3月3日説教「72人の福音宣教者の派遣」

2024年3月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ルカによる福音書10章1~12節

説教題:「72人の福音宣教者の派遣」

 ルカによる福音書ではすでに9章1節以下に、主イエスが12人の弟子を神の国の福音を宣教するために派遣したという記録が書かれていました。きょう朗読された10章では、12弟子とは別に、72人を任命し、すべての町々村々に収穫のための働き人としてお遣わしになったことが書かれています。この二つの記録は、共通した点もありますが、派遣された人数の違いのほかにも違う点が多くあります。そのことに注目しながら読んでいくことにしましょう。

 【1節】。冒頭の「その後」とは、直訳すれば「これらのことのあとで」となり、単なる接続詞よりは強い意味を持ちます。ここでは、主イエスがご自身のご受難の時が近づいてきたのを感じとられ、9章51節に書かれていたように、「エルサレムに向かう決意を固められた」ことが強く意識されていると思われます。主イエスのご受難と十字架の死によって、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音がいよいよその最終目的に近づいている、救いの時が成就される、その日が迫ってきているという緊迫感がここにはあります。

 次に、「主は」と書かれています。主イエスのことですが、これまでルカ福音書では、主イエスがだれかに呼びかけられるときには、「主よ」と言われていたことはありましたが、主イエスが主語の文章で、イエスを主と表現している箇所はありませんでした。ここで初めて「主」と書かれていることも、前にお話ししたエルサレムでのご受難の時が迫ってきていることと関連していると考えられます。主イエスが全人類の救い主となられる時が迫っているということを、ルカ福音書は暗示しているのです。

次に、72人という数字から、9章とは違った意味を読み取ることができます。聖書では、70、あるいは72という数字は特別の意味があります。12人の弟子たちは、イスラエル12部族を象徴し、イスラエル全体を象徴していると考えられましたが、72人は、全世界のすべての民を象徴していると考えられます。ルカ福音書は主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨と教会誕生を、いわば先取りして、やがて主イエスの十字架の福音が全世界に宣べ伝えられることをあらかじめこの数字によって予告していると考えられます。

主イエス・キリストの十字架の福音は、全世界のすべての民、すべての人に宣べ伝えられねばなりません。主イエスの救いの福音は、すべての人が聞かなければなりません。それが主なる神の救いのご計画だからです。すべての人は罪のゆえに神から離れており、神の裁きを受けて死すべき者と定められています。主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、救われることによって、人はみなまことの命を生きる者とされるからです。のちに、復活された主イエスは、この福音書の24章41節で弟子たちにこのように言われました。「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。……あなたがたはこれらのことの証人となる」と。

「任命する」と「遣わす」という言葉を取り上げてみます。9章では、「12人を呼び集め」、「権能をお授けになり」、「遣わす」と書かれていました。いずれの場合も、主語は主イエスです。主イエスが72人を選び、任命し、派遣されます。ここに、宣教のために遣わされる弟子たちの基本があります。ここにはまた、教会に集められ、礼拝者とされているわたしたち信仰者の基本もあるのです。わたしたちが信仰者となり、キリスト者とされたことも、主イエスの選びによるのであり、また主イエスの派遣によってこの世へと遣わされていくのです。

 もし、わたしが自分の判断で選んだのであれば、それには誤りも失敗もあるかもしれません。迷ったり、疑ったり、たじろいだり、恐れたりすることがあるかもしれません。実際、そういうことを経験もするでしょう。けれども、その時にわたしたちは主イエスの弟子であることの、この基本を思い起こすべきです。わたしが選んだのではない。わたしが自分の足で立つのではない。主イエスがこのわたしをお選びになり、主イエスがこのわたしをお遣わしになられたのだということを。そこにこそ、弟子たることの、またこの世に派遣されることの基本と、確かさと、力と希望があるのだということを、わたしたちは思い起こすのです。

1節でもう一つ触れておきたいことは、「二人ずつ」ということについてです。主イエスは弟子たちが福音を述べ伝えるにあたって、二人一組にして派遣されました。初代教会でも多くがその例にならったことが、使徒言行録の記録から分かります。8章14節ではペテロとヨハネが、13章2節ではパウロとバルナバが、15章39節ではパウロとマルコが、二人一組になって宣教活動に行ったことが記録されています。二人だとお互い協力し合い、助け合い、励まし合うことができるという面もあるでしょうが、それ以上に大きな理由がここにはあります。それは旧約聖書の律法に、重要な証言は二人または三人の証人によらなければならないと定められていることに関連しています。弟子たちは神の国の福音の証人として、主イエスの十字架による罪のゆるしと救いのみ言葉の証人として遣わされるのでありますから、その証言が確かであり、真実であることが、それによって証明されるのです。

さて、2節からは72人の弟子たちを主イエスが派遣する具体的な目的について、また彼らがその務めを果たすにはどうすべきかについて語られています。【2~3節】。この二つの節は、9章の12弟子の派遣の箇所には書かれていませんでした。その時とは違った、新しい局面が迫っていることが暗示されています。

新しい局面の第一は、今は収穫の時だということです。そして、多くの収穫が約束されているということです。収穫とは、失われていた人間の魂を買い戻すことだと言ってよいでしょう。ヨハネ福音書4章35節で、主イエスはこのように言われました。「目を上げて畑を見よ。はや色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」(35、36節参照)と。主イエスの十字架による救いの時が今やってきた。罪のゆえに失われ、死んでいた人間の魂が神のみ子の尊い血によって買い戻された。その魂を集め、永遠のみ国へと招き入れるために、今は働き人を必要としている。その働き人として、わたしはあなたを遣わすのだ。そのように主イエスは言われます。

ただ、ここで重要なことは、弟子たちが自分の力や努力で実を刈り取り、収穫を増やすのではありません。「収穫の主に願いなさい」と命じられています。収穫の主は父なる神であり、み子主イエスです。収穫の主が、すでに多くの収穫を用意していてくださるのです。それは働き人たちにとっての確かな約束であり、希望であり、慰めです。弟子たちはそのことを信じて、収穫の主に祈り求めつつ、働き人としての務めを果たすことができます。

 もう一つは、収穫のために遣わされる働き人は困難な状況の中へ、危険が待っている世界へと派遣されるということです。狼は最も野蛮で、どう猛で、攻撃的な生き物の象徴であり、子羊は最も弱く、無防備で、無抵抗な生き物の象徴です。その両極端な生き物を例に挙げることによって、働き人が遣わされるこの世界がいかに罪深く、かたくなで、福音を聞く耳を持たないかが強調されているとともに、それゆえに働き人の務めがいかに困難であり、危険に満ち、抵抗や反撃、苦難と迫害に満ちているかが強調されていることになるのですが、しかしそれ以上にここで強調されていることは、そのような困難な世界へと派遣されていく働き人に対する、主イエスの固い約束であり、収穫の約束であり、収穫の主であられる主なる神の守りと導き、それが強調されているのです。

 次の4節からの命令は、9章との共通点が多くあります。いくつかのポイントにまとめてみましょう。

 一つは、持ち物に関してです。主イエスは普通の旅行者が持っていくような最低限の持ち物すらも持っていくなとお命じになりました。それらの持ち物を用意している余裕がないほどに、時が切迫している。今すぐにでも、何も持たずに、出発しなければならないからです。また、旅の途中で必要になるものは、主なる神が必ず備えてくださるという強い信仰を持つことが大切だからです。さらには、携えていくべきものは、主イエスの福音だけで十分だからです。主イエスの福音を携えていく福音宣教者の足は、いつどのような時にも、主なる神によって守られ、導かれるからです。

 第二点は、遣わされた町々村々で、福音宣教以外のことで、時間を無駄にしないようにすることです。4節では「途中でだれにもあいさつするな」と命じられていますが、これはあいさつすることを禁じているのではなく、急いで目的地に着き、託された務めを果たしなさいということだと考えられます。

 5節では、目的地に着いたならば、最初に「この家に平安があるように」と祈り、あいさつをするようにと命じられています。福音を宣教するために遣わされた働き人は、神からの平安を持ち運びます。この平安は、地上でわたしたちが手に入れることができるような平安ではありません。地上のどのような平安よりも、はるかにまさった天の神から与えられる平安です。神との豊かな交わりの中にある永遠の祝福です。イザヤ書52章7節にこのように書かれています。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる……。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」(7節、10節参照)と。

 7節以下では、当時のユダヤ人の巡回伝道者に対する一般的なもてなしが背景になって語られています。巡回伝道者は非常に尊敬されていましたから、良いもてなしを期待して家々を渡り歩く伝道者も少なくなかったと言われています。しかし、主イエスの福音を持ち運ぶ働き人は、この世の評価や待遇に左右されることは全くありません。福音のための働き人は主なる神にお仕えする者だからです。主なる神からの報酬を約束されているからです。また、この世での成功を求めてなされるのではないからです。たとえ、その働きが人々に受け入れられず、人々が福音に耳を傾けないとしても、働き人自身がそれによって裁かれたり、不名誉になったりすることはありません。救いのみわざは主なる神がなさることであり、救われるか救われないかは、主なる神がお決めになることです。働き人は自ら神の国の福音に生かされている者として、感謝と喜びとをもって、主イエス・キリストの福音の証し人としての務めを果していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人をお選びくださり、あなたの救いにあずからせ、また福音の証し人として立たせてくださいます。感謝いたします。主イエスのみ言葉に支えられて、地の塩、世の光として歩ませてください。主がいつも共にいてくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月25日説教「旧・新約聖書は神の言葉である(二)」

2024年2月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(30)

聖 書:申命記8章1~10節

    テサロニケの信徒への手紙一3章1~10節

説教題:「旧・新約聖書は神の言葉である(二)」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。この告白はキリスト教教理では「聖書論」というテーマに関連しています。「聖書論」では聖書をどのように理解し、読んでいるかということが取り扱われますので、その教会、教派の特色が最もよく表れると言ってよいでしょう。日本キリスト教会の特色もここの短い告白によく言い表されています。

 わたしたちの教会の信仰告白は聖書論の冒頭で、「聖書は神の言葉である」と、ごく短く、単純明快に告白しています。同じように「聖書は神の言葉である」と表現しても、それにある条件を付けたり、制限を設けたりする人たちがいます。あるいは、全く反対に「聖書は人間の言葉である」と理解する人たちもいます。分かりやすくするために、4つのグループに分けて考えてみます。

 「聖書は神の言葉である」と告白するわたしたちの立場から最も遠い立場は、「聖書は人間の言葉である」という理解です。この理解はさらに二つのグループに分けられます。一つは、キリスト教信仰を持っていない人にとっては、聖書は人間が書いた文書と理解されます。聖書を歴史的文書として研究し、古代社会の文化や生活の記録として読み、研究している学者もたくさんいます。あるいは、高い倫理観や道徳を教える書、人生哲学や処世訓の書ととらえる人もいます。彼らはそれなりに聖書を高く評価し、研究に値する文書として尊敬の念をもって聖書と取組んでいます。しかし、彼らは聖書から、神に対する信仰と主イエスによる罪のゆるしを受け取ることはありませんし、それを期待もしません。

 第二のグループとして、キリスト教徒の中にも、聖書を神の言葉ではなく、人間の言葉として理解している人が少なくはありません。彼らは聖書を、紀元前のイスラエルの民と紀元後の教会の民が、それぞれの時代の信仰的体験を記録し、そこに神の存在と真理とを見いだした信仰の証しの書であることを認めます。そこから、彼らなりの真理を発見したり、神の存在を信じたり、信仰を養ったりすることもあります。しかし、そうであっても、聖書はあくまでも人間が書いた人間の言葉であるので、時には自分が受け入れられない言葉や教えがあれば、それは無視したり、否定したりもします。結局、彼らには神に対する恐れはありませんし、真実の悔い改めもありませんから、その信仰は薄く、弱いものでしかありません。実は、今日、そのように人間の書として聖書を読み、そのような人間主体の信仰を持っているキリスト者が多いのではないかと思います。

