3月31日説教「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

2024年3月31日(日) 秋田教会主日(復活日)礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    マルコによる福音書16章1~8節

説教題:「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

 主イエスが復活されたのは、ユダヤ人の安息日である土曜日の翌日、日曜日の朝早くでした。十字架につけられて息を引き取られたのが金曜日の午後3時ころ、夕方午後6時の日没からユダヤ人にとっては次の日、安息日の土曜日が始まりますので、それまでの2、3時間の間に急いで墓に葬られました。安息日には何の労働をもしてはならないと定められていたからです。そのために、通常ならば亡くなった人を墓に葬る前に、その亡骸に香油を塗る習わしでしたが、主イエスの場合にはそれができませんでした。

 そこで、マルコによる福音書16章1~2節にこう書かれています。【1~2節】。おそらく、安息日が終わる土曜日の日没後に、婦人たちは香油を買い求め、そして日曜日の朝早くにそれを持って墓にでかけたと思われます。この婦人たちは、主イエスがガリラヤ地方で福音宣教をしておられた時から、主イエスに従い、主イエスと弟子たちの身の回りのお世話をして仕えていたのでしょう。そして今、愛し、尊敬する主イエスに対する最後の奉仕として、そのお体に香油を塗るという、やり残した奉仕をするために、墓へと急いだのでした。

 この三人の婦人たちの名前は15章40、41節では、主イエスの十字架の死の証人としても挙げられています。また、15章47節では、そのうちの二人は主イエスの葬りの証人でもありました。そしてこれから、彼女たちは主イエスの復活の証人とされるのです。

これは実に驚くべきことです。古代社会では一般に婦人の社会的地位は低く、イスラエルでは女性は裁判の法廷では証人として立つことはできませんでした。しかしながら、聖書ではこの箇所でも、また他の箇所でも、女性がその立場と存在を男性とまったく同じに持っているのをわたしたちは確認できます。神のみ前では、男性、女性、その他の人間の側の区別とか差別とかは全くなくなります。

「女性は男性と同じ」というだけではなく、ここでは「男性に代わって女性が」と言うべきかもしれません。主イエスの12弟子たちはここには一人も登場してきません。彼ら男性たちはどこへ行ったのでしょうか。彼らは主イエスの十字架から逃げ去りました。14章31節にこのように書かれていました。「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』。皆の者も同じように言った」。しかし、そのペトロは主イエスの裁判を前に、「わたしはあの男を知らない」と、三度主イエスを否定しました。そして今、ペテロだけでなくすべての弟子たちは、男たちは、十字架から逃亡し、主イエスを見捨て、姿を消しているのです。その代りに、婦人たちが、主イエスの十字架の死と葬りと、そして復活の証人として立っているのです。

なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか。それは、神の選びの不思議だと言ってよいでしょう。神の選びはしばしばこのようになされます。旧約聖書で神がイスラエルの民をご自身の契約の民としてお選びになったのも同様でした。申命記7章6節以下に、神がイスラエルをお選びになられた理由についてこのように書かれています。「神があなたがたを選んでご自身の宝の民とされたのは、あなたがたが他の民よりの数が多かったからではない。ただ、あなたがたに対する神の愛のゆえに、神はあなたがたを奴隷の家エジプトから導き出され、救われたのだ」(申命記7章6~8節参照)と。イスラエルの選びは神の一方的な愛によるのです。わたしたち一人一人が神に選ばれ、神の民に加えられるのも同様です。

また、使徒パウロは神の選びについて、コリントの信徒への手紙一1章26節以下でこう言います。「あなたがたが選ばれて教会の民の中に加えられた時のことをよく考えてみなさい。あなたがたの中には知恵のある者や能力がある者、家柄のよい者が多かったわけではない。神はあえて、世の無学な者を、無力な者を、身分の低い者を選んで教会の民とされたのだ。それは、だれ一人神のみ前で誇ることがないようにするためなのだ」(26~31節参照)と。わたしたちが神に選ばれたのも同様です。それゆえに、わたしたちはただ主なる神のみを誇り、主なる神のみに栄光を帰するのです。

主イエスの十字架の死と葬り、そして復活の証人として選ばれた婦人たちは、主イエスを死の墓からよみがえらせ、人間を罪と死の支配から救われる全能の主なる神に栄光を帰するために、ここに立たされているのです。

さて、主イエスの墓を訪れた婦人たちは、「週の初めの日の朝早く、日が出るとすぐ墓に行った」と書かれています。ここでは、「初めに、早く」ということが三度も繰り返され、強調されています。婦人たちはだれよりも早く起きて、だれよりも急いで、主イエスの墓へと出かけたのでした。主イエスに対する彼女たちの大きな愛と尊敬の思いが伝わってきます。

けれども、だれよりも早く行動した彼女たちよりも、さらに早く、主なる神が行動しておられたということを彼女たちはすぐに知らされます。彼女たちは道々こう話し合っていました。「だれが、墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(3節)と。けれども、彼女たちの心配は全く必要ないものでした。「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」と続けて4節に書かれてあります。

