカナンであったということがここになって初めて明かされます。カナンとは今のパレスチナ地方のことです。ここが神の約束の地でした。でも、アブラハムはまだこの地の一角をも所有してはいませんし、彼の子イサク、その子ヤコブもこの地を所有してはいませんでした。彼らはこの地では他国の人、寄留者、旅人でした。イスラエルが実際にカナンの地に定着したのは、エジプトで400年余りを過ごし、その後エジプトを脱出してからのことで、紀元前13世紀ころになってからです。

「あなたの子孫にこの土地を与える」との神の約束は、実に600年以上もの年月を経てから、実現されることになりました。それほどの長い年月を、イスラエルの民はエジプトで寄留生活している期間にも決して神との契約を忘れなかったのでした。いや、そう言うべきか、それとも、神がそれほどの長い期間にもご自身が与えた契約をお忘れにならなかったと言うべきか、いずれにせよ、それは実に驚くべきことです。神の約束、神の契約は、アブラハムの生涯と死を超えて、幾世代にもわたる彼の子孫の歴史を超えて、実現されたのです。アブラハムはその神の約束を信じました。

では、なぜ神はアブラハムをこのカナンの地へと導かれたのでしょうか。7節の後半に「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれてあり、また8節にも「そこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。彼がこの地への導かれたのは、主なる神を礼拝するためでした。彼が生まれ故郷を出て、父母の家に別れを告げて、行先を知らずして旅立ったのは、主なる神を礼拝するためだったのだということがここで明らかにされます。信仰の父アブラハムの信仰の旅路は神礼拝の旅路だったのでした。まだその地を所有しておらず、その地では旅人であり、寄留の他国人ではあったけれど、彼の信仰の歩みは常に神と共にあり、彼がどこにいても、彼は神を礼拝する旅人であったのです。というよりは、アブラハムが故郷カルデアのウルにいた時に彼と共におられた神はハランに移った時にも彼と共におられ、彼にみ言葉をお語りになり、今カナンの地に着き、中部のシケムからさらに南部のベテルへと移動した時にもそこにも主なる神が彼と共におられ、彼がどこにいてもいつも主なる神が彼と共におられ、彼の歩みを導いておられたのだと言うべきでしょう。神を礼拝する旅人アブラハムには常に主なる神が共におられ、彼の歩みのすべてを導いておられたのです。それゆえに、神の祝福も彼を離れませんでした。

アブラハムから600年ほどあとのイスラエルの出エジプトを思い起こしてみましょう。400年以上の寄留の地から脱出したイスラエルの民が、荒れ野を40年間旅をしてカナンの地へと導きいれられたのは何のためだったでしょうか。それは、彼らが神を礼拝し、神のみ言葉に聞き従い、神の民として生き、神の証し人として、神の救いを全世界に告げ知らせるためだったのでした。わたしたちが教会に招かれ、神と出会い、主イエス・キリストの福音を聞き、それを信じたのもまた神を礼拝する者となるためでした。わたしたちは主イエス・キリストの救いを信じつつ、来るべき神の国を待ち望みつつ、神を礼拝し、地上の信仰の旅路を続けるのです。そして、そのような私たちの信仰の歩みに、神の祝福が与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ。救い主をこの世界にお迎えするご降誕の日を待ち望む待降節に入りました。主よ、どうぞ、悩めるこの世界においでください。病んでいるこの世界を速やかにお救いください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。