7月28日(日)説教「聖書―出会いの書―命の書」

2019年7月28日(日)秋田教会牧師就任記念伝道礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章6~13節

   テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「聖書―出会いの書―命の書」

 聖書は「大いなる出会いの書である」と言われます。それには、二つの理由があります。一つは、聖書には神と人間との出会いについて書かれているからです。神と人間との出会いは、人間が経験する出会いの中で、最も偉大なものであるといってよいでしょう。

人間は生まれてから多くの出会いを経験して成長します。親や家族との出会い、友人、先輩との出会い、文学や絵画、芸術作品との出会いなど、多くの良き出会いの経験を与えられている人は幸いです。その人の人生は豊かになります。それ以上に、人間が神と出会うということは、その人の生き方を根本から変える大きな出会いとなるでしょう。ある哲学者は神を絶対他者であると言いました。人間の自由にはならない絶対他者である神との出会いによって、人間は自ら相対化される、それによって全く予想もできないような新しい自分というものを発見することができるのだと。

最初から少し難しいお話になってしまいましたが、大切なことは、よい出会い、真実の出会いを経験することが、わたしたちの人生をさらに豊かにするということです。

聖書の初めの書である創世記には、神がご自分の形に似せて人間を創造されたと書かれています。神と人間との形が似ているということは、近い関係にある、お互いが顔と顔とを合わせて対話ができるということです。神は最初に創造された人間アダムとエヴァと出会われました。神は人間にとって絶対他者としての存在ですが、しかし神は人間を対話の相手として、神と人間とが出会う存在として、また人間同士も互いに出会う存在として創造されたのです。それが、神の形に似せて創造されたという聖書のみ言葉の意味です。

聖書に書かれている神と人間との出会いが偉大な出会いであると言われるのは、人間が神と出会うために何らかの努力をしなければならないというのではなく、神ご自身が人間と出会うために、わたしたち人間の方に近づいて来てくださるという出会いだからです。実は、これがクリスマスの出来事の意味なのです。世の多くの宗教は、人間が神を見出す、人間の方から神に近づくという道をたどります。けれども、聖書では、キリスト教ではそうではありません。天におられる聖なる神が、絶対他者である神が、ご自身の身を低くされ、卑しくされて、地に下って来られ、この世の罪と汚れのただ中にお住まいになり、わたしたち人間と同じお姿になられ、ナザレのイエスとして、貧しい家畜小屋でお生まれになり、神に背いていたわたしたち罪びとたちと出会ってくださったという、特異な、特別な出会いなのです。

旧約聖書と新約聖書の中には、数多くの神と人間との特別な出会いの物語が書かれています。彼らは神との偉大な出会いによって、その人生が大きく変えられました。それまでは、自分や自分の周辺にいる人々のために生きていた人が、神と出会ってからは、神のために、主イエスにお仕えするために、そしてすべての隣人のために自分をささげて生きる人生へと変えられていきました。わたしたちはそれらの聖書の物語を読むことによって、神と彼らとの出会いの出来事を追体験することができます。

聖書が大いなる出会いの書であると言われるもう一つの、さらに大きな理由は、聖書の中に神と人間との出会いが多く描かれているというだけでなく、聖書のみ言葉によって、神が今、ここで、この礼拝において、わたしたち一人一人と出会ってくださるということです。そして、実はこの出会いこそが、わたしたちにとって決定的な意味を持つのです。聖書の中に描かれている神と人との出会いの物語をどれほど多く読んでも、熱心に研究しても、それだけでは神とわたしの決定的な出会いは起こりません。神が今、ここで、このわたしに、命のみ言葉をお語りくださる、救いのみ言葉を語ってくださる、わたしと対話をしてくださる、そしてここで、神とわたしの出会いが起こるのです。

神は今も、わたしたち人間を探し求め、たずね求めておられます。神は今も、様々な思い煩いや労苦や試練の中にある人と出会ってくださいます。孤独で、一人悩み苦しんでいる人と出会ってくださいます。病んでいる人や道に迷っている人、不安や恐れの中にいる人と出会ってくださいます。神から離れ、神に背いているわたしとも出会ってくださいます。そして、主イエス・キリストによる救いと平安を与えてくださるのです。わたしたちは主の日ごとの礼拝で、聖書のみ言葉をとおして、今も生きて働いておられる神との出会いを経験することができるのです。これこそが、わたしが人生の中で経験する最も偉大な出会いです。

旧約聖書の預言者イザヤは55章で、わたしたちをお招きくださる神のみ言葉を告げています。【1~3節、6~7節、11~12節】(1152ページ)。神は力強い命のみ言葉をもって、わたしたちをまことの命へと、大いなる喜びと平和へと、招いておられます。

次に、新約聖書のテモテへの手紙二3章のみ言葉に耳を傾けましょう。この手紙は、キリスト教の初期の最大の伝道者であったパウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙です。パウロは第二回世界伝道旅行の初めころ、それは紀元49年ころと思われますが、小アジア地方のデルベという町で若いテモテと出会い、彼に洗礼を授けました。そのことについては、新約聖書の使徒言行録16章に簡単に書かれていますが、きょうの説教のテーマとの関連でパウロとテモテの出会いのことを考えてみれば、それは本当に大きな意味のある出会いであったと言えるでしょう。おそらくはまだ二十歳にもなっていなかった若いテモテが、主イエスの福音を宣べ伝えるために町にやってきた伝道者パウロと出会い、パウロの説教を聞いて主なる神との偉大な出会いを体験し、それ以来、テモテはパウロの弟子、同労者、また信仰のために共に戦う戦士となり、小アジアの小さな町、生まれ故郷を出て、パウロと共に全世界をめぐって、困難な伝道活動に加わることになったのでした。

