7月25日説教「だれでも自分建築士」

聖書:イザヤ書66章1~2節

   コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章12~20節

説教者:田中康尋(日本キリスト教会神学生)

 ポートタワー・セリオン。秋田港に立つ、直線的な、すらりとした塔。 143メートルの高さに組み上げられた、白い鉄骨。それを覆うように張り付けられた、6272枚の強化ガラス。ここを訪れる家族やカップル、旅行者は、展望台に登り、空に突き出たガラス越しに景色を楽しむ。眼下には秋田市街、その先には鳥海山、そして隣のガラス越しには、一面に広がる日本海を眺望する。ガラス越しに見えるその景色を、ここを訪れる人々は、指さしながら、楽しく語り合う。そのガラスの壁は、外から見ると、大きな鏡のように、昼間は青空と雲を映して、その空の一部となって溶け込み、やがて、夕方になると、ガラスの壁は、オレンジ色の空と海を映し出す。そして、日が沈むと、このガラスの透明な壁は、内側から照らされる様々な色のイルミネーションの光をそのまま通し、港に明るさと彩りを作り出す。

秋田市街に戻ってみる。

赤れんが郷土館。元の秋田銀行本店。赤茶色のれんがを積み上げた、明治時代の近代的な壁。その厚い壁に穿たれた窓の上には、石造りの、ルネサンス様式に倣った繊細かつ重厚な装飾が施されている。明治の窓ガラスの脆さを補うように、それぞれの窓の外には、鉄でできた厚さ3ミリのシャッターが下りるようになっている。れんがの壁と、鉄のシャッター、入り口の重厚な木の扉、そして、中に入ると目の前に立ちはだかる、白い大理石のカウンター。それらはすべて、銀行の、そして顧客の大切な財産を収め、守り抜くためのもの。

さあ、そこから北へ移動して、日本キリスト教会 秋田教会。

かまぼこ型の屋根が乗った、桜色の建物。扉を開けて、礼拝堂に入れば、そこは、木の温かさを基調とした、正方形の空間。木材で作られた長椅子が並ぶ。その正面には、説教がされる講壇、その手前には聖餐卓、その左右に、献金台と洗礼台。視線を上にやれば、天井から吊り下げられた、照明が取り付けられている木製の大きな輪。そして、その上にはまた、木製のプロペラのような天井扇。そして、その上には、会堂全体に光を取り込む天窓。それらを取り囲むように、直線的な太い梁が天井や壁に、縦に、横に、斜めに、張り巡らされている。天井や壁の照明に用いられている、金色の金属や、透明なガラス、磨りガラスは、木材で統一された空間に、近現代の輝きを添えている。日曜日になると、木材で作られたこの空間は、礼拝に集まる人々の嘆きのため息、そして喜びの息吹、そうした様々な呼吸を人々と共にする。ここに集まった人々の発する、祈りの言葉や、讃美の歌声は、流れる空気と共に、天窓へと突き抜け、まるで教会の鐘が鳴るように、響き合いながら天に昇ってゆく。 磨りガラス、金属、木材。赤れんが、鉄、ガラス。強化ガラス、鉄骨。様々な建材。全てのものが許されている。全ての材料が、それぞれに目的を持っている。全ての構造が、そこにいる人や、そこにある物のために考えられている。

パウロは言います。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と。使徒パウロは、今でこそ有名なキリスト教の伝道師として知られていますが、彼の生きていた当時の本業は、テントの設営業者です。まあ、今でいえば、ここで涼しい顔をして偉そうに喋っている私のような伝道者ではなくて、むしろ、ギリシャの熱い太陽の下で日々汗して働く、建築関係の作業員さんです。そういう仕事をしていたからでしょうか、パウロは「神殿」ですとか、「建て上げる」といった建築に関係するイメージを、どうやら好んでいるような印象を受けます。私も大学時代に、警備員のアルバイトをしていたんですが、その影響で、今でも「安全」とか「犯罪」とかいう言葉を不意に聞くと、おっと思って反応してしまいます。私のようなアルバイトでさえそうなんですから、日々働いていたパウロは、なおさらのこと、建築関係の言葉には敏感だったんだろうなと思います。ですから、パウロが神殿をここで例えに出しているということには、特別な意味があるのでしょう。

神殿。エルサレムの町の東の端。キドロンの谷を挟んで、オリーブ山と向かい合った、この町の東の端に、谷底からせり上がる斜面に続いて、城壁が高くそびえる。その分厚い城壁で東西南北の四方を覆われた、その敷地のさらに中心にあるのが、真っ白な石を積み上げて建てられた、四角い神殿の建物。太陽が昇る東を向いて建てられたその建物の正面には、犠牲の動物を焼いて捧げる祭壇があり、さらに建物の中には、祭司と神が出会う場所となる、至聖所と呼ばれる小さな空間がありました。

