11月28日説教「ナインの若者の生き返り」

2021年11月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:列王記下4章30~37節

    ルカによる福音書7章11~17節

説教題:「ナインの若者の生き返り」

 ルカによる福音書7章1節以下には、主イエスがカファルナウムの百人隊長の部下が死ぬほどの重病であったのを、遠く離れた場所から、いわば遠隔治療によっていやされたという奇跡が書かれていました。それに続くきょうの11節以下の個所では、ナインという町で、死んでから数日後の若者を主イエスが生き返えらせたという、更に大きな奇跡が語られています。この二つの奇跡が並べて書かれていることには理由があります。

実は、このあとの18節以下に書かれている洗礼者ヨハネの問いに対する主イエスのお答えが、ここにあらかじめ準備されているのです。ヨハネの問いはこうです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」(20節参照)。主イエスのお答えはこうです。【「22節」】。カファルナウムとナインでの二つの奇跡は、主イエスのこのお答えを準備しています。主イエスこそが、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた来るべきメシア・キリスト・救い主であることのしるしがここにあらかじめ準備されているのです。今まさに、人々が見ている主イエスの奇跡のみわざこそが、主イエスが来るべきメシアであることの確かなしるしなのです。わたしたちはこの二つの奇跡のみわざをとおして、来るべきメシア・キリストと出会うのです。

わたしたちはきょうの主の日からアドヴェント・待降節に入ります。来るべきメシア・キリスト・救い主を待ち望む4週間です。イスラエルの預言者たちが預言し、民が待ち続けたメシア・キリストが、今この時、全世界の、唯一の、まことの救い主としてこの世においでくださったことを覚えつつ、わたしたちを罪と死と滅びから救い出される主イエスとの真実の出会いをきょうの礼拝で体験したいと願います。

【11~12節】。ナインという町はカファルナウムから南西に35キロメートルほど離れており、「町の門」と書かれてあることから、この町は周囲を城壁で囲まれた、かなり大きな町であったようです。この町の未亡人である婦人の一人息子が亡くなって、葬儀が行われている所でした。当時の葬儀は墓への埋葬の儀式が中心でした。未亡人の母親を先頭にして、泣き女と言われる悲しみの儀式を盛り上げる婦人たちと大勢の町の人たちがその葬列に加わり、一人息子を亡くした母親の深い悲しみと痛みとを共有していました。墓は町の城壁の外にあります。棺を担いだ葬列がひとたび町の門から出れば、その棺は再び門から入ることはできません。町を囲む城壁は、いわば生きている人と死んだ人とを隔てている厚い壁であり、ひとたび町の門をくぐって壁の外に出された死者の棺は再び門の中に入ることはできません。だれも、生きている人と死んだ人とを隔てているこの厚い壁を突き破ることはできません。一人息子を亡くした婦人を始め、葬儀に参列している人たちの悲しみ、嘆きは、人間の力ではどうすることもできないこの厚い壁の前での人間の無力さ、無抵抗、あるいは諦めの表れだと言えるかもしれません。

特に、この婦人にとっての悲しみ、痛み、失意はいかに大きかったことかを思います。彼女はすでに夫を亡くしています。死んだ子どもは一人息子でした。当時の社会では今日以上に、夫を亡くした婦人は社会的・経済的な弱者でした。生活の糧を得ることができず、他の人の憐みにすがって生きていくしかありません。ただ一つの望みは一人息子でした。この息子の成長だけが彼女の生きがいだったかもしれません。けれども、その息子が死んでしまったのです。もはや最後の望みも断たれたてしまいました。

その時でした。主イエスが町の門に近づかれました。生きている人と死んだ人とを隔てている、その境である門、棺がいったんその外に出れば再び死者は戻って来ることができない門、主イエスは今その門の傍らに立っておられます。そして、門の外に出ようとする埋葬の列に、いわば「待った」をかけられます。死の世界に無抵抗のままに入っていくしかない人間たちのその行列をストップさせられます。もし、主イエスがこの門の傍らに立っておられなかったならば、埋葬の列はそのまま墓に向かって行くしかなかったでしょう。主イエス以外のだれも、その行列を止めることができる人間はいません。主イエス以外のだれも、一人息子を亡くした母親とその葬儀に参列した人たちの悲しみ、嘆きを止めることができる人間はいません。

【13節】。主イエスは「この母親を見た」と書かれています。主イエスがだれかを見るという表現はルカ福音書の中にこれまでもたびたび出てきました。わたしたちが学んできたように、この表現には非常に特徴的な、深い意味が込められています。主イエスが一人の悲しみ絶望した婦人に目をお留めになります。その時、救いの出来事が起こります。この婦人の人生に大きな変化が起こります。この婦人にだけではなく、彼女の一人息子にも、いやそれのみか、すべての人間の生涯と命に、決定的な変化が起こります。

主イエスの目は何を見ておられるのでしょうか。多くの町の人たちもこの婦人を見ていました。彼女を気の毒に思い、悲しみと同情の目で見ていました。これから先の彼女の人生がどうなるのか、その生活はどうなるのかという不安な思いで見ていました。けれども、彼らの目がどれほど多くあっても、そこには何も決定的なことは起こりません。

