8月28日説教「タビタ、起きなさい」

2023年8月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    使徒言行録9章36~42節

説教題:「タビタ、起きなさい」

 ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、世界最初の教会エルサレム教会のリーダーでもありました。彼の巡回伝道が使徒言行録9章32節から再開されます。ペトロはパレスチナとその周辺に建てられた諸教会の母なる存在であるエルサレム教会の代表者として、それらの諸教会を訪問し、教会の基礎を固めるために、さらには宣教活動を拡大するために、エルサレム教会から使命を託され、派遣されたのでした。8章14節からはサマリア教会を訪問したことが記録されていました。少し間があって、9章32節からはリダに住むキリスト者の訪問、そしてきょうの箇所では、ヤッファの集会を訪問したことが書かれています。リダもヤッファもまだ教会として整った群れにはなっていなかったと思われますが、ペトロがその二つの集会で行ったいやしの奇跡と死人をよみがえらせた奇跡は、その地域の福音宣教と教会の成長にとって大きな意味を持っていました。9章35節には、【35節】と書かれています。また、42節には、【42節】と書かれています。いずれも、一人の人がその重い病気をいやされ、死んでいた人が生き返らされたという奇跡以上に、主イエス・キリストの福音宣教によって、その地域全体に今や新しい神のご支配が始められ、神の救いの出来事が起こされ、神の国が接近してきたという、驚くべき神の救いのみわざを多くの人々が目にし、耳にするということが起こっているのです。ペトロはその神の大いなるみわざに仕えているのです。

 【36節】。リダという町はエルサレムから北東に約40キロメートル、ヤッファはさらに北東に20キロメートルほどの地中海沿岸の町です。ヤッファの町にだれがどのようにして主キリストの福音を宣べ伝えたのかについては記録はありませんが、おそらくはリダもそうであったと考えられていますが、8章1節に書かれていた、エルサレム教会に対する大迫害によって、市内から追放されたキリスト者たちがこれらの町にも散らされてきて、福音を宣べ伝えたのであろうと推測されます。わたしたちはここでもまた、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」(テモテへの第二の手紙2章9節参照)とのみ言葉を確認することができます。神の言葉は教会が経験する迫害や逆境の中でこそ、その力と命とを発揮するのです。

 「タビタ」は、当時のパレスチナ地方の一般的な言語であったアラム語と思われます。ギリシャ語では「ドルカス」と言い、その意味は「かもしか」であると説明されています。タビタはその名のように、美しく、軽やかな足で、活発に走り回り、教会の良い働き人、奉仕者として仕えていました。

 彼女は「婦人の弟子」と言われていますが、この言葉は新約聖書でここにしか用いられていませんので、教会の中でどのような役職であったのか、婦人の長老や執事であったのか、あるいは「使徒」という特別な役職を表すのか、はっきりとは分かりませんが、わたしたちがこの箇所で特に注目したいのは、ここには初代教会における婦人の働きについて、その数少ない記録が残されているということです。

古代社会においては、一般に婦人の社会的地位や働きについて表に現れることはほとんどありませんでした。そんな中で、使徒言行録とルカ福音書の著者であるルカは特に婦人たちの働きについて強調していることが確認できます。それはルカの個人的な見識によると言うだけでなく、主イエス・キリストの福音そのものが男女の違いとか、身分や年齢、その他の人間の違いを乗り越えているからにほかなりません。主イエス・キリストの福音を信じ、その信仰によって罪から救われている人はだれであれ、感謝と喜びとをもって神と隣人とに仕える人とされるのです。タビタがかもしかのような軽やかで活発な足を用いて「たくさんの善い行いや施しをしていた」のは、主イエスの福音によって罪ゆるされ、救われていることの感謝の応答です。

 日本キリスト教会は1963年から、「タビタの家」という、隠退された婦人教職や牧師夫人が共同生活をする福祉施設を造りました。現在は「タビタの会」と名称を変えて、同じような主旨の経済的支援の働きをしています。初代教会においても今日の教会においても、婦人たちの奉仕と働きは教会の大きな柱です。

主イエス・キリストの福音においては、また主の教会においては、男女の差別も、その働きにおける差別もありません。すべての信仰者に同じ神の霊が注がれているからです

 ところが、教会での中心的な働き人、奉仕者であったタビタが突然に病気でなくなるという不幸な出来事が起こりました。そのことはヤッファの教会にとってどんなにか大きな試練であり、損失であり、悲しみであったことでしょうか。

【37~39節】。一人の信仰者の死は教会全体の死であると宗教改革者ルターは言いました。ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を清め、屋上の間に安置しておきました。タビタの死を悲しむために多くの人たちが集まってきました。特に、生前タビタの愛の奉仕によって助けられ、慰められていたやもめたちの悲しみは大きかったと思われます。一人の信仰者の死はその親族や友人たちの悲しみであるだけでなく、確かに教会全体の悲しみであり、教会全体の死です。教会は一人の信仰者の死によって、教会全体の死を共に経験するのです。しかし、もちろんそれだけではありません。教会は主イエス・キリストの十字架と復活によって、主イエス・キリストご自身がすでに罪と死と滅びとに勝利しておられることを信じている仰者の群れとして、教会全体が終わりの日に約束されている復活と永遠の命を共に経験することを許されているのです。

