5月26日説教「信仰と生活との誤りのない審判者」

2024年5月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(33)

聖 書:詩編119編1~16節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「信仰と生活との誤りのない審判者」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。きょうはこの文の最後「信仰と生活との誤りのない審判者です」という箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 この箇所では、キリスト教教理の「聖書論」が取り扱われていますが、わたしたちプロテスタンと教会とカトリック教会との大きな違いがこの「聖書論」に現れていると言えます。宗教改革者たちが強調した「聖書のみ」は「神の恵みのみ」「信仰のみ」とともに、宗教改革の中心的な教えでした。それは、ローマ・カトリック教会が聖書のほかにも、教会の伝統、あるいは伝承、すなわち、歴代の教皇が出した教理に関する文書、勅令、勅書と言われますが、それらが聖書と同じ権威を持っているとされていることに対する反論、否定でありました。聖書に書かれている神の言葉以外には、どんなに権威ある人の言葉であっても、それは神の言葉ではない。したがって、わたしたちが信仰をもって服従しなければならない言葉ではなく、また、わたしたちの救いにとってなくてならない言葉でもない。ただ、聖書の言葉だけがわたしたちが聞くべき神の言葉であり、ただ聖書の言葉だけがわたしたちを救う神の言葉である。そのことをルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちは強調したのです。

 きょう学ぶ「信仰と生活との誤りのない審判者」という告白に関しても、このことを今一度確認しておくことが重要です。神の言葉である聖書と、それをとおして語っておられる聖霊だけが、わたしたちが信じ、従うべき神の言葉であり、また、わたしたちの信仰と生活全般においての唯一・最高の審判者なのであって、他の言葉は、たとえ教会という組織が作成した規則や命令であれ、偉大な人物とかすぐれた宗教家や哲学者が語った言葉であれ、それらはわたしたちを正しい信仰の道へと導くものではない。わたしたちをまことの命と真理に導く言葉ではない。そのことが、ここではまず第一に告白されているのです。

 もう一つ、あらかじめ確認しておくべきことは、この文章の主語についてです。「新・旧約聖書は神の言葉であり」、ここまでの主語は新・旧約聖書です。次の文からは主語が変わり、「その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示し」と「信仰と生活との誤りのない審判者です」という、この二つの文章の主語は、直接的には聖霊であると言えます。しかしまた、意味から考えれば、新・旧約聖書が主イエス・キリストを啓示し、証ししているのであり、また、同じように聖書の言葉が信仰と生活の審判者であると言えますので、実際には聖書と聖霊の両者が主語となっていると理解できます。

 わたしたちの『信仰告白』がこのような言い方をしている理由については、これまでも学んできましたが、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとを密接に結びつけ、両者を決して分離しないということに留意しているからです。聖書の本来の、また唯一の著者は聖霊です。聖霊が預言者や使徒たちをお用いになって神の言葉である聖書を著しました。それゆえに、聖書を読む場合も、聖霊のお働きとお導きとを求め、そのお働きを信じて読まなければ、それがわたしたちを罪から救い、まことの命に生かす神の言葉として読むことはできません。

 「わたしたちの誤りのない審判者である」と告白されているここでも同様です。直接に、「聖書が誤りのない審判者である」と告白されるのではなく、「聖書の言葉の中で働かれる聖霊が誤りのない審判者である」と告白されています。ここでも、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとが密接に結びつけられているのです。その理由を考えてみましょう。

 実は、聖書の言葉が直接的に誤りのない審判者であると告白されている信仰告白も世界にはかなりあるのですが、その際には、聖書の言葉が律法主義的に理解されて、聖書の言葉がそのまま教会の在り方や信仰の在り方を規制したり、あるいは、聖書の言葉をこの世の法律と同じように適用して、それによって軽々しく裁いたり、断罪したりする危険性が出てきます。聖書にこう書いてあるのに、それとは違うから、それは不信仰だと決めつけるという、律法主義がそこから出てきます。しかし、それは神の言葉を人間の言葉と同じように適用することであり、神の律法をこの世の法律と同じように適用することであって、そこでは聖霊なる神のお働きは全く無視されていると言わなければなりません。そのようが誤解や悪用を避ける意味でも、わたしたちの『信仰告白』は「聖書の言葉と、その中では働かれる聖霊なる神が、わたしたちの信仰と生活との誤りのない審判者である」と告白されているのです。

 では、具体的に聖書のみ言葉を読みながら考えていくことにしましょう。まず、「審判者」という言葉は聖書ではどのような意味で用いられているのかをみていきましょう。【使徒言行録10章42節】(234ページ)。もう一箇所【テモテへの手紙二4章7~8節】(394ページ)。この二箇所では、いずれも主イエス・キリストが、世の終わりの時、すなわち終末の時に、最終的な審判を下す裁き主であることが言われています。わたしたちはこのことをもしっかりと覚えておきたいと思います。わたしたちに信仰をお与えくださり、わたしたちの日々の信仰を導かれる主イエスが、最後の審判の時にわたしの傍らに立ってくださり、わたしに義の栄冠をお与えくださると約束されています。