 第一のグループも第二のグループも、聖書を神の言葉ではなく、人間の書と理解している限り、そこでは神の言葉としての真実の力も命も、また真実の救いの恵みも受け取ることはできません。預言者イザヤはイザヤ書55章8節以下で次のように告白しています。【イザヤ書55章8~11節】(1153ページ)。「聖書は神の言葉である」と信じ、告白する時にこそ、わたしたちもまたイザヤと共にこのように信じることができるのです。

 第二の立場は、聖書は神の言葉と人間の言葉との両者を含んでいるという理解です。続けて、第三の立場は、聖書は人間の言葉であるが、そこに聖霊が働くときに神の言葉になるという理解です。この第二と第三の理解については、神学的に厳密に分析しなければなりませんが、きょうはこの二つを一緒にして、ごく簡単に説明しておくにとどめます。

 先に述べた「聖書を人間の言葉」と理解する第二のグループが近年のキリスト者に多くなったのと同様に、この第二、第三の理解もまたプロテスタント教会に広がっているように思われます。この両者に共通している特徴は、「聖書は神の言葉である」という信仰があいまいであり、人間の恣意的な判断で、時には神の言葉になったり、時には人間の言葉であったり、その人の勝手な判断に左右されるという点です。

 ここには、近年の合理主義的理解と聖書を学問的に批判研究する方法が急速に進んだために、「聖書は神の言葉である」と断定することができなくなったという事情があるように思われます。聖書の中には合理的な説明がつかないことや、互いに矛盾しているような記述が少なからずあります。また、聖書を歴史の資料として分析したり、あるいは文学的な構造を研究したりすることによって、今までの伝統的は信仰理解とは違った意味を読み取ることもあります。さらには、この箇所は今日の社会の常識からはあまりにもかけ離れているから書き改められなければならないとか、聖書の中には古代社会の古い慣習や生活様式があり、それにとらわれているから、近代の社会常識によって再解釈されなければならないとか、実に多様な聖書理解が生み出されてきています。そのような中で、「聖書が神の言葉である」と単純に断定することが困難になっていることが背景にあると思われます。

 けれども、わたしたちはそれでも第四の立場を断固として貫き通し、「聖書は神の言葉である」と明確に告白しているのです。それには何の条件も付けず、何の制限も設けず、単純明快に「聖書は神の言葉である」と告白しているのです。その積極的な意味を、わたしたちは正しく理解しておくことが大切です。

 預言者イザヤは40章8節でこのように言います。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。新約聖書・ペトロの手紙一1章23節以下では、このイザヤの預言を引用しながらこのように言っています。【23~25節】(429ページ)。

 また、テモテへの手紙二3章15~16節にはこう書かれています。【15~16節】(394ページ)。さらにもう一箇所、テサロニケの信徒への手紙一2章13節で使徒パウロはこのように書いています。【13節】(375ページ)。

 以上のように、聖書はそのすべてのみ言葉が神の言葉であり、永遠に変わらない、生きた命の言葉であり、決して人間の意志や考えによって書かれたのではない。神の霊によって書かれた神の言葉である。それゆえに、聖書のみ言葉はわたしたちを罪から救い、新しい命を注ぎ込み、わたしたちをまことの命に生かす真理と命に満ちた神の言葉なのである。これがわたしたちの信仰であり、「聖書論」の中心です。

 では次に、そのような信仰と「聖書論」をさらに深めるために、いくつかの点について考えていきます。第一には、聖書の本来の著者は神ご自身であり、聖霊なる神であるということです。神は、それぞれに時代の信仰者や預言者たちをお用いになって、また福音書記者や使徒たちをお用いになって、ご自身の救いのみわざについてお語りになり、それを記録させてくださいました。それゆえにペンを手にとって書いたのは預言者や使徒という人間でしたが、彼らは主なる神への信仰と服従をもって、聖霊なる神の導きによって書いたのであり、本来の第一の著者は神ご自身であると言えます。

神はまた、その時代の文化とか生活様式とか、あるいはその土地の言語をお用いになって、その時代の人々にお語りになりました。したがって、古い時代に書かれた神の言葉である聖書が、時代的・文化的制約を受けるということはあり得ることですが、しかしわたしたちはその時代の枠を超えて、永遠の真理と命とを持っている神のみ言葉から、神がその時代の人々に何を語られたのか、そして今、今日のわたしたちに何を語っておられるのかを、読み取っていくことができるのです。

 第二には、聖書が書かれたのが神の霊感によるのであり、人間が神の霊に導かれて書かれたように、聖書を読む場合にも神の霊によって、聖霊なる神の導きによって読まなければならないということです。わたしたちの心と肉体はみな罪の誘惑にさらされており、肉の弱さの中にあります。神のみ言葉を聞くことも、それを受け入れ、信じることもできませんから、聖霊によって暗い心が明るく照らされ、かたくなな心が打ち砕かれ、眠っている魂が目覚めさせられなければなりません。

 第三に、聖書が神の霊によって書かれ、また神の霊によって読まれなければならないというわたしたちの信仰は、先に第三の立場として紹介した、聖書は人間の言葉であるが、聖霊によって神の言葉になるという理解とは、根本的に違うということです。第三の立場の人たちには、そもそも聖書が神の言葉であるとの信仰が欠けているために、聖書に向かう姿勢として、神への恐れとか、罪びととしての砕かれた心とか、真実の悔い改めとかがありません。聖霊なる神に対する全き信頼と服従の信仰が欠けています。

 もう一つ付け加えておきたい点は、「聖書は神の言葉である」というわたしたちの信仰は、いわゆる「逐語霊感説」とは違うということです。「逐語霊感説」というのは、聖書の言葉の一字一句がすべて神の霊感によって書かれているので、すべて誤りがなく、文字どおりに理解され、信じられなければならないとする考えです。英語では「バーバル・インスピレィション」と言い、彼らは一般に根本主義者(ファンダメタリスト)と呼ばれます。

 しかし、この理解は、聖霊を重んじているようですが、実際には聖霊が聖書の言葉すべてに機械的に働くととらえられており、聖霊の自由な働きがむしろ妨げられていると言わなければなりません。

 最期に、カール・バルトの「神の言葉の三様態」について簡単に触れておきたいと思います。「様態」とは、様式、あるいは働き、性質という意味ですが、神の言葉には三つの様態があり、それらがいわば三位一体となって理解されるべきであるという説です。一つは、書かれた神の言葉である聖書。二つは、受肉した神の言葉である主イエス・キリスト。三つは、語られ、宣教された神の言葉である説教。この三つの神の言葉を一つの神の言葉として、互いに深い関連を持つものとして理解されることが重要です。

 わたしたちは主の日の礼拝ごとに、書かれた神の言葉である聖書の朗読とその解き明かしである説教を聞き、そこで受肉した神の言葉である主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、罪と死と滅びから解放され、来るべき神の国の民としての永遠の命の約束を受けることができるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをこの世の朽ちるパンによってではなく、永遠の命に至るあなたのみ言葉によって養い、育ててください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月18日説教「エジプトで増え広がったイスラエルの人々」

2024年2月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章1~14節

    使徒言行録7章17~22節

説教題:「エジプトで増え広がったイスラエルの人々」

 旧約聖書の最初の5つの書を「モーセ五書」と言います。伝説ではモーセが書いたとされていますが、モーセ以後の時代のことも書いてありますので、実際にはモーセ一人が著者ではなく、多くの伝承や資料などが編集されて今日のように5つの書のまとめられたと推測されます。ヘブライ語聖書では「モーセ五書」は「律法」に分類されます。マタイによる福音書5章17節で、主イエスが「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と言われた時、「律法」とは「モーセ五書」を指していたと考えられます。

 「モーセ五書」の第二の書が、きょうから読み始める出エジプト記です。ヘブライ語聖書の書名は、その書の最初の言葉で言い表すのが一般的です。創世記は「初めに」がヘブライ語聖書の書名になっています。出エジプト記は「そして、これらがその名前である」が書名です。出エジプト記という書名が用いられたのは紀元前1、2世紀ころに完成したギリシャ語訳聖書の「エクソドス」に由来し、それが中国語聖書で用いられ、日本語訳聖書でも採用されました。ギリシャ語のエクソドスは「出立」「退出」を意味していて、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から神によって救い出され、新しい地へと出立したというこの書の内容と一致しています。

 では、【1~5節】。口語訳聖書では、1節の冒頭に、「さて」という言葉がありましたが、新共同訳聖書では訳されていません。さきほど紹介したように、ヘブライ語では、「そして、これらがその名前である」と始まりますが、冒頭には、ヘブライ語で「ヴェ」と発音される小さな言葉があります。これは前の文章との続きを意味する接続詞の働きをしており、日本語では、「そして、さて」と訳されることもありますが、多くは訳されません。出エジプト記の冒頭にこの「ヴェ」という接続詞があるということは、前の創世記との関連性、連続性を意味しています。その連続性について、まず考えてみましょう。

 創世記と出エジプト記の連続性とは言っても、歴史的経過をたどれば、その間には400年以上の年月があります。そのことについては、すでに神がアブラハムに約束して語っておられました。【創世記15章13~14節】(19ページ)。エジプト滞在期間については、出エジプト記12章40節、41節では430年とあり、二つの説があったようです。古代社会では40年が一世代と考えられていましたので、ヤコブ・イスラエルの家族は10世代をエジプトの異郷の地で過ごしたことになります。

 出エジプト記1章1節の冒頭では、その400年余りの時の経過を、「さて、そして」という短い言葉で接続しているのですけれど、そこには長い時の経過を貫いて、あるいはその時の経過を越えて、密接な連続性があるということを、わたしたちは確認することができます。そこには、主なる神の永遠なる救いのご計画があると言ってよいでしょう。

 創世記50章の最後は、大飢饉のためにエジプトに移住した族長ヤコブ・イスラエルの死と、彼の12人の子どもたちのうち、先にエジプトに行っていて、父や兄弟たちをエジプトに呼び寄せたヨセフの死の記録をもって終わっています。それから400年余りの期間に、エジプトの地で神がどのようにヤコブ・イスラエルの一族を導かれたのか、彼らがどのような信仰生活を送ったのかについては、聖書の記録は全くありません。いわば、空白の400年と言えるかもしれません。

 けれども、その間にも、神はエジプトに移住したイスラエルの子孫を忘れておられたのでも、彼らをお見捨てになったのでもありません。神の救いのご計画が停滞するとか、中止されてしまうのでもありません。神が族長アブラハム、イサク、ヤコブに繰り返して語られた契約、約束のみ言葉は無効になったのではありません。創世記50章24~25節で、ヨセフが遺言として語った言葉は、400年以上の年月を経ても、決して忘れられることも、無効になることもありません。それを確認しておきましょう。【24~25節】(93ページ)。神はこの空白の400年にも、約束のみ言葉の成就のために働いておられ、救いのみわざを前進させ、イスラエルの子孫を導いておられたのです。

 そのことは、出エジプト記のきょうのみ言葉からもうかがい知ることができます。【6~7節】。多くの子どもが生まれ、子孫が増えることは神の祝福のしるしです。神は天地創造の第六日目に人間を創造され、このように言われました。創世記1章28節にこう記されています。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」。また、神がアブラハムにこのように約束されました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12章2節)。同じような約束のみ言葉を、その子ヤコブも、その子イサクも繰り返し聞きました。その神の約束のみ言葉は、エジプトでの空白の400年間にも、決して忘れられてはいませんでした。

 創世記から出エジプト記への連続性は、イスラエルの側からも確認することができます。1節の「ヤコブ、イスラエル」は明らかに一人の族長の名前です。彼の12人の子どもたちとその家族70人も個人の人数として数えられています。ところが、7節の「イスラエルの人々」は民族の名前であるように思われます。9節の「イスラエル人」12節以下の「イスラエル人」は明らかに民族の名前になっています。エジプトという異教の国、言葉も生活習慣も、もちろん信じる宗教も違う国で、しかも400年、10世代を重ねた彼らは、その間ずっと、お一人の主なる神を信じる一つの神の民として生き、一つの信仰共同体として成長していったのだということをわたしたちは推測できます。彼らは、アブラハム、イサク、ヤコブに繰り返して語られた神の契約、神の約束のみ言葉を信じ続けてきたのです。6節に、【6節】と書かれていましたが、幾世代にもわたって人間の生と死とが繰り返されていく中で、しかしその人間の死をも超えて、神の救いのご計画は続けられていきました。それゆえに、幾世代にもわたって、神を信じる神の民もまた生き続けることができたのです。

