6月23日説教「ヘロデ王による迫害と教会の祈り」

2024年6月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記13章3~10節
    使徒言行録12章1~5節
説教題:「ヘロデ王による迫害と教会の祈り」

 使徒言行録12章から、紀元1世紀の初代教会の歴史にとっての新しい展開が始まります。新しい展開とはいっても、それは教会にとって必ずしも好ましい展開とは言えないものですが、それは国家権力による教会の迫害という事態です。わたしたちはこれまで、世界最初の教会として誕生したエルサレム教会が経験した何回かの迫害について聞いてきました。それらの迫害は、どちらかと言えば、サドカイ派やファリサイ派からの告発による、ユダヤ教内部からの迫害でした。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる教会の信仰は、ユダヤ教にとっては、彼らが最も大切にしている律法を軽視し、ユダヤ人の伝統を無視する異端的な教えだと考えられていましたから、ユダヤ教の指導者たちは自分たちの教えを守るために教会を迫害したのでした。
 使徒言行録4章には、使徒ペテロとヨハネが捕らえられ、ユダヤ最高法廷で裁判を受けたことが、また5章では使徒たち数人が獄に監禁されたことが、6章ではエルサレム教会の指導者ステファノの逮捕と、7章終りには教会の最初の殉教者となったステファノの死が、そして8章にはエルサレム教会が経験した大迫害のことが書かれていました。
 けれども、教会は幾度の迫害によっても決して弱ることも立ち止まることもなく、かえって、大迫害によってエルサレム市内から追放された教会員がパレスチナや小アジア地方へと散らされることによって、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられ、各地に新しい教会が建てられていったということをも、わたしたちは聞いてきました。そのたびごとに、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」ということを、わたしたちは何度も確認してきました。
 ところが、この12章で、教会は新たな、より厳しい状況を迎えることになります。【1~2節】。キリスト教会が経験した迫害は、これまではユダヤ人の内部での宗教観の違いに由来した迫害だったと言えますが、ここで初めてより強大で、恐るべき敵である国家権力による迫害を経験することになります。しかも、主イエスの直弟子である12使徒の中から殉教者が出るという、衝撃的な出来事を経験することになります。誕生してまだ10年少しの若い初代教会にとって、それはどんなにか大きな打撃であったことか、どんなにか大きな危機であったことか。わたしたちはここでもまた、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」ということを確認することができるでしょうか。初代教会はこの危機をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。
ヘロデ王とは、主イエス誕生の時にユダヤの国を治めてしていたヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世です。ヘロデ大王は主イエスが誕生した際にベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をみな殺せと命じたことからも分かるように、悪名高い、残忍な王として恐れられていましたが、彼の孫であるヘロデ・アグリッパ一世はユダヤ人にもローマ政府当局にも評判がよく、国を治める能力もあったことから、紀元41年からはユダヤ全土を支配する権限をローマ政府から託されていました
 温厚で、王としての統治能力もあったヘロデ・アグリッパ一世が、なぜキリスト教会を迫害するようになったのか、使徒ヤコブを殺したのかについては使徒言行録には何も書かれていません。性格的にどんなに温厚で、政治的手腕に優れていたとしても、その支配者がキリスト教に対してどのような政策をとるかは、全く関連がないと言えましょう。この世の支配者は、ヘロデ大王がそうであったように、彼の孫であるヘロデ・アグリッパ一世もまた、ユダヤ人国家の最高の地位を手に入れた時に、その地位が少しでも危うくなることを恐れ、その地位に必死でしがみつき、キリスト教会に自らの地位を脅かされていると感じたのかもしれません。教会が信じている主イエス・キリストが永遠なる神の国の王であるという教えに、危機感を抱いたのかもしれません。神を恐れることをしないこの世の支配者たちは、いつの時代にも、その地位にしがみつくためにこの世の小さなものを恐れなければならなくなるのです。
 この時の迫害で殉教したヤコブは、マタイ福音書4章で最初の主イエスの弟子として召された4人のガリラヤ湖の漁師の一人です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟のヤコブであり、エルサレム教会で指導的立場にあった主イエスの実の弟ヤコブとは別人です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネについては、マルコ福音書10章38節で主イエスはこのように言われました。「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」。彼らは「できます」と答えました。主イエスがこの時に予告されたように、ヤコブは実際に12使徒の最初に、主イエスと同じ殉教の杯を飲むことになったのです。
 ヤコブの殉教について、紀元2世紀末ころの伝説が記録されています。それによれば、ヤコブがヘロデ王の審問を受けた時、彼は何ものをも恐れず、力強く主イエス・キリストを証ししたので、それをそばで聞いていたヤコブを告発ちたユダヤ人がその場で悔い改め、回心してキリスト者になった。そして、ヤコブと一緒に処刑され、殉教したと伝えられています。このエピソードが史実であるかどうかは確かではありませんが、自らがこの世の権力にしがみついていて、恐れと不安の中にいるヘロデ王と対比されるかたちで、主イエス・キリストの福音に生き、神のみ言葉に信頼するヤコブの勇気と大胆さ、そして自らの死をも恐れずヘロデ王の前で主イエス・キリストを証しする彼の力強い信仰を語るエピソードとして、興味深いものがあります。
 次に、3節以下を読みましょう。【3~5節】。ヘロデ王はユダヤ人の歓心をかうために、初代教会のリーダーであるペトロをも捕らえ、処刑しようとします。ペトロが捕らえられたのは除酵祭の時期であったと書かれています。除酵祭とはユダヤ人最大の祭りである過越し祭に引き続いて一週間行われるパン種が入っていない固いパンを食べる祭りを言いますが、この時代には過越し祭と同じ意味で用いられています。主イエスが十字架につけられたのも過越しの祭りの時期でした。23節に書かれているヘロデ王の死は紀元44年であったことがほぼ確定されていますので、ペトロの逮捕が同じ年であったとすると、紀元44年の3月から4月にかけてのころと考えられます。ヘロデ王は祭りのために集まってくる多くのユダヤ人にペトロの処刑を見せしめにしようとしていました。主イエスの十字架も同じ時期だったことをヘロデ王が知っていたかどうかは定かではありませんが、彼はこのようにして自らは気づかずに、過越しの祭りと主イエスの十字架の死と復活いう神の救いのみわざを指し示す役割を担うことになったのです。
 ヘロデ王は投獄したペトロを見張るために4人一組の兵士を4組、計16人の兵士を配備して監視させたと書かれています。牢から逃げ出す道も、牢の外から救出する道も、完全にふさぐという念の入れようでした。本人は全く武器を持たず、支援者もまた何らの力も勢力もない、小さな群れである教会を、ヘロデがなぜこれほどまでに恐れなければならなかったのか。ここにもまた、神なき世界に住み、神を恐れることをしないこの世の権力というものの、弱く、もろく、あわれな姿が浮かび上がっているように思われます。反対にまた、神を信じているペトロと教会の民に与えられている力と勇気とが、おのずと浮かび上がってくるようにも思われます。
 では、教会でのこの困難な事態にどう対処するのでしょうか。指導者ペトロが捕らえられ、使徒ヤコブと同じように処刑されるかもしれないというこの危機に、教会は何もなしえず、ただ黙って、遠くで推移を見守るほかにないのでしょうか。いや、違います。たとえ教会が窮地に陥り、何もなしえなくなったとしても、教会には祈ることだけはできます。ただ祈ることだけが、唯一の教会ができることです。否、むしろこう言うべきでしょう。教会はこのような時にこそ、祈ることができるのであり、祈ることが許されているのであり、また祈ることが命じられているのだと。そして、それこそが、教会できる最も大きな力強い行動であり、最も強力な抵抗であり、危機を乗り切る最も力強い戦いであるのだと。
 「ペトロは牢に入れられていた」。しかし、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と5節に書かれています。その教会の祈りを神がお聞きにならないことなどあり得るでしょうか。わたしたちは旧約聖書でしばしば聞いています。詩編50編の詩人は歌っています。「悩みの日に、わたしを呼べ、わたしはあなたを助けると、神は言われる」。また、118編5節には、「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた」とあります。神は苦しみ悩みの中で主を呼び求める信仰者を決してお見捨てにはなさいません。
 新約聖書では、わたしたちは繰り返して主イエスご自身の祈りのお姿を見ています。十字架の直前に、ゲツセマネの園で徹夜の祈りをされた時には、「誘惑に陥らないように、あなたがたは目を覚まして祈っていなさい」と弟子たちにお命じになりました(マタイ福音書26章41節参照)。エフェソの信徒への手紙6章18節では、「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖な者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とも命じられています。祈りこそが、苦難の時、試練や迫害の時、信仰の戦いにとっての信仰者の最も力強い、最大の武器であり、敵の攻撃を防ぐ最強の盾です。信仰者は祈りによって、祈りをお聞きくださる主なる神によって、信仰の戦いに勝利するのです。
 事実、わたしたちは少し先の12節で、教会で祈りがささげられていたまさにその時に、ペトロが神の奇跡によって牢から解放され、祈っていた彼らの前にペトロが姿を現したというみ言葉を読むことができます。
 このようにして、教会はこの新しい国家権力による迫害とリーダーであるペトロの逮捕という緊急事態にも、決してあわてることも不安で心を閉ざすこともなく、共に祈ることによって力と希望とを与えられ、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」という信仰に生き続けたのです。わたしたちにもこの信仰が与えられています。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたは苦難や試練の中にあって祈る信仰者を、決してお見捨てにはなりません。あなたはこの世のあらゆる抵抗や不信仰の中でも、あなたの救いのご計画をおすすめになります。主よ、この世界の中で、またこの国の中で、あなたを信じて祈る者たちの祈りを、いよいよ強くしてください。あなたの命のみ言葉の勝利をわたしたちに確信させてください。
○主なる神よ、重荷を負って苦しんでいる人、悩みや迷いの中で希望を失っている人、飢えや渇きによって倒れている人を、どうか顧みてください。あなたの助けのみ手を差し伸べてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月16日説教「救い主が到来した喜びと幸い」