主イエスの目が彼女をとらえる時、主イエスの目は彼女のすべてを、過去も現在も将来も、彼女のすべてをご覧になり、彼女のすべてを受け入れ、彼女のすべてをみ手のうちに引き受けられます。彼女のこれまでの労苦と今の深い悲しみ、失意、そして将来への不安や恐れのすべてを主イエスはご存じであられます。また、主イエスの目は、死の前では自らの無力をさらけ出すほかにない人間たち、死の前に首をうなだれて屈服するほかにない人間たちの現実をありのままにご覧になり、しかしそれだけでなく、その現実と戦い、その現実を打ち破り、その現実の中で救いのみわざを開始され、死の前でたたずんでいる人間たちに新しい歩みを開始させるのです。

13節にはもう一つ新約聖書で特徴的な言葉が用いられています。それは「憐れに思う」です。何度かお話したように、この言葉は主イエスが主語の時にしか用いられない専門用語です。ギリシャ語で内臓を意味するスプランクスという名詞の動詞形スプランクニゾマイという言葉です。深く強く激しい感情を言い表す言葉です。日本語で言えば、「五臓六腑に染み渡る」とか「肝をつぶす」というような言い方と同じです。内臓を抉り出すほどの強く激しく感情です。この言葉の意味を正しく理解するために、わたしたちは主イエスの十字架の愛を思い起こすのがよいでしょう。主イエスはわたしたち罪びとに対する大きな、深く激しい愛を、実際にご自身の肉を裂き血を流されるほどの十字架の愛として表してくださいました。これが主イエスの「憐れに思う」の意味であり、内容です。

主イエスは婦人に「もう泣かなくともよい」と言われました。直訳すれば「泣くな」という命令です。主イエスはこの婦人に対して、一人息子を亡くして悲嘆に暮れているこの婦人に対して、「泣くな」とお命じになるのです。「泣くな」とは泣くことの禁止であり、また泣く必要がないということをも意味しています。

なぜならば、泣く原因が主イエスによって取り除かれるからです。主イエスがだれも超えることができない死という厚い壁を打ち破られるからです。あなたを悲しませ、絶望させている死という、人間にはどうすることもできない死という敵を主イエスが打ち破り、それに勝利されるからです。これが主イエスの「憐れに思う」ことの内容であり、またその結果です。主イエスの「憐れみ」、十字架の愛は、この婦人の悲しみ嘆きを禁止するとともに、その悲しみ嘆きを感謝と神賛美とに変えるのです。

 きょうの個所で不思議に思われることは、この婦人の方からは主イエスに対して何もお願いしていないという点です。前のカファルナウムでの百人隊長の部下のいやしの奇跡では、百人隊長が主イエスに病気のいやしを熱心に、しかし謙遜にお願いをしていました。また彼の異邦人としての信仰が主イエスによって称賛されていました。しかし、きょうの個所では婦人は一言も言葉を発していませんし、主イエスに何かをお願いすることもありません。彼女は息子の死の前でただ泣き崩れるほかにありません。そうであるのに、主イエスの方からこの婦人に一方的に目を注がれ、深い憐れみをかけられ、み言葉を語られました。そして、彼女の一人息子を死から生き返らせるという偉大な奇跡をなされました。すべては、主イエスの方かの一方的な働きかけであり、行為です。この婦人はそのような主イエスの深い憐れみと救いの恵みをただ受け身で、受け取るだけです。そして、彼女はその主イエスの救いの恵みによってこれから生きることがゆるされているのです。これが主イエスの十字架の愛の大きな特徴なのです。わたしたちもまたそのようにして主イエスの十字架の愛と救いを受け取るのです。

 【14~17節】。主イエスは死者を葬る行列に近づかれます。死者を納めた棺に近づかれ、その棺に触れられます。すると、棺を担いでいた人たちの歩みが止まります。主イエスは人間たちの死に向かう歩みを、墓へと向かう歩みを止められます。主イエスご自身が死者に近づいてこられ、死者に手を触れることによって、死に向かう人間の歩みを、また死そのものにストップをかけられたのです。そして、主イエスは死を打ち破り、新しい命を生み出されました。若者は棺の中から起き上がりました。

 「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」。主イエスのみ言葉が死者に新しい命を生み出します。主イエスのみ言葉によって死んでいた者が起き上がります。主イエスのみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。

 ナインの若者の生き返りの奇跡は、主イエスの十字架の死と復活を指し示しています。この奇跡は、一人の若者が生き返ったというだけの出来事ではありません。最初にも確認しましたように、ここでわたしたちは来るべきメシア・キリスト・救い主であられる主イエスに出会うのです。主イエスご自身が罪びとたちの一人となられ、死ぬ者となられました。そして、死に勝利され、復活されました。主イエスを信じる信仰者たちに神の国での朽ちることのない永遠の命を約束してくださいます。この主イエスがいつもわたしたちと共におられ、わたしたちのすべての悲しみや嘆き、痛み、悩み、苦しみと共におられ、そしてわたしの死の時にも共にいてくださいます。それらのすべてからわたしを救い出されるメシア・救い主・キリストとして。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがこの地を顧みてくださり、ひとり子イエス・キリストをメシア・救い主としてお遣わしくださいましたことを感謝いたします。どうか、主イエスの愛と真実によって、暗い闇の中をさまようこの世に人々を明るく照らしてください。罪と死と滅びに支配されているすべての人々にまことの救いをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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