 次に、【8~14節】。ヨセフはわたしたちが創世記で読んできたように、全世界を襲った7年間の大飢饉の際に、神から与えられた知恵によってエジプトを飢饉から救い、それだけでなくエジプトに大きな富をもたらしました。ヨセフはエジプト王ファラオに次ぐ地位に就き、当時エジプトでヨセフの名前を知らない者はいないほどでした。しかし、長い年月とともに人間の功績は忘れ去られていきます。主なる神はイスラエルの民を決してお忘れにはなりませんでしたし、イスラエルの民もまた主なる神を忘れませんでしたが、この世のことはすべて移り行き、過ぎ去り、消え去っていきます。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とイザヤ書40章に書かれてあるとおりです。主なる神のみ言葉とそれを信じる神の民はいつの時代にも固く立つことができます。

 「ヨセフのことを知らない新しい王」はだれを指すのか。それを特定することが出エジプトの年代を決定することになります。今日多くの学者はこう考えます。まずヨセフとその家族がエジプトに移住した年代ですが、それはエジプト第15王朝か第16王朝と推測されています。紀元前1720年から1570年になります。この王朝はヒクソスという外国からの侵略者がエジプトを支配していました。ヒクソスはイスラエルの民ヘブライ人と同じセム系の人種でしたので、ヨセフたちがエジプトに移住してよい待遇を受けることができたのではないかと考えられるからです。また、ヨセフがエジプトで高い地位に就くことができたのもそのことが関係していたと考えられます。

 新しい王とは、ヒクソス王朝が終わり、新王国時代と言われる第18王朝以後の王であろうという点では、学者の意見はほぼ一致しています。イスラエル一族の滞在期間が400年余りということも考慮に入れれば、イスラエルを迫害した王は、第19王朝の創始者セティ一世(BC1309年~1290年)であり、出エジプトの時の王は次のラメセス二世(BC1290年~1224年)ではないかとする説が有望です。

 いずれにしても、エジプト側には全く記録がないので確かではありません。出エジプトの出来事は、イスラエルの側にとっては、民族の誕生であり、神の大いなる救いのみわざですが、エジプト側にとっては取るに足りないことであり、むしろ屈辱的な出来事ですから、その記録を完全に無視したということはあり得ることです。

 新しいエジプトの王は、増え広がり、大きな民となったイスラエルを恐れ、彼らを強制労働に駆り立てます。それによって、彼らの体力を奪い、出産能力を減少させようとしたのかもしれません。しかし、エジプトの王は、イスラエルの目覚ましい成長と強さがどこから来るのかをまだ知りません。もしそれが、人間の中から出てくる民族意識とか、団結力とか、勤勉さに由来するものであれば、人間の力で抑え込むことができたかもしれません。けれども、イスラエルは苦しめられれば苦しめられるほどに、ますます大きく、強くなっていきました。イスラエルの生命力、その逞しさ、その忍耐力は、主なる神から来るものであったかからです。神が彼らと共にいてくださったからです。

 ここでわたしたちが気づかされることは、エジプトの王はイスラエルの民が増えることを恐れ、戦争が起これば彼らが敵に回るかもしれないと恐れ、彼らを強制労働によって迫害することで、彼らを押さえつけ、その力を奪おうとしているのですが、実はそれは主なる神に対して戦いを挑み、主なる神の救いのご計画に抵抗していることなのだということです。エジプトの王自身はまだそのことに気づいてはいませんが、イスラエルの人々はその信仰によって、主なる神が共にいてくださるのであれば、エジプトの国家権力によっても自分たちが決して弱ることなく、消し去られることもないことを信じています。エジプトの王は、増え広がるイスラエルの人々を恐れています。奴隷の民を恐れています。しかし、イスラエルの人々は主なる神のみを恐れ、主なる神のみに仕えています。ここにすでに、神の民の最終的な勝利が約束されていることをわたしたちは知らされます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうもまたあなたの永遠なる救いのご計画の中にわたしたちを招き入れてくださいましたことを感謝いたします。わたしたちの小さな群れと、わたしたち一人一人をも、どうか主イエス・キリストを信じる信仰によって固く立たせてください。

○天の神よ、先日わたしたちの群れに属する愛する一人の姉妹が、地上のすべての歩みを終えて、あなたのみもとへと召されました。あなたがこの姉妹に信仰を与え、この教会の交わりにお加えくださいましたことを感謝いたします。どうか、ご遺族の上に天からのお慰めと平安が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月11日説教「異邦人に開かれた救いと命への道」

2024年2月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書61章1~9節

    使徒言行録11章1~18節

説教題:「異邦人に開かれた救いと命への道」

 カイサリアに駐留していたローマ軍の百人隊長コルネリウスとその一族がペトロの説教を聞いていた時、彼らに聖霊が注がれ、主イエスを信じる信仰が与えられ、洗礼を受けてキリスト者となったという出来事を、使徒言行録10章は詳しく描いています。神に選ばれた民であるユダヤ人以外の異邦人にも聖霊が注がれ、信仰が与えられ、カイサリアに異邦人の教会が誕生したというこの出来事は、紀元1世紀の初代教会にとって非常に大きな意味を持っていました。教会がユダヤ人から異邦人へと拡大されていくきっかけとなりました。しかしまた、そのことは初代教会全体にとっての大きな問題、課題を生み出すことにもなりました。

 11章では、ペトロがエルサレムに帰った時、エルサレム教会のユダヤ人指導者たちがカイサリアでの異邦人教会誕生のことを耳にして、ペトロの行動を非難したことと、それに対するペトロの弁明が報告されています。ここには、初代教会で問題になったいくつかの課題が取り上げられています。その課題に注目しながら、学んでいくことにしましょう。

 【1~3節】。「使徒たちとユダヤにいる兄弟たち」とは、具体的にはエルサレム教会の指導者たちを指すと考えられます。エルサレム教会にはペトロを除いた12使徒と主イエスの兄弟であるヤコブがいました。エルサレム教会は世界最初に誕生した教会として、すべての教会にとっての母なる存在でしたから、その後に誕生した諸教会はエルサレム教会との結びつきを重んじました。8章4節以下にサマリア教会が誕生したことについて書かれていましたが、その時にも、エルサレム教会からペトロとヨハネがサマリア教会に派遣されて、母なる教会としての連携を確認したことが14節に書かれていました。きょうの箇所でも、今度はペトロがカイサリアの異邦人教会誕生の報告をエルサレムの母教会にするという役割を担っています。

 1節に「異邦人も神の言葉を受け入れた」とあります。10章45節、46節でも、「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれる」、「異邦人が異言を話し」と書かれています。イスラエルの民ユダヤ人は先に神に選ばれ、神と契約を結んだ特別な民であることを誇りとし、自分たち以外の民を「異邦人」と呼んでいました。ところが、異邦人コルネリウスの家で、その異邦人にも聖霊が注がれ、彼らが主イエスを救い主と信じる信仰が与えられるという、驚くべき出来事が起こったのです。神の救いのみわざが先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、神に選ばれていなかった異邦人にも拡大されたのです。

 では、神の救いのご計画が途中で変更になったということなのでしょうか。先に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人はこの驚くべき出来事をどのように理解したらよいのでしょうか。きょうの箇所では、そのことについては直接取り挙げられてはいません。エルサレム教会の指導者たちが問題に取り上げたのは、ペトロが異邦人の家に入り、彼らと一緒に食事をしたということについてでした。ペトロの弁明の後半になってから、16節以下で主イエスのお言葉を引用しながら、聖霊の賜物と主イエスの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられたということをペトロは語っています。

 そこで、わたしたちはきょうのテキストでは直接には説明されてはいませんが、神の救いのみわざがユダヤ人から異邦人へと広げられていったことについて、先に考えてみたいと思います。これは、神の救いのご計画の変更では決してありません。わたしたちが旧約聖書を読むと明らかなように、神は先にイスラエルの民をお選びになりましたが、それは当初から全世界のすべての民の救いを目指してのことでした。神の天地創造と人間創造の時から、神はすべての人間の救いをご計画しておられました。アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代にも、出エジプトのモーセの時代にも、ダビデ王の時代にも、その時代からすでに神は全世界のすべての人々を救おうとしておられました。預言者たちの預言の言葉、詩編の言葉、すべての旧約聖書の言葉が、そのことを証ししているということを、わたしたちは読むことができます。

 そして、ついに時至って、主イエス・キリストの誕生とその救いのみわざによって、神は全人類のための救いのみわざを成就してくださったのです。それゆえに、主イエスの到来によって、選びの民イスラエルと異邦人との区別は実質的に消滅したことになります。主イエス・キリストの福音が語られるところでは、ユダヤ人と異邦人の区別、男と女の区別、主人と奴隷の区別、その他すべての人間社会の中にある区別や差別は取り除かれたのです。すべての人は主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされなければならない罪びとであり、また同時に、事実罪ゆるされ、救われている人間なのです。

 では次に、エルサレム教会の指導者たちがここで問題にしていることについて見ていくことにしましょう。2節で彼らのことを「割礼を受けている者たち」と紹介しています。ユダヤ人の男子はみな生後8日目に割礼の儀式を受けました。これは、神が創世記17章でアブラハムに命じた神との契約のしるしでした。アブラハム以後のすべてのユダヤ人男子はみな割礼を受けていますから、ここでわざわざ「割礼を受けている者たち」と言われているのは、特別に割礼を重んじている人たちを指していると思われます。この人たちは、ユダヤ人が洗礼を受けてキリスト者になってからも、旧約聖書で教えられている律法を厳格に守り、割礼の儀式も受け継がなければならないと考えていたようでした。

 ここでは、割礼に関する問題が直接に取り挙げられているわけではありませんが、そこから新たな問題、課題が生じてきました。では、キリスト者となったユダヤ人から生まれた子どもも割礼の儀式を受けなければならないのか。さらに問題なのは、異邦人でキリスト者になる人は、先に割礼を受けてユダヤ人の仲間入りをしてから洗礼を受けるべきなのか、あるいは洗礼のあと割礼の儀式を受け、神の契約の民であるイスラエルの仲間入りをしなければならないのかどうかということです。パウロの書簡を読むと、ガラテヤやコリントなどの初代教会の中で割礼をめぐってのこのような議論、論争が少なからずあったということが分ります。

 それに対するパウロの答えも、ユダヤ人と異邦人の区別に関する答えと同様です。すなわち、主イエス・キリストの十字架によって与えられる救いの福音は、人間の側にあるすべての区別、差別をはるかに上回る大きな、豊かな恵みであるゆえに、もはやそれらの違いはすべて解消された。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰だけで充分である。すべての人はその信仰によって、その信仰によってのみ救われる。したがって、割礼を受けるかどうかは救いにとっては全く重要ではない。これがパウロの答えでした。

 さて、本論に戻りましょう。エルサレム教会の割礼を重んじていた人たちが問題にしたのは、ペトロがカイサリアで割礼を受けていない異邦人であるコルネリウスの家に入り、異邦人たちと一緒に食事をしたことについてでした。ここには、今説明した割礼に関する問題とともに、旧約聖書に定められていた「食物規定」と言われる律法を守る義務が問題にされています。これについては以前にも説明しましたが、申命記やレビ記にはユダヤ人が食べてはならないとされる宗教的に汚れた生き物についての規定があり、ユダヤ人はそれを厳しく守ってきました。

 しかし、異邦人はその規定を知りませんから、宗教的に汚れているとされる動物を日常的に食べ、また触っています。そのような異邦人自身にも、宗教的な汚れが染みついているので、異邦人の家に入ることはもちろん、一緒に食事をすること、またその体に触ったり、あいさつをすることでさえも、敬虔なユダヤ人は避けるべきだと考えていました。ペトロはその律法を守っていないのではないかと、エルサレム教会の指導者たちは非難したのです。