エルサレムのこの神殿が、イスラエルで一番立派で丈夫な建物であることは、パウロの時代の誰もが認めることでした。しかし、その一方で、パウロをはじめとするユダヤ人にとって、この聖なる神殿という存在は、それがいつかは崩壊するというイメージをつねに連想させるものでもありました。実際、パウロの生きていた時代よりもずっと昔、紀元前6世紀には、当時の神殿が敵によって破壊されました。この出来事は、当時の人々にとって、イスラエルの国民としての誇りを打ちのめされた悲惨な出来事として記憶され、その記憶は、今日の旧約聖書に数多く見ることができます。また、紀元後、イエス・キリストの時代になっても、神殿の崩壊ということは、非常にデリケートな話題とされていたようです。例えば、イエス自身も神殿を指さして、その崩壊を予告したと伝えられています。また、彼が十字架にかけられた理由の一つは、神殿を破壊すると予告したというものでした。なお、イエスもパウロも死んだ後にこの予感は現実となり、西暦70年に、この神殿もまた崩壊することになります。そのように、「神殿」という言葉には、立派さや丈夫さというイメージと同時に、脆さや儚さ、危うさというイメージも含まれています。

さて、そこでもう一度、パウロの言葉を聞いてみましょう。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である。」わたしたちの体。その丈夫さと、脆さ、危うさ。その場所を、聖霊の神殿として建て上げなければならない。しかし、具体的にどうすればいいのか。今から何を建てるのか。どうやって建てるのか。誰のために建てるのか。「わたしには、すべてのことが許されている。」ということは、聖霊の神殿を建てるために、私は、建築計画の全てを決めなければならないのか。必要な材料を判断して、選び出さなければならないし、建築の方式を比較検討し、最も良い案を考え出さなければならないし、そこに住む聖霊の希望をあれこれと事細かに聞き出さなければならないということなのか?

まあ、それができる人はそうすればいいんでしょうが、私を含め、多くの方の場合、自分を建て上げることに関しては、プロはおろか、アマチュア以下、ほとんど知識も技術もないよ、というのが、正直なところではないでしょうか。しかし、そんな人のために、ちゃんと逃げ道を用意してくれるのが、聖書のいいところです。つまり、パウロは、こうも言っています。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」

キリストの体。それは、病気や障がいをもつ人に出会ったときに差し出されたキリストの手であり、招かれた子どもたちが駆け寄っていったキリストの足であり、さげすまれていた「罪人」や「徴税人」と一緒に食事をしたキリストの口です。それはまた、十字架にかかって、全ての人々に分け与えられるキリストのからだです。キリストの、この開かれた愛に倣い、それに連なるならば、その人の体はキリストの手の延長となり、足の延長となり、口の延長となるのではないでしょうか。

「わたしには、すべてのことが許されている。」私には、自分を建て上げる材料として、キリストの体を選ぶことが許されている。私には、キリストの生き方を建築方式として、私の神殿を建てることが許されている。こうして、私の神殿は、キリストの体の一部となる。それは、永遠に生ける神の神殿であり、そこには聖霊がとこしえに住まう。たとえ、私の目にはそう見えなくても。

(執り成しの祈り)

私たちのために執り成してくださるイエス・キリストに倣って、私たちも、隣人のために、祈りましょう。 私たちを愛してくださる神様、 体や心に、苦しみや悩みを抱えている人々に、あなたの愛を贈ってください。その人々が、あなたによって慰められ、希望をもって生きることができますように。 社会において責任ある仕事をしている人々に、あなたの愛を贈ってください。その人々が、公正さと安心を作り出すことができますように。 自分の価値を小さく感じている人々に、あなたの愛を贈ってください。その人々が、頭を上げて、新しい道を見つけることができますように。 世界の諸教会に、あなたの愛を贈ってください。それらの教会が、愛と真実なわざによって、神と人に仕えることができますように。 イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

