3月16日説教「主イエスの再臨を待ち望む教会」

2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(41)

聖 書:ダニエル書7章11~14節

    使徒言行録1章6~11節

説教題:「主イエスの再臨を待ち望む教会」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。きょうはその後半、「主が来られるのを待ち望みます」という告白について学びます。

 『使徒信条』では、第二項目の主イエスについての告白の最後で、「かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審き給はん」と告白されています。第三項目の聖霊についての告白の最後にある、「体の復活、永遠の生命を信ず」も終末論です。

 このように、終末論は、『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の最後でも、また『使徒信条』の第二項と第三項の最後でも、重要な告白として取り上げられていることが分かります。終末論は、終わりの日のこと、最後のことに関する教えですから、キリスト教教理の最後で取り扱われるのが一般的ですが、しかし終末論は最後の付録のようなものではありません。キリスト教教理全体を締めくくり、完成させる、くさびのような役割を果たすとともに、キリスト教教理と信仰を基礎づける役割をも果たす、土台であり、出発点であるとも言えます。

 ある人はこのような言い方をしています。「キリスト者は終末論によって生きる者である。あるいは、終わりから生きる者である。終わりの日に完成される神の国を基準にして、その終わりの日に向かって、その終わりの日の救いの完成を確信しながら、その終わりの日の約束の希望の中で生き続ける者だ」と。「主が来られるのを待ち望みます」という告白は、まさにそのようなわたしたちの信仰を言い表しているのです。

 では、終末論について教えられている聖書の箇所を読んでいきましょう。使徒言行録1章6節以下には、主イエスの昇天のことが書かれています。主イエスは受難週の金曜日、十字架につけられて死なれ、すぐに墓に葬られました。三日目に、墓から復活され、それから40日間にわたって、弟子たちに復活のお姿を現されました。そして、9節に書かれてあるように、天に昇られ、父なる神のみもとへとお帰りになりました。その時、神のみ使いがこのように言われました。【11節】。

 「またおいでになる」と言われているように、主イエスが再び地上においでになるとき、つまり主イエスの再臨の時、それが終末の時です。主イエスが最初に地上においでになられたとき、それがクリスマスの誕生の時です。これが第一の来臨です。旧約聖書の民イスラエルは、この第一の来臨の時を、メシア・救い主の到来を待ち望む神の民でした。新約聖書の民であるわたしたち教会の民は、主イエス・キリストの第二の来臨のとき、すらわち、わたしたちの救いが完成され、神の国が完成される主イエスの来臨の時を待ち望む神の民です。このように言ってもよいでしょう。「教会の民、わたしたちキリスト者は、主イエスの第一の来臨の時から第二の来臨の時、すなわち再臨の時までの時の間を生きている神の民である。神の救いの完成を目指して、その時を待ちつつ、またその完成に向かって急ぎつつ、生きている者たちであるのだ」と。

 主イエスの来臨の教えと約束は、主イエスご自身にまでさかのぼることができます。主イエスは福音書の中で、特に神の国のたとえの中で、人の子であられる主イエスが終わりの日に再臨され、最後の審判を下される、そして救いを完成されるということを繰り返してお話しされました。マタイ福音書24章、25章は、福音書の黙示録と言われる箇所ですが、ここで主イエスは終末の時についての教えを説教しておられます。25章では、10人のおとめがともし火を持って花婿を迎えるたとえや、主人からタラントンを預けられた僕たちのたとえによって、終末の時の主イエスの再臨に備えて生きるべきことを教えておられます。その最後の箇所で、31節以下にはこのように教えられています。【31~33節】(50ページ)。このみ言葉は、『使徒信条』で「そこか来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という告白と関連します。終末の時、主イエスはすべての信じる者たちに永遠の救いを、信じない人たちには永遠の滅びを宣言なさいます。

 また、マルコ福音書13章24節以下をも読みましょう。【24~27節】(89ページ)。終わりの時、人の子・主イエスは全世界に散らされていたご自身の民、教会の民を呼び集められ、一つのみ国の民とされます。主イエスは、ご自身の十字架の死と復活によって全人類を罪から救い出してくださいました。その救いを信じる信仰によって、わたしたち一人一人を教会の民としてお招きになり、わたしたちの信仰を導かれました。そして、終わりの日には、すべての教会の民を一つの神の民としてくださり、救いを完成させてくださいます。もはや何ものも、わたしたちを父なる神との交わりから引き離すものはありません。神が永遠にわたしたちと共にいてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの傍らに立たれ、そのことを保証していてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの信仰の完成者となってくださるからです。

 わたしたち信仰者にはこの約束と保証があるゆえに、今がどのような困難な時であれ、今どのような苦しい信仰の闘いのただ中にいようとも、あるいは多くの弱さや欠けや破れの中にあろうとも、決して失望することなく、喜びと希望とをもって、再臨の主イエスを待ち望むことが許されているのです。終末の信仰は、いついかなる状況にあろうとも、わたしたち信仰者にとっては、希望の信仰です。喜びの信仰です。わたしたちの信仰の闘いには、再臨の主イエスによる最後の勝利が約束されているからです。

 福音書で主イエスが語られた人の子の再臨の教えは、初代教会と使徒パウロたちに受け継がれました。しかも、強く、生き生きとした、切迫感を持った信仰として受け継がれていたことを、わたしたちは初代教会の祈りで確認することができます。コリントの信徒への手紙一の終わりの16章22節にはこう書かれています。「マラナ・タ」、これはアラム語で「主よ、来てください」という意味です。ヨハネの黙示録22章20節、これはヨハネの黙示録の最後の言葉であり、聖書全巻の最後の言葉でもありますが、そこにはこう書かれています。「以上すべてを証しする方が、言われる、『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」。

 「主よ、来てください。マラナ・タ」が初代教会の切なる祈りであったことが分かります。初代教会は、すでに教会誕生の紀元30年代から、ユダヤ教からの迫害を受けました。紀元60年代からは、ローマ帝国による迫害が始まりました。紀元90年代になると、多くの殉教者を出すようになっていきました。そのような厳しい信仰の闘いの中で、彼らの「主イエスよ、来たりませ」という祈りは、いわば命をかけた、殉教の血をふり絞るかのような祈りであったのでした。

 このほかにも、初代教会の信仰者たちが主イエスの再臨を熱心に待ち望んでいたことを表す聖書の箇所は数多くあります。彼らは、きょうかあすか、すぐにでも主イエスの再臨があり、終わりの日が来て、神の国が完成されるという信仰を強く持っていました。そして、主イエスの再臨に備えた生き方をしていました。日々に、主イエスの再臨を待ち望む生活をすることが、彼らの信仰生活の基本であり、あるいはすべてであったと言ってもよいかもしれません。

 すべて信じる人たちの罪のゆるしのために、ご受難と十字架の死の道を進まれた主イエス、そして三日目に復活されて罪と死とに勝利された主イエス。今は、天の父なる神の右に座しておられ、我らのために執り成しておられる主イエス。その主イエス・キリストが、終わりの日に再び地上においでくださり、わたしたちの信仰と救いを完成してくださる。その主イエスの再臨を待ち望みつつ、その再臨の時に備えて生きる。これが、使徒パウロや初代教会の信仰者たちの生き方でありました。これが、それ以来2千年の世界の教会の生き方でした。また、今日のわたしたちの生き方でもあります。

 主イエスの再臨を待ち望むという初代教会の信仰に、ある問題が生じることになりました。それは、終末の遅延、主イエスの再臨の遅延ということでした。ある人たちは強く熱心な信仰によって、主イエスの再臨を待ち望みつつ、厳しい信仰の闘いに取り組んでいましたが、他方では、主イエスの十字架と復活、昇天から20年、30年、50年が経過していくにつれて、「わたしはすぐに来る」と言われた主イエスの約束が、まだ実現していない、いったい、いつまで待てばよいのか、もう待つのに疲れた。あるいは、主イエスの再臨はもしかしたらないのではないか、という疑いを持つ人たちが増えてきたのです。

 そのような、終末の遅延、再臨の遅延という問題についても、新約聖書の中には少なからず語られています。その一か所を読んでみましょう。ペトロの第二の手紙3章です。【3~4節】(439ページ)。また、【8~13節】。

 ここでは、終末の遅延、主の再臨の遅延について、積極的な意味が語られています。それは、すべての人が救われることを望んでおられる神の忍耐なのだと。その神の愛による忍耐は、今に至るまで続いているのです。神は全世界のすべての人が罪を悔い改め、主イエスの救いを信じ、救われるために、きょうの日も忍耐しておられます。それゆえに、わたしたちは希望と喜びをもって、主イエスが来られるのをきょうも待ち続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、「主よ、来たりませ」というわたしたちの祈りを、いよいよ強く、熱心なものとしてください。わたしたちの目と心とを、終わりの日のみ国の完成の時に向けさせてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月16日説教「神の言葉はユダヤ人から全世界へと広げられる」

2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編100編1~5節

    使徒言行録13章42~52節

説教題:「神の言葉はユダヤ人から全世界へと広げられる」

 パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行は、地中海北部の、小アジアと今日一般に呼ばれている地域、今のトルコ共和国ですが、当時のローマ帝国ではピシディア州のアンティオキアでの活動について、使徒言行録13章14節から記されています。その町でのユダヤ人会堂でのパウロの説教が16~41節まで続きます。パウロはその説教の終わりで、主イエスの復活と、その主イエスによる罪のゆるしの福音を信じる信仰によってすべての人に与えられる神の義と救いについて語りました。このような福音の説教を、その町の人はまだだれも聞いたことがありませんでした。そこで、多くの人たちは驚きと感謝とをもって、パウロたちの福音の説教を、また次の安息日の礼拝でも聞きたいと願い出ました。42節に、このように書かれています。【42節】。

 パウロの説教を聞いた人たちは、それまで安息日ごとにユダヤ人会堂で聞いてきた説教とは、根本的に、まったくと言ってよいほどに違っていると感じたのでした。当時のユダヤ人会堂での説教は旧約聖書の解き明かしでした。その点においては、両者は同じでした。けれども、その中味はまったく違っていました。パウロの説教は旧約聖書のみ言葉に示された神の預言や約束を説きあかし、そのみ言葉によって神が今わたしたちに何を語ろうとしておられるかを明らかにするだけでなく、その旧約聖書のみ言葉が、今や主イエス・キリストによって完全に成就されたのだということを語ったのです。34~37節を読んでみましょう。【34~37節】。旧約聖書のダビデに約束されていた復活の命、朽ち果てることのない永遠の命が、今や主イエスによって成就したのだとパウロは語ったのです。また、【38~39節】。旧約聖書の律法によってはだれ一人として神のみ前で義とはされ得なかったのに、今や主イエスを信じる信仰によってすべての人が義とされ、罪ゆるされ、救われるのだとパウロは語ったのです。

 このような旧約聖書の解き明かしは、これまでだれも聞いたことがありませんでした。神が旧約聖書をとおして語られた預言と約束のみ言葉が、今や、主イエス・キリストによって成就されたのです。神の救いのみわざが主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって成就されたのです。この初めて聞く驚くべき福音に接した多くの人たちが、次の安息日の礼拝でもまたこれと同じ説教を聞きたい、そして救いの確信を強めたいと願ったのでした。このように、神の救いのみ言葉を心から慕い求めて、また次の礼拝でも神のみ言葉を聞きたい、神の救いの恵みにあずかり、自分の信仰を強めたいと熱心に願う、そのような思いを、わたしたちもまた持ち続けたいものです。

 42節に、「次の安息日にも」と書かれていますが、ユダヤ人会堂では、彼らの安息日である土曜日に礼拝がささげられていました。パウロたちも最初はその習慣を受け継ぎました。しかし、初代教会では次第に、主イエスが復活された日曜日を主の日として、この日に礼拝するように変わっていきました。

