11月21日説教「サラの子イサクとハガルの子イシュマエル」

2021年11月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記21章9~21節

    ガラテヤの信徒への手紙4章21~31節

説教題:「サラの子イサクとハガルの子イシュマエル」

 アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の高齢の夫婦に、長く待ち望んだ男の子イサクが生まれました。それは、神の約束の子の誕生でした。アブラハムが最初に神の約束を聞いたのは25年前、彼がハランの地を出て神が約束された地、カナンに旅立った時でした。その時、神はアブラハムに言われました。「わたしはお前とお前の子孫とを永遠に祝福する。お前の子孫は星の数ほどに増え、祝福を受け継ぐであろう」と。アブラハムのこれまでの生涯はこの神の約束のみ言葉の成就を待ち望む歩みでした。神の約束のみ言葉を聞き、信じ、待ち続ける信仰者に、神は必ずやその約束を果たしてくださいます。

 わたしたちは次週28日から、待降節・アドヴェントに入ります。待降節は神の約束のメシア・救い主の誕生を待ち望む期間です。わたしたちもアブラハムと同じように、信じて待ち望む者に神はその約束を必ず果たしてくださることを確信しながら、救い主の誕生の日を待ち望むとともに、終わりの日に主イエス・キリストが再びこの地に来臨され、信じる者たちを天に引き上げてくださり、神の国を完成させてくださる時を待ち望むのです。教会は主イエス・キリストの第一の来臨を待ち望み、またその来臨の福音を確かに聞きつつ、第二の来臨を待ち望んでいる信仰者の群れです。

 創世記21章8節に、「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた」と書かれています。この当時、子どもは3歳くらいで乳離れしました。その時には、家族で盛大なお祝いをするのが習わしでした。古代社会では乳幼児の死亡率は非常に高く、3歳の乳離れまで丈夫に育つのは親にとって特別に大きな喜びでした。命の危険が伴う乳幼児の期間を神に守られ、無事に成長できたという喜びが、アブラハムとサラの家に満ち溢れました。わたしたちはここでイサクという名前の意味を改めて思い起こします。それは「彼は笑う」という意味です。この名前はイサクが誕生するよりも前に神によって決められていました。したがって、この笑いは神から与えられた笑い、喜び、祝福です。

 ところが、喜びと幸いに満たされていた家庭に暗い影が差し込んでくるのをわたしたちは見ます。イサクの成長を期待すればするほどに、アブラハムの家庭に潜んでいた問題点が浮かび上がってきました。母であり妻であるサラはそのことを敏感に感じ取っていました。

【9~11節】。サラは自分が産んだ子イサクと女奴隷ハガルが産んだ子イシュマエルとが一緒に遊んでいる様子を見て、心穏やかではありません。この家の後継ぎとなるべき子は、自分が産んだイサクであり、女奴隷の子イシュマエルではありません。イシュマエルの存在はイサクの長男としての地位を脅かすだけでなく、自分の妻としての地位をも危うくします。母となったサラは我が子イサクを守るため、また自分自身を守るために、ハガルとその子を家から追い出すようにとアブラハムに依頼します。これは、サラの妻としての当然の願いであり、権利でもあると言えるのかもしれません。

けれども、わたしたちはここで16章に書かれていたことを思い起こします。そこでは、サラの方から夫アブラハムに申し出て、「自分には子どもができないので、女奴隷ハガルとの間に子どもをつくって、この家を継がせることにしてはどうか」と提案していました。アブラハムがそのようにして、ハガルが身ごもってからはサラを見下げるようになると、今度はハガルに対してつらくあたり、それに耐えきれなくなったハガルは家を出て、砂漠をさまようようになりました。その時、神が身重のハガルを助け出し、彼女をアブラハムの家に連れ戻されたということが16章に書かれていました。

あの時、サラは自分で提案しておきながら、実際ハガルが身ごもった後には、彼女の態度が気に入らず、ハガルを家から追い出すような行動をしました。サラはいわば自分で蒔いた種を自分で刈り取らなければならなくなったと言えますが、今回もまた彼女があの時にまいた種を最終的に刈り取らなければならなくされているのです。しかし、サラは自分ではどうすることもできずに、今回もまた夫アブラハムに問題解決を迫ったのです。この件については当然アブラハムにも責任があります。イシュマエルはアブラハムと女奴隷ハガルとの間にできた子どもであるからです。11節に、【11節】と書かれてあるとおりです。アブラハムには妻サラの言い分を聞いて、イシュマエルを簡単に家から追い出すには忍びない思いがありました。アブラハムは16章でもそうであったように、どのようにサラとハガルとの間を取り持てばよいのか分からずに、思案し、苦悩しています。アブラハムは自分の知恵や判断によっては自分の家族間に起こった問題をうまく解決することができません。

その時に、神がアブラハムに現れ、彼に言われます。【12~13節】。16章では、荒れ野に逃亡し、孤独と苦悩の中にあったハガルに神が現れ、彼女を救われましたが、ここでは苦悩するアブラハムに神は「サラの言うとおりにしなさい」とお命じになりました。それは、神がサラの味方をされたということなのでしょうか。「あの女とあの子を追い出してください」と言ったサラの意見に神が賛成されたということなのでしょうか。いや、そうではありません。一見したところ、表面的には同じように見えますが、しかしサラが考えていたことと神のご計画とは全く違っています。

サラは自分の妻としての立場と自分の子どもイサクを守るために、今現在の自分の家族の幸いを考えて、女奴隷ハガルとその子イシュマエルを家から追放することを願っていました。しかし、神は今現在のアブラハムの家族の幸いのことだけでなく、はるかかなたの世界の歴史のことを、神の永遠の救いのご計画の中でのアブラハムの家族と世界の歴史を考えておられるのです。

神が最初にお選びになった信仰の父アブラハムに対する約束、アブラハム契約は永遠に変わることはありません。アブラハムの子孫を増やし、神の祝福を受け継がせると言われた神のみ言葉には変更はありません。それと同時に選ばれなかった女奴隷ハガルの子どもイシュマエルをも神はお見捨てにはなりません。彼もまた一つの国民とすると言われます。彼もアブラハムの子どもだからと言われています。ここには、後に主イエス・キリストの福音によって明らかにされたことがすでに暗示されているように思われます。すなわち、神に選ばれたイスラエルの民だけでなく、この時には選ばれなかったいわゆる異邦人である世界のすべての国民が共に信仰の父アブラハムの子孫として、十字架の福音を信じる信仰によって、一つの救いの民とされるということがここですでに暗示されているように思われます。

アブラハムは妻サラの願いによって行動したのではなく、主なる神のみ言葉に聞き従って行動しました。【14節】。ハガルとイシュマエルが家を出たあとどうなるのか、どうなったのかをアブラハムは知りません。荒れ野で革袋の水が尽きてしまい、死の危険にさらされ、ハガルが死の覚悟をしたときに、神がどのようにしてハガルとイシュマエルを救われるのかをも彼は知りません。ただ、神のみ言葉を信じ、神のみ言葉にすべてを委ねて、アブラハムは二人のために旅支度を整え、送り出しました。朝早く起きて、黙々と旅支度を整えているアブラハムの姿を、わたしたちは深い同情を覚えながら、またわが子と別れなければならない彼の大きな悲しみと痛みとを思いながら、しかしまた神がすべての道を導いてくださるであろうという確かな信仰とを思いながら、想像するのです。

【15~18節】。神はハガルとその子イシュマエルとをお見捨てにはなりません。17節に、「神は子供の泣き声を聞かれた」と二度繰り返されています。イシュマエルという名前は、16章11節に書かれてあったように、「神は聞かれた」という意味です。神は、神の選びから漏れたイシュマエルの泣き声を聞かれます。彼とその母ハガルを死の危険から救い出されました。神はすべての人の泣く声を、うめく声を、切なる祈りの声をお聞きくださり、救いの道を備えてくださいます。

最後に19節以下を読んでみましょう。【19~21節】。イシュマエルはのちにカナン南部の荒れ地に住んだイシュマエル人の祖先になったと考えられています。18節には「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と言われる神の約束のみ言葉があり、また20節には「神がその子と共におられたので」と書かれています。神の選びの民であるアブラハム・イサク・ヤコブには連ならなかったにもかかわらず、ハガルの子イシュマエルもまたアブラハムの子であり、神の救いの恵みから全く除かれているのではないということが強調されていることは確かです。13節で、のちに主イエス・キリストの福音によって、選ばれなかった異邦人と言われるすべての国民が救いに招かれていることを暗示させると言いましたが、ここに至ってそのことが暗示であるのみならず、確かな神の約束であり、神の永遠の救いのご計画であるということに、わたしたちは気づかされるのです。

ハガルの子イシュマエルの物語によってわたしたちは二つのことを教えられます。一つには、神の選びの外にいるハガルとイシュマエルと共におられる神、彼らの泣き声、叫びを聞かれる神、そして彼らを死の危険から救い出される神は、選ばれた民アブラハムとその子イサク、またその子孫たち、そしてアブラハムを信仰の父とする教会の民に対しては、さらに力強く、救いのみわざをなしてくださらないはずはないということをわたしたちに確信させるのです。

もう一つは、神が最初に選ばれたアブラハムとその子イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちによって形成されたイスラエルの民によって、ご自身の選びと救いの歴史を継続されると同時に、神の選びの外にいる、いわば異邦人をも、最初から救いのご計画の中に入れておられたのだということをわたしたちはここで確認するのです。そして、やがて時満ちてこの世に到来されたメシア・救い主である主イエス・キリストの十字架の福音によって、神の救いは実際にイスラエルの民だけではなく、異邦人へと、全世界の民へと拡大されていったのです。イシュマエルの救いの出来事は、はるかな時代を超えて、異邦人の救い、全世界のすべての人の救いを預言し、証ししているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみはとこしえからとこしえまで変わることなく、絶えることもありません。どうか、あなたの救いの恵みが全世界のすべての人へと届けられますように。いと小さな人たちや貧しく低きにいる人たちのかぼそい泣き声をも、人に知られぬ一粒の涙をも、あなたはすべてみ心に留めていてくださいます。願わくは、わたしたちにも人々の痛みや悲しみ、苦しみを見ることができる信仰の目をお与えください。そして、その人たちのために心を砕いて祈る者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月14日説教「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

2021年11月14日(日) 秋田教会主日礼拝・逝去者記念礼拝説教

(駒井利則牧師)

聖 書:詩編90編1~14節

    ローマの信徒への手紙5章12~14節

説教題:「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

 秋田教会の逝去者名簿を今回改めて整備しました。それによると、明治25年、1892年9月に秋田講義所として伝道を開始して以来130年近くの間に、信仰を持ってこの世を去った秋田教会員は約150人おられることが分かりました。教会員家族やその他の関係者で、秋田教会で葬儀を行った人たちを加えると、180人以上の逝去者がおられます。これらの方々一人一人の信仰の歩みが、そのまま秋田教会の歴史です。神の救いの歴史です。ヘブライ人への手紙12章1節にはこうあります。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

きょうはこれら証人たちの信仰の歩みを覚えながら、またその歩みを導かれた神の豊かな恵みを覚えながら、ご一緒に神のみ言葉を聞き、礼拝をささげたいと思います。

 きょう朗読された旧約聖書の詩編90編は、神の永遠性と人間のはかなさを歌った、よく知られた詩編ですが、この中にはわたしたちの多くが共感を覚えるみ言葉がいくつもあります。たとえば10節です。【10節】。詩人がこのように歌ったのは、今から2500年以上も前で、当時の平均寿命は50歳前後と推測されていますが、詩人はそれを大幅に長く見積もって70年から80年と言っています。これはおそらく神の豊かな恵みをいただいて長寿を与えられた信仰者のことでしょうが、それにしても70年、80年というのは、今日21世紀のわたしたちの平均寿命であるという点で、まさにこの詩編はわたしたちのことを歌っていると深い共感を覚えるのです。しかも、「得るところは労苦と禍に過ぎず」、「瞬く間に時が過ぎ去る」というみ言葉は、まさにわたしたちその年代に達した人たちの多くが思い抱く感情と一致するのではないでしょうか。

 しかし、わたしたちはこの詩人にただ共感を覚えるだけでは本当に聖書を読んだことにはなりませんから、さらに深くその真理に迫っていくことにしましょう。最初にも言いましたように、この詩編は神の永遠性と人間のはかなさをテーマにしています。【1~2節】。これが神の永遠性です。神は天地創造のはるか以前から神であられ、またこの世界が終わる終末ののちにも、永遠に神として存在しておられ、神として働いておられます。したがってまた、わたしがこの世に誕生するよりもはるか以前に、またわたしが地上を去ったのちにも永遠に神であられ、神としてわたしの前に存在しておられます。時が過ぎ、時代が変わり、国の支配者が交代し、新しいものが次々と造られては消え去っていく中で、神は永遠に同じお一人の神としてそれらのすべてを支配され、導いておられます。