2024年6月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:マラキ書3章1~5節
    ルカによる福音書10章21~24節
説教題:「救い主が到来した喜びと幸い」

 主イエスは12人の弟子のほかに72人の弟子たちをお選びになり、彼らを神の国の福音を宣教するため、そしてこの世の失われた魂を収穫するための働き人として、派遣されました。ルカ福音書10章17節には、「72人は喜んで帰って来た」と書かれていましたが、それに対して主イエスは、彼らの福音宣教の働きの成功と成果よりも、さらに大きな喜びは「あなたがたの名が天に書き記されていることだ」と言われました。それに続いて、21節には、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」と書かれています。17節、20節、そしてきょうの箇所の21節に共通しているのが「喜び」という言葉です。
 この三つの喜びは少し性質が違っているように思われます。17節の喜び、それは20節の前半では「喜んではならない」と、主イエスによって否定されている喜びですが、それは72人の弟子たちが主イエスの名によって悪霊を屈服させたという、弟子たちの宣教の成果を喜ぶ喜びです。これも、大きな喜びであるには違いありません。主イエスがこの世に到来されたことによって、神の新しい恵みのご支配が始まって、悪霊やサタンが主イエスの前に力を失う、弟子たちはその新しい神のご支配、神の国の福音を宣教し、実際に彼らがそのことを経験しているのですから、それは弟子たちにとっての大きな喜びには違いありません。
 でも、主イエスは弟子たちのその喜びをひとたび否定されます。なぜなら、それよりも大きな喜びがあるからです。それが、ここで言われている第二の喜び、弟子たちの名が天に書き記されているという喜びです。この喜びは、地上にある成功や成果を喜ぶ喜びではなく、天にある喜び、天からやってくる喜びです。天にある喜びは地上のどのような変化によっても変わらない、永遠の喜びです。天の神によって永遠に覚えられている喜びです。主イエスは神の国の福音を宣教する弟子たちに、また、主の教会にお仕えするわたしたちに、この天にある喜びを約束してくださるのです。
 第三の21節の喜びは主イエスご自身の喜びです。【21節】。ここで「喜びにあふれて」と訳されている言葉は、17節や20節で「喜ぶ」と訳されている言葉とは少し違ったギリシャ語です。「大いに喜ぶ、歓喜する」という意味の言葉で、特別に大きな喜びを言い表しています。マタイ福音書5章12節ではこの二つの言葉が並んで用いられています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。
 このマタイ福音書のみ言葉からも分かるように、「大いに喜ぶ、歓喜する」という言葉は、悲しみや苦しみなど、喜びを否定し、喜びを奪い取るような、喜びとは全く反対の状態の中で、しかしそれらに反して、それらを突き破るようにして、喜びが勝利するという、激しい戦いや抵抗の中で勝利する喜びという意味合いを持っているように思われます。主イエスの「聖霊による喜びにあふれる」とは、だれもが決して喜ばないような、むしろ多くの人が忌み嫌ったり、憎んだり、避けて通ろうとするような、喜びとは反対のもののすべてを、否定し、そのすべてに勝利する、そのような喜びだということです。
 17節と20節で言われていた弟子たちの喜びは、この21節の主イエスの「大きな喜び、歓喜」の反映であるように思います。主イエスの大きな喜び、歓喜の反映として、いわばそこからあふれ出てくる喜びに、弟子たちも、そしてわたしたちもあずかっているのだということです。
 では、主イエスの大きな喜び、歓喜とはどのようなものなのか、それはどこからくるのかを見ていきましょう。21節の「これらのことを」が、何を指すのかは漠然としていますが、おおよその見当はつきます。72人の弟子たちに、神の国が到来して悪霊やサタンが主イエスのみ前に屈服していることが明らかにされたことを指していると考えられます。また、「知恵ある者や賢いものに隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われている「幼子のような者」は弟子たちのことであるということもおおよその見当がつきます。
 つまり、主イエスはここで、神の国の福音がこの世の知者や賢者にではなく、またこの世の支配者たちや権力者たちにでもなく、知恵も力もなく、貧しく弱く、小さな者である弟子たちにこそ示されたこと、彼らによって信じられていること、そのことを大いに喜んでいるのだということです。また、それこそが父なる神のみ心であることを大いに喜び、神をほめたたえているのです。
 そのことが、この福音書を読み進んでいくと、次第に明らかになることをわたしたちは知っています。当時のイスラエルと世界の支配者たちも、ユダヤ人のファリサイ派や祭司、長老たちという宗教家たちも、皆こぞって主イエスの福音を拒絶し、主イエスを神から遣わされたメシア・救い主として受け入れず、主イエスを偽りの裁判によって裁き、罪ありとして十字架刑に処して殺したのでした。当時の世界の最高の知恵と最高の権威が、吟味を重ねたうえで、主イエスを十字架につけたのです。
 わたしたちはここで使徒パウロの言葉を思い起こします。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には、神の力です。……神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(コリントの信徒への手紙一1章18節以下参照)。また、パウロはこうも書いています。「キリストは……自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6節以下参照)。
 神はこのようにして、人間の知恵や力、この世の権威のすべてを打ち砕かれたのです。それらは人間を救うためには何も役に立たないことが明らかにされました。かえって、人間を神から遠ざけ、人間を傲慢な者にし、人間たちの間にも争いを生み出す以外にありません。それゆえに、神はご自身の深い知恵と救いのみ心をお示しになるために、この世の貧しく弱い人たち、無きに等しい人たちをお選びになったのです。ここにこそ、神の選びの愛の不思議さがあり、また驚くべき深いみ心があるのです。主イエスはこの神による愛の選びの不思議さとその驚くべき恵みとを覚えて、歓喜しておられるのです。
したがって、わたしたちもまた主イエスをわたしの救い主と信じて救われるために、自らの知恵によるのではなく、神のみ前に自らを低くし、貧しくして、ただひたすらに聖霊のお導きを信じ、人間の知恵には愚かに見える主イエスの十字架の福音を信じ、その信仰によって罪をゆるされることを感謝すること、この信仰によって生きることが勧められているのです。
 22節では、父なる神とそのみ子である主イエスとの密接な関係について語られています。【22節】。天の神はすべての人の目を引くような偉大な奇跡とか、だれの目にもはっきりと分かるような輝かしい衣装を身にまとった英雄の姿によってではなく、わたしたちがクリスマスのメッセージで聞いたように、貧しい家畜小屋の目立たない飼い葉おけの中に寝かされている幼子を、全世界のすべての人の救い主としてお与えになりました。ガリラヤ地方ナザレのイエスによって、そのご受難と十字架の死によって、ご自身の永遠の救いにご計画を成就なさいました。この主イエスに、ご自身のみ心のすべてを、ご自身の愛と義と恵みのすべてをお与えになりました。主イエスこそが、父なる神に至る「道であり、真理であり、命」です(ヨハネ福音書14章6節参照)。
ここにもまた、主イエスの歓喜があります。父なる神とみ子主イエスとのこのような密接な、深いお交わりの中にあって、神の救いのみわざはなし遂げられました。それゆえに、主イエスの十字架と復活による救いは永遠であり、完全であり、確かなのです。主イエスのその大きな喜び、歓喜は、わたしたち一人一人の救いの喜びへと反映されています。
次に、23節以下には、もう一つの主イエスの大きな喜び、歓喜について語られています。【23~24節】。マタイによる福音書では、このみ言葉はルカとは違った文脈で語られています。マタイ福音書13章では、主イエスが「種まきのたとえ」をお語りになった後で、なぜたとえを用いて神の国のことを話すのか、その理由について説明しておられます。それは、旧約聖書イザヤ書に預言されているように、「あなたがたは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」(マタイ13章14節以下参照)。そのイザヤの預言に続いて、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と語られています。
すなわち、主イエスはこのように言われるのです。「旧約聖書の時代には、イスラエルの預言者たちや信仰者たちには、いまだはっきりと目に見えるようには示されず、はっきりと聞いて信じることができるようには語られなかったけれども、今は、わたし、すなわち主イエスによって、あなたがた弟子たちの身近で、あなたがたと同じ人間の姿で、あなたがたと同じ人間の言葉でわたしが語っている。そして、あなたがたはそれを確かに見ることができ、それを確かに聞くことができるようにされている。それは何と幸いなことであることか」と主イエスは言われるのです。
弟子たちは、旧約聖書で長く待ち望まれていたメシア・救い主を今や直接に彼らの目で見ることができ、彼らの肉体をもって直接にメシアと交わりを持つことが許され、人となられた神のみ子の到来を肌で感じることができ、そして神のみ子の到来とともに始まった神の国の福音を聞かされており、新しい神のご支配の中に生きることが許されているのです。神の天地創造以来の多くの信仰者たち、アダムとエヴァに始まり、アブラハム、イサク、ヤコブの族長たち、ダビデやソロモン王、イザヤ、エレミヤなどの預言者たち、彼ら数えきれないほど多くの旧約聖書の信仰者たちが見たいと願いながら見れなかったメシアのお姿を、今弟子たちが見ることができている。また、彼ら多くの信仰者たちが聞きたいと願いながら聞くことができなかった神の国の福音、十字架と復活による救いの福音を、今弟子たちは聞くことが許されている。それは何と幸いなことであるか。それは何という大きな喜びであり、歓喜であることか。主イエスはそのように言われるのです。わたしたちもその喜びの中に招き入れられています。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ。あなたの永遠なる救いのご計画は主イエス・キリストによって成就しました。わたしたちは今その成就の時に生きており、主イエス・キリストによる救いの福音を聞かされております。その大きな幸いを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに、またすべての人に、その福音を信じる信仰をお与えください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月9日説教「なぜ教会に行くのですか」