 きょう学んでいる箇所は、聖霊が主語になっているので、また終末の時ではなく、今の時のわたしたちの信仰と生活のことが取り挙げられているので、この二か所とは少し違う意味で用いられていると思われます。わたしたちの『信仰告白』のもとになっている聖書の箇所は、きょうの礼拝で朗読されたテモテへの手紙二3章16節と思われますので、そこを読んでみましょう。【16~17節】(394ページ)。ここでは、聖書がすべて聖霊なる神に導かれて書かれているので、わたしたちに神の真理を教え、罪の道へと進むことを戒め、神が定めておられる正しい道、神の義へと導くために有益な働きをすると書かれています。そして、わたしたちが神に喜ばれるよいわざに励むことができるように整えると言われています。神の言葉である聖書は、聖霊なる神がお働きくださるときに、そのようにわたしたちを導くということを、「誤りのない審判者である」と告白していると理解できます。

 他の信仰告白では、多くの場合、審判者という言葉ではなく、「基準」あるいは「規範」という言葉を用いています。たとえば、1559年の『フランス信仰告白』第四条では「われわれはこれらの聖書が正典であって、われわれの信仰の確かな基準であることを認める」と告白されています。また、1647年制定の『ウエストミンスター大教理問答』問3では、「旧約と新約の聖書が、神の言葉であり、信仰と従順の唯一の規範です」と教えています。

このように、歴史的な信仰告白の多くが「規範、基準」という言葉を用いていますが、わたしたちの『信仰告白』があえて「審判者」という、より厳しい響きを持つ言葉を用いていることの積極的意味を読み取る必要があります。聖書がわたしたちの信仰と生活を正しく、また確かな道へと導く働きをするというだけでなく、神の言葉はまた、そこに聖霊なる神がお働きになって、信じる者と信じない者とを右と左に分け、命と死とに分けるという終末論的な働きをするということがここでは強調されているのです。ヘブライ人への手紙4章12節、13節に書かれているように、神の言葉は生きており、どんな諸刃の剣よりも鋭く、わたしたちの全身を刺し貫き、わたしたちの隠れている思いや考えを暴き出し、神のみ前に何一つ隠されているものがないほどに裸にする力を持っている。その神の言葉の計りしれない力を信じ、また恐れつつ、神の言葉である聖書を読み、聖霊のお働きを信じ、わたしたちの日々の信仰生活を続けるべきであることを強調しているのです。

次に、「誤りのない」という言葉について考えてみましょう。この言葉は、「永遠に変わらない真理と命を持つ」という意味です。この世には誤りの可能性がある言葉で満ちています。この世にあるすべての言葉はそうであると言うべきかもしれません。今この時に、ここで真実と思える言葉であっても、次の時代には忘れ去られ、消え去る言葉がわたしたちの周りには満ちています。一部のグループの人たちには真実であっても、他の人には通用しない言葉が、この世には満ちています。

けれども、聖書の言葉は永遠に変わらず、信じるすべての人を罪から救い、神の恵みで満たし、まことの命へ導き、慰めと平安を与えます。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とイザヤ書に書かれているとおりです(40章8節参照)。

1934年にドイツ福音主義告白教会が採択した『バルメン宣言』の第一条にこうあります。「聖書において証言されているイエス・キリストは我々がそれを聞き、生と死とにおいてそれに信頼し、従わなければならない神の唯一の言葉である。教会がこの宣教の根源として、この神の唯一の言葉のほかに、これと並んで、さらに何らかの事件や、権力、現象や真理をも神の啓示として認めることができるとか認めなければならないとかいうような誤った教えを我々は拒否する」。

この宣言は、1933年に台頭したナチス・ヒトラー政権に反対する告白教会の必死の抵抗として採択されたものです。当時はドイツの国民も、またほとんどの教会もヒトラーをドイツの救世主と仰ぎ、彼の言葉を神の言葉として聞き、彼をあがめ、彼に服従していた時に、しかし、告白教会だけはヒトラーもまた人間であり、彼の言葉は神の言葉ではなく人間の言葉であるにすぎない。われわれはただ主なる神の言葉である主イエス・キリストにのみ服従すべきだと、告白したのです。

いつの時代にも、朽ち果てる、死すべき者である人間の言葉が力を持ち、神の言葉から信仰者を引き離そうとする誘惑にわたしたちは遭遇します。神の言葉以外の何らかのスローガンや偽りの宝や光がわたしたちの目を惑わします。けれども、ただ聖書に書かれている神の言葉だけが永遠に真実であり、わたしたちが自分の全存在をかけて聞き、従うべき、唯一の救いと命の言葉であり、わたしたちの信仰生活全体の永遠の審判者です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちに信じさせてください。そのみ言葉を日々の命の糧とし、わたしの思いや行動、言葉のすべての審判者とさせてください。