ここで、この手紙の著者であるパウロがどのようにして神と出会ったのかをも思い起こしてみたいと思います。そのことは使徒言行録9章に書かれているのですが、パウロは初めは熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教を迫害する先頭に立っていました。彼が属していたユダヤ教ファリサイ派の考えによれば、人は神の律法を忠実に守り、行うことによって、神に救われ、神の国に入ることができる。けれども、キリスト教によれば、人はみな生まれながらに神の律法の一つにも従うことができない罪びとであり、だれも律法を行うことによっては救われない。ただ、罪びとたちに代わって十字架で死んでくださり、三日目に復活された主イエス・キリストを信じるならば、その信仰によって、だれでも律法の行いなしに救われると教えている。それは、神の律法を軽んじることであり、神を冒涜することだ。そう考えて、ユダヤ教ファリサイ派の熱心な学徒であったパウロはキリスト教会を迫害していたのでした。

ところが、ある日パウロが迫害の息を弾ませてダマスコという町の入口までやってきたとき、突然に天からの、真昼の太陽の光よりも強烈な光に撃たれて地に倒れました。彼は目が見えなくなり、天からの声を聞きました。それは復活された主イエスのみ声でした。「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害するのか。わたしはあなたがこれからなすべきことを教えよう」。三日ののちに、彼の目が再び開かれたとき、彼はそれまで迫害していた主イエス・キリストを神のみ子であり、全世界の救い主であると宣教するキリスト教の伝道者に変えられていました。それからは、パウロはかつての同僚であったユダヤ人から迫害を受ける人になりました。迫害する人から迫害される人へと変えられました。律法によって生きる人から、主イエスの福音によって生きる人へと変えられました。

テモテとパウロ、聖書には他に多くの神と人との偉大な出会いの物語があり、人間の予想をはるかに超えた大きな人生の変化の物語があり、神によって与えれた祝福され、幸いな信仰の歩みの物語があります。

テモテへの手紙に戻りましょう。【3章14~17節】。ここには、神のみ言葉である聖書とは何か、それを読む人にどのような命と力とを与えるのか、ということが詳しく教えられています。いくつかのポイントにまとめてお話ししたいと思います。第一に重要な点は、聖書は主イエス・キリストへの信仰によってわたしたち人間を救いに導く神の知恵、神の真理であるということです。これがキリスト教の教えの中心です。キリスト教信仰の中心です。

キリスト教信仰は人間の罪と救いを問題にします。罪とは、神を失った人間の姿です。神なしで生きようとし、時に人間が自ら神のように傲慢になり、時に神を見失って暗闇をさまようほかにない人間のことです。神はこのような罪人を救うために、ご自身の独り子、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。主イエス・キリストの十字架の死によって人間の罪を贖い、すべて信じる人をその信仰によって罪から救い、神との豊かな交わりへと導いてくださいます。聖書はこの神の救いのみわざを、救いの恵みをわたしたちに与えます。聖書以外のどのような書物も、どのような教えや知識も、わたしたちに救いの恵みを与えることはできません。また、その他のどのような方法や道によっても、人間を罪から救うことはできません。ただ、神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された尊い、汚れなき御血潮だけが、わたしたちを罪から清め、わたしたちに新しい命を与えるのです。

したがって、わたしたちが聖書を読む場合には、聖書からこの救いの恵みを受け取ることを願って読まなければなりません。聖書を何らかの教訓の書として、文学書とか歴史書とか、あるいは哲学書として読むことも、それなりに意義あることですが、そこから救いの恵み、罪のゆるしの福音を聞き取らなければ、本当に聖書を読んだことにはなりませんし、神との真実な出会いを経験したことにもなりません。神は聖書のみ言葉をお語りくださることによって、わたしたち一人一人に救いの恵みをお与えくださり、わたしたちが罪ゆるされている神の子どもたちであることを信じるようにと導いておられます。

第二に重要な点は、聖書はわたしたちを神との交わりの中にとどめおくということです。パウロが手紙の中で弟子のテモテに繰り返して語っていることは、聖書の教えから離れるな、世の惑わしに心を奪われるな、偽りの教えを退けなさいという忠告です。紀元1世紀のパウロの時代も、今日のわたしたちの時代も、いつもそうですが、世には信仰者を誘惑する甘い言葉や美しく着飾った悪魔の力に満ちています。聖書に書かれている神のみ言葉には、それらを正しい信仰によって見抜き、判断し、それらと戦うための神からの知恵と力があります。わたしたちは誘惑の多いこの世にあって、絶えず繰り返して聖書のみ言葉を聞き続けなければなりません。そのために、信仰者は主の日、日曜日ごとに教会堂に集まり、共に聖書のみ言葉を聞き、共に神を賛美し、共に神に祈りをささげる礼拝を続けるのです。

