7月21日説教「神の奇跡によって牢から救出されたペトロ」

2024年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編18編1~7節

    使徒言行録12章6~19節

説教題:「神の奇跡によって牢から救出されたペトロ」

 使徒言行録12章に書かれているヘロデ・アグリッパ一世によるキリスト教会迫害の出来事は、聖書以外の歴史資料を参考にすると、紀元44年の過越しの祭りの時期、3、4月のことと推測されます。主イエスの十字架の死と復活の出来事が紀元30年ころの同じ過越祭の時期とすると、その年のペンテコステ、五旬節に世界最初の教会、エルサレム教会が誕生してから10年あまり過ぎたことになります。この間の初代教会の目覚ましい成長・発展についてわたしたちはこれまで使徒言行録から聞いてきました。それと同時に、初代教会が経験した幾度かの迫害についても聞いてきました。そして、12章の冒頭で、初代教会がこれまでに経験した迫害とは違った、国家権力による迫害についてわたしたちは聞くことになりました。ユダヤ国家の王、ヘロデ・アグリッパ一世が主イエスの12弟子の一人ヤコブを殺害し、さらに初代教会のリーダー・ペトロをも捕らえ、処刑しようとしています。誕生してまだ間がない初代教会は大きな危機を迎えることになりました。この時にも、「神の言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれることはない」(テモテへの第二の手紙2章9節参照)ということをわたしたちは確認することができるでしょうか。

 前回わたしたちは5節で、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」というみ言葉を聞きました。このみ言葉こそが、投獄されているペトロと祈っている教会とに約束されている勝利のしるしであり、「神の言葉はつながれない」ことの真理のしるしでもあるということを学びましたが、きょうのみ言葉でわたしたちはそのことをはっきりと確認することができます。

 【6節】。ペトロはユダヤ人最大の祭りである過越祭の時に捕らえられ、数日間牢に入れられていました。3節では「除酵祭」と言われ、4節では「過越祭」と言われていますが、使徒言行録では同じ意味で用いています。正確に言えば、ユダヤの暦でニサンの月の14日が過ぎ越しの祭りであり、そのあとに除酵祭と言われる、パン種を入れない固いパンを食べる祭りが1週間続きます。この祭りは、神の民イスラエルの誕生を祝う祭りであり、モーセの時代に神がイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出されたことを感謝する祭りです。主イエスは10数年前の同じ過越祭の時に、全人類を罪の奴隷から救い出すために十字架で死なれ、三日目に復活されました。ヘロデ王の教会迫害は期せずして、その主イエスの救いの出来事を指し示すことになったのです。

 ヘロデ王は除酵祭が終わってからペトロを裁判にかけて死刑にするつもりであったと4節に書かれていました。それまでの数日間、ヘロデ王は厳重な監視でペトロを牢に閉じ込めておきました。4節では、「四人一組の兵士四組」に監視させたとあり、6節では「二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間」にペトロを拘束し、さらに二人の兵士が戸口で監視していたと書かれています。ペトロは身動き一つできないほどに、がんじがらみに拘束され、厳重な監視のもとに置かれたいたことが強調されています。

 なぜ、ヘロデ王はこれほどまでにペトロを徹底的に拘束したのでしょうか。彼は何を恐れていたのでしょうか。ペトロの逃亡を恐れていたのでしょうか。仲間が彼を奪還しにくるのを恐れていたのでしょうか。それとも、他の何かを恐れていたのでしょうか。あるいは、もしかしたら、ヘロデ王自身は自覚はしていなかったけれども、これから起こるであろう神の奇跡を恐れていたのでしょうか。人間の理解をはるかに超えた、人間には不思議としか思えない、神の驚くべき奇跡を、ヘロデ王は恐れていたのでしょうか。

 2節と3節によれば、ヘロデ王は12弟子の一人ヤコブを殺害したことがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペトロをも捕らえて、教会に対する迫害を拡大しようとしていたことが分ります。神なき世界に住み、神を恐れないこの世の権力者というのは、自らの政治信念とか何かの真理とかによって行動するよりも、世の人々の関心をかうためとか、自らの権威の座にしがみつこうとして、本来恐れるに値しないものを恐れ、次第に自らも気づかずに悪魔化していくという現象は、いつの時代にもどこの国でも起こりえることです。当時の一般的な評価では、温厚な性格で、政治的手腕にもたけていると言われていたヘロデ・アグリッパ一世でしたが、彼が国家権力者として教会を迫害した最初の王となったのでした。こののち、紀元64年にはローマ皇帝ネロが教会を迫害し、紀元85年以降には歴代のローマ皇帝が迫害を続けていったという、国家権力による教会迫害の歴史が繰り返されていきます。しかし、その中で教会は今日まで生き続けてきたのです。

 次に、【7~10節】。ここに描かれていることは確かに、人間の理解にははるかに及ばない、不思議な、驚くべき神の奇跡です。「主の天使」とは神ご自身です。聖書では、天におられる神が地に住む人間世界の中で直接に行動される際には、しばしば「天使」や「主の使い」というお姿で表現されます。ここでは主なる神ご自身が行動しておられます。ペトロはただ神のみ言葉に、黙って服従するだけです。彼には、今だれが行動しているのか、だれが自分に働きかけているのか、自覚的な意識はなかったように思われます。彼は「幻を見ているのだと思った」と9節に書かれています。