7月18日説教「真の神であり、真の人」

2021年7月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節     

ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「真(まこと)の神であり、真(まこと)の人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。きょうはその4回目です。わたしたちの教会が戦後、日本基督教団を離脱して新しい歩みを始めてから70年、日本キリスト教会はどのような教会であることを目指してきたのかをご一緒に確認しながら、わたしたちの信仰を養っていきたいと願います。 信仰告白の冒頭の文章は、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは真(まこと)の神であり、真(まこと)の人です」。これを、1890年(明治23年)の(旧)『日本基督教会信仰告白』と比較してみると、二つの点で大きな違いがあります。(現行の『信仰告白』を参照して比べてください)。旧の方を紹介します。「吾等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の独子にして」と告白されています。「神と崇むる」が「主とあがめる」に変更され、「真の神であり、真の人です」が付け加えられています。ここに、新しい日本キリスト教会を建設した時に先輩たちが目指した教会の特徴が言い表されています。その一つが、「主告白」であるということを前回学びました。イエス・キリストは教会と全世界において、唯一の主であって、他の何ものも主ではない。国家であれ、元首であれ、天皇であれ、軍隊であれ、それらは主ではない。それゆえに、教会は主イエス・キリスト以外の何ものにも決して服従しない。礼拝しないと、いう告白をまず冒頭で告白した。それは、戦時中の反省から、再び教会が失敗を繰り返してはならないとの強い決意があったということを学びました。 「真の神であり、真の人」という告白が付け加えられたということに、もう一つの特徴があります。これについて、きょうから数回にわたって学んでいくことにします。 この告白が信仰告白の冒頭に置かれているということは、これ以降のすべての告白が「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」という告白を土台にして展開されていくということを意味しています。そして、その告白の中心的な意図をあらかじめ結論的に言うならば、主イエス・キリストは真の神であり真の人であるゆえに、わたしたち罪びとの救いを完全に成し遂げることがおできになる。わたしたちすべてを罪から救い、永遠の命の保証を固くし、終わりの日に神の国の民として招きいれてくださるという約束のすべてが確かにされているということです。もし、主イエス・キリストが真の神であり真の人であるというこの信仰告白が少しでもゆがめられたり、どちらかが否定されたりするならば、わたしたちの救いが不完全になってしまわざるを得ないということです。それほどに重要な意味を持つ告白だということです。  「真の神であり、真の人」という言葉はそのままでは聖書の中には見いだせません。この言葉は、紀元451年に小アジア(今のトルコ)の北西にあるカルケドンという町で開催された世界教会会議で決議され『カルケドン信条』の中にある言葉です。『カルケドン信条』は、『使徒信条』、『ニカイア信条』、『アタナシウス信条』とともに、世界信条、基本信条と言われ、全世界の正統的教会が受け入れています。日本キリスト教会はそれらの基本信条を告白している世界の、公同の教会の信仰を受け継ぎながら、それをさらに宗教改革時代のカルヴァンの流れをくむ改革教会の伝統によって深めることを目指している教会、教派であると言えます。  「真の神であり、真の人」という言葉が聖書の中にないのに、のちの教会が勝手に創作したということではありません。信仰告白は(信条と同じ意味で用いられますが)聖書で語られ、証しされている信仰の中心、その要約を教理の体系に沿って短くまとめたものですが、その中で用いられる語句や文章は聖書本文にあるものが多いと言えますが、聖書にはないが、教会の歴史の中で正統的な教理として教会会議などで認められた語句や文章も用いられます。「真の神であり、真の人」もその一つであり、また「三位一体」という教理の名称も聖書の中にはありませんが、正統的なキリスト教信仰の中心的教理であるということは言うまでもありません。  では、紀元451年に開催された世界教会会議、カルケドン会議に至るまでの背景について、なぜ「真の神であり、真の人」という信仰告白が生まれたのかについて簡単に見ていきましょう。  主イエスの十字架の死と復活が紀元30年代の初めころ、その年のペンテコステの祭りの時(5月から6月にかけて)、弟子たちの上に聖霊が注がれ、エルサレムに世界最初の教会が誕生しました。教会はエルサレムからパレスチナ全域へと広がっていき、紀元40年代後半からはパウロの計3回にわたる世界伝道旅行がなされ、紀元60年代には小アジアからギリシャ、ヨーロッパへと拡大していきました。聖書の中のパウロの書簡はその時代に書かれていますが、その中には、すでにそのころからキリスト教の教えが様々な異端的な教えとの厳しい戦いにさらされていたということをわたしたちは読み取ることができます。  パウロが最も激しく戦った相手は主キリストの十字架を否定するユダヤ教徒であり、またその伝統に縛られて、律法や割礼を重んじていたいたユダヤ主義的キリスト者でしたが、それとは別に、当時のギリシャ思想の影響を受けたグノーシス主義者と呼ばれる人たちがおりました。彼らは主イエスの人性(人間であること)を軽視する傾向にありました。主イエスの人間性が軽視されると、主イエスが人となられたこと、苦難を受けられ十字架で死なれたこと、そしてそのお体が復活したことの意味が薄められ、キリスト教信仰の中心である罪の贖いと罪からの救いがあいまいにされてしまいます。それはキリスト教会にとっての危機でした。パウロはそのようなグノーシス主義者たちに対して、主イエスは真の神であられたが、また同時に真の人となられたことを力説したのです。 