 それに対して、人間のはかなさについては、【5~6節、10節】。聖書では人間が死すべき者であり、その存在がはかないものであることのたとえとして、草や花がしばしば用いられます。詩編103編15~16節には、「人の生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる」。また、イザヤ書40章6~8節はさらに印象的です。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

聖書の舞台となっている近東地域では砂漠や荒れ地が多く、雨季になって一斉に咲く花の美しさは目に鮮やかだと言います。それだけに、乾季になって、あっという間に草花が枯れてしまう光景は目に憐れに映るのでしょう。人間の生涯はそれらの草花と同じだと詩人は言います、朝には美しく咲いてはいても、夕になれば枯れていく花のようだと。しかも、その生涯を振り返ってみれば、労苦と災いだけであったと。

 詩編90編の詩人は、神の永遠性と人間のはかなさとを語っているのですが、その両者をただ単純に並べ、比較しているのではありません。人間のはかなさを嘆いて、人生をあきらめ、失望しているのでもありません。むしろ、この詩人は人間のはかなさと神の永遠性とが堅く結びついることを強調するのです。永遠なる神が人間のはかなさを最もよく知っておられ、それだけでなく、神ご自身が人間をはかない者にしておられるというのです。神が人間に死を定め、人間の命に限界を定めておられるということを詩人は告白し、それゆえに、この神こそがはかない存在である人間の生涯に意味を与え、その日々の歩みを豊かに祝福してくださるであろうということを信じ、またそれを願っているのです。ここに、この詩編の最も中心的なメッセージがあります。それを聞き取っていきましょう。

 3節を読んでみましょう。【3節】。「帰れ」とは、人間を塵に返す神のご命令です。創世記2章によれば、神は最初の人間アダムを土の塵から創造され、これに命の息を吹き入れられ、それによって人間は生きる者となったと書かれています。神は人間の命と死とをご支配しておられ、人間に対して「塵に帰れ、あなたの命をわたしに返せ」と言われるのです。人間の命は神から与えられ、神に返されるというのが聖書の、またわたしたちの信仰です。ヨブがすべてを失った大きな苦難の中で、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美したように、すべての命が神から与えられた神のもの、それゆえに神に帰るべきものです。教会では死のことを召天と言います。天の神のみもとに召されるということです。天におられる神から「帰れ」と呼ばれ、神のもとへと帰るのが信仰者の死です。人間の命と死とは永遠なる神のみ手の中に置かれているのです。

 永遠なる神のみ前でのはかない存在である人間の死を考えるにあたって、ここでもう一つの重要な点があります。それは人間の罪です。【7~9節】。人間がはかない存在であり、死すべき存在であるのは、人間の罪のゆえであり、人間の罪に対する神の怒り、裁きによるのだということです。人間が罪を犯して神に背き、永遠なる神から離れ、命の主である神を捨てたこと自体が人間の死を意味するのですが、その人間の罪が最終的に支払わなければならない報酬が人間の現実的な死なのです

 わたしたちはここで二つのことを確認することができます。一つは、人間は自然に寿命が尽きて死んでいくのではなく、神とは無関係なところで死ぬのでもなく、どのような命も神のみ手の中に置かれているように、どのような死もまた、神のみ手を離れてあるのではないということです。わたしたちは、すべての命と同様にすべての死にも、そこには神の隠れたみ心があると信じるべきであり、また信じることができるのです。神は永遠であり、すべての造り主であられ、すべての命の主であられるからであり、神は永遠にそのような神として、わたしたちを捕らえていてくださるからです。すべての人の死にも、神はその人と共にいてくださいます。

もう一つのことは、人間の死は人間の罪に対する神の裁きであるという厳粛な事実です。創世記3章には、最初の人間アダムとエヴァが神の戒めを破って、禁じられていた木の実を食べ、罪を犯したために死すべき者となったことが語られています。これがいわゆる原罪、original sinです。すべての人間はこの原罪を受け継ぎ、生まれながらにして罪に傾いていると聖書は言います。また、パウロはローマの信徒への手紙5章12節で、「一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と書いています。

そこで詩人は続けて、【11~12節】と祈り求めます。「生涯の日を正しく数える」ことには二つの意味が含まれます。一つは、文字どおり、自らの人生の日数を数えることです。神は永遠なる存在ですから、その日数を数え終わることができませんが、人間はその日数を数えて、これで終わりという限界を持っています。人間のはかなさとは、人間は死すべき者であるという厳粛な事実のことです。「死を忘れるな」ということです。ある哲学者が言ったように、「人間は死に至る存在」なのです。詩人は人間のこの厳粛な事実を、永遠なる神との関係の中で、永遠なる神のみ前に立つことによって、知らされました。それゆえに詩人は、「生涯の日を正しく数えることを教えてください」と神に願い求めるのです。人間は永遠なる神のみ前に立つときにはじめて、本当の意味で、自ら限りある存在であり、死すべき者であり、神の裁きを受けて滅びなければならない者であることを知らされ、神のみ前で謙遜にされ、神を恐れる者とされるのです。そして、ただ自らのはかなさを嘆くのではなく、永遠なる神に目を注ぎ、神から与えられるまことの知恵を願い求めるようにされるのです。

「生涯の日を正しく数える」というみ言葉のもう一つの意味は、わたしの生涯の日々、その一日一日のすべてが、神から与えられた日として、神に覚えられている日として、神に感謝をささげながら生きるようにさせてくださいということです。「主なる神を忘れるな」ということです。わたしのすべての日々は神に覚えられています。神に導かれています。わたしの健やかな日も病む日も、わたしの幸いな日も災いの日も、神はすべてを知っていてくださいます。すべての日々に伴ってくださいます。そのことを覚えて神に感謝すること、それが「生涯の日を正しく数える」ことです。

 そのようにして、「死を忘れないこと」そして「主なる神を忘れないこと」、この二つを常に覚えること、それが人間に与えられた最大の知恵だと詩人は言うのです。わたしたちはさらに進んで、この二つのことが主イエス・キリストによって一つに堅く結ばれていることを知らされています。主イエスはわたしたち人間が自らの罪のゆえに死の判決を神から受けなければならなかったのに、罪なき神のみ子であられた主イエスが、わたしたちの罪をご自身の身に負われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けくださり、十字架で死んでくださったのです。それによって、わたしたちを死の判決から救い出してくださったのです。そして、主イエスは三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利されました。主イエスの十字架の死の中にわたしたちの死があり、また主イエスの復活の命の中にわたしたちの新しい命があるのです。「主イエス・キリストの十字架の死と復活を忘れるな」、ここにこそ、わたしたちの祝福された生涯があり、祝福された一日一日があるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父かる神よ、あなたがこの教会に多くの信仰者をお集めくださり、その信仰の歩みを祝福し、お導きくださったことを、心から感謝いたします。どうか、今ここに集められているわたしたち一人一人をも、あなたの救いの恵みと平安とで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月7日説教「使徒たちによるしるしと不思議な業」

2021年11月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編85編1~14節

    使徒言行録5章12~16節

説教題:「使徒たちによるしるしと奇跡」

 使徒言行録2章から8章にかけて、エルサレム初代教会の目覚ましい成長の様子が描かれていますが、その中には何カ所かまとめの報告が記録されています。最初は2章43~47節、次は4章32~35節、そしてきょう朗読された5章12~15節です。このカ所の文章は続き具合が少し乱れているように思われます。12節前半の文章、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」は15節の「人々は病人を大通りに運び出し」から16節終わりの「一人残らずいやしてもらった」に続くのが自然です。12節後半「一同は心を一つにして」から14節終わりの「その数はますます増えていった」までが別の内容と考えられます。この部分が12節前半と15節との間に挿入されたかたちになってります。どうしてこのような文章の乱れが生じたのかはよくわかっていません。

 きょうは初めに12節後半から14節までの報告について学んでいきます。【12節b~14節】。これまでの二つのまとめの報告と同様に、ここでも教会の一致、信者たちの交わりが強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされている信仰者たちの群れは、数がどれほど増えようとも、伝道活動がどれほど広がっても、あるいはメンバーがどれほど多様化しても、一つの主キリストの体なる教会です。その一致と交わりの強さ、深さは変わることはありません。また、教会がどれほどに外からの迫害や攻撃にさらされようとも、内からはアナニアとサフィラの事件のような聖霊なる神を汚すという重大な罪によって試練を受けようとも、それによって教会の一致と交わりが弱められたり、壊されたりすることはありません。むしろ、教会はそれらの苦難や試練を経験することによって、より一層教会の頭なる主イエス・キリストに信頼し、神への恐れを強くすることによって、一つの群れとされていくのです。教会は人間の側の好みや利害関係によって集められているのではなく、いついかなる状況の中にあっても、主キリストによって与えられる罪のゆるしの恵みによって集められ、一つにされている群れだからです。教会の一致は礼拝と祈りにおける一致です。

 このころのエルサレム教会の礼拝場所、集会場所は主にエルサレム神殿のソロモンの回廊と呼ばれている広場でした。まだ、教会堂はありません。信者の家々に集まることもありました。神殿の礼拝堂では当時のユダヤ教の礼拝がささげられていました。その外にあるソロモンの回廊ではキリスト教会の新しい礼拝がささげられています。キリスト教会は2章に書かれてあったように、ユダヤ人の礼拝場所である神殿で誕生しました。そして、しばらくはユダヤ教とキリスト教会は隣り合った場所で礼拝をしていました。

 ここに、わたしたちは二つのことを読み取ることができます。一つには、キリスト教会はユダヤ人たちが信じ、礼拝していたイスラエルの神、旧約聖書の神を主イエスン・キリストの父なる神として信じたということです。その意味ではユダヤ教はキリスト教の母体であると言えます。神は最初全世界の民の中からイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれました。神は選ばれた民イスラエルがまず第一に救われることを願っておられました。そして、イスラエルから始まって、全世界のすべての人々が救われることを計画されました。教会はこの神の選びの順序を重んじました。13章からは、使徒パウロの計3回にわたる世界伝道の記録が書かれていますが、彼も新しい町に福音を宣べ伝える際に、まずその町のユダヤ教の会堂を訪れ、ユダヤ人に福音を宣べ伝えました。ユダヤ人からの迫害にあって、会堂を追い出されてから、ユダヤ人以外の異邦人に向かっていきました。神の選びの順序とその恵みはイスラエルの不信仰と不従順によっても決して変わりません。

 しかし第二に、ユダヤ教とキリスト教はその信仰においては全く違っています。神殿の礼拝堂では依然として動物の犠牲がささげられていました。律法が重んじられ、律法を守り行うことによって救われると信じられていました。しかし、ソロモンの回廊で行われていた教会の礼拝では、旧約聖書に預言されていた神の救いが主イエス・キリストによってすでに成就したと語られ、主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしが信じられていました。両者の決定的な違いがやがて明らかになり、かたくなに悔い改めることをしなかったユダヤ人たちはキリスト教会を攻撃し、迫害し、彼らを神殿と会堂から追い出すことになっていきました。

 次の13~14節では、エルサレム教会の周囲の人々の教会に対する反応が書かれています。ある人々は教会から距離を置いていました。彼らがなぜ教会に近づかなかったのか、その理由は書かれていませんが、「ほかの者」と言われている人たちとは、主イエスをメシア・救い主として受け入れず、十字架につけるように訴えた当時のユダヤ教指導者たち、ファリサイ派、律法学者、長老、祭司たちのことかもしれません。この時にはまだ教会に対してあからさまな攻撃姿勢を示してはいませんでしたが、やがて彼らは教会を迫害するようになります。あるいは、宗教にはあまり興味を示さず、この世の生活のことであくせくしている人たちのことかもしれません。いつの時代にも、そのようにして教会から距離を置こうとする人たちが多くいます。

 しかし、多くの民衆は教会の信者たちを尊敬していました。信者たちが心を一つにして固く結びあっている様子や、使徒たちが熱心に福音を語り、多くのしるしと奇跡を行っているのを見て、そこに神が力強く働いていることを認めていました。けれども、彼らはもう一歩前に踏み出して教会に加わる決断ができませんでした。主イエス・キリストの十字架がわたし自身の罪のための救いのみわざであると信じるまでには至らなかったからです。

