5月5日説教「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

2024年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書10章17~20節

説教題:「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

 主イエスが72人の働き人たちをお選びになって、神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されたことが、ルカによる福音書10章の初めに書かれていました。彼らは収穫のための働き人と言われていました。失われている人間の魂を神のために収穫する働き人です。神を失って死んでいた人間の魂を、再び神のもとへと呼び返して、罪のゆるしとまことの命に生かすための働きです。

 この72人の弟子たちの派遣は、のちに主イエスの十字架と復活後、また聖霊降臨と教会誕生後になって、教会が全世界に出て行ってすべての民に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを象徴しており、またそのことの先取りであるということを、わたしたちはすでに学びました。

 きょうの礼拝で朗読された17節からは、派遣された72人が主イエスのもとへと帰って来て、宣教活動の報告をしたことが記されています。17節に、「七十二人は喜んで帰って来た」と書かれています。彼らは主イエスによってこの世か選び出され、主イエスの働き人としてこの世へと遣わされ、そして再び主イエスのもとへと帰ってきて報告をします。この繰り返しが、わたしたちの教会の原型です。また、主の日ごとの礼拝の原型です。それから、わたしたちキリスト者の信仰生活の原型でもあります。

 わたしたちは主イエスによってこの世から教会へと召し集められ、主の日ごとの礼拝をささげ、主イエスの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の国の民とされます。そして、「あなたは出て行ってすべての人に福音を宣べ伝えなさい」との主イエスの命令を聞き、この教会から、この礼拝から、それぞれの場へと派遣されて行きます。また、一週間後の主の日の礼拝で、再び主イエスのもとへと帰って来て、一週間のわたしたちの歩みを主イエスに報告し、悔い改めと懺悔とをもって、罪のゆるしの福音を聞くのです。秋田教会の一年に一度の定期総会や、日本キリスト教会大会と中会の定期総会も、そのような意味合いを持っています。このように、選び、招集、派遣、そして帰還、報告、この繰り返しが起こる場が教会であり、また礼拝であり、わたしたちの信仰の歩みなのです。

 「喜んで帰って来て」と書かれています。彼らの喜びは、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」という伝道活動の成果に対する喜びであると同時に、再び主イエスのみもとに集うことの喜びでもあり、さらには再び主イエスにお会いできる喜びでもあります。教会は復活して今も生きておられる主イエスと出会う喜びに満ちている所です。礼拝は主イエスと再会する喜びに満ちた時です。たとえ教会がどれほどの伝道の成果を上げたとしても、多くの信者が集まろうとも、そこで主イエスとの出会いと再会がないならば、本当の喜びを経験することはできません。

 「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と弟子たちは報告しています。これは、弟子たちの能力や働きによる成果ではありません。「お名前」、すなわち主イエスのお名前による、主イエスのお名前の働きです。弟子たちに主イエスのお名前の力と権威とが与えられていたからです。弟子たちの奉仕をとおして、主イエスご自身が働いておられたからです。

 主イエスは18~19節でこのように言われました。【18~19節】。主イエスは父なる神の権威と権能によって、悪霊とサタンとを支配され、それに勝利しておられます。主イエスはこれまで何度も悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されました(4章31節以下、41節、6章18節)。マタイ福音書4章9節には、主イエスが悪魔の誘惑を受けられた時に、「退け、サタン」とお命じになると、悪魔は主イエスから離れ去ったと書かれています。また、ルカ福音書11章20節ではこのように言われました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 主イエスがこの世においでになられたことによって、神の恵みと救いのご支配が始まり、悪霊とサタンの支配はもはや終わりを告げられたのです。そして、主イエスは悪霊とサタンに勝利する権威を弟子たちにお与えになりました。したがって、弟子たちは自分たちの働きを誇ることはできませんし、またどのような悪霊やサタンの力を恐れる必要もありません。

 ところで、聖書にはしばしば悪霊とかサタンという言葉が出てきます。それが重い病気の原因となったり、人間を悪の行為に誘ったり、あるいはまた人間を不信仰にしたり、神と敵対させたりする力を持っているのが悪霊であり、またサタンの働きと考えられていました。科学的な理解が強くなった現代のわたしたちには理解困難な点もありますが、分かりやすく説明するならば、悪霊やサタンとは、神に敵対する力をもって、信仰者を主イエスから引き離そうとするものと言ってよいでしょう。つまり、主イエスはわたしたちを罪と死と滅びの支配から救い出し、父なる神との正しい交わりへと導くのに対して、悪霊やサタンは人間を罪へと誘惑し、わたしたちを神から引き離し、主イエスを救い主と信じる信仰からわたしたちを遠ざけようとし、ついにはわたしたちを滅ぼそうとする力であると言ってよいでしょう。この世にあるすべての人間はこの悪魔とサタンの力に脅かされています。だれも、人間の力や、この世にある何かの力を借りても、悪魔とサタンの力に対抗できる人はいません。すべての人はその支配下に置かれています。