 ヤッファの教会がリダにいたペトロを呼び寄せたのは何のためであったのか、今の段階ではまだはっきりとは分かりません。あとになって分かるようになります。タビタの死をヤッファの教会員と共に悲しんでもらうためではありませんし、ペトロに葬儀の司式を依頼したのでもありません。ヤッファの人たちはペトロがリダの町で、長く中風で寝ていたアイネアを主キリストのみ名によって起き上がらせたという奇跡についてすでに耳にしていたに違いありません。十字架の死から三日目に復活された主イエス・キリストの福音を何度も聞いてきました。彼らがタビタの亡骸をすぐに葬らずに、屋上の間に安置しておいたのも、そしてペトロをリダから呼び寄せたのも、タビタの死を超えて、主なる神が何かをなしてくださるであろうとの彼らの信仰が背後にあったのではないかと、わたしたちは推測してもよいのではないでしょうか。

 【40~43節】。リダとヤッファとの距離は20キロメートルあまりですから、両方の町を行き来するには1日か2日はかかります。その間、ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を囲みながら愛する人の死を悲しみつつ、しかし何かを期待しつつ、ペトロの到着を待っていました。

 しかし、聖書は彼らがタビタが生き返ることを期待していたとか、ペトロにその力があるかとか、そのようなことについては一言も語っていません。タビタが生き返ることは彼らの期待に応えるために行われるのではありません。そのことは、ペトロがみんなを部屋の外に出し、ただ一人になって神に祈ったと書かれていることによって強調されています。タビタの生き返りは主なる神のみ心であり、主なる神のみ力によるのであり、主イエス・キリストを死から復活させたもうた神のみわざなのです。

 ここに描かれているタビタの生き返りの奇跡、これは正確には死からの復活ではありません。いわば蘇生、生き返りです。その人はいつかは地上の生を終えて死の時を迎えます。復活とは、もはや死を見ない、永遠の命への復活です。主イエス・キリストただお一人が、わたしたちに先立ってこの永遠の命へと復活されました。そして、わたしたち信仰者にも終わりの日に完成される神の国での永遠の命への復活を約束してくださいました。

 実は、聖書には死んだ人が生き返るという蘇生の奇跡がいくつか記録されています。旧約聖書では、列王記上17章17節以下に、預言者エリヤがザレパテのやもめの子を生き返らせた奇跡。列王記下4章32節以下に、預言者エリシャがシュネムの女の子を生き返らせたという奇跡。新約聖書では、ルカ福音書8章40節以下の、主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという奇跡。これはマタイ福音書9章とマルコ福音書5章に並行記事があります。これとは別に、ヨハネ福音書11章には、マリアとマルタの弟ラザロを主イエスが生き返らせたという奇跡。きょうの箇所、使徒言行録9章と、同じ使徒言行録20章7節以下に、パウロの説教を聞いていたユテコという若者が3階から落ちて死んだときに、パウロが彼を生き返らせたという奇跡。計6か所になります。

 これらの蘇生の奇跡に共通している重要なポイントを二つにまとめてみましょう。一つには、これらはみな人間の蘇生の奇跡であり、主イエスの復活とは本質的には違うということです。主イエスの復活はもはや再び死ぬことのない永遠の命への復活です。両者は厳密に区別されなければなりませんが、しかし両者は固く結びついてもいます。これらの奇跡は主イエスの復活によって信仰者に約束されている終わりの日の神の国における復活と永遠の命の先取りであり、その確かなしるしなのです。主イエスがご自身の十字架の死と復活によって罪と死とに勝利の宣言をしてくださいました。信仰者にとっては、死の牙はすでに抜き取られています。死はもはや信仰者には致命的な傷を与えません。死によって、信仰者が神から引き反されることはありません。パウロがローマの信徒への手紙8章で語っているように、ご自身の独り子さえも惜しまずにわたしたちのために死に渡された大いなる神の愛から、どのような迫害も艱難も剣も死も、わたしたちを引き離すことはできないからです。

 二つには、これらの蘇生の奇跡には全能の生ける神が働いておられるということです。無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神がそれらのみわざをなしておられます。預言者エリヤはこう神に祈りました。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」(列王記上17章21節)。神はその祈りを聞かれ、その子の命をお返しになりました。主イエスは会堂長に、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ(ルカ福音書8章50節)、彼の娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」と言われると、その子はすぐに起き上がりました。ペトロが「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は眼を開き、起き上がりました。

