4月14日説教「バルナバとパウロの出会い」

2024年4月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              秋田教会建設記念礼拝

聖 書:ヨシュア記1章1~9節

    使徒言行録11章19~26節

説教題:「バルナバとパウロの出会い」

 秋田教会は1934年(昭和9年)4月15日(日)に自給独立の教会となり、秋田教会建設式を執行しました。今年は教会建設90周年になります。その前の年度の教勢は、教会員数77人、現住陪餐会員数36人、礼拝出席者数22人でした。1892年(明治25年)に秋田講義所を開設し、宣教活動を開始してから、秋田伝道教会時代を経て40数年間、主にアメリカ・ドイツ改革派教会ミッションからの人的・経済的な支援を受けてきましたが、この時からは外国ミッションの経済的援助から自立することになり、長老4人を選挙し、独立教会としての歩みを開始しました。当時の会計関係の記録を見ると、外国ミッションからの補助は通常会計の70~80パーセントを占めていましたから、それがなくなるということは、会計運営上はかなり厳しかったことが推測されます。けれども、教会は自給独立の決断をし、自分たちの教会を自分たちのささげものによって支える決断をしたのでした。そして、間もなく始まった戦争の困難な時代をも乗り越えてきたのでした。

 自給独立の決議をしたのは教会総会で牧師と教会員の決断によるものですが、それを導き、支えられたのは、教会の頭であられる主イエス・キリストであり、すべての信仰者の志と決断を良しとしてくださる父なる神ご自身であったのは言うまでもないことです。神はこの弱く小さな群れを、多くの欠けや破れがあったにもかかわらず、深い憐みをもって今日まで導いてくださいました。その時その時に、必要なものを備えてくださり、良き働き人、良き奉仕者を起こしてくださり、新しい教会員をお加えくださいました。主なる神はこれからのちも変わることなく、この群れを憐み、恵み、祝福してくださることを、わたしたちは固く信じ、秋田教会の歩みを続けていきたいと願います。

 さて、使徒言行録を続けて読んできたわたしたちは、11章19節から初代教会の新たな展開が始まったことを前回確認しました。それは、アンティオキア教会の誕生と異邦人伝道が組織的、積極的に展開されるようになったことです。アンティオキア教会はユダヤ人と異邦人の両方から形成される教会でしたが、この両者が同じ一つの群れ、一つの教会を形成することによって、神が最初ユダヤ人をお選びになって始められた救いのみわざが、今やユダヤ人以外の異邦人にも及び、全人類を救われるという神の救いのご計画が最終目的に達したのです。さらに、その全人類のための神の救いのご計画が、このアンティオキア教会を拠点として、これから展開されていくことになるのです。

 【22節】。エルサレム教会は世界最初の教会であり、初代教会時代にあっては、そののちに誕生したすべての教会にとっての母なる教会という存在でした。8章でサマリヤ教会が誕生した時には、エルサレム教会からペトロとヨハネがサマリヤに派遣されました。11章では、カイサリアの異邦人コルネリウス一族が集団で洗礼を受けた時には、ペトロ自身がエルサレム教会にそのことを報告しています。すべての教会は母なるエルサレム教会に連なっており、その信仰を受け継いでいることが確認されています。そして、さらにその源流をたどれば、このエルサレムで主イエスが苦しみを受けられ、十字架で死なれ、三日目に復活され、40日目に天に昇られたという主イエス・キリストの福音の原点が、すべての教会の信仰の原点が、ここにあるということになります。

 今回、アンティオキア教会に遣わされたのはバルナバでした。バルナバは4章36節で「慰めの子」として紹介されていました。また、9章27節では、キリスト教会の迫害者であったパウロが回心してキリスト者になったあと、パウロを迫害者と恐れていたエルサレム教会の使徒たちにパウロを紹介し、両者を引き合わせたのもバルナバでした。彼の名はバルナバ、その意味は「慰めの子」にふさわしく、多くの人々に神からの慰めを与える人物でした。彼が選ばれてエルサレム教会から派遣された理由は、彼の出身地がアンティオキアに近い地中海の島、キプロス島だったからであろうと推測されますが、それ以上に深い神のみ心があったということを、わたしたちはあとになって25節以下で知らされます。

 【23~24節】。バルナバは誕生したばかりのアンティオキア教会に神の恵みが満ちあふれているのを見ました。喜びに満ちあふれているのを見ました。異邦人伝道の実りは、神の豊かな恵みの実現であり、神の救いのご計画の成就でした。最初にアンティオキアの町で異邦人伝道を始めた、20節に書かれていた何人かのキプロス島やキレネ出身のギリシャ語を話すキリスト者たちの、熱心な信仰と大きな勇気は、称賛に値するものでしたが、彼らはこの神の救いのご計画のために仕えたのでした。

 バルナバはここでもその名にふさわしく、慰めに満ちた人として行動しているのが分かります。彼はエルサレム教会から派遣されて、新しく誕生した教会が正しく主イエスの福音を継承しているかどうか、また健全な教会形成をしているかどうかを、監視し、指導する務めを帯びていました。特に、ユダヤ人と異邦人とが共存する教会で、律法をどう守るかとか、ユダ人の宗教的慣習をどう受け継ぐかとか、初代教会で大きな問題となっていたそれらの諸問題におそらくは直面していたと思われますが、バルナバはそれらの初代教会が抱えていた諸課題をはるかにまさった、神の豊かな恵みをアンティオキア教会に見ていたのでした。そしてそれは、全く正しい見方であり、開かれた信仰の目を持ち、また神からの慰めに満ちた心を持ったバルナバの対応であったと言えます。