 それに対するペトロの弁明が5節から始まります。ペトロはここで、彼がこれまで体験したこと、それは主なる神の導きにより、主なる神が彼に働きかけてくださったことなのですが、それを語っています。5節から14節までの彼が見た幻については10章9節から22節に書かれていた内容とほぼ同じです。15節から17節は10章44節以下に書かれていたことの繰り返しです。

 けれども、全く同じ繰り返しではありません。10章では、ペトロが経験したことが客観的に描かれえているのに対して、この章ではペトロ自身が自分の経験として語っていますから、より生き生きとした表現になっています。彼が経験したことがいかに大きな意味を持っていたかということが、ここからも分かります。

 ペトロが見た幻と、その後の神からの語りかけによって、神は今やすべての生き物を清められた、それとともに、神はすべての民を清められ、ご自身の民とされ、すべての人を主イエス・キリストの救いへとお招きになっておられるということを、ペトロは理解したのです。主イエス・キリストがすべての人の救い主としてこの世においでくださったことによって、もはやユダヤ人と異邦人の区別は必要なくなりました。したがって、割礼の役割が終わったと同様に、「食物規定」の役割も終えたのです。主イエス・キリストの到来によって、旧約聖書の律法はすべて完全に全うされ、成就されました。それゆえに、律法を守ることによって救われるという道はもはやなくなったのです。すべての人は主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、ただそれによってのみ救われるのです。

 【18節】。カイサリアに異邦人の教会が誕生したことはすべて神のお働きです。聖霊なる神がペトロに働きかけ、また異邦人であったコルネリウスに働きかけ、ペトロの説教を聞いたすべての異邦人たちにも働きかけ、彼らに罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じる信仰を与えてくださったのです。

 このペトロの報告を聞いて、エルサレム教会の指導者たちは反論する言葉を見いだせずに、静まったと書かれています。だれも聖霊なる神のお働きを阻むことはできません。聖霊なる神はあらゆる人間の壁や困難や不信仰をも超えて、救いのみわざを推し進められます。すべての人の救いと命の道を切り開かれます。わたしたちはこの神を信じ、この神にお仕えしていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いの恵みは全世界のすべての人に与えられています。どうか、世界各地に建てられている主の教会がそのことを力強く証ししていくことができますように、今も生きて働き給う聖霊を、この日本の地にも、秋田の地にも、豊かに注いでください。

○天の父なる神よ、重荷を負って苦労している人たち、道に迷い悩んでいる人たち、生きる希望を失いかけている人たち、戦争や災害に巻き込まれ痛みと悲しみの中にある人たち、一人一人の上にあなたの顧みがあり、希望と慰めを、勇気と喜びを、そして和解と平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月4日説教「神の国にふさわしく生きる」

2024年2月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章4~15節

    ルカによる福音書9章57~62節

説教題:「神の国にふさわしく生きる」

 ルカによる福音書9章57節に、「一行が道を進んで行くと」と書かれています。「道を進む」とは、51節で、【51節】と書かれていることと関連しています。つまり、主イエスがエルサレムへ向かう道の途中にあるということです。57節以下では、「従う」という言葉が57節と59節、そして61節に用いられており、「主イエスに従う」ということが主題になっていますが、ルカ福音書はその主題を主イエスのエルサレム行きと関連付けて語っているのです。すなわち、「主イエスに従う」とは、エルサレムで苦しみを受け、十字架につけられる主イエスに従うことなのだということを、ルカ福音書は特に強調しているのです。

 では、そのことに注目しながら、主イエスに従って生きるわたしたち信仰者の生き方はどうあるべきなのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。57節以下には、主イエスに従う志を持った3人が登場します。一人は、自分の方から主イエスに従いたいと申し出ました。しかし、主イエスはその人に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、あたかもその人の志をくじくような、あなたに従いたいとの願いを拒絶するようなお言葉を語られました。

 二人目は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになりますが、その人は「その前に、亡くなった父を葬りに行かせてください」と答えています。三人目は、主イエスに従って行きたいが、まず家族に別れを言ってからにしますと申し出ます。主イエスはこの二人目と三人目の人に対して、そのような従い方では本当にわたしに従うことにはならないと言われ、弟子になりたいという二人の申し出を拒絶するような言い方をしています。

 以上から分かるように、この三人はいずれも主イエスに従いたいとの願いや志を持ってはいましたが、正しい姿勢で、正しい仕方で主イエスに従って行くことができなかったということが明らかにされています。

では、主イエスに従うということは、それほどに難しいことなのか。高いハードルを越えるようにして、高く強い志と覚悟を持っていなければ、主イエスに従って行くことはできない、主イエスの弟子になることはできないと、主イエスはここで教えておられるのか。そのように考えるかもしれません。

けれども、そうではありません。主イエスがここで教えておられることは、主イエスに従うことの困難さについてではありません。また、主イエスに従うには、わたしたちの側に大きな決断や高い志が必要だということでもありません。説教の最初に、51節と57節の冒頭のみ言葉で確認したように、主イエスご自身がわたしたちに先立って、堅い決意をもって、先頭に立たれ、エルサレムに向かって行かれたのです。主イエスがわたしたちのために苦難を受けてくださり、救いの道を開いてくださったのです。そして、わたしたちをその道へとお招きくださっておられるのです。わたしたちは主イエスによって備えられた道を、主イエスが先立って進まれた道を、主イエスのあとに従い、主イエスに導かれて歩むのです。

そのことをあらかじめ確認したうえで、きょうのみ言葉をさらに深く学んでいきましょう。まず、きょうの箇所でテーマになっている「主イエスに従う」ことの「従う」という言葉ですが、この言葉の本来の意味は、「だれかのあとについて行く、追従する」という意味で、そこから「服従する、従順に従う」という意味になりました。ほとんどは福音書の中にあり、「主イエスに従う」という文脈では70回用いられているということです。ルカ福音書でも、これまでに何回も用いられてきました。5章10節では、主イエスがシモン・ペトロに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われると、彼はすぐに「すべてを捨てて主イエスに従った」と書かれていました。また、5章27節では、主イエスがレビという徴税人をご覧になって、「わたしに従いなさい」とお命じになると、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、主イエスに従った」と書かれていました。

ここでも、注目すべきは、主イエスによって弟子として選ばれたペトロやレビの側の決意とか志とか、あるいは資格とか能力とかは全く問題にされておらず、主イエスの強く権威ある招きのみ言葉だけが強調されているということです。きょうのみ言葉を理解するうえでも、そのことは参考になるでしょう。

さて、きょうの箇所に登場する3人の中の最初の人は、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と主イエスに申し出ています。ここには、この人の並々ならぬ覚悟と決意が言い表されています。どんなに困難な道でも、どんな苦労でも、わたしは耐えて、あなたに従いますから、あなたの弟子にしてください。彼はそのように表明しています。

マタイ福音書8章19節では、そのように申し出たのが、ある律法学者であったとなっています。おそらく彼は主イエスを巡回伝道者と考え、多くの人々をひきつけ、また多くのいやしのみわざをなさっておられるのを見て、自分もまたそのように人々から尊敬を受ける巡回伝道者になりたいと願っていたのかもしれません。彼がこの世での称賛とか名誉とかを期待し、それによって自分の生活の安定を求めていたらしいということは、58節の主イエスのみ言葉からも推測されます。

 「人の子」とは、主イエスがご自分のことを指して言われる場合にしばしば用いる言い方です。主イエスは神のみ子であられましたが、天から下ってこられ、人の子となられ、人間の肉をまとわれました。わたしたちの罪と弱さのすべてをご自身に担われ、父なる神のみ前で徹底的に貧しくなられ、弱くなられ、ご受難と十字架への道を進まれました。そのような「人の子」主イエスには、野の獣や空の鳥にでさえも与えられている休息の場すらなく、この世での生活の保障も、命の保証すらないと主イエスは言われます。否むしろ、罪びとたちのためにご自身の命を捨てることこそが、ご自身の使命であるということを、主イエスはここで語っておられるのです。

 それゆえに、主イエスのあとに従う弟子たち、わたしたち信仰者は、この世での名誉や報酬を期待するべきではなく、あるいはまたこの世での生活の安定とか喜び、楽しみを求めるべきでもありません。だれしもが追い求めているこの世での名誉、報酬、喜び、楽しみ、それらよりもはるかに尊く、はるかに祝福された宝、十字架の主イエスから与えられる朽ちることのない、永遠なる宝を約束されているのだということを、主イエスはここで暗示しておられのです。

 第二の人の場合は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになります。それに対してこの人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と応答しています。この人も主イエスに従う用意も決意も十分にあり、主イエスを自分の人生の主と信じる信仰もあるように思われました。けれども、その前に、彼にはしなければならないことがありました。彼は今、亡くなった父親の葬儀の途中です。それを済ましてから、主イエスに従うつもりです。モーセの十戒に、「あなたの父と母を敬え」と命じられています。愛と敬意をこめて親を葬ることは子どもの重要な務めであり、何をおいてもまずしなければならない子どもの大切な義務と考えられていました。

 けれども主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。これはどういう意味でしょうか。ここでも、わたしたちはエルサレムに向かう途中にある主イエスを思い起こさなければなりません。主イエスはエルサレムでわたしたちを罪から救うために苦しみを受けられ、十字架で死なれ、三日目に復活されました。それによって主イエスはわたしたち罪びとたちの罪と死とを滅ぼされ、罪の奴隷からわたしたちを贖い、死のとげを抜き取られ、罪と死とに完全に勝利されたのです。

 それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることはそれまでとは全く違った意味を持つようになりました。ヨハネ福音書11章で、主イエスはベタニア村のラザロの死と葬儀に直面された時、ラザロの姉マリアや葬儀に参列している人たちがみな泣いているのをご覧になって、「心に憤りを覚えられた」と33節と38節に二度繰り返されています。そして、墓に納められていたラザロに「ラザロ、出てきなさい」とお命じになると、彼は墓から生き返って出てきたことが記されています。主イエスは、死の前で何もなしえず、死に屈服するほかない人々に対して、激しい憤りを覚えられました。そのようにして、主イエスはただお一人死と戦われ、そのためにご自身の血を流されるほどに死と格闘され、そしてついには死に勝利されたのです。それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることは新しい復活の命への入口なのです。信仰者にとっての葬儀は、人間の命の敗北の儀式なのではなく、新しい復活の命への招きなのです。

 主イエスが続けて、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とお命じになったのは、そのことを意味しています。罪と死が支配するこの世の国からあなたは救い出され、常に神が共にいてくださる救いの恵みと命に満たされた神の国へと、あなたは招かれているという福音を語り伝えることこそが、主イエスに従う信仰者の新しい使命になるのです。

 三番目の人は、自分の方から、「主よ、あなたに従います」と申し出ますが、その前に家族に別れを言いに行かせてくださいと言います。先の二人と同様に、彼にも主イエスに従う決意と覚悟はありました。でも、まだこの世の人間関係に縛られています。この世でやり残した仕事やこの世での肉の欲望に未練を持っています。

 しかし、主イエスは言われます。「神の国にふさわしく生きなさい」と。主イエス従うとは、主イエスによってl始まった新しい神のご支配に生きることです。この世の朽ちるものによって生きるのではなく、永遠に変わることのない神の命のみ言葉を聞き、主イエスによって与えられた救いの恵みに生きることです。終わりの日に完成される神の国に、今すでに招かれている者として、いわば終りの日を先取りするようにして、終わりの日の神の国の完成を基準にして生きることです。エルサレムで十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、父なる神の右に座していたもう主イエスが、わたしたちのためにすでに開いてくださり、備えてくださった道を進むこと、それが主イエスに従うわたしたち信仰者の生き方です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ国の民としてお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを来るべきみ国へと向けさせ、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼむことのない財産へと向けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月28日説教「旧・新約聖書は神の言葉である」