これらの奇跡には全能の主なる神のみ力が働いているのです。主イエスを復活させられた父なる神が働いておられるのです。その神はわたしたち信じる者たちの死すべき罪の体をも生かしてくださり、ついには終わりの日に、神の国において朽ちることのない永遠の命をお与えくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたち一人ひとりにもお与えください。わたしたちが朽ちるパンのためにではなく、永遠の命のために生きる者としてください。重荷を負っている人、試練の中にある人、孤独な人、迷っている人を、どうかあなたが顧みてくださり、あなたからの助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月20日説教「山上での主イエスの栄光の姿」

2023年8月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書9章28~36節

説教題:「山上での主イエスの栄光の姿」

 ルカによる福音書9章16節から27節は、この福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半とを分ける分水嶺と言われます。ルカ福音書を読み進んでいくと、この時から、主イエスはご自身でもはっきりと自覚をもってご受難と十字架への道を進んで行かれることを感じ取ることができます。また、この箇所で語られている三つのこと、つまり、ペトロの信仰告白と、主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるということ、これら三つのことは互いに深く関連しあっているということ、それがこの箇所のもう一つの重要なポイントであるということをわたしたちは学んできました。

 そして、きょうの礼拝で朗読された28節以下に記されている、後半の最初の場面、山上で主イエスのお姿が栄光に包まれたという山上での変貌と言われる箇所も、その前の三つのことと、別の意味で深く関連しあっています。これまでに学んできたことを振り返りながら、その関連性についてまず考えてみましょう。

 弟子のペトロが、「あなたこそが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白した主イエスは、第一回目の受難予告によって、ご自身が受難と十字架のメシアであることを明らかにされました。主イエスは人々が期待していたような政治的メシアではなく、罪や悪を剣や権力によって滅ぼす英雄的なメシアでもなく、国家や社会を繁栄に導くメシアでもない。全人類の罪のためにご自身が神の裁きを受け、苦しまれ、十字架で死なれるメシアである。それゆえに、そのメシア・キリストを信じる信仰者もまた、日々に自分の十字架を背負って、罪の自分に死につつ、神と隣人とのために自らをささげ、主イエスが進まれた道を生きるべきであると教えられました。

そして、その主イエスのお姿が山上で栄光に輝いたというこの箇所から、十字架の主イエスはまた同時に罪と死とに勝利され、復活された栄光の主であるということが明らかにされているのです。

 さらには、ご受難と十字架の主イエスをわたしの救い主と信じ、告白するキリスト者は、日々に自分の十字架を背負って生きることによって、主イエスが神の国で栄光の座につかれる時には、同じ栄光にあずかることが許されるという約束が、ここでは語られているのです。ここでは、いわゆる十字架の神学と栄光の神学とが結びつけられています。ご受難と十字架の主イエスは、同時に勝利と栄光の主イエスです。わたしたちキリスト者は苦難と十字架をくぐりぬけて、主イエスの勝利と栄光にあずかることが許されているのです。それが、きょうのみ言葉の中心的なメッセージです。

 では、28節から読んでいきましょう。【28節】。ルカ福音書は主イエスの祈りのお姿を多く描いていることをこれまでも確認してきました。主イエスが洗礼を受けられたとき、12弟子を選ばれたとき、そしてすぐ前の18節でも、主イエスは重要な場面で、あるいは重要な決断をなさるとき、いつも祈られました。父なる神のみ心を尋ね求め、それに従われました。わたしたちも祈りの大切さを今一度思い起こしたいと思います。

 次に、「山に登られた」とあります。山は旧約聖書でも新約聖書でも、神が人間と出会う場です。人里から離れ、人間たちの営みとこの世から離れ、ただ神とだけ向かい合う場です。主イエスはそのような場、そのような時を大切にされました。わたしたちはどうでしょうか。そのような場を、そのような時を持っているでしょうか。余りにも人間的なしがらみの中にがんじがらめに縛り付けられ、この世の有様に心も体も奪われてしまってはいないでしょうか。神と向かい合い、神と語り合うことが少なくなってはいないでしょうか。わたしたちはそのような場とそのような時を、もっと確保しなければなりません。

 主イエスはその際に三人の弟子たちを連れていかれました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、この三人は8章51節で、会堂長ヤイロの娘を主イエスが生き返らされたときにも、選ばれてその証人となりました。彼らは主イエスの重要な場面の証人として選ばれているのですが、彼らが選ばれたのは、彼らが他の弟子たちよりも信仰深かったからとか、優秀であったからでは必ずしもありません。と言うのも、32節には「ひどく眠かった」と書かれていて、彼らは主イエスと共に目覚めて祈っていることができなかったからです。彼らはそのような弱く、信仰の浅い人間の代表者なのです。そうでありながらも、主イエスによって選ばれて、この重要な場面の証人とされ、主イエスの栄光のお姿をその目で見ることを許されたのは、主イエスの一方的な恵みの選びによることです。