 そのような不信仰や無関心に取り囲まれていても、神は多くの信者たちを教会に増し加えてくださったと14節に書かれています。神は人間たちの不信仰や不従順、かたくなさや無関心の中でも、なおも救いのみわざを前進させたもうのです。教会はそのことを信じることがゆるされています。

 「多くの男女が」と言われています。女性の信者のことが強調されているのです。女性の社会的地位が認められていなかったこの時代にあって、教会では早くから女性もまた神のみ前では男性と同じ一人の信仰者、教会員と考えられていました。使徒言行録と同じ著者によるルカ福音書は「婦人の書」と言われるほどに、婦人たちの活動が多く描かれていますが、この使徒言行録でも初代教会の婦人たちの目覚ましい働きがこのあと数多く報告されます。主イエス・キリストの十字架の福音は、神のみ前にあるすべての人間、一人一人の人間のかけがえのない尊い存在、その命の重さと尊厳をわたしたちに悟らせるのです。主イエス・キリストはこの小さな一人のためにもご自身の尊い血を流されたからです。この小さな命もまた主キリストの十字架の血によって贖われているからです。

 では次に、12節前半から15、16節に続くカ所を読んでみましょう。【12節a、15~16節】。多くのしるしと不思議なわざが使徒たちによって行われたというのは、4章30節の教会の祈りが神によって聞かれたことを語っています。【4章30節】。もう一つの教会の祈りは、29節に書かれていました。【29節】。神のみ言葉を語ること、すなわち宣教と、その具体的なしるしである病気のいやし、しるしと不思議なわざ、この二つが初代教会の働きの中心でした。エルサレム初代教会は指導者であるペトロとヨハネが捕らえられ、裁判にかけられるという最初の迫害を経験しましたが、その迫害の中で教会は神に祈り、いよいよ強く神の助けと導きとを願い求めました。神はその祈りを確かにお聞きくださったのです。

 29節の祈りに対しては、31節にあるように、彼らが祈り終えると直ちにその祈りが聞かれ、彼らは大胆に神の言葉を語りだしました。また31節にも、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証し」とあり、教会の祈りが確かに聞かれ、福音宣教の働きが神によって力づけられ、導かれたということを語っています。そして、5章12節では、もう一つの祈りもまた神によって聞かれ、使徒たちによって多くのしるしと不思議なわざが行われたと語っているのです。福音の宣教としるしや不思議なわざは、神が教会の祈りに応えて、ご自身の救いのお働きを前進させておられることの確かな証なのです。

 福音宣教としるしや不思議なわざを行うことが、初代教会の働きの中心でしたが、主イエスご自身の場合にそうであったように、この二つは互いにつながりあっています。きょうのカ所ではしるしや不思議なわざ、病気のいやしの方だけが取り挙げられていますが、それらは神のみ言葉の宣教、主イエスの福音の説教と結びついていなければ、本当の救いの力を持ちません。催眠や魔術によって病気をいやしたり、人間の能力を超えた異常な力を発揮したり、人を驚かせるような奇術をして見せたりする人たちはいつの時代にも、どこの国にもいるでしょう。しかし、使徒たちが行ったしるしや不思議なわざ、病気のいやしはそれらとは全く違います。4章30節にあるように、そこでは神のみ手が働いておられ、主イエスの救いのみわざが行われているのです。それらは、主イエスの場合にそうであったように、神の国が到来し、神の愛と恵みのご支配が始まったことの目に見えるしるしなのです。

 15節はマルコ福音書6章55、56節とよく似ています。【マルコ福音書6章55~56節】(73ページ)。また、16節はルカ福音書6章17節以下とよく似ています。【ルカ福音書6章17~19節】(112ページ)。使徒たちは主イエスご自身の救いのみわざ、いやしのみわざを継承しているのです。それによって、主イエスが罪と死とに勝利しておられ、すべての悪しき霊やサタンの力に勝利しておられ、今もなお使徒たちと共に働いておられることを実証しているのです。十字架につけられ、三日目に復活され、天に昇られた主イエスが、いつも、永遠に、弟子たちと共に、信仰者たちと共にいてくださり、また信仰者たちをお用いになって、ご自身の救いのみわざをなし続けてくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにもあなたのみ言葉の力を信じさせてください。主イエス・キリストの福音がすべての人の罪をゆるし、死と滅びから救い出し、朽ちることのない永遠の命を与えることを信じさせてください。そして、わたしたちもまた主イエスの福音の証し人としてお仕えする者としてください。

〇天の神よ、暗闇をさまよい、生きる希望を失っている人たちにあなたが天からまことの光で照らしてください。飢え渇き、死に瀕している人たちに、きょうのパンとあなたの命のみ言葉とをお与えください。朽ち果てるものを追い求め、むなしい日々に明け暮れている人たちを、あなたの真理と救いの道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月31日説教「神の永遠の計画にしたがい」

2021年10月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    テモテへの手紙二1章8~14節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の2番目の文章、「主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、人類の罪のために十字架にかかり……」、きょうはその冒頭の「神の永遠の計画にしたがい」という告白について、聖書のみ言葉に導かれて学んでいきます。

 「神の永遠の計画にしたがい」という言葉は、1890年(明治23年)の旧『日本基督教会信仰告白』にはありませんでした。1953年(昭和28年)に制定された(新)『日本キリスト教会信仰の告白』になってから追加されました。すでに学んだように、最初の文章の「我らが神と崇むる」が「主とあがめる」に変更されたこと、その次の「真の神であり、真の人」が追加されたこと、そして今回の「神の永遠の計画にしたがい」が追加されたこと、これらが1951年に新しい日本キリスト教会を建設しようと立ち上がったわたしたちの先輩たちが目指した神学や教会形成の大きな特徴となっているのです。

 第一の特徴である「主告白」は、主イエス・キリストだけがわたしたちが主と告白して礼拝すべき唯一の主であり、この主キリスト以外には、わたし自身にとっても、この国においても、全世界のどこにも、主と言われうるものは何一つ存在しない。これが、戦争に協力し、アジアの諸国への侵略をゆるした戦時中の教会の過ちから、先輩たちが悔い改めをもって学んだ第一のことでした。「真の神であり、真の人」という告白も、主イエス・キリストだけが神と人との間の唯一の仲保者であり、わたしたちの救いを完全に成し遂げてくださる唯一の救い主であるゆえに、主イエス・キリスト以外の他の何ものにも救いを求めないという、強く、毅然とした信仰を強調しています。そして、主イエス・キリストのすべての救いのみわざは「神の永遠の計画にしたがい」なされた救いのみわざであり、わたしの生涯も全世界の歴史も、すべてがこの「神の永遠の計画にしたがい」、神の永遠の摂理のもとにあると告白すること。これが、わたしたちの教会の信仰と神学の大きな特色なのです。

 では、この2番目の文章の主語は何であるかを確認しておきましょう。言うまでもなく、それは「主」です。最初の文章も2番目の文章も、主語は同じ主イエス・キリストです。主イエス・キリストは『日本キリスト教会信仰の告白』全体の主語であり、この信仰告白のもとになっている聖書全体の主語であということは言うまでもありません。それだけでなく、主イエス・キリストは教会の歩み、世界の歴史の歩み、またわたしたち一人ひとりの信仰の歩み、わたしの人生の歩みにおいても、常に唯一の主語であられます。

 ここでもう一つ確認しておきたいことは、「神の永遠の計画にしたがい」はどこに続くのかということです。すぐ後の「人となって」か、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」までか、あるいはこの文章の終わりの「執り成してくださいます」までかかるのかということですが、ここで告白されている内容から考えて、文章の終わりまでのすべてにかかるとするのがよいであろうと思います。つまり、主イエス・キリストのこの世への到来・誕生から始まって、その全ご生涯・ご受難と十字架の死・復活のすべてが、父なる神の永遠の救いのご計画に基づいている。それだけでなく、主イエス・キリストの昇天、神の右に座しておられること、終わりの日に再び来られ、神の国を完成されることに至るまで、主イエス・キリストの救いのみわざのすべてが父なる神の永遠なるご計画によるのであり、主イエスご自身はその神の永遠なる救いのご計画にしたがって歩まれたことが、ここでは告白されているのです。

 では、「神の永遠の計画にしたがい」を、「永遠の」と「神の計画」と「したがい」の3つに分けて、それぞれの言葉で告白されている内容を学んでいきましょう。最初に「したがい」を取り上げます。一般的な意味としては、「~によって」「~のままに」「~に導かれて」という意味として理解することもできますが、もっと積極的な意味で、主イエスご自身の父なる神への服従の意志、服従の行為を読み取るのが良いように思われます。主イエスは神の救いのご計画とその救いの道を無意識に歩まれたのではありません。主イエスの誕生から死に至るまでのすべての道において、主イエスは徹底して父なる神に服従されました。主イエスの誕生は神の永遠なる救いのご計画によって、その時が満ちて、起こった出来事でした。主イエスの両親となったヨセフとマリアは、「お言葉どおりにこの身になりますように」と告白して神のみ心に服従しました。ガラテヤの信徒への手紙4章4節には、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と書かれています。

 主イエスはまた、ご受難と十字架の死の道を運命とあきらめて進まれたのではなく、無理やりだれかに強制されたのでもなく、主イエスご自身が父なる神のみ心を尋ね求めつつ、そのご意志に喜んで服従されたのでした。フィリピの信徒への手紙2章6~8節にはこのように書かれています。【6~8節】(363ページ)。

 主イエス・キリストは「神の永遠の計画にしたがい」、服従の道を歩まれ、それによって神の律法を全うされ、わたしたち罪びとのための救いのみわざを成就されたのです。わたしたちの救いは徹底してこの主イエス・キリストにかかっています。主イエス・キリストを信じる信仰にかかっています。

 次に、「永遠の」という言葉を取り上げます。永遠とは、まず第一に、神ご自身のことを意味しています。神は永遠なる存在です。神以外のすべては、神によって創られた被造物であって、それらは時間と空間の双方で限界を定められています。ただ神だけが唯一永遠であり、神の計画も永遠です。

 永遠とは、聖書の中では、時がいつまでも続くという意味だけでなく、少しわかりづらい言い方ですが、永遠の過去、永遠の未来という意味を持っています。人間の概念によれば、神が天地万物と人間を創造されたときから時が始まるのですが、しかし神はそれ以前にも、永遠の過去にわたって神であられ、神として存在しておられたのであり、救いのご計画を立てておられたということであり、また永遠の未来とは、単に今の時がいつまでも続くということではなく、来るべき世、今の世とは全く違った新しい世、つまり神の国が完成する時まで続く未来を意味しています。

 たとえば、聖書で永遠の命という場合には、今のわたしの命がいつまでも継続するということではありません。今のこのわたしの命は、時に肉体が病んだり、心が痛んだり、不安になったり、悩んだり、迷ったりを繰り返す命であり、日々罪を重ねていく命です。それがいつまでも続くのだとしたら、わたしにとって喜びであるよりは苦痛であると言えるでしょう。しかし、聖書が語る永遠の命、主イエス・キリストがわたしたちに約束しておられる永遠の命とは、ヨハネの黙示録21章のみ言葉によれば、神がいつでも永遠にわたしと共にいてくださる命であり、わたしの目から涙を全くぬぐい取り、もはや死もなく、悲しみも痛みも叫びもなく、全く新しくされた命、来るべき神の国に属する命のことなのです。

 永遠という言葉の中には、不変という意味も含まれます。神は永遠であり、不変なる方であられ、神のみ心、救いのご計画もまた永遠、不変です。たとえ、世界がどのように移り変わろうとも、人間の心がどのように変化しようとも、神は同じ神であられ、その救いのご計画を変更することなく進められます。天地万物と人間を創造された神が、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、イスラエルの民を選ばれた神であり、主イエス・キリストの父なる神であり、教会を支配され、導かれる神であり、わたしたちひとり一人を愛し、罪から救い、神の国の民とされる、唯一の永遠なる神なのです。

 最後に、「神の計画」ですが、1953年に制定された告白では「神の経綸」という言葉でしたが、「経綸」が一般的でないということから、2007年に制定された口語文では「計画」に言い換えられました。経綸の方がより深い意味を持っていますので、その方が良かったのではという個人的な意見はあります。計画よりは、摂理とか、配済という言葉がその内容を言い表していると思われます。