 次に、43節を読みましょう。【43節】。安息日の礼拝が終わってからも、多くの人たちがパウロたちの周りに集まってきました、これは、いわば、礼拝後に開かれた聖書研究会のようなものと考えてよいでしょう。パウロはそこで、神の恵みのもとに生き続けるように勧めました。礼拝からこの世へと出ていくと、たくさんの誘惑が待ち構えています。信仰者を神の恵みから引き離そうとする悪しき力が多く働いています。教会で開かれる聖書研究会やその他の勉強会、研修会は、わたしたちがこの世の誘惑に負けることなく、礼拝で聞いた福音の説教のもとにとどまり続け、その恵みによって生き続けるための、訓練の機会となります。

 では次に、【44~45節】。「ほとんど町中の人」とありますが、当時このアンティオキアの町の人口がどれくらいあったのかは分かりませんが、そんなに大きくもなかったと思われるユダヤ人の会堂にあふれるほどの人たちが、そのほとんどはユダヤ人以外のギリシャ人だったと思われますが、多く集まってきたのを見て、ユダヤ人は自分たちの会堂が異邦人たち占領されていると感じたのかもしれません。

 ユダヤ人たちの妬みや怒りにはいくつかの原因があったと思われます。第一に、自分たちの神聖な礼拝場所が異邦人に占領されているという不満、それだけでなく、自分たちがユダヤ教の宣教活動をしてもこれほどの人々が集まらないのに、よそ者のパウロたちがたくさんの人を集めているのとへの妬み、さらには、パウロが語った説教の内容に対する不満や反対も大きかったと思われます。ユダヤ教では、律法を守ることによって人は救われ、神の国に入ることができると教えられていたのに、パウロが語った福音は、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる人はすべて、律法のわざなしに救われると教えている。これはユダヤ教が重んじている律法を否定することだと、かたくなで悔い改めることをしないユダヤ人は考えたと思われます。

 実は、これこそがまさに、主イエスご自身がエルサレムでユダヤ人指導者によって捕らえられた原因でもあったのです。そして、わたしたちがこれまで読んできたように、初代教会がユダヤ人から迫害を受けた主たる原因であったのでした。さらには、パウロの世界伝道旅行で幾度も繰り返されるユダヤ人による迫害の原因でもありました。

 しかしながら、パウロたちはユダヤ人の反対や攻撃に決して屈することはありませんでした。というのは、彼らは主なる神のみ言葉に仕えているという確信があったからです。自分たちの考えや主張を語っているのではありません。自分たちの利益を求めて活動しているのでもありません。主イエス・キリストの福音に仕えているからです。パウロたちを支えているのは主なる神ご自身であり、罪と死とに勝利された主イエス・キリストであるからです。

 【46~47節】。パウロとバルナバはまず神の選びの秩序について語ります。神が全世界の民の中からイスラエルの民、ユダヤ人をお選びになられ、この民と契約を結ばれ、この民にみ言葉をお語りになって、ご自身の救いのみわざを始められました。この神の選びの秩序は重んじられます。パウロはすでに16節以下の説教でもそのことを語っていました。【17節】。46節では、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした」と言われていますが、「はずである」と訳されているギリシャ語は、本来は「ねばならない」という強い意味を持つ言葉であり、神の強い意志と永遠のご計画を意味しています。

 ところが、彼らユダヤ人は神から与えられた特別の恵みを拒否し、自ら投げ捨ててしまったのです。神がこの世にお遣わしになったメシア・キリスト・救い主であられる主イエスを受け入れず、十字架につけて処刑することによってそのことが明らかになりました。そして、今またパウロたちが語った主イエスの福音を受け入れず、その活動を妨害しようとしていることによって、いよいよユダヤ人のかたくなさと罪とが明らかにされたのです。

 彼らユダヤ人には「永遠の命」を約束されていました。彼らが主イエスを救い主と信じて、主イエスの福音を受け入れるならば、約束されていた永遠の命が彼らに与えられるはずでした。しかし、彼らは最後の目標の前でつまずき、神の恵みを拒絶し、自らを滅びの道へと誘いこんでしまったのです。

 けれども、イスラエルの民・ユダヤ人が神の救いの恵みを拒絶したことによって、神の救いのみわざそのものが終わってしまうのではありません。いやむしろ、イスラエルのかたくなさによって、主イエス・キリストによって与えられる永遠の命への道が、異邦人にも開かれるようになったのだと、パウロが語ります。

 47節に引用されている旧約聖書のみ言葉は、イザヤ書49章6節と思われます。イザヤ書49章1~6節は、イザヤ書の中で特別に重要な意味を持つ「主の僕(しもべ)の歌」と言われている4つの歌の中の第二の歌です。その箇所を読んでみましょう。【49章1~6節】(1142ページ)。この歌で、神から直接に「わたしの僕(しもべ)」と呼びかけられているのが、神によって特別な使命を託されて選び出された「主の僕」です。この主の僕は「いたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たし」たけれども、しかし、それによって主の僕は諸国民の光としての務めを果たし、神の救いを地の果てにまで、全世界へと告げ知らせるようになると預言されています。

 実は、このイザヤ書のみ言葉は、ルカ福音書2章28節以下では、エルサレムの神殿で、幼な子・主イエスを抱き上げたシメオンが語った言葉の中にも引用されています。シメオンはイザヤが預言した主の僕が今エルサレム神殿に現れたのだと告白しています。パウロもまたイザヤ書に預言されていたこの主の僕こそが主イエス・キリストのことであると理解し、それゆえに主イエスの福音が今や自分たちによって異邦人へと、全世界のすべての民へと宣べ伝えられるのだと語っているのです。

 わたしたちがこれまで使徒言行録を読んできて何度も見てきたことでしたが、主イエスの福音がユダヤ人だけにではなく、ユダヤ人以外の異邦人にも宣べ伝えられ、彼らもまた主の教会の民へと加えられていったことを確認してきましたが、今やここでよりはっきりと、ユダヤ人からの迫害をきっかけにして、パウロが異邦人の使徒パウロとしての自覚をいよいよ強くし、異邦人に主イエスの福音を宣教する使命をより強く決意させたのでした。

 【48~49節】、ユダヤ人たちのつまずきと不信仰にもかかわらず、またそれによってより激しくなるユダヤ人による迫害にもかかわらず、神のみ言葉が前進していきます。新しい救いと命とを生み出していきます。

 パウロたちは反対者たちの迫害によって、アンティオキアの町を追い出されることになりました。しかし、52節にはこう書かれています。【52節】。ここには、主イエスの福音を聞いて信じた人たちが「弟子たち」と呼ばれ、ユダヤ人会堂からは独立して、主イエスの教会を建てたことが暗示されています。神の言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはなく、新しい弟子たち、新しい信仰者たちを誕生させ、新しい教会を生み出していくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画は、この世の反対や不信仰にもかかわらず、いつの世にも、力強く前進していくことをわたしたちに信じさせてください。その希望をもって、どのように困難は時代にあっても、み言葉を宣べ伝える務めにいそしむことができますように、わたしたちを支え、導いてください。

〇主なる神よ、重荷を負っている人、試練の中にある人、病んでいる人、道に迷っている人を、どうぞあなたが助けてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とが、この世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月9日説教「わたしたちの罪をゆるしてください」

2025年3月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編130編1~8節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの罪をゆるしてください」

 ルカによる福音書11章で教えられている主の祈りをテキストに学んでいます。きょうは4節の、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも……赦しますから」、この主の祈りの後半の二つ目の祈りについて学びます。マタイ福音書6章では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、ルカ福音書とは少し違っている個所があります。マタイ福音書をテキストにした式文の「主の祈り」では、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」となっています。それぞれの違いについては、のちほど説明をします。

 すでに学んできましたように、主の祈りの後半の初めで、わたしたちの日々のパンについての祈りがまず挙げられていました。わたしたちはパンなしでは生きていけない、肉なる者であり、飢え乾く者、弱い存在であることを、まず自覚させられます。しかし、そのような肉なる者、弱い存在であるからこそ、その命を支えてくださる主なる神に、熱心にパンを求める祈りをささげるように、主イエスは教えておられます。

そして、ここで注目したいことは、後半の最初の祈りであるパンを求める祈りと、次の罪のゆるしを求める祈りの間に、日本語では訳されてはいませんが、「そして」という接続詞(ギリシャ語ではカイという言葉です)があって、二つの文章をつないでいるのです。

このことは、二つの文章が関連性を持っていることを意味しています。わたしたち人間がこの地上で肉体の命を維持していくためにはパンを必要としているように、わたしたちが神から与えられている霊の命を維持していくために、罪のゆるしを必要としているということを、わたしたちはここから教えられるのです。わたしたちがきょう生きるために「主よ、きょうのパンをお与えください」と、真剣に祈るように、それと同じ真剣さと、現実性と、緊急性とをもって、「主よ、わたしの罪をおゆるしください」と祈るべきだと、主イエスは言われるのです。わたしの肉体が生きていくためにパンを必要としているのとまったく同様に、わたしの魂が生きていくために常に罪のゆるしを必要としているのです。そしてまた、主なる神はきょうの体の命のためにわたしにパンを備えてくださり、わたしの魂の命のために罪のゆるしをお与えくださると、主イエスは約束しておられるのです。

パンを求める祈りと罪のゆるしを求める祈りとが密接に関連しているもう一つの重要なポイントは、わたしたちはこの二つの祈りをいずれも神に向かって祈るのだということです。天の父なる神に向かって、「どうぞ、パンをお与えください」と祈り、同じ神に「どうぞ、罪をおゆるしください」と祈るのです。

パンを求めるために、食料を提供してくれる生産者とか食料を販売している店に行きなさいと、主イエスは言われたのではありません。パンを手に入れるために熱心に働きなさとお命じになったのでもありません。天の父なる神に、あなたのパンを求めなさいとお命じになられたのです。なぜ、パンを神に求めるべきなのか、その隠された理由を、わたしたちはここで教えられるのです。

 それは、天の父なる神こそがわたしたち人間の罪をゆるすことができる唯一のお方だからです。そして、事実、わたしたちの罪をゆるすためにご自身のみ子を十字架に犠牲としておささげくださったからです。ご自身の一人子さえも惜しまれずに、わたしたちの罪のゆるしのためにみ子をおささげくださった方は、み子のみならず、万物をもお与えくださるのは当然だからです(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。それゆえに、わたしたちの罪をおゆるしになる神にこそ、「きょうのパンをお与えください」と祈るようにと命じられているのです。

 では次に、罪のゆるしの祈りは、キリスト教信仰の中心的な主題であることについて考えてみましょう。キリスト教は他のどの宗教よりも、人間の罪を問題にし、その罪のゆるしこそがわたしたちの本当の救いであると教えています。また、罪のゆるしは主イエスのご生涯全体、その説教、みわざ全体とも関連しています。主イエスの誕生から十字架の死と復活に至るまでのすべてが、わたしたちの罪のゆるしのためであったと言うことができるでしょう。

 わたしたちが主イエスの誕生の時にクリスマスのメッセージとして聞く、マタイ福音書1章21節のみ言葉はこうです。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。また、主イエスは中風の人をいやされたあとでこのように言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされる」(マタイ福音書9章2節)。そして、マタイ福音書9章13節では、主イエスはこのように言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」と。さらに、主イエスは十字架の上でこう祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのかを知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と。最後に、復活されて弟子たちにそのお姿を現された主イエスはこう言われました。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」ルカ福音書24章46~48節参照)と。

 このように、罪のゆるしは主イエスのご生涯の中心であり、また全体です。それはキリスト教信仰の中心です。主の祈りが主イエスの福音の要約であると言われるのは、まさにそのとおりです。わたしたちが「我らの罪をゆるしたまえ」と祈ることによって、わたしがキリスト者であるということをまさに自覚し、告白するのです。