 【29~32節】。主イエスの「服は真っ白に輝いた」と書かれています。主イエスがこのときにどのようは服装をしておられたのかは分かりませんが、おそらくは粗末なものだったに違いありません。日夜、福音宣教のために旅を続けておられたのですから、服は擦り切れ、泥やほこりにまみれていたと思われます。また、そのお顔は汗で汚れ、みすぼらしかったと推測されます。人となられた神み子は、そのようにして身も心もすり減らすほどに,わたしたちの救いのために働かれました。

 その主イエスのお顔が今、山の上で突然に変わり、その服が真っ白に輝いたのです。白く輝く服装は神の使い、天使の服装です(ルカ福音書24章4節、ヨハネ福音書20章12節参照)。主イエスは汚れのない、罪がない、神からの使者としてのお姿を現されたのです。罪も汚れもない神のみ子が、罪のこの世に人のお姿でおいでくださり、人間の汗と労苦を身にまとわれ、わたしたちと共に歩まれる人の子となられたのです。そのようにしてわたしたちの救いを成し遂げられたのです。

 その時、旧約聖書の偉大な二人の人物が栄光に包まれて現れました。モーセとエリヤです。この二人は旧約聖書全体を代表しています。モーセは出エジプトの指導者、シナイ山で神から律法を授かりました。旧約聖書の律法を代表しています。エリヤはイスラエルの最初の預言者で、彼は死後その体が天に引き上げられました。終りの日に、メシアに先立って地上に再び現れるとマラキ書の最後で預言されています。彼は旧約聖書の預言者を代表しています。

 その二人が、エルサレムで主イエスが成し遂げようとしているおられる最期について話していたと書かれています。それは具体的には、主イエスの十字架の死と三日目の復活、そして40日目の昇天を指しています。それによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いが完成されます。モーセに代表される律法が成就され、エリヤに代表される預言が成就されます。旧約聖書を代表しているモーセとエリヤ自身がここに登場してそのことを証言しているのです。

 ペトロたちは眠りかけていましたが、栄光に輝く主イエスのお姿に目が開かれ、彼らは主イエスがご生涯の最後にエルサレムで成し遂げられるであろう救いのみわざをあらかじめ見ることを許され、その証人とされました。彼らが選ばれて主イエスの山上での変貌の証人とされたことの意味をさらに考えてみたいと思います。

 一つには、主イエスが最後に勝ち取られる勝利と栄光のお姿の証人とされたことです。それは、十字架の死と復活、そして昇天にとどまりません。来るべき神の国での主イエスの栄光のお姿の証人とされたということです。主イエスは神の栄光の輝きにその全身が包まれています。もはや、罪も死も痛みも苦しみもありません。すべてが神の栄光に包まれ、光り輝き、一片の暗さもありません。主イエスはそのような神の国の王であられます。彼らはそのことの証人です。

 もう一つには、教会の民もまたこの栄光を約束されていることの証人です。教会の民はこの地上にあっては主イエスの十字架の福音によって生きることを許されていますが、しかしなおも、破れや弱さを持ち、この世からの迫害や辱めを受けなければなりません。けれども、教会は苦難と十字架をくぐりぬけて、神の栄光にあずかる約束を与えられています。終りの時、再び主イエスが来臨される時、教会は主の栄光のお姿に似た者とされ、欠けも破れもなく、汚れも弱さもない、栄光ある主イエスのお体と同じにされるという約束を与えられています。彼らはそのことの証人として選ばれているのです。

 ところが、ペトロをはじめ弟子たちは主イエスの山上での変貌の出来事を正しく理解してはいませんでした。【33~36節】。ペトロは主イエスの栄光のお姿をそのまま永久にそこにとどめておきたいと願いました。栄光に輝いた主イエスとモーセとエリヤとをその場に長くとどめておくために小屋を三つ建てることをペトロは提案します。けれども、それは正しい提案ではありませんでした。栄光に包まれていたモーセとエリヤの姿は雲の中に消え去りました。主イエスのお姿はなおも貧しい人の子としてそこに残っていました。主イエスはこののちもなおも、神から遣わされたメシア・キリストとして、わたしたちを罪から救うために、エルサレムへと、ご受難と十字架への道を進み行かなければなりません。その歩みをここでとどめることはできません。主イエスが栄光に輝くためにはご受難と十字架の道を通らなければなりません。