 けれども、ただお一人、主イエスだけが父なる神の権威と力によって、悪魔とサタンの支配を打ち倒され、それに勝利され、神の恵みと救いのご支配をうち立てられました。それを、神の国が到来したと、福音書は語っています。主イエスはこの神の国の福音を説教されました。そして、弟子たちがこの神の国の福音を携えて、この世へと出ていくようにとお命じになりました。今や、神がご自身の一人子なる主イエス・キリストによって、大いなる愛と恵みをもって、この世を支配していた悪魔やサタン、罪の力から人々を解放し、救い出すためのみわざを成し遂げてくださったということを、弟子たちは全世界に宣べ伝えます。弟子たちは、そしてわたしたち教会の民は、主イエスがすでに成し遂げてくださった神の国の福音と救いのみわざを証しするのです。

 説教の初めでも触れましたように、72人の弟子たち、働き人たちの派遣は、主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨と教会の誕生ののちになって、教会が全世界に出て行って福音を宣教することの象徴であり、またその先取りでもあります。わたしたち教会の民は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、確かに人間の罪と死とがその終わりを告げられ、神の恵みと救いが勝利したことを知らされている者たちとして、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの福音を宣教する使命を託されています。わたしたちは今、神の恵みと救いが支配する新しい時に生きている者たちとして、感謝と喜びとをもってその使命に生きているのです。

 主イエスは喜んで帰ってきた弟子たちに、20節でこのように言われました。【20節】。ここには喜ぶという言葉が2度用いられています。一つは否定的に、もう一つは肯定的に。それによって両者の喜びを比較しながら、後者の喜びがはるかに大きな喜びであることを強調しています。

 前者の喜びは、「悪霊があなたがたに服従する」という喜びです。この喜びが喜びではないはずはありません。もちろん、弟子たちが自分の能力や努力でそのことができたというのではありませんが。それは主イエスのお力であり、主イエスご自身のみわざです。そうであるとしても、悪霊の支配が終わり、もはや神の恵みのご支配を信じる人は悪霊の力を恐れる必要はないということは、何ものにも勝る大きな喜びです。しかも、それを自分たちの奉仕によって証しすることができるということは、この世の何かを手に入れるよりもはるかに勝る大きな喜びです。主イエスの救いのために奉仕する教会の民はその喜びを経験することをゆるされているのです。

 けれども、主イエスはそのような目に見える成果を喜ぶよりも、もっと大きな喜びがあることを忘れるなと言われます。わたしたちは目に見える成果にとらわれがちです。わずかな成果に有頂天になったり、反対に、成果が期待どおりでないと失望することもあります。そのような成功や失敗に、わたしたちの教会の働きや信仰の歩みが左右されてしまうことがあります。目に見える喜びだけにとらわれていると、それよりもはるかに大きな喜びを見失ってしまうことがあると、主イエスは警告されます。もっと大きな喜びは、「あなたがたの名が天に書き記されていること」です。主イエスはわたしたちの目を地上での成果ではなく、天の神へと向けさせるのです。天にある永遠なるものへと、わたしたちの心と思いとを導くのです。

 「名前が天に書き記される」、これと同じような表現は新約聖書の中にはいくつかあります。フィリピの信徒への手紙4章3節やヨハネ黙示録3章5節などでは、「命の書に名が記されている」と言われ、また、ヘブライ人への手紙12章23節では「天に登録されている」とあります。これは主イエスを救い主と信じる信仰者には、神の国における永遠の命が約束されているということを意味しています。名前を書き記すということは、その名がいつまでもそこで覚えられるということを意味しています。しかも、主なる神によって覚えられているということであり、地上の朽ちるものに書き記されるのではなく、天の永遠の書物に、消え去ることのない文字で書き記されるということです。これは何という大きな恵みであり、祝福であり、名誉であることでしょうか。それゆえに、ここで与えられる喜びは他のどのような喜びよりもはるかにまさった永遠の喜びであるのです。

 神の国の福音のために仕える働き人や、主イエスの十字架の福音宣教のために仕えるわたしたちには、今すでにこのような大きな喜びと祝福とが約束されているのです。わたしたちはこの地上にあってすでに天の喜びと祝福に招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、朽ち果てる者に過ぎないわたしたちを、あなたは永遠の命と救いの恵みとによって養ってくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを地上の過ぎ去りゆくものから離して、天に向けさせてください。わたしたちをあなたから引き離そうとして、滅びへといざなうすべての悪しき誘惑から、わたしたちをお守りください。

〇主なる神よ、地にあなたのみ心が行なわれますように。人間たちの悪しき思いや、欲望や、争いをあなたが取り除いてくださり、すべての国、すべての民族、すべての人たちがあなたにあるまことの平和と共存を創り出していくために仕える者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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