5月12日「エルサレム教会への援助」

2024年5月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    使徒言行録11章27~30節

説教題:「エルサレム教会への援助」

 使徒言行録11章19節からアンティオキア教会の誕生とその成長について書かれています。アンティオキア教会の誕生が紀元1世紀の初代教会にとって、またその後の2千年の世界の教会にとって、いかに大きな意味を持っていたのかをこれまで学んできました。もう一度、それをまとめておきましょう。

 第一には、アンティオキア教会はユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者(ギリシャ人キリスト者と言ってもよい)の両者で形成された最初の教会であったということです。第二には、この教会でユダヤ人以外の異邦人に対する伝道活動が、初めて積極的・組織的に行われるようになったということ。第三に、母なる教会であるエルサレム教会から派遣されたバルナバによって、この教会にパウロが呼び寄せられ、彼ら二人の指導によってこの教会が急激に成長し、さらにはこの教会を拠点として、パウロの計3回の世界伝道旅行が行なわれるようになったということです。

これにもう一つ付け加えるとすれば、この教会で初めて信者がクリスチャン、すなわち主キリストに所属する人たち、主キリストのものとなった人たちと呼ばれるようになったということです。この呼び名は今日まで続いています。わたしたちもまた、洗礼を受けてキリスト者、クリスチャンになることによって、わたしはもはやわたしのものではなく、他のだれかや何かのものでもなく、わたしのために十字架で死んで、三日目に復活された主イエス・キリストの所有とされ、主キリストに属するものとされているのです。

1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』の印象深い第1問ではこのように教えられています。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであるということです」。ここにこそ、わたしが生きる時にも、わたしが死ぬ時にも、わたしの唯一の、永遠の慰めがあるのです。

きょうの礼拝では、使徒言行録11章27節以下に書かれている、アンティオキア教会から始まったもう一つのこと、エルサレム教会に対する援助の献金について学びます。そのきっかけとなったのが世界的規模の大飢饉であったと使徒言行録は報告しています。【27~28節】。使徒言行録の中では、ここで初めて教会の預言者が登場します。アガポは21章10節以下では、パウロがエルサレムで受ける迫害を予告する預言者としてもう一度登場します。

初代教会のおける預言者活動について少し考えてみましょう。アガポ以外にも、初代教会ではかなりの数の預言者が活躍していたことがパウロの書簡からも確認されます。けれども、紀元1世紀の終わりころからは、預言者はほとんどいなくなりました。その理由として考えられるのが、新約聖書が次第に書物として編集されるようになり、福音書やパウロの書簡などが書かれ、書物となって教会で読まれるようになったことと関係していると思われます。また、キリスト論とか三位一体論とかのキリスト教教理が次第に確立していったこともその理由となったでしょう。それによって、書かれた聖書が教会で朗読され、解き明かされ、預言者の務めは教師や牧師、説教者の務めへと変わっていったと考えられます。

元来、旧約聖書の預言者の務めは、神がお語りなったみ言葉を預かり、それを人々に語ることでした。アモスやホセア、イザヤ、エレミヤなどの預言者たちは、神がイスラエルの民と世界の歴史の中で行われる救いの出来事を語りました。そして、その救いのご計画が、やがて神から遣わされるメシア・キリスト・救い主によって成就されることを預言しました。主イエスがこの世においでになり、十字架と復活のみわざによって、神の救いが成就しました。福音書や使徒言行録、またパウロの書簡などによって、主イエスの救いのみわざが全世界のすべての人を罪から贖い、救うという神の救いのみわざを完全に成就したことが証しされました。神は救い主なる主イエス・キリストによって、わたしたちの救いにとって必要なみ言葉を十分にお語りになりました。もはやこれ以上、新しい神の言葉を付け加える必要がないと教会が判断したことによって、預言者の活動が必要なくなったのです。