2024年1月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(29回)

聖 書:詩編119編105~112節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「旧・新約聖書は神の言葉である」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。この告白の冒頭の箇所、「旧・新約聖書は神の言(ことば)である」について、きょうから数回にわたり、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいくことにします。

 最初に、『信仰告白』について学び始めたときにも触れましたが、聖書と信仰告白の関係について、一般にこのように言い表します。「聖書はすべてを規範づける規範であり、信仰告白は聖書によって規範づけられた規範である」。聖書は、キリスト教会とわたしたち信仰者のすべての信仰と生活を規範づける唯一の、最高の規範であることは言うまでもありません。この文章の最後で、「信仰と生活との誤りのない審判者です」と告白しているのは、そのことです。

 信仰告白は、『日本キリスト教会信仰の告白』はもちろん、すべての信仰告白、あるいは信条と呼ばれているものは、聖書によって規範づけられています。

聖書を唯一の規範としていない信仰告白、他の何かを手本にしたり、他の何かを基準にしている文章は、それがどんなに優れた魅力的な言葉や思想、文学、哲学、あるいは神学で表現されていても、それは教会の信仰告白とは言えません。それは、健全な、また正統的な教会を立てるためには役立ちませんし、わたしたちの信仰を生み出したり、養ったりすることもできません。

 信仰告白は、聖書を唯一最高の規範とし、聖書の教え、教理、神の救いの真理を的確で明快な表現で言い表し、神の言葉である聖書に対する正しい信仰の応答として、教会の同意を得て、まとめられたものでなければなりません。そのような聖書に対する応答として、初代教会時代から今日に至るまで、多くの信仰告白、信条と呼ばれる文書が作成されてきました。

 そのようにして作成された信仰告白が、わたしたちの信仰の在り方を正しく方向付け、教会を健全に成長させ、また教会の一致を堅くするのです。

 次に、「旧・新約聖書」という表現についてですが、1953年に制定された文語文では、「新・旧約聖書」となっていたのを記憶しておられると思います。1985年の「口語文」でその順序が入れ替わりましたが、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』ではこう告白されていました。「新旧両約の聖書のうちに語り給う聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」。1953年の『信仰の告白』はそれを受け継いでいることが分ります。

 それが、1985年の「口語文」で「旧・新約聖書」と変更する際に議論になったこと紹介しておきます。1890年の『旧日本基督教会信仰の告白』で「新旧両約」と、新約聖書を先にした理由は、旧約聖書を軽んじていたからでは決してなく、旧約聖書を読む際には新約聖書の光の下で読まなければ、その本来の意味が理解されないのであり、新約聖書で主イエス・キリストによって預言が成就されたからこそ旧約聖書の預言が意味を持つのであって、旧約聖書だけで完結するのではない。新約聖書の成就によってこそ旧約聖書もまた完結する。そのことを強調するために、あえて歴史的な順序を逆にして「新旧」としたのでした。それが、旧日本基督教会の信仰であったし、1953年の『信仰の告白』はその理解を継承しています。これが一方の意見でした。

 他方、世界の信仰告白の中で「新・旧訳聖書」と言い表しているものは一つもないので、一般的な言い方で、「旧・新」とするのがよいのではないかという意見があり、最終的にはその意見が通りました。でも、これまでの理解が否定されたのではありません。わたしたちは旧約聖書も新約聖書も同じ神の言葉と信じ、それに優劣をつけることはありませんが、それとともに、旧約聖書はそれだけで独立してあるのではなく、新約聖書と一緒になり、両者が一つの神の言葉である聖書として理解しなければなりません。そうでなければ、旧約聖書だけを正典とするユダヤ教と同じになるからです。旧約聖書は新約聖書の光の中で、主イエス・キリストの十字架の福音の光の中で読まれなければなりません。そうである時に、旧約聖書は神とイスエルの民との古い契約の書であり、その契約が、主イエス・キリストによって立てられた新しい契約によって成就されている預言の書としての重要な役割を果たすことになるのです。

 そこで、旧約聖書と新約聖書との関係について少し付け加えておきたいと思います。旧約聖書を預言の書、新約聖書を成就の書と言い、旧約聖書の時代は待望の時、新約聖書の時代は想起の時という言い方をする場合もあります。預言と成就、また待望と想起、それは言うまでもなく、全世界の唯一のメシア・救い主なる主イエス・キリストの預言とその到来による成就のことであり、主イエス・キリストの到来を待望する時と、その主イエス・キリストの十字架と復活によって全人類の救いが成就したことを想起する時を指しています。

 したがって、旧約聖書も新約聖書もそこで語られている中心的な内容は主イエス・キリストです。宗教改革者カルヴァンは、「わたしたちは聖書を読むとき、その中にキリストを見いだそうとする意図をもって読まなければならない」と言っています。聖書は、旧約聖書でも新約聖書でもその全ページにおいて主イエス‣キリストを証しているのです。主イエス・キリストを語っているのです。

 旧約聖書は全部で39巻、新約聖書は27巻、計66巻、これがプロテスタント教会が一致して認めている正典です。その数の覚え方ですが、3×9=27、合わせて66と覚えてください。できれば、その全巻の順序と名前も覚えてください。覚え方は「鉄道唱歌」の曲に合わせて覚える方法があります。詳しくは、日曜学校の教師にお尋ねください。

 正統的な教会はこの66巻を正典と呼び、これ以外に教会と信仰を規範づける神の言葉はありません。教会とわたしたちの信仰のすべてはこの聖書に起源を持ち、聖書からすべての命と恵みを受け取ります。わたしたちが神の真理、まことの救い、永遠の命を得ることができるのはこの聖書からだけです。また、この聖書だけで、わたしたちが聞くべき神の言葉は十分です。ほかの何かは必要ではありません。宗教改革者たちはこのことを「神の言葉のみ」と表現しました。

 今日のキリスト教の3大異端と言われるグループは、みな聖書のほかにも彼らが正典とする書物を持っています。統一教会は聖書以外に『原理講論』を持っています。ものみの塔は、創始者のラッセルという人が書いた『われらの主の再臨の目的と方法』、その他の書物があり、モルモン教は『モルモン経典』等を聖書のほかに信じています。彼ら異端的教派が聖書だけで不十分であると主張することは、そもそも聖書を神の言葉と信じていないからであり、聖書に書かれている神の言葉だけでは人間の救いには不十分であるということを認めていることにほかなりません。それはキリスト教ではありません。

 しかし、わたしたちの信仰は、聖書は神の言葉であり、神は聖書においてわたしたちの救いにとって必要なすべてのことを語っておられる。だから、この聖書からなにも何も差し引かず、この聖書に何も付け加えるべきではない。この聖書の中に神の救いと神の真理、神の命のすべてが書かれていると信じ、告白するのです。申命記4章2節で神はイスラエルの民にこのように命じておられます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ付け加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」。神はイスラエルの民が信仰によって神の民として生きるために必要なすべての言葉を語ってくださるので、そのほかの人間の言葉や知恵に頼るべきではなく、頼る必要もないのです。

 このように、旧約聖書の民イスラエルは神がお語りになるみ言葉に聞くことによって生きる信仰の民でした。今日わたしたちが読んでいる旧約聖書が最終的に編集されたのは、バビロン捕囚期以後、紀元前5世紀以降と考えられていますが、それ以前からイスラエルの民はそれぞれの時代で、預言者や祭司たちをとおして語られる神の言葉を聞いて、生きてきました。そのことを証しする旧約聖書のみ言葉を2箇所だけ取り上げてみましょう。一つは申命記8章3節です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。

 エジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって導き出されたイスラエルの民は、荒れ野の40年間の困難な旅で、他に頼るべきものが何もない砂漠の生活の中で、ただひたすらに主なる神のみ言葉に聞くことによって生きるべきであり、生きることができるということを学んだのでした。

 詩編119編105節にはこのように書かれています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」。暗い闇の中を、光なしには一歩も進むことができないように、聖書で語られている神のみ言葉はわたしのたどたどしい歩みを力強く導きます。困難や迷いが多い道を、重荷を抱えて生きなければならないわたしたちの人生の歩みの中で、神のみ言葉はいつどのような時にも、わたしを導き、支え、励まし、希望を与える命のみ言葉です。神はわたしたち一人一人に聖書をとおして語ってくださいます。

 新約聖書からも2箇所読みましょう。【ペトロの手紙一1章23~25節】

(428ページ)。この世界にあるものすべては、やがて移り行き、朽ち果てていくしかありません。しかし、神はわたしたちを永遠に朽ちることなく、変わることのない生きたみ言葉によって日々養い育ててくださいます。ここに、わたしたちの本当の命があります。来るべき神の国に至る永遠の命があります。

次に、【テモテへの手紙二3章14~17節】(394ページ)。わたしたちを罪から救う信仰を与えるのは聖書のみ言葉しかありません。どんなにすぐれた文学であれ、芸術であれ、あるいは高度な技術や高価な宝石であっても、わたしたちを罪から救うことはありません。わたしたちの罪のために、罪なき神のみ子が十字架で死んでくださったという福音こそが、わたしたちを罪と死と滅びから救うのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いと命のみ言葉をわたしたちにお語りくださいましたことを感謝いたします。弱く、倒れやすく、愚かな者に、どうぞ常に必要なみ言葉をお与えください。そのみ言葉に耳を傾ける信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月21日説教「神は万事を益としてくださった」

2024年1月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記50章1~26節

    ローマの信徒への手紙8章26~30節

説教題:「神は万事を益としてくださった」

 2019年4月28日から、わたしたちは創世記を主の日の礼拝で読み始めました。それから5年近くをかけ、きょうは創世記の最後の章、50章を読みました。その中で、わたしたちは次のような非常に印象深いみ言葉を聞きました。【19~20節】。

 このみ言葉は37章から始まったヨセフ物語のまとめであり、結論であると言えます。それだけでなく、12章からの族長アブラハム・イサク・ヤコブの全生涯と、創世記全体のまとめでもあり、さらには旧約聖書と新約聖書全体を貫いている主題であり真理であり、聖書全体において神がご計画しておられる救いの歴史のすべてを語っているみ言葉であり、そしてまたこれこそがイスラエルとの民とわたしたち教会の民の信仰の中心であると言ってもよいでしょう。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章28節以下で、この神の救いのご計画が最終的に主イエス・キリストによって、完全に成就したと語っています。【28節】(285ページ)。創世記50章でヨセフが語った言葉、「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民の命を救ってくださった」。そして、パウロが語った言葉、「神を愛する者たち、ご計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように働くということを、わたしたちは知っている」。神はそのようにして、旧約聖書においても新約聖書においても、人間たちの罪の歴史の中で、神の永遠の救いのご計画を確実に進めておられます。

 それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙で続けて語っているように、どのような艱難も苦しみも剣も、死ですらも、主キリストにあってわたしたちに注がれている神の強い愛から、わたしたちを引き離すことはできないし、したがって、それらを恐れる必要はなく、わたしたちはそれらすべてにおいて勝ち得て余りあるのだということを確信することができるのです。

 わたしたちが創世記を読み始めたとき、1章3、4節にこのように書かれていました。「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた」。そして、31節にはこうありました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。神が創造されたすべてのものは、神のみ心にかなった良きものでした。人間アダムとエヴァはことさらに神に似せて、神と共に歩む者として創造されたのでした。

 けれども、わたしたちはすぐにも、創世記3章で人間の罪と堕落について聞くのです。罪を犯した人間は神から姿を隠して生きねばならず、神の裁きを受けて額に汗して働き、ついには土に帰る、死すべき者となったのでした。しかし神はそれでもなお、人間を求めてやまず、「アダムよ、どこのいるのか」呼びかけてくださると聖書は語ります。

 創世記4章のカインとアベルの兄弟殺しの物語、7章からのノアの大洪水の物語、そしてまた11章のバベルの塔の物語と、人間の罪の歴史は続きました。けれどもまた、神はそのような罪の人間とこの世界とを決してお見捨てになることなく、なおも愛と憐みとをもって救いのみわざをなし続けてこられたことを、わたしたちは読みました。