最後に、聖書はわたしたちを喜んで神と隣人とにお仕えしていく人として造り変えます。神から離れていた罪びとは、自己中心的な生き方しかできません。自分の楽しみや自分の誉れのために、自分の幸いを求めて生きています。しかし、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされている人は、自己自身から解放されます。自分のためだけに生きるのではなく、わたしの罪をゆるすためにご自身の尊い命をささげつくされた主イエス・キリストのために、主イエス・キリストの福音のために、そして、主イエス・キリストに愛されているすべての隣人のために、喜んで自分をささげて生きる、新しい生き方へと導かれるのです。たとえその道が、パウロやテモテにとってそうであったように、労苦や試練に満ちた道であろうとも、あるいは自らの命をそのために犠牲にしなければならないとしても、すべては神の栄光のために、喜びと希望とをもってその道を進むための力と命とを、聖書はわたしたちに与えるのです。

(祈り)

2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記18章1~15節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「神の約束の成就を待ち望む」

 主イエスのために道を備える先駆者の務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生予告から、ルカによる福音書は始まります。1章5~25節までのヨハネ誕生予告は、それに続く26~38節までの主イエスの誕生予告と、多くの点で類似点があります。そのいくつかを挙げてみると、エルサレム神殿でザカリアに語りかけるのが天使ガブリエルであり、ナザレのマリアに語りかけるのも同じ天使ガブリエルです。天使とは主なる神ご自身のことです。天におられる神が、地に住む人間に語りかけられるときに、聖書ではしばしば天使、あるいはみ使いがその役割を果たします。ガブリエルは6人いる天使長の一人であり、最も重要な神のみ言葉を告げる際に登場します。

年老いたザカリアとエリサベト夫婦に子どもが与えられるという、神の奇跡による洗礼者ヨハネの誕生も、まだ結婚前のおとめマリアに聖霊によって子どもが与えられるという、主イエスの奇跡による誕生も、いずれも主なる神が計画しておられること、主なる神がなされる救いのみわざであるということが、強調されています。

次に、二人の子どもの名前が、二人が生まれる前から神によって決められていたという点です。普通は、子どもが生まれて八日目に父親が名づける習慣でしたが、ヨハネの場合も主イエスの場合も、まだ母親となるエリサベトとマリアにその自覚が全くないときに、すでに神によって定められていました。ヨハネとは、「神は恵み深い」という意味です。イエスとは「神は救いである」という意味です。神はこの二人の人物を通して、神が実際に恵み深い方であり、イスラエルと全世界のすべての人々のために恵み深いみわざをなしたもう、また、全人類のための救いのみわざをなしたもうという固い決意を、彼らの命名によってお示しになったのです。

そのことと関連して、この二人の子どもは、その生涯と務め、働きもまた、生まれる前からすでに神によって定められているということです。ヨハネの使命については15~17節に書かれています。主イエスの使命については32~33節に書かれています。神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が神によっているように、その生涯全体もまた神のためにあります。

四つ目の共通点として、神の約束を聞いたザカリアは18節で「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と天使に問いかけています。マリアもまた34節で、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と問いかけています。神の恵み深い約束のみ言葉を聞かされた人間は、だれであれ、それを直ちに信じることはできません。神のご計画は人間の理解をはるかに超えています。神がなさることは人間の予想をはるかに超えています。

では、きょうは洗礼者ヨハネの使命、働きについて予告されている15節から学んでいきます。「彼は主の御前に偉大な人になり」とあります。主とは、ここでは直接には神を指しています。ヨハネは主なる神のみ前にあって生きる人です。主なる神のために、主なる神から託された任務に仕えることによって、彼は偉大な人となります。彼自身が努力して立派な人になるのではありませんし、他の何かが彼を偉大にするのでもありません。さらに、主とは主イエスを暗示しているとも言えます。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのみ前にあり、主イエスのために道を備え、主イエスを証しすることによって、偉大な人となるのです。ヨハネの誕生がそうであるように、彼の生涯は徹底して来るべきメシア・主イエス・キリストと結びつけられており、主イエスに仕えることが彼の使命です。そうであるときにこそ、彼は偉大な人となるのです。

ヨハネは「ぶどう酒や強い酒を飲まない」とあります。旧約聖書では、神のために重要な働きをする大祭司や預言者、また神に誓願を立てたナジル人は酒を断つと書かれています。彼らはお酒によって元気づけられるのではなく、神の霊、聖霊によって命と力とを与えられて、神から託された務めを果たしました。それと同じように、否それ以上に、ヨハネは「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされている」と書かれています。ヨハネの誕生と命の根源には神の霊、聖霊があります。また彼の全生涯とその務め、その働きのすべても、神の霊、聖霊によって支えられ、導かれていると預言されています。これほどまでに徹底して、ヨハネの生涯は主なる神に依存し、主なる神のためにあり、また彼の後から誕生する主イエス・キリストのためにあるのです。そうであるときに、ヨハネはたとえ彼の生涯が試練と苦難に満ちているものであろうが、彼の命が暴虐なヘロデ王によって奪い取られることになろうが、彼は主の御前に偉大な人となり、豊かに祝福された生涯となるのです。