このことを確認しておくことは、今日のわたしたちにとっても非常に重要な意味を持ちます。教会の2千年間の歴史の中で、繰り返して異端的な教派が発生しました。そのすべては、「我は預言者なり。イエスがまだ語っていなかったことを、神はわたしに語った」と主張する教祖によって造り出されています。統一教会、エホバの証人、モルモン教、その他のキリスト教の異端はみな同じです。わたしたちはそれに惑わされてはなりません。

 さて、アガポが預言した大飢饉がクラウディウス帝の時に起こったと書かれています。クラウディウスはローマ帝国第4代目の皇帝で、在位期間は紀元41~54年でした。その時代の大飢饉については、聖書以外の資料にも記録があり、それらを参考にすると、紀元47年のことであったと推測されています。この年はまたユダヤ人の安息年とも重なっていたことが、エルサレム市民の食糧不足を一層深刻にしたと考えられます。安息年というのは、旧約聖書のレビ記25章や申命記15章に定められている律法で、ユダヤ人にとって土地は神から貸し与えられたものなので、7年ごとの安息年には休耕にして土地を休ませなければならないという規定です。それと、天候不順による飢饉とが重なって、食料不足に拍車をかけたということのようです。

そのような理由から、エルサレム教会では飢饉の影響をまともに受け、多くの教会員の家庭でも食べ物に不自由していたようです。【29~30節】。アンティオキア教会では困窮していたエルサレム教会を援助することを決議し、各自が自分たちの力に応じて、献金や食料などをささげ、それをバルナバとパウロに託してエルサレム教会に届けました。この時のエルサレム教会の援助は世界規模の大飢饉がきっかけでした。また、これがどれくらいの期間続けられてのかはっきりしていませんが、のちに書かれたパウロの書簡から、エルサレム教会への援助は、こののちにもアンティオキア教会だけでなく、全世界に建てられたすべての教会が行なっていたということが知られています。飢饉による食料不足をきっかけにして始められたエルサレム教会への援助が、その後も継続的に続けられ、それが初代教会全体にとって大きな意味を持つことになったのです。

パウロはエルサレム教会の貧しい信徒たちへの援助を、のちに建てられたすべての教会の信仰的な使命であると語っています。しかも、かなりの紙面を割いて、力を込めて語っているのです。その主な個所を挙げると、ローマの信徒への手紙15章25~33節、コリントの信徒への手紙一16章1~4節、同二9章1~15節です。その中から2箇所を取り上げて読んでみましょう。

【ローマ手紙15章25~27節】(296ページ)。次に【コリント手紙二9章11~15節】(335ページ)。これらの箇所で語られている内容をまとめてみましょう。エルサレム教会への援助に関して、パウロが第一に重要なことと考えていたのは、世界最初に誕生したエルサレム教会は主イエス・キリストの福音という霊的な賜物の源泉なのであって、のちに建てられた教会はエルサレム教会の霊的な賜物を分かち与えられているのであり、その感謝のしるしとしてエルサレム教会を援助することは、母なるエルサレム教会に対する義務なのだというのです。そして、世界の教会が母なる教会であるエルサレム教会に対してその義務を忠実に果たすことによって、エルサレムで起こった主イエス・キリストの出来事が、すなわち、十字架と復活と聖霊降臨と教会誕生の出来事が、その救いの出来事が、いかに大きな神の恵みであるか、豊かな霊的な賜物であるかが、全世界の教会に明らかにされていくのだというのです。

もう一つ、パウロがエルサレム教会への援助によって重要だと考えていたのは、貧しい人々への惜しみない援助によって、神の豊かな愛と恵みを証しするということです。エルサレム教会に対する援助は、貧しい人たちを支援するということにとどまらず、否それ以上に、神の限りない愛と恵みに対する感謝の応答だということです。罪びとであるわたしたちに神から与えられた主イエス・キリストの福音の恵みに、喜んで仕えていることの確かなしるしなのです。主イエス・キリストの救いの恵みを与えられた人は、その感謝の応答として、自ら喜んで他の人々に仕え、惜しみなく他者に分かち与えるのです。それによって、人々はそこに限りない神の愛と恵みとを見いだし、神をほめたたえるようになるのです。