〇主なる神よ、あなたのみ心が地においても行われますように。あなたの義と平和が実現しますように。混乱と困窮の中にあるこの世界を顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月19日説教「主イエスによる聖霊の約束」

2024年5月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              聖霊降臨日(ペンテコステ)

聖 書:ヨエル書3章1~3節

    ヨハネによる福音書14章25~31節

説教題:「主イエスによる聖霊の約束」

 ペンテコステは元来ユダヤ人の収穫感謝の祭りでした。イスラエルの民が奴隷の家エジプトから脱出したことを祝う過ぎ越しの祭りから50日目に、約束の地に導き入れられた彼らが小麦の収穫の初穂を神にささげて、感謝する祭りで、五旬祭、七週の祭り、初穂の祭りなどと呼ばれていました

 このペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた12弟子たちをはじめ多くのキリスト信者たちに聖霊が注がれ、彼らは神から与えられた力に満たされて、主イエス・キリストの福音を大胆に、力強く、説教しました。それを聞いた多くのユダヤ人が主イエスを救い主と信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生しました。そのことが使徒言行録2章に詳しく描かれています。

 12弟子の一人ペトロはその説教の中で、こう語りました。「今、このように信者たちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音を大胆に語っているのは、旧約聖書の預言者ヨエルが預言していたように、彼らに聖霊が注がれたからである」と。ヨエルはこのように預言しました。

 「神は言われる。終りの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、霊を注ぐ。すると彼らは預言する。……主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒言行録2章17~21節参照)と。

 そのヨエルの預言が今、成就した。今や、神の救いのみわざがすべて成就される終わりの時が来た。聖霊降臨の時が始まり、救いと恵みの時が始まったのだ。ペトロはそのように説教しました。わたしたちもまた今、その終わりの時、聖霊の時、救いと恵みの時に生きているのです。

 聖霊降臨は、主イエスご自身が十字架の死の前に弟子たちに約束しておられたことでもありました。ヨハネによる福音書14章からのいわゆる「主イエスの告別説教」の中で、主イエスは何度も聖霊なる神について語っておられます。直接に聖霊について語っておられる箇所は、14章15~17節、きょうの礼拝で朗読された25~26節、15章26節、16章4~15節です。これらの主イエスご自身のみ言葉から、聖霊なる神について、そのお働きについて、そしてその約束が成就されたペンテコステの出来事について、ご一緒に学んでいくことにしましょう。

 ヨハネ福音書のこれらの箇所では、聖霊はいくつかの違った名前で呼ばれています。14章16節では「別の弁護者」、17節では「真理の霊」、同じ節では「霊」が何度か出てきます。26節では「弁護者」、そのあとでは「聖霊」、15章26節でも「弁護者」、「真理の霊」、16章7節では「弁護者」、13節では「真理の霊」。これらはいずれも聖霊なる神を言い表しています。

 まず、「弁護者」と訳されている言葉は、『口語訳聖書』では「助け主」と訳されていました。宗教改革者マルチン・ルターは聖書を最初に母国語であるドイツ語に翻訳しましたが、彼は「慰め主」と訳しました。もとのギリシャ語はパラクレートスですが、「パラ」は「かたわらに、そばに」という意味で、「クレートス」は「呼び出された人」という意味です。一般には弁護する人という意味です。裁判の席で、被告人の隣にいてその人を弁護する人です。そこから、困っている人のかたわらで助ける人、悲しむ人の隣で慰める人という意味にもなります。

 14章15節では、「父は別の弁護者を遣わす」と言われており、「別の」とは、「もう一人の」という意味です。主イエスが十字架につけられ、この地から取り去られた後に、父なる神は主イエスとは別の、もう一人の弁護者である聖霊を遣わすということがここでは語られているのです。すなわち、主イエスが地上におられた間は、主イエスご自身が弟子たちにとっての弁護者であられ、助け主であられ、慰め主であられたのですが、主イエスの十字架後には、父なる神が聖霊を地上に派遣されて、その主イエスの役割、お働きを引き継がせるということです。

 14章18節以下で、主イエスが弟子たちに、「わたしはあなたがたをみなしごにはしない。しばらくすれば世の人はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言われたのは、聖霊がそののちも常に弟子たちと共におられるという約束なのです。主イエスのお姿は弟子たちの目からは見えなくなりましたが、弟子たちは主イエスを失って、この世に取り残されたのではなく、父なる神から遣わされる聖霊によって、主イエスは常に弟子たちと、信仰者たちと共におられ、彼らの弁護者、助け主、慰め主として、今もなお、そして永遠に、働いておられるということを、主イエスはここで約束しておられるのです。