神の経綸、神の摂理、神の配剤とは、一つ一つの出来事に対して、一つ一つの事柄に対して、また一人一人の存在や歩み、動き、生と死に対して、すべてに対して、神は最も良き時とよき道を備えてくださり、すべてのことが相働いて益となり、神の栄光を表す最終の目的に向かうようにしておられるということを意味します。テモテへの手紙二1章9~10節にはこのように書かれています。【9~10節】(391ページ)。もう一か所を読んでみましょう。【エフェソの信徒への手紙1章7~12節】(352ページ)。神はご自身の永遠の経綸、摂理、配済を、わたしたち罪びとの救いのためにこそ、最も力強く、全力を込めて実行してくださったのです。

 ちなみに、「経綸」という言葉は『口語訳聖書』には用いられていませんでしたが、『新共同訳聖書』には二度、ヨブ記38章2節と42章3節で用いられています。38章2節では、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。42章3節では、「神の経綸を隠そうとするとは」とあります。ヨブ記の翻訳に携わった林嗣夫先生から直接に伺ったところによると、先生自身が「経綸」という言葉にこだわってこの翻訳を主張したということです。林先生が亡くなられた後になって、『信仰告白』の中の「経綸」が「計画」に変えられるということは、かの先生も予測していなかったでしょう。

 ではここで、「神の永遠の計画にしたがい」と告白することの意味を二つにまとめてみましょう。一つには、ここでは神の救いのご計画の確かさ、その保証が与えられているということです。神がわたしたち人間を愛され、救われるということは永遠の昔から、天地創造の前から、神の永遠なる決意と決定によって定められていたことであり、それは永遠に不変であり、確かであるという保証がここにあるのです。神ご自身が、いわばその全存在をかけて、わたしたちの救いを保証してくださるのです。

二つには人間の側の条件とか、人間の功績や働きというものが、一切排除されている、それは必要ないということです。神が、ただ神のみが、わたしたちの救いに必要なすべてのみわざをなしてくださるのであり、人間のわざや能力には全く無関係に、神ご自身の一方的な愛と恵みの選びによってすべての人は救われるのです。もし、救いが人間の側の条件によって左右されるというのであれば、わたしたちは自分が救われているかどうかを絶えず疑わなければならないでしょう。しかし、そうではありません。わたしたちはただ「神の永遠の計画にしたがい」をそのまま信じ、それにわが身を委ね、従うのみです。また、そうすることこそがわたしたちの永遠で確かな救いなのです。それによって、わたしたちは神の栄光に向かって前進していくのです。

(執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めからわたしたちを選ばれ、主イエス・キリストによる救いの道へと招きいれてくださいました。どうか、すべての人たちがこの救いの道へと導きいれられますように。そして、あなたの永遠の救

10月24日説教「異邦人の信仰」

2021年10月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    ルカによる福音書7章1~10節

説教題:「異邦人の信仰」

 主イエスは平地での説教を終えると、ルカによる福音書7章1節で再びカファルナウムに戻られました。4章38節によれば、弟子のシモン・ペトロの家がこの町にあり、主イエスはこのペトロの家を宿にしてガリラヤ伝道をしておられたと推測されています。

カファルナウムはガリラヤ湖の北西海岸にあり、東西に延びる交通の要所としてかなり繫栄した町でした。この町には収税所があり、またガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの守備隊の駐屯地がありました。きょうの個所に出てくる百人隊長は、ローマの駐留軍兵士であるよりは、ヘロデの守備隊の兵士百人を率いる小隊長と考えられますが、いずれにしても彼はイスラエルの民・ユダヤ人ではなく、ローマ人かシリア人であり、異邦人であったことは確かです。この異邦人である百人隊長の部下が死ぬほどの重い病気であったのを、主イエスは離れた場所から、いわば遠隔治療によって、いやされたという奇跡がここには描かれています。

福音書の中でユダヤ人以外の異邦人が主イエスの救いにあずかったという例はごく少ししか記録されていません。きょうのカファルナウムの百人隊長の部下の場合と、マタイ福音書15章21節以下のカナンの婦人の娘が悪霊から解放された例、その他数例しか見られません。主イエスの地上のご生涯では、宣教の対象はほとんどユダヤ人に限られていました。主イエスご自身、マタイ福音書15章24節で、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。というのは、神はイスラエルを全世界の中から最初にお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。神の愛はこの選ばれた民に集中的に注がれます。主イエスの救いもこの民に集中して行われます。神の愛は選びの愛です。契約の愛です。神はひとたびお選びになった民を決してお見捨てにはならず、最後までその契約を守られ、その愛を貫かれます。

主イエスの救いがユダヤ人から異邦人へ、全人類へと拡大されるのは、主の十字架と復活、聖霊降臨以後です。その時になって、神が最初にイスラエルの民を選ばれ、愛されたのと同じように、全世界のすべての民をお選びになり、すべての人を救いへとお招きになりました。これが、神が主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結ばれた新しい契約です。イスラエルの民を愛された神の愛は今や全人類とすべての人々に注がれています。神が最初にイスラエルをお選びになったのは、後にユダヤ人以外の異邦人の選びの先駆けとなりしるしとなるためであったのです。先に選ばれたイスラエルは、自分たちが神に選ばれる値打ちなど全くなかったにもかかわらず、神の恵みと憐れみとによって、他の国々に先立って選ばれたことを感謝し、またそのことを全世界に向かって証しする務めを授かっていたのです。

わたしたち一人一人が、きょうこの礼拝堂に集められ、先に選ばれた者たちとして神の恵みのみ言葉を聞かされているのも、同じ事情によります。わたしはわたし一人の救いのためにだけ礼拝しているのではありません。わたしの家族、友人、同僚、この地域、この国、そして全世界のすべての人々の救いのために、その先駆けとして選ばれ、ここに集められているのです。そのことの証人として、わたしたちは今ここに立っているのです。

さて、きょうのカファルナウムの百卒長の部下のいやしの奇跡は、主イエスの愛と救いの恵みが、やがて先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人から異邦人へ、全世界の民へと拡大されていくことをあらかじめ予告している出来事であるということにわたしたちは気づかされます。

【2~3節】。当時、ユダヤ人と異邦人との間には越えがたい壁があって、異邦人がユダヤ人に頼みごとをするとか、あるいはユダヤ人が異邦人の家を訪問するということは、普通ではあり得ませんでした。ユダヤ人は自ら選ばれた民であることを誇り、ユダヤ人以外の異邦人は神の律法を知らない汚れた民であると言い、また異邦人にとってはそのようなユダヤ人の意識は思い上がった選民思想であると映りました。

でも、ここでは普通ではあり得ないことが起こっています。異邦人である百人隊長がユダヤ人である主イエスに頼みごとをし、ユダヤ人である主イエスが異邦人である百人隊長の家に出かけようとしておられます。なぜでしょうか。まずその理由を考えてみましょう。百人隊長の有力な部下の一人が病気で死にかかっていたと2節に書かれています。彼にはある程度の社会的地位があり、権力を持ち、また財産もあったでしょう。それらを用いて自分の意のままに事をなすことができました。けれども今、自分の力や持ち物によってはどうすることもできない困難な事態に直面しています。愛する者の重い病気と死の危機です。人間の死という現実に、彼は今直面しているのです。そして、死の前では彼が持っている地位や、権力、財産のすべてをもってしても、全く無力であることを彼は知るのです。彼は死の前で打ちのめされてしまいます。その時、彼は民族の壁を乗り越えて、社会的な壁や心の壁を乗り越えて、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスに助けを求めるほかないことを悟るのです。

ここで普通ではないことが起こっている第二の理由は、本来はこれが第一の理由となるべきですが、主イエスこそが人間の死というこの困難な事態を解決できると百人隊長が信じたからです。4~5節で、百人隊長の依頼によって主イエスのもとを訪れたユダヤ人の長老たちが言っているように、この百人隊長は異邦人でありながら、ユダヤ人の信仰には深い理解を示し、会堂を建てるために援助までしています。もしかしたら、その会堂で主イエスの説教を何度か聞いたことがあったのかもしれません。そして、この主イエスこそが旧約聖書で預言されているメシア・救い主であり、異邦人の自分をも顧みてくださり、自分の願いをお聞きくださり、部下の重い病気をいやし、彼を死から救ってくれることができるという信仰をこの百人隊長に芽生えさせたと推測できます。百人隊長のこの信仰が民族的な壁やその他のすべての壁を乗り越えさせたと考えられます。と言うよりは、神が今この時、時満ちて、約束のメシア・主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、主イエスとこの異邦人との出会いの時をお定めになったのだと言うべきでしょう。そして、主イエスご自身が百人隊長にそのような信仰をお与えになったのです。

もう一つの理由を付け加えるならば、百人隊長の徹底したへりくだり、謙虚さが、主イエスと異邦人である彼との壁を乗り越えさせたと言えます。彼は主イエスが自分の家に向かっておられる途中に友達を送ってこのように言わせています。【6~8節】。この世である程度の地位や権力、また財産を持つ人は、時としてそれを誇ったり、傲慢になったりするものです。この百人隊長は軍隊の小隊長であり、背後には領主ヘロデ・アンティパスがついています。一般の民衆に対しては絶対的な権力を持っています。また、彼はユダヤ人のために大金を出して会堂を建ててやったという功績もあります。自分はユダヤ人のためにこれだけのことをしてやったのだから、困っている時にユダヤ人に助けてもらって当然だと言ってもおかしくはありません。

けれども、彼は主イエスのみ前にひれ伏し、徹底的に謙遜になり、自分は主イエスを家に迎え入れる資格がない者だと告白しています。

この百人隊長の謙遜な告白と当時のユダヤ人、その中でも自ら選ばれた特別な存在であると誇っていたファリサイ派や律法学者たちの傲慢とを比べてみてください。彼らユダヤ人たちは異邦人は神を知らぬ滅ぶべき民だとし、自分たちにはエルサレムと神殿があり、神の守りがあると自慢しながら、主イエスを救い主として受け入れることを拒んだのでした。そしてついには、ユダヤ人たちは主イエスを偽りの預言者、神を冒涜する者、社会秩序を乱す者として裁判にかけ、十字架刑にしたのでした。主イエスは9節で、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言っておられます。ここでは、異邦人の信仰が称賛されていると同時に、神に選ばれた民であるイスラエル・ユダヤ人の不信仰と不従順が裁かれているのです。

それに対して、この異邦人である百人隊長は自分が主イエスをお迎えするにふさわしくない者であると自覚しながら、ただ主イエスの憐みに寄りすがるほかないことを告白しています。主イエスのみ前に自らへりくだり、謙遜になった時、彼は主イエスのみ言葉の権威と力とを信じることができたのです。そして、「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願います。

宗教改革者カルヴァンは、「僕の病気がいやされるよりも前に、この百人隊長自身がいやされ、救われているのだ」と言っています。実際、この出来事の中では、部下である兵士のことやその病気の内容についてはほとんど関心が払われてはいませんし、その病気がいやされたということも主なテーマになってはいません。「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」。異邦人である百人隊長のこの信仰と、その信仰を受け入れ、彼の願いをお聞きになった主イエスのみ言葉の権威と力がテーマです。

この異邦人の百人隊長は部下がいやされる奇跡を見て、主イエスを信じたのではありません。まだそれを見る前に、彼の部下が死に瀕していたそのただ中で、死の病から救い出してくださる主イエスのみ言葉に、彼の祈りと希望のすべてをかけて信じたのです。死という厳しい現実の中で、その現実を打ち破って、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す主イエスのみ言葉の権威と力とに、彼の存在のすべてをかけたのです。その時、彼は救われ、彼の部下はいやされました。

創世記1章3節に、「神は言われた。『光りあれ』。こうして、光があった」と書かれています。また、詩編103編3節以下にはこのように書かれています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。そして、イザヤ書55章11節では、「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われています。主イエスがお語りになるみ言葉は同じように権威と力を持ち、恵みと命に満ちたみ言葉です。異邦人の百人隊長はこの主イエスのみ言葉を信じたのです。

ルカ福音書に戻って、10節に「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」と書かれています。主イエスのこのいやしの奇跡は遠隔治癒と言われます。主イエスが直接に病人と対面したり、その体に触れることをしないで、離れた所でいやされるという奇跡は、このほかにはマタイ福音書15章21節以下に書かれているカナンの婦人の娘のいやしがあります。興味深いことに、いずれも異邦人の信仰がテーマになっています。

ただ、主イエスのみ言葉を聞き、それを信じるという信仰、これがわたしたちの信仰です。主イエスのみ言葉以外にどんな保証やしるしをも求めず、主イエスのゆるしといやしのみ言葉にわたしの祈りと希望のすべてを委ねる信仰、そのような信仰があるところに、主イエスはゆるしといやしの奇跡を起こしてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの全能のみ力を信じさせてください。主イエスのみ言葉の恵みと命とを信じさせてください。あなたのみ心が地にも行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月17日説教「約束の子イサクの誕生」