2024年6月9日(日) 秋田教会主日(伝道)礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編95編1~11節
    ローマの信徒への手紙12章1~2節
説教題:「なぜ教会に行くのですか」

 秋田教会は今年で伝道開始から132年目、また自給独立の教会を建設してから90年目を迎えます。日本のプロテスタント教会の歴史152年の中ではかなり長い歴史ですが、世界の教会の歴史2000年から見れば、まだ生まれたばかりの子どもと言えるでしょう。わたしたちは今年度「礼拝」をテーマにして二度の研修会を計画し、第一回は4月14日の秋田教会建設記念礼拝後に、そして第二回をきょうの伝道礼拝後に行います。そこで、礼拝後の研修会のテーマとの関連で、きょうの礼拝説教の題を「なぜ教会に行くのですか」としました。キリスト者が教会に行く主な目的は主の日・日曜日の礼拝をささげるためであるということはだれもが認めることですが、「なぜ教会に行くのか」という問いは、「なぜ神を礼拝するのか」という問いと密接に関連していると言えますので、その両方を考えながらきょうの問いの答えを探っていくことにしましょう。
 「なぜ教会に行くのか」という問いは、すでに洗礼を受けているキリスト者と、まだ教会に行った経験がない人とでは、問の立て方もその問いで期待される答えも、根本的に違うと思います。まだ教会のことをよく知らない人は、それぞれにいろんな目的をもって、最初に教会の門をくぐります。人生に悩んで、その解決に教会を選ぶ人もいます。教会で人との出会いを期待する人もいます。キリスト教や聖書について学んでみたいという人も多いでしょう。あるいは、わたくしのようにアメリカ人の宣教師と英語で話したいと思う学生もいるでしょう。それぞれに求めるものは違ってはいても、教会に入ってすぐにわかることは、そこでは礼拝の儀式が行われているということです。あるところでは厳粛に、あるところでは楽しく楽器を鳴らしながら、みんなが同じ声を発し、みんなが同じ方を向いて説教を聞き、みんなで一つのことに集中していることに気づきます。ある人にとっては堅苦しく、息苦しく感じられるでしょう。ある人にとっては理解できず、場違いな感じを受けるでしょう。またある人は、そこに何かの真理がありそうだと感じるでしょう。いずれにしても、教会の中で行われていることは、人間の日常的なこととは違った、宗教的な、人間以上の存在者である神がそこでは崇められ、礼拝されているということを、初めて教会に入った人は感じることでしょう。日曜日の教会に、落語を聞きに来る人はいません。音楽や絵画、陶芸などの芸術を求めてくる人もいません。体を鍛えるための運動をしに来る人もいません。教会では神を礼拝します。そのために教会に行きます。
 すでに洗礼を受けているキリスト者の問いは、これもその問いの立て方や期待される答えは千差万別と言えるかもしれません。そのすべてのケースについてきょうは考えることはできませんので、いくつかのポイントに絞って考えてみたいと思います。
 最初に、教会とはそもそも何かということから入りましょう。一般には教会とは建物、教会堂を指すと考えられていますが、聖書ではそうではありません。新約聖書で教会を意味するギリシャ語「エクレーシア」は「呼び出された人たち」という意味です。建物ではなく、集まっている人間集団・集会を指します。旧約聖書のヘブライ語でも、イスラエルの民の礼拝・祭りを意味するヘブライ語の「エーダー」や「カーハール」は、日本語では「共同体」、「会衆」と訳され、人々の集まり・集会を意味しています。
 ですから、そもそも教会とは、また旧約聖書の集会は、信じる人たちが共に集まる、共に同じ行動をするということを本質とし、目的としているのです。そして、そこで重要なことは、集まる人たちがそれぞれに目的をもって自由な意志で集まってくるというよりは、ギリシャ語のエクレーシアやヘブライ語のカーハールの本来の意味から明らかなように(文法的にはいずれも受動態の名詞)、その人たちは「呼び出された人たち」、「召し出された人たち」であり、主なる神によって、それぞれの生きている場から「こっちに来い」と声をかけられ、この世から選び分かたれ、主なる神のみ前に召し集められたのです。それが教会です。
したがって、そこには、ある意味での場所の移動が必要です。今まで生きていた場、住んでいた場から、場所を移して、聖なる神のみ前に進み出る。今まで働いていた場から、今まで、労苦し、悩み、笑い、迷っていた場から抜け出して、主なる神のみ前に進み出、主イエス・キリストがいます場へと集められる、それが教会であり、礼拝なのです。
 主イエスはこう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18章20節)と。また、使徒言行録2章によれば、ペンテコステの日に「一同が一つになって集まっていると」(1節)その集まりの上に天から聖霊が降り、彼らは神のみ力に満たされて、主イエス・キリストの福音を大胆に語り出しました。ここに、世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生しました。初代教会の信者たちは、まだ定まった教会堂がありませんでしたが、信者の家々に集まり、共に礼拝し、共同の食卓を囲み、共に祈り、交わりを深めていたと、使徒言行録に繰り返して語られています。
 次に、新約聖書のパウロの書簡などでは、教会は主キリストの体であると表現されていますが、これも「なぜ教会に行くのか」という問いに対する答えを含んでいるように思います。教会は主イエス・キリストのお体が、まさにそこにあり、主イエスご自身がそこにおられる場なのです。主イエス・キリストとは、わたしたちの罪のためにご自身が代わって十字架を背負ってくださり、わたしたちの罪のために代わって神の裁きを受けて死んでくださり、それによってわたしたちの罪を帳消しにしてくださったお方であり、また三日目に復活されて、罪と死とに勝利されたお方であり、信じる人に永遠の命の保証を与えてくださるお方です。その主イエスのお体である場、その主イエスがおられる場、その主イエスとお会いできる場、その主イエスの救いの恵みを受け取る場、それが教会、それが礼拝なのです。
 「あなたはなぜ教会に行くのですか」。そうです。その答えは、「わたしのために十字架に死んでくださった主イエス・キリストがそこにいますゆえに、主イエス・キリストとそこでお会いできるからです」。
 教会が主イエスの体であるという表現には、たくさんの意味が含められていますが、ここではもう一つのことに注目してみましょう。体はたくさんの器官から成り立っています。頭、手、足、内臓など、どれ一つも体が生きていくためには欠かせません。パウロは手紙の中でしばしばその比喩を用いて、教会の意義を語っています。教会に集められてくる一人一人は、皆それぞれにかけがえのない大切な存在として、主イエスの体を形成しています。というよりは、わたしたちが集まって主イエスの体を形成していくというよりは、わたしたちは主イエスの体の中に植え込まれるようにして、移植されるようにして、主イエスの体に接ぎ木されるようにして、主イエスの体である教会に召し集められているのです。わたしたちの救いのためにすべてのみわざをなしてくださった主イエスのお体がそこにあり、そこへとわたしもまた招き入れられ、主イエスの体の大切な一つの器官とされているということです。だれ一人として、そこでは不必要な存在ではありません。そしてまた、すべての器官に主イエスの血管が通っており、主イエスの命の血によってつながれており、一つの体を形成しているのです。
 もし、どこかの器官が病んだり痛んだりすれば、それは体全体に伝わります。共に痛みを共にし、また喜びも共にします。体の中で弱っている部分があれば、みんなでそれを支え、いたわり合います。共に励まし合い、共に慰め合い、また共に仕え合って、体の健康を保つように心がけます。もし、だれかが体から離れていれば、もしだれかがきょうの礼拝に顔が見られなかったら、その人は体全体にとって気がかりになります。その人も一つの、この体を形成している大切な枝枝であるからです。
 そのようにして形成された主キリストの体は、今ここに存在する、目に見える教会だけではなく、聖霊によって、無限の場所的・時間的広がりを与えられていることも聖書から教えられます。病院や施設に入所して、あるいは他の何かの事情によって、共に礼拝の場に集まることができない人もまた、主キリストの体である教会とそこでの礼拝に連なっている一人であることを聖霊なる神によって教えられます。それだけでなく、今はこの世を去り天に召された信仰者も、天にある勝利の教会でわたしたちと共に礼拝しています。また、今はまだ神を知らず、教会をも知らないすべての人も、こののちには教会の民の一人とされるであろうことをも聖霊なる神は約束してくださいます。それらのすべての人々が、終わりの時に、神の国が完成される時に、一つの教会の民、一つの礼拝の民とされるであろうとの約束をも、わたしたちは聞いているのです。
 最後に、きょうの礼拝で朗読された二つの聖書のみ言葉に目を向けましょう。詩編95編はイスラエルの神礼拝を歌った詩編です。「なぜ、教会に行くのか、なぜ神を礼拝するのか」という問いに対する答えがここで答えられています。なぜならば、主なる神こそが天地万物を創造された神であり、今もなお万物を強い御手をもってご支配しておられる神であり、すべてのものに命を注ぎ、すべてのものをみ心にかなって養われ、わたしたちに日々聞くべきみ言葉をお語りくださる主なる神であられるからです。この神がおられる教会に、この神を礼拝するために、この神がお語りになる礼拝に、わたしは喜びと感謝とをもってでかけて行くのです。
 ローマの信徒への手紙12章では、パウロは11章までで語った人間の罪と神の救いのみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じて救われた人が、感謝のささげものとして、自分自身の体を聖なる生けにえとして神にささげて、礼拝しなさいと命じています。わたしたちは主イエス・キリストによって罪ゆるされ救われている。その大きな恵みを忘れないように、神に感謝をするのです。わたしたちが教会に行く理由、目的がここにあるのです。わたしたちが神を礼拝する理由と目的がここにあるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたはわたしたち罪びとを罪と死と滅びから救い出すために、ひとりごなるみ子を十字架に引き渡されました。そのあなたの偉大な愛によって、わたしたちは救われ、あなたの民とされ、教会の群れの中に召し集められ、まことの命に至る道へと導かれておりますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちにあなたを信じる信仰と教会の霊の交わりに生きる愛とをお与えください。
〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。あなたの恵みと祝福が、すべての人たちに与えられますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月2日説教「モーセの逃亡」