 それでは、罪とは何か、また罪のゆるしとは何かという、より中心的なテーマに入りましょう。キリスト教は人間の罪を最も真剣に取り上げ、問題にします。また、罪のゆるしを救いの中心とします。でも、一部の人はそれが日本でのキリスト教の成長を妨げていると言います。人間の罪という、いわば暗い、じめじめしたテーマを表に出さないで、人間の理想とか可能性、人生の幸せとか喜びの方を強調する方が、教会に人が集まるのにと言う人がいます。実際、そのようなことを説く新興宗教や人間開発セミナーのような集会に多くの若者が集まったりします。

 しかし、わたしたちはそのような意見には賛成しません。もし、教会が罪と救いを抜きにした別のテーマを掲げて人集めをしたとしても、それは真実の教会形成にはならないからです。もし、教会が罪を語らず、罪のゆるしを語らなくなれば、主イエスがこの世においでになられたことは無意味になりますし、主イエスの十字架の死も復活も、すべてが無意味になってしまうからです。

 むしろ、わたしたちはこう考えるべきでしょう。人間の罪について真剣に考えることが少ない日本だからこそ、罪について、丁寧に、また力を込めて語らなければならないでしょう。罪の意識が薄く、罪のゆるしを真剣に求める人が少なく、それよりは、人生の幸福とか繁栄、健康といったものを求めるに熱心なこの国の人たちに対して、正しく人間の罪について語り、罪のゆるしの福音のすばらしさを語らなければならないでしょう。罪のゆるしを願い求める祈りの重要さを語らなければならないでしょう。罪のゆるしの福音こそが、わたしたちの本当の救いであり、命であり、祝福なのだということを語らなければならないでしょう。

 さて、聖書で罪という言葉は、旧約聖書が書かれているヘブライ語でも、新約聖書が書かれているギリシャ語でも、元来は「的を外す」という意味を持っています。この言葉は罪の本質というものをよく言い表していると言えます。的とは、神に向かうことです。人間は神によって創造され、神と共に歩む者、また隣人と共に歩む者として創造されました。けれども、人間はその神に背き、神から離れて生きる罪びととなりました。人間が一生懸命に、努力して生きようとすればするほど、人間は気づかないうちにますます神から離れ、的から離れて、罪に落ちていくしかありません。また、的からそれている人間の歩みは、神から離れるだけでなく、そのすべてが、隣人との関係においても、社会生活においても、自然との関係も、すべてがゆがんでいくしかありません。聖書は、そのような罪の人間の歴史を描いています。人間はだれもがみな、的から外れ、罪と死と滅びへと向かっていると聖書は教えています。

 そのような人間の罪は、負債という言葉でも表現されます。ルカ福音書11章では、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていますが、マタイ福音書6章12節では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも負い目のある人を赦しましたように」と、前半でも後半でも「負い目」(これは負債という意味ですが)という言葉を用いています。罪と、負い目(負債)は全く同じ意味と考えてよいでしょう。

 負債とは借金のことです。つまり、わたしたち人間は神に対して負債を負っている、借金がある、神に返すべきものを返していない、むしろ日々に借金を増やしているというのです。この考え方の背景には、人間は本来、神から多くの恵みと賜物とをいただいている、そうであるのに、その恵みに気づかず、気づこうともせず、それゆえに感謝もせず、神の恵みに応えることをせず、かえって神から与えられた恵みを自らの欲望のままに浪費している。本来神からいただいたものである恵みを、自らの手で獲得したものだと主張し、いよいよ神から奪い取っている。だから、それは神に対する無限の負債なのだという考えです。

 わたしたちはここから、神に対する人間の罪と負債がいかに大きいかということを教えられるのですが、また同時に、わたしたち人間にはすでに神からの多くの恵みが与えられているのだということにも気づかされるのです。「我らの罪をゆるしたまえ」と祈るときに、わたしたちがすでに神から多くの恵みを与えられており、今また主イエス・キリストの十字架の福音によって、すべて信じる人に与えられている罪のゆるしの恵みがいかに大きいかということを、わたしたちは知らされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは罪の中で滅びようとしていたわたしたちを顧みてくださり、わたしたちを罪から救うために、み子の尊い十字架の血を流されるほどにわたしたちを愛してくださいましたことを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちが再び罪の奴隷のくびきにつながれることがありませんように、あなたから与えられた罪のゆるしの恵みに、心からの感謝をささげて、その恵みの応答し、あなたと隣人とに喜んでお仕えする者となりますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とがこの世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月2日説教「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

2025年3月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記5章1~23節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

 イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すという、神の大いなる救いのみわざに仕えるために、神の召命を受けたモーセは、兄弟のアロンと一緒にエジプトの王ファラオのもとへと出かけていき、王に直接に自分たちの要求を申し出ました。出エジプト記5章1節を読みましょう。【1節】。

 エジプト王ファラオは絶大な権力を持っていましたので、奴隷の民であったヘブライ人のモーセとアロンが、簡単に面会ができたかどうかという疑問は残りますが、モーセは生まれてから40年間は王宮でファラオの娘の子として育てられたということが2章に書かれていましたから、そのような王宮との関係があったから、容易に面会できたのかもしれません。

 とは言っても、奴隷の民の一員であったモーセとアロンがファラオの前に立つのには、大きな勇気がいることであったことは間違いありません。しかも、モーセは2章15節に書かれてあったように、エジプト人の監督を殺したことでその当時の王から命を狙われていましたから、自らの命の危険を覚悟しての行動でもあったのです。

 にもかかわらず、モーセもアロンも少しも恐れずにファラオの前に立っています。そして、自分たちの要求を申し出ています。それは、自分たちの要求と言うよりは、イスラエルの主なる神のご計画でした。また、前の3章と4章で何度も繰り返して語られていた、神の約束があったからにほかなんりません。3章12節で神はモーセにこのように言われました。【12節】(97ページ)。4章12節では、【12節】(99ページ)。主なる神がモーセと共にいてくださる。主なる神が彼に語るべき言葉を授けてくださる。そして、語る勇気と力をお与えくださる。それゆえに、彼らは少しも恐れることなく、ファラオの前に立ち、語ることができたのです。

 モーセとアロンは、「イスラエルの神、主がこう言われました」とファラオに告げています。彼らは自分たちの意見とか願いを言うのではありません。神が語れとお命じになった言葉を語るのです。神の命令は、3章18節にもう少し詳しく語られていました。【18節】(97ページ)。5章3節でも同じように語られています。【3節】。

 「荒れ野への3日の道のり」とは、おそらくシナイ半島のホレブの山、シナイ山を指していると思われます。とすれば、神が計画しておられたのはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出し、彼らを「乳と密の流れる土地」、族長たちに約束されたカナンの地へと導き上ることであったのか。それとも少しの間だけ、シナイ山で神を礼拝するために一時的な自由を与えることが、当初の神の計画であったのか。これまで読んできた出エジプト記の記述では、その両方の理解が可能です。あるいは、エジプトからの解放と新しい土地への導きが神の最終的な計画であったのだが、ファラオに初めからそのように要求したら拒否されることが分かりきっていたから、神を礼拝するための一時的な自由を、はじめに要求したと考えられるかもしれません。

 いずれにしても、ここで重要なことは、イスラエルの真の解放、救いとは、ただ単にエジプトの国から政治的、経済的に独立することにあるのではなく、また苦しい労役から解放されることでもなく、イスラエルが神を礼拝する民になるということ、このことこそが彼らの真の解放であり、救いなのだということ、神はそのことを目指しておられたのだということです。

 モーセとアロンの要求に対して、それがイスラエルの主なる神の要求であるとしても、エジプト王ファラオの答えは当然このように予想されます。【2節】。エジプトではファラオは神の子と考えられ、エジプトの最高神である太陽神アトンの化身として、絶対的権力を持っていました。そのファラオがイスラエルの神が言うことに服従するのは、ファラオの神の子としての地位を失うことでもあったので、モーセとアロンの要求に答えることはできません。ファラオはイスラエルの神をも否定します。

わたしたちはここで、主なる神を中心として、三つの立場の違ったグループが取り巻いている構図を見ることができます。一つのグループは、神の救いのみわざのために選び出され、神の使者として仕えているモーセとアロン、二つ目のグループはモーセとアロンの要求を聞いて、それを拒否するエジプト王ファラオとその民、三つ目のグループはエジプトでの重労働に苦しんで、神に助けを呼び求めているイスラエルの民、この三者によって、これから神の救いのみわざが行われていくことになります。

まず、モーセとアロンに焦点を当ててみましょう。彼らはエジプト王ファラオの前では奴隷の民の一員にすぎません。何の力も権力をも持ってはいません。しかし、彼らはこの世の権力を決して恐れていません。神が彼らと共におられるゆえに、彼らは固く立つことができます。彼らが神の救いのみわざに仕えるときに、神は必要な勇気と語るべき言葉を彼らに与えられます。彼らが主なる神の命令に従うとき、彼らはこの世のいかなる権力をも恐れません。恐れる必要はありません。

次に、エジプト王ファラオを見ていきましょう。ファラオはここでモーセ、アロンと面会しています。でも、ファラオ自身もすでに最初から気づいていたように、彼はイスラエルの主なる神と対峙しているのです。というのも、モーセとアロンは主なる神のみ名によって語っているからです。3節後半では、神の要求を拒むならば、ファラオに対して神の厳しい裁きが降るであろうとも語られています。ファラオはイスラエルの主なる神のみ前で決断することを迫られているのです。

ファラオはどのように決断するでしょうか。【4~9節】。ファラオはモーセとアロンの要求を拒みます。イスラエルの神の命令をも拒絶します。かえって、奴隷の民に、より厳しい労働を強いるように命じます。このファラオの反応をモーセたちの行動と比較してみたらどうでしょうか。ファラオは明らかにモーセたちを恐れています。彼らが信じ、従っているイスラエルの主なる神を恐れています。奴隷の民イスラエルの数が増えていることを恐れています。彼らの労働力が失われることを恐れています。彼の神の化身としての地位が脅かされていることを恐れています。この世の権力を誇り、それにしがみつこうとする者はみなこのように、恐れるに値しないものを恐れざるを得ません。

それにしても、ここでファラオが語っている言葉に、今日わたしたちが様々なところから聞く声と共通点があることに気づかされるのです。「おまえたちは怠け者だ。おまえたちは働きたくないから、自分たちに神を礼拝する時間を与えてくれなどと言うのだ」(8節参照)。17節でもファラオはこう言います。「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ」と。神なき世界に住むこの世の多くの人たちがこのように言うのを、わたしたちはしばしば耳にするのです。モーセの時代、今から3千年以上も前のエジプトにあっても、今日のこの国やこの世界の神を知らない人たちの中にあっても、わたしたちは同じような声を、至る所で聞くのです。国の政治の指導者たちから、経済界のリーダーたちから、あるいは職場の上司や同僚から、時に家族から、もしかしたらそれは自分自身にささやく内なる声であったりもするのです。わたしたちはいたる所で、あらゆる時に、あらゆる機会に、同じような誘惑の声、ささやきの声として、時に厳しい命令として聞くのです。わたしたちはどのようにしてそのような誘惑や試練と戦うのでしょうか。どのようにしてその戦いに勝利するのでしょうか。

一方には、神のみ心と招きに応えて、神を礼拝する生活を中心に据えて生きる神の民がおり、他方には、レンガ造りに汗を流し、高いビルを建設することを生きがいとする神なき民がいて、神を礼拝することを非生産的で、愚かな時間つぶしとみなし、宗教よりはミサイルや爆弾が大事で、信仰よりもパンの方が先と考え、神礼拝よりも日曜日の行楽が重要だと考える人たちがいる。しかも、後者の方が圧倒的な多数を占めるわたしたちの社会にあって、さて、モーセとアロンは、そしてわたしたちはいったいどうするのでしょうか。

ここで、先に挙げた主なる神を中心にした三つの目のグループ、イスラエルの民について見ていきましょう。モーセたちの申し出に反対したファラオは、イスラエルの民により過酷な重労働を強いるようになりました。それまでは、レンガに入れるわらはエジプト側から提供されていましたが、これからはわらも自分たちで集め、しかもレンガの生産量は少しも減らすなという命令をファラオは与えました。

