3月24日説教「神を恐れたヘブライ人の助産婦たち」

2024年3月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記1章15~22節
    使徒言行録7章17~22節
説教題:「神を恐れたヘブライ人の助産婦たち」

 教会の暦ではきょうは棕櫚の主日、今週は受難週になります。わたしたちの罪のために血を流すほどの戦いをされた神のみ子のお苦しみを覚えながら、次週の復活日の主日に備える日々でありたいと願います。
 出エジプト記を学び始めています。主イエスが誕生される1300年ほど前の、神の民イスラエルの誕生について記しているこの書は、そののちのイスラエルの信仰の土台を築く重要な意味を持っていました。そのイスラエルの信仰は、さらにさかのぼれば、400~600年前の族長時代のアブラハム、イサク、ヤコブの信仰を受け継ぐものでした。正確に言うならば、彼ら族長の信仰を受け継ぐと言うよりは、彼ら族長に対する神の永遠の約束が継承されていると言うべきかもしれません。創世記15章13節以下で、神がアブラハムに約束されたみ言葉はこうでした。【13~14節】(19ページ)。神はヤコブ・イスラエルの子どもたちがエジプトに寄留していた400年以上もの間、この約束を決してお忘れにはなりませんでした。そして、その約束の成就が出エジプトという出来事だったのです。
 きょうは1章15節以下を学びます。前回も少し触れましたが、エジプトでの400年余りの滞在期間に、ヤコブ・イスラエルの子どもたちがどのような信仰生活を送っていたのか、そしてどのようにして70人で移住した彼らが異教の地で増え広がり、エジプトの王が脅威を覚えるほどに強い集団になったのかについては、聖書の具体的な証言はありませんが、きょうの箇所で、エジプト滞在中の彼らの信仰がどのようなものであったのかを、わたしたちは伺い知ることができるように思います。
 すでに12節には、「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった」と書かれていました。それから、17節には【17節】、また【20~21節】にも。これらのみ言葉から分かるように、イスラエルの子どもたちがエジプトという異教の地で、宗教も生活環境も全く違う地で、どのようにその信仰と生活のアイデンテティを保ち続け、神の約束のみ言葉を信じ続けてくることができたのか、わたしたちは容易に推測することができます。彼らが信仰を守り続けてきたと言うよりは、彼らが信じていた主なる神のみ力とお導きによることであったと言うべきでしょうが、彼らはその神を礼拝し続けていたのです。ヘブライ人の助産婦たちはその神を恐れたのです。エジプトの王ではなく、自分たちが受けるであろう不利益や迫害でもなく、ただ主なる神を恐れ、その神に服従したのです。その信仰こそが、おそらく、400年以上のエジプトでのイスラエルの子どもたちを導いたのです。
 エジプトの王(一般にファラオと呼ばれます。その王の名前はここでは明らかにされてはいませんが、前回お話ししたように、紀元前14世紀から13世紀ころのセティ一世、またはラメセス二世が考えられます)は、数においても脅威においても増え続けるヘブライ人を弾圧するために、先に13~14節に書かれていた強制労働をより過酷なものにするだけでは足りず、15節以下に書かれてあるように、新たな民族撲滅政策を考え出しました。【15~16節】。エジプトの王は増え続けるヘブライ人を恐れ、何としてもそれを食い止めようと、非常手段にでます。戦争の時に戦力となる男子は生まれた時に殺すようにヘブライ人の助産婦二人に命じます。
 このエジプト王の命令は、主イエスが誕生された時のユダヤ人の王ヘロデが出した命令を思い起こさせます。ヘロデ王は主イエスが誕生されたベツレヘム近郊の2歳以下の男の子をみな殺すようにと命じました。この世の権力を誇る王たちが、武器を持たない民衆を恐れ、自らの恐れを払いのけようとして、最も弱い存在である幼い子どもたちを犠牲にするという現象は、いつの時代にも共通しているように思われます。神なき世界、神を恐れることをしない人間たちの世界では、このような悲惨な出来事が繰り返されていくほかにないのです。
 15節に、ヘブライ人の二人の助産婦の名前が紹介されています。シフラとは、ヘブライ語で「美、美しさ」、プァは「輝き、光輝」を意味します。まさに、この二人の助産婦は異教の地エジプトで、しかも、迫害と苦難の中でも、美しく光り輝き、「地の塩、世の光」(マタイ福音書5章13節以下参照)として、しっかりとした足で固く立ち続けています。神を恐れ、神に仕える彼女たちの信仰から出る美しさ、輝き、強さを表す名前と言えます。エジプトの宮殿で着飾っている婦人たちよりも、この二人のヘブライ人の婦人たちの方が、はるかにその美しさに光り輝いています。
 それにしても、強大な王国であるエジプトの王の名前が、ここでは一度も挙げられていないことを改めて気づかされます。寄留の地で迫害のただ中にあって、神を恐れている二人の助産婦の美しい名前が聖書に記されていることの意味をかみしめたいと思います。聖書の中では、神のみ前にあっては、彼女たちの方が尊い存在であり、神に覚えられているのです。この世にあっては目立たない、いと小さな存在であっても、神を信じ、神に従う信仰者を、神の国にあっては、その名を永遠の命の書に記された、かけがえのない尊い存在として、神は迎え入れてくださるのです。
