10月31日説教「神の永遠の計画にしたがい」

2021年10月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    テモテへの手紙二1章8~14節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の2番目の文章、「主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、人類の罪のために十字架にかかり……」、きょうはその冒頭の「神の永遠の計画にしたがい」という告白について、聖書のみ言葉に導かれて学んでいきます。

 「神の永遠の計画にしたがい」という言葉は、1890年(明治23年)の旧『日本基督教会信仰告白』にはありませんでした。1953年(昭和28年)に制定された(新)『日本キリスト教会信仰の告白』になってから追加されました。すでに学んだように、最初の文章の「我らが神と崇むる」が「主とあがめる」に変更されたこと、その次の「真の神であり、真の人」が追加されたこと、そして今回の「神の永遠の計画にしたがい」が追加されたこと、これらが1951年に新しい日本キリスト教会を建設しようと立ち上がったわたしたちの先輩たちが目指した神学や教会形成の大きな特徴となっているのです。

 第一の特徴である「主告白」は、主イエス・キリストだけがわたしたちが主と告白して礼拝すべき唯一の主であり、この主キリスト以外には、わたし自身にとっても、この国においても、全世界のどこにも、主と言われうるものは何一つ存在しない。これが、戦争に協力し、アジアの諸国への侵略をゆるした戦時中の教会の過ちから、先輩たちが悔い改めをもって学んだ第一のことでした。「真の神であり、真の人」という告白も、主イエス・キリストだけが神と人との間の唯一の仲保者であり、わたしたちの救いを完全に成し遂げてくださる唯一の救い主であるゆえに、主イエス・キリスト以外の他の何ものにも救いを求めないという、強く、毅然とした信仰を強調しています。そして、主イエス・キリストのすべての救いのみわざは「神の永遠の計画にしたがい」なされた救いのみわざであり、わたしの生涯も全世界の歴史も、すべてがこの「神の永遠の計画にしたがい」、神の永遠の摂理のもとにあると告白すること。これが、わたしたちの教会の信仰と神学の大きな特色なのです。

 では、この2番目の文章の主語は何であるかを確認しておきましょう。言うまでもなく、それは「主」です。最初の文章も2番目の文章も、主語は同じ主イエス・キリストです。主イエス・キリストは『日本キリスト教会信仰の告白』全体の主語であり、この信仰告白のもとになっている聖書全体の主語であということは言うまでもありません。それだけでなく、主イエス・キリストは教会の歩み、世界の歴史の歩み、またわたしたち一人ひとりの信仰の歩み、わたしの人生の歩みにおいても、常に唯一の主語であられます。

 ここでもう一つ確認しておきたいことは、「神の永遠の計画にしたがい」はどこに続くのかということです。すぐ後の「人となって」か、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」までか、あるいはこの文章の終わりの「執り成してくださいます」までかかるのかということですが、ここで告白されている内容から考えて、文章の終わりまでのすべてにかかるとするのがよいであろうと思います。つまり、主イエス・キリストのこの世への到来・誕生から始まって、その全ご生涯・ご受難と十字架の死・復活のすべてが、父なる神の永遠の救いのご計画に基づいている。それだけでなく、主イエス・キリストの昇天、神の右に座しておられること、終わりの日に再び来られ、神の国を完成されることに至るまで、主イエス・キリストの救いのみわざのすべてが父なる神の永遠なるご計画によるのであり、主イエスご自身はその神の永遠なる救いのご計画にしたがって歩まれたことが、ここでは告白されているのです。

 では、「神の永遠の計画にしたがい」を、「永遠の」と「神の計画」と「したがい」の3つに分けて、それぞれの言葉で告白されている内容を学んでいきましょう。最初に「したがい」を取り上げます。一般的な意味としては、「~によって」「~のままに」「~に導かれて」という意味として理解することもできますが、もっと積極的な意味で、主イエスご自身の父なる神への服従の意志、服従の行為を読み取るのが良いように思われます。主イエスは神の救いのご計画とその救いの道を無意識に歩まれたのではありません。主イエスの誕生から死に至るまでのすべての道において、主イエスは徹底して父なる神に服従されました。主イエスの誕生は神の永遠なる救いのご計画によって、その時が満ちて、起こった出来事でした。主イエスの両親となったヨセフとマリアは、「お言葉どおりにこの身になりますように」と告白して神のみ心に服従しました。ガラテヤの信徒への手紙4章4節には、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と書かれています。

 主イエスはまた、ご受難と十字架の死の道を運命とあきらめて進まれたのではなく、無理やりだれかに強制されたのでもなく、主イエスご自身が父なる神のみ心を尋ね求めつつ、そのご意志に喜んで服従されたのでした。フィリピの信徒への手紙2章6~8節にはこのように書かれています。【6~8節】(363ページ)。

 主イエス・キリストは「神の永遠の計画にしたがい」、服従の道を歩まれ、それによって神の律法を全うされ、わたしたち罪びとのための救いのみわざを成就されたのです。わたしたちの救いは徹底してこの主イエス・キリストにかかっています。主イエス・キリストを信じる信仰にかかっています。