 このことから分かるように、父なる神と子なる神・主イエス・キリストと聖霊なる神は互いに切り離されることなく、互いに連携し合いながら、一つの救いのみわざのためにお働きになるのです。これが、キリスト教教理の「三位一体論」です。神は、父なる神として、子なる神として、聖霊なる神として、その性質や性格、その働きや役割は違っていますが、一つの救いのお働きをする、唯一の神であられます。神はわたしの救いのためにも、三位一体なる神として、いわばその全ご人格と、すべての愛と、すべての恵みをもって、いと小さなこのわたしのためにお働きくださるのだということです。

 次に、今学んだことと関連している26節を読んでみましょう。【26節】(197ページ)。ここでは二つのことが重要です。一つは、聖霊は「主イエスの名によって、父なる神がお遣わしになる」と言われています。15章26節と比較してみましょう。【26節】(199ページ)。ここではよりはっきりと「主イエスが父なる神のもとから聖霊を遣わす」と言われており、聖霊は父なる神と子なる神・主イエス・キリストの両者から派遣されると理解できるように思われます。西方教会・ローマ教会はそのように理解しましたが、東方教会・ギリシャ教会は父なる神からのみ派遣されると理解しました。この理解の違いが西方教会と東方教会の分裂の原因になったと言われます。わたしたちプロテスタント教会は西方教会と同じ、「聖霊は父と子の両者から発出される」と理解しています。

 もう一つのことは、「聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、わたし(つまり主イエス)が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ということです。また、16章13節以下でも、同じようなことは強調されています。【13~14節】(200ページ)。ここでもまた、聖霊は主イエスのみわざ、そのお働きを受け継ぐということが何度も強調されています。14章16節で「別の弁護者」と表現されていたこと、すなわち、聖霊は別の、いわばもう一人の主イエスとして、いつまでも弟子たちと共にいてくださると約束されていたように、ここでは、聖霊は主イエスが話され教えられたこと、主イエスがなさった救いのみわざ、そのすべてを弟子たちにもう一度思い起こさせ、理解させ、信じさせてくださる、それが聖霊のお働きだと言われているのです。

 わたしたちが今学んでいる『日本キリスト教会信仰の告白』で、「聖書の言葉の中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示す」と告白されているのはこのことです。聖霊のお働きは父なる神のみ言葉と主イエス・キリストの救いのみわざと常に固く結びつき、この三者は切り離されることなく、お一人の神として、わたしたちの救いのためにお働きくださるのです。

 聖霊はわたしたちに主イエスが神のみ子であり、わたしの救いのためにすべてのみわざをなしてくださったということを悟らせ、信じさせてくださいます。主イエスが語られた説教、なされた数々の奇跡のみわざ、特にそのご生涯の終わりの十字架の死と復活、そのすべてが神のみ子としての救いのみわざであり、ほかでもないこのわたしの救いのためのみわざであるということを、わたしに悟らせ、信じさせてくださるのです。聖霊は、わたしがそのことを信じ、悔い改めて洗礼を受けた時に、わたしのすべての罪がゆるされ、わたしが死と滅びから救い出され、神から与えられる新しい命に生かされているということを確信させてくださるのです。そしてまた、聖霊は、天に昇られた主イエスが今もなおわたしのために絶えず執り成しておられ、わたしの救いの完成の時まで、わたしと共におられ、わたしを天のみ国へと導いてくださることを信じさせてくださるのです。そのようにして、聖霊はわたしの日々の信仰生活のすべてを、主イエスのみ言葉によって導き、支え、時にわたしの弁護者として、時にわたしの助け主として、時にわたしの慰め主として、わたしのかたわらにいてくださるのです。

 最後に、14章17節や15章26節、16章13節で、聖霊が「真理の霊」と言われていることに触れておきましょう。15章26節では、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と書かれています。ここでも、聖霊が主イエスのことをわたしたちに対して証しをすると言われており、それがわたしたちにとっての真理を悟ることなのだと言われています。

 16章13節では、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と書かれています。「真理」とは何を言うのでしょうか。世界の思想家や哲学者、宗教家が何千年もの間、「真理とは何か」と問い続けてきました。難しい議論を繰り広げてきました。主イエスは言われます。神の真理はすべてわたしの中にあるのだと。主イエス・キリストの十字架の死と復活にあるのだと。すなわち、罪のない神のみ子が世の罪びとたちの代わりに裁かれ、神のみ子でありながら徹底的に弱く、貧しく、低くなられ、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従された。それによって、神に義とされ、神の救いのみ心を完全に成し遂げられ、三日目に死の墓から復活させられた。そして、罪と死と滅びに勝利された。ここにこそ、神の真理があり、すべての人のための救いの道があるのです。わたしたちはこの主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、それを信じる時に、そこに聖霊が働き、すべての罪がゆるされ、死と滅びから救われるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうのペンテコステの礼拝にわたしたちをお招きくださり、あなたの命のみ言葉を聞かせてくださいました幸いを心から感謝いたします。どうかわたしたちを罪と死の支配から救い出し、あなたにあるまことの命に生きる者としてください。ここにこそ、まことの平安と慰めがあることを信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月12日説教「エルサレム教会への援助」