2024年6月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記2章11~25節

    使徒言行録7章23~29節

説教題:「モーセの逃亡」

 出エジプト記2章11節の冒頭に、「モーセが成人したころのこと」と書かれています。この時のモーセの年齢がいくつであったかについては出エジプト記では何も書かれていませんが、使徒言行録7章の殉教者ステファノの説教では、モーセの120年の生涯を40年ずつ三期に区切って、きょうの礼拝で朗読された23~29節はその第二期、40歳から80歳までの期間のことが語られており、それが出エジプト記2章11~25節までの記録と一致しています。

 このモーセの第二期は、彼がエジプトを去って、遠いアラビアのミディアン地方に逃れていた期間であり、モーセが80歳になって、出エジプト記3章で、神に召されてエジプト脱出のリーダーとされるまでの、いわばその準備の期間であったと言ってよいでしょう。それは、モーセがイスラエルの民の指導者として出エジプトという神の偉大な救いの事業に仕えるために、ぜひとも必要な準備の期間であったのです。神はご自分の僕(しもべ)モーセを訓練するために、彼をミディアンの地へと逃亡させられたのです。

 そのことを学ぶ前に、モーセの生涯の第一期を振り返ってみましょう。エジプトに移住したヤコブ(イスラエル)の子どもたち60人は、400年の間に増え続け、エジプトの中で大きな勢力となり、脅威を与えるほどになったために、エジプト王ファラオはついにヘブライ人たちを迫害する政策を実行し、生まれた男の子はみなナイル川に投げ込んで殺せという命令を出しました。モーセが誕生したのは、そのような迫害の中でした。不思議な神のお導きにより、モーセはファラオの娘の子として、エジプト王宮の中で育てられました。

 そして、40歳になった時、11節に書かれているように、「彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た」のです。ここでわたしたちが気づくことは、モーセは40年間エジプトの王宮で育てられましたが、しかし決してエジプト人にはならなかったということです。彼は王宮でエジプトの最高の教育を受けたことでしょう。エジプト人の慣習や文化にも慣れ親しんだことでしょう。けれども、彼はエジプト人になったのではありませんでした。かつて、400の間イスラエルの民がエジプトの地に寄留していても決してエジプト人にはならなかったように、ヘブライ人であり続けたように、モーセもまたヘブライ人であり続けたのです。

 彼は王宮の中に留まってはいませんでした。そこを「出て」、同胞の民の所へと出かけました。そして、同胞の民が重労働に服しているのを「見た」、と書かれています。遠くから眺めていただけではありませんでした。傍観者でいたのではありませんでした。モーセ自身はこれまでは王宮の中にいて、同胞の民の迫害と苦しい労役を実際に経験してはいませんでした。でも、彼には同胞の民の苦しみに共感し、それを自分の苦しみとして受け止める心はありました。同胞の民ヘブライ人への愛がありました。モーセはヘブライ人であることをやめてはいませんでした。そこには、隠れた主なる神のお導きがあったということをだれが否定しえるでしょうか。ここでも、神はご自身の救いのみわざを確実に進めておられたのです。

 モーセは、同胞の民が重労働を強いられている現場で、エジプト人の監督から鞭うたれて死に瀕している一人のヘブライ人を目撃しました。それは、モーセにとってどんなにかショッキングな光景だったことでしょうか。自分はこれまでエジプト王宮の中で何の不足も不自由もなく、幸いを享受していたが、王宮の外では自分と同じヘブライ人がこれほどの迫害と苦難を受けていることに、激しい怒りと、また同時に強い正義感がモーセを突き動かしました。そして、その激しい感情を即座に行動に移し、その現場監督を殺して、砂の中に埋めました。モーセのこの行為は、彼が迫害する支配者・エジプト王ファラオの側に立つのではなく、迫害されている側、ヘブライ人の仲間であるということをはっきりと自覚させる行為であったと言えます。

 ところが、そのようなモーセの強い同胞意識と正義感は、同胞の民ヘブライ人には理解されませんでした。「翌日、また出て行くと」と13節に書かれていることから、前日のエジプト人殺害の行為がモーセの一時的な感情から出た突発的な行為ではなかったことが分ります。モーセは同胞のことを気遣っています。同胞の苦難の歩みと連帯したいと願っているようです。しかし、モーセのそのような願いと行動は同胞のヘブライ人には理解されませんでした。彼はヘブライ人を守るために、彼らと連帯するために、エジプト人の現場監督を殺害したのでしたが、それを見ていたヘブライ人は、モーセが自分たちを支配しようとしている、裁こうとしていると言って、非難します。このヘブライ人はモーセがエジプト王宮で育ったことを知っていたのかもしれません。

 モーセがエジプト人を殺したことがファラオの耳に届きました。ファラオはモーセを殺そうと手配したと15節に書かれています。モーセは同胞のヘブライ人からは拒否され、義理の父のような存在であったエジプトの王からは追われる身になりました。モーセはエジプトの地では自分の身を安全に守ることができなくなりました。そこでモーセはミディアンの地方に逃れることになります。ミディアンの地がどこなのか、正確な位置は分かっていませんが、シナイ半島のアガパ湾周辺と考えられています。また、なぜモーセはこの地に来たのかについても、聖書は何も語っていません。ここにも、見えない神のみ手が働いていたのでしょうか。

 16節からは、ミディアンの地にある井戸の傍らでのモーセと祭司レウエルの7人の娘たちとの出会いの場面が描かれています。この場面は、創世記24章1節以下のイサクとリベカの出会い、また29章2節以下のヤコブとラケルの出会いの場面とよく似ています。彼らは水くみ場での出会いをきっかけにして、それぞれ夫婦となりました。古代の遊牧民にとっては井戸や水汲み場は彼らの生活の中心であり、交わりの場、情報交換の場でした。また、男女の出会いの場でもありました。モーセはここで妻となるツィポラと出会います。

 ミディアンの祭司で7人の娘たちの父であるレウエルは3章1節や4章18節などではエトロとなっています。レウエルは氏族、部族の名前ではないかと考えられています。モーセは祭司レウエル(またはエトロ)の家で、彼の娘の一人ツィポラと結婚し、ここでエトロの羊の群れを飼い、40年近くを過ごしました。

これが、使徒言行録のステファノの説教で言われていたモーセの生涯の第二期です。おそらくモーセはこの第二期の40年間で、それまでのエジプト王宮の40年間では経験できなかった多くのことを経験し、そこでは学ぶことができなかった貴重な多くのことを学んだと推測されます。

 その一つは、義理の父エトロが祭司であったということに関連しています。祭司とは、もっぱらに神に仕える務めを行ないます。エトロが仕えていた神が、族長アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわちイスラエルの神であったのかどうかはよく分かりません。レウエルという名は、ヘブライ語では「神の友」あるいは「神の羊飼い」の意味であろうと推測されます。ヘブライ語の「エル」はイスラエルの神を言う場合にも、一般的に神を指す場合もありますので、そのどちらであるかを判断することはできません。そうであるとしても、モーセは祭司エトロのもとで、神にお仕えすることを学んだことは、はっきり言えます。この世の王に仕えるのではなく、神にお仕えし、主なる神をこそ恐れることを、モーセはエトロから学んだのです。やがて彼がイスラエルの主なる神から召し出され、神の偉大なる救いのみわざにお仕えするようになる準備が、ここでなされたのです。

 モーセがここで学んだもう一つのことは、彼がエトロの羊の群れを飼っていたということです。3章1節からそのことが分ります。これもまた彼にとっては意義ある経験だったと言えましょう。彼はのちに、エジプトを脱出したイスラエルの民の荒れ野の40年間の旅を、迷える羊の群れを導き、約束の地カナンへと連れて行く羊飼いとしての務めを成し遂げたのです。