16節からは具体的にヨハネの使命が語られます。【16~17節】。この16、17節に3度「主」という言葉があります。「その神である主のもとに」「主に先立って行き」「主のために用意する」、これはいずれも、主なる神のことでありまた同時に主イエス・キリストのことでもあると理解すべきです。ここでも、ヨハネの生涯とその使命は、徹底して主なる神のためであり、来るべきメシア・主イエス・キリストのためであるということが強調されています。

また、ここで語られているヨハネの使命は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書に預言されている内容が背景になっていると考えられます。マラキ書では、神が古くからイスラエルの民に約束されていた救いの完成の時が、今、間近に迫っている。神はこの世の終わりの時に、すべてを新しくして神の国を完成するメシア・救い主を世に遣わすであろうという預言が終末論的な視点で語られています。そのいくつかを読んでみましょう。【3章1~3節】(1499ページ)。【19~24節】(1501ページ)。

このマラキ書の預言で語られている預言者エリヤの務めをヨハネは果たすとルカ福音書は告げているのです。終わりの日、主の日に、神は最後の審判を行い、救いを完成される。その時神は義の太陽であるメシア・救い主をお送りくださるが、その前に、救い主のために道を整える使者として預言者エリヤを派遣する、それがヨハネであると告げています。ヨハネは、旧約聖書の預言者たちの列の最後に立って、来るべきメシア・救い主の最も近くにいて、神の約束の成就の時のすぐ前で、その成就を待ち望み、いや待ち望むだけでなく、事実その成就を彼自身も見、そしてそれを指し示し、彼の全生涯によってメシア・救い主を証しする、それがヨハネの使命です。この使命を託されているがゆえに、ヨハネは主の御前に偉大な人なのです。

ところが、ザカリアはこの神の約束のみ言葉を信じることができなかったと18節に書かれています。それもそのはず、ザカリアとエリサベトには長い間子どもが与えられず、しかも二人ともすでに年老いて、人間的には子どもを生む能力が全く失われていたからです。人間の限界と不可能性の中で、それでもなお神の奇跡を信じるということは、だれにとっても困難です。創世記18章には、90歳近くになったサラに子どもが与えられると語った神のみ使いに対して、サラは笑ったと書かれています。17章17節には、百歳になろうとしていたアブラハムも笑ったと書かれています。アブラハムとサラのこの笑いは、確かに不信仰による笑いであると言ってよいでしょうし、ザカリアが「何によって、わたしはそれを知ることができるか」と言って確かなしるしを求めたことも、彼の不信仰に由来すると言ってよいかもしれませんが、しかし、そうであるとしても、だれもアブラハムやサラ、またザカリアを責めることはできないでしょう。

神の天使は、しるしを求めるザカリアを直接に避難してはいないように思われます。【19~20節】。ここでは、ザカリアの不信仰が非難されているというよりは、ザカリアの不信仰にもかかわらず、神の約束のみ言葉が確実に成就していくであろうということが何度も強調されていることに気づきます。「わたし、ガブリエルはこの喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのだ」。「この事が起こる日まで」。「時が来れば実現するわたしの言葉」。神のみ言葉は一つとしてむなしく語られることはありません。神のみ言葉は人間たちの不信仰の中でも必ずや出来事を生み出し、成就します。

ザカリアは祭司の務めにあったゆえに、だれよりも早くに神の救いのみわざの喜ばしい知らせを聞くことが許されました。にもかかわらず、彼は信じることができませんでした。彼はやはり不信仰ゆえの神の裁きを受けなければならないでしょう。ザカリアが口がきけなくなり、言葉を失ったというのは、確かに神の裁きであるといってよいかもしれません。祭司であるザカリアが言葉を失うことは大きな痛手です。しかも、彼はこの日の礼拝で、組を代表して聖所に入り香を焚き、民全体の祈りを神に届け、それから神のみ旨を伺い、神から与えられる罪のゆるしと恵みと祝福の言葉を民に語らなければなりませんでした。しかし、彼は言葉を失い、その務めを果たすことができませんでした。そのことが、21節以下に書かれています。

けれども、わたしたちはここでもう一つのことを気づかされます。それは、不信仰なザカリアが言葉を失った、口をきけなくなったということは、実は神の約束のみ言葉が確かであることのしるしであるということなのです。なぜならば、信じなかったザカリアが言葉を失うことによって、いよいよ神ご自身がみ言葉をお語りになり、疑ったザカリアが祭司としての務めを果たし得なかったことによって、神ご自身がみわざを行い、み言葉を成就されるのであるとの希望がより確かになっていくからです。ザカリアはただ黙して神の約束の成就を待ち望む者とされているのです。

信じなかったザカリアは語ることができません。否、語るべきではありません。不信仰な人や信じない人は神について語るべきではありません。その人はむしろ、沈黙することによって、神ご自身に語らせるべきです。不信仰なザカリアは口がきけなくされることによって、全く無力な者とされ、それ故に、ただひたすらに神からの助けと憐れみとを待ち望むほかにない者とされ、いよいよ全能の神のみ言葉を待ち望むほかにない者とされ、神がもう一度圧倒的な力をもって彼の人生に介入される時を待ち望む者とされているのです。それは、ザカリアがのちになって64節以下で、特に67節以下のザカリアの賛歌を彼が歌うことによって、明らかにされます。ザカリアはこのようにして、年老いてから子どもが与えられるという神の奇跡と、神をほめたたえるために彼の口が再び開かれるという、二度の奇跡を経験することがゆるされるのです。