 教会もまた、最後の栄光の時を約束されている群れとして、なおも今は地上にあっては困難な福音宣教の務めを続けていかなければなりません。わたしたち信仰者は、終わりの日の栄光を約束されている者たちとして、なおも今は地上にあっては、弱さや破れを抱えながら、信仰の歩みを続けなければなりません。わたしたちはまだ神の栄光に完全に包まれ、覆われているのではありません。けれども、主イエスご自身がすでに罪と死とに勝利され、父なる神の右に出しておられ、栄光のお姿に変えられていることをわたしたちは知っています。そして、わたしたち一人一人をもその栄光の中に招き入れてくださることを信じています。主イエスの約束のみ言葉を聞きつつ、信じつつ、主の栄光のお姿を直接この目で仰ぎ見る時がくるまで、勇気と希望とをもって信仰の歩みを続けていきたいと思います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの弱くみすぼらしい現実を知っておられます。地上の教会の困難は信仰の戦いをご存じであられます。この世界の混乱と悲惨とをすべて見ておられます。主よ、どうかわたしたちを憐れんでください。この世界とわたしたちにあなたの救いのみわざを行ってください。わたしたちにあなたのみ心をお示しください。あなたのみ心がこの地に行われますように。そして、わたしたちがあなたの栄光の内に神の国の民として迎え入れられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月13日説教「ヨセフの夢の実現」

2023年8月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記42章1~29節

    ローマの信徒への手紙12章9~21節

説教題:「ヨセフの夢の実現」

 族長ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どものうち11番目に生まれた子どもヨセフを主人公とした物語が、創世記37章から終わりの50章までに語られています。ヨセフは父ヤコブの最愛の妻ラケルから、長く待ち望んだあとでようやく生まれた年寄り子でしたから、ことさらに父の寵愛を受けて育てられ、そのことが兄たちの憎しみを買うことになりました。兄たちは憎しみと嘲笑を込めてヨセフを「あの夢見るお方」と呼びました(37章19節)。ヨセフが自分の見た夢を兄たちや両親に自慢げに話していたからです。その夢はこうでした。【37章7節】(64ページ)。もう一つの夢は、【9節】。ヨセフに対する兄たちの憎しみと妬みの結果、ヨセフは兄たちによってエジプトに売られていくことになったのでした。

 それからおよそ20数年後、きょうの礼拝で朗読された42章6節にこのように書かれています。【6節】。そして、【9節a】。子どものころにヨセフが見た夢が、今、紆余曲折を経て、実現しているのです。けれども、そのことに気づいていたのはヨセフだけであり、しかもヨセフはそれを自慢げに兄たちに話すことをしていません。ヨセフは自分の夢が実現して、自分をエジプトに売り飛ばした兄たちに勝利したことを誇っているのでは決してありません。彼はここに神のご計画の実現を見ているのです。彼が見た夢を実現させたのは神です。ヨセフは神のみ心が行われていることを悟り、神への恐れをもって、神から自分に託されている兄弟同士の真の和解と、神の隠された救いのみわざが行われるために、何をなすべきかを思案しているのです。この42章でもすべての出来事を支配している主人公はヨセフではなく、主なる神なのです。ヨセフはその神に服従しているのです。

 では、どのようにしてヨセフの夢が実現され、神のみ心が行なわれていくのでしょうか。【1~2節】。エジプトと全世界を襲った大飢饉は、当然のことながらパレスチナ地方に住むヤコブ一家にも命の危険を及ぼすほどの影響を与えました。ヤコブは一家の長として、また一族の族長として、その家族の命を守る責任を自覚しています。ヤコブはエジプトには穀物があるということを聞いていました。彼がどうやってその情報を手に入れたのかについては何も書かれてはいませんが、そこにも神の隠れたみ心が働いていたと推測することはできます。でも、全国的な飢饉のときに、なぜエジプトに穀物があるのかについては、彼には知らされていません。しかし、41章をすでに読んできたわたしたちにはその理由が分かっています。

 41章53節以下にはこのように書かれていました。【53~57節】。これは、ヨセフがエジプト王ファラオの夢を解き明かし、7年の飢饉の前の7年の大豊作の期間に、穀物を蓄えさせておいたからであることをわたしたちは知っています。ヨセフは神から与えられた知恵によってファラオの夢を解き明かし、また神からの知恵によって大豊作のあとの飢饉に備えました。その知恵がファラオに認められてエジプトの総理大臣に任命されたのです。

 大豊作も飢饉も、いずれも主なる神のみわざです。神は創造されたすべての被造物を強いみ手をもって支配しておられます。大地を豊かに実らせるのは主なる神です。また大地を乾かすのも神です。そのようにして、神は豊作を喜ぶ人々にも、飢饉に苦しむ人々にも、主なる神であられることをお示しになり、わたしたち人間がすべてのものの造り主であられる神に服従し、その神がわたしたちを無くてならないものによって養ってくださることを信じるように導かれるのです。

 それゆえに、神はだれも飢えによって死ぬことを望んでおられません。2節でヤコブは「そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言っていますが、それはヤコブの願いである以上に、主なる神のみ心なのです。神は兄たちによってエジプトに売られたヨセフをお用いになり、神に選ばれた族長ヤコブとその家族のパンのために配慮なさいます。そして、彼らを飢えと死の危険から救い出されるのです。