聖書を読んでみましょう。【ローマの信徒への手紙1章3~4節】(273ページ)。また、【フィリピの信徒への手紙2章6~8節】(363ページ)。  パウロ以後も、教会は「キリストとはだれか、どのような方か」に関して、いわゆるキリスト論に関する論争を続けました。それは主イエスの神性(神であること)と人性(人間であっること)をめぐっての論争でした。紀元3~4世紀で最も影響力があった異端的教えはアリウス(250/56~336年ころ)という人の説でした。彼は、主イエスの神性(神であること)を否定し、天地万物を創造された神だけが唯一の神であり、主イエスは神によって造られた被造物の一つであって、神ではないと主張しました。このアリウスの説に同調する者も多く、大論争になったために、紀元325年に、先ほど紹介したカルケドンと同じ小アジアにあるニカイアという町で世界教会会議が開かれ(これが最初の世界教会会議と言われる)、そこでアリウスの説は異端として退けられ、『ニカイア信条』が採択されました。この信条の最も重要なポイントは、主イエスが父なる神と全く同質(本質が同じ)であるという告白です。すなわち、主イエスは真の神であるという信仰告白が確定されたのです。  ニカイア教会会議以降もキリスト論論争は続けられ、451年のカルケドン会議で制定された『カルケドン信条』が、古代教会のキリスト論論争に終止符を打つこととなりました。その最初の部分をご紹介します。「我らの主イエス・キリストは、唯一同じなるみ子であって、神性においても完全、また人性においても完全である。真の神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成る真の人間である。神性においては父と同一本質であり、人性においては我らと同質にして、罪を除くすべてにおいて我らと等しい」。ここに、日本キリスト教会信仰の告白の中にある「真の神であり、真の人」という語句があります。  『カルケドン信条』によって告白された「真の神であり、真の人」という信仰は、こののち今日に至るまで、正統的なキリスト教会の中心的な信仰告白となりました。いつの時代にも、ある人は主イエス・キリストの人性を強調して神性を弱め、またある人は神性を強調するあまり人生を軽視するという異端的な教えが教会を惑わしましたが、教会はいつの時代にも、古代の教会が長い信仰の戦いの中で勝ち取ってきた「真の神であり、真の人」という信仰告白の上に固く立って、正統的な信仰を守り通してきました。この信仰によってのみ、わたしたちの罪びとの完全な救いがあり、また永遠の命があると告白してきました。  また、16世紀の宗教改革の時代には、カルヴァンや彼の流れをくむ改革教会は、「真の神であり、真の人」という信仰告白を仲保者キリスト論との関連で展開しました。その代表例が、1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』です。神と人との間の唯一の仲保者であられる主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」として、神の義の要求を完全に満たし、罪びとに対する神の怒りと裁きとを完全に耐え忍ばれ、そのようにしてわたしたちの罪のための完全な贖いとなってくださったのです。わたしたち人間が犯した罪を、真の人間として担ってくださり、また同時に、真の神として罪と死とに勝利してくださいました。この神と人との間の唯一の仲保者主イエス・キリストによって、わたしたちは罪あるままで神に義と認められ、主イエスの十字架と復活を信じる信仰によってわたしの罪がゆるされ、救われるのです。『日本キリスト教会信仰の告白』はこのような改革教会の信仰を受け継いでいます。  主イエス・キリストは「真の神であり、真の人」であるという信仰が、確かに聖書全体が語り、証ししている信仰であるということをわたしたちはあらゆる個所から確認することができます。  マルコによる福音書1章1節には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。主イエスは神のみ子であられましたが、一人の人間として、罪びとの中に入って来られ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられました。ガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教されました。主イエスは神の権威によって、神の生けるみ言葉を説教されました。主イエスがお語りになるみ言葉は、力があり、すべて実現しました。主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。  マタイ福音書とルカ福音書によれば、主イエスはおとめマリアの胎に聖霊によって宿り、真の人間として誕生されました。主イエスは人の子として、時に怒り、時に涙を流され、時に額に血のような汗を滴らせながら祈られました。真の人として、十字架で苦しみを受けられ、死んで、葬られました。主イエスのご生涯は、「真の神であり、真の人」としてのご生涯でした。  「真の神であり、真の人」であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちと神との間の唯一の仲保者として、神とわたしたちの間に立っておられ、わたしたちの罪を完全に贖ってくださり、わたしたちに罪のゆるしと永遠の命の保証を与え、わたしたちを神の国へと招き入れてくださる、わたしの唯一の救い主であられます。  (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、み子主イエス・キリストがわたしたちを罪から救うために人となられ、十字架で死んでくだったことを感謝いたします。どうか、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの十字架の福音が宣べ伝えられますように。住イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月11日説教「あなたの敵を愛しなさい」