旧約聖書の中で、神はすでにそのことをイスラエルの民に教えておられます。貧しい人たちや、夫に先立たれた寡婦たち、親を失った孤児たち、国の中で権利を持たない寄留の他国人、そのような社会的な弱者たちに対して、イスラエルは特別な愛やいたわり、やさしい配慮を持つようにと律法で命じられていました。ぶどう園の所有者は収穫の際に、枝の隅々からすべてを収穫しないで、少し残しておくように命じられていました。麦の収穫の際に畑に落ちた麦の穂を拾い集めてはならないと命じられていました。貧しい人たちが夕方畑に自由に入って、それらを拾い集めることが許されていました。それによって、イスラエルの民は、自分たちもまた寄留の地、奴隷の家であるエジプトから、神の強いみ手によって救い出されたことを覚え、感謝し、そのことを世界に向かって証しし、それによって全世界のすべての民が主なる神をあがめるようになるのです。

最後に、29節で「援助の品」と訳されているもとにギリシャ語は「ディアコニア」です。教会の奉仕活動や執事の務めに関して用いられる言葉です。世界的な大飢饉とそれによるエルサレム教会の困窮をきっかけにして始められたアンティオキア教会の援助活動は、そののちの教会のディアコニアの働きの基礎にもなったと言えます。わたしたちの教会にとっても、このディアコニアの働き、活動が大きな課題であると言えます。共に考えていきましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが世界に主キリストの教会をお建てくださり、この教会をとおして今もなお救いのみわざを前進させてくださいますことを覚え、感謝いたします。教会が正しく主キリストの福音を宣べ伝え、またあなたの愛と恵みとをすべての人々に分かち与える務めを、忠実に果たしていくことができますように、教会に集められている一人一人をあなたがお導きください。

〇主なる神よ、日本の教会も世界の教会も弱っています。今日の混乱した世界に対して、教会が福音のメッセージを力強く発信し、あなたの義と愛とを大胆に証しすることができますように、聖霊の力で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月5日説教「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

2024年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書10章17~20節

説教題:「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

 主イエスが72人の働き人たちをお選びになって、神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されたことが、ルカによる福音書10章の初めに書かれていました。彼らは収穫のための働き人と言われていました。失われている人間の魂を神のために収穫する働き人です。神を失って死んでいた人間の魂を、再び神のもとへと呼び返して、罪のゆるしとまことの命に生かすための働きです。

 この72人の弟子たちの派遣は、のちに主イエスの十字架と復活後、また聖霊降臨と教会誕生後になって、教会が全世界に出て行ってすべての民に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを象徴しており、またそのことの先取りであるということを、わたしたちはすでに学びました。

 きょうの礼拝で朗読された17節からは、派遣された72人が主イエスのもとへと帰って来て、宣教活動の報告をしたことが記されています。17節に、「七十二人は喜んで帰って来た」と書かれています。彼らは主イエスによってこの世か選び出され、主イエスの働き人としてこの世へと遣わされ、そして再び主イエスのもとへと帰ってきて報告をします。この繰り返しが、わたしたちの教会の原型です。また、主の日ごとの礼拝の原型です。それから、わたしたちキリスト者の信仰生活の原型でもあります。

 わたしたちは主イエスによってこの世から教会へと召し集められ、主の日ごとの礼拝をささげ、主イエスの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の国の民とされます。そして、「あなたは出て行ってすべての人に福音を宣べ伝えなさい」との主イエスの命令を聞き、この教会から、この礼拝から、それぞれの場へと派遣されて行きます。また、一週間後の主の日の礼拝で、再び主イエスのもとへと帰って来て、一週間のわたしたちの歩みを主イエスに報告し、悔い改めと懺悔とをもって、罪のゆるしの福音を聞くのです。秋田教会の一年に一度の定期総会や、日本キリスト教会大会と中会の定期総会も、そのような意味合いを持っています。このように、選び、招集、派遣、そして帰還、報告、この繰り返しが起こる場が教会であり、また礼拝であり、わたしたちの信仰の歩みなのです。