2021年10月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記21章1~8節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「約束の子イサクの誕生」

 創世記12章から始まった族長アブラハムの歩みについて続けて読んできましたが、きょうの個所でその時に与えられた神の約束の一つがようやくにして成就するというみ言葉を読みます。【21章1~2節】。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉、すなわち、「あなたの子孫が地に増え、世界中の民の祝福の源となるであろう」という約束を聞いてからおよそ25年を経て、彼が百歳になってようやくその約束が実現されます。信仰の父アブラハムの25年の歩みは、神の約束の地で、神の約束のみ言葉の成就を待ち望む歩みでした。

けれども、わたしたちがこれまで学んできたように、その歩みは、挫折と疑いと失敗の歩みでもありました。いやそれ以上に、神が忍耐と愛とをもって、アブラハムから離れることなく、彼との契約を守り続け、導き続けてこられたという、神の救いの歴史であったのだということを、わたしたちは聞いてきました。

 そこで、きょう朗読された個所に入る前に、なお少しの間、神の約束の成就に至るまでの途中の道のりについて振り返ってみたいと思います。連続して聖書のテキストを取り挙げてきましたが、20章を読み忘れたことに気づいておられる人がいるかもしれません。20章は重要なテキストではないから省略したということではありません。この章全体のテーマはすでに学んだ12章10~20節と非常によく似ています。12章では、アブラハムは飢饉で食料が無くなったので、エジプトに下り、その時に妻のサラを自分の妹だと偽ってエジプトの宮廷に召し入れられるように計らったということが書かれていました。20章では、アブラハムはゲラルに移住した時に、妻サラを自分の妹だと偽って、ゲラルの王アビメレクに召し入れられることになったという、同じような内容が描かれています。一部の学者は、本来一つの出来事が二つの多少違ったかたちで伝承されたのではないかと考えています。アブラハムが同じような過ちを繰り返すはずがないという、彼を擁護したい意図もそこにはあるように思われますが、わたしたちはむしろアブラハムが同じような過ちを繰り返したにもかかわらず、神の契約は変わらなかったと理解したいと思います。

 では、12章と20章のアブラハムの過ち、失敗を二つのポイントにまとめて振り返ってみましょう。第一点は、アブラハムが神の約束の地を捨てたということです。神は「この地をあなたとあなたの子孫とに受け継がせる」と約束されて、アブラハムをカナンの地へと導き入れました。しかし、彼は飢饉の時に食料を求めてエジプトに移住しました。自分と家族を養うためとはいえ、神の約束の地を捨てるということは、パンだけで生きるのではなく、神のみ言葉を聞いて生きるべきである信仰者としては失敗だと言うべきです。

20章でゲラルの地へ移住した理由は具体的には書かれていませんが、ここでも約束のカナンを捨てています。ゲラルはパレスチナ地方の南部に位置し、そこでは王国が形成され、16節によれば貨幣制度があり、富み栄えていた都市であったと推測されますが、神の約束の地の外であることには間違いありません。アブラハムは先にエジプトに移住した時と全く同じ失敗をここでも繰り返しています。

 第二点は、妻のサラを妹だと偽って地元の人に紹介したことです。古代社会では、異国の地での法的な保護はほとんど期待できず、他の国からやって来た男が美しい奥さんを連れているのを見たらその夫を殺してでも自分のものにしようとすることがよく行われていたということです。アブラハムは自分の命を救うために、妻を妹だと偽って、エジプトでもこのゲラルの地でも、サラは王宮に召し入れられることになりました。

しかし、これには重大な過ちがありました。一つには、アブラハムは妻との夫婦の関係を投げ捨てたということです。自分の身を守るために、妻への愛と信頼を裏切ったのです。しかし、それ以上に深刻な過ちは、それによって神の約束をも投げ捨てたことになります。「あなたの子孫を星の数ほどに増やす」という神の約束は、アブラハムとサラ夫妻に与えられた約束でした。二人で共にこの約束を担っていかなければならなかったのに、アブラハムはそれを放棄したのです。それは神への不従順であり罪です。アブラハムはエジプトでもこのゲラルの地でも、同じ過ち、同じ罪を繰り返しているのです。

 しかしながら、今回もまた、決定的な場面で神が介入され、アブラハムとサラを危機から救い出されました。神は夢の中でアビメレクに現れ、彼がサラに触れないようにされました。神はアブラハムとサラに対する契約を守られました。そして、17~18節にこのように書かれています。【17~18節】。アブラハムは異教の王アビメレクとその国のために執り成しの祈りをする者に変えられています。そして、ここでもう一つ教えられていることは、神がすべての婦人たちの胎を閉ざすことも開くこともなさる権限を持っておられるということ、すなわち、子どもを与え、新しい命を生み出すのはただ神のみがなさるということがここで教えられているのです。そして、次の21章で、それまで子どもが与えられなかったサラに神の約束の子が与えられるという神の奇跡と恵みが語られていくことになるのです。

 21章1節に、「主は、約束されたとおりサラを顧み」と書かれています。長い間サラの胎を閉ざしておられたのが神であるならば、定められた時、神が良しとされた時に、サラの胎を開かれるのも神です。約束されたのが神であるならば、約束を成就し、実現されるのも神です。この神を信じ、この神のみ言葉を信じ続ける信仰者は幸いです。エジプトとゲラルでのアブラハムの失敗にもかかわらず、それだけでな、たびたびのアブラハムの疑いや迷いや不信仰にもかかわらず、神の真実と憐れみは絶えることなく、アブラハムとの契約は廃棄されませんでした。たとえ、罪と失敗を繰り返すほかにないとしても、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。その人は神の顧みを受けるからです。

 「顧みる」という言葉は本来「訪れる」という意味です。18章10節では、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ます」の「来る」と訳され、14節では、「来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る」の「戻って来る」と訳されているのが同じ言葉です。アブラハムとサラに約束のみ言葉をお語りになった神は、その約束を成就されるために彼らのもとへとやって来られます。創世記12章で二人が最初に神の約束を聞いてから25年の時が過ぎていました。彼らはたびたび神の約束のみ言葉を疑い、忘れることがありましたが、神は決して彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らの不信仰と不従順とを超えて、また人間的な不可能を超えて、神の約束は成就の時を迎えます。11章30節によれば、サラは不妊の女で、子どもができない体質であったにもかかわらず、そしてアブラハムが百歳、サラが90歳という高齢になったにもかかわらず、神の奇跡によって、神の恵みによって、彼らに男の子が与えられたのです。神の約束の子の誕生です。それは、アブラハムとサラの家庭にとっての神の約束の成就であっただけでなく、アブラハム以後のすべての信仰者に対する神の約束の成就でもありました。この子によって、アブラハムに与えられた神の祝福がのちのすべての信仰者へと受け継がれていくからです。

 「顧みる」「訪れる」という言葉を聞くと、わたしたちは主イエスが天に昇られた時のことを思い起こします。使徒言行録1章11節にはこのように書かれています。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。十字架につけられ、復活され、天に昇られた主イエスは、終わりの日に、再びこの地上に戻って来られます。そして、わたしたちの信仰を完成され、わたしたちをみ国へと招き入れてくださいます。再びおいでになる主イエスを待ち望むわたしたちの待望は決して空しく終わることはありません。主イエスはこの地を顧みてくださり、再び訪れてくださいます。

 1節に「主は、約束されたとおり」「さきに語られたとおり」、そして2節では「神が約束されていた時期」と、神の約束が確かであり、神のみ言葉が必ず実現するということが何度も強調されています。たとえ、人間の側の疑いや不信仰がどれだけ繰り返されようが、たとえ人間の側の可能性が限りなくゼロに近くなろうとも、神は無から有を呼び出し、死から命を生み出すようにして、ご自身の救いのご計画を実現なさいます。わたしたち人間は「主よ、いつまでですか。いつまで待たなければならないのですか。いつまでこの苦悩は続くのですか」と嘆いている間にも、神はご自身の救いのみわざを確実に前進させておられます。そのことを信じつつ、成就の時を待ち続ける信仰者は幸いです。

 【3~5節】。生まれた子に名前を付けるのは一般に父親の役割でした。けれども、この場合は、すでに神によってその名前が決定されていました。【17章19節】(22ページ)。洗礼者ヨハネの場合も、主イエスの場合も同じでした。神の約束によって与えられた子どもは、神からの特別な使命を託されています。そのことをあらかじめ明らかにするために、神はその子が生まれる前からその子にふさわしい名前を備えておられます。ヨハネ=神は恵み深い、イエス=神は救われる、イサク=彼は笑う、神の約束の子はそれぞれの特別な務めを神から与えられています。そして、神がその子をお用いになって、神ご自身がそのことをなしてくださるという保証のために、神はあらかじめその子の名前をお決めになるのです。

 では、イサク=彼は笑うという名前にはどのような務め、使命が託されているのでしょうか。【6~8節】。百歳と90歳の年老いた夫婦に神の奇跡によって男の子が与えられた。それは何という大きな恵みであることか、何という大きな喜びであることでしょうか。そのことを体験した老夫婦に心からの笑いがあふれ、そのことを聞いた人々にも心からの笑いが広がっていきます。そのようにしてすべての人々に心からの笑いをお与えくださる主なる神をほめたたえる感謝の歌が世界中に響き渡ります。そのために神はこの成就の時を定め、イサクと名付けられる一人の男の子を誕生させられたのです。

 したがってこの笑いは天の神から与えられた笑いであり、この世にあるもろもろの笑いよりもはるかに大きく、はるかに高く、力強く、そして永遠に変わることがない笑いであり、喜びです。それだけでなく、この世にある憂いや悲しみや憎しみ、怒り、あるいは疑いや不信仰をもはるかに超えて、それらのすべてを笑いに変える力を持っています。

 そのことと関連して、思い起こすことがあります。かつてアブラハムもサラも神から男の子の誕生を予告された時に、それが信じられないので笑ったということが17章17節と18章12節に書かれていました。【17章17節】(22ページ)。【18章12~15節】(23ページ)。アブラハムとサラのこの笑いは、不信仰から来る疑いの笑い、神をあざける笑いでした。しかし今、この不信仰の笑いは確かに信仰による笑いに変えられています。神は不可能を可能に変えてくださいます。疑いや不信仰をも心からの信頼と確信と喜びに変えてくださいます。この神を信じ、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの中からすべての疑いや迷いを取り去り、憂いや悲しみ不安に変えて心からの笑いと喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月10日説教「神を欺く罪」

2021年10月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記20章1~13節

    使徒言行録5章1~11節

説教題:「神を欺く罪」

 紀元30年ころのペンテコステの日に誕生した世界最初の教会、エルサレム教会の生き生きとした宣教活動と目覚ましい成長について、使徒言行録2章から詳しく記録されています。これは、エルサレム教会に大迫害が起こって、教会員の多くがエルサレムから追放されることになった8章3節まで続いています。

この中で特に強調されているエルサレム教会の特徴を、きょうの説教のテキストととの関連で二つ挙げます。一つは聖霊なる神のお働きです。主イエスの十字架の死のあと、指導者を失った失意とユダヤ人からの攻撃の恐怖の中で絶望していた弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らは大きな力を与えられて大胆に神のみ言葉を語りだし、主イエスの復活の証人として立ち上がりました。最初に経験した迫害の中で、捕らえられ、法廷に立たされたペトロは、聖霊に満たされて、エルサレムの指導者たちの前でも恐れることなく、主イエスの復活を語りました。聖霊はエルサレム教会の命と力の源であったということを、わたしたちは確認してきました。これは使徒言行録全体に貫かれている特徴です。

 第二には、教会の一致と教会員の交わりの強さ、深さが強調されていました。この一致と交わりは、彼らの心と思い、行動のすべてにまで及んでおり、それが、財産の共有というかたちで具体化されていました。そのことが、2章44節以下と4章32節以下に報告されており、またその具体例として、4章32節以下のバルナバの行動と、きょうの礼拝で朗読された5章1節以下のアナニアとサフィラ夫妻の行動として紹介されています。初代エルサレム教会の一致と交わりがどのようなものであったのか、それは今日のわたしたちの教会に何を教えているのかについて、学んでいきたいと思います。