 モーセは長男が誕生した時、その子をゲルショムと名づけます。「ゲルショム」とは「そこに寄留する者」という意味です。モーセは自分がアブラハム、イサク、ヤコブの族長たちと同じ、地上での旅人、その地での寄留者であることを告白します。しかし、エジプトが帰るべき地であるということではありません。神の約束の地カナンこそが目指すべき目的地です。その神の約束のみ言葉を信じつつ、その約束の地を目指しつつ、地上を旅する信仰者であることを、モーセはミディアンの地で教えられたのです。そして、やがてイスラエルの民と共に、約束の地カナンへと進む時がくることを信じつつ、モーセはこの地で備えていたのでした。

 最後の23節以下を読みましょう。【23~25節】。ここでわたしたちは、これまでのモーセのすべての歩みの上に、神の見えざる救いのみ手が働いていたということを、確かに知ることができます。神はエジプトで苦しむイスラエルの民を救うというご計画を、至る所で進めておられたのです。モーセの同胞に対する愛やあるいは正義感よりも、はるかに大きな神の救いのみ心がそのことを成し遂げるのだということを、わたしたちはここから知らされます。

 神はイスラエルの人々の嘆きの声をお聞きになります。神は族長たちとの契約を思い起こされます。神はご自身が選ばれた民イスラエルを顧みられます。神は彼らをみ心に留められます。「聞く」「思い起こす」「顧みる」「み心に留める」、これはいつの時代にも変わらないわたしたちに対する神の大いなる愛です。神は今もなお、苦しむ者たち、悩む者たちの叫びと祈りをお聞きになります。そして、それに応えられ、最も良き道へとお導きくださいます。神はまた、主イエス・キリストによって教会の民と結ばれた新しい契約を覚えられます。信じる人たちを神の国へと導き、永遠の命を受け継がせてくださいます。神は貧しい人たち、病める人たち、重荷を負う人たちを顧みられます。神のため、主キリストのため、主の教会のために労苦する人たちを顧みられます。その労苦は決して無駄に終わることはありません。また、神はわたしたちの弱さや破れ、欠けやつまずきのすべてを知っておられます。そして、常にわたしたちの傍らに立ってくださり、支え、励ましてくださいます。その神を信じて、従っていきましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠の救いのご計画の中にわたしたち一人一人をもお招きくださいますことを感謝いたします。わたしたちがどのような時にも、あなたのみ言葉を固く信じ、あなたが最も良き道を備えてくださることを信じて、信仰の道を全うできますようにおみちびきください。

〇あなたの義と平和がこの地に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月26日説教「信仰と生活との誤りのない審判者」

2024年5月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(33)

聖 書:詩編119編1~16節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「信仰と生活との誤りのない審判者」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。きょうはこの文の最後「信仰と生活との誤りのない審判者です」という箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 この箇所では、キリスト教教理の「聖書論」が取り扱われていますが、わたしたちプロテスタンと教会とカトリック教会との大きな違いがこの「聖書論」に現れていると言えます。宗教改革者たちが強調した「聖書のみ」は「神の恵みのみ」「信仰のみ」とともに、宗教改革の中心的な教えでした。それは、ローマ・カトリック教会が聖書のほかにも、教会の伝統、あるいは伝承、すなわち、歴代の教皇が出した教理に関する文書、勅令、勅書と言われますが、それらが聖書と同じ権威を持っているとされていることに対する反論、否定でありました。聖書に書かれている神の言葉以外には、どんなに権威ある人の言葉であっても、それは神の言葉ではない。したがって、わたしたちが信仰をもって服従しなければならない言葉ではなく、また、わたしたちの救いにとってなくてならない言葉でもない。ただ、聖書の言葉だけがわたしたちが聞くべき神の言葉であり、ただ聖書の言葉だけがわたしたちを救う神の言葉である。そのことをルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちは強調したのです。

 きょう学ぶ「信仰と生活との誤りのない審判者」という告白に関しても、このことを今一度確認しておくことが重要です。神の言葉である聖書と、それをとおして語っておられる聖霊だけが、わたしたちが信じ、従うべき神の言葉であり、また、わたしたちの信仰と生活全般においての唯一・最高の審判者なのであって、他の言葉は、たとえ教会という組織が作成した規則や命令であれ、偉大な人物とかすぐれた宗教家や哲学者が語った言葉であれ、それらはわたしたちを正しい信仰の道へと導くものではない。わたしたちをまことの命と真理に導く言葉ではない。そのことが、ここではまず第一に告白されているのです。

 もう一つ、あらかじめ確認しておくべきことは、この文章の主語についてです。「新・旧約聖書は神の言葉であり」、ここまでの主語は新・旧約聖書です。次の文からは主語が変わり、「その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示し」と「信仰と生活との誤りのない審判者です」という、この二つの文章の主語は、直接的には聖霊であると言えます。しかしまた、意味から考えれば、新・旧約聖書が主イエス・キリストを啓示し、証ししているのであり、また、同じように聖書の言葉が信仰と生活の審判者であると言えますので、実際には聖書と聖霊の両者が主語となっていると理解できます。

 わたしたちの『信仰告白』がこのような言い方をしている理由については、これまでも学んできましたが、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとを密接に結びつけ、両者を決して分離しないということに留意しているからです。聖書の本来の、また唯一の著者は聖霊です。聖霊が預言者や使徒たちをお用いになって神の言葉である聖書を著しました。それゆえに、聖書を読む場合も、聖霊のお働きとお導きとを求め、そのお働きを信じて読まなければ、それがわたしたちを罪から救い、まことの命に生かす神の言葉として読むことはできません。

 「わたしたちの誤りのない審判者である」と告白されているここでも同様です。直接に、「聖書が誤りのない審判者である」と告白されるのではなく、「聖書の言葉の中で働かれる聖霊が誤りのない審判者である」と告白されています。ここでも、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとが密接に結びつけられているのです。その理由を考えてみましょう。

 実は、聖書の言葉が直接的に誤りのない審判者であると告白されている信仰告白も世界にはかなりあるのですが、その際には、聖書の言葉が律法主義的に理解されて、聖書の言葉がそのまま教会の在り方や信仰の在り方を規制したり、あるいは、聖書の言葉をこの世の法律と同じように適用して、それによって軽々しく裁いたり、断罪したりする危険性が出てきます。聖書にこう書いてあるのに、それとは違うから、それは不信仰だと決めつけるという、律法主義がそこから出てきます。しかし、それは神の言葉を人間の言葉と同じように適用することであり、神の律法をこの世の法律と同じように適用することであって、そこでは聖霊なる神のお働きは全く無視されていると言わなければなりません。そのようが誤解や悪用を避ける意味でも、わたしたちの『信仰告白』は「聖書の言葉と、その中では働かれる聖霊なる神が、わたしたちの信仰と生活との誤りのない審判者である」と告白されているのです。

 では、具体的に聖書のみ言葉を読みながら考えていくことにしましょう。まず、「審判者」という言葉は聖書ではどのような意味で用いられているのかをみていきましょう。【使徒言行録10章42節】(234ページ)。もう一箇所【テモテへの手紙二4章7~8節】(394ページ)。この二箇所では、いずれも主イエス・キリストが、世の終わりの時、すなわち終末の時に、最終的な審判を下す裁き主であることが言われています。わたしたちはこのことをもしっかりと覚えておきたいと思います。わたしたちに信仰をお与えくださり、わたしたちの日々の信仰を導かれる主イエスが、最後の審判の時にわたしの傍らに立ってくださり、わたしに義の栄冠をお与えくださると約束されています。

 きょう学んでいる箇所は、聖霊が主語になっているので、また終末の時ではなく、今の時のわたしたちの信仰と生活のことが取り挙げられているので、この二か所とは少し違う意味で用いられていると思われます。わたしたちの『信仰告白』のもとになっている聖書の箇所は、きょうの礼拝で朗読されたテモテへの手紙二3章16節と思われますので、そこを読んでみましょう。【16~17節】(394ページ)。ここでは、聖書がすべて聖霊なる神に導かれて書かれているので、わたしたちに神の真理を教え、罪の道へと進むことを戒め、神が定めておられる正しい道、神の義へと導くために有益な働きをすると書かれています。そして、わたしたちが神に喜ばれるよいわざに励むことができるように整えると言われています。神の言葉である聖書は、聖霊なる神がお働きくださるときに、そのようにわたしたちを導くということを、「誤りのない審判者である」と告白していると理解できます。

 他の信仰告白では、多くの場合、審判者という言葉ではなく、「基準」あるいは「規範」という言葉を用いています。たとえば、1559年の『フランス信仰告白』第四条では「われわれはこれらの聖書が正典であって、われわれの信仰の確かな基準であることを認める」と告白されています。また、1647年制定の『ウエストミンスター大教理問答』問3では、「旧約と新約の聖書が、神の言葉であり、信仰と従順の唯一の規範です」と教えています。

このように、歴史的な信仰告白の多くが「規範、基準」という言葉を用いていますが、わたしたちの『信仰告白』があえて「審判者」という、より厳しい響きを持つ言葉を用いていることの積極的意味を読み取る必要があります。聖書がわたしたちの信仰と生活を正しく、また確かな道へと導く働きをするというだけでなく、神の言葉はまた、そこに聖霊なる神がお働きになって、信じる者と信じない者とを右と左に分け、命と死とに分けるという終末論的な働きをするということがここでは強調されているのです。ヘブライ人への手紙4章12節、13節に書かれているように、神の言葉は生きており、どんな諸刃の剣よりも鋭く、わたしたちの全身を刺し貫き、わたしたちの隠れている思いや考えを暴き出し、神のみ前に何一つ隠されているものがないほどに裸にする力を持っている。その神の言葉の計りしれない力を信じ、また恐れつつ、神の言葉である聖書を読み、聖霊のお働きを信じ、わたしたちの日々の信仰生活を続けるべきであることを強調しているのです。