 創世記12章からのアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語では、神の救いのご計画はより一層明確な神の契約として族長たちに受け継がれていきました。時に、彼らが疑ったり、道をそれたり、失敗したり、悪意や欺きによって争い合ったりした時にも、神はそれらのすべてをお用いになって、そのすべてを益にしてくださって、永遠の祝福と救いへと彼らを導かれたということを、わたしたちは何度も確認してきました。ヨセフが創世記50章20節で告白しているとおりです。

 わたしたちはここから一気に約2千年のイスラエルの歴史を飛び越えて、新約聖書へと目を移すとき、まさに主イエス・キリストの十字架においてこそ、その救いの真理が最もよくあてはまるということに気づかされます。「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民を救ってくださった」という救いの真理が、主イエス・キリストの十字架においてこそ最終的に成就され、神の永遠の救いのご計画がその最終目的に達したのです。すなわち、罪のない神のみ子が罪びとたちの悪意によって十字架に引き渡されるという、人間の罪のわざの頂点を、神はその罪のわざをもお用いになり、全人類の罪を贖うという、救いのみわざの頂点に変えたもうたのです。神は確かに愛する信仰者のために万事を益としてくださいました。

 さて、創世記50章は父ヤコブの死のために泣くヨセフの場面に始まり、ヨセフ自身の死の場面で終わります。この章には、何度も人間の死と葬りについて、またそれを嘆き悲しむ人間の姿が語られています。人間についての一つの物語の終わりが死であり、葬りであり、嘆き悲しむことであるということは、いつの世も変わらず、わたしたちすべてにも当てはまります。

しかし、ここでもまたわたしたちはその中で語られている20節のみ言葉を思い起こすべきです。「神はそれを善に変え、多くの民の命を救ってくださった」。神は人間の死と悲しみを越えて、そこでもまた救いのみわざをなしてくださるにだということをわたしたちは信じてよいし、信じるべきです。そしてまた、わたしたちはここにおいても、主イエス・キリストにおいてこそ、そのことが成就され、完成されたということを知っています。わたしたちが『使徒信条』によって、「主は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し」と告白しているとおりです。

 【1~3節】。ヨセフの父ヤコブの葬りの準備は、ヤコブ一族が寄留していたエジプトの流儀で行われました。エジプトでは死者をミイラにして長く保存する習慣がありました。死者が同じ肉体をまとって墓から出てくると考えられていたからです。エジプトの王たちが自分の体をミイラにしてピラミッド型の大きな墓に葬らせた歴史的遺産を今日わたしたちは目にすることができます。

 しかし、ヤコブの体に薬を塗ったのは、ミイラにしてエジプトの墓に葬るためではありませんでした。4節以下に詳しく書かれているように、彼の体を神の約束の地カナンにあるアブラハムの墓に葬るために、それまで保存しておくための処置でした。ヤコブの体はエジプト流儀で処理され、彼の葬儀もエジプトの王と同じほどの国葬級の盛大な規模で行なわれましたが、それは彼がエジプト人になって、エジプトの墓に葬られるためではありませんでした。ヤコブは寄留の地エジプトで死んだのですが、しかし彼は神に選ばれた民の一人であり、神の約束のみ言葉を信じて生き、そして死んだ、信仰者であることを決してやめることはありません。ヤコブは、父祖アブラハム、イサクと同様に、神の契約の民の一人として、神の祝福を受け継ぎ、神の約束の地を受け継ぐ信仰者として、カナンの地に葬られました。ヤコブの死によっても、神の約束のみ言葉は決して効力を失うのではありません。ヤコブの死を越えて、神の契約はなおも成就へと向かっていきます。

 前の章、49章29節以下で、ヤコブは死の前にその信仰を告白し、息子たちに自分をカナンの地にあるアブラハムの墓に葬るように命じていました。ヨセフはその父の遺言をエジプト王ファラオに告げ、王の許可をもらって父を葬るためにカナンへの旅に出ます。50章4節から14節までに、その様子が詳しく描かれています。ヨセフはエジプトに来てから長くこの地に住み、エジプトではファラオに次ぐ最高の位についたとしても、彼もまた父ヤコブの信仰を受け継ぎ、父ヤコブの命令に従っています。否、それ以上に、神の約束のみ言葉に聞き従っているのです。そして、アブラハムがカナンの地で妻サラを葬るために購入したマムレの墓に父を葬りました。

 次に、【15~21節】。父ヤコブの死は彼の子どもたちに数十年前の弟ヤコブに対する罪を呼び起こしました。37章に書かれていたように、兄たちが父にかわいがられていた弟ヨセフをねたみ、彼をエジプトの商人たちに売りとばしたということが、ヤコブ物語の始まりでした。最後の章で、そのことがもう一度思い起こされています。父ヤコブが死んで、ヨセフが自分の権威を自由に発揮できるようになったら、ユセフは自分たちに復讐するかもしれないと兄たちは恐れました。

 16節以下で、兄たちがヨセフに、父が死ぬ前にこのように言っていたと告げていますが、それについてはこれまで何も書かれていませんでしたから、もしかしたら、何とかして弟ヨセフにゆるしてもらおうとする兄たちの作り話であったのではないかと想像する注解者もいます。そうであるとしても、17節後半の言葉は真実です。「どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と兄たちは言います。父の遺言だから赦してほしいと願っているだけではありません。互いに一人の神に仕える僕たちであるゆえに、互いにゆるし合わなければならないのであり、また事実ゆるし合うことができるのです。肉による父と子、兄弟たちというつながりによるだけではなく、それ以上に強い信仰によるつながりがあるゆえに、互いにゆるし合い、和解し、真に一つの信仰者の群れとされるのです。一人の主なる神ゆえに、その神を信じる信仰のゆえに、その神に共に仕える僕たちであり、一つの群れであるゆえに、わたしたちもまた互いにゆるし合う者たちとされているのです。主キリストがこの弱い兄弟のためにも死んでくださったゆえに、わたしたちは互いにゆるし合い、受け入れ合うことができるのであり、そうするように招かれているのです。

 ここにこそ、人間同士の真の和解が成立します。神が唯一の主なる神として信じられ、礼拝されるところに、すべての信仰者がこの神の僕として仕え、また互いに仕え合うところに、真の和解が与えられます。19節以下のヨセフの兄たちに対する寛容なゆるしの言葉も、その根底にあるのは主なる神への信仰です。主なる神がすべての人間たちの罪や悪や欺きや憎しみをも越えて、それらを貫いて、あるいはそれらをお用いになって、すべてを善に変え、すべてを益とされ、ご自身の救いのみわざをなしてくださるという信仰こそが、ゆるしの思いを生み出し、和解を生み出していくのです。

 22節からはヨセフの死と彼が最後に言い残した遺言が書かれています。【24~25節】。ヨセフの死によってヨセフ物語の主題が終わるのではありません。神と族長たちとの契約、神の約束のみ言葉が消えてしまうのではありません。神の救いのみわざ、神の救いの歴史はなおも続けられます。わたしたちは次回からは、創世記に続く出エジプト記を読んでいくことになります。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのみわざは、人間たちの罪やつまずきや不信仰によっても、とどまることはありません。この世界のさまざまな争いや混乱、わざわいや困窮によっても、あなたの救いの恵みは失われることはありません。どうか、この苦悩する世界を顧み、救ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月14日説教「異邦人のペンテコステ」

2024年1月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書32章15~20節

    使徒言行録10章44~48節

説教題:「異邦人のペンテコステ」

 カイサリアに駐留するローマ軍の兵士コルネリウスとその一家が洗礼を受けてキリスト者となったという出来事が、使徒言行録10章1節から11章8節まで書かれています。これは一つの出来事としては使徒言行録では最も長い記述になっています。また、同じ場面が何度も繰り返して記録されています。この出来事が初代教会にとって非常に重要な意味を持っていたということを示しています。

旧約聖書では、神はイスラエルの民を選ばれ、この民をとおして救いのみわざをなさいましたが、新約聖書に至って、主イエスがこの世においでくださったことによって、神の救いのみわざは全世界のすべての民、すべての人々へと拡大されていったのですが、その大きな変革と言うか、転換と言うか、しかしそれは本来の神のご計画であったのですが、その大きな転換が初代教会の中でどのように行われていったのかということを、わたしたちはここから知ることができます。

 前回学んだ10章34節から43節までの、コルネリウスの家での使徒ペトロの説教を少し振り返ってみましょう。この説教は、使徒言行録に記されているいくつかのペトロの説教の中でユダヤ人以外の異邦人を対象にした唯一の説教です。ペトロの説教は、2章に書かれていたペンテコステの日の説教をはじめとして、すべてはユダヤ人を対象にしていましたが、ここでの異邦人を対象にした説教では、少しの変化が見られます。ペトロの説教の中心は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音であることは彼の説教のすべてに共通していましたが、42節からは、主イエスの救いのみわざが全世界のすべての人を対象にしていることが語られています。

 【42~43節】。まず42節では、ペトロをはじめとして主イエスに選ばれた12弟子たちは、主イエスの救いのみわざを宣べ伝える証し人として、この世へと派遣されているその使命について語られています。実は、これこそが神によって先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人全体の使命なのです。イスラエルも12弟子も、何らかのすぐれた点があったから神に選ばれたのではありませんでした。小さな奴隷の民、貧しい一人一人であったにもかかわらず、神の愛と憐みによって先に選ばれ、神の救いにあずかる恵みを与えられているのです。それは、先に選ばればれた人たちが他の人々に神の救いの恵みの証し人となるためです。ここに集められているわたしたち一人一人にとっても、事情は同じです。

 42節で語られているもう一つのことは、ペトロたちが語るように命じられた内容は、主イエス・キリストが「生きている者と死んだ者との審判者」として父なる神によって定められているということです。わたしたちが『使徒信条』で告白しているように、主イエスは「十字架で死んで、三日目に復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」。全世界のすべての人が、終わりの日の審判の前に立たされるのです。

 それとともに、43節では、主イエスを信じる人はだれでもみな主イエスのみ名によって罪をゆるされるという福音が、すでに旧約聖書の中で預言者たちによって預言されていたということが語られています。

 このようにして、ペトロの異邦人に対する説教は、主イエスの十字架と復活の福音が、今や全世界のすべての民、すべての人に宣べ伝えられているということが高らかに宣言されているのです。主イエスの十字架と復活の福音は、それを聞いて信じる人には罪のゆるしと救いを与え、信じない人には永遠の裁きと滅びをもたらすのです。そのことにおいては、ユダヤ人であるか異邦人であるかの区別はもはやなくなったのです。

 では、このペトロの説教を聞いて、コルネリウスとその一族はどのように応答したのかについて、44節以下を読んでいきましょう。

 【44~46節a】。この44節以下の出来事は、「異邦人のペンテコステ」と言われます。2章に書かれていた、エルサレムでの弟子たちとユダヤ人の上に聖霊が注がれ、最初の教会が誕生したのと同様に、ここでは異邦人の上に聖霊が注がれ、カイサリアに異邦人教会が誕生したからです。

 44節に「ペトロが……なおも話し続けていると」と書かれているのは、彼の説教が中断されたようにして、彼ら一同の上に聖霊が降ったことを表現しているように思われます。でも、ペトロの説教が中途半端で、未完成であったというのではありません。ペトロは語るべきことを語り、一同は聞くべきことを聞いたのですが、そのような人間の行為をはるかに超えた力をもって聖霊なる神が働かれたということをここでは強調していると思われます。「主イエスを信じる者はだれでもその名によって罪のゆるしが受けられる」との43節のペテロの説教がすぐに成就したのです。主イエスの福音が語られるところでは、その語られたみ言葉と共に聖霊が働き、人間の能力や願いをもはるかに越えて、聖霊が救いのみわざをなしてくださるからです。