2024年5月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    使徒言行録11章27~30節

説教題:「エルサレム教会への援助」

 使徒言行録11章19節からアンティオキア教会の誕生とその成長について書かれています。アンティオキア教会の誕生が紀元1世紀の初代教会にとって、またその後の2千年の世界の教会にとって、いかに大きな意味を持っていたのかをこれまで学んできました。もう一度、それをまとめておきましょう。

 第一には、アンティオキア教会はユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者(ギリシャ人キリスト者と言ってもよい)の両者で形成された最初の教会であったということです。第二には、この教会でユダヤ人以外の異邦人に対する伝道活動が、初めて積極的・組織的に行われるようになったということ。第三に、母なる教会であるエルサレム教会から派遣されたバルナバによって、この教会にパウロが呼び寄せられ、彼ら二人の指導によってこの教会が急激に成長し、さらにはこの教会を拠点として、パウロの計3回の世界伝道旅行が行なわれるようになったということです。

これにもう一つ付け加えるとすれば、この教会で初めて信者がクリスチャン、すなわち主キリストに所属する人たち、主キリストのものとなった人たちと呼ばれるようになったということです。この呼び名は今日まで続いています。わたしたちもまた、洗礼を受けてキリスト者、クリスチャンになることによって、わたしはもはやわたしのものではなく、他のだれかや何かのものでもなく、わたしのために十字架で死んで、三日目に復活された主イエス・キリストの所有とされ、主キリストに属するものとされているのです。

1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』の印象深い第1問ではこのように教えられています。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであるということです」。ここにこそ、わたしが生きる時にも、わたしが死ぬ時にも、わたしの唯一の、永遠の慰めがあるのです。

きょうの礼拝では、使徒言行録11章27節以下に書かれている、アンティオキア教会から始まったもう一つのこと、エルサレム教会に対する援助の献金について学びます。そのきっかけとなったのが世界的規模の大飢饉であったと使徒言行録は報告しています。【27~28節】。使徒言行録の中では、ここで初めて教会の預言者が登場します。アガポは21章10節以下では、パウロがエルサレムで受ける迫害を予告する預言者としてもう一度登場します。

初代教会のおける預言者活動について少し考えてみましょう。アガポ以外にも、初代教会ではかなりの数の預言者が活躍していたことがパウロの書簡からも確認されます。けれども、紀元1世紀の終わりころからは、預言者はほとんどいなくなりました。その理由として考えられるのが、新約聖書が次第に書物として編集されるようになり、福音書やパウロの書簡などが書かれ、書物となって教会で読まれるようになったことと関係していると思われます。また、キリスト論とか三位一体論とかのキリスト教教理が次第に確立していったこともその理由となったでしょう。それによって、書かれた聖書が教会で朗読され、解き明かされ、預言者の務めは教師や牧師、説教者の務めへと変わっていったと考えられます。

元来、旧約聖書の預言者の務めは、神がお語りなったみ言葉を預かり、それを人々に語ることでした。アモスやホセア、イザヤ、エレミヤなどの預言者たちは、神がイスラエルの民と世界の歴史の中で行われる救いの出来事を語りました。そして、その救いのご計画が、やがて神から遣わされるメシア・キリスト・救い主によって成就されることを預言しました。主イエスがこの世においでになり、十字架と復活のみわざによって、神の救いが成就しました。福音書や使徒言行録、またパウロの書簡などによって、主イエスの救いのみわざが全世界のすべての人を罪から贖い、救うという神の救いのみわざを完全に成就したことが証しされました。神は救い主なる主イエス・キリストによって、わたしたちの救いにとって必要なみ言葉を十分にお語りになりました。もはやこれ以上、新しい神の言葉を付け加える必要がないと教会が判断したことによって、預言者の活動が必要なくなったのです。

このことを確認しておくことは、今日のわたしたちにとっても非常に重要な意味を持ちます。教会の2千年間の歴史の中で、繰り返して異端的な教派が発生しました。そのすべては、「我は預言者なり。イエスがまだ語っていなかったことを、神はわたしに語った」と主張する教祖によって造り出されています。統一教会、エホバの証人、モルモン教、その他のキリスト教の異端はみな同じです。わたしたちはそれに惑わされてはなりません。

 さて、アガポが預言した大飢饉がクラウディウス帝の時に起こったと書かれています。クラウディウスはローマ帝国第4代目の皇帝で、在位期間は紀元41~54年でした。その時代の大飢饉については、聖書以外の資料にも記録があり、それらを参考にすると、紀元47年のことであったと推測されています。この年はまたユダヤ人の安息年とも重なっていたことが、エルサレム市民の食糧不足を一層深刻にしたと考えられます。安息年というのは、旧約聖書のレビ記25章や申命記15章に定められている律法で、ユダヤ人にとって土地は神から貸し与えられたものなので、7年ごとの安息年には休耕にして土地を休ませなければならないという規定です。それと、天候不順による飢饉とが重なって、食料不足に拍車をかけたということのようです。