2021年7月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記15章12~18節

    ルカによる福音書6章27~36節

説教題:「あなたの敵を愛しなさい」

 キリスト教は愛の宗教であると言われます。事実、愛は聖書の中心的な教えであると言えます。聖書の中には、「愛する」という動詞形と「愛」という名詞形の言葉が、旧約聖書と新約聖書で合計500回以上用いられていることからも、そのことが確認できます。愛という言葉が直接用いられていなくても、聖書はその全ページで愛について語り、また教えていると言ってよいでしょう。  聖書が語り、教えている愛は、まず第一には神の人間への愛です。神の人間への愛は、聖書の最初のページから読み取ることができます。創世記に書かれているように、神は人間をすべての被造物の頭(かしら)、冠として、ご自分のかたちに似せて、ご自分に最も近い生き物として創造されました。神はまた世界の民の中からイスラエルの民をお選びになりました。ここでははっきりと神の愛が語られています。申命記7章にはこのように書かれています。「主なる神があなたがたイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民とされたのは、あなたがたが大きな民であったからではない。あなたがたはどの民よりも貧弱であったが、ただ、あなたがたに対する主なる神の愛のゆえに、神はあなたがたを奴隷の家エジプトから導き出されたのだ」(6~8節参照)。人間に対するこのような神の愛は、新約聖書に至って、神がご自身のひとり子をわたしたち罪びとの救いのために十字架におささげくださったほどにわたしたちを愛されたということによって頂点に達しました。  聖書はまた、わたしたち人間が神を愛すべきこと、さらにはわたしたちが互いに愛し合うべきことをも教えています。申命記6章4、5節ではこのように命じられています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。また、レビ記19章18節では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられています。主イエスは、「神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」というこの二つの愛の戒めが旧約聖書の中で最も大切な戒めであり、旧約聖書全体の戒めがここに集約されているとお語りになりました(マタイ福音書22章37~40節参照)。旧約聖書と新約聖書の教え、そしてまた主イエスの教えの中心また全体が愛であるということを確認できたと思います。  そこで次に、きょうの聖書のテキストであるルカ福音書6章27節以下を読んでいくことにしましょう。この個所は、マタイ福音書5章からの主イエスの「山上の説教」に対応して「平地の説教」と呼ばれています。ここにはクリスチャンでなくても一般的によく知られた聖句がたくさんあります。「敵を愛しなさい」(27、35節)。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(29節)。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)。これらの聖句は、聖書を読んだことがない人でも、一般的な教訓として口に出すことがありますし、キリスト教の愛、キリスト教の倫理の特徴として取り上げられることもあります。 けれども、あまりにもよく知られているために、かえって安易に理解されたり、誤解されたりすることもあります。たとえば、キリスト教の愛を一つの理想として追い求めたり、あるいは人に愛を強要するためにこれらの聖句を持ち出したり、あるいはまた、非暴力主義とか無抵抗主義という言葉で説明されたりすることもあります。ドイツの哲学者ニーチェはこれらの主イエスの教えを「弱者の倫理」「敗北者の倫理」と批判しました。  しかし、わたしたちは主イエスのこれらの説教を正しく理解するために、主イエスご自身と主イエスの父なる神にまず目を向ける必要があります。主イエスは35、36節でこのように言われます。【35~36節】。このみ言葉から二つの重要な点を聞き取ることができます。一つには、主イエスがここで語っておられる愛は、本来は憐れみ深い天の父なる神から来るということです。二つには、主イエスはわたしたちを天の父なる神の子どもたちとなるように招いておられ、その神の愛へと招いておられるということです。つまり、わたしたちが真実の愛とは何かを考える場合、まず自分自身や人間から目を離して、天の神へと向けなればならない、主イエスへと目を向けなければならないということなのです。  わたしたち人間は、本来どのような者であるのか、またわたしたちの愛は本来どのようなものであるのかについて、32~34節で主イエスはこのように言われます。【32~34節】。自分を愛する人を愛する愛は罪びとの愛だと主イエスは言われます。自分によくしてくれる人に善いことをするのは罪びとの善意だと主イエスは言われます。返してもらうつもりで貸すのは罪びとの親切だと主イエスは言われます。それらはみな罪びとの愛であり、罪のこの世に属する愛であり、それがわたしたちの愛なのです。わたしたち人間の愛は、愛すべきものを愛します。美しいものとか、価値あるものとか、自分にとって何か益あるものを愛します。しかし、主イエスはそのような愛は真実の愛ではない、それがどんなにか強く、激しくあっても、それは罪びとの愛であって、罪と死と滅びとに支配されていると言われます。真実の愛とは何かを考える時、わたしたちはまず自らの愛の貧しさと破れを告白しなければなりません。主イエスがここでわたしたちに命じておられる愛は、そのような愛ではありません。