 ヤコブは飢饉から一家を救うために10人の息子たちをエジプトへ派遣します。でも、一番末の子ども、最愛の妻ラケルから生まれたヨセフの弟ベニヤミンだけは、この危険な旅から除外しました。かつて、溺愛していたヨセフを失ってしまったときの記憶が父ヤコブにはまだ残っていました。4節にこのように書かれています。【4節】。しかし、これもまた父の偏った愛からの行動であったと言わなければなりません。かつて、父としてのヨセフに対する偏った愛が兄たちの憎しみを買い、ヨセフを失う結果になったのと同じ過ちを、ヤコブは繰り返しているのではないでしょうか。

そして事実、父ヤコブはヨセフとベニヤミンという二人の子どもに対する偏った愛から、大きな苦悩をもって解放されなければならない時がくるのだということを、わたしたちは次の43章で読むのです。あらかじめその個所を読んでみましょう。【43章14節】。このようにして、ヤコブは人間の偏った愛から、彼が何度も失敗を繰り返してきたあの人間への偏った愛から解放されていくのです。ただ、主なる神に対する全き服従こそが、族長として選ばれた信仰者ヤコブの進むべき唯一の道であることを知らされていくのです。主なる神を第一に愛することこそが、夫婦の愛、家族の愛、すべての人間への愛の土台であるべきことを知らされるのです。

 エジプトに遣わされたヤコブの10人の子どもたちは、エジプトで総理大臣の地位についていた弟ヨセフの前で地にひれ伏しています。ヨセフはすぐに兄たちだと気づきましたが、彼らは自分たちの前に立っているのが、かつて外国の商人に売り飛ばしたヨセフだとは全く予想することはできませんでした。

また、ヨセフは自分が子どものころに見た夢が20数年後の今エジプトで実現していることにも気づいていました。でも、ヨセフはそ知らぬふりをしています。むしろ、彼らに外国からのスパイ容疑をかけて、荒々しく取り扱っています。

 ヨセフはここで兄たちにかつての復讐をしようとしているのでしょうか。自分の夢が実現したことを兄たちに対して誇っているのでしょうか。いや、そうではありません。彼はここで神のみ心が成就しているのを悟ったのです。彼が子どものことに見た夢を実現させ、ヨセフと他の兄弟たちとを、数奇な運命をたどりながら、今エジプトで再会させてくださったのは、ほかでもなく主なる神であるのだということをヨセフは悟るのです。そして、神が父ヤコブの12人の子どもたち全員を、真実の和解へと導こうとされていることを知らされるのです。そのために、ヨセフはまだここに一緒にいない末の弟ベニヤミンとの再会をも果たさなければなりません。

 【18~22節】。ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちを真実の和解へと導く神のみわざがこれから始められようとしています。ヨセフは末の弟ベニヤミンをエジプトに連れてくることを兄たちに要求します。それまでは兄弟の一人を人質にして牢獄に監禁することにすると言います。それを聞いた兄たちは、かつて自分たちが弟ヨセフを憎み、彼一人だけを残し、彼を苦しめ、外国の商人に売り飛ばしたという罪に気づきました。最年長のルベンをはじめ兄たちは、弟ヨセフに対するかつての罪に気づき、その罪を悔いています。ここから兄弟たちの和解が始まります。

 ヨセフは兄たちが自分に対して犯したかつての罪を悔いていることを知り、彼らに知られないように、そっと涙を流したと24節に書かれています。ヨセフは彼らが穀物の代金として持参した銀をみな彼らの穀物袋の中に忍び込ませて返しました。そのことを知った彼らは、28節で「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と言って驚きました。兄たちもまた今回のエジプト行きと、エジプトの総理大臣との出会い、それが弟ヨセフだとはまだ気づいてはいませんでしたが、そしてエジプトの穀物によって飢饉から救われたことのすべてに、主なる神が働いておられることを感じ取っていました。

彼らは父ヤコブのもとに帰り、事のすべてを報告します。けれども、ヤコブにとっては彼らの報告は決して嬉しいものではありませんでした。ヤコブは36節でこう言います。【36節】。ヤコブは父親としてのヨセフとベニヤミンに対する偏った愛からいまだ解放されてはいません。わたしたちがすでに43章14節であらかじめ確認したように、二度目のエジプト訪問の時になってようやくヨセフは全能の神に服従することこそが、父親として、また神に選ばれた族長として、家族のみんなとイスラエルの民とを救うことになるということに気づくのです。

そしてまた、二度目のエジプト訪問で、ベニヤミンを含む11人の兄弟全員がヨセフの前にひれ伏すようになって、ヨセフが子どものころに見た夢が実現し、神のみ心が完全に成就するようになるのです。そのようにして、族長ヤコブとイスラエルの民全員が主なる神の救いのみわざを見るようになるまで、そしてすべての民が主なる唯一の神を礼拝するようになるまで、神の隠れた救いのみわざは続けられていきます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち人間の罪や憎しみや破れ、傷ついた愛の中で、ご自身の永遠の救いのみわざを前進させてくださいます。どうかわたしたちが自らの罪と破れとを知り、それを悔い改め、あなたの全能のみ力を信じて、あなたに服従する者としてください。この時代のさまざまな争い、混乱や分断、苦悩と試練の中にあっても、あなたのみ心が確かに行なわれていくことをわたしたちに信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月6日説教「平和を実現する人々は、幸いである」