 まず、バルナバの例ですが、これは教会の一致と交わりの理想的な姿の例として紹介されています。バルナバとは「慰めの子」という意味を持つ名前であるということが4章36節に紹介されています。彼の本名はヨセフでしたが、使徒たちからはそう呼ばれていました。彼の名前は11章22節以下と13章1節以下に再び出てきます。バルナバはエルサレム教会とのちにはアンティオキア教会で、主キリストの教会のためによき働きをし、多くの人々に仕え、多くの人々に慰めを与えていたので、そのように呼ばれていたと推測されます。あるいは、それ以上に、彼自身が主なる神からの大きな慰めを与えられていたからかもしれません。

 そのバルナバが自分の所有していた畑を売って、その代金を使徒たちの足元に置きました。「足元に置く」とは、その代金を教会にささげたこと、また使徒たちがそのお金を管理していたことを言い表しています。使徒たちはそれを教会の貧しい人たちに配分していました。のちにこの務めは、6章で選ばれた7人の執事たちが引き継ぐようになります。

 このように、エルサレム教会ではすべての教会員が持ち物のすべてを共有にし、教会員が自由に自分の土地や財産を売却してその代金を教会にささげていました。また、必要に応じてそれを教会員に配分していました。しかし、それは一つの制度とか規則による強制ではなく、あくまでも信仰の自由による行為であり、各自の献身と愛の行為として行われていました。

 エルサレム教会のこのような財産共有には主に二つの信仰が背景になっていると考えられます。一つは、主イエス・キリストを信じる信仰によってキリスト者は地上の財産を所有する欲望から解放されているからです。主イエスによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれているキリスト者は、地上では旅人であり寄留者であって、この地上のどこにも永住の住まいを持っていません。天におられる父なる神のみもとに、永遠の故郷を持っています。それゆえに、地上のいかなるものにも束縛されることはありません。

 もう一つには、主イエス・キリストを信じる信仰によって、キリスト者は一つの同じ神の恵みによって生かされ、豊かにされているからです。教会の民は神から与えられている救いの恵みによって一つの信仰共同体として結び合わされています。神から与えられているもろもろの恵みは、互いに分かち合うことによって、また他者に惜しみなく与えることによって、いよいよ豊かになっていきます。そして、神の恵みによって豊かにされているキリスト者にとっては、地上の富によって豊かになる必要は全くなくなります。

 次に、5章1節からはアナニアとサフィラ夫妻の例が取り挙げられていますが、これは財産共有の悪い例として、教会の交わりと一致を根本から破壊する例として挙げられています。これまでは理想的な信仰共同体として描かれてきたエルサレム教会に、ここで暗い影が入り込んできます。アナニアとサフィラ夫妻が自分たちの土地を売却し、その代金の一部をごまかして手元に残しておき、これが全部ですと偽り、それによって聖霊を欺き、神を欺いたために、神の裁きを受け、二人とも死の判決を神から受けて死んだということが報告されています。

 使徒言行録の著者であるルカはエルサレム教会の暗い側面であるこの不幸な事件をも率直に報告しているということを、わたしたちはまず注目したいと思います。教会はこの地上に建てられている限り、欠けの多い罪びとたちの集まりであるゆえに、さまざまなあやまちやつまずきを避けることはできません。教会に聖人たちの理想世界を期待するのは正しくありません。しかしまた、教会は主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされていることを信じている罪びとたちの集まりですから、群れの中で起こった過ちやつまずきをどのようにして乗り越えていくべきかについては、この世のもろもろの集団や社会・国家とは全く違った道を神から備えられているのです。わたしたちはこの個所からそのことを読み取っていかなければなりません。

 アナニアという名前は「主なる神は恵み深い」という意味を持ち、またサフィラは「美しい」という意味です。でも、二人はバルナバ「慰めの子」とは違って、その名前に全くふさわしくない行為を行いました。彼らはサタンの道具となって、教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、聖霊なる神と父なる神を欺いたのです。

 3~4節のペトロの言葉から、エルサレム教会の財産共有は定まった制度でも強制でもなく、信仰による自由に根差したものであったということが読み取れます。【3~4節】。ペトロがどのようにしてアナニアが代金の一部だけを持ってきたことを知ったのかについては書かれていません。主イエスがユダの裏切りをあらかじめ見抜いておられたように、ペトロはアナニアの嘘を見抜く霊的な力が与えられていたのだと推測されます。ペトロは言います。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と。財産共有と自由なささげものは、制度でも規則でもなく、信仰による自由によってなされる行為であるゆえに、その行為に意図的な欺きがあるとすれば、それは信仰による自由を侵害することであり、それだけでなく、信仰をお与えくださった神ご自身に対する欺きなのだとペトロは言うのです。ここに、アナニアが犯した罪の重大さがあるのです。

 アナニアが行った悪と罪は、自分の財産をささげなかったことにあるのではなく、売却した代金を渡さなかったことにあるのでもなく、その一部をごまかして、ひそかに自分の手元に残しておき、あたかも全部をささげたかのように装ったという欺瞞的な行為にありました。そのようにして、自分を立派な信仰者に見せようとした偽善的な行為にあったのです。この行為はエルサレム教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、否定するものです。それだけでなく、教会をお立てになり、その命と存在の源である聖霊なる神を欺き、そのお働きを否定するものです。この世の法律や倫理を基準にしているのではなく、神の救いのみわざそのものを破壊し、否定する罪がここでは問われているのです。

それゆえに、彼の行為には神の厳しい裁きが下されます。しかも、直ちに下されます。「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と5節に書かれているとおりです。これは、何と身震いするほどの恐るべき神の裁きであることでしょうか。

妻のサフィラもまた同様の罪によって神の裁きを受けました。7節以下にそのことが書かれています。アナニアとサフィラ夫妻は共に神に仕え主キリストの教会に仕えるべきであったのに、共にサタンに仕え、罪に仕え、神と聖霊とを欺いたために、共に神の裁きを受け、同じ墓に葬られることになりました。

創世記に書かれているように、神が人間アダムを創造された時、ふさわしい助け手としてエバを創造されたのは、二人が共にエデンの園で喜びをもって神のみ言葉に聞き従うためでした。しかし、続けて書かれているように、アダムとエバは共に神のみ言葉に聞き従うのではなく、共に蛇の誘惑の声に聞き従い、共に神に禁じられていた木の実を食べ、罪を犯しました。それによって、二人は共に死すべきものとなりました。アナニアとサフィラはこのアダムとエバの罪を受け継いでいます。そして、直ちに死の判決を受けました。

アナニアの場合は、聖霊を欺き、神を欺いたことが彼の許されざる罪であると言われていましたが、サフィラの場合は、二人で示し合わせて、主の霊を試したことが彼らの罪であると9節で言われています。教会は聖霊によって誕生し、聖霊によって生き、聖霊によって導かれています。その聖霊を欺き、そのお働きを否定することは教会の死を招くことになります。神はそれをお許しになりません。

11節に、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と書かれています。5節でも「このことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と書かれていました。この出来事が教会とその周辺の人々に大きな恐れを与えたことが強調されています。この恐れとは、聖書全体に共通している特別な恐れのことです。それは、天におられる神が地上の出来事の中に入り込んでこられ、その出来事に決定的な変化や変革を生じさせ、人間がだれも抵抗することができないような圧倒的な神の力と権威と威厳とが明らかにされる時に感じる恐れのことです。

このことと関連して、11節でもう一つ注目したい点は、ここで初めて「教会」(エクレーシア)という言葉が用いられているということです。2章に書かれていたように、ペンテコステの日にすでに教会は誕生していましたが、使徒言行録の著者ルカはこの個所に至るまで、教会という言葉をあえて用いなかったのではないかと推測できます。このあと、教会という言葉は23回も用いられているということからも、ここで初めて教会という言葉が用いられたことの意味を考えることができるのではないでしょうか。つまり、アナニアとサフィラ夫妻の出来事を通して、その時に生じた神への大きな恐れによって、教会は本当の意味で教会となったのだと著者は言っているのではないでしょうか。言葉を換えれば、教会とは神を恐れるべきことを知っている、事実、神を恐れている人たちの群れであるということです。教会は迫害をもこの世のいかなる権力をも、時に襲い来る災いや災害をも、決して恐れることはありません。なぜならば、教会はただお一人、人間の生と死とをご支配しておられる神を、最後の審判者であられ、信じる者たちと不信仰な者たちとを最終的にお裁きになる神をのみ恐れ、この神のみ前で忠実な僕であろうとする信仰者たちの群れ、それが主キリストの教会であるからです。わたしたちの教会も、神を恐れる信仰者の群れでありたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天におられる主なる神よ、わたしたちをすべての恐れから解放し、ただあなたのみを恐れる者としてください。あなたのもとにこそ、真実の平安があり慰めがあり、また希望があることを固く信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月3日説教「真の神であり、真の人」

2021年10月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~10節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「真の神であり、真の人」③

 『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭の文章、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」、この個所の「まことの神であり、まことの人」について、これまで2回にわたって学んできました。きょうは3回目です。この一句に、これだけの時間をかけて学ぶ理由は、それだけこれが重要な告白であるからです。わたしたちが救い主であると信じている主イエス・キリストは、永遠に、まことの神、完全なる神であり、また同時に、永遠に、まことの人、完全な人であられる。そのようなまことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちの罪を、一回の十字架の死によって、完全に、永遠に、贖うことができ、わたしたちのすべての罪をゆるすことができ、また、わたしたちに復活の希望を与えてくださり、わたしたちの死すべき体を朽ちることのない霊の体に変え、神の国での永遠の命の約束をお与えくださる。そのようにして、わたしたちの唯一の、完全な救い主であられる。これがわたしたちキリスト者の信仰の中心だからです。もし、主イエスが、まことの神ではないとか、まことの人ではないということになれば、わたしたちの救いは不完全なものになってしまうからです。

キリスト教会はこれまでの2千年の歴史の中で、主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を確立するために、それを否定する様々な異端的な教えと戦ってきました。「まことの神であり、まことの人」という告白が最初に確立されたのは、紀元451年に小アジアのカルケドンで開催された世界教会会議で決議された『カルケドン信条』においてでありましたが、その後の16世紀、宗教改革の時代、大きな世界戦争を引き起こした20世紀、そして今日わたしたちが生きている21世紀と、いつの時代にも教会はさまざまな異端的な教えと戦い、また教会の外からの多くの誘惑やチャレンジと戦いながら、主イエスはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を貫き通してきました。

近年になってからのいくつかの例を挙げるならば、現在のキリスト教三大異端と言われる統一協会(正式にはは世界平和統一家庭連合)、ものみの塔(エホバの証人とも言います)、それにモルモン教、これらの異端はみな一様に三位一体論を否定し、主イエスがまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を放棄しています。その結果として、主イエス・キリスト以外にも救い主がいるかのように教えています。それらの教派の創立者、教祖やその教えが、主イエス・キリストと聖書以外にも、救いに必要な役割を演じています。

第二次世界大戦のドイツでは、ドイツ第三帝国総督ヒトラーがドイツ国民の救い主として、神のようにあがめられていました。日本でも天皇は現人神とされ、国民は絶対服従を強いられました。その中で、戦時下の教会は主イエスのみが唯一の救い主であり、まことの神、まことの人であるとの信仰告白を貫き通すことができなかったという、大きな破れや欠けを覚えざるを得ません。わたしたちの身近にも、多くの神々と言われるものがあり、わたしたちの心を支配しようとするさまざまな神のような存在にわたしたちは取り囲まれています。

そのような中で、わたしたちが主イエス・キリストがわたしたちの唯一の救い主であり、まことの神、まことの人である。この主イエスにわたしたちの救いのすべてがある。わたしたちの命のすべてがある。わたしたちが生きるべきすべての道が示されていると告白することは、確かに困難な信仰の戦いを必要とします。けれども、長い教会の歴史と伝統を受け継ぎながら、今も生きて働きたもう聖霊なる神のお導きを信じながら、また最後の勝利をお与えくださる主イエス・キリストを仰ぎながら、前進していくことがゆるされているのです。わたしたちが「主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人です」と、正しく告白することこそが、その信仰の戦いを力強く進めていく力になるのです。

前回は、主イエス誕生の記録、それはマタイによる福音書1章とルカによる福音書1、2章に書かれていますが、その中で主イエスが誕生の時から、まことの神であられたことが繰り返して告白されていることを確認しました。主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになりましたが、その命は聖霊によるのであり、そこには人間の営みが全く関与しておらず、100パーセント神のみわざであり、神から生まれた神のみ子であり、まことの神であるということが書かれています。『使徒信条』で「おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。