天の父なる神、情け深く、憐れみ深い神から来る愛のことであり、そのような愛へと主イエスはわたしたちを招いておられるのです。  では、神の愛とはどのような愛なのでしょうか。その神の愛へとわたしたちを招くとはどういうことなのでしょうか。35節で、主イエスは父なる神を「いと高き方」と呼んでおられます。この神の呼び名は、旧約聖書の時代からイスラエルの民が用いていた伝統的な神のお名前の一つであり、その中には、神は人間が住んでいるこの地から遠く隔たった高い所におられ、この地上にあるどんなものよりもはるかに高く、偉大であり、力あり、聖なる方、永遠なる方であるという意味が含まれています。それゆえに、神は人間世界やこの地上にある価値基準、あるいは倫理や社会秩序をはるかに超えておられます。それゆえにまた、神は「恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」あることができるのです。そのような神の愛を、無条件の愛、無限の愛、一方的に神から与えられる愛ということができるでしょう。神の愛は、愛される対象によって左右されません。いやむしろ、神の愛は愛される価値がなく、小さなもの、貧しいものにこそ集中的に注がれるのです。  そして、そのような神の愛をわたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、いよいよはっきりと知らされました。いと高きにいます主なる神は、地に住むわたしたち罪びとと共にいますインマヌエルなる神となってくださり、天から下って来てくださいました。聖なる永遠の神が罪と死とに支配されているこの罪の世に人間のお姿でおいでくださったのです。ここに、すでに神の偉大な愛が現わされています。神はわたしたち人間がまだおのれの罪に気づかず、神を知らず、神に背いていた時に、ご自身のみ子主イエス・キリストをわたしたちの罪のための贖いの供え物として十字架におささげくださいました。ここに、神の無条件の愛、無限の愛、一方的に罪びとに注がれる愛があります。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる時、その神の愛が信じる者たちに注がれ、罪ゆるされ、救われるのです。  「あなたの敵を愛しなさい」と命じられる主イエスご自身が、罪なき神のみ子でありながら、敵対する者たちの侮辱とあざけりの中を十字架の死に至るまで従順に父なる神のみ心に服従され、わたしたち罪びとに対する愛を示されました。「あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」とお命じになった主イエスご自身が、十字架の上で「父よ、彼らをゆるしたまえ」と祈られ、わたしたち罪びとたちに対する無条件の愛、無限の愛をお示しくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストの愛によって、罪ゆるされ、救われるのです。これが35、36節で教えられている第一のことです。 第二のことは、主イエスはわたしたちを神の子たちとしてお招きくださり、神の偉大なる愛へとお招きくださるということです。神は恩を知らない者にも悪人にも、情け深く、憐れみ深いお方であるだけでなく、わたしたち信仰者をもそのような者になるようにとお招きになるのです。わたしたちをそのような者として造り変えてくださるのです。主イエス・キリストによって注がれた神の偉大な愛はわたしたちの罪をゆるし、わたしたちを神と結びつけ、わたしたちを神の子たちとするのです。  35節では、「あなた方はいと高き方の子となる」と言われ、36節では、「あなたがたの父が」と言われています。主イエスは説教を聞いている弟子たち、群衆、そしてわたしたちを、神の子たちと呼び、神をわたしたちの父と呼んでおられます。どのようにして、わたしたちは神の子たちとされるのでしょうか。もう少し深く探っていきましょう。ヨハネ福音書1章12、13節にこのように書かれています。【12、13節】(163ページ)。また、ヨハネの手紙一3章1~2節にはこう書かれています。【1節ab】(443ページ)。  わたしたちが神の子とされるのは、主イエスを信じる信仰によってであって、それ以外によるのではありません。また、わたしたちが神の子とされるのは神の大きな愛によるのであって、それ以外によるのではありません。父なる神の家から迷い出て、罪の支配下にあり、罪の子であったわたしたちを主イエスはご自身の十字架の死という尊い贖いの代価を支払って買い戻してくださいました。神の所有としてくださいました。この主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白することによって、わたしは神の子とされるのです。  神の子とされたわたしたちは、父なる神が情け深く、憐れみ深いように、わたしもまた隣人に対して愛と憐れみを示すことができます。なぜなら、わたしは罪の支配から解放され、自己中心的な自我から自由にされ、この世の欲望や所有欲からも解き放たれているからです。主イエス・キリストの十字架の福音に生かされているわたしたちは、喜んで神と隣人とに仕える者とされているからです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、愛の貧しさや破れを覚え、時に傷つき倒れるほかないるわたしたちを憐れんでください。わたしたちにあなたの真実な愛を注いでください。この世界をあなたの真実な愛で満たしてください。 〇主なる神よ、大きな試練の中にあって苦悩している日本とアジアと世界を顧みてください。あなたから与えられる慰めと平安といやしによって、まことの光と希望を見いだすことができますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月4日説教「約束の子イサク誕生の予告」

