3月3日説教「72人の福音宣教者の派遣」

2024年3月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ルカによる福音書10章1~12節

説教題:「72人の福音宣教者の派遣」

 ルカによる福音書ではすでに9章1節以下に、主イエスが12人の弟子を神の国の福音を宣教するために派遣したという記録が書かれていました。きょう朗読された10章では、12弟子とは別に、72人を任命し、すべての町々村々に収穫のための働き人としてお遣わしになったことが書かれています。この二つの記録は、共通した点もありますが、派遣された人数の違いのほかにも違う点が多くあります。そのことに注目しながら読んでいくことにしましょう。

 【1節】。冒頭の「その後」とは、直訳すれば「これらのことのあとで」となり、単なる接続詞よりは強い意味を持ちます。ここでは、主イエスがご自身のご受難の時が近づいてきたのを感じとられ、9章51節に書かれていたように、「エルサレムに向かう決意を固められた」ことが強く意識されていると思われます。主イエスのご受難と十字架の死によって、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音がいよいよその最終目的に近づいている、救いの時が成就される、その日が迫ってきているという緊迫感がここにはあります。

 次に、「主は」と書かれています。主イエスのことですが、これまでルカ福音書では、主イエスがだれかに呼びかけられるときには、「主よ」と言われていたことはありましたが、主イエスが主語の文章で、イエスを主と表現している箇所はありませんでした。ここで初めて「主」と書かれていることも、前にお話ししたエルサレムでのご受難の時が迫ってきていることと関連していると考えられます。主イエスが全人類の救い主となられる時が迫っているということを、ルカ福音書は暗示しているのです。

次に、72人という数字から、9章とは違った意味を読み取ることができます。聖書では、70、あるいは72という数字は特別の意味があります。12人の弟子たちは、イスラエル12部族を象徴し、イスラエル全体を象徴していると考えられましたが、72人は、全世界のすべての民を象徴していると考えられます。ルカ福音書は主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨と教会誕生を、いわば先取りして、やがて主イエスの十字架の福音が全世界に宣べ伝えられることをあらかじめこの数字によって予告していると考えられます。

主イエス・キリストの十字架の福音は、全世界のすべての民、すべての人に宣べ伝えられねばなりません。主イエスの救いの福音は、すべての人が聞かなければなりません。それが主なる神の救いのご計画だからです。すべての人は罪のゆえに神から離れており、神の裁きを受けて死すべき者と定められています。主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、救われることによって、人はみなまことの命を生きる者とされるからです。のちに、復活された主イエスは、この福音書の24章41節で弟子たちにこのように言われました。「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。……あなたがたはこれらのことの証人となる」と。

「任命する」と「遣わす」という言葉を取り上げてみます。9章では、「12人を呼び集め」、「権能をお授けになり」、「遣わす」と書かれていました。いずれの場合も、主語は主イエスです。主イエスが72人を選び、任命し、派遣されます。ここに、宣教のために遣わされる弟子たちの基本があります。ここにはまた、教会に集められ、礼拝者とされているわたしたち信仰者の基本もあるのです。わたしたちが信仰者となり、キリスト者とされたことも、主イエスの選びによるのであり、また主イエスの派遣によってこの世へと遣わされていくのです。

 もし、わたしが自分の判断で選んだのであれば、それには誤りも失敗もあるかもしれません。迷ったり、疑ったり、たじろいだり、恐れたりすることがあるかもしれません。実際、そういうことを経験もするでしょう。けれども、その時にわたしたちは主イエスの弟子であることの、この基本を思い起こすべきです。わたしが選んだのではない。わたしが自分の足で立つのではない。主イエスがこのわたしをお選びになり、主イエスがこのわたしをお遣わしになられたのだということを。そこにこそ、弟子たることの、またこの世に派遣されることの基本と、確かさと、力と希望があるのだということを、わたしたちは思い起こすのです。

1節でもう一つ触れておきたいことは、「二人ずつ」ということについてです。主イエスは弟子たちが福音を述べ伝えるにあたって、二人一組にして派遣されました。初代教会でも多くがその例にならったことが、使徒言行録の記録から分かります。8章14節ではペテロとヨハネが、13章2節ではパウロとバルナバが、15章39節ではパウロとマルコが、二人一組になって宣教活動に行ったことが記録されています。二人だとお互い協力し合い、助け合い、励まし合うことができるという面もあるでしょうが、それ以上に大きな理由がここにはあります。それは旧約聖書の律法に、重要な証言は二人または三人の証人によらなければならないと定められていることに関連しています。弟子たちは神の国の福音の証人として、主イエスの十字架による罪のゆるしと救いのみ言葉の証人として遣わされるのでありますから、その証言が確かであり、真実であることが、それによって証明されるのです。