 「喜んで帰って来て」と書かれています。彼らの喜びは、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」という伝道活動の成果に対する喜びであると同時に、再び主イエスのみもとに集うことの喜びでもあり、さらには再び主イエスにお会いできる喜びでもあります。教会は復活して今も生きておられる主イエスと出会う喜びに満ちている所です。礼拝は主イエスと再会する喜びに満ちた時です。たとえ教会がどれほどの伝道の成果を上げたとしても、多くの信者が集まろうとも、そこで主イエスとの出会いと再会がないならば、本当の喜びを経験することはできません。

 「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と弟子たちは報告しています。これは、弟子たちの能力や働きによる成果ではありません。「お名前」、すなわち主イエスのお名前による、主イエスのお名前の働きです。弟子たちに主イエスのお名前の力と権威とが与えられていたからです。弟子たちの奉仕をとおして、主イエスご自身が働いておられたからです。

 主イエスは18~19節でこのように言われました。【18~19節】。主イエスは父なる神の権威と権能によって、悪霊とサタンとを支配され、それに勝利しておられます。主イエスはこれまで何度も悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されました(4章31節以下、41節、6章18節)。マタイ福音書4章9節には、主イエスが悪魔の誘惑を受けられた時に、「退け、サタン」とお命じになると、悪魔は主イエスから離れ去ったと書かれています。また、ルカ福音書11章20節ではこのように言われました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 主イエスがこの世においでになられたことによって、神の恵みと救いのご支配が始まり、悪霊とサタンの支配はもはや終わりを告げられたのです。そして、主イエスは悪霊とサタンに勝利する権威を弟子たちにお与えになりました。したがって、弟子たちは自分たちの働きを誇ることはできませんし、またどのような悪霊やサタンの力を恐れる必要もありません。

 ところで、聖書にはしばしば悪霊とかサタンという言葉が出てきます。それが重い病気の原因となったり、人間を悪の行為に誘ったり、あるいはまた人間を不信仰にしたり、神と敵対させたりする力を持っているのが悪霊であり、またサタンの働きと考えられていました。科学的な理解が強くなった現代のわたしたちには理解困難な点もありますが、分かりやすく説明するならば、悪霊やサタンとは、神に敵対する力をもって、信仰者を主イエスから引き離そうとするものと言ってよいでしょう。つまり、主イエスはわたしたちを罪と死と滅びの支配から救い出し、父なる神との正しい交わりへと導くのに対して、悪霊やサタンは人間を罪へと誘惑し、わたしたちを神から引き離し、主イエスを救い主と信じる信仰からわたしたちを遠ざけようとし、ついにはわたしたちを滅ぼそうとする力であると言ってよいでしょう。この世にあるすべての人間はこの悪魔とサタンの力に脅かされています。だれも、人間の力や、この世にある何かの力を借りても、悪魔とサタンの力に対抗できる人はいません。すべての人はその支配下に置かれています。

 けれども、ただお一人、主イエスだけが父なる神の権威と力によって、悪魔とサタンの支配を打ち倒され、それに勝利され、神の恵みと救いのご支配をうち立てられました。それを、神の国が到来したと、福音書は語っています。主イエスはこの神の国の福音を説教されました。そして、弟子たちがこの神の国の福音を携えて、この世へと出ていくようにとお命じになりました。今や、神がご自身の一人子なる主イエス・キリストによって、大いなる愛と恵みをもって、この世を支配していた悪魔やサタン、罪の力から人々を解放し、救い出すためのみわざを成し遂げてくださったということを、弟子たちは全世界に宣べ伝えます。弟子たちは、そしてわたしたち教会の民は、主イエスがすでに成し遂げてくださった神の国の福音と救いのみわざを証しするのです。