次に、「誤りのない」という言葉について考えてみましょう。この言葉は、「永遠に変わらない真理と命を持つ」という意味です。この世には誤りの可能性がある言葉で満ちています。この世にあるすべての言葉はそうであると言うべきかもしれません。今この時に、ここで真実と思える言葉であっても、次の時代には忘れ去られ、消え去る言葉がわたしたちの周りには満ちています。一部のグループの人たちには真実であっても、他の人には通用しない言葉が、この世には満ちています。

けれども、聖書の言葉は永遠に変わらず、信じるすべての人を罪から救い、神の恵みで満たし、まことの命へ導き、慰めと平安を与えます。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とイザヤ書に書かれているとおりです(40章8節参照)。

1934年にドイツ福音主義告白教会が採択した『バルメン宣言』の第一条にこうあります。「聖書において証言されているイエス・キリストは我々がそれを聞き、生と死とにおいてそれに信頼し、従わなければならない神の唯一の言葉である。教会がこの宣教の根源として、この神の唯一の言葉のほかに、これと並んで、さらに何らかの事件や、権力、現象や真理をも神の啓示として認めることができるとか認めなければならないとかいうような誤った教えを我々は拒否する」。

この宣言は、1933年に台頭したナチス・ヒトラー政権に反対する告白教会の必死の抵抗として採択されたものです。当時はドイツの国民も、またほとんどの教会もヒトラーをドイツの救世主と仰ぎ、彼の言葉を神の言葉として聞き、彼をあがめ、彼に服従していた時に、しかし、告白教会だけはヒトラーもまた人間であり、彼の言葉は神の言葉ではなく人間の言葉であるにすぎない。われわれはただ主なる神の言葉である主イエス・キリストにのみ服従すべきだと、告白したのです。

いつの時代にも、朽ち果てる、死すべき者である人間の言葉が力を持ち、神の言葉から信仰者を引き離そうとする誘惑にわたしたちは遭遇します。神の言葉以外の何らかのスローガンや偽りの宝や光がわたしたちの目を惑わします。けれども、ただ聖書に書かれている神の言葉だけが永遠に真実であり、わたしたちが自分の全存在をかけて聞き、従うべき、唯一の救いと命の言葉であり、わたしたちの信仰生活全体の永遠の審判者です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちに信じさせてください。そのみ言葉を日々の命の糧とし、わたしの思いや行動、言葉のすべての審判者とさせてください。

〇主なる神よ、あなたのみ心が地においても行われますように。あなたの義と平和が実現しますように。混乱と困窮の中にあるこの世界を顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月19日説教「主イエスによる聖霊の約束」

2024年5月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              聖霊降臨日(ペンテコステ)

聖 書:ヨエル書3章1~3節

    ヨハネによる福音書14章25~31節

説教題:「主イエスによる聖霊の約束」

 ペンテコステは元来ユダヤ人の収穫感謝の祭りでした。イスラエルの民が奴隷の家エジプトから脱出したことを祝う過ぎ越しの祭りから50日目に、約束の地に導き入れられた彼らが小麦の収穫の初穂を神にささげて、感謝する祭りで、五旬祭、七週の祭り、初穂の祭りなどと呼ばれていました

 このペンテコステの日に、エルサレムに集まっていた12弟子たちをはじめ多くのキリスト信者たちに聖霊が注がれ、彼らは神から与えられた力に満たされて、主イエス・キリストの福音を大胆に、力強く、説教しました。それを聞いた多くのユダヤ人が主イエスを救い主と信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生しました。そのことが使徒言行録2章に詳しく描かれています。

 12弟子の一人ペトロはその説教の中で、こう語りました。「今、このように信者たちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音を大胆に語っているのは、旧約聖書の預言者ヨエルが預言していたように、彼らに聖霊が注がれたからである」と。ヨエルはこのように預言しました。

 「神は言われる。終りの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、霊を注ぐ。すると彼らは預言する。……主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒言行録2章17~21節参照)と。

 そのヨエルの預言が今、成就した。今や、神の救いのみわざがすべて成就される終わりの時が来た。聖霊降臨の時が始まり、救いと恵みの時が始まったのだ。ペトロはそのように説教しました。わたしたちもまた今、その終わりの時、聖霊の時、救いと恵みの時に生きているのです。

 聖霊降臨は、主イエスご自身が十字架の死の前に弟子たちに約束しておられたことでもありました。ヨハネによる福音書14章からのいわゆる「主イエスの告別説教」の中で、主イエスは何度も聖霊なる神について語っておられます。直接に聖霊について語っておられる箇所は、14章15~17節、きょうの礼拝で朗読された25~26節、15章26節、16章4~15節です。これらの主イエスご自身のみ言葉から、聖霊なる神について、そのお働きについて、そしてその約束が成就されたペンテコステの出来事について、ご一緒に学んでいくことにしましょう。

 ヨハネ福音書のこれらの箇所では、聖霊はいくつかの違った名前で呼ばれています。14章16節では「別の弁護者」、17節では「真理の霊」、同じ節では「霊」が何度か出てきます。26節では「弁護者」、そのあとでは「聖霊」、15章26節でも「弁護者」、「真理の霊」、16章7節では「弁護者」、13節では「真理の霊」。これらはいずれも聖霊なる神を言い表しています。

 まず、「弁護者」と訳されている言葉は、『口語訳聖書』では「助け主」と訳されていました。宗教改革者マルチン・ルターは聖書を最初に母国語であるドイツ語に翻訳しましたが、彼は「慰め主」と訳しました。もとのギリシャ語はパラクレートスですが、「パラ」は「かたわらに、そばに」という意味で、「クレートス」は「呼び出された人」という意味です。一般には弁護する人という意味です。裁判の席で、被告人の隣にいてその人を弁護する人です。そこから、困っている人のかたわらで助ける人、悲しむ人の隣で慰める人という意味にもなります。

 14章15節では、「父は別の弁護者を遣わす」と言われており、「別の」とは、「もう一人の」という意味です。主イエスが十字架につけられ、この地から取り去られた後に、父なる神は主イエスとは別の、もう一人の弁護者である聖霊を遣わすということがここでは語られているのです。すなわち、主イエスが地上におられた間は、主イエスご自身が弟子たちにとっての弁護者であられ、助け主であられ、慰め主であられたのですが、主イエスの十字架後には、父なる神が聖霊を地上に派遣されて、その主イエスの役割、お働きを引き継がせるということです。

 14章18節以下で、主イエスが弟子たちに、「わたしはあなたがたをみなしごにはしない。しばらくすれば世の人はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言われたのは、聖霊がそののちも常に弟子たちと共におられるという約束なのです。主イエスのお姿は弟子たちの目からは見えなくなりましたが、弟子たちは主イエスを失って、この世に取り残されたのではなく、父なる神から遣わされる聖霊によって、主イエスは常に弟子たちと、信仰者たちと共におられ、彼らの弁護者、助け主、慰め主として、今もなお、そして永遠に、働いておられるということを、主イエスはここで約束しておられるのです。

 このことから分かるように、父なる神と子なる神・主イエス・キリストと聖霊なる神は互いに切り離されることなく、互いに連携し合いながら、一つの救いのみわざのためにお働きになるのです。これが、キリスト教教理の「三位一体論」です。神は、父なる神として、子なる神として、聖霊なる神として、その性質や性格、その働きや役割は違っていますが、一つの救いのお働きをする、唯一の神であられます。神はわたしの救いのためにも、三位一体なる神として、いわばその全ご人格と、すべての愛と、すべての恵みをもって、いと小さなこのわたしのためにお働きくださるのだということです。

 次に、今学んだことと関連している26節を読んでみましょう。【26節】(197ページ)。ここでは二つのことが重要です。一つは、聖霊は「主イエスの名によって、父なる神がお遣わしになる」と言われています。15章26節と比較してみましょう。【26節】(199ページ)。ここではよりはっきりと「主イエスが父なる神のもとから聖霊を遣わす」と言われており、聖霊は父なる神と子なる神・主イエス・キリストの両者から派遣されると理解できるように思われます。西方教会・ローマ教会はそのように理解しましたが、東方教会・ギリシャ教会は父なる神からのみ派遣されると理解しました。この理解の違いが西方教会と東方教会の分裂の原因になったと言われます。わたしたちプロテスタント教会は西方教会と同じ、「聖霊は父と子の両者から発出される」と理解しています。

 もう一つのことは、「聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、わたし(つまり主イエス)が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ということです。また、16章13節以下でも、同じようなことは強調されています。【13~14節】(200ページ)。ここでもまた、聖霊は主イエスのみわざ、そのお働きを受け継ぐということが何度も強調されています。14章16節で「別の弁護者」と表現されていたこと、すなわち、聖霊は別の、いわばもう一人の主イエスとして、いつまでも弟子たちと共にいてくださると約束されていたように、ここでは、聖霊は主イエスが話され教えられたこと、主イエスがなさった救いのみわざ、そのすべてを弟子たちにもう一度思い起こさせ、理解させ、信じさせてくださる、それが聖霊のお働きだと言われているのです。