だれよりも大きなイエスに対する愛と尊敬の思いを抱いて、だれよりも急いで主イエスの墓を訪れた彼女たちでしたが、それよりもさらに早く、さらに大きな力をもって、主なる神がすべての行動をなしておられ、主なる神が重い墓の石を取り除かれ、主なる神が墓の中から主イエスを復活させられたということを、彼女たちは間もなく知らされます。彼女たちの不安や不可能を越えて、主なる神が彼女たちのために、そしてわたしたちすべての人々のために、力強い救いのみわざをなしてくださるのです。

【5~7節】。「白い衣を着た若者」とは天使、神の使いのことです。神が地に住む人間にみ言葉をお語りになる際には、このように天使のお姿で語りかけられます。墓を訪れた婦人たちは、主イエスのお体を納めた墓が空になっており、その代わりにそこにいた神の使いから、神のみ言葉を聞いたのでした。ここに、重要なポイントがいくつかあります。

一つには、墓が空であったということです。彼女たちが最後の奉仕としてそのお体に香油を塗ろうとして墓に急いだのでしたが、その肝心の主イエスの亡骸がそこにはありませんでした。彼女たちの最後の奉仕ができなくなったのです。できなくなったというよりは、もはやする必要がなくなったと言うべきでしょう。彼女たちの死者に対する奉仕は不要になったのです。なぜならば、主イエスは復活なさったからです。彼女たちはこれからのちは、死者のために奉仕するのではなく、死から復活された方のための奉仕へと、召されているのです。

そのことは、彼女たちだけに当てはまることではありません。主イエスの復活を知らされた、わたしたちすべてに当てはまることです。わたしたちはもはや死者のための奉仕をすべきではありませんし、する必要はありません。死すべき者や死そのもののために奉仕したり、働いたり、仕えるべきではありません。それは、仕える者も仕えられる者も、共に死に支配され、死に向かって進んで行くほかにありません。その行き着く先は、死以外ではありません。

しかし、今や主イエスによって死から復活の命へと至る新しい道が開かれました。わたしたちは今からは死んで復活された方のために、死に勝利された方のために、仕え、働き、そのお方のために生きるのです。

もう一つの重要な点は、墓が空になった理由が神のみ言葉として告げられたことです。主イエスのお体が墓の中にないのは、主イエスが復活なさったからだと神の使いは告げます。墓の石を取り除いたのは、全能なる神であり、その神が主イエスを死からよみがえらせたのだと、神ご自身が語られたのです。主イエスの復活の出来事は、神ご自身からの語りかけとして、わたしたちは聞くことができるのです。何らかの科学的な証明によって説明できるものではありません。彼女たちが主イエスの復活の証人となったのは、神が語られたみ言葉を聞き、それを信じたからです。そして、その証拠として、空になった墓を見ました。

「主イエスは復活なさって、墓の中にはおらない。復活された主イエスはあなたがたが最初に弟子として召し出されたガリラヤで再びあなたがたにお会いするであろう」(7節参照)。婦人たちはこの復活のメッセージを携えて、弟子たちのところへ行くようにと命じられました。

ところが、8節にはこう書かれています。【8節】。主イエスの復活の証人となった婦人たちは、「震え上がる」ほどの、「正気を失う」ほどの、恐怖に襲われて、「だれにも何も言わなかった」というのです。これは一体どういうことでしょうか。

実は、マルコ福音書の本文は、「なぜならば、彼女たちは恐れた」という言葉で終わっています。福音書の終わりの言葉としては、あまりにも不自然です。そこで、のちの人たちは、このあとに続いていた部分が脱落したのだと考えました。当時の書物は、パピルスで作られた紙に書かれ、それを巻物にしたり、何枚かを折りたたんで一冊の本にしていましたから、容易にちぎれて紛失することがありました。『新共同訳聖書』では、「結び一」「結び二」として、のちに他の福音書を参考にしてつけ加えられた文章を付録として記録しています。

しかし、ある学者は、この終りが本来のマルコ福音書の終わりなのだと考えています。つまり、主イエスが墓から復活されたという出来事は、その証人となった婦人たちにとっては、それのみでなく、すべての人にとっても、人間の理性や常識では考えることができないほどの、驚くべき奇跡であり、死すべき運命にある人間にとっては、すべの言葉を失ってしまうほどの恐怖、驚愕と言うべき出来事なのだということをこの福音書は強調しているのだというのです。

主イエスの復活はいわゆる蘇生、生き返りではありません。主イエスは永遠の命へと復活されたのです。人間の罪とその結果である死に勝利されたのです。それは、いまだだれ一人としてなしえなかった偉大なる奇跡です。人間の能力や知恵や、またあらゆる科学の力を越えた全能の父なる神のみわざです。わたしたちはただ、大いなる恐れとおののきとをもって、そしてまた、大きな感謝と喜びとをもって、主イエスの復活の福音を信じ、わたしたちに約束されている永遠の命を信じるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪ゆえに死すべきであったわたしたちのために、あなたのみ子主イエスが、死の墓から復活されたことを感謝いたします。どうか、わたしたちに復活の信仰を与え、永遠の命の約束を信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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