 説教の初めでも触れましたように、72人の弟子たち、働き人たちの派遣は、主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨と教会の誕生ののちになって、教会が全世界に出て行って福音を宣教することの象徴であり、またその先取りでもあります。わたしたち教会の民は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、確かに人間の罪と死とがその終わりを告げられ、神の恵みと救いが勝利したことを知らされている者たちとして、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの福音を宣教する使命を託されています。わたしたちは今、神の恵みと救いが支配する新しい時に生きている者たちとして、感謝と喜びとをもってその使命に生きているのです。

 主イエスは喜んで帰ってきた弟子たちに、20節でこのように言われました。【20節】。ここには喜ぶという言葉が2度用いられています。一つは否定的に、もう一つは肯定的に。それによって両者の喜びを比較しながら、後者の喜びがはるかに大きな喜びであることを強調しています。

 前者の喜びは、「悪霊があなたがたに服従する」という喜びです。この喜びが喜びではないはずはありません。もちろん、弟子たちが自分の能力や努力でそのことができたというのではありませんが。それは主イエスのお力であり、主イエスご自身のみわざです。そうであるとしても、悪霊の支配が終わり、もはや神の恵みのご支配を信じる人は悪霊の力を恐れる必要はないということは、何ものにも勝る大きな喜びです。しかも、それを自分たちの奉仕によって証しすることができるということは、この世の何かを手に入れるよりもはるかに勝る大きな喜びです。主イエスの救いのために奉仕する教会の民はその喜びを経験することをゆるされているのです。

 けれども、主イエスはそのような目に見える成果を喜ぶよりも、もっと大きな喜びがあることを忘れるなと言われます。わたしたちは目に見える成果にとらわれがちです。わずかな成果に有頂天になったり、反対に、成果が期待どおりでないと失望することもあります。そのような成功や失敗に、わたしたちの教会の働きや信仰の歩みが左右されてしまうことがあります。目に見える喜びだけにとらわれていると、それよりもはるかに大きな喜びを見失ってしまうことがあると、主イエスは警告されます。もっと大きな喜びは、「あなたがたの名が天に書き記されていること」です。主イエスはわたしたちの目を地上での成果ではなく、天の神へと向けさせるのです。天にある永遠なるものへと、わたしたちの心と思いとを導くのです。

 「名前が天に書き記される」、これと同じような表現は新約聖書の中にはいくつかあります。フィリピの信徒への手紙4章3節やヨハネ黙示録3章5節などでは、「命の書に名が記されている」と言われ、また、ヘブライ人への手紙12章23節では「天に登録されている」とあります。これは主イエスを救い主と信じる信仰者には、神の国における永遠の命が約束されているということを意味しています。名前を書き記すということは、その名がいつまでもそこで覚えられるということを意味しています。しかも、主なる神によって覚えられているということであり、地上の朽ちるものに書き記されるのではなく、天の永遠の書物に、消え去ることのない文字で書き記されるということです。これは何という大きな恵みであり、祝福であり、名誉であることでしょうか。それゆえに、ここで与えられる喜びは他のどのような喜びよりもはるかにまさった永遠の喜びであるのです。

 神の国の福音のために仕える働き人や、主イエスの十字架の福音宣教のために仕えるわたしたちには、今すでにこのような大きな喜びと祝福とが約束されているのです。わたしたちはこの地上にあってすでに天の喜びと祝福に招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、朽ち果てる者に過ぎないわたしたちを、あなたは永遠の命と救いの恵みとによって養ってくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを地上の過ぎ去りゆくものから離して、天に向けさせてください。わたしたちをあなたから引き離そうとして、滅びへといざなうすべての悪しき誘惑から、わたしたちをお守りください。

〇主なる神よ、地にあなたのみ心が行なわれますように。人間たちの悪しき思いや、欲望や、争いをあなたが取り除いてくださり、すべての国、すべての民族、すべての人たちがあなたにあるまことの平和と共存を創り出していくために仕える者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。