 わたしたちが今学んでいる『日本キリスト教会信仰の告白』で、「聖書の言葉の中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示す」と告白されているのはこのことです。聖霊のお働きは父なる神のみ言葉と主イエス・キリストの救いのみわざと常に固く結びつき、この三者は切り離されることなく、お一人の神として、わたしたちの救いのためにお働きくださるのです。

 聖霊はわたしたちに主イエスが神のみ子であり、わたしの救いのためにすべてのみわざをなしてくださったということを悟らせ、信じさせてくださいます。主イエスが語られた説教、なされた数々の奇跡のみわざ、特にそのご生涯の終わりの十字架の死と復活、そのすべてが神のみ子としての救いのみわざであり、ほかでもないこのわたしの救いのためのみわざであるということを、わたしに悟らせ、信じさせてくださるのです。聖霊は、わたしがそのことを信じ、悔い改めて洗礼を受けた時に、わたしのすべての罪がゆるされ、わたしが死と滅びから救い出され、神から与えられる新しい命に生かされているということを確信させてくださるのです。そしてまた、聖霊は、天に昇られた主イエスが今もなおわたしのために絶えず執り成しておられ、わたしの救いの完成の時まで、わたしと共におられ、わたしを天のみ国へと導いてくださることを信じさせてくださるのです。そのようにして、聖霊はわたしの日々の信仰生活のすべてを、主イエスのみ言葉によって導き、支え、時にわたしの弁護者として、時にわたしの助け主として、時にわたしの慰め主として、わたしのかたわらにいてくださるのです。

 最後に、14章17節や15章26節、16章13節で、聖霊が「真理の霊」と言われていることに触れておきましょう。15章26節では、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と書かれています。ここでも、聖霊が主イエスのことをわたしたちに対して証しをすると言われており、それがわたしたちにとっての真理を悟ることなのだと言われています。

 16章13節では、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と書かれています。「真理」とは何を言うのでしょうか。世界の思想家や哲学者、宗教家が何千年もの間、「真理とは何か」と問い続けてきました。難しい議論を繰り広げてきました。主イエスは言われます。神の真理はすべてわたしの中にあるのだと。主イエス・キリストの十字架の死と復活にあるのだと。すなわち、罪のない神のみ子が世の罪びとたちの代わりに裁かれ、神のみ子でありながら徹底的に弱く、貧しく、低くなられ、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従された。それによって、神に義とされ、神の救いのみ心を完全に成し遂げられ、三日目に死の墓から復活させられた。そして、罪と死と滅びに勝利された。ここにこそ、神の真理があり、すべての人のための救いの道があるのです。わたしたちはこの主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞き、それを信じる時に、そこに聖霊が働き、すべての罪がゆるされ、死と滅びから救われるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうのペンテコステの礼拝にわたしたちをお招きくださり、あなたの命のみ言葉を聞かせてくださいました幸いを心から感謝いたします。どうかわたしたちを罪と死の支配から救い出し、あなたにあるまことの命に生きる者としてください。ここにこそ、まことの平安と慰めがあることを信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月12日説教「エルサレム教会への援助」

2024年5月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    使徒言行録11章27~30節

説教題:「エルサレム教会への援助」

 使徒言行録11章19節からアンティオキア教会の誕生とその成長について書かれています。アンティオキア教会の誕生が紀元1世紀の初代教会にとって、またその後の2千年の世界の教会にとって、いかに大きな意味を持っていたのかをこれまで学んできました。もう一度、それをまとめておきましょう。

 第一には、アンティオキア教会はユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者(ギリシャ人キリスト者と言ってもよい)の両者で形成された最初の教会であったということです。第二には、この教会でユダヤ人以外の異邦人に対する伝道活動が、初めて積極的・組織的に行われるようになったということ。第三に、母なる教会であるエルサレム教会から派遣されたバルナバによって、この教会にパウロが呼び寄せられ、彼ら二人の指導によってこの教会が急激に成長し、さらにはこの教会を拠点として、パウロの計3回の世界伝道旅行が行なわれるようになったということです。

これにもう一つ付け加えるとすれば、この教会で初めて信者がクリスチャン、すなわち主キリストに所属する人たち、主キリストのものとなった人たちと呼ばれるようになったということです。この呼び名は今日まで続いています。わたしたちもまた、洗礼を受けてキリスト者、クリスチャンになることによって、わたしはもはやわたしのものではなく、他のだれかや何かのものでもなく、わたしのために十字架で死んで、三日目に復活された主イエス・キリストの所有とされ、主キリストに属するものとされているのです。

1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』の印象深い第1問ではこのように教えられています。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであるということです」。ここにこそ、わたしが生きる時にも、わたしが死ぬ時にも、わたしの唯一の、永遠の慰めがあるのです。

きょうの礼拝では、使徒言行録11章27節以下に書かれている、アンティオキア教会から始まったもう一つのこと、エルサレム教会に対する援助の献金について学びます。そのきっかけとなったのが世界的規模の大飢饉であったと使徒言行録は報告しています。【27~28節】。使徒言行録の中では、ここで初めて教会の預言者が登場します。アガポは21章10節以下では、パウロがエルサレムで受ける迫害を予告する預言者としてもう一度登場します。

初代教会のおける預言者活動について少し考えてみましょう。アガポ以外にも、初代教会ではかなりの数の預言者が活躍していたことがパウロの書簡からも確認されます。けれども、紀元1世紀の終わりころからは、預言者はほとんどいなくなりました。その理由として考えられるのが、新約聖書が次第に書物として編集されるようになり、福音書やパウロの書簡などが書かれ、書物となって教会で読まれるようになったことと関係していると思われます。また、キリスト論とか三位一体論とかのキリスト教教理が次第に確立していったこともその理由となったでしょう。それによって、書かれた聖書が教会で朗読され、解き明かされ、預言者の務めは教師や牧師、説教者の務めへと変わっていったと考えられます。

元来、旧約聖書の預言者の務めは、神がお語りなったみ言葉を預かり、それを人々に語ることでした。アモスやホセア、イザヤ、エレミヤなどの預言者たちは、神がイスラエルの民と世界の歴史の中で行われる救いの出来事を語りました。そして、その救いのご計画が、やがて神から遣わされるメシア・キリスト・救い主によって成就されることを預言しました。主イエスがこの世においでになり、十字架と復活のみわざによって、神の救いが成就しました。福音書や使徒言行録、またパウロの書簡などによって、主イエスの救いのみわざが全世界のすべての人を罪から贖い、救うという神の救いのみわざを完全に成就したことが証しされました。神は救い主なる主イエス・キリストによって、わたしたちの救いにとって必要なみ言葉を十分にお語りになりました。もはやこれ以上、新しい神の言葉を付け加える必要がないと教会が判断したことによって、預言者の活動が必要なくなったのです。

このことを確認しておくことは、今日のわたしたちにとっても非常に重要な意味を持ちます。教会の2千年間の歴史の中で、繰り返して異端的な教派が発生しました。そのすべては、「我は預言者なり。イエスがまだ語っていなかったことを、神はわたしに語った」と主張する教祖によって造り出されています。統一教会、エホバの証人、モルモン教、その他のキリスト教の異端はみな同じです。わたしたちはそれに惑わされてはなりません。

 さて、アガポが預言した大飢饉がクラウディウス帝の時に起こったと書かれています。クラウディウスはローマ帝国第4代目の皇帝で、在位期間は紀元41~54年でした。その時代の大飢饉については、聖書以外の資料にも記録があり、それらを参考にすると、紀元47年のことであったと推測されています。この年はまたユダヤ人の安息年とも重なっていたことが、エルサレム市民の食糧不足を一層深刻にしたと考えられます。安息年というのは、旧約聖書のレビ記25章や申命記15章に定められている律法で、ユダヤ人にとって土地は神から貸し与えられたものなので、7年ごとの安息年には休耕にして土地を休ませなければならないという規定です。それと、天候不順による飢饉とが重なって、食料不足に拍車をかけたということのようです。

そのような理由から、エルサレム教会では飢饉の影響をまともに受け、多くの教会員の家庭でも食べ物に不自由していたようです。【29~30節】。アンティオキア教会では困窮していたエルサレム教会を援助することを決議し、各自が自分たちの力に応じて、献金や食料などをささげ、それをバルナバとパウロに託してエルサレム教会に届けました。この時のエルサレム教会の援助は世界規模の大飢饉がきっかけでした。また、これがどれくらいの期間続けられてのかはっきりしていませんが、のちに書かれたパウロの書簡から、エルサレム教会への援助は、こののちにもアンティオキア教会だけでなく、全世界に建てられたすべての教会が行なっていたということが知られています。飢饉による食料不足をきっかけにして始められたエルサレム教会への援助が、その後も継続的に続けられ、それが初代教会全体にとって大きな意味を持つことになったのです。

パウロはエルサレム教会の貧しい信徒たちへの援助を、のちに建てられたすべての教会の信仰的な使命であると語っています。しかも、かなりの紙面を割いて、力を込めて語っているのです。その主な個所を挙げると、ローマの信徒への手紙15章25~33節、コリントの信徒への手紙一16章1~4節、同二9章1~15節です。その中から2箇所を取り上げて読んでみましょう。