神はザカリアの不信仰を超えて、それを突き破って、またそれをお用いになって、ご自身の約束のみ言葉が確かに成就するということをお示しになりました。神のみ言葉は時が来れば必ずや成就します。ザカリアはただ黙して約束の成就を待ち望む者とされました。それは神の裁きであったと同時に、神の大きな恵みでもありました。神の約束の成就を待ち望む者は必ずやその成就を見るからです。

(祈り)

7月14日「良いわざを始め、完成される神」

2019年7月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説 教:「良いわざを始め、完成される神」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられているということを、前にお話ししました。「獄中書簡」と「喜びの書簡」という名前です。本来一緒になるはずがないこの二つの名前がこの書簡につけられているのはなぜか、その秘密、その真理を探っていくことが、この手紙を読む際の一つの楽しみでもあります。きょうの礼拝で朗読された箇所に、すぐにも喜びという言葉が出てきます。そして、その喜びとはいかなるものであるのか、獄に捕らえられているパウロが、それにもかかわらず喜びと感謝に満たされているのはなぜなのかが、この最初の個所で明らかになります。

 【3~4節】。この手紙には「喜び」とか「喜びなさい」という言葉が10数回用いられていますが、その最初が4節の「喜びをもって」、次が18節の「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」、ここには続けて2度出てきます。この手紙の差出人である使徒パウロは今獄につながれています。7節にそれが暗示されていますし、12節以下でははっきりと彼が今監禁されていることが語られています。それなのに、彼は喜んでいます。なぜでしょうか。獄に捕らえられ、しかも自らが犯した何らかの犯罪とか過ちとかによってではなく、主イエス・キリストの福音を語ったがゆえにユダヤ人やギリシャ人から迫害を受けて、獄の中で鎖につながれ、自由を束縛され、もしかしたら死の判決を下されるかもしれないという不安や恐れ、孤独と絶望に閉ざされてしまいかねないような困難な状況の中で、しかもなおパウロは喜びに満たされている、神に感謝している、それはなぜなのか、わたしたちはぜひともその秘密を知りたいと願わずにおれません。

 もう一度、3節の終わりの個所を読んでみましょう。「いつも喜びをもって祈っています」。パウロの喜びは、まず第一に、祈りと結びついているということが分かります。パウロは獄中で神に祈っています。喜びと感謝をもって祈っています。祈りは、獄中のパウロをすべての束縛や不安、恐れから自由にし、解き放ちます。ここに、パウロの特別な喜びの隠された秘密、その理由があります。パウロにとって祈りは、それはわたしたちすべてのキリスト者にとっての祈りとも共通することですが、神を信じる人の祈りは、祈りの相手である神のみ力が働くときです。祈るわたしには全く力なく、可能性はなく、希望もないにもかかわらず、そうであるからこそわたしたちは神に祈るのですが、わたしたちの祈りによって主なる全能の神が立ち上がってくださり、お働きになってくださる、神のみ心が実現されていく、それが祈りです。たとえ今パウロが獄につながれ、太い鉄格子で囲まれていようとも、たとえだれかが、あるいはこの世のどのような権力が彼を抑圧しようとしても、パウロは祈りによって自由になっています。彼はどのような状況の中でも祈ることができます。祈りは彼を自由にし、彼を縛り付けているすべての束縛を断ち切り、鉄格子を打ち破り、不安や恐れを投げ捨て、そして、彼にこの世ならぬ喜びを感謝を与えているのです。

 したがって、ここからわかる第二の点は、パウロがフィリピ書でしばしば語る喜びとは、天の父なる神から与えられる喜びであるということです。この世で、パウロが努力して手に入れることができた喜びではなく、この世のだれかが、何かが彼に与えることができる喜びでもなく、むしろ、そのようなこの世の喜びがすべて失われてしまったのちにも、天の父なる神から与えられる喜び、祈りによって、全能の神から与えられる喜びなのだということです。この世でわたしたちが手にすることができる喜びといったものは、別の喜びによっておおわれてしまったり、あすになれば憂いに変わってしまったりするほかありません。もちろん、そのような喜びも天からの喜びの反映であり、神はそのような喜びをもわたしたちにお与えくださるでしょう。でも、天からの本当の喜び、どのような状況でも決して変わらず、失われることもない永遠の喜びは、この世のあらゆる束縛をも打ち破り、すべての不安や恐れからわたしたちを解放する喜びなのです。この世にある他のすべての喜びは、この天からの、神からの喜びの反映なのであり、繁栄でなければなりません。

 次に注目すべき点は、3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」と言っていることです。パウロの感謝はまず神に向けられています。彼がこの手紙を書く主な目的は、フィリピ教会が獄中のパウロに援助の手を差し伸べたことに対するお礼を伝えるということにありました。パウロはもちろんそのことへの感謝を忘れているわけではないでしょうが、しかしパウロはそれについては手紙の終わりの個所で、4章10節以下で具体的に語ります。手紙の冒頭では、何よりもまず神に対する感謝を語っています。神こそがすべての感謝の源だからです。