 この時に起こった異邦人のペンテコステを、2章に書かれていたユダヤ人のペンテコステと比較しながらみていきましょう。最初に、ペンテコステが起こった場所ですが、2章ではエルサレム市内にある主イエスの弟子の一人の家でした。ここでは、エルサレムから北へ80キロほどの地中海沿岸の都市カイサリアにあるローマ軍の百人隊長コルネリウスの家です。聖霊は場所が変わり、時代が変化しても、常に変わらず、み言葉と共に働いてくださいます。

 次に、聖霊が注がれた対象は、2章では主イエスの12弟子をはじめ、主イエスに従ってきた120人ほどの信者たちとペトロの説教を聞いた数千人のユダヤ人。彼らの多くは主イエスの十字架の死と復活を実際に見た人たちでした。この10章では、先に神に選ばれた民ユダヤ人ではなく、彼らからは異邦人と呼ばれていたコルネリウスと彼の家族、彼の親族や部下たち、正確な人数は分かりませんが、27節では「大勢の人が集まっていた」と書かれていました。

 ユダヤ人は、聖霊の賜物は神に選ばれた民ユダヤ人にだけ注がれると考えていました。しかし今、ユダヤ人以外の異邦人にも聖霊が注がれたのです。45節には、ペトロと一緒に来たユダヤ人たちがそのことを実際に目撃して、大いに驚いたと書かれています。主イエスの福音がユダヤ人と異邦人の区別を取り除いたのです。主イエスの福音が全世界のすべての人に語られ、すべての人に救いの道が開かれたのです。

 三つ目に、2章では、聖霊を受けた弟子たちはいろいろな他国の言葉で主イエスの救いの出来事について語り出したと書かれていました。ここでは、「異邦人が異言を話し、また神を賛美している」と書かれています。2章と10章で起こった現象が全く同じだったのかどうかについてはよくわかりませんが、2章4節で「ほかの国の言葉で話しだした」の「言葉」と10章48節の「異言を話し」の「異言」とは同じギリシャ語ですから、同じと考えてよいのではと思われます。いずれにしても、聖霊を受けた人は人間の知恵や知識では語りえない、神から直接に与えられた言葉を語り、主イエス・キリストによってなされた神の救いのみわざを大胆に、力強く語るということにおいては一致しています。

 聖霊なる神はわたしたちに主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語る言葉を授けてくださいます。また、聖霊はその語られた説教を聞いて信じ、救われるという恵みを与えてくださいます。それらのすべては、聖霊のお働きです。神はわたしたちの欠けの多い言葉をもお用いになって、救いのみわざをなさいます。聖霊はまた、わたしたちのかたくなで悟るに鈍い魂に働きかけ、主イエスの福音を信じる信仰へと導いてくださり、わたしたちのすべての罪をゆるし、わたしたちを罪と死と滅びから救うという驚くべきみわざをなしてくださいます。聖霊はそのようにして、わたしたちとこの世にあって、神とわたしたちとを隔てていたすべての壁や溝を取り払い、わたしたちを神との豊かな交わりの内に導き、わたしたちを神の子どもたちとしてくださるのです。

 47節以下を読みましょう。【47~48節】。異邦人にも聖霊が注がれるのを見たペトロは、彼らもまたユダヤ人と同じように、洗礼を受けキリスト者となる道へと招かれていることを悟りました.ここにおいて、ユダヤ人と異邦人との間にあった壁は取り除かれ、異邦人もまた主イエス・キリストの福音によって救われる道が完全に開かれたのです。

 2章のユダヤ人のペンテコステにおいては、ペトロの説教を聞いたユダヤ人およそ3千人が悔い改めて、洗礼を受け、罪のゆるしの恵みを与えられ、そののちに聖霊の賜物が与えられると約束されていましたが、ここでは先に聖霊の賜物が異邦人に与えられ、そののちに洗礼を受けたという順序になっています。洗礼を受けることと聖霊の賜物が与えられることの順序が逆になっています。しかし、これには本質的な違いはありません。聖霊は主イエスの福音を聞いて信じる信仰を与え、洗礼を受ける決意を与え、また洗礼を受けた信仰者の信仰生活を導かれるからです。そのすべてが聖霊のお働きだからです。

 最後に、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」ということについて考えてみましょう。2章38節のエルサレムでのペンテコステの時にも、ペトロはこのように言っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していだたきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。また、8章16節でも、「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていた」とあり、19章5節でも同じ表現が用いられています。初代教会では「主イエス・キリストの名による洗礼」が行われていたようです。のちになって、今日のように「父と子と聖霊のみ名によって」と、三位一体の神のみ名による洗礼が行なわれるようになっていきました。

 「主イエス・キリストのみ名による洗礼」の深い意味について、パウロはローマの信徒への手紙6章で、「主イエス・キリストに結ばれるための洗礼」と表現して語っています。その個所を読んでみましょう。【6章3~5節】(280ページ)。主イエス・キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活にあずかり、わたしが古い罪の自分に死に、新しい復活の命に生かされるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたは主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって新たに生かしてくださり、あなたの民として神の国へとお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、あなたが永遠にわたしたちと共にいてください。わたしたちを日々新しい聖霊の賜物によって満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月7日説教「エルサレムに向かう主イエス」

2024年1月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    ルカによる福音書9章49~56節

説教題:「エルサレムに向かう主イエス」

 わたしたちが続けて読んでいるルカによる福音書を含めた初めの3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカを「共観福音書」と言います。この3つの福音書は主イエスのご生涯を描いている記事の順序が同じだけなく、時には一字一句が同じ個所もたくさんあります。そこで、これら3つを4番目のヨハネ福音書と区別して「共観福音書」と呼ぶようになりました。

 今日の研究によれば、マルコ福音書が最も早く、紀元60年代に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にしながら、他の資料をも加えて70年代に書かれたと推測されています。ちなみに、ヨハネ福音書は少し遅れて80年から90年代に書かれたとされています。

 きょう朗読されたルカ福音書9章50節までは、マルコ福音書とほとんど同じ順序で書かれていますが、51節からはマルコの順序からは離れ、またマタイとも違って、ルカ特有の記事が続くようになります。それが、9章51節から19章27節まで続きます。この長い箇所は「ルカの大挿入」と言われます。ルカ独自の資料がこの箇所に多数加えられています。また、この箇所は、主イエスのガリラヤ地方での伝道が終わり、エルサレムに向かって進んで行かれる途中の出来事が記されていますので、「主イエスのエルサレム旅行記」とも言われます。

 51節にこのように書かれています。【51節】。この文章からも分かるように、エルサレムへの旅行とはいっても、それは観光目的とかだれかに会う目的の旅行ではもちろんありません。主イエスが「エルサレムに向かう決意を固められた」のは、「天に上げられる時期が近づいた」からです。「天に上げられる」とは、主イエスの昇天を指していると思われますが、ここでは、主イエスがエルサレムで経験されるすべてのこと、つまり、受難週の初めの日に苦難の僕(しもべ)としてロバに乗ってエルサレムに入場され、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、偽りの裁判で裁きを受け、人々からの辱めと屈辱と嘲笑の叫びの中で十字架につけられ、死んで三日目に復活され、40日目に天に昇られるまでのすべての出来事を含んでいます。それはまた、主イエスがすでに2度ご自身の受難予告で語っておられたことです。父なる神がお定めになったこの受難への道を、主イエスは今、固い決意をもって進み行かれるのです。

 ルカ福音書がエルサレムでの主イエスのこれらのみわざを「天に上げられる」と表現しているのは、それによって神の救いのみわざが成就されるという意味を含んでいます。主イエスはユダヤ人指導者たちの悪意や憎しみに敗北してしまうのではありません。人々の罪や拒絶によって、神の救いのみわざが挫折してしまうのではありません。主イエスは罪に勝利されます。すべての人間たちの過ちや憎しみや拒絶に勝利されます。そして、神の救いのご計画を成し遂げられます。その勝利のしるしとして主イエスは天に上げられたのです。

 では次に、主イエスがエルサレムへの旅を開始される直前の49節以下と、その直後の52節以下に記されていることについて、今学んだ51節のみ言葉との関連性を考えながら学んでいくことにしましょう。

 【49~50節】。ヨハネは主イエスの12弟子の一人です。5章10節によれば、ガリラヤ湖の漁師で、ゼベダイの子ヤコブの兄弟です。この二人の兄弟の名前は54節にも出てきます。ヨハネはペトロとともに、12弟子の中での中心的な存在でした。でも、その中心的な存在であるヨハネが主イエスのみ心を正しく理解してはいなかったことが、ここと、また52節以下でも、明らかにされているのです。

 ヨハネの誤解がどこにあったのでしょうか。そのヒントが49節の「お名前を使って」という言葉にあります。お名前とは主イエスのお名前のことです。ここでは、主イエスのお名前が持っている大きな権威と力が重要な意味を持っています。それは、すぐ前の48節にも共通しています。「主イエスのみ名のために」一人の小さな子どもを受け入れることが、重要なのです。子どもそれ自体に何らかの価値があるからではなく、主イエスがその小さな子どもを愛され、その子どもを受け入れてくださるからこそ、その小さな者を受け入れる信仰者こそが、神の国では大きな者と認められるのです。主イエスのお名前が、48節でも49節でも、決定的に重要な意味を持っているのです。

ところがヨハネは、ある人が主イエスのお名前を使って、そのお名前の権威と力によって悪霊を追い出していたのを見、自分たち、すなわち12弟子たちの集団に加わって一緒に行動するようにその人に要求したが、その人はそれを断ったので、主イエスのお名前を使って悪霊を追い出すことをやめさせたというのです。それに対して主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。

なぜならば、主イエスのお名前が持つ天からの権威と力が悪霊に勝利しているからです。悪霊に勝利できるのは、神のみ子である主イエスのほかにはだれもいません。その主イエスのお名前以外の何ものによってもそれはできません。主イエスのお名前が権威をもってその力を発揮しているところには、神のご支配が、神の国が始まっているからです。

ところが、ヨハネは自分たちの集団を大きくすることをより重要だと考えていたようです。あるいは、37節以下に書かれていたように、自分たちには悪霊を追い出すことができず、主イエスからお叱りを受けたことがあるのを覚えていたのかもしれません。でも、重要なことは主イエスのお名前です。主イエスのお名前のもとにすべての救われた人たちが集合するのです。主イエスのお名前を信じ、主イエスのお名前によって洗礼を受け、主イエスのお名前によって集められた教会に、すべての信仰者は結集するのです。

51節以下に書かれる主イエスのエルサレム行きは、そのことをよりはっきりさせます。主イエスの十字架のもとに、全世界のすべての民、すべての人々が、罪ゆるされ、救われた神の国の民として、結集するようになるのです。

52節以下を読んでみましょう。【52~56節】。主イエスはエルサレムに向かわれる時にサマリア地方を通って行かれました。当時、ガリラヤからエルサレムへのルートは二つありました。一つは、ガリラヤからまっすぐに南下してサマリアを通過するルート、この道だと100キロ余りを3日くらいかかります。もう一つは、いったんヨルダン川を渡って東へ迂回していくルート、この道ではさらに1日から2日が必要になります。

なぜこのようなう回路が必要になったのかと言えば、ユダヤ人とサマリア人との長い間の民族的・宗教的対立が原因していました。紀元前721年に北王国イスラエルとその首都サマリアはアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは征服した地に外国人を移住させ、サマリアには多くの外国人が移り住むようになりました。そのために、サマリアのユダヤ人は異教の人々と混じり合い、民族的にも宗教的にもユダヤ人としての純粋さを失うことになったのです。南王国ユダはダビデ王家の王たちによって治められ、民族的・宗教的にユダヤ人としての純粋性を重んじてきましたから、サマリア人を異教徒に身を売り渡した軽蔑すべき異邦人とみなし、対立するようになったのです。両者の対立が決定的になったのは、紀元前4世紀ころ、サマリア人はエルサレムの神殿に対立してゲリジム山に独自の神殿を建ててからでした。