主イエスが神のみ子であり、神ご自身であるという聖書の教えをさらに挙げていきましょう。第一に、主イエスの説教が神の権威によって語られたということ、預言者や律法学者のようにではなく、権威ある者のように語られたことを多くの人々が驚いたと、マタイ福音書7章28節に書かれています。主イエスがお語りになる言葉は、神のみ言葉そのものでありました。ルカ福音書4章には、主イエスが故郷ナザレの会堂で説教されたときに、イザヤ書のみ言葉を朗読されたあとで、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。主イエスは神のみ言葉を預言したり、またそれを解説されるのではなく、主イエスが神のみ言葉をお語りになるまさにその時に、神のみ言葉を成就され、神の救いのみわざを実行される、神ご自身であられるのです。

第二には、主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。罪をゆるすことは神以外にはできません。罪は神に対するわたしたち人間の不正であり負債であるからです。それをゆるすのは神だけです。主イエスは「娘よ、あなたの罪はゆるされた。安心して行きなさい」と言われ、「子よ、わたしはあなたの罪をゆるす」と言われ、「婦人よ、わたしはあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはもう罪を犯さないように」と言われました。主イエスはまた十字架の上で、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。主イエスの地上の歩みのすべては、そして特に十字架の死は、まことの神として、神の権威とあわれみによって、人間の罪をゆるすための歩みでありました。まことの神である主イエスこそが、また主イエスだけが、わたしたち人間の罪を完全にゆるすことがおできになります。

第三に、主イエスはまた、神の権威によってガリラヤ湖の嵐を静められ、湖の上を歩かれ、多くの病める人をいやされました。不治の病と考えられていた重い皮膚病の人をいやされ、生まれつき目が見えない人の目を開かれ、悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出されました。それらの奇跡のみわざは、主イエスが神の権威によって自然を支配しておられること、神がお造りになったすべての被造物の主であられること、そしてこの世の人間たちを悩ましているすべての悪霊、悪しき力をご自身の支配下に置かれ、新しい神のご支配、神の国を来たらせる神のみ子であられることを証ししています。

第四に、主イエスは十字架の死によって、ご自身が神のみ子としての罪も汚れもない清い血、尊い血を流され、その血をわたしたちすべての人間の罪の贖いのための供え物としておささげになり、それによってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったということです。旧約聖書時代には、エルサレムの神殿で、聖別された動物の血がイスラエルの民の罪を贖うためにささげられていました。しかし、それは人間の血の代用品であるゆえに、不十分な贖いでしかありませんでした。そのために、エルサレムの神殿では毎日繰り返して動物の犠牲がささげられていました。

ただ、神のみ子であられ、まことの神であられる主イエス・キリストの聖なる血だけが、すべての人の罪を永遠に贖う力を持っているのです。まことの神であられる主イエス・キリストの十字架こそがわたしたちの唯一の、そして完全な救いなのです。わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、信じることによって、罪ゆるされ、救われるのです。まことの神であられる主イエス・キリスト以外には、わたしたちの救いはありませんし、どこかほかの場所に、ほかの人に、救いを求める必要もありません。

第五に、主イエスは十字架の死の後、三日目に墓から復活され、そして40日目に天に昇られました。今は父なる神の右に座しておられます。『使徒信条』の中で「全能の父なる神の右に座しておられます」と告白されています。主イエスは罪と死に勝利され、天に凱旋帰国されました。それによって、まことの神であられることを最終的に証しされたのです。主イエスは今もまことの神として、天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちのために執り成しをしておられます。そして、終わりの日に、最後の審判の時には、わたしたちひとり一人の弁護人となって、わたしのかたわらに立ってくださり、わたしを神のみ前で義なる者と認めてくださり、わたしのすべての罪と重荷と労苦とを取り去ってくださり、朽ちることのない永遠の命を与え、神の国へと導いてくださるのです。まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストが最後の日にこの地に再臨され、神の国を完成させてくださることを、わたしたちは希望と喜びとをもって待ち望むのです。

まことの神であられる主イエスは、また同時にまことの人であられます。主イエスがまことの人であられたということも、聖書の至るところで証言されています。主イエスはマリアからお生まれになりました。布でくるまれ、飼い葉おけの中に寝かされました。12歳の時、両親と一緒にエルサレムで過ぎ越しの祭りに参加されました。30歳の時、神の国の福音を宣べ伝えるために家を出られました。それからおよそ3年後、ユダヤ人指導者たちによって裁判にかけられ、十字架で血を流され、死なれ、墓に葬られました。主イエスは誕生から葬りまで、わたしたち人間と全く同じ道を歩まれました。

ヘブライ人への手紙4章15節には、「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と書かれてあり、またペトロの手紙一2章22節では、イザヤ書53章9節のみ言葉を引用して、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とあり、そしてコリントの信徒への手紙二5章21節では、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と教えられています。

神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となってくださったのです。神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となられ、しかもすべての罪びとたちにお仕えくださる僕(しもべ)・奴隷となられて、苦難と十字架の死の道を進まれたのです。それゆえに、まことの神であられ、まことの人であられる主イエス・キリストによって、わたしたちはみな罪ゆるされ、救われるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、愛してくださり、あなたのひとり子の十字架の血によって救ってくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたに愛され、救われているひとり一人として、あなたと隣人とに仕える者となりますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月26日説教「岩の上に家を建てた人」

2021年9月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編118編19~28節

    ルカによる福音書6章43~49節

説教題:「岩の上に家を建てた人」

 ルカによる福音書7章43節~45節の、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実しか結ばないという比喩を、主イエスはいろんな文脈の中で語っておられます。マタイ福音書7章16節以下の「山上の説教」では、偽預言者を見分ける際の基準として語っておられます。偽預言者は人々に好まれ、歓迎される預言を語るが、その心の中では神の真理に仕えるのではなく、自分の誉れや利益を求めていて、羊の皮を身にまとった貪欲な狼であるということを見分けなさいと教えておられます。また、マタイ福音書12章33節以下では、罪と悪に染まっている人間の心の中からは悪い言葉だけしか出てこないということを教える比喩として、悪い木とそれが結ぶ悪い実のことが語られています。きょう学んでいるカ所でも、45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と言っておられますから、心の中から出る言葉について教えているように理解されます。

 そこで、わたしたちはこのカ所をより深く理解するために二カ所の聖書に目を向けてみたいと思います。その一つは、ヨハネ福音書15章のぶどうの木とその枝についての主イエスの説教です。主イエスはそこでこのように教えておられます。「わたしはまことのぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。あなたがたがわたしにつながっておれば、豊かに実を結ぶことができる。わたしにつながっていなければ、あなたがたは自分では何の実をも結ぶことはできない」(1~6節参照)。

 主イエスはここで二つのことを教えておられます。一つは、わたしたち人間はだれもがみな罪に汚れており、その根が腐っており、その枝が枯れていて、自分では少しも実を結ぶことができないということ。もう一つは、わたしたちの救い主であられる主イエスにつながって、主イエスから罪のゆるしの恵みをいただき、主イエスのみ言葉と聖霊とによって新たに再創造される時に初めてわたしたちは豊かな実を結ぶことができるということです。

 参考にしたいもう一カ所は、ローマの信徒への手紙11章17節以下です。使徒パウロはそこで異邦人の救いについて語っています。神に選ばれなかった野生のオリーブの木であった異邦人が、選ばれたオリーブの木であったイスラエルが不信仰のゆえに折り取られてしまったあと、その代わりに接ぎ木されたのであるから、あなたがた異邦人は神の救いにあずかるようになったことを決して誇ることはできないとパウロは言っています。

 これらのカ所を参考に、きょうのルカ福音書7章の主イエスの教えを理解することができます。主イエスはここで、人間はだれもみな悪い実しかつけることができない悪い木であって、その心の中は邪悪と罪で満ちていて、口から出る言葉も、手や足の行動も、悪と罪でしかない。それゆえに、人間は自らの力では良い実をつけることは全くできない。その心の中が完全に洗い清められなければ、良い言葉は出てくることはないし、主キリストに接ぎ木されなければだれも良い実を実らせることはできない。主イエスはそのことを木と実という比喩で語っておられるのです。

 16世紀の宗教改革者たちが言ったように、わたしたち人間は全体が腐敗しており、全的に堕落しており、主イエス・キリストの十字架の死によって古いわたしが完全に葬られ、そして主キリストの復活によってわたしが新しく造り変えられなければ、神のみ前で生きたわたしになることはできないのです。主キリストに接ぎ木され、主キリストと聖霊から新しい命を注ぎ込まれてはじめて、わたしは生きた人間とされるのです。そのようにして、わたしの心は主キリストの十字架の血によって洗い清められ、神をほめたたえる賛美の歌を歌い、隣人を生かす愛の言葉を語ることができるのです。

 1563年に、宗教改革の一つの実りとして制定された『ハイデルベルク信仰問答』では、わたしたち罪びとである人間はただ信仰によってのみ神のみ前に義とされ、救われる、と教えたあとで、64問で「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人が感謝の実を結ばないことなど、あり得ない」と強調しています。宗教改革は人間の完全な堕落を強調しましたが、同時に、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって義とされ、一方的な神の恵みによって救われた人間は、主キリストに接ぎ木され、主キリストから恵みと養分とを受け取り、大きな喜びをもって感謝の実を結ぶようになるということをも強調しているのです。

 次の46節からの岩の上に家を建てるたとえは広く知られています。けれども、これを正しく理解することはそれほど容易ではありません。まず、主イエスを「主よ、主よ」と呼びながらも、主イエスの言うことを行わない人とはだれを指しているのか、どのような人のことかがはっきりしません。主イエスを政治的なメシアと考え、イスラエルをローマの支配から解放する指導者であると期待して集まってきた人たちのことか、あるいは、主イエスの奇跡や病気のいやしだけを求めてきた人たちのことか、ここではっきりと決めることはできません。

それから、主イエスはここで、ただ聞くだけで、聞いたことを実行しない人たちを非難しているので、聞くことよりも実行することの方が重要だと簡単に結論づけてよいかどうか。あるいは、口先で信仰を告白しても、信仰の実践が伴わなければ、それは土台がない信仰であって、実践こそが大切なのだ。だから、愛の実践をすることによってこそ人は救われる、と結論づけてよいかどうか。そのことが大きな問題になります。

聖書を読む場合にはいつでも、どの個所でもそうなのですが、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音の光の中でこのカ所をも読まなければなりません。主イエスが語られたみ言葉の説教と主イエスなさったみわざのすべては、彼の十字架の死と復活を目指しており、またそれによって最後の目的に達し、完成するからです。

47節で主イエスは、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」こそが岩の上に土台を据えて家を建てた人であると言われます。「主イエスのもとに来る」「主イエスのみ言葉を聞く」そして「それを行う」、この3つのことが連続し、つながっていることが大切なのです。しかし、49節で言われているように、「聞いても行わない人」は土台なしで家を建てた人であり、その家は水があふれるとすぐに流されてしまうと言われています。主イエスのみ言葉を聞くこととそれを行うことが連続していることによって、わたしたちの信仰の歩みが確かにされ、どのような試練や困難にであっても決して揺れ動くことないと主イエスは教えておられます。

では、47節で言われている三つのことを見ていきましょう。第一は、主イエスのもとに来ることです。わたしたちがどのような大洪水が押し寄せてきても揺り動かされない堅固な家を建てるためには、まず主イエスのところに行かなければなりません。これが第一の重要なポイントです。自分の知恵や力で、自分の好みに合わせた家や、この世の目から見て豪華な家を建てるのではありません。また、富や財産、この世的な幸いを土台として家を建てるのでもありません。主イエスご自身が堅い岩、土台となってくださいました。主イエスは家を建てるために最も重要な隅の親石となってくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストという大きな堅い岩を土台とした家を立てなければなりません。人となってこの世に来られた神のみ子であられ、神の言葉、神の真理、神の義であられる主イエス・キリストのもとに行き、主イエスとの出会いを経験することによって、どんな嵐や洪水にも揺れ動かされない堅固な家を建てることができるのです。

第二には、主イエスのみ言葉を聞かなければなりません。主イエスの十字架と復活の福音を聞かなければなりません。主イエスはわたしの救いのために必要なすべてのみわざをすでに成し遂げられ、わたしを罪と死と滅びから解放してくださっておられることを聞き、信じることによって、わたしのすべての罪がゆるされ、神との生きた交わりへと招き入れられます。その神との生きた交わりの中で、神がわたしに必要なすべてのものを備えてくださり、わたしが進むべき道を示し、その道へと日々導いてくださり、終わりの日にはわたしを来るべき神の国へと招き入れてくださるという固い約束に生きることがゆるされるのです。ここにこそ、わたしの揺るがない堅固な信仰の道があります。