 次に、「永遠の」という言葉を取り上げます。永遠とは、まず第一に、神ご自身のことを意味しています。神は永遠なる存在です。神以外のすべては、神によって創られた被造物であって、それらは時間と空間の双方で限界を定められています。ただ神だけが唯一永遠であり、神の計画も永遠です。

 永遠とは、聖書の中では、時がいつまでも続くという意味だけでなく、少しわかりづらい言い方ですが、永遠の過去、永遠の未来という意味を持っています。人間の概念によれば、神が天地万物と人間を創造されたときから時が始まるのですが、しかし神はそれ以前にも、永遠の過去にわたって神であられ、神として存在しておられたのであり、救いのご計画を立てておられたということであり、また永遠の未来とは、単に今の時がいつまでも続くということではなく、来るべき世、今の世とは全く違った新しい世、つまり神の国が完成する時まで続く未来を意味しています。

 たとえば、聖書で永遠の命という場合には、今のわたしの命がいつまでも継続するということではありません。今のこのわたしの命は、時に肉体が病んだり、心が痛んだり、不安になったり、悩んだり、迷ったりを繰り返す命であり、日々罪を重ねていく命です。それがいつまでも続くのだとしたら、わたしにとって喜びであるよりは苦痛であると言えるでしょう。しかし、聖書が語る永遠の命、主イエス・キリストがわたしたちに約束しておられる永遠の命とは、ヨハネの黙示録21章のみ言葉によれば、神がいつでも永遠にわたしと共にいてくださる命であり、わたしの目から涙を全くぬぐい取り、もはや死もなく、悲しみも痛みも叫びもなく、全く新しくされた命、来るべき神の国に属する命のことなのです。

 永遠という言葉の中には、不変という意味も含まれます。神は永遠であり、不変なる方であられ、神のみ心、救いのご計画もまた永遠、不変です。たとえ、世界がどのように移り変わろうとも、人間の心がどのように変化しようとも、神は同じ神であられ、その救いのご計画を変更することなく進められます。天地万物と人間を創造された神が、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、イスラエルの民を選ばれた神であり、主イエス・キリストの父なる神であり、教会を支配され、導かれる神であり、わたしたちひとり一人を愛し、罪から救い、神の国の民とされる、唯一の永遠なる神なのです。

 最後に、「神の計画」ですが、1953年に制定された告白では「神の経綸」という言葉でしたが、「経綸」が一般的でないということから、2007年に制定された口語文では「計画」に言い換えられました。経綸の方がより深い意味を持っていますので、その方が良かったのではという個人的な意見はあります。計画よりは、摂理とか、配済という言葉がその内容を言い表していると思われます。

神の経綸、神の摂理、神の配剤とは、一つ一つの出来事に対して、一つ一つの事柄に対して、また一人一人の存在や歩み、動き、生と死に対して、すべてに対して、神は最も良き時とよき道を備えてくださり、すべてのことが相働いて益となり、神の栄光を表す最終の目的に向かうようにしておられるということを意味します。テモテへの手紙二1章9~10節にはこのように書かれています。【9~10節】(391ページ)。もう一か所を読んでみましょう。【エフェソの信徒への手紙1章7~12節】(352ページ)。神はご自身の永遠の経綸、摂理、配済を、わたしたち罪びとの救いのためにこそ、最も力強く、全力を込めて実行してくださったのです。

 ちなみに、「経綸」という言葉は『口語訳聖書』には用いられていませんでしたが、『新共同訳聖書』には二度、ヨブ記38章2節と42章3節で用いられています。38章2節では、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。42章3節では、「神の経綸を隠そうとするとは」とあります。ヨブ記の翻訳に携わった林嗣夫先生から直接に伺ったところによると、先生自身が「経綸」という言葉にこだわってこの翻訳を主張したということです。林先生が亡くなられた後になって、『信仰告白』の中の「経綸」が「計画」に変えられるということは、かの先生も予測していなかったでしょう。

 ではここで、「神の永遠の計画にしたがい」と告白することの意味を二つにまとめてみましょう。一つには、ここでは神の救いのご計画の確かさ、その保証が与えられているということです。神がわたしたち人間を愛され、救われるということは永遠の昔から、天地創造の前から、神の永遠なる決意と決定によって定められていたことであり、それは永遠に不変であり、確かであるという保証がここにあるのです。神ご自身が、いわばその全存在をかけて、わたしたちの救いを保証してくださるのです。

二つには人間の側の条件とか、人間の功績や働きというものが、一切排除されている、それは必要ないということです。神が、ただ神のみが、わたしたちの救いに必要なすべてのみわざをなしてくださるのであり、人間のわざや能力には全く無関係に、神ご自身の一方的な愛と恵みの選びによってすべての人は救われるのです。もし、救いが人間の側の条件によって左右されるというのであれば、わたしたちは自分が救われているかどうかを絶えず疑わなければならないでしょう。しかし、そうではありません。わたしたちはただ「神の永遠の計画にしたがい」をそのまま信じ、それにわが身を委ね、従うのみです。また、そうすることこそがわたしたちの永遠で確かな救いなのです。それによって、わたしたちは神の栄光に向かって前進していくのです。

(執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めからわたしたちを選ばれ、主イエス・キリストによる救いの道へと招きいれてくださいました。どうか、すべての人たちがこの救いの道へと導きいれられますように。そして、あなたの永遠の救

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