そのような理由から、エルサレム教会では飢饉の影響をまともに受け、多くの教会員の家庭でも食べ物に不自由していたようです。【29~30節】。アンティオキア教会では困窮していたエルサレム教会を援助することを決議し、各自が自分たちの力に応じて、献金や食料などをささげ、それをバルナバとパウロに託してエルサレム教会に届けました。この時のエルサレム教会の援助は世界規模の大飢饉がきっかけでした。また、これがどれくらいの期間続けられてのかはっきりしていませんが、のちに書かれたパウロの書簡から、エルサレム教会への援助は、こののちにもアンティオキア教会だけでなく、全世界に建てられたすべての教会が行なっていたということが知られています。飢饉による食料不足をきっかけにして始められたエルサレム教会への援助が、その後も継続的に続けられ、それが初代教会全体にとって大きな意味を持つことになったのです。

パウロはエルサレム教会の貧しい信徒たちへの援助を、のちに建てられたすべての教会の信仰的な使命であると語っています。しかも、かなりの紙面を割いて、力を込めて語っているのです。その主な個所を挙げると、ローマの信徒への手紙15章25~33節、コリントの信徒への手紙一16章1~4節、同二9章1~15節です。その中から2箇所を取り上げて読んでみましょう。

【ローマ手紙15章25~27節】(296ページ)。次に【コリント手紙二9章11~15節】(335ページ)。これらの箇所で語られている内容をまとめてみましょう。エルサレム教会への援助に関して、パウロが第一に重要なことと考えていたのは、世界最初に誕生したエルサレム教会は主イエス・キリストの福音という霊的な賜物の源泉なのであって、のちに建てられた教会はエルサレム教会の霊的な賜物を分かち与えられているのであり、その感謝のしるしとしてエルサレム教会を援助することは、母なるエルサレム教会に対する義務なのだというのです。そして、世界の教会が母なる教会であるエルサレム教会に対してその義務を忠実に果たすことによって、エルサレムで起こった主イエス・キリストの出来事が、すなわち、十字架と復活と聖霊降臨と教会誕生の出来事が、その救いの出来事が、いかに大きな神の恵みであるか、豊かな霊的な賜物であるかが、全世界の教会に明らかにされていくのだというのです。

もう一つ、パウロがエルサレム教会への援助によって重要だと考えていたのは、貧しい人々への惜しみない援助によって、神の豊かな愛と恵みを証しするということです。エルサレム教会に対する援助は、貧しい人たちを支援するということにとどまらず、否それ以上に、神の限りない愛と恵みに対する感謝の応答だということです。罪びとであるわたしたちに神から与えられた主イエス・キリストの福音の恵みに、喜んで仕えていることの確かなしるしなのです。主イエス・キリストの救いの恵みを与えられた人は、その感謝の応答として、自ら喜んで他の人々に仕え、惜しみなく他者に分かち与えるのです。それによって、人々はそこに限りない神の愛と恵みとを見いだし、神をほめたたえるようになるのです。

旧約聖書の中で、神はすでにそのことをイスラエルの民に教えておられます。貧しい人たちや、夫に先立たれた寡婦たち、親を失った孤児たち、国の中で権利を持たない寄留の他国人、そのような社会的な弱者たちに対して、イスラエルは特別な愛やいたわり、やさしい配慮を持つようにと律法で命じられていました。ぶどう園の所有者は収穫の際に、枝の隅々からすべてを収穫しないで、少し残しておくように命じられていました。麦の収穫の際に畑に落ちた麦の穂を拾い集めてはならないと命じられていました。貧しい人たちが夕方畑に自由に入って、それらを拾い集めることが許されていました。それによって、イスラエルの民は、自分たちもまた寄留の地、奴隷の家であるエジプトから、神の強いみ手によって救い出されたことを覚え、感謝し、そのことを世界に向かって証しし、それによって全世界のすべての民が主なる神をあがめるようになるのです。

最後に、29節で「援助の品」と訳されているもとにギリシャ語は「ディアコニア」です。教会の奉仕活動や執事の務めに関して用いられる言葉です。世界的な大飢饉とそれによるエルサレム教会の困窮をきっかけにして始められたアンティオキア教会の援助活動は、そののちの教会のディアコニアの働きの基礎にもなったと言えます。わたしたちの教会にとっても、このディアコニアの働き、活動が大きな課題であると言えます。共に考えていきましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが世界に主キリストの教会をお建てくださり、この教会をとおして今もなお救いのみわざを前進させてくださいますことを覚え、感謝いたします。教会が正しく主キリストの福音を宣べ伝え、またあなたの愛と恵みとをすべての人々に分かち与える務めを、忠実に果たしていくことができますように、教会に集められている一人一人をあなたがお導きください。