 もう一つ、この3節で特徴的なことは、パウロはここで「わたしの神」と言っていることです。新約聖書でも旧約聖書でも、神を「わたしの神」と言い表す例はごくわずかしかありません。多くは、「わたしたちの神」「イスラエルの神」と言います。それは、天におられる神の尊厳や偉大さを強調していたからです。そのために、「わたしの神」と親しげに言い表すことを避けていたからです。しかし、パウロはここで大胆にも「わたしの神」と言っています。神との親密な関係を大胆に表現しています。それはおそらく、パウロが今置かれている状況と深く関連していると思われます。パウロは今、ローマかエフェソか、あるいは他の町で獄に捕らえられ、信仰の兄弟姉妹たちから隔離され、一人でやがて下されるであろう死の判決を待っています。けれども、パウロは決して一人ではありません。孤独ではありません。主なる神が、彼と共にいてくださいます。このような困難な状況の中でこそ、パウロは神の存在を身近に感じています。パウロが獄にとらわれている時にも、神はパウロの神であることをやめません。いや、たとえ彼に死の判決が下され、彼が死に赴かなければならなくなるとしても、その時にも神はパウロの神であり続けます。神はどのような時でも、「わたしの神」として、わたしの傍らにいてくださる、わたしと共にいてくださるということを、パウロは強く信じているのです。

 パウロの喜びをさらに探っていきましょう。【5節】。ここでは、パウロの喜びと感謝の源となっていることが何であるのかが、よりはっきりと書かれています。それは、フィリピの教会が主キリストの福音にあずかっているからです。「最初の日から」とは、パウロが第2回世界伝道旅行の途中に、小アジアからヨーロッパに渡って最初にフィリピの地で福音を宣べ伝えた時からということで、それは紀元48年か49年ころと思われますが、それ以来、パウロが今手紙を書いているこの時までずっと、フィリピ教会で主キリストの福音の説教がなされ、聞かれ、信じられてきた、フィリピの教会の人たちは主キリストの福音によって生き続けてきたという事実、そのことをパウロは感謝し、喜んでいるのです。

 なぜならば、主イエス・キリストの十字架の福音は、それを聞き、信じる人を、罪から救い、死と滅びの道から命と希望の道へと導くからです。パウロはローマの信徒への手紙1章16節でこう言います。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。また、コリントの信徒への手紙一1章18節以下では次のように語ります。【18~25節】(300ページ)。主イエス・キリストの十字架の福音はわたしたちを罪と死と滅びから救い、罪ゆるされた人としての新しい人間を創造し、わたしたち一人一人を来るべき神の国の民として導くのです。これこそが、天から、神から与えられた、永遠の喜びであり、この世のすべての鎖や壁を打ち砕き、悲しみや憂いや、不安や恐れからわたしを解放する神の力なのです。パウロはフィリピ教会がこの福音を宣教し、聞き、信じていることを、何にもまして喜んでいる、神に感謝しているということを、手紙の冒頭で語っているのです。

 この喜びはフィリピ教会に与えられている喜びであり、パウロの喜びでもあります。様々な困難や迫害に苦しめられているフィリピ教会、そして今迫害のために獄に捕らわれの身となっているパウロ、その両者がこの天からの、神からの喜びによって固く結ばれているのです。その喜びはまた、今日聖書のみ言葉を読むわたしたち一人一人の礼拝者に与えられている喜びでもあります。主キリストの福音から与えられるこの罪のゆるしの喜び、救われた喜び、自由と解放の喜び、この喜びが全世界の教会の民を一つに結合しています。

 【6節】。ここでは、パウロの喜びと感謝がさらに広げられています。主キリストの福音によって与えられる喜びは、場所や地域や国を超えて、あるいはそれぞれの状況の違いを超えて、すべて福音を信じる人々を一つにする、それだけでなく、時をも超えて過去から現在へ、そして未来へ、終わりの日に至るまで、広がっていく様子を、わたしたちはここに見ることができるのです。

 「あなたがたの中で善い業を始められた方」とは神のことです。フィリピの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いたのはパウロですが、またそこに集まり信仰の群れを形成したのはフィリピの人たちですが、彼らをお用いになって教会建設のわざを始められたのは、主なる神ご自身です。神はご自身が始められた救いのみわざを、途中で放棄されることはありませんし、何らかの障害によってとん挫することもありません。神がなさるみわざは必ずや成し遂げられ、完成へと至ります。詩編98編の詩人はこのように歌います。【1~3節】(935ページ)。また、イザヤ書55章8節以下にはこのように書かれています。【8~11節】(1153ページ)。

 それゆえに、パウロの喜びと感謝は時をも超えていきます。「キリスト・イエスの日」とは、世の終わりの日、終末の時、神の国が完成される日のことです。10節や2章16節では「キリストの日」と言われています。主イエス・キリストが再びこの地に下ってこられ、地にあるすべてをお裁きになり、この古い世界を終わらせ、信じる人々を天にある神の国へと引き上げてくださる日のことです。パウロの目は、過去から現在へ、そして終わりの日へと向けられています。それは、主なる神が天地創造の初めからイスラエルの選びの歴史を貫き、主イエス・キリストの十字架と復活によって成就してくださった救いの歴史を、終わりの日に完成させてくださることを固く信じているからです。