さて、2節からは72人の弟子たちを主イエスが派遣する具体的な目的について、また彼らがその務めを果たすにはどうすべきかについて語られています。【2~3節】。この二つの節は、9章の12弟子の派遣の箇所には書かれていませんでした。その時とは違った、新しい局面が迫っていることが暗示されています。

新しい局面の第一は、今は収穫の時だということです。そして、多くの収穫が約束されているということです。収穫とは、失われていた人間の魂を買い戻すことだと言ってよいでしょう。ヨハネ福音書4章35節で、主イエスはこのように言われました。「目を上げて畑を見よ。はや色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」(35、36節参照)と。主イエスの十字架による救いの時が今やってきた。罪のゆえに失われ、死んでいた人間の魂が神のみ子の尊い血によって買い戻された。その魂を集め、永遠のみ国へと招き入れるために、今は働き人を必要としている。その働き人として、わたしはあなたを遣わすのだ。そのように主イエスは言われます。

ただ、ここで重要なことは、弟子たちが自分の力や努力で実を刈り取り、収穫を増やすのではありません。「収穫の主に願いなさい」と命じられています。収穫の主は父なる神であり、み子主イエスです。収穫の主が、すでに多くの収穫を用意していてくださるのです。それは働き人たちにとっての確かな約束であり、希望であり、慰めです。弟子たちはそのことを信じて、収穫の主に祈り求めつつ、働き人としての務めを果たすことができます。

 もう一つは、収穫のために遣わされる働き人は困難な状況の中へ、危険が待っている世界へと派遣されるということです。狼は最も野蛮で、どう猛で、攻撃的な生き物の象徴であり、子羊は最も弱く、無防備で、無抵抗な生き物の象徴です。その両極端な生き物を例に挙げることによって、働き人が遣わされるこの世界がいかに罪深く、かたくなで、福音を聞く耳を持たないかが強調されているとともに、それゆえに働き人の務めがいかに困難であり、危険に満ち、抵抗や反撃、苦難と迫害に満ちているかが強調されていることになるのですが、しかしそれ以上にここで強調されていることは、そのような困難な世界へと派遣されていく働き人に対する、主イエスの固い約束であり、収穫の約束であり、収穫の主であられる主なる神の守りと導き、それが強調されているのです。

 次の4節からの命令は、9章との共通点が多くあります。いくつかのポイントにまとめてみましょう。

 一つは、持ち物に関してです。主イエスは普通の旅行者が持っていくような最低限の持ち物すらも持っていくなとお命じになりました。それらの持ち物を用意している余裕がないほどに、時が切迫している。今すぐにでも、何も持たずに、出発しなければならないからです。また、旅の途中で必要になるものは、主なる神が必ず備えてくださるという強い信仰を持つことが大切だからです。さらには、携えていくべきものは、主イエスの福音だけで十分だからです。主イエスの福音を携えていく福音宣教者の足は、いつどのような時にも、主なる神によって守られ、導かれるからです。

 第二点は、遣わされた町々村々で、福音宣教以外のことで、時間を無駄にしないようにすることです。4節では「途中でだれにもあいさつするな」と命じられていますが、これはあいさつすることを禁じているのではなく、急いで目的地に着き、託された務めを果たしなさいということだと考えられます。

 5節では、目的地に着いたならば、最初に「この家に平安があるように」と祈り、あいさつをするようにと命じられています。福音を宣教するために遣わされた働き人は、神からの平安を持ち運びます。この平安は、地上でわたしたちが手に入れることができるような平安ではありません。地上のどのような平安よりも、はるかにまさった天の神から与えられる平安です。神との豊かな交わりの中にある永遠の祝福です。イザヤ書52章7節にこのように書かれています。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる……。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」(7節、10節参照)と。

 7節以下では、当時のユダヤ人の巡回伝道者に対する一般的なもてなしが背景になって語られています。巡回伝道者は非常に尊敬されていましたから、良いもてなしを期待して家々を渡り歩く伝道者も少なくなかったと言われています。しかし、主イエスの福音を持ち運ぶ働き人は、この世の評価や待遇に左右されることは全くありません。福音のための働き人は主なる神にお仕えする者だからです。主なる神からの報酬を約束されているからです。また、この世での成功を求めてなされるのではないからです。たとえ、その働きが人々に受け入れられず、人々が福音に耳を傾けないとしても、働き人自身がそれによって裁かれたり、不名誉になったりすることはありません。救いのみわざは主なる神がなさることであり、救われるか救われないかは、主なる神がお決めになることです。働き人は自ら神の国の福音に生かされている者として、感謝と喜びとをもって、主イエス・キリストの福音の証し人としての務めを果していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人をお選びくださり、あなたの救いにあずからせ、また福音の証し人として立たせてくださいます。感謝いたします。主イエスのみ言葉に支えられて、地の塩、世の光として歩ませてください。主がいつも共にいてくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。