4月7日説教「悔い改めない者への神の裁き」

2024年4月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書50章1~9節

    ルカによる福音書10章13~16節

説教題:「悔い改めない者への神の裁き」

 主イエスが12弟子を神の国の福音を宣べ伝えるために町々村々に派遣されたという記録は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)に共通していますが、ルカ福音書はそのほかに72人の弟子たちを収穫のための働き手として遣わされたという記録をも書いています。これはルカ福音書特有の記録であり、またそのことはルカ福音書の特徴を表しています。ルカ福音者は、主イエスが地上の活動をしておられた時から、主イエスの福音がパレスチナ地域だけでなく、全世界に宣べ伝えられるであろうことをすでに意図しておられたということを強調しているのです。12人の弟子たちの派遣は、ガリラヤ地方とイスラエルの国全域に主イエスの福音が宣べ伝えられることを目指していましたが、72人の派遣は全世界へと福音が宣べ伝えられることを象徴的に暗示しています。そしてこのことは、ルカが使徒言行録の著者でもあるということと深く関連しています。ルカは、主イエスの地上での福音宣教の活動と、主イエスの十字架の死と復活、そしてペンテコステの時の聖霊降臨と教会の誕生、これらのすべてを一続きの神の救いのみわざととらえて、主イエスは地上のご生涯ですでにその神の救いのご計画を知っておられ、それを進めておられたということをわたしたちに語っているのです。そしてさらに、そのようにして始められた主イエスの神の国の福音宣教のお働きが、今もなお、この時代の中で、この秋田の地で、この教会をとおしてなし続けられているのだということを、わたしたちは知らされるのです。

 きょうは72人の弟子たちを派遣された際の主イエスの弟子たちへのご命令とお約束についての後半のみ言葉を学びます。朗読された箇所は10章13節以下ですが、この部分は10節からの続きと考えられますので、10~12節をまず読みましょう。【10~12節】。ここでは、神の国の福音を聞かされても、それを受け入れようとしない、信じない人たちに対する神の裁きが語られています。弟子たちが神の国の福音を携えて世界に出て行っても、また今日、キリスト者が主イエスの十字架の福音を携えてこの世に出て行っても、その福音を聞いて信じ、受け入れる人はごく少数であり、多くの場合、人には迎え入れられない、聞いてもらえないということを、主イエスはあらかじめ知っておられました。主イエスは「今が収穫の時であり、収穫のための働き手を多く必要としている時代である。だから失われた魂を収穫して、まことの命を注ぎ込むために、わたしはあなたがたを遣わすのだ」と弟子たちを励まされましたが、一方では、その収穫が非常に困難であることをも知っておられました。主イエスの福音は多くの人々の拒絶にあい、時に無関心や、時にあからさまな攻撃や迫害を受けるであろうということを主イエスは予想しておられました。

 なぜでしょうか。それは、人間の罪が人間を神から遠ざけているからです。悔い改めることをしない人間のかたくなさが、人間を主イエスの十字架の福音から遠ざけているからです。神を知ろうとしない人間の罪、神のみ言葉に耳を傾けず、この世の朽ちいくほかにないものに心を奪われ、永遠の真理である神を求めようとしない人間の罪が、人々の心を主イエスの福音から遠ざけているからです。それは主イエスの時代も2千年後の今日も全く変わりません。

 そこで主イエスは弟子たちをつまずかせないように、失望させないように、「もし、福音が受け入れられなければ、足のちりを払い落として、その町を出て行きなさい」と言われました。「足のちりを払い落とす」とは、「わたしはその責任を負わない、その最終的な責任は神ご自身が果たされる」ということのしるしです。すなわち、人々が主イエスの福音を受け入れないとしても、それは福音を宣べ伝えた弟子たちが自らその責任を負わなければならないのではない。主なる神ご自身が最終的な責任を負われる。その人が救われるか救われないかは、弟子たちの努力や能力によって決まるのではない。それは神がお決めになることだ。あなたは福音を語ればそれでよい。救いは神のみわざなのだから。主イエスはそのように言われます。

 主イエスの弟子たちも、また初代教会の使徒たちも、多くの反対や拒絶を経験しました。けれども、彼らはそれで失望することはありませんでした。いよいよ主なる神の救いのみ力を固く信じ、いよいよ大胆に確信をもって主イエスの十字架の福音を語りました。神ご自身が救いのみわざをなしてくださることを信じて。今日の教会においても同様です。

 12節で、主イエスはこのように言われます。「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」。「かの日」とは、神による最後の審判の時を指します。14節で「裁きの時には」と言われているのと同じです。終りの日、終末の時、神がご自身の国を完成される時、それまでの古い世界が神の裁きを受けてすべて滅ぼされます。その時、神の永遠の真理が明らかにされます。神を信じ、悔い改めて神に立ち帰った者は永遠の命に至る祝福を受け、神に逆らい、かたくなにして悔い改めなかった者は、永遠の滅びを宣告されます。その最後の神の裁きの時には、主イエスの福音を信じない者に対する最も厳しい罰が与えられると言われているのです。