 わたしたちは聖書の記述から、ここで起こっていることを順を追って確認していきましょう。7節の表現は、ルカ福音書2章9節の、主イエス誕生の時の羊飼いの場面と非常によく似ています。そこにはこう書かれています。「すると主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」。主イエス誕生の時に光り輝いた主の栄光が、今またペトロが捕らえられている牢の中を照らしています。主イエス誕生の時に夜の羊飼いたちを照らした主の栄光が、今手足を縛られ、死の判決を待つだけのペトロの牢の中を明るく照らし、大きな危機の中にある初代教会を照らしているのです。国家権力の前では全く無力であり、その悪魔的な暴力の前でなすすべを持たない教会を、主の栄光が照らしているのです。

 しかし、ペトロを監視している牢の兵士たちにはその栄光は見えません。ペトロのそばで起きて見張っていたはずの2人の兵士はだれ一人その栄光には気づきません。それだけでなく、ペトロを挟んで起きて見張っていたはずの二人の兵士が眠ったようになり、眠っていたペトロは天使によって目覚めさせられ、しかも二本の鎖がペトロの手から外れ落ちました。神の言葉がこの世のどのような鎖によっても縛られないように、神の言葉に仕えているペトロもまた鉄の鎖から解き放たれています。

 ペトロは天使が命じるままに、その言葉に服従しています。「急いで起き上がりなさい。帯を締め、履物を履きなさい。上着を着て、ついて来なさい」。ここでは、すべて神ご自身がみ言葉を語っておられます。神ご自身が行動しておられます。これが神の奇跡です。ペトロはただ黙って神のみ言葉に服従します。その時、神の奇跡が起こるのです。

 ペトロはほとんど無意識のように、幻を見ているように思い、いわば天使に手を引かれるようにして、第一、第二の衛兵所を安全に通過し、最後に町の通りに抜ける鉄の門の前に来ると、門はひとりでに開き、牢の外へと導かれました。これで、牢番の監視から全く自由にされました。その時、役目を終えた天使の姿が見えなくなりました。

 【11節】。ペトロはここで初めて、しっかりと目を覚まし、自分の身に起こったことを自覚しました。これまでのすべてのことが、神がなされた奇跡であることを知らされました。神が国家権力による迫害とあらゆる災いに勝利され、その中にいた自分を守り、救われたのだということをペトロは悟りました。

 牢から解放されたペトロは、彼のために祈っている教会の群れへと帰って行きました。【12節】。ここで、祈っている教会の群れと祈られているペトロとが出会います。しかも、祈っている群れは自分たちの祈りがすでに神によって聞き届けられているということにはいまだ気づかずに、祈り続けているのです。その祈りの群れと、すでに祈りが聞かれ、すでに神の救いにあずかっているペトロとが出会うという、不思議なことがここでは起こっているのです。教会の祈り、キリスト者の祈りは、このような救いの出来事を生み出します。なぜならば、主なる神がその祈りをお聞きくださり、祈っている人がまだそのことに気づかないうちに、神がすでに救いのみわざをなしてくださるからです。

 ヨハネ・マルコとその母マリアの家は、エルサレム教会の家庭集会の一つであったと思われます。夜中に牢から解放されたペトロはこの家の教会へと帰っていったのですが、その時にはまだ教会では徹夜の祈りが続けられていました。13節以下に書かれていることは、熱心な徹夜の祈りがなされている緊迫感とともに、神がなしたもうた奇跡のみわざをすぐには信じることができない人間の戸惑いのような、何かユーモラスは場面が描かれています。

 ペトロが家の戸を叩きます。女中のロデが取り次ぎに出ます。戸の向こうの声がペトロと分かり、喜びと驚きのあまり戸を開けることをも忘れて、急いでみんなの所へ報告に行きます。みんなはペトロがこんな夜中に帰って来るとは信じられず、それはペトロを守っている守護天使だろうと言い張ります。自分たちの祈りがこんなにも早くに神に聞かれるとは、だれも予想していなかったのでしょう。神の救いのみわざは人間の予想をはるかに超えています。

外に立つペテロはなおも戸をたたき続けています。彼らが戸を開けてみると、そこには確かにペトロが立っているではありませんか。この時の教会員の驚きがどれほどに大きいものであったかをわたしたちは推測してみることができます。神は彼らの祈りや願い、予想よりも、はるかにまさった大きな恵みをもって彼らの祈りに応えてくださったのです。神はわたしたち人間が考えることができる以上に偉大なる神であり、大いなる恵みの神であり、救いの神であられます。この神が、悪魔化していく国家権力と暴動化していく民衆の力から教会を守り、ペトロを閉じ込めていた強固な鉄格子をうち破られたのです。この神が、教会の熱心な祈りをお聞きくださり、大いなる奇跡と救いのみわざをなしたもうたのです。

【17節】。ペトロは主なる神が教会の祈りをお聞きくださり、大いなる奇跡によって彼を牢から救い出してくださったことを、教会員と共に再確認しました。彼はこのあと、しばらく身を隠すことにしました。ヘロデ王の追っ手から逃れるためでした。ペトロが再び使徒言行録に登場するのは、15章の使徒会議の画面です。その間、エルサレム教会は主イエスの兄弟であるヤコブがペトロに代わって指導的な立場に立ったと推測されています。教会はここでもまた、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないということを確認することができました。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの祈りにはるかにまさった大きな恵みをもってわたしたちの祈りに応えてくださいます。そのことを信じて、いついかなる時にも、たゆまずに祈り続ける者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。