そのようなわけで、ユダヤ人はサマリア地方を通り抜けることを避けて、わざわざ遠回りをして、ヨルダン川東側のう回路を通るようになりました。けれども、主イエスはサマリアを通って行かれました。その理由は書かれていませんが、サマリアの町々村々でも神の国の福音を宣べ伝えるためであったことは明らかです。サマリアの人々も神の国の福音を聞き、信じて、救われるために、主イエスは信仰深いユダヤ人ならば避けて通るであろうサマリアへの道をお選びになったのです。そして、弟子のヤコブとヨハネとを先に派遣して、自分たちの宿や食事の手配などをさせました。

しかし、サマリアの人たちは主イエスの一行を歓迎せず、宿を提供することを拒みました。特に、主イエスの一行がエルサレム神殿に向かっていると知った彼らは、彼らが建てたゲリジム山の神殿が無視されていると感じて、敵対心をむき出しにしました。

そこで、主イエスと自分たちの道を邪魔されたヨハネとヤコブは、天からの裁きを求めてサマリア人を焼き滅ぼすことを主イエスに提案しました。この提案には、ユダヤ人のサマリア人に対する長い憎しみや敵対心が現れているのは明らかです。弟子たちは主イエスを迎え入れようとしないサマリア人に神の裁きが降るのは当然だと考えていました。けれども、主イエスは弟子たちの提案を拒否されました。主イエスが今エルサレムに向かっておられるのは、まさにそのような民族間の敵対心や対立を取り除くためであったからです。弟子たちにはまだそのことが理解されていませんでした。

最後に、主イエスがエルサレムに向かう決意を強くされ、その道を進み行かれたことが、この箇所でどのような意味を持つのかを2つのポイントにまとめてみたいと思います。一つには、弟子たちの信仰の無理解と誤解を取り除き、彼らが真実に主イエスの弟子として、福音宣教の使者として世界に遣わされていくため訓練のためであったということです。エルサレム行きの直前の48節以下では、彼らはだれが一番大きいかと論じ合っていました。49節以下では、主イエスのお名前の権威と力とを理解せず、自分たちのグループを大きくすることに関心を向けていました。エルサレム行き直後のきょうの箇所でも、彼らは主イエスのエルサレム行きが裁きのためではなく、すべての人の救いのためであることを理解していませんでした。主イエスの十字架の死と復活、そして昇天と聖霊降臨は、それらの弟子たちの無理解と誤解を取り払い、彼らを初代教会の使徒として固く立たせたのです。

第二には、主イエスの十字架と復活は、神とわたしたち人間との間の罪という深く大きな溝を取り除き、わたしたちを神のみ前で罪ゆるされ、救われた神の民として迎え入れる救いのみわざであるとともに、その十字架の福音によってすべての民族や人々の間にあった分裂や憎しみ、対立をも取り除き、主イエスの十字架のもとにすべての人を一つの神の民、一つの礼拝の民とする救いのみわざでもあるということです。主イエスは10章25節以下で、親切なサマリア人のたとえをお話になりました。ユダヤ人からは軽蔑され、救いから除外されていたサマリア人こそが、今や主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって救いへと招き入れられているのです。わたしたちもまた異教の民であり、小さな取るに足りない一人一人でしたが、主イエスの十字架によって救いへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子の十字架によって全人類をお救いくださったことを感謝いたします。どうか、この混乱と分断と試練の中にある世界にあなたからの和解と平和と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月31日説教「神の国に入る」

2023年12月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:詩編96編1~12節

    ヨハネによる福音書3章1~15節

説教題:「神の国に入る」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「神の国に入る」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 この文章は、文法的には二重否定になっています。「神の恵みによならければ」は否定分です。「神の国に入ることはできません」も否定分です。このような二重否定は、意味を強調するために用いられます。ここでは、救いの道、神の国に入る道を厳しく限定しています。この道以外には救いの道はない、この道以外には神の国に入る道はない、他のどのような方法や手段によっても、それは全く不可能である、ただこの道だけである、ということを強調しているのです。

 それはまた、この道を無限大に広げていることにもなります。つまり、その人に、ほかに何がなくても、ほかにどのような欠点や破れがあろうとも、弱さや未熟さがあろうとも、「この三位一体なる神の恵み」さえあれば、これさえあれば、あなたの罪はゆるされ、救われる、あなたは神の国の民として迎え入れられるということでもあります。

 ここで告白されている信仰は、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の信仰の大きな特色です。宗教改革者たちはそれを「神の恵みのみ」という言葉で表現しました。ローマ・カトリック教会が、罪びとが救われるためには主イエス・キリストの福音を信じる信仰とともに、人間の良きわざも必要だと教えていたのに対して、ルターやカルヴァンは「いや、そうではない。聖書が教えている正しい救いの道は、罪びとは良きわざが全くないにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神から差し出されている一方的な恵みによって、罪ゆるされ、救われる。聖書はそのように教えている」と語って、カトリック教会に抗議したのです。「神の恵みのみ」、これがプロテスタント教会の信仰の基本です。

 『日本キリスト教会信仰の告白』では、その宗教改革の基本線をさらに強調するために、「この三位一体なる神の恵みによらなければ」という表現を用いて、「神の恵み」を「三位一体なる神の恵み」として、より強く神の恵みの豊かさを告白しています。つまり、主イエス・キリストの救いのみわざの恵みと、父なる神の救いのみわざの恵み、そして聖霊なる神の救いのみわざの恵み、そのすべての恵みが、わたしの救いのために働いているということを告白しているのです。ここに、わたしの救いの確かさがあります。救いの永遠性があります。

 では次に、「神の国に入る」という告白について学んでいきましょう。「神の国」という言葉は新約聖書で数多く用いられています。もとのギリシャ語を直訳すれば、「神の王国」となります。これは、神が王として支配している場所、そのような状態を言います。ただし、マタイによる福音書だけは、神という言葉を避けるために「天の国、天の王国」と言います。その他の福音書、書簡等では「神の国、神の王国」です。

 主イエスがお語りになった説教の内容は神の国の福音が中心でした。マルコ福音書1章14節以下にはこのように書かれています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(14~15節)。

主イエスはまた神の国について、多くのたとえをお用いになって説教されました。マルコ福音書4章には種をまく人のたとえが書かれています。種をまくとは、神の言葉をまくことであり、良い地にまかれた種は30倍から100倍もの豊かな実りをつけると語られています。また、26節以下では、土に種をまくと、その種が芽を出し、成長して、その葉の陰に空の鳥が宿るほどに大きな枝になると、語られています。主イエスの説教の多くが神の国のたとえでした。

これらの神の国のたとえの中心は、主イエスご自身が天の父なる神の言葉をお語りなる最初の種まきであり、また主イエスご自身が神の言葉が肉となって、人間のお姿になってこの世においでになり、豊かな救いの恵みをお与えになって、多くの人々を新しい神のご支配のもとへと招き入れてくださる救い主であるということが、証しされているのです。

そのほかに、主イエスがなさったさまざまな奇跡のみわざ、回復が見込めない重い病気をいやされるとか、悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出されるとか、あるいは湖の嵐を沈めるとか、しかもそれらの奇跡を権威あるみ言葉をお語りになることによってなさることにより、新しい神の恵みのご支配が今や到来したことの目に見えるしるしを現わされたのです。主イエスのご生涯全体が神の国がこの地に到来し、神の新しい恵みのご支配が始まっていることのしるしであったと言えるでしょう。

主イエスが説教された神の国到来の福音は、旧約聖書における神の国の理解と共通点があります。旧約聖書の中では神の国という言葉は用いられてはいませんが、神が王としてイスラエルと全世界とを支配しておられるという神の国の考え方は数多くあります。たとえば、詩編93編から100編は、神が王として即位する即位式の詩編と言われていますが、これらの詩編では、神が全世界を支配される唯一の、永遠なる王としてその位に就く儀式が想定されていると言われます。詩編96編10~13節を読んでみましょう。【詩編96編

10~13節】(934ページ)。

旧約聖書時代のイスラエルの国は、繰り返して外国からの攻撃を受け、民の多くが諸外国に散らされ、苦難の歴史を歩んできました。紀元前721年には北王国イスラエルが滅ぼされ、587年には南王国ユダも滅ぼされ、ダビデ王国は完全に消え去りました。イスラエルの民はそのような苦難の歴史の中で、神がやがてイスラエルと全世界の唯一の王として君臨し、すべての民を義と平和ですべ治め、神の国を完成されるであろうと期待しました。神はそのために、油注がれたまことの王であるメシア・救い主を世にお遣わしになるであろうと信じました。その旧約聖書の待望が、今や、主イエス・キリストによって成就の時を迎えたのです。わたしたちが先週のクリスマス礼拝で聞いたルカ福音書のみ言葉がそれです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章1節)。

けれども、ここでわたしたちは一つの重要なことを確認しておかなければなりません。それは、主イエスがどのようにして神の国の王となられるのか、またどのようしてすべての人をすべ治められるのかということです。それは、当時の多くのユダヤ人が期待していたのとは全く違ったものであったということです。すなわち、多くの人が期待していたのは、たくましい軍馬にまたがり、手にはするどい剣を持ち、イスラエルを支配していたローマの軍隊を追い出し、イスラエルを異教徒の王の支配から解放する英雄的な王としてのメシアでした。

しかし、主イエスはそのような王ではありませんでした。主イエスは受難週の最初の日の日曜日に、軍馬ではなく柔和なロバに乗ってエルサレムに入場されました。剣をもって権力をふるう王ではなく、人類の罪ためにご自身が苦しまれ、わたしたち罪びとのためにお仕えくださる僕(しもべ)として、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。わたしたちの罪のためにご自身の命を贖いの犠牲としてささげ尽くされました。それによって、罪と死とに勝利され、三日目に復活されたのです。主イエスは十字架で死んでくださった救い主であり、また愛と恵みとをもってわたしたちを復活の命へと導かれる主として、神の国の王となって君臨されます。わたしたちは十字架と復活の主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によって、神の民とされ、神の国に入ることが許されているのです。

次に、ヨハネ福音書3章で、主イエスはユダヤ教ファリサイ派の学者ニコデモとの対話の中で、「神の国に入る」とはどういうことかを教えておられます。

【3節】。また【5節】。ここでは「神の国を見る」あるいは「神の国に入る」という表現が用いられています。パウロの書簡などでは「神の国を継ぐ」とも言われています。これらの表現からも分かるように、神の国に入ると約束されているのはわたしたち信仰者ですが、それはわたし自身の意志や努力や能力によってなされるのではないことは明らかです。神の国、神のご支配は、天におられる神からわたしの方に近づいて来る、あるいは到来するのですから、わたしはそれを受け入れる、あるいは迎え入れる、それを受け取って自分のものにすることによって、神の国に入ることが許されます。

 主イエスはそれを「新たに生まれる」ことによって、また「水と霊とによって生まれる」ことによって可能になるのだと、説明しておられます。それまでの罪に支配されていた自分と別れて、その古い自分に死んで、新たに天の父なる神から与えられる霊によって生きる者に変えられる。そして、主イエスの十字架の死と復活に合わせられる洗礼を受け、水によって古い自分を洗い流し、新たに主イエス・キリストの救いの恵みによって生きる者へと変えられる。そのようにして、わたしは主イエスによって開かれた神の国に入ることが許されるのです。

 神の国では、神が永遠にわたしたちと共におられます。神とわたしとの交わりを妨げるものは何もありません。神の国では、もはや死はなく、悲しみや痛みもなく、すべての不安や恐れは消え去り、常に、永遠に神が共におられ、主イエスのみ顔を仰ぎながら、感謝と喜びに満ちた祝宴の席に連なることが許されるのです。

 わたしたち信仰者は、今すでに、この世にあって、来るべき神の国に生き始めているのです。罪と死に勝利された主イエスが、天の父なる神のみ座から、わたしたちのために執り成していてくださるからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちをあなたの救いと恵みのご支配のもとへと招き入れてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、あなたの強い愛と聖霊のみ力によって、わたしたちを永遠にあなたの御国の民としてください。

○主なる神よ、あなたが恵みと憐みとをもって秋田教会の一年の歩みをお導きくださいましたことを覚え、感謝いたします。また、教会に連なる一人一人をもお導きくださいましたことを感謝いたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。