奴隷の民イスラエルは、モーセたちのおかげで自分たちがより厳しい労働を強いられるようになったことを知り、二人を激しく非難します。【21節】。モーセとアロンは異教の王ファラオとの戦いには勝利することはできても、同胞の民イスラエルの不信仰との戦いには勝利することはできるのでしょうか。さて、モーセとアロンはいったいどうするのでしょうか。

22節の冒頭に、「モーセは主のもとに帰って、訴えた」と書かれています。モーセは彼を遣わされた神のもとへと帰ります。神の約束のみ言葉へと立ち返ります。神の約束のみ言葉こそが彼の出発点であり、また彼が目指すべき目的地点でもあるからです。神はモーセに再び神の使命に生きる道を備えてくださり、その使命を果たすために新しい約束をお与えくださいます。6章以下でそのことが語られます。

わたしたちもまた、わたしの歩みの出発点である礼拝から始め、またそこへと戻っていきます。たとえ、この世にあってのわたしたちの信仰の戦いがどれほどに厳しく、労苦が多いものであったとしても、わたしたちは帰るべき礼拝という場所があるのです。また、そこから新しい歩みを始めることが許されているのです。

奴隷の民イスラエルにとって、神礼拝こそが奴隷の家からの解放と救いへと向かう確かな道であったように、わたしたちにとっては神礼拝こそが主イエス・キリストの十字架と復活の福音による罪の奴隷からの解放と救いへと向かう唯一の道なのです。イスラエルの民が奴隷の家エジプトで腹いっぱいに肉鍋を食べることができたとしても、そこには真の救いも慰めもなく、真の喜びも祝福もないように、わたしたちにとって主イエスによる罪のゆるしがないならば、どんなにレンガを高く積み上げても、ミサイルやロケットを飛ばしても、そこには真の平和も共存もなく、真の喜びも祝福もありません。神礼拝こそが、わたしたちが目指すべき目的地であり、またわたしたちが生きるべき真実の命の道への出発点なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子の尊い十字架の血によってわたしたちを罪の奴隷から救い出してくださいましたことを感謝いたします。この大きな喜びと感謝と祝福とを、いよいよわたしたちに増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月23日説教「終わりの日に備えて生きる」

2025年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(40)

聖 書:マラキ書3章19~24節

    マタイによる福音書24章29~44節

説教題:「終わりの日に備えて生きる」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。終末論とは、終わりの日、終わりの時、最後のことに関する教えです。キリスト教の時の理解は、時には初めがあり、終わりがあるという理解です。これと対比されるのが、一般的に言われる輪廻思想です。輪廻思想では時の流れは円周のように、またはらせん状のように繰り返しますから、はじめも終わりもありません。キリスト教では、聖書の構造がそうであるように、初めに神の天地創造があり、終わりに神の国の完成であるヨハネの黙示録があることからも分かるように、すべての時の初めがあり、そしてすべての時の終わりがある。そして、そのすべての時を神がご支配しておられるというのが、キリスト教の時の理解です。

 では、わたしたちの『信仰告白』では、終末論はどのように取り扱われているのかを次に見ていきましょう。最初にも言いましたように、『信仰告白』の前文では、大きな項目の「教会論」と言われている教理の中で、終末論が取り扱われています。『信仰告白』の後半の『使徒信条』では、第2項の「キリスト論」の中の最後で、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白されている個所が終末論になります。また第3項の「聖霊論」あるいは{教会論}の中では、「体の復活、永遠のいのちを信じます」も終末論に属します。『使徒信条』では「キリスト論」と「聖霊論」の中で「終末論」が取り扱われているということが分かります。このように、終末論はいずれの場合にも、それが単独で論じられているのではなくて、「教会論」の中で、「キリスト論」「聖霊論」との関連の中で語られているのです。

 その理由は、おそらくは他の諸宗教で一般的に論じられる終末論と混同されることを避けるためであろうと推測されます。いつの時代でも、世界や社会が混乱し、世情が不安定になってくると、さまざまな終末論が盛んに論じられるようになります。世紀末の終末論と言われたりします。しかし、キリスト教の終末論は、世界や社会の動向には左右されず、聖書そのものから導き出された終末論ですから、それらの一般的な終末論と混同されないように、キリスト教教理全体との関連の中で、創造論やキリスト論、救済論、教会論、聖霊論との関連の中で、終末論を考えることが重要になります。

 では次に、『日本キリスト教会信仰の告白』で終末論が教会論の中で告白されていることの意義について考えていくことにしましょう。「終わりの日に備えつつ、主が来られるの待ち望みます」。この文章の主語はこの段落の冒頭にある教会です。つまり、教会とは、終末の時に備えて生きている信仰者の群れであり、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望んでいるキリスト者の群れであるということが告白されているのです。一般的に、キリスト教の終末論とは何かとか、わたしたちがどのような終末信仰を持つべきだとかが教えられているのではなく、教会とは、また教会に集められているわたしたち一人一人は、そもそも終末論的な共同体であり、終末論的な存在なのだということが告白されているのです。

 教会はこの世に建てられています。今の時代の中で、今のこの場所に生きています。しかし、教会は今のこの世を基準にして生きているのではありません。今のこの時代にある目標を目指して生きているのではありません。教会は終末の時に備えて、終末の時に完成される神の国を基準にして、それを目標にして生きています。教会は終末論的存在であり、終末論的共同体なのです。

 ヘブライ人への手紙11章では、旧約聖書の族長たちもまたそのような終末論的な信仰を持ち、終末論的な信仰に生きていたということが語られています。11章13節以下を読んでみましょう。【13~16節】(415ページ)。族長たちはアブラハムもヤコブもイサクも、だれもまだ神の約束の地を実際には取得してはいませんでしたが、神の約束の言葉を信じながら、地上では旅人、寄留者として信仰の歩みを続けました。この手紙の著者はその彼らの信仰を、彼らがこの地上をはるかに超えた「天の故郷を熱望していた」からだと言います。そして、神は彼らに確かに天の都を用意しておられたのだと言います。フィリピの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と。わたしたち教会の民は、終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ、神の約束の言葉によって今すでに神の国に生きている者として、この地上では旅人、寄留者としての信仰の歩みを続けるのです。

 わたしたちが天に本来の国籍を持ち、地上では旅人、寄留者として生きるとは、具体的にどのような生き方を言うのでしょうか。第一には、わたしたちがこの世で見たり経験したりするすべての出来事、すべての現象は、それは最後の究極的なものではなく、それらは過ぎ去り行くもの、暫定的なものであり、途中のものであるということを、わたしたちに悟らせるのです。なぜならば、終わりの日に、神の国が完成されるときにこそ、最後のもの、究極的なものが現れるからです。

 使徒パウロはコリントの信徒への手紙7章29節以下で、「定められた時が迫ってきている。だから、今持っている人は持っていない人のように、今泣いている人は泣かない人のように、今喜んでいる人は喜ばない人のように、今この世とかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。なぜならば、この世のありさまはみな過ぎ去るからです」と言っています。

 したがって、終末信仰に生きる人は今の現実によって束縛されることはありません。たとえ、わたしが今この世で絶望とどん底に突き落とされたような艱難や災いにあうとしても、それがわたしの最終的は敗北でも最後でもありません。あるいは、たとえわたしがこの世のすべての繁栄と名誉とを手に入れることができたとしても、それがわたしの最終的な勝利でも幸いでもありません。最終的な判断は、終わりの日に、最後の審判者であられる主イエス・キリストが羊と山羊とを右と左に分けるように、すべての人を救いと滅びにお分けくださるのですから、その時まで待たなければなりません。

 それと同時に、たとえわたしが絶望の淵に突き落とされるようなときにも、わたしはなおも再び立ち上がり、わたしの救い主であられる主イエス・キリストに向かって頭を高く上げ、すべての艱難や災いをも忍耐強く耐え忍ぶことができるのであり、あるいはわたしがどれほどの繁栄を手に入れようと、それに頼ることなく、主イエス・キリストのみ前に謙遜にお仕えしていくことができるのです。

 終わりの日に備えて生きるキリスト者の生き方の第二の特徴は、未来に向かって常に目覚めていることです。ローマの信徒への手紙13章で、使徒パウロはこう言っています。「更に、あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(11~12節)と。終わりの日に備えて生きる信仰者は、たとえ今がどんなに暗い闇に閉ざされていても、夜明けが近いことを知っているゆえに、眠っていることはできません。目覚めて朝を待つのです。

 また、主イエスは小黙示録と言われるマタイによる福音書24章、25章の終わりの日についての説教の中で、繰り返して「目を覚ましていなさい」と呼びかけておられます。24章42節では、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られられるか、あなたがたには分からないからである」。また、25章13節でも、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 目を覚ましているとは、過ぎ去り行くこの世からは目を離して、永遠に変わることのない主イエスのみ言葉を聞きながら、終わりの日の主の再臨を待ち望んでいることです。主イエスが再びおいでになるときには、主の約束のみ言葉はすべて主ご自身によって成し遂げられるでしょう。その時には、わたしたちの救いは完成し、永遠に主なる神がわたしたちと共にいてくださり、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)神の国での永遠の命をわたしたちに授けてくださるでしょう。

 主イエスがマタイ福音書24章、25章で教えておられる、終末に備えて生きる生き方の特徴の第三は、主イエスから託された務めを忠実に果たすということです。目覚めるとは、単に目を覚まして起きていることではありません。主イエスがいくつものたとえ話で教えておられるように、旅に出る前にご主人から託された務めを忠実に果たす僕(しもべ)であるということです。24章45~47節を読んでみましょう。【45~47節】(49ページ)。このたとえでは、家の主人が留守の間、家の使用人たちに時間どおりに食事を与える務めを僕に託したことが語られています。また、25章14節以下では、旅行に出る主人が僕たちにタラントンを預けるたとえが語られています。

 主イエスは復活されてから40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされたあとで、天に昇られました。その際に、弟子たちに務めをお与えになりました。マタイ福音書28章19節以下ではこのように命じられています。【19~20節】(60ページ)。また、使徒言行録1章8節ではこのように命じられています。【8節】(213ページ)。わたしたち教会の民は主イエスから託された福音宣教の務めを果たしながら、終わりの日に備えて、再び来られる主イエス・キリストを待ち望んでいるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが天地万物を創造されてお始めになったこの世界の歴史を、あなたは終わりの日の完成に向かって、この日もまたみ心のままに進めてくださいます。あなたの救いのご計画は、どのような人間たちの罪や不信仰によっても、決して変更されることも止まることもありません。どうかわたしたちがそのことを固く信じて、どのような困難な時代にあっても、あなたの忠実な僕として、あなたから託されている務めをこの日もまた果たしていくことができますように、聖霊の導きをお与えください。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月16日説教「イスラエルに与えられた神の救いの言葉は主イエスによってわたしたちに与えられた」

2025年2月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    使徒言行録13章26~41節

説教題:「イスラエルに与えられた神の救いの言葉は主イエスによってわたし

たちに与えられた」

 使徒言行録に記録されている初代教会の説教は、2章のペンテコステの日のペトロの説教をはじめ、7章の殉教者ステファノの説教も、そして今学んでいる13章のパウロの説教も、すべては同じ構造になっています。つまり、まず旧約聖書に描かれている神の救いのみわざが語られ、次にその旧約聖書の神の救いのみわざが、主イエス・キリストによって今ここで最終的に、完全なかたちで、成就している、神の救いが完成している、と語っています。今日のわたしたちの言葉で表現すれば、旧約聖書は来るべき主イエス・キリストを預言し、待ち望んでいる旧約聖書の民イスラエルの救いの歴史であり、新約聖書は預言と約束の成就としてこの世においでになられた主イエス・キリストの十字架と復活によって、神の救いのみわざが今や全世界のすべての人々の救いの出来事として、その最終目的に達したことを語っている。そのようにまとめることができるでしょう。