第三には、主イエスのみ言葉を行うことです。ここで「行う」とは、人間が何かの行動を起こすとか、信仰と実践とを区別して、信仰よりも実践の方が重要だという意味での「行う」ではありません。主イエスのみ言葉を聞いて行うのですから、主イエスのみ言葉を信じ、それに信仰をもって服従するということにほかなりません。主イエスのみ言葉を聞いても行わないのは、そもそも信仰がないからです。主イエスのみ言葉を聞いて信じ、服従する人は、そのみ言葉によって生きる人となります。主イエスのみ言葉の証し人として、主イエスのみ言葉に生きることを喜びとします。それは具体的に言うならば、礼拝と祈りの生活です。主イエスの救いの恵みに常に心からの感謝をささげ、主の日ごとの礼拝を重んじ、また主イエスのみ心を信じて日々に祈り、そのようにして、わたしたちの信仰の道はこの世の荒波の中にあっても決して揺らぐことなく、確かな目標に向かって前進していくことができます。主イエスご自身がその道の先頭を行かれ、わたしをその道へ導かれるからです。

最後に、もう一つのことを確認しておきましょう。岩の上に家を建てた人にも洪水は襲うということです。主イエス・キリストを信じるということは、災いや試練に会わないで済むという保証ではありません。いやむしろ、信仰を持たない人たちよりも多くの苦難や厳しい信仰の戦いを強いられるでしょう。たとえそうであるとしても、主イエスはわたしたちを固い岩の上に立たせてくださいます。わたしたちの足を支えてくださいます。主イエスのもとに来て、主のみ言葉を聞き、それを行う信仰者はどのような洪水や嵐や荒波が押し寄せてきても、固く立ち続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちは迷いやすく、つまずきやすく、またすぐに疑いの雲に覆われて、失望する弱い者たちです。またある時には、自分の力に頼り、傲慢になり、あなたへの恐れを忘れてしまう不信仰な者たちです。どうぞ神よ、そのような揺れ動くわたしたちを、あなたが強いみ腕をもって、固く支えてください。あなたのみ言葉がわたしたちの唯一の救いであり、命であり、希望であることを固く信じさせてください。

〇病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、孤独な人たち、生きる希望を失いかけている人たちを、主よどうか顧みてください。あなたが近くにいてくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月19日説教「ソドムとゴモラの滅亡とロトの救い」

2021年9月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記19章1~29節

    マタイによる福音書24章15~22節

説教題:「ソドムとゴモラの滅亡とロトの救い」

 創世記9章にはイスラエルの塩の海・死海の底に沈んだと考えられている邪悪な町ソドムとゴモラの滅亡のことが描かれています。伝説では、大きな地殻変動と火山活動が起こって、ソドム・ゴモラの町々は死海の底に沈んだとされています。この異常な出来事は人間の罪と悔い改めることをしなかったかたくなさに対する神の厳しい裁きの実例として、旧約聖書と新約聖書の中で何度も繰り返し語り伝えられていくことになりました。申命記29章22節では、イスラエルが神の約束の地カナンに入ってから、もし彼らが神との契約を破り、神の律法に背くことを行うならば、神の裁きを受けるであろうと言われ、こう書かれています。「全土は硫黄と塩で焼けただれ、種は撒かれず、芽は出ず、草一本生えず、主が激しく怒って覆されたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェポイムの惨状と同じになるであろう」と。また、預言者たちもしばしばこの出来事について言及しました。【イザヤ書1章7~10節】(1061ページ)。新約聖書ではルカによる福音書17章28節以下にこのように書かれています。【28~30節】(143ページ)。

 このように、聖書ではソドムとゴモラの町々に起こったことが、罪を悔い改めることをしない人間のかたくなさや邪悪さに対する神の厳しい裁きの実例として代々に覚えられ、戒めとして繰り返して語られてきました。それによって、わたしたちが自分の罪の姿に目をつぶることなく、直ちに罪を悔い改めて神に立ち返ることを勧めているのです。また、わたしたちが主キリストの再臨と終わりの日の神の最後の審判に備えて、いつも目覚めているべきこと、そして神の救いへの招きのみ言葉に耳を傾けているようにと勧めています。

Remenber Sodom!(ソドムのことを忘れるな)とのみ言葉を、わたしたちは繰り返し聞かなければなりません。それと同時に、Remenber Jesus Christ! 「主イエス・キリストの救いの恵みを忘れるな」とのみ言葉を、絶えず、繰り返して、聞き続けなければなりません。

 19章1節に、「二人の御使いが」とありますが、18章2節でアブラハムのテントを訪れた三人の旅人のうちの一人は、18章16節以下によれば、アブラハムと話していましたので、あとの二人が先にソドムについたということのようです。この三人は神から遣わされた神の使い、神ご自身のことです。彼らはソドムとゴモラの罪がはなはだ重いので、その現状を実際に調査するためにやって来ました。

 ロトはアブラハムから分かれてソドムに移り住んだことが13章に書かれていました。彼はすでにこの町の住民の一人になって、町の門の入口に座っていたとあります。古代の町は敵の攻撃を防ぐために城壁で取り囲まれていました。門の前は広場になっており、そこでは商売や集会などが行われていました。ロトはそこで二人の旅人を出迎え、彼らをあつくもてなしたことが1~3節に書かれています。

 ロトはアブラハムと別れてこの地に移住してきましたが、アブラハムと同様に神に選ばれた約束の民の一人であったことをまだ忘れてはいなかったようです。罪と悪に染まっていたソドムの町の住民に囲まれながらも、彼はアブラハムと同じように旅人を親切にもてなす愛を忘れてはいませんでした。ロトはこの時点では二人の旅人が神のみ使いだとは気づいていなかったようですが、彼らが門の広場で野宿するからとロトの招きを断った時、彼らに危害が及ぶことを察して、強いて彼らを自分の家の中に招きいれています。旅人を大切な客人としてもてなす礼儀を忘れず、また彼らをあらゆる危害から守ろうとする強い思いがロトにはありました。旅人に対するこのような愛の思いは、このあとロト自身の身に危険が及びそうになっても決して変わりませんでした。

 次に4~8節を読んでみましょう。【4~8節】。5節で「なぶりものにしてやる」と訳されている言葉は、本来「知る」という意味です。知るとは性的な関係をも意味します。「アダムは妻エバを知った、彼女は身ごもりカインを産んだ」と創世記4章1節に書かれています。ソドムの男たちが旅人を知るとは、男色のことです。この町の男たちは若い人も年寄りもみな男性の同性愛者であったのです。そして、彼らは町にやってきた男の客人を見ると、みんなで寄ってたかって襲おうとしているのです。これがこの町の最も邪悪な罪の現状であったのでした。のちに、英語の男色を意味するsodomyという言葉はこの町の名前から造られました。

 ロトは性的な危害から旅人たちを必死で守ろうとしています。それは、信仰的な行為であったと言えますが、そのために自分の娘を犠牲にして町の男たちに差し出すということがゆるされるかどうかは疑問です。でも、このことについてはこれ以上論じる必要はないと思われます。というのは、あとで神ご自身が解決の道を備えてくださることになるからです。

ロトには旅人を危害から守る義務があります。しかしまた、自分の娘たちに対する愛がなかったということもあり得ません。ロトは試練に立たされています。アブラハムと別れて、肥沃な低地であったこの地を選んだロトが、邪悪に染まっているこの地にあって苦悩しています。それは、ロトが自分で選んだ道であり、いわば自業自得だとわたしたちは言うべきでしょうか。

 ところが、ロトにとって思いもかけない驚くべき事態が起こりました。ロトが必至になって旅人たちを守ろうとし、そのために自分の娘を犠牲にしなければならないと決断したその時に、彼と娘たちは逆に旅人たちによって守られることになるのです。

 【10~13節】。13節で、初めてロトは二人の旅人が神の使いであったことを、また彼らがなぜこの町を訪れたのか、その目的を知らされました。ロトは神の使いだとは知らずに、彼らをもてなし、彼らを危害から守り、神にお仕えしていたのでした。そして、今度は神によって邪悪なソドムの男たちから守られることになったのです。ロトは彼自身と彼の家族を自分の力で守らなければならないのではありません。主なる神こそがロトと彼の家族の唯一の救い主であられます。主なる神がこの町の大きな悪と罪の叫びを聞かれ、この町を滅ぼされます。そして、主なる神がこの町の滅びの中からロトを救い出されます。ロトはその神のみ言葉を聞かなければなりません。神の招きのみ言葉に聞き従わないで、住み慣れたこの町の市民権を選ぶのか、それとも神のみ言葉に聞き従い、この町を捨てて神の国の市民権を選び取るのか、決断しなければなりません。

 けれども、ロトは自分ではそのいずれを選び取るかの決断をすることができませんでした。【15~17節】。ロトはこの町から離れることをためらっていました。彼はソドムの肥沃な土地を選び、この町の住民となり、家を建て、家族を養い、財産を増やしてきました。二人の娘たちもこの町で結婚しています。今この町を捨てて、神のみ言葉に聞き従うべきか、彼は迷っています。彼はこの世のものに縛りつけられています。それが滅びに至る道であると告げられても、それらを捨て去ることをためらっています。

 しかしまたここでも不思議なことが起こります。決断できずにためらっているロトと妻と二人の娘を、神ご自身が二人の旅人によって町の外に連れ出させたのです。神による強行手段です。神は弱く迷っているロトを救うためにこのような大きな力を発揮されます。

 16節に、「主は憐れんで」と書かれています。ソドムとゴモラに対する神の厳しい裁きとその滅びの中からロトが救い出されたのは、ただ神の憐れみによることです。迷っているロトの手を直接つかみ、いわば力づくで、その強いみ手の力で、神はロトを救われました。神の憐れみはこのような強い力となって働くのです。

 ロトに対する神の憐れみはなおも続きます。「滅びから救われるために山へ逃れなさい」と命じた神に対して、ロトは山まではたどり着くことができないので、近くの小さな町へ逃れさせてくださいと懇願します。神はこのロトの願いをも聞き入れられ、近くの町ツォアルに着くまではこの地を滅ぼすことはなさらないと約束されます。

【21~26節】。ロトがソドムとゴモラの滅びから救い出されるためには、この地との別れが必要でした。神のみ言葉に聞き従い救われるためには、それまでに頼っていたものを棄てなければなりません。ロトはこの地で築き上げてきたすべての財産、生活の基盤、ソドムから出ることを好まなかった嫁いだ娘たちとその夫、それらのすべてと別れなければなりませんでした。これからは、神のみ言葉の導きによって生きるようになるためです。しかし、神の約束を途中で疑った妻は後ろを振り返り、残してきた地上のものに心を奪われたために、塩の柱となりました。ロトは長く連れ添ってきた妻とも別れなければなりませんでした。

でも、わたしたちはここでもう一つの神の恵みをも知らされます。ロトが二人の旅人を危害から守るために犠牲として差し出そうとした未婚の二人の娘たちはロトと一緒にこの滅びから救い出されています。そして、30節以下では、彼女たちはイスラエルの周辺地域に住むモアブ人とアンモン人の先祖になったと書かれています。ロトと二人の娘たちは神に選ばれた民からは外れることになりましたが、なおも神によって用いられたと言えるでしょう。

最後に、わたしたちはもう一度このように声を合わせたいと思います。Remenber Sodom! そして、Remenber Jesus Christ! わたしたちは神の厳しい裁きを忘れてはなりません。自らの罪を悔い改めて、神に立ち返ることをためらってはなりません。この世のことに心を奪われて、後ろを振り返ってはなりません。常に、絶えず、主イエス・キリストを見上げ、その救いの恵みに心からの感謝をささげて礼拝を続け、主キリストが天に備えてくださる朽ちることのない勝利の冠を目指して走り続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、迷いとつまずきの多いわたしたちの信仰の道を、あなたが絶えず真理のみ言葉をもって導き、終わりの日に至るまで忠実に信仰の道を全うさせてください。

〇天の神よ、この世界と全人類とを滅びからお救いください。あなたが全地のすべての国民を憐れんでくださり、地のすべての王たち、支配者たちがあなたを恐れて、あなたのみ前に謙遜な僕たちとなりますように、お導きください。

〇神よ、世界にまことの平和をお与えください。互いに分かち合い、与え合い、支え合う世界にしてください。生まれた土地を追われ、住む家を焼かれ、愛する家族と引き裂かれた人々、食料や衣料を十分に受けられず、貧困と飢餓に苦しむ人々、恐れと不安と孤独の中で生きる希望を失っている人々、その一人一人に必要な助けが与えられ、あなたからの慰めと励ましとが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。