2023年8月6日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和祈念礼拝)

説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    マタイによる福音書5章1~12節

説教題:「平和を実現する人々は、幸いである」

 主イエスはある日、ガリラヤの山に登られ、弟子たちを集めて説教されました。マタイによる福音書5章1節以下は「山上の説教」と言われます。その中の9節で、主イエスはこう言われました。【9節】。きょうの、「世界の平和を祈念する礼拝」では、この9節のみ言葉を中心に、聖書が語る平和について学んでいきたいと思います。

この箇所の古い文語訳聖書では次のように訳されていました。「幸福(さいわい)なるかな、平和ならしめる者、その人は神の子と称えられん」。この方が、原典のギリシャ語の語順に近い翻訳です。つまり、「幸いである」という言葉が文章の先頭に置かれ、強調されているのです。旧約聖書の詩編1編1節では、「いかに幸いなことか」と訳されていますが、マタイ福音書のこの箇所も、「いかに幸いであることか、何と幸いであることか」と訳す方が、原典の意味を汲んでいます。

では、「幸いである」という言葉が強調されていることの意味は何でしょうか。だれが幸いであるか、どんな状況がより幸福と感じるのかは、人によって違うでしょうし、時代や場所によっても受けとめ方は違うでしょう。けれども、聖書が、「幸いなるかな、何と幸いであることか」と強調して告げる場合は、他者と比較してとか、その時代の価値観に照らして、ということではなく、この世のあらゆる幸いとは全く違った、天から与えられる幸いのことなのです。天におられるすべてのものの造り主なる神、すべての命あるものの主であられ、父であられる神から与えられる幸いのことなのです。

実際に、主イエスの説教を聞くためにガリラヤの山のふもとに集まってきている群衆や、主イエスの12弟子たちは、幸せな生活を営んでいた人たちもいたでしょうし、困難を抱えて、辛く苦しい毎日を送っていた人たちもいたでしょう。特にこの時代は、イスラエルは長く外国の支配下にあり、国の外からは異教的な弾圧に苦しめられ、国の内では権力をふるうヘロデ王家の圧政に苦しめられていました。多くの人々は自分たちが幸いであるとは感じていなかったと思われます。

また、今この時代の中で、そしてきょうの礼拝で、この主イエスの「あなたがたはさいわいなるかな」というみ言葉を聞いているわたしたちはどうでしょうか。わたしたちが今生きているこの世界、この国、地域、家庭、わたし自身には、本当の幸いがあるでしょうか。むしろ、不安や恐れ、思い煩い、憎しみ、悲しみ、怒りの方が多くあるのではないでしょうか。

主イエスは今、そのようなすべての人たちに呼びかけておられるのです。「あなたがたは何と幸いであることか」と。なぜならば、主イエスの山上の説教は、天の父なる神からの語りかけであり、神の命と恵みに満ちたみ言葉の説教だからです。そして、神の恵みと命に満ちたみ言葉は、それを聞いている人の中に、新しい出来事を生み出していくからです。「幸いなるかな」との呼びかけを聞き、それを天の父なる神がお語りくださった神のみ言葉と信じる人に、神から与えられる幸いが創り出され、その人を実際に幸いな人として造り変えるのです。

なぜ、そいうことが起こるのかを深くさぐっていくと、ここで説教をしておられる主イエスご自身に行き着きます。主イエスは神のみ子として、クリスマスの日に、おとめマリアの胎から聖霊によってお生まれになりました。天におられる神が、地に下ってこられ、わたしたち人間と同じ肉のお姿でこの世においでくださいました。神はわたしたち罪の中にある人間たちと共におられるしるしとして、み子主イエスをこの世にお送りくださいました。それだけではありません。主イエスはご自身の罪も汚れもない肉のお体を、わたしたちの罪を贖うための供え物として十字架におささげくださったのです。それによって、わたしたちを罪の支配から救い出し、神の所有として買い戻してくださったのです。罪の奴隷であったわたしたちを神の子どもたちとしてくださったのです。

そのようにして、神のみ子・主イエス・キリストはわたしたちに「幸いなるかな」と語りかけ、わたしたちの中に天から与えられるまことの幸いを、永遠の幸いを創り出してくださるのです。