〇主なる神よ、日本の教会も世界の教会も弱っています。今日の混乱した世界に対して、教会が福音のメッセージを力強く発信し、あなたの義と愛とを大胆に証しすることができますように、聖霊の力で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月5日説教「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

2024年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書10章17~20節

説教題:「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

 主イエスが72人の働き人たちをお選びになって、神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されたことが、ルカによる福音書10章の初めに書かれていました。彼らは収穫のための働き人と言われていました。失われている人間の魂を神のために収穫する働き人です。神を失って死んでいた人間の魂を、再び神のもとへと呼び返して、罪のゆるしとまことの命に生かすための働きです。

 この72人の弟子たちの派遣は、のちに主イエスの十字架と復活後、また聖霊降臨と教会誕生後になって、教会が全世界に出て行ってすべての民に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを象徴しており、またそのことの先取りであるということを、わたしたちはすでに学びました。

 きょうの礼拝で朗読された17節からは、派遣された72人が主イエスのもとへと帰って来て、宣教活動の報告をしたことが記されています。17節に、「七十二人は喜んで帰って来た」と書かれています。彼らは主イエスによってこの世か選び出され、主イエスの働き人としてこの世へと遣わされ、そして再び主イエスのもとへと帰ってきて報告をします。この繰り返しが、わたしたちの教会の原型です。また、主の日ごとの礼拝の原型です。それから、わたしたちキリスト者の信仰生活の原型でもあります。

 わたしたちは主イエスによってこの世から教会へと召し集められ、主の日ごとの礼拝をささげ、主イエスの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の国の民とされます。そして、「あなたは出て行ってすべての人に福音を宣べ伝えなさい」との主イエスの命令を聞き、この教会から、この礼拝から、それぞれの場へと派遣されて行きます。また、一週間後の主の日の礼拝で、再び主イエスのもとへと帰って来て、一週間のわたしたちの歩みを主イエスに報告し、悔い改めと懺悔とをもって、罪のゆるしの福音を聞くのです。秋田教会の一年に一度の定期総会や、日本キリスト教会大会と中会の定期総会も、そのような意味合いを持っています。このように、選び、招集、派遣、そして帰還、報告、この繰り返しが起こる場が教会であり、また礼拝であり、わたしたちの信仰の歩みなのです。

 「喜んで帰って来て」と書かれています。彼らの喜びは、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」という伝道活動の成果に対する喜びであると同時に、再び主イエスのみもとに集うことの喜びでもあり、さらには再び主イエスにお会いできる喜びでもあります。教会は復活して今も生きておられる主イエスと出会う喜びに満ちている所です。礼拝は主イエスと再会する喜びに満ちた時です。たとえ教会がどれほどの伝道の成果を上げたとしても、多くの信者が集まろうとも、そこで主イエスとの出会いと再会がないならば、本当の喜びを経験することはできません。

 「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と弟子たちは報告しています。これは、弟子たちの能力や働きによる成果ではありません。「お名前」、すなわち主イエスのお名前による、主イエスのお名前の働きです。弟子たちに主イエスのお名前の力と権威とが与えられていたからです。弟子たちの奉仕をとおして、主イエスご自身が働いておられたからです。

 主イエスは18~19節でこのように言われました。【18~19節】。主イエスは父なる神の権威と権能によって、悪霊とサタンとを支配され、それに勝利しておられます。主イエスはこれまで何度も悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されました(4章31節以下、41節、6章18節)。マタイ福音書4章9節には、主イエスが悪魔の誘惑を受けられた時に、「退け、サタン」とお命じになると、悪魔は主イエスから離れ去ったと書かれています。また、ルカ福音書11章20節ではこのように言われました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 主イエスがこの世においでになられたことによって、神の恵みと救いのご支配が始まり、悪霊とサタンの支配はもはや終わりを告げられたのです。そして、主イエスは悪霊とサタンに勝利する権威を弟子たちにお与えになりました。したがって、弟子たちは自分たちの働きを誇ることはできませんし、またどのような悪霊やサタンの力を恐れる必要もありません。

 ところで、聖書にはしばしば悪霊とかサタンという言葉が出てきます。それが重い病気の原因となったり、人間を悪の行為に誘ったり、あるいはまた人間を不信仰にしたり、神と敵対させたりする力を持っているのが悪霊であり、またサタンの働きと考えられていました。科学的な理解が強くなった現代のわたしたちには理解困難な点もありますが、分かりやすく説明するならば、悪霊やサタンとは、神に敵対する力をもって、信仰者を主イエスから引き離そうとするものと言ってよいでしょう。つまり、主イエスはわたしたちを罪と死と滅びの支配から救い出し、父なる神との正しい交わりへと導くのに対して、悪霊やサタンは人間を罪へと誘惑し、わたしたちを神から引き離し、主イエスを救い主と信じる信仰からわたしたちを遠ざけようとし、ついにはわたしたちを滅ぼそうとする力であると言ってよいでしょう。この世にあるすべての人間はこの悪魔とサタンの力に脅かされています。だれも、人間の力や、この世にある何かの力を借りても、悪魔とサタンの力に対抗できる人はいません。すべての人はその支配下に置かれています。

