3月16日説教「主イエスの再臨を待ち望む教会」

2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(41)

聖 書:ダニエル書7章11~14節

    使徒言行録1章6~11節

説教題:「主イエスの再臨を待ち望む教会」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。きょうはその後半、「主が来られるのを待ち望みます」という告白について学びます。

 『使徒信条』では、第二項目の主イエスについての告白の最後で、「かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審き給はん」と告白されています。第三項目の聖霊についての告白の最後にある、「体の復活、永遠の生命を信ず」も終末論です。

 このように、終末論は、『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の最後でも、また『使徒信条』の第二項と第三項の最後でも、重要な告白として取り上げられていることが分かります。終末論は、終わりの日のこと、最後のことに関する教えですから、キリスト教教理の最後で取り扱われるのが一般的ですが、しかし終末論は最後の付録のようなものではありません。キリスト教教理全体を締めくくり、完成させる、くさびのような役割を果たすとともに、キリスト教教理と信仰を基礎づける役割をも果たす、土台であり、出発点であるとも言えます。

 ある人はこのような言い方をしています。「キリスト者は終末論によって生きる者である。あるいは、終わりから生きる者である。終わりの日に完成される神の国を基準にして、その終わりの日に向かって、その終わりの日の救いの完成を確信しながら、その終わりの日の約束の希望の中で生き続ける者だ」と。「主が来られるのを待ち望みます」という告白は、まさにそのようなわたしたちの信仰を言い表しているのです。

 では、終末論について教えられている聖書の箇所を読んでいきましょう。使徒言行録1章6節以下には、主イエスの昇天のことが書かれています。主イエスは受難週の金曜日、十字架につけられて死なれ、すぐに墓に葬られました。三日目に、墓から復活され、それから40日間にわたって、弟子たちに復活のお姿を現されました。そして、9節に書かれてあるように、天に昇られ、父なる神のみもとへとお帰りになりました。その時、神のみ使いがこのように言われました。【11節】。

 「またおいでになる」と言われているように、主イエスが再び地上においでになるとき、つまり主イエスの再臨の時、それが終末の時です。主イエスが最初に地上においでになられたとき、それがクリスマスの誕生の時です。これが第一の来臨です。旧約聖書の民イスラエルは、この第一の来臨の時を、メシア・救い主の到来を待ち望む神の民でした。新約聖書の民であるわたしたち教会の民は、主イエス・キリストの第二の来臨のとき、すらわち、わたしたちの救いが完成され、神の国が完成される主イエスの来臨の時を待ち望む神の民です。このように言ってもよいでしょう。「教会の民、わたしたちキリスト者は、主イエスの第一の来臨の時から第二の来臨の時、すなわち再臨の時までの時の間を生きている神の民である。神の救いの完成を目指して、その時を待ちつつ、またその完成に向かって急ぎつつ、生きている者たちであるのだ」と。

 主イエスの来臨の教えと約束は、主イエスご自身にまでさかのぼることができます。主イエスは福音書の中で、特に神の国のたとえの中で、人の子であられる主イエスが終わりの日に再臨され、最後の審判を下される、そして救いを完成されるということを繰り返してお話しされました。マタイ福音書24章、25章は、福音書の黙示録と言われる箇所ですが、ここで主イエスは終末の時についての教えを説教しておられます。25章では、10人のおとめがともし火を持って花婿を迎えるたとえや、主人からタラントンを預けられた僕たちのたとえによって、終末の時の主イエスの再臨に備えて生きるべきことを教えておられます。その最後の箇所で、31節以下にはこのように教えられています。【31~33節】(50ページ)。このみ言葉は、『使徒信条』で「そこか来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という告白と関連します。終末の時、主イエスはすべての信じる者たちに永遠の救いを、信じない人たちには永遠の滅びを宣言なさいます。

 また、マルコ福音書13章24節以下をも読みましょう。【24~27節】(89ページ)。終わりの時、人の子・主イエスは全世界に散らされていたご自身の民、教会の民を呼び集められ、一つのみ国の民とされます。主イエスは、ご自身の十字架の死と復活によって全人類を罪から救い出してくださいました。その救いを信じる信仰によって、わたしたち一人一人を教会の民としてお招きになり、わたしたちの信仰を導かれました。そして、終わりの日には、すべての教会の民を一つの神の民としてくださり、救いを完成させてくださいます。もはや何ものも、わたしたちを父なる神との交わりから引き離すものはありません。神が永遠にわたしたちと共にいてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの傍らに立たれ、そのことを保証していてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの信仰の完成者となってくださるからです。