では次に、「平和を実現する人々」とはどのよう人々のことなのかを見ていきましょう。「平和」という聖書の用語は、旧約聖書ではヘブライ語の「シャローム」、新約聖書ではギリシャ語の「エイレーネー」です。この二つは、今日でもそれぞれの言語が用いられている国では、一般のあいさつの言葉として、日常で用いられているそうです。「こんにちは、おはよう、お元気ですか、またね」というあいさつとして、「シャローム」「エイレーネー」と声を掛け合うそうです。「あなたに平安があるように」という意味合いでしょうか。

ヘブライ語の「シャローム」は聖書では「平安、平和」と訳されるほか、「繁栄」「救い」とも訳されます。神と人間との関係において、あるいは国と国の関係、人間と人間の関係において、破れがなく、不和や争いがなく、満たされている関係にあること、精神的に不安や恐れがないこと、経済的には貧富の差による軋轢や富の独占がなく、肉体的には健康で活力に満たされていること、そのような状態を「シャローム」と言い表しました。ギリシャ語の「エイレーネー」も新約聖書の中では「シャローム」の意味を受け継いでいます。すべての点において神のみ心のままに調和と協力、分かち合いと豊かな交わりがある状態が「エイレーネー」です。

ところが、多くの場合、人間の罪によってこの平和が乱され、踏みにじられ、破壊されているという現実があることを聖書は語るのです。戦争、あらゆる争い、略奪、憎しみ、分断、それらはみな人間の罪が生み出すものです。人間が神の創造のみわざを破壊し、神の救いのみ心をそむき、神の義と公平を重んじないところに人間の罪があり、それが平和を破壊し、戦争を生み出します。

神がご自身の形に似せて創造された人間の命を尊重せず、その命を傷つけ、破壊する殺人が行われているところには平和はありません。神が創造された海、山、自然を砲弾で破壊し、その地の上を戦車のキャタビラで掘り返すところには平和はありません。核兵器や長距離弾道弾の恐怖におびえて暗い夜を過ごさなければならないところに平和はありません。だれもが他の人よりも多くを持とうとし、隣の貧しい人に目を向けないならば、その社会がどんなに富み栄えていても、そこには平和はありません。人間の罪が支配しているところには、国家であれ、社会であれ、家庭であれ、そこには平和はありません。

では、主イエスはどのようにして弟子たちを、またわたしたちを「平和を実現する幸いな人たち」とするのでしょうか。罪の中にあって、平和を破壊し、新たな戦争を生み出すことしかできないような、傲慢で不従順なわたしたち、自分を守るためにより強力な武器を持とうとしているわたし、他者をゆるすことができず、自分こそが正しいと主張しているわたし、心では平和を願いながら、世界平和のための祈りに乏しいわたし、平和のために立ち上がる勇気も力もないわたし、そのようなわたしに対しても、主イエスは「幸いなるかな、平和を実現する人たちは」と呼びかけてくださるのでしょうか。

9節後半の言葉に注目したいと思います。「その人たちは神の子と呼ばれる」。この文章は前半で語られたことの理由や根拠を示しています。新改訳聖書2017年版では、「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」と訳しています。つまり、主イエスはこう言われるのです。「あなたがたはかつては罪の奴隷になっていて、戦いや分裂しか生み出すことができない人たちであったが、今やあなたがたは罪の奴隷から解放され、神に属する者たちとされ、神の子どもたちとされているのであるから、そして今天の父なる神からの幸いを与えられているのだから、あなたがたは平和を実現する者たちとして新しく造り変えられているのだ」と。

ここでもう一度、わたしたちに「幸いなるかな」と呼びかけてくださる主イエスご自身に目を向けましょう。実は、主イエスこそがただお一人の神のみ子です。わたしたちは主イエスによって、いわば神の養子とされているのです。ヨハネの手紙一3章1節にはこのように書かれています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。わたしたちが神の子どもたちと呼ばれるために、父なる神はご自身の一人子なる主イエス・キリストを罪びとたちの手に渡され、全人類を罪から贖う供え物として十字架におささげくださった、それほどに大きな愛によってわたしたちを愛されたからなのだと、この手紙は語っているのです。

主イエスはご自身の十字架の死によって、神と人間との間を隔てていた罪を滅ぼしてくださいました、また、人間と人間、国と国との間を隔てていた敵意や憎しみを滅ぼしてくださいました。そのようにして、主イエスはいくつにも分裂していた人間とこの世界とを一つに結び合わせ、共に神と和解されている者たちとしてくださったのです。そして、この和解の福音を宣べ伝える務めをわたしたちに授けてくださったのです。わたしたちは平和の創造者であられる主イエスの十字架の福音を携えて、この世へと、世界へと派遣されていくのです。主イエス・キリストの十字架の福音こそが、どんな武器よりも、核兵器よりも、力強く、そして確かに、この世界と人間たちに、真実の平和をもたらすということを、語り伝えていくのです。これがキリスト教会の使命です。また、教会に招かれているわたしたち一人一人の使命です。

(執り成しの祈り)

(礼拝出席者全員で「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。世界にまことの平和を与えてください。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

2023年8月6日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」