 これがパウロの終末信仰です。この終末信仰こそが、パウロの喜びと感謝の根拠です。いかなる現実によっても左右されず、むしろ現実を打ち破り、変革し、新しい道を切り開いていく力と可能性とを持った喜びです。フィリピの使徒への手紙はその喜びに満ちています。それゆえに、「獄中書簡」でありながら「喜びの書簡」と呼ばれるのです。わたしたちにもこの喜びが与えられています。

(祈り)

7月7日説教「昼と夜の創造」

2019年7月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章14~19節

    使徒言行録17章22~31節

説教題:「昼と夜の創造」

 きょうの礼拝で朗読された創世記1章14~19節には、神の天地創造の第四日目のみわざについて書かれています。【14~19節】。第四日目も、「神は言われた」という14節の言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることから、第四日目が始まります。この日だけではありません。天地創造のこの日までの3日間も、またこの日以後のすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まります。それだけではありません。神の天地創造から今日に至るまでの全世界のすべての日々も、またこれ以後のすべての人にとってのすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まるのだということ、始められなければならないのだということを、わたしたちは知っています。人間が何かを語りだすよりも前に、人間が何かをなすよりも前に、神がまずみ言葉をお語りになる、そして人間がそれを聞く、そのようにして一日が始められるとき、15節にあるように、「そのようになった」というみ言葉を聞くことができるし、さらには、その日の終わりには、18節に書かれているように、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉をも聞くことができるのだということを、わたしたちは知っています。

もし人が、神なしで、神のみ言葉を聞くことなしで、自ら語り、自ら何かをなそうとするならば、それは実りのない、むなしく消え去っていくしかない一日、空虚な時になるほかないでしょう。わたしたちのきょうの一日が、わたしの生涯の日々が、満たされた時、確かな実りを約束された日々となるために、そしてすべての時が、すべての日々が、神によしとされるために、わたしたちはまず神ご自身がお語りになり、わたしがそれを聞くということが第一に重要なのだということを、覚えたいと思います。わたしが自分の生涯を終えようとするとき、「神はそれを見て、良しとされた」というみ言葉を聞くために、何よりも重要なことは、「神は言われた」というみ言葉を聞き続けることなのです。

第四日目の創造のみわざを語る際に、聖書は非常に注意深い用語を用いていることに気づかされます。14、15節の天の大空にある「光る物」、また16節の「二つの大きな光る物」のうちの「大きな方」とは、あきらかに太陽のことです。当然、「小さな方」とは月のことです。つまり神はこの四日目に、太陽と月、星々を創造されたのですが、聖書は太陽と月という言葉を直接には用いていません。これには大きな理由があります。

古代社会においては、今日でもそうですが、太陽や月は信仰の対象とされ、神として礼拝されていました。たとえば、イスラエルと様々なかたちで、隣国としての関係を持ってきたエジプトでは、太陽神「ラー」が長い間、国家の中心的な神でした。また、アブラハムの生まれ故郷であった古代メソポタミアでは、月神「シン」が礼拝されていました。その他、あらゆる国で、あらゆる時代に、太陽と月は神として崇められていました。今日でもそうです。

しかしながら、聖書では、イスラエルでは、太陽も月も、そして星々も、主なる神によって創造された被造物に過ぎず、神が大空にそれらを配置され、それらの運航と役割とを神が定め、支配しておられるのです。それらは決して神として礼拝されることはありませんし、それらが人間の運命を左右したりすることも全くあり得ません。古代エジプトやのちの中国などで発達した占星術は、イスラエルにおいては全く愚かで幼稚なものとして投げ捨てられました。このような正しい創造信仰は、わたしたちをすべての偶像礼拝から守ります。きょうの聖書の言葉の一つ一つには、それらの異教的な偶像礼拝や信仰に対する対決、否定が含まれているのです。

14~18節までのすべての文章は、神が主語です。神がお語りになり、神がみわざをなさいます。「神は言われた」で始まるこの日一日は、神がすべてお語りになり、神がすべてのみわざを行われます。神が「あれ」と命じられ、神が「そのようになれ」とお命じになるのです。

では、神は何のために、だれのためにこれらの創造のみわざをなさるのでしょうか。きょうの個所でそのことがより一層明らかになります。神は前日、三日目には、乾いた所、陸地を創造されました。海の水が陸地を覆ってしまわないように、海と陸とを分けられました。神は陸地に、草や果樹を芽生えさせられました。それは、やがて神が第六日目に創造される人間アダムをその陸地に住まわせるため、彼にその草と果樹を食物としてお与えになるためであるということを、わたしたちはのちに知らされます。神は人間アダムが生きるための舞台として陸地を整えてくださったのです。天地創造の神はその創造のみわざの初めから人間アダムを愛され、彼のために配慮してくださいます。

そのような視点から、きょうの四日目の創造について改めて読み返してみると、新たなことに気づかされます。14節に「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」と書かれており、15節には「地を照らせ」とあります。神によって創造された太陽と月は、人間アダムの時を刻み、季節ごとの地の実りをもたらすために仕えているのです。神の創造の世界にあっては、太陽と月は人間が礼拝する神々としての対象ではなく、むしろ人間に奉仕するために神によって創造された被造物です。主イエスは言われました。「あなたがたの天の父である神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(同6章30節)。わたしたちは神が創造された被造世界を見て、そこに現わされた人間に対する神の大きな愛を知らされるのです。