 わたしたち信仰者にはこの約束と保証があるゆえに、今がどのような困難な時であれ、今どのような苦しい信仰の闘いのただ中にいようとも、あるいは多くの弱さや欠けや破れの中にあろうとも、決して失望することなく、喜びと希望とをもって、再臨の主イエスを待ち望むことが許されているのです。終末の信仰は、いついかなる状況にあろうとも、わたしたち信仰者にとっては、希望の信仰です。喜びの信仰です。わたしたちの信仰の闘いには、再臨の主イエスによる最後の勝利が約束されているからです。

 福音書で主イエスが語られた人の子の再臨の教えは、初代教会と使徒パウロたちに受け継がれました。しかも、強く、生き生きとした、切迫感を持った信仰として受け継がれていたことを、わたしたちは初代教会の祈りで確認することができます。コリントの信徒への手紙一の終わりの16章22節にはこう書かれています。「マラナ・タ」、これはアラム語で「主よ、来てください」という意味です。ヨハネの黙示録22章20節、これはヨハネの黙示録の最後の言葉であり、聖書全巻の最後の言葉でもありますが、そこにはこう書かれています。「以上すべてを証しする方が、言われる、『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」。

 「主よ、来てください。マラナ・タ」が初代教会の切なる祈りであったことが分かります。初代教会は、すでに教会誕生の紀元30年代から、ユダヤ教からの迫害を受けました。紀元60年代からは、ローマ帝国による迫害が始まりました。紀元90年代になると、多くの殉教者を出すようになっていきました。そのような厳しい信仰の闘いの中で、彼らの「主イエスよ、来たりませ」という祈りは、いわば命をかけた、殉教の血をふり絞るかのような祈りであったのでした。

 このほかにも、初代教会の信仰者たちが主イエスの再臨を熱心に待ち望んでいたことを表す聖書の箇所は数多くあります。彼らは、きょうかあすか、すぐにでも主イエスの再臨があり、終わりの日が来て、神の国が完成されるという信仰を強く持っていました。そして、主イエスの再臨に備えた生き方をしていました。日々に、主イエスの再臨を待ち望む生活をすることが、彼らの信仰生活の基本であり、あるいはすべてであったと言ってもよいかもしれません。

 すべて信じる人たちの罪のゆるしのために、ご受難と十字架の死の道を進まれた主イエス、そして三日目に復活されて罪と死とに勝利された主イエス。今は、天の父なる神の右に座しておられ、我らのために執り成しておられる主イエス。その主イエス・キリストが、終わりの日に再び地上においでくださり、わたしたちの信仰と救いを完成してくださる。その主イエスの再臨を待ち望みつつ、その再臨の時に備えて生きる。これが、使徒パウロや初代教会の信仰者たちの生き方でありました。これが、それ以来2千年の世界の教会の生き方でした。また、今日のわたしたちの生き方でもあります。

 主イエスの再臨を待ち望むという初代教会の信仰に、ある問題が生じることになりました。それは、終末の遅延、主イエスの再臨の遅延ということでした。ある人たちは強く熱心な信仰によって、主イエスの再臨を待ち望みつつ、厳しい信仰の闘いに取り組んでいましたが、他方では、主イエスの十字架と復活、昇天から20年、30年、50年が経過していくにつれて、「わたしはすぐに来る」と言われた主イエスの約束が、まだ実現していない、いったい、いつまで待てばよいのか、もう待つのに疲れた。あるいは、主イエスの再臨はもしかしたらないのではないか、という疑いを持つ人たちが増えてきたのです。

 そのような、終末の遅延、再臨の遅延という問題についても、新約聖書の中には少なからず語られています。その一か所を読んでみましょう。ペトロの第二の手紙3章です。【3~4節】(439ページ)。また、【8~13節】。

 ここでは、終末の遅延、主の再臨の遅延について、積極的な意味が語られています。それは、すべての人が救われることを望んでおられる神の忍耐なのだと。その神の愛による忍耐は、今に至るまで続いているのです。神は全世界のすべての人が罪を悔い改め、主イエスの救いを信じ、救われるために、きょうの日も忍耐しておられます。それゆえに、わたしたちは希望と喜びをもって、主イエスが来られるのをきょうも待ち続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、「主よ、来たりませ」というわたしたちの祈りを、いよいよ強く、熱心なものとしてください。わたしたちの目と心とを、終わりの日のみ国の完成の時に向けさせてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。