 【17~19節】。ヘブライ人の助産婦たちはエジプト王の命令を聞きませんでした。この世の支配者であるエジプト王ファラオを恐れず、神の国の支配者であられる主なる神を恐れました。主なる神を恐れるとは、ここでは具体的には主なる神がお与えになる新しい命を尊ぶということになるでしょう。人間の命はすべて主なる神から与えられます。主なる神に属するものです。生まれいずる途中の命であれ、死を直前にした命であれ、すべての命は主が与え、主がそのみ手に治め、定められた時に主がお取りになる命です。助産婦たちはその命をお与えになる主なる神を恐れました。そうである時に、人間の命は最も尊く、守られるのです。
 17節には、「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはしなかった」と書かれています。神を恐れる信仰者はこの世の権力者をも、またこの世から受けるかもしれない攻撃や迫害をも恐れません。主なる神のみ言葉に聞き従い、その神に信頼して、わが身のすべてをゆだねます。神はそのような信仰者を固く支え、勇気を与え、導いてくださいます。
 19節で、ヘブライ人の助産婦が、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」とファラオの質問に答えていますが、それが事実であったかかどうかは別として、機転を利かした賢い答えであったと言えましょう。神はフアラオの前に立つ彼女たちにこのような知恵と勇気とをお与えくださいました。
 【20~21節】。神は、神を恐れる信仰者に豊かな祝福と大きな恵みとをお与えくださいました。エジプト王ファラオが計画したこととは全く反対に、神の民の数は増し加えられ、助産婦たちは恐怖や不安ではなく、新しい命と祝福を与えられました。エジプト王の意に反して、迫害されるほどに神の民は強い民となって成長しました。神への恐れこそが、信仰者たちを強く、固く、立たしめる力となり、希望となりました。また、神への恐れこそが、信仰者を祝福と恵みで満たしたのです。
 もし、わたしたちが神を恐れないならば、もしこの世が神を恐れない世界であるならば、たとえその世界がいかに華やかに着飾り、繁栄を誇っていようとも、それは、はなはだ貧しく、弱く、みすぼらしいものでしかないでしょう。主なる神を恐れる人間、主なる神を恐れる世界こそが、本当の意味で豊かな、そして健全な世界であるでしょう。
 ここで改めて、神を恐れる信仰について考えてみましょう。この信仰は、族長アブラハムから受け継いだものでした。創世記22章12節には、アブラハムがその子イサクを神に燔祭の犠牲としてささげたときの神のみ言葉が書かれています。【12節】(31ページ)。アブラハムはようやくにして与えられた一人子イサクを神にささげました。自分の全存在に等しい、自分の命そのものであるイサクを惜しまずにささげるほどに、神の命令に徹底して服従したのです。主なる神を恐れたのです。この信仰を、その子イサク、ヤコブが受け継ぎました。そして、エジプトに滞在していたイスラエルの子どもたちは、400年以上にわたってこの信仰を受け継ぎ、二人の助産婦たちもまたこの信仰を受け継いでいたのです。
 箴言1章7節にはこのように書かれています。「主を畏れることは知恵の初め」。主を畏れる信仰は旧約聖書全体のイスラエルの民へと受け継がれていったということを、わたしたちは確認することができます。
 【22節】。エジプト王ファラオは神の民イスラエルに対しての新たな迫害の命令を出しました。この命令はより一層ヘロデ大王の「2歳以下の男の子をみな殺せ」という命令に近づいています。二人のヘブライ人の助産婦だけが対象になる命令ではなく、全ヘブライ人に対して、またその周辺にいる全エジプト人をも対象にした命令です。しかし、その新たな迫害の中で、神の奇跡によって、一人の指導者モーセが誕生することになるのです。
 ヘロデ大王の残虐な幼児皆殺しの命令の中で、全世界の救い主イエスが誕生されたことをわたしたちは知っています。そして、そのおよそ30年後に、最も悲惨で悲劇的で、全世界を暗黒で覆い尽くすかのような主イエス・キリストの十字架の死によって、神の驚くべき救いのみわざが成就されたということを、わたしたちは知っています。神は、人間の不信仰と罪のただ中で、神の民の苦難と試練のただ中で、神の民のために、信仰者のために、ご自身の救いのご計画を進めてくださり、神を恐れ、神に従う一人一人のために、最も良き道を備えてくださるということを、わたしたちは知っています。

(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠から永遠に変わることなく、あなたを信じ、恐れる者たちに豊かに与えられることを信じます。あなたは、信じ従う信仰者を決してお忘れにはなりません。たとえ、わたしたちが忘れても、あなたはわたしたちをお忘れにはなりません。たとえ、わたしたちが迷っても、あなたはわたしたちを正しい道へと導き返してくださいます。たとえ、わたしたちが疑い、倒れるようなことがあっても、あなたは常に真実であられ、あなたの愛と義はわたしたちから離れることはありません。
○主なる神よ、わたしたちがいつも信仰の目を開いて、あなたから与えられている恵みと祝福とを、感謝して受け取る者としてください。あなたの招きと導きに喜んで従う者としてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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