 きょうの箇所で説教者パウロは、旧約聖書の出エジプトの出来事から始まるイスラエルのすべての救いの言葉が、主イエスの直前に現れた洗礼者ヨハネの登場を経て、今やこの世においでになった主イエス・キリストによって、この時代に生きるわたしたちに送られている神の救いの言葉であると、26節で語ります。【26節】。「アブラハムの子孫の方々」と「神を畏れる人たち」という呼びかけは、説教の冒頭の16節にもありました。この呼びかけもまた、主イエス・キリストによって成就された救いの完全性を言い表しています。「アブラハムの子孫」とは、神に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人のこと、「神を畏れる人たち」とは、まだ正式にユダヤ教には改宗していないが、旧約聖書の神をあがめ、聖書の言葉の真理を信じている、ユダヤ人以外の信奉者のことです。すなわち、選ばれて民ユダヤ人だけでなく、他のすべての人々、異邦人と言われる全世界の人々も、主イエスの福音によって、神の救いの恵みへと招き入れられているということを、この二つの呼びかけは意味しているのです。

 次にパウロは27節以下で、主イエスご自身によって成就された救いの出来事について語ります。パウロの説教の内容を順にみていくと、27~28節では、ユダヤ人指導者たちによる主イエスに対する偽りの裁判と十字架による処刑のこと、29節では主イエスの墓への葬り、30節では主イエスの復活、31節では、復活された主イエスがそのお姿を弟子たちに現わされた復活の顕現、そして32節では、教会による主イエスの福音の宣教活動へと続きます。これを見ると、パウロの説教はわたしたちが今日、礼拝で告白している『使徒信条』の内容とほとんど一致していることに気づきます。『使徒信条』では、「主は……ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちより復活し……」と告白されています。パウロの説教の内容とほとんど一致しています。

 パウロの第一回世界伝道旅行でのこの説教は、紀元40年代の後半と考えられています。『使徒信条』がまとめられたのは紀元3~4世紀ころと推測されますから、パウロのこの説教から2、300年の初代教会の神学的な研鑽の時を経て、今日の『使徒信条』が完成したと言えます。パウロのこの説教が『使徒信条』が形成されていく一つの原形となったのかもしれません。

 では、この箇所でのパウロの説教の特徴をいくつか見ていくことにしましょう。27~29節までの、主イエスのご受難を語る箇所の主語は、27節冒頭の「エルサレムに住む人々やその指導者たち」です。彼らが、主イエスに対する妬みや憎しみ、誤解や不信仰によって、主イエスを偽りの裁判で裁き、主イエスには死に値する罪を全く見いだせなかったにもかかわらず、ローマ総督ピラトに頼み込んで、死刑の宣告をしてもらい、主イエスを十字架につけ、そして主イエスのお体を十字架から降ろし、墓に葬りました。それらの行為のすべての主人公は、彼らエルサレムの指導者たちです。彼らは、神から遣わされたメシア・救い主である主イエスを受け入れず、拒絶するという大きな罪を犯しているのですが、彼ら自身はまだそのことには気づいてはいませんでした。

 この箇所の文章の主語はすべて「彼ら」です。しかし注意深く読むと、そこには隠された神のみ心が働いていたことをパウロは何度も語っているのです。27節では、「(彼らは)預言者の言葉を理解せず、……その言葉を成就させたのです」と言われています。29節では、「イエスについて書かれていることがすべて実現した」とも言われています。彼らユダヤ人指導者たちの無理解と不信仰という罪の中で、しかし旧約聖書に預言されていた神の言葉が不思議にも成就されていき、神の救いのみ心とご計画が成就されていったのだと、パウロは強調しています。

 主イエスのご受難の歩みにおいて主導権を握っているのは、彼らユダヤ人指導者ではなく、ピラトでもなく、十字架の下で主イエスをあざ笑っていた民衆でもなく、主なる神の言葉なのです。神がお遣わしになったメシア・救い主を受け入れない彼らユダヤ人たちの無理解やかたくなさの中で、罪のない神のみ子を裁こうとした人間の傲慢や罪の中で、そのすべてを貫いて、神の救いのみ心が行われ、神の言葉が実現されていったのです。

 パウロの説教のもう一つの特徴は、30節から突然に主語が変わり、「しかし、神は」という、力強い言葉で始められていることです。【30節】。ある人は、これは「偉大なる、しかし、だ」と表現しています。人間たちの考え、行動、歩み、歴史、そのすべてが罪に傾いて、罪に向かって進んでいくときに、「しかし、神は」という言葉が、その罪の歩みをとどめ、罪と死から人間を救い出す、神の命の言葉が語られていくのです。天地万物を創造された全能の神、無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神が、主イエスを死者の中から復活させてくださったのです。そのようにして、新しい人間の歩みを、世界の新しい歴史を、神は始めさせてくださるのです。

 30節で語られている「しかし、神は」という、強い響きを持った言い方が、このあとも余韻を残しながら繰り返されています。33節では、「神はイエスを復活させ」、34節でも「イエスを死者の中から復活させ」、そして37節では、「神が復活させたこの方は」と、神が主イエスを復活させたことが3度も強調されて繰り返されているのです。まさに、神は死から命を生み出される神であられます。罪と滅びから救いと新しい歩みを始めさせてくださる神です。主イエスを死から復活させてくださった偉大なる神は、わたしたち罪びとをも、罪と死と滅びから救い出してくださることを信じる信仰へと、わたしたちは招き入れられているのです。

 30節から始まる神の新しい救いのみわざの展開を見ていきましょう。31節では、主イエスの復活の顕現と、神が主イエスの復活の証人たちをお立てくださったことが語られています。復活された主イエスは、12弟子をはじめ、ガリラヤやエルサレムで主イエスに従った多くの信仰者たちに、40日間にわたってご自分のお姿を現されました。十字架で死なれた主イエスが確かに復活されたことを多くの人々にお示しになりました。彼らが主イエスの復活の証人として立てられ、教会が形成されたのです。教会は彼ら復活の証人たちの証言を土台にして建てられています。教会は彼らの証言を信じる信仰によって、その後も生き続けています。主イエスはヨハネ福音書20章29節で、「見ないで信じる人は幸いである」と言われました。わたしたちは主イエスの復活のお姿を直接に見てはいませんが、初代教会の彼ら目撃証人たちの証言を聖書で聞き、主イエスの復活を信じる幸いへと招かれているのです。

次の32節も、主イエスの復活の証人たちの働きについて語っています。【32節】。ここでは、復活の証人たちの宣教の働きについて語られます。彼らが復活の証人として立てられたのは、彼らが次の世代の人々に主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝えるためなのです。

「証人」という言葉が使徒言行録全体で非常に重要な意味を持つ言葉として繰り返して用いられていることをもう一度確認しておきましょう。最初は1章8節です。【8節】(213ページ)。次に、1章22節では、イスカリオテのユダに変わる12使徒を選ぶ際には、「主の復活の証人になるべきです」と言われています。2章32節では、【32節】(216ページ)とあります。この後にも、何度も証人という言葉が用いられます。この言葉は、紀元1世紀終わりころに、ローマ帝国による組織的な教会迫害が始まる時代になると、「殉教者」という意味が付け加えられるようになりました。そして、今日、このギリシャ語から造られた英語のmartyr(マーター)という言葉は、証人とか目撃者という本来の意味はほとんど薄れて、殉教者という意味で用いられます。

わたしたちが主イエスの復活の証人として立てられるということは、究極的な意味合いで、わたしたちが殉教者となるということに他なりません。「たとえわたしの命が脅かされることがあろうとも、わたしはこの証言を変えません。なぜならば、死から復活された主イエスこそが、わたしにまことの命をお与えくださる唯一の主だからです」と告白するのが、主イエスの証人だからです。

33節以下でパウロは、主イエスの復活の出来事の大きな、そして深い意味について、旧約聖書のみ言葉を引用しながら語ります。【33~37節】。主イエスの復活は、死者がもう一度生き返った蘇生ではありません。罪と死に対する完全な勝利です。それゆえに、主イエスを信じるわたしたちに、朽ち果てることのない永遠の命の保証を与えるのです。

パウロの説教の三つ目の大きな特徴は、38節以下で語られています。【38~39節】。ここで語られていることは、わたしたちプロテスタント教会の中心的な教えである「信仰義認」のことです。のちにパウロがローマの信徒への手紙などで詳しく展開していく教え、16世紀の宗教改革者たちが再発見したプロテスタント教会の教え、信じる人はだれであれ、ただその信仰によってのみ神に義とされ、罪ゆるされ、救われるという、「信仰義認」の教えが、ここですでに語られているのです。わたしの救いに必要なことはすべて主イエスによって成し遂げられています。たとえ、わたしには神の律法の一つをも守り行うことができなくても、罪多く、欠けや破れに満ちている人間であったとしても、わたしのために救いのみわざを成し遂げてくださった主イエスを、わたしの救い主と信じる信仰によって、神はわたしのすべての罪をゆるしてくださり、わたしを神のみ前で罪なき者とみなしてくださり、ただ神から差し出される一方的な恵みによって、神はわたしを義と認めてくだるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたから差し出されている救いの恵みを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの恵みに応えて、復活の主イエスを証しする者とされますように。

〇この世界にあなたの義と平和が実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月9日説教「わたしたちの日々の糧を与えてください」

2025年2月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの日々の糧を与えてください」

 ルカによる福音書11章で主イエスが弟子たちに教えられた祈りをテキストにして、「主の祈り」について学んでいます。きょうは3節の、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りについてです。ルカ福音書ではこれは第三番目の祈りになりますが、マタイ福音書6章と、それをテキストにした式文の「主の祈り」では、これは第四の祈願になります。つまり、ルカ福音書では第三の祈願にあたる「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」が省略されているのです。なぜ省略されているのかは、はっきりとは分かっていません。第二の祈願である、「御国が来ますように」の祈りの中に、神のみ心が地においてもなるようにとの願いが含まれていると理解されたために、省略されたのではないかと推測することはできます。

 では、ルカ福音書の第三の祈願、マタイ福音書では第四になりますが、この祈りについて学んでいきましょう。ここから、主の祈りの後半になります。前半では、み名、み国、そしてマタイではみ心、すなわち、神ご自身のことについて祈られていましたが、後半ではわたしたちのことが祈られます。前にも指摘しましたが、この順序が重要です。この順序を反対にすることはできません。まず、神ご自身のことが祈られ、その次に、わたしたち人間のことが祈られる、それが正しい祈りの順序であると、主イエスは教えておられるのです。

 まず、神のお名前がわたしたち人間によって正しくあがめられ、他のどのような名前よりもはるかに高く、尊く、力と権威を持つお名前として礼拝されるように。次に、神が唯一の王として支配しておられる神の国が待ち望まれ、地のすべての王たち、支配者たちが天におられる永遠の王のみ前にひれ伏すように。そして、神のみ心が地においても行われ、地のいたるところで神の愛と救いの恵みが人々に分かち与えられるように。そのように祈り求められているところにこそ、わたしたち人間にとって必要なものが正しく祈り求められるのだということです。

 たとえば、きょう学んでいる日々のパンを求める祈りですが、この祈りを神なき世界で祈られたらどうなるでしょうか。「わたしたちのパンが」とか、「わたしたちにパンを」という祈りが、世界の至る所で、神抜きで祈られるとしたら、それはおそらく、自分たちのパンを求める果てしない争いになり、パンを奪い合う醜い戦いになるに違いありません。人類はそのようにして自分たちが食べるための食料を奪い合って、数々の戦争を繰り返してきたのではないでしょうか。今もなお、より多くの食料を手に入れようとして、武力による食料の争奪戦を続けているのではないでしょうか。それだけでなく、わたしたちの日々の生活の中でも、より多くの、より質の良いパンを求め、より豊かな食卓を手に入れようとする欲望が、共に生きることを困難にし、隣人愛を破壊し、互いに傷つけあう災いや不幸を招いているのではないでしょうか。神がいない世界では、神が正しく礼拝されていない世界では、人間のすべての祈りや願いは、悪魔化していくほかにないのです。