2021年7月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記18章1~15節    

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「約束の子イサク誕生の予告」  

きょうの礼拝で朗読された創世記18章14節のみ言葉にまず注目したいと思います。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。「主に不可能なことがあろうか」、この疑問文は、反語的な問いかけであって、「否、そんなことはない、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない」ということを強調しています。神の約束のみ言葉を聞いて25年近くになり、今ようやくそれが実現されるという神の確かなみ言葉を聞かされた年老いたアブラハムとサラは、何と幸いなことでしょうか。ルカによる福音書1章37節で、同じように「神にできないことは何一つない」というみ言葉を聞かされた主イエスの母となるおとめマリアは、何と幸いなことでしょうか。そして、また、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というみ言葉を礼拝の冒頭で聞かされているわたしたちは、何と幸いなことでしょうか。わたしたちはこのみ言葉を聞き、信じるために、きょうの礼拝に招かれているのです。このみ言葉を聞くことができる場、またこのことを信じる信仰へと招かれる場は、教会の礼拝以外にはありません。もし、わたしの耳に他のすべての言葉が聞こえず、あるいは他のすべての言葉が空しく消え去っていくしかないと思われる時でも、この神のみ言葉が強く響いているならば、それは何と幸いなことでしょうか。また、もしわたしが他のすべての言葉が信じられなくなり、絶望するほかない時でも、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というこのみ言葉が信じられているならば、何と幸いなことでしょうか。  わたしたち人間にとっては、不可能なことは何一つないということは決して当てはまりません。むしろ、わたしたちはたくさんの不可能に取り囲まれており、時としてそのことがわたしを苦しめ、不安にし、いらだたせます。わたしが長く願ってきたこと、努力してきたこと、それらの多くは未だに実現していませんし、将来とも実現の可能性がないように思われます。その中には、いくつかの非常に切実な願いがあり、また信仰的な願いや祈りもあります。確かに、わたしたち人間は多くの不可能に取り囲まれているのです。真剣に人生に取り組もうとすればするほど、まじめに生きようとすればするほど、自分の能力の及ばないことがどんなに多くあるかを知らされると言ってよいでしょう。  しかし、わたしたち人間にとってはそうであることが確かだとしても、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない、神のみ言葉には不可能はない、神がお語りになったことはことごとく実現するということを、聖書はくり返して語っています。そして、たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたちにも、その神のみ言葉を聞き、「神には何も不可能はない」ということを信じる可能性は残されているという事実をわたしたちは思い起こすべきです。おそらくは、これこそがわたしたちに与えられている最大の可能性なのではないでしょうか。「主なる神には不可能はない」という聖書のみ言葉を聞き、それを信じることができるという大きな可能性へと、わたしたちはきょうの礼拝で招かれているのです。  では、アブラハムにとってこのみ言葉はどのような意味を持つのでしょうか。彼は75歳の時、神の約束のみ言葉を最初に聞き、それを信じて故郷カルデアのウルを旅立ち、神が示されたカナンの地へと移り住みました。神の約束の一つは、アブラハムの子孫を星の数ほどに増やし、神の祝福を受け継がせるということ、もう一つは、カナンの地を彼と彼の子孫との永遠の嗣業の地として受け継がせるということでした。けれども、それから25年近くが過ぎても神の約束はまだその実現を見ていませんでした。アブラハムも妻サラも年老いて、人間としての能力からみれば、子孫を授かるということは全く不可能な年齢に達していました。  そのようにして、アブラハムには全く可能性がなくなった時に、「主にとって不可能なことがあろうか」というみ言葉が語られ、「来年の今ごろ、あなたの妻サラには必ず男の子が生まれている」という神の約束の成就のみ言葉が語られているのです。わたしたちはここに至って、神の約束の実現が25年間もの長い間延期されてきたのは、アブラハムがこの神のみ言葉を聞き、信じるためであったのだということに気づかされるのです。「主なる神にとっては何一つ不可能はない」。アブラハムの不可能性のただ中で、全能なる神の可能性について語られているのです。いや、それだけではありません。このみ言葉はアブラハム個人に対して語られているだけでなく、すべての時代のすべての信仰者にとっての永遠の真理として語られている偉大な神のみ言葉なのだということに気づかされるのです。  さらにここで気づかされるもう一つのことは、全能なる神の可能性ついて語られる時、アブラハムの不可能が可能に変えられることになったということです。100歳と90歳という高齢の夫婦に神の奇跡によって子どもが与えられるようになるというのです。あらゆる不可能に取り囲まれているわたしたち人間に対して全能なる神の可能性が語られる時、わたしの不可能が可能に変えられるということなのです。そのようにして、神のみ言葉を聞き、信じるわたしたちのために、神は無から有を呼び出だし、死から命を生み出されます。  