16節に、「大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」と書かれています。神はお創りになった太陽と月とをお用いになって、昼と夜とを創造されます。神はこの日に時を創造されたといってよいでしょう。神は先に人間アダムのために彼が住む陸地を創造されましたが、この四日目には彼が生きる時を創造されました。わたしたち人間が生きる場所も生きる時間も、神から与えられたもの、神の賜物です。わたしたちはその両者を神に感謝しながら、わたしが生きる時とわたしが生きる場所を神のみ手から受け取り、神の創造のみ心に従ってそれを用いるべきです。

しかしながら、今日多くの人がそのことを忘れて、神がお創りになったこの地を、あたかも自分の手で獲得できるかのように、自分の手でさらに広げることができるかのように思い、他の人の地までを略奪し、そのために神から賜った地に多くの人間の赤い血を染み込ませてきたのではないか。あるいは、神がお創りになった時間を、あたかも自分たちの自由に管理できると思い込み、他者の時間までも金銭で買収できると考えたり、あるいは、むしろ時間の奴隷にされたりしているのではないか。そのことを反省させられます。

朝には太陽が昇り、昼の光が明るく世界を照らし、すべて命ある者たちにその光が及ぶ。夜には、月の光のもとできょうの一日を終え、小さな光が優しく人々を安らかな眠りへといざなう。そのようにして、日から日へと、夜から夜へと一日が巡っていくこと、そこに創造主なる神の尊いみ心があり、特にも人間アダムに対する深い愛と配慮があるのだということ、そのことを神に感謝して日々を歩む者でありたいと願います。

神は昼と夜とを創造されたとともに、季節をも創造されました。季節ごとの地の豊かな実り、暑さ寒さもまた、天地創造の神の賜物です。創世記8章22節で、ノアの洪水ののちに神はこう言われました。「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」と。神は時と時間と季節とを創造され、それをみ心によって支配され、それぞれの時に応じて、豊かな恵みをお与えくださいます。わたしたちはまた次のようなコヘレトの言葉3章のみ言葉を思い起こします。【1~8節】(1036ページ)。神はそれらのすべての時を、わたしたちのために創造され、支配しておられるのです。

イスラエルの民にとっては、時と季節は特別に重要な意味を持っていました。それはイスラエルの礼拝と深く関係していました。イスラエルでは、春に祝われる過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りは、本来は大麦の鎌を入れる収穫祭だったと推測されています。それから50日目に祝われる五旬節・ペンテコステは小麦の収穫を感謝する祭りです。秋に祝われる仮庵の祭りはブドウの収穫を感謝する祭りです。イスラエル3大祭りは、時と季節を創造され、その季節にふさわしい実りを大地にもたらしてくださる神への感謝の礼拝なのです。そのほかに、新年の礼拝、新月の礼拝なども、時に関連した礼拝です。信仰の民にとって、時は神礼拝と密接に結びついています。

14節に、「昼と夜を分け」とあり、また18節には、「光と闇を分けさせられた」と、ここにも「分ける」という言葉が2度用いられています。同じ言葉がすでに4節、7節でも用いられておりましたし、同じような意味を持つ「呼ぶ」という言葉も何度も出てきました。分けるとは、区別すること、境界線を引くこと、両者が互いの領域を侵略しないように定めることです。どれほどに夜が長く続き、闇が深く感じられるような時があろうとも、夜がその日全体を支配することはありませんし、闇が光を永遠に追い出すこともありません。夜と昼、闇と光を創造された神は、その両者を支配しておられます。神は必ずや夜の時を終わらせ、闇を追い払われます。光の昼を来たらせたまいます。

旧約聖書の詩人たちは、試練や悩みの夜を迎える時、夜の深い暗闇を恐れながらも、必ずや神が光の朝を来たらせてくださることを信じて、「主よ、わたしは身を横たえて眠り/また目覚めます。主がわたしを支えてくださるからです」(詩編3編6節)と歌い、また、「見よ、イスラエルを守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない」(詩編121編4~6節)と歌いました。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙13章11節以下で次のように書いています。これは、中世の偉大な神学者アウグスチヌスが長い放浪の旅に終止符を打ち、回心するきっかけとなったみ言葉としても有名です。【11~12節】(293ページ)。

14、15、16節で用いられている「光る物」という言葉について、もう少し触れておきたいと思います。この言葉は、古代の近東諸国で神として崇められていた太陽、月という言葉を直接に用いることを避けるために「発行体」というような意味で用いられていますが、しかし、それ自体が光を放っているとは決して言われているのではなく、創り主であられる神から与えられている光、あるいは神からの光を反射している光のような存在として描かれています。3節ですでに学びましたように、神は創造の第一日目に光を創造されました。この光は、きょうの第四日目の「光る物」とは明らかに違います。創世記1章の中では、3節の光ときょうの「光る物」との違いについては何も説明してはいません。わたくし自身もその違いについてわかりやすく説明することはできません。

それでも次のことは明らかです。新約聖書においては、主イエス・キリストがすべての人を照らすまことの光としてこの世においでくださったとヨハネ福音書1章で証しされており、また、主イエスご自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたことをわたしたちは知っています。わたしたちキリスト者にとっての光とは、わたしたちの救いであり命である主イエス・キリストのことです。

(祈り)