 それゆえに、主イエスはわたしたちに、まず神ご自身のために祈りなさいとお命じになっておられます。神を正しく神とすること、そして人間を正しく人間とすること、つまり、人間は決して神ではないし、また神なしではないのだということ、そして、人間は神に愛され、神によってすべての必要なものを備えられる者なのだということを教えておられるのです。

 次に注目したいことは、後半の祈りでは「わたしたち」という言葉が初めて用いられているということ、しかも、何度も頻繁に用いられているということです。「わたしたちの」「わたしたちに」「わたしたちを」という言葉が、日本語の翻訳では省略されているものもありますが、3節では2回、4節では4回、計6回、用いられています。ここから教えられる第一のことは、前に確認したように、前半の祈りで、神が正しく神であるようにと祈られるならば、神はこれほどまでに深く、親しく、わたしたち人間にかかわってくださるということです。神はわたしたちのすべてを知っておられます。わたしたち人間の必要をすべて満たしてくださいます。

 ここで教えられる第二のことは、主の祈りはわたしたちの祈りだということです。わたし個人の祈りではありません。わたしたち人間のすべてを結び合わせる、わたしたちの祈りです。主の祈りは世界を包む祈りだと言われます。主の祈りによって、わたしたちは一つの人類となり、わたしたちという共同体となるのです。だれ一人として、この「わたしたち」から除外される人はいません。

 では次に、「糧」と訳されているもとのギリシャ語は「パン」という意味です。聖書ではこの言葉によって、わたしたち人間が食べたり飲んだりするすべての食料を意味しています。主の祈りの後半、すなわち、わたしたち人間に関する祈りの最初で、わたしたちの糧、パンのことが祈られているということには、非常に意味深いものがあります。二つのことに注目しましょう。一つには、わたしたち人間はパンによって命をつないでいる、つまり、パンを必要としている生き物であるということ、パンに飢えて苦しんだり、パンで満腹して楽しくなったりする生き物であるということです。二つ目のポイントは、そのことを主イエスは知っておられるということです。それゆえに、パンを求めなさい、パンを求めてよいと言われるのです。

 第一の点について、別の言葉で言えば、わたしたち人間は神によって造られた被造物であるということ、土から造られ、やがて死んで、土に帰っていく肉なる存在だということです。人間は神ではありません。永遠者ではありません。人間は神によって造られた被造物です。一切れのパンを必要としている肉なる者です。時に、飢えや渇きを覚え、苦しみや痛みを味わい、悩んだり迷ったりしながら、やがて肉体が衰え、死にいく者です。わたしたちは自らがそのような者であることを忘れてはなりません。また、そのような者であるゆえにこそ、パンを求める祈りを真剣にしなければなりません。

 第二の点をもう少し深く掘り下げてみましょう。主イエスはわたしたち人間のそのような弱さや痛みや迷いのすべてを知っておられます。そしてまた、主なる神がそのような肉なる者に過ぎない人間をどんなにか愛しておられるかを、わたしたちに悟らせようとされます。主イエスはルカ福音書12章22節以下で、「何を食べようか、何を着ようかと体のことで思い悩むな。空の鳥を見よ。野の花を見よ。働きも紡ぎもしないのに、神はこのように養っていてくださるではないか。ましてや、あなたがた人間にとって必要なものが何であるのかを神は知っておられ、それらのすべてを備えてくださる。だから、まず神の国を求めなさい。そうすればその他のものはすべて添えて与えられるであろう」と(12章22~34節参照)。

 事実、わたしたちは主イエスのご生涯によってそのことを知らされています。神はわたしたち罪の中にあって死すべき人間をこよなく愛してくださり、ご自身の一人子を人間のお姿でこの世にお遣わしになり、そのみ子の罪も汚れもない聖なる、尊い血によって、わたしたちを罪の奴隷から贖いだしてくださったのだということを、わたしたちは知らされているのです。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章32節でこのように言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と。神のみ子主イエス・キリストは、わたしたち人間の弱さや死すべき存在をご自身の全存在をもって担ってくださいました。そして、十字架で死んでくださり、三日目に罪と死に勝利されて復活なさいました。その主イエスご自身が、「あなたがたはこう祈りなさい。父よ、わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りによって、わたしたち一人ひとりを今救いの恵みへと招き入れてくださっておられるのです。

ある神学者は次のような詩を書いています。「パンの背後には粉がある。粉の背後には水車があり、水車の背後には太陽と雨と麦と父なる神のみ心がある」。わたしたちの食卓の上に置かれたパンの背後には、数えきれないほどの父なる神の愛のみ心があるのだということを、この神学者は歌っています。わたしたちは食卓のパンを見るたびに、そのことを知らなければなりません。神がこの大地を創造され、これを支配され、祝福しておられます。神は太陽を登らせ、雨を降らせ、大地に豊かな実りをお与えくださいます。神はまたわたしたちの労働を祝福され、食卓のパンを祝福され、わたしたちの肉体の命を養ってくださいます。このような神の深い愛のご支配と大きな祝福が、一切れのパンの中には満ち溢れているのです。わたしたちがそのことを知り、神に対する感謝と恐れとをもってパンを食するならば、わたしたちに本当の命が与えられ、本当に生きる者となるでしょう。

ある神学者はまたこうも言っています。「パンが目の前に置かれている時はいつも、人間は自分たちがいつも神に依存している者であり、神の賜物なくしては生きれない者であることを知るべきである」と。わたしたちの命はすべて神によって支えられているのです。神がわたしの命に必要なものすべてを備えてくださるのです。食卓の上のパンを目の前にするごとに、わたしたちそのことを覚えるのです。

それゆえに、「わたしたちに必要なパンをお与えください」とのこの祈りは、わたしたちの命を支える一切のものは神から与えられるのであり、神がそれらのすべてを備えてくださることを信じる者の祈りなのです。それゆえにまた、わたしの思い煩いも、悩みや苦しみも、すべてを神にお委ねする者の祈りです。

ルカ福音書11章3節では、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と言われていますが、マタイ福音書6章11節では、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と、少し違った表現になっています。「毎日」も「今日」も同じ意味と考えてよいでしょう。きょう一日のパンであり、一週間分とか、一年分を求めているのではありません。今生きるのに必要なパンです。必要以上のものを求めるべきではありません。むしろ、他者に分かち与えるべきです。パンを求める祈りは、わたしたちの祈りです。世界を包む祈りです。全人類を一つの共同体とする祈りです。教会がこの祈りをささげるとき、全世界のすべての人々に平等にパンが分配され、互いにパンを分かち合う社会となるようにと祈っているのであり、またそのための教会の務めを自覚しつつ祈るのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、パンを奪い合い、そのために血を流し合っているこの世界を憐れんでください。奪うのではなく、与える者の幸いをわたしたちに教えてください。この世界をあなたの義と平和で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月2日説教「エジプト滞在のイスラエルの民の中に戻ったモーセ」

2025年2月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記4章18~31節

    ローマの信徒への手紙9章1~5節

説教題:「エジプト滞在のイスラエルの民の中に戻ったモーセ」

モーセはエジプトのナイル川から救い上げられてから40年間、王宮で育てられ、教育を受けましたが、その後40年間はアラビア半島のミディアンの地で、祭司エトロの家で訓練を受けました。そして今、神の召命を受け、イスラエルの民を奴隷の家エジプトから救う神のみわざに仕えるために、新しい歩みを始めようとしています。

モーセは40年間過ごした妻の父エトロの家があるミディアンに行き、エトロに別れのあいさつをしています。18節で、「エジプトにいる親族のもとに帰らせてください」とモーセはエトロに話していますが、その親族とは、もちろん彼が育てられたエジプトの王宮のことではありません。彼を生んで、その後ファラオの命令によってナイル川に彼を捨てざるを得なかったヘブライ人の父や母、兄弟たちのことです。あるいは、エジプトで苦しめられている同胞のイスラエルの民をも含んでいるのかもしれません。モーセはエジプト王宮で育てられましたが、エジプト人にはなりませんでした。そして今、イスラエルの民の一人として、新たな使命、務めを神から託されて、エジプトで苦しんでいる同胞のイスラエルの民の中へと帰っていくのです。ここからモーセの新しい歩みが始まります。

【19~20節】。19節に、「主はモーセに言われた」とあり、また21節でももう一度、「主はモーセに言われた」と書かれています。モーセの新しい歩み、彼の新しい使命、務めは、神の命令により、神のみ言葉に導かれて始められます。彼のこののちのすべての歩みと務めもまたそうです。その時、彼は強く、固く立って、神が定められた道を進んでいくことができます。わたしたちが4章の前半で聞いてきた、何度も神の招きを拒絶し、弱音を吐き、尻込みし、逃げ回っていたモーセの姿は、ここにはもはやありません。

20節には、「手には神の杖を携えて」と書かれています。17節にも神の杖のことが言われていました。モーセはこの杖で、エジプト王の前で、驚くべき神の奇跡を行います。神の杖は、神が常にモーセと共におられることのしるしです。この杖は、神がモーセを導く杖でもあるのです。もはやモーセには迷いも不安も恐れもありません。神の召しに応え、神の招きに従順に従います。神が彼の歩みに常に伴っていてくださり、彼が語るべき言葉を授けてくださり、彼がなすべきことを示し、導いてくださるからです。モーセはそのことを信じる信仰者として、新しい一歩を踏み出すのです。

21節以下で、神はもう一度、モーセに約束されます。【21~23節】。ここには、神の僕(しもべ)とされたモーセに対する神の約束が語られていますが、同時にそれはまた、モーセの務めの困難さをも語っているように思われます。神は、「わたしはファラオの心をかたくなにするので」と言われます。エジプト王ファラオは絶対的な権力を誇っていました。奴隷として倉庫の建設などに利用していたイスラエルの民を、やすやすと手放すことはしません。イスラエルを解放してほしいというモーセの要求を簡単に受け入れることはしません。それは当然予想されることでした。しかしここでは、それは神がなさることだと言われているのです。神ご自身がファラオの心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろうと言われているのです。それはいったい何を語っているのでしょうか。

一つには、ファラオのかたくなさが強調されていることです。モーセは何度も繰り返してフアラオにイスラエルの解放を要求します。それがファラオによって拒絶されると、モーセは神の杖によって奇跡を行い、エジプト全土に大きな災いと被害を与えます。ファラオは災いの大きさに困り果てて、いったんは解放を認めますが、すぐにまたそれを撤回します。それが9度も繰り返されます。そしてついに、10番目の災いが23節で語られている、エジプトの王ファラオの長男をはじめとしてエジプト全土のすべての家庭の長男の死となります。ファラオのかたくなさゆえに、これらの10の災いがエジプトに大きな災害をもたらすことになります。それは神のみ心であり、神がなさることだと言われているのです。

しかし第二には、そのファラオのかたくなさもまた神のみ手の中にあるということが強調されています。イスラエルの主なる神はエジプト王ファラオをも支配しておられ、ご自身の救いのみわざのためにお用いになるのです。

そして第三には、ファラオがどれほどにかたくなであったとしても、イスラエルの解放を幾度も拒絶するとしても、それにもかかわらず、神はご自身の救いのご計画を確かに実行なさるのだということです。そのようにして、主なる神は人間のあらゆるかたくなさや不従順や不信仰にもかかわらず、いやむしろそれらのすべてをお用いになって、ご自身の救いのみわざをなしたもうのだということが、ここでは最終的に強調されているのです。

神は22節で、「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」と言われます。かつて族長時代、創世記に描かれているように、アブラハムに約束された神の祝福がその子イサクに受け継がれ、またその子ヤコブに受け継がれたように、そして今神の祝福が神の長子として選ばれたイスラエルの民に受け継がれているのです。神は最愛の長子であるイスラエルが、奴隷の家エジプトで苦しめられているのを、そのまま見過ごしになさることはありません。彼らの叫びと祈りとをお聞きになります。そして、そこから救い出すために働かれます。