 ソドムとは、創世記19章に書かれている出来事の舞台となった町です。その町の男たちの大きな罪と悪のゆえに、神はこの町を滅ぼされ、死海(塩の海)の底に沈んだとされる町です。しかし、それでもソドムの罪の方が軽いと言われるのは、ソドムの人々にはまだ主イエスの福音が宣べ伝えられていなかったからです。今のイスラエルの人々、今の時代の人々には、主イエスの十字架の福音が宣べ伝えられています。罪を悔い改めて、この福音を信じる人はだれでも無条件で、罪のゆるしが与えられるという、神から差し出された大きな恵みが、この時代の人々には与えられています。そうであるにもかかわらず、今の時代の人々が主イエスの十字架の福音を信じないならば、それをまだ知らされていなかったソドムの町よりも、より大きな罰を受けるのは当然だと、主イエスは言われるのです。

 神の裁きは、神の恵みの大きさに比例したかたちでなされます。神の恵みをより多く受けながら、それに気づかず、また感謝しない人に対しては、神の恵みがより少ない人よりも、より厳しい神の裁きが与えられるでしょう。主イエスがこの地上においでになる以前の旧約聖書の時代の人々は、主イエスがこの世にお生まれになり、神の救いの恵みがより大きく、またより近くに差し出されている新約聖書時代の人々よりは、その罪を問われる度合いはより軽いと言えるでしょう。主イエスの十字架の死と復活以前の人は、それ以後の人に比べて、その罪の問われ方がより軽くて済むと言えるでしょう。なぜならば、神は主イエス・キリストによって、特にその十字架の死と復活によって、人間の救いにとって必要な十分な恵みをわたしたちにお与えくださっておられるからです。神が旧約聖書の中で多くの預言者たちや信仰者たちをとおしてお語りになった救いのみ言葉を、神は今この時に、み子主イエス・キリストによって、最終的に、また決定的に、余すところなく、十分にお語りくださいました。それゆえに、その福音を信じない人に対する神の裁きは、決定的であり、最終的であり、より厳しい裁きとなるのです。

 13節以下で、主イエスはそのことをよりはっきりと、より厳しい口調でお語りになっておられます。【13~15節】。13節の「コラジン、ベトサイダ」そして15節の「カファルナウム」はいずれもガリラヤ湖周辺の町の名前です。主イエスはこの地方を中心にして、おそらくは3年間にわたって神の国の福音を宣教されました。特に、カファルナウムは12弟子の何人かの出身地でもあり、主イエスの宣教活動の中心地でした。マタイ福音書4章13節には、主イエスが一時期この町にお住まいになられたと書かれています。

 これらのガリラヤ地方の町々村々の人々は、主イエスの最も近くで、主イエスがお語りになった神の国の福音を、だれよりも多く聞く機会が与えられていたのでした。また、主イエスがなさった病気のいやしや悪霊追放の奇跡を、他の人々よりも多く見る機会を与えられていたのでした。しかし、そのような恵みを与えられていながら、主イエスの福音を信じることをせず、悔い改めて神に立ち帰ることもしませんでした。それゆえに、主イエスはこれらの町々村々に住む人々を、「お前たちは不幸だ、お前たちはわざわいだ」と言われるのです。彼らは、地中海沿岸の異邦人の都市であるティルスやシドンの人々よりも、彼らはまだ主イエスの福音を聞いていなかったゆえに、彼ら異邦人と言われていた人々よりも、神に選ばれている民を誇りにしていたイスラエルの人々の方がはるかに「不幸であり、わざわいだ」と主イエスは言われるのです。

 13節に、「彼ら異邦人の方こそが、とうの昔に、悔い改めたに違いない」と言われています。イスラエルの民が不幸なのは、わざわいなのは、彼らがより罪が深かったからではありません。彼らが罪を悔い改めなかったかにほかなりません。神の終わりの日の裁きの時に、より厳しい裁きを受け、滅びを宣言されるのは、その人の罪が大きかったからでは全くなく、その人が悔い改めなかったからにほかなりません。主イエスはここでわたしたちに悔い改めるべきことを教えておられるのです。自分の罪を認め、それを神のみ前に告白し、神に立ち帰って、神から差し出される罪のゆるしの恵みを、感謝をもって受け取ることをこそ、主イエスはわたしたちに求めておられます。わたしたちは悔い改めて神に立ち帰ることをためらってはなりません。神は立ち帰る人をみなお迎えくださいます。そのためにこそ、神はみ子を十字架の死に引き渡されたのです。

 【16節】。同じ主旨の主イエスのみ言葉はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に書かれています。父なる神とみ子なる主イエスと、そしてわたしたち人間、信仰者との強いつながりを言い表す重要なみ言葉です。天におられる父なる神はみ子主イエスを人間のお姿でわたしたちの世に、地上にお遣わしになりました。主イエスがお語りなった神の国の福音と、特に主イエスの十字架の死と復活によって、神はみ子なる主イエスをとおして、わたしたち人間に救いのみ言葉をお語りくださいました。そして、わたしたちは主イエスによって成し遂げられた救いのみわざの証人として、その証し人として、神の国のための働き手として召されており、神はわたしたちの宣教の言葉をお用いになって、ご自身の救いのみわざを今なお続けておられるのです。神は今なおわたしたちの証しをとおして語っておられ、この地で、この時代の中で、救いのみわざを進めておられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、かたくなで悔改めるに遅いわたしたちをも、あなたは忍耐と憐みとをもってあなたのみ前にお招きくださいますことを覚え、感謝いたします。どうか、きょうあなたのみ言葉を聞いたなら、きょうあなたに従っていく従順な思いと、固い決意とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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