 バルナバは、アンティオキア教会の誕生を、またその教会の歩みを、人間のわざとして見たのではありませんでした。また、律法のわざでもなく、神の恵みのみわざとして見たのです。主イエス・キリストの福音によって、その福音を信じる信仰によってすべての人が救われるという、神の救いのみわざの成就を見たのでした。主イエス・キリストの福音による新しい契約の民の誕生を見たのでした。それこそが、教会を正しく見る目です。

確かに、さまざまな問題点や欠けが教会にはあるでしょう。誕生して間もない教会にとってはなおさらそうです。バルナバにはエルサレム教会から派遣された監督官として、それを指摘したり、正したりする務めがあったでしょう。けれども、彼はそれ以上に、誕生したばかりの教会に神からの慰めと希望とを与える務めを強く自覚していたのでした。アンティオキアの町は大きな港町でした。全世界のあらゆる文化と宗教が入り混じっていました。そのような中で、キリスト教の信仰を保ち続けるには厳しい信仰の戦いが必要です。主イエス・キリストから引き離そうとするさまざまな誘惑に抵抗し、主の福音の上に堅く立ち続けるようにと、バルナバは教会員を励ましたのです。バルナバはアンティオキア教会を視察し、指導するの務めを終えても、エルサレムに帰ろうとはしませんでした。彼はこの教会での新たな働きの場を見いだしたようです。この教会に増し加えられた教会員の教育と、さらなる前進のために、バルナバは共に働く同労者を必要としていました。

【25~26節】。バルナバが同労者としてパウロを選んだのは、9章27節に書かれてあったように、かつてパウロとエルサレム教会の指導者たちとを引き合わせる仲介役をした経験があったからだと思われます。また、バルナバはパウロが回心直後にダマスコで主イエスを力強く語り伝えていたのを見ており、パウロの確かな信仰とその優れた賜物を見ぬいていたからであったと思われます。しかし、それ以上に大きな理由があるのをわたしたちは見落としてはなりません。

パウロが復活の主イエスとの衝撃的な出会いをして目が見えなくなった時に、彼の目を見えるようにするために遣わされたアナニアに対して神が言われたみ言葉を思い起こすのです。【9章15~16節】(230ページ)。パウロが異邦人伝道のために用いられることは、彼がキリスト者となったその時から主なる神ご自身がお決めになっておられたことであり、その神のご計画がここでバルナバの決断によって成就したのです。人間たちの思いや計画、努力、それらのすべてをお用いになって、あるいは、ときにはそれらをはるかに超えて、最も良き道を備え、最も良き実りをお与えくださるのは、主なる神ご自身です。

バルナバはパウロを探すためにアンティオキアから小アジア・キリキア州のタルソスまでの400キロメートル近くの道をでかけて行きました。タルソスはパウロの生まれ故郷でした。エルサレムでユダヤ人から命をねらわれていたパウロはカイサリアに逃れ、そこからタルソスに行ったと9章30節に書かれていました。そののち、パウロがタルソスでどのような働きをしていたのかについては。聖書は何も記録していませんが、バルナバの誘いにパウロはすぐに応じて、アンティオキア教会に移り、そこで一年間バルナバとパウロはその教会で共に仕えました。

「丸一年間」と期間を区切ってあるのは、1年後にはバルナバとパウロは新しい務めを託されることになるからです。それについては13章1節から書かれています。この二人は、アンティオキア教会の祈りと支援とによって、第一回世界伝道旅行へと旅立つことになるからです。神はまことにふさわしい時に、ふさわしい人と人とを出会わせ、新しい偉大なる務めを共に担う同労者として、主の教会のために選んでくださるのです。一人ではおそらくしり込みをして、うまくなしえなかったであろう務めをも、良き同労者を与えられて、幾倍もの力を与えられ、主の教会のために仕えることが許されたという事例を、わたしたちもまたそれぞれの教会の歴史の中で数多く見いだすことができるでしょう。それは、教会を建てられ、導かれる主なる神の奇しきみわざです。

アンティオケア教会で主イエス・キリストを信じる弟子たちが初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。クリスチャンとは、キリスト党、あるいはキリストに属す者という意味を持っています。この呼び名は初めは教会の外からつけられたものでした。「呼ばれるようになった」という受動態がそのことを示しています。アンティオキアの町の人々は教会の信者たちを見て、彼らがいつも主キリストだけを仰ぎ、いつも主キリストのことだけを話し、この世の政治政党には属さず、社会的なグループにも入らず、他の神々を礼拝せず、ただ主イエス・キリストだけを礼拝し、主キリストだけに仕え、主キリストだけを証ししている姿を見て、「彼らはキリスト党だ、キリストに所属する人たちだ」という意味で「クリスチャン」と呼んだのでした。わたしたちもまたこの世の人々からはそのように見られ、そのように呼ばれ、また自らもそのような者でありたいと願います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが世界各地に、また日本各地に、そしてこの秋田に、主キリストの教会を建ててくださったことを感謝いたします。どうか、この教会を祝福し、ここに集められている一人一人を祝福してください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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