ここではさらに、イスラエルが神の長子であることとエジプト王ファラオの長子とが対比されて語られています。これは、先ほども少し触れましたが、のちのエジプトに対する10番目の災いである長子の死について語っています。ファラオが繰り返してイスラエルの民の解放を拒絶したために、神の最も厳しい裁きとして、ファラオの家をはじめ、エジプト全土のすべてのエジプト人の家の長男と家畜の最初に生まれた雄とがみな神によって滅ぼされという災いが、ここであらかじめ予告されています。出エジプト記11章以下に書かれていることです。これは、エジプトにとっては最も恐ろしい神の裁きですが、イスラエルにとっては神の偉大な救いの出来事として、のちに過ぎ越しの祭りとして祝われることになります。

神の長子であるイスラエルに対する神の大きな愛について、ホセア書11章1節にはこのように書かれています。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。神の長子であるイスラエルに対する神の大きな愛は、ご自身の一人子なる主イエス・キリストを、わたしたち罪びとの罪を贖うささげものとして、十字架の死に引き渡された大いなる神の愛となって結集し、わたしたちに注がれたのです。

24~26節には、モーセがミディアンの地、エトロの家からエジプトに帰る旅の途中で起こった不思議な出来事について記されています。この箇所は、分からない点が多く、ここで何が語られているのか、はっきりと断定することは困難ですが、わかっている範囲でいくつかのことを読み取っていきたいと思います。

24節で、「神はモーセを殺そうとされた」と書かれています。なぜ、神がモーセを殺そうとされたのかについては全く書かれていませんし、わたしたちが何かの理由を考えることもほとんど不可能です。神はモーセをご自分の民イスラエルを救い出すための指導者として召されたのですから、そのモーセをいきなり殺すなどということは、考えられません。このあとのこととの関連で、モーセが割礼を受けていなかったことが原因なのではないかと推測する人もいますが、2章2節によれば、モーセは3か月間、両親の家で過していますので、おそらく割礼を受けていたと考えるのが自然です。

そもそも割礼は、最初アブラハムに神が契約のしるしとして定めたものでした。創世記17章9節以下に書かれています。アブラハムの子孫として生まれた男子はみな、生まれて8日目に、神に選ばれ、神の祝福を受け継ぐしるしとして、男性の生殖器の一部の皮を切り取るという手術をするように定められていました。きょうの箇所では、モーセの息子(この息子の誕生については2章22節に書かれていました)の割礼の儀式を、妻のツィポラが行ったことが書かれていて、それによって神はモーセを殺すことをやめたと読めますので、もしかしたら息子の割礼をモーセが忘れていたことが、神の怒りを招いたと理解されなくもありませんが、よく分かりません。いずれにしても、モーセはアブラハムの子孫として、神に選ばれ、神との契約に生きる民の一人として、神から託された務めを果たしていくのです。そのことがここで再確認されています。

27節からは、モーセと彼の兄弟アロンが荒れ野の神の山で会い、二人が協力し合ってエジプト脱出という神の救いのみわざのために仕えることの確認をしたこと、そして二人で、ここではモーセの代弁者として語るアロンが主体的に行動していますが、エジプトにいるイスラエルの民の代表者たちを集めて、彼らに神の救いのご計画について話したことなどが、簡潔に語られています。31節の「民は信じた」というのは、アロンが語った神の救いのご計画を信じたという意味と、アロンとモーセとを神から派遣された自分たちの指導者であることを認めたという、二つの意味が込められているように思われます。

この箇所で、一貫して強調されていることは、そのすべてを導いているのが主なる神の言葉であるということです。23節には、「主の言葉と、命じられたしるしをすべて」と書かれています。また、30節には、「主がモーセに語られた言葉をことごとく」とあり、そして最後の31節には、「民は信じた。また主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になったということを聞き、ひれ伏して礼拝した」と書かれています。モーセとアロンを固く結びつけているものは、神の言葉です。モーセとアロン、そしてイスラエルの民を固く結びつけているのも、神の言葉です。わたしたちは神の言葉である聖書のみ言葉によって、主なる神と固く結び合わされ、また主なる神の救いの恵みに固く結び合わされ、そして一つの群れとして固く結び合わされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがアブラハムに語られ、モーセに語られ、イスラエルの民に語られたあなたの救いの言葉を、あなたは今あなたのみ子主イエス・キリストによって、わたしたちにもお語りくださいましたことを、感謝いたします。わたしたちがあなたのみ言葉を聞いた時、心をかたくなにして耳を閉ざすことがありませんように、またこの世の誘惑の言葉に負けてあなたのみ言葉を軽んじることがありませんように、従順にみ言葉に聞き従う者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和が、この世界で営まれる政治や経済、科学、文化、人々の日常生活のあらゆる分野で、固く据えられますよう。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月26日説教「信仰による信徒の訓練」

2025年1月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(39)

聖 書:レビ記20章22~26節

    マタイによる福音書18章15~20節

説教題:「信仰による信徒の訓練」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その後半の部分、「主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し」という個所では、教会の務め、使命について3つが挙げられています。宗教改革者ルターとカルヴァンは、一つ目の「正しくみ言葉を宣べ伝える」ことと二つ目の、「聖礼典を行うこと」を、真実の教会であることの目印、基準であると言いました。彼らから少しあとの時代の、改革教会の信仰告白では、その二つに、「信仰の訓練」、あるいは「教会の訓練」、わたしたちの教会の信仰告白では「信徒の訓練」ですが、これを三つ目の目印、基準として付け加えるようになりました。

 その代表的な二つを紹介します。1561年に制定された『ベルギー信仰告白』の第28条ではこのように告白されています。「まことの教会が認識されるしるしは、これである。すなわち、教会が福音を純粋に説教しているかどうか、キリストの訓令に従って正しくサクラメント(聖礼典)が執行されているかどうか、生活をただすために教会訓練を守っているかどうかである」。前年の1560年に制定された『スコットランド信仰告白』の第18条ではもう少し説明を加えています。「神の真の教会のしるしは、まず第一に神のみ言葉の真の説教であると、われわれは信じ、告白し、明言する。預言者と使徒の文書が明らかにしているように、神はそのみ言葉によってご自身をわれわれに啓示されたからである。第二は、キリスト・イエスの聖礼典の正しい執行である。聖礼典は、神のみ言葉と約束がわれわれの心に封印され、確実にされるように、それらに結合されていなければならない。最後は、神のみ言葉の規定に従って、正しく行われる教会規律である。それによって、悪徳が抑制され、善き行いが養われるのである。これらのしるしが認められ、常に継続しているところではどこでも、疑いなく真のキリストの教会が存在する」。

 秋田教会もまた、真実の、主キリストの体なる教会であり続けるために、この三つのしるしを常にみんなで確認し合いながら、歩んでいきたいと願っています。主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章20節)と約束しておられます。

 では、きょうのテーマである「信徒の訓練」とは何を言うのかを学んでいきましょう。最初に確認しておくべきことは、この訓練は「信徒の」訓練、あるいは信仰の訓練とか、教会訓練と言われるように、すでに信仰を告白し、主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされていることを信じているキリスト者が、その信仰をより確かにし、主キリストの教会のためにより正しく仕えていくための訓練であるということです。すなわち、その訓練によって、何か新しい信仰を生み出すとか、何か新たな悟りを開くとかいうのではなく、また主イエスの福音以外の何かを付け加えるための訓練、あるいは修練とかではないということです。むしろ、いよいよ主イエスの福音のみに集中し、主イエスの福音以外の何ものにも頼らない信仰者となるための訓練です。

 したがって、信徒の訓練、信仰の訓練、教会訓練は、徹底して聖書のみ言葉に基づいて行われなければなりませんし、主イエスの福音にふさわしくなされなければなりません。そしてまた、主イエスの体である教会を健全に建てるための訓練でなければなりません。

 そこで、あらためて注目したいことは、『信仰告白』の中で、「主の委託により」という文章が「正しくみ言葉を宣べ伝え」と「聖礼典を行い」とに続いて、三つ目の「信徒を訓練し」にも、直接的ではないにしても、ある程度関連していると理解すべきだということです。信仰の訓練は主イエスのみ心に従ってなされなければなりませんし、主イエスのみ言葉の宣教と聖礼典の正しい執行との関連でなされなければなりません。したがって、信仰の訓練は何よりもまず主の日の礼拝をとおしてなされなければなりません。礼拝で主なる神のみ言葉を、わたしをまことの命に生かす唯一の生ける神のみ言葉として聞き、主イエス・キリストの福音を、わたしを罪から救う唯一の命のみ言葉として聞くことから、信仰の訓練が始まっていくということです。そして、み言葉で語られた命と救いの恵みの、目に見えるしるしである聖礼典によって、わたしの信仰がより確かにされ、聖霊によってわたしの中に封印されていくのです。そのようにして、信仰の訓練が継続されていきます。さらには、神の祝福と派遣のみ言葉によってこの世へと派遣されていく信仰者は、この世にあって神のみ言葉を携え、神のみ言葉に導かれつつ、いまだ罪が支配しているこの世にあって、罪の誘惑と戦いながら、主イエス・キリストを証しして生きていきます。その全体が、信仰の訓練の時なのです。主イエス・キリストの体なる教会は、そのようにして、み言葉の説教と聖礼典と信徒の訓練とが固く結びあってなされることによって、健全に建てられていくのです。

 日本キリスト教会では一時期、信徒が良く学び、頻繁に修養会などを開催し、教会の青年会、婦人会などで読書会を開いたりして、勉強熱心であることが信仰の訓練であると言われていたことがありました。もちろん、そのようなことも信仰の訓練の一つではありますが、中心ではありません。他の宗教団体やスポーツクラブなどの、修練とか鍛錬と言われるものではありませんし、新たな悟りを開いたり、真理を見いだすためになされるものでもありません。「信徒の訓練」が教会論という大きな枠の中で告白されていることからもわかるように、真実の教会を形成していくためになされるものです。一人の信仰者の信仰の成長のためと言うよりは、教会という、健全な群れの形成のためになされる訓練です。宗教改革以後の信仰告白で、「教会訓練」「教会規律」と言われているのは、そのような意味を持っています。

 したがって、信仰の訓練は、信仰者一人一人に与えられている信仰の賜物を互いに分かち合うことによってなされます。あるいはまた、喜んで互いの重荷を担い合うことによってなされます。泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜びながらなされます。

 では次に、聖書に教えられている実例から学んでいきましょう。一つには、イスラエルの民がエジプトを脱出してからの荒れ野の40年間が、彼らを神が訓練された期間であったと旧約聖書で教えられています。申命記8章2節以下では、神がイスラエルの民を荒れ野に導いたのは、彼らの信仰を訓練するためであり、彼らが神の戒めを守るかどうかを試し、神のみ言葉だけが彼らが荒れ野で生きていくための糧であることを知るためであったと書かれています。神がイスラエルの民を荒れ野、すなわち砂漠地帯の何もない、食料も水もなく、住む家も商店街もない、そのような困難な状況の中に彼らを導かれたのは、その困難の中でただ主なる神の口から出る一つひとつのみ言葉をこそ信じ、それによって生きるべきことを学ぶためであったのです。それは、イスラエルが一つの礼拝の民として形成されていくための訓練の時であったと言ってよいでしょう。イスラエルの荒れ野の訓練は、一つの礼拝の群れを形成することを目指していたのです。