 けれども、ただお一人、主イエスだけが父なる神の権威と力によって、悪魔とサタンの支配を打ち倒され、それに勝利され、神の恵みと救いのご支配をうち立てられました。それを、神の国が到来したと、福音書は語っています。主イエスはこの神の国の福音を説教されました。そして、弟子たちがこの神の国の福音を携えて、この世へと出ていくようにとお命じになりました。今や、神がご自身の一人子なる主イエス・キリストによって、大いなる愛と恵みをもって、この世を支配していた悪魔やサタン、罪の力から人々を解放し、救い出すためのみわざを成し遂げてくださったということを、弟子たちは全世界に宣べ伝えます。弟子たちは、そしてわたしたち教会の民は、主イエスがすでに成し遂げてくださった神の国の福音と救いのみわざを証しするのです。

 説教の初めでも触れましたように、72人の弟子たち、働き人たちの派遣は、主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨と教会の誕生ののちになって、教会が全世界に出て行って福音を宣教することの象徴であり、またその先取りでもあります。わたしたち教会の民は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、確かに人間の罪と死とがその終わりを告げられ、神の恵みと救いが勝利したことを知らされている者たちとして、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの福音を宣教する使命を託されています。わたしたちは今、神の恵みと救いが支配する新しい時に生きている者たちとして、感謝と喜びとをもってその使命に生きているのです。

 主イエスは喜んで帰ってきた弟子たちに、20節でこのように言われました。【20節】。ここには喜ぶという言葉が2度用いられています。一つは否定的に、もう一つは肯定的に。それによって両者の喜びを比較しながら、後者の喜びがはるかに大きな喜びであることを強調しています。

 前者の喜びは、「悪霊があなたがたに服従する」という喜びです。この喜びが喜びではないはずはありません。もちろん、弟子たちが自分の能力や努力でそのことができたというのではありませんが。それは主イエスのお力であり、主イエスご自身のみわざです。そうであるとしても、悪霊の支配が終わり、もはや神の恵みのご支配を信じる人は悪霊の力を恐れる必要はないということは、何ものにも勝る大きな喜びです。しかも、それを自分たちの奉仕によって証しすることができるということは、この世の何かを手に入れるよりもはるかに勝る大きな喜びです。主イエスの救いのために奉仕する教会の民はその喜びを経験することをゆるされているのです。

 けれども、主イエスはそのような目に見える成果を喜ぶよりも、もっと大きな喜びがあることを忘れるなと言われます。わたしたちは目に見える成果にとらわれがちです。わずかな成果に有頂天になったり、反対に、成果が期待どおりでないと失望することもあります。そのような成功や失敗に、わたしたちの教会の働きや信仰の歩みが左右されてしまうことがあります。目に見える喜びだけにとらわれていると、それよりもはるかに大きな喜びを見失ってしまうことがあると、主イエスは警告されます。もっと大きな喜びは、「あなたがたの名が天に書き記されていること」です。主イエスはわたしたちの目を地上での成果ではなく、天の神へと向けさせるのです。天にある永遠なるものへと、わたしたちの心と思いとを導くのです。

 「名前が天に書き記される」、これと同じような表現は新約聖書の中にはいくつかあります。フィリピの信徒への手紙4章3節やヨハネ黙示録3章5節などでは、「命の書に名が記されている」と言われ、また、ヘブライ人への手紙12章23節では「天に登録されている」とあります。これは主イエスを救い主と信じる信仰者には、神の国における永遠の命が約束されているということを意味しています。名前を書き記すということは、その名がいつまでもそこで覚えられるということを意味しています。しかも、主なる神によって覚えられているということであり、地上の朽ちるものに書き記されるのではなく、天の永遠の書物に、消え去ることのない文字で書き記されるということです。これは何という大きな恵みであり、祝福であり、名誉であることでしょうか。それゆえに、ここで与えられる喜びは他のどのような喜びよりもはるかにまさった永遠の喜びであるのです。

 神の国の福音のために仕える働き人や、主イエスの十字架の福音宣教のために仕えるわたしたちには、今すでにこのような大きな喜びと祝福とが約束されているのです。わたしたちはこの地上にあってすでに天の喜びと祝福に招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、朽ち果てる者に過ぎないわたしたちを、あなたは永遠の命と救いの恵みとによって養ってくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを地上の過ぎ去りゆくものから離して、天に向けさせてください。わたしたちをあなたから引き離そうとして、滅びへといざなうすべての悪しき誘惑から、わたしたちをお守りください。

〇主なる神よ、地にあなたのみ心が行なわれますように。人間たちの悪しき思いや、欲望や、争いをあなたが取り除いてくださり、すべての国、すべての民族、すべての人たちがあなたにあるまことの平和と共存を創り出していくために仕える者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。