18章の冒頭を読んでみましょう。【1節a】。主なる神がアブラハムに現れて、彼と出会われることから、不可能のただ中にいたアブラハムに新しい可能性が開かれました。たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたち人間に神が出会ってくださり、神の命のみ言葉を語ってくださり、それをわたしたちが聞き、信じる、そこからわたしたちの新しい可能性の道が開かれていきます。  神はここで3人の旅人の姿でアブラハムに出会われます。神は時に天使の姿で、あるいは人間の姿で、あるいはまた自然現象の雲や風、火、雷などによっても信仰者と出会ってくださいます。アブラハムは初めはそれが神の使い、あるいは神ご自身だとは気づいていなかったようです。いつの時点で気づいたのかは聖書の記述からは分かりません。2節では「三人の人」と書かれています。そのあとでは「その人たちは、彼らは」と言われています。10節でそのうちの一人が語ります。ところが、13節になって「主はアブラハムに言われた」と書かれ、14節では「わたしはここに戻ってくる」と言っています。16節以下のソドムに関する箇所では、16節では「その人たち」、17節では「主は」、19章1節では「二人の御使い」と言われていますが、それらはすべて神ご自身のことです。  パレスチナ地方の南部の夏の時期は非常に暑く、当時の遊牧民は昼にはテントの中で休んでいるのが一般的でした。アブラハムはテントの入り口で目を上げて3人の旅人が彼に向かって立っているのを見ました。昼の暑い中を旅行することはめずらしいことですし、またアブラハムがたまたま目を上げたら目の前に3人の旅人が立っていたということも不思議です。アブラハム自身はまだそのことに全く気づいてはいなかったのですが、神はこのようにして彼と出会われたのです。ヘブライ人の手紙13章1~2節には、おそらくこの場面を想起して、このように書かれています。「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」。  旅人や客人を丁寧にもてなすことは古代近東諸国の遊牧民では一般的な慣習でした。そのことは、アブラハムとイスラエルの民にとっては特に意味あることであったということをわたしたちは知っています。アブラハム自身、このカナンの地で長く寄留者、旅人として過ごしてきました。また、イスラエルの民は400年間エジプトで寄留者として過ごし、そののちに主なる神によってそこから導き出されたという経験を持っていたからです。そこで彼らは旅人や寄留者をもてなすことを神から命じられていたのです。それは、神の導きと救いのみわざを忘れないためです。  アブラハムが3人の旅人たちを最大限の愛をもってもてなす様子が、生き生きと描かれています。彼はまず旅人の足を洗います。客人を木陰で休ませてから、急いで食事の用意に取りかかります。料理を並べてからは客人のそばで給仕をします。アブラハムは100歳近い老人とは思えないほどに、俊敏に行動していることがここでは強調されています。2節には「アブラハムはすぐに天幕の入口から走り出て迎え」とあり、6節には「アブラハムは急いで天幕に戻り」、サラには「早く」と命じ、7節でも「牛の群れのところに走って行き」、「急いで料理させた」と書かれています。アブラハムは若者のように、新しい命を注ぎ込まれた人のように行動し、客人たちをもてなしています。イザヤ書40章31節のみ言葉を思い起こします。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神を信じる信仰者に与えられる力、命、希望です。 食卓でのアブラハムと客人の会話を読んでみましょう。【10~15節】。この突然の訪問者はアブラハムの妻がサラという名前であることを知っています。また、二人には子どもがいないということ、子どもが与えられるという神の約束が二人に語られていたということをもこの訪問者は知っているようです。それだけでなく、一年後には子どもが与えられるという話を聞いた時に、サラが天幕の入り口で笑ったということまでをも、彼らは見ています。それもそのはずです。主なる神はすべてを見ておられ、すべてをなさいます。神はアブラハムに対する約束を必ず実行されます。彼らの不可能を超えて、彼らの不信仰を超えて。 サラが笑ったのは、不信仰の笑いです。神のみ言葉がこの年老いたわたしの身に成就することなどあり得ないと考え、神には不可能なことは何一つないということを信じることができない疑いの笑いです。この個所では、アブラハム自身の反応については書かれていませんが、17章17節には、神の約束のみ言葉を聞いた時にアブラハムも笑ったと書かれていました。アブラハムにとっても妻サラにとっても、自分たちの現状を知っている彼らにとっては、「主に不可能なことがあろうか」というみ言葉を聞くことは大きな驚きであり、信じがたいことであるには違いありません。神のみ言葉の真実の前では、人間の不信仰と罪が浮き彫りになります。しかしまた、神はそのような人間たちの不信仰と罪の中で、彼らを通して、み言葉を成就さるのです。神にとっては不可能なことは何一つありません。わたしたちはそのことを信じる信仰へと招かれています。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天においてすべてのみ心を行われます。また、あなたは天において地の出来事のすべてをご覧になっておられ、すべてのことを知っておられます。主なる神よ、どうぞわたしたちを顧みてください。わたしたちを憐れんで、罪の世からわたしたちをお救いください。あなたがこの地ですべての人たちのために救いのみわざを行ってください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。