 そして、新約聖書でも至る箇所で、神は信仰者に信仰による訓練をお与えになり、その訓練によって、天にある永遠の宝をいよいよ強く追い求めるように導いてくださることが語られています。わたしたちの魂の父であられる天の父なる神は、地上の親が子どもを愛し、訓練するように、いな、それ以上の大きな愛と報いとをもって、わたしたち信仰者を訓練なさいます。それは、わたしたちが地上にある朽ちゆく命を養うためでなく、「朽ちず、汚れず、しぼまない」「天に蓄えられている財産を受け継ぐため」(ペトロの手紙一1章3節以下参照)だと教えられています。

 また、ペトロの手紙二3章16、17節にはこのように書かれています。「聖書はすべて神の霊によって書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」。わたしたちは主イエス・キリストの僕(しもべ)として、主イエスを証しし、主イエスの救いのみわざのために仕える務めを与えられています。聖書のみ言葉はそのための訓練をも導きます。

 信仰の訓練にはもう一つの側面があります。それは「戒規」と言われます。信仰の道からそれないための訓練のことです。主イエスはマタイ福音書18章15節以下でこのように教えておられます。【15~17節】(35ページ)。改革教会では、ここから「戒規」とか「訓練規程」という制度と規則を設けました。日本キリスト教会では規則第18条で「戒規」について定めています。

 戒規は、信仰者が主イエス・キリストの福音からそれて、罪の道へと進んでいくことを防ぎ、再び信仰の道へと連れ戻すための制度、規則であり、また教会を偽りの教えや不正義、混乱から守り、秩序ある群れとして整えることを目的とした制度、規則です。したがって、これは信仰者のあやまちを裁く法廷では決してありませんし、怠惰で不真面目な信仰者をむち打つ罰でもありません。迷った信仰者を主イエスのもとへと連れ戻すための福音であり、また罪を犯した信仰者を悔い改めへと導くための福音なのです。

 主イエスが教えておられるように、信仰の訓練とは、あるいは教会訓練、戒規、訓練規程とは、罪の中にあって傷つき、病んでいる兄弟姉妹を、その病の中から導き出し、悔い改めと信仰へと進ませ、そのようにして、失われつつあった兄弟姉妹を再び獲得することなのです。そのようにして、主イエス・キリストから教会に託されている、尊い神の国のカギの権能を、恐れをもって行使することなのです。そのすべては主イエス・キリストの福音によって行われるものなのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは弱く、くずおれやすく、罪と悪の誘惑に対して抵抗する力を持ちません。どうか、あなたがみ言葉の力と命によって、わたしたちをすべての悪しき力からお守りくださいますように。日々に、わたしたちをみ言葉によって訓練し、養い、育て、あなたのみ心に従順に従う者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とがこの世界を支配しますように。すべての人が唯一の主であり王であられるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月19日説教「イスラエルの民を導かれた神」

2025年1月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記26章5~11節

    使徒言行録13章16~25節

説教題:「イスラエルの民を導かれた神」

 使徒パウロの第一回世界伝道旅行は、地中海のキプロス島から小アジア(今のトルコ)のパンフィリア州ペルゲに上陸し、そこから奥地への険しい山道を北上して、ピシディア州アンティオキアに到着しました。その町でのユダヤ人会堂でなされたパウロの説教が使徒言行録13章15節から記されています。前回はその初めの部分を学びましたので、きょうは18節あたりから読んでいくことにしましょう。

 この説教の初めで、パウロは神がイスラエルの民をお選びになり、エジプトの奴隷の家から導き出されたことを語っています。旧約聖書の出エジプト記に書かれていることです。モーセをリーダーにしたイスラエルの民は、エジプトを脱出したのち、荒れ野、砂漠地帯を40年間、旅することになります。

18節に、【18節】と書かれています。イスラエルの荒れ野の40年間は、神がイスラエルの人々の行いを忍耐された期間であったとパウロは理解しています。エジプトから約束の地カナンまでは、直線距離では400から500キロ程度ですから、ゆっくり旅しても1、2か月で着くことができたのに、神は彼らを荒れ野に40年間もさまよわせたのでした。それは、神の忍耐を彼らに示すためであったと、パウロは言うのです。この理解は、申命記で言われている内容と一致します。申命記8章2節以下を読んでみましょう。【2~6節】(294ページ)。荒れ野の40年間は、神がイスラエルの信仰を訓練する期間であり、彼らが神のみ言葉によってのみ生きるべきであり、また生きることができるのだということを学ぶ期間でもあり、彼らの神に対する不信仰や不従順を神が忍耐された期間であり、神の大いなる愛と憐れみが示された期間であったのです。

彼らは荒れ野で、のどが渇き、空腹に襲われたときに、モーセを非難してこう言いました。「あなたは我々をここで餓死させるために我々を荒れ野に連れてきたのではないのか。エジプトでは腹いっぱい肉鍋を食べ、飲み水に不自由したことはなかったのに」。彼らは何度もそのように言っては、神の救いのみわざを疑い、エジプトでの奴隷の生活を懐かしんだのでした。神はそのたびに彼らの不信仰を嘆かれ、怒られましたが、しかし、それにもかかわらず、神は彼らをお見捨てになることはなさらず、忍耐と憐れみとをもって、必要なすべてのものを彼らに備え、荒れ野の40年間を導かれたのでした。

それはなんのためであったのか。パウロは26節で、「この救いの言葉はわたしたちに送られました」と結論づけています。荒れ野の40年間のイスラエルの民の繰り返された神に対する罪と反抗、しかしそれにもかかわらず、絶えることがなかった神の忍耐と憐れみ、そして愛と慈しみに満ちた信仰の訓練の時、それは、主イエス・キリストの福音によって、今のわたしたちに与えられている救いの言葉なのだというのです。

荒れ野の40年間だけでなく、パウロが続いて語る土地の取得や、裁き司、士師の時代、イスラエル王朝の時代、ダビデ王への神の宣言、洗礼者ヨハネの登場、それらのすべてが、今のわたしたちに語られている神の救いの言葉なのだと、言うのです。パウロはこのようにして、旧約聖書で語られているイスラエルのすべての歴史、民の歩み、その中で示された主なる神の愛と憐れみ、慈しみが、主イエス・キリストによって成就している、今のわたしたちに差し出されている救いの言葉なのだということを語っているのです。

荒れ野の40年の後は、約束の地カナンの土地取得です。【19節】。最初に、族長アブラハムに与えられた約束の地カナンの取得は、アブラハムから数えると、族長時代200年間、エジプト移住時代400年間、荒れ野の40年間を合計すると、実に650年もの時を経て実現されたのです。

次の、預言者サムエルまでの士師の時代、神はイスラエルの民を神の言葉によって裁き、導く士師たちをお立てくださいました。12人の士師たちの働きについては、士師記に記されています。イスラエルが約束の地に長く住み慣れてくるにつれて、次第に神から離れ、偶像礼拝や神に背く罪を犯し、その結果として外国からの攻撃に悩まされ、国が危機に陥ったときに、神はデボラ、ギデオン、サムソンなどの士師たちをお立てになりました。彼ら士師たちはイスラエルの民に神の言葉を語り、再び神に立ち返らせるために仕えました。このような士師たちの働きは、のちの時代の王や預言者たちへと引き継がれていくことになります。

21節からは、王制の時代について語られています。【21~22節】。「人々が王を求めたので」と書かれています。この表現には、イスラエルの王制は神のみ心によって始まったというよりは、人々からの要請によるという、パウロ自身の理解があるように思われます。実は、旧約聖書の中には、その二つの理解が混同というか、共存というか、二つが並行してあると、今日の多くの聖書学者はみています。

この時代、紀元前11世紀ころの近東諸国は、エジプトをはじめとして多くは王制国家でした。一人の王の支配のもとで、国家がまとまり、一人の支配者によって強力な軍隊を持つ国家が、より安定した、また強力な国家になると考えられていたようでした。イスラエルの士師の時代には、何か国家の危機があったときにはひとりの士師が立てられ、イスラエルを治め、導いていましたが、国家が安定するとその士師の働きは終わり、部族ごとの緩やかな連合に戻るというのが、士師時代のイスラエルの政治形態だったのです。

でも、幾度も外国からの強い軍隊によって攻撃を受け続けたイスラエルには、永続的に国を治める王を立てることが、国の安定と強化を図るのに便利だという考えが起こってきました。それが、「人々が王を求めた」というパウロの表現になっていると思われます。

ところが、イスラエルにはもう一つの伝統的な考え方がありました。それが、イスラエルを治め、導くのは、ただお一人、主なる神だけである。神の言葉、神の律法だけが唯一の権威を持ち、イスラエルのすべての歩み、政治も市民生活をも、そして信仰をも導くのだから、地上の王を持つことは神に背くことになる。それゆえ、王制には反対だという考えです。サムエル記上8章以下に、そのような二つの考えがあったことが記されています。

イスラエルの初代の王サウルからダビデ、ソロモンへと王は移っていきますが、その間に、相対立したこの二つの考え方は次第に調整されていくことになりました。すなわち、地上の王は天の唯一の王であられる神のみ心を行うために神の委託によって立てられているのであるから、地上の王は民の上に君臨するよりも前に、神のみ前にへりくだり、神の僕(しもべ)として、神のみ心を行い、神とその民に仕える者であるべきだという考えです。

この考えのもとで、ダビデはイスラエルの理想的な王であると評価されるようになりました。そして、そのダビデに対して、神は重要な約束をお与えになりました。23節で、パウロはこのように言います。【23節】。これが、ダビデ契約と一般に言われるものです。サムエル記下7章に記されていますので、その個所を読んでみましょう。【12~16節】(490ページ)。神はダビデとこの契約を結び、彼の子孫から出る一人のメシア・油注がれた者、救い主をこの世に送ってくださる、その王国を固く据えると約束されたのです。

イザヤ書11章1節以下にはこう預言されています。「エッサイの株からひとつの芽が萌出いで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。これが、エッサイ(ダビデの父親の名前)の子孫から出て、全世界を神の義と愛によって治めるメシア・救い主であられる主イエス・キリストの誕生を預言するみ言葉として、クリスマスの時に読まれるようになったのです。

 そして、マタイ福音書1章1節の主イエスの家系図では、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」として、主イエスの父親となるヨセフについては、16節で、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と書かれています。ルカ福音書1章27節、32、33節でも、主イエスはダビデの子孫としてお生まれになったことが繰り返して語られています。【27節】。【32~33節】(100ページ)。

使徒パウロもまた。ローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」と言っています。旧約聖書のダビデ契約が、時満ちて、ダビデの遠い子孫であるヨセフを父としてお生まれになった主イエスによって成就したのだと、新約聖書は一致して語っているのです。

まさに、イスラエルの民に語られた神の救いの言葉が、今パウロの説教をとおしてアンティオキアのユダヤ人会堂に集っているユダヤ人やギリシャ人に届けられたのであり、また、使徒言行録のみ言葉をとおして、今日のわたしたちにも届けられているのです。神の永遠の救いのご計画の中に、わたしたちもまた招かれているのです。

24節からは、洗礼者ハネの登場について語られています。【24~25節】。洗礼者ヨハネの登場と彼の荒れ野での説教、悔い改めの洗礼については、共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカ福音書に詳しく語られています。洗礼者ヨハネは、最後には殉教の死を遂げますが、彼は彼の全存在と全生涯、そして彼の命そのものをかけて、彼のあとにおいでになられるメシア・救い主なる主イエス・キリストの到来を証ししたのです。

そして今、それらのすべての救いの言葉によって差し出されている神の豊かな恵みを受け取ったわたしたちもまた、わたしの生き方、わたしの行動、わたしの言葉によって、わたしたち全人類の救いのために十字架で死んでくださり、三日目に復活された主イエス・キリストを証しするように招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、天地創造の時から始められたあなたの永遠なる救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をもお招きくださっておられますことを、心から感謝いたします。あなたのこの救いのご計画から、だれ一人としてもれることがありませんように。全世界に建てられている主の教会の宣教の働きを、どうかあなたがお強めくださいますように。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和が到来しますように。国と国が、民族と民族が、そして一人と一人が、互いに分かち合い、協力し合い、許し合う一つの世界となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。