【ローマ手紙15章25~27節】(296ページ)。次に【コリント手紙二9章11~15節】(335ページ)。これらの箇所で語られている内容をまとめてみましょう。エルサレム教会への援助に関して、パウロが第一に重要なことと考えていたのは、世界最初に誕生したエルサレム教会は主イエス・キリストの福音という霊的な賜物の源泉なのであって、のちに建てられた教会はエルサレム教会の霊的な賜物を分かち与えられているのであり、その感謝のしるしとしてエルサレム教会を援助することは、母なるエルサレム教会に対する義務なのだというのです。そして、世界の教会が母なる教会であるエルサレム教会に対してその義務を忠実に果たすことによって、エルサレムで起こった主イエス・キリストの出来事が、すなわち、十字架と復活と聖霊降臨と教会誕生の出来事が、その救いの出来事が、いかに大きな神の恵みであるか、豊かな霊的な賜物であるかが、全世界の教会に明らかにされていくのだというのです。

もう一つ、パウロがエルサレム教会への援助によって重要だと考えていたのは、貧しい人々への惜しみない援助によって、神の豊かな愛と恵みを証しするということです。エルサレム教会に対する援助は、貧しい人たちを支援するということにとどまらず、否それ以上に、神の限りない愛と恵みに対する感謝の応答だということです。罪びとであるわたしたちに神から与えられた主イエス・キリストの福音の恵みに、喜んで仕えていることの確かなしるしなのです。主イエス・キリストの救いの恵みを与えられた人は、その感謝の応答として、自ら喜んで他の人々に仕え、惜しみなく他者に分かち与えるのです。それによって、人々はそこに限りない神の愛と恵みとを見いだし、神をほめたたえるようになるのです。

旧約聖書の中で、神はすでにそのことをイスラエルの民に教えておられます。貧しい人たちや、夫に先立たれた寡婦たち、親を失った孤児たち、国の中で権利を持たない寄留の他国人、そのような社会的な弱者たちに対して、イスラエルは特別な愛やいたわり、やさしい配慮を持つようにと律法で命じられていました。ぶどう園の所有者は収穫の際に、枝の隅々からすべてを収穫しないで、少し残しておくように命じられていました。麦の収穫の際に畑に落ちた麦の穂を拾い集めてはならないと命じられていました。貧しい人たちが夕方畑に自由に入って、それらを拾い集めることが許されていました。それによって、イスラエルの民は、自分たちもまた寄留の地、奴隷の家であるエジプトから、神の強いみ手によって救い出されたことを覚え、感謝し、そのことを世界に向かって証しし、それによって全世界のすべての民が主なる神をあがめるようになるのです。

最後に、29節で「援助の品」と訳されているもとにギリシャ語は「ディアコニア」です。教会の奉仕活動や執事の務めに関して用いられる言葉です。世界的な大飢饉とそれによるエルサレム教会の困窮をきっかけにして始められたアンティオキア教会の援助活動は、そののちの教会のディアコニアの働きの基礎にもなったと言えます。わたしたちの教会にとっても、このディアコニアの働き、活動が大きな課題であると言えます。共に考えていきましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが世界に主キリストの教会をお建てくださり、この教会をとおして今もなお救いのみわざを前進させてくださいますことを覚え、感謝いたします。教会が正しく主キリストの福音を宣べ伝え、またあなたの愛と恵みとをすべての人々に分かち与える務めを、忠実に果たしていくことができますように、教会に集められている一人一人をあなたがお導きください。

〇主なる神よ、日本の教会も世界の教会も弱っています。今日の混乱した世界に対して、教会が福音のメッセージを力強く発信し、あなたの義と愛とを大胆に証しすることができますように、聖霊の力で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月5日説教「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

2024年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書10章17~20節

説教題:「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」

 主イエスが72人の働き人たちをお選びになって、神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されたことが、ルカによる福音書10章の初めに書かれていました。彼らは収穫のための働き人と言われていました。失われている人間の魂を神のために収穫する働き人です。神を失って死んでいた人間の魂を、再び神のもとへと呼び返して、罪のゆるしとまことの命に生かすための働きです。

 この72人の弟子たちの派遣は、のちに主イエスの十字架と復活後、また聖霊降臨と教会誕生後になって、教会が全世界に出て行ってすべての民に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを象徴しており、またそのことの先取りであるということを、わたしたちはすでに学びました。

 きょうの礼拝で朗読された17節からは、派遣された72人が主イエスのもとへと帰って来て、宣教活動の報告をしたことが記されています。17節に、「七十二人は喜んで帰って来た」と書かれています。彼らは主イエスによってこの世か選び出され、主イエスの働き人としてこの世へと遣わされ、そして再び主イエスのもとへと帰ってきて報告をします。この繰り返しが、わたしたちの教会の原型です。また、主の日ごとの礼拝の原型です。それから、わたしたちキリスト者の信仰生活の原型でもあります。

 わたしたちは主イエスによってこの世から教会へと召し集められ、主の日ごとの礼拝をささげ、主イエスの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の国の民とされます。そして、「あなたは出て行ってすべての人に福音を宣べ伝えなさい」との主イエスの命令を聞き、この教会から、この礼拝から、それぞれの場へと派遣されて行きます。また、一週間後の主の日の礼拝で、再び主イエスのもとへと帰って来て、一週間のわたしたちの歩みを主イエスに報告し、悔い改めと懺悔とをもって、罪のゆるしの福音を聞くのです。秋田教会の一年に一度の定期総会や、日本キリスト教会大会と中会の定期総会も、そのような意味合いを持っています。このように、選び、招集、派遣、そして帰還、報告、この繰り返しが起こる場が教会であり、また礼拝であり、わたしたちの信仰の歩みなのです。

 「喜んで帰って来て」と書かれています。彼らの喜びは、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」という伝道活動の成果に対する喜びであると同時に、再び主イエスのみもとに集うことの喜びでもあり、さらには再び主イエスにお会いできる喜びでもあります。教会は復活して今も生きておられる主イエスと出会う喜びに満ちている所です。礼拝は主イエスと再会する喜びに満ちた時です。たとえ教会がどれほどの伝道の成果を上げたとしても、多くの信者が集まろうとも、そこで主イエスとの出会いと再会がないならば、本当の喜びを経験することはできません。

 「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と弟子たちは報告しています。これは、弟子たちの能力や働きによる成果ではありません。「お名前」、すなわち主イエスのお名前による、主イエスのお名前の働きです。弟子たちに主イエスのお名前の力と権威とが与えられていたからです。弟子たちの奉仕をとおして、主イエスご自身が働いておられたからです。

 主イエスは18~19節でこのように言われました。【18~19節】。主イエスは父なる神の権威と権能によって、悪霊とサタンとを支配され、それに勝利しておられます。主イエスはこれまで何度も悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されました(4章31節以下、41節、6章18節)。マタイ福音書4章9節には、主イエスが悪魔の誘惑を受けられた時に、「退け、サタン」とお命じになると、悪魔は主イエスから離れ去ったと書かれています。また、ルカ福音書11章20節ではこのように言われました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 主イエスがこの世においでになられたことによって、神の恵みと救いのご支配が始まり、悪霊とサタンの支配はもはや終わりを告げられたのです。そして、主イエスは悪霊とサタンに勝利する権威を弟子たちにお与えになりました。したがって、弟子たちは自分たちの働きを誇ることはできませんし、またどのような悪霊やサタンの力を恐れる必要もありません。

 ところで、聖書にはしばしば悪霊とかサタンという言葉が出てきます。それが重い病気の原因となったり、人間を悪の行為に誘ったり、あるいはまた人間を不信仰にしたり、神と敵対させたりする力を持っているのが悪霊であり、またサタンの働きと考えられていました。科学的な理解が強くなった現代のわたしたちには理解困難な点もありますが、分かりやすく説明するならば、悪霊やサタンとは、神に敵対する力をもって、信仰者を主イエスから引き離そうとするものと言ってよいでしょう。つまり、主イエスはわたしたちを罪と死と滅びの支配から救い出し、父なる神との正しい交わりへと導くのに対して、悪霊やサタンは人間を罪へと誘惑し、わたしたちを神から引き離し、主イエスを救い主と信じる信仰からわたしたちを遠ざけようとし、ついにはわたしたちを滅ぼそうとする力であると言ってよいでしょう。この世にあるすべての人間はこの悪魔とサタンの力に脅かされています。だれも、人間の力や、この世にある何かの力を借りても、悪魔とサタンの力に対抗できる人はいません。すべての人はその支配下に置かれています。

 けれども、ただお一人、主イエスだけが父なる神の権威と力によって、悪魔とサタンの支配を打ち倒され、それに勝利され、神の恵みと救いのご支配をうち立てられました。それを、神の国が到来したと、福音書は語っています。主イエスはこの神の国の福音を説教されました。そして、弟子たちがこの神の国の福音を携えて、この世へと出ていくようにとお命じになりました。今や、神がご自身の一人子なる主イエス・キリストによって、大いなる愛と恵みをもって、この世を支配していた悪魔やサタン、罪の力から人々を解放し、救い出すためのみわざを成し遂げてくださったということを、弟子たちは全世界に宣べ伝えます。弟子たちは、そしてわたしたち教会の民は、主イエスがすでに成し遂げてくださった神の国の福音と救いのみわざを証しするのです。

 説教の初めでも触れましたように、72人の弟子たち、働き人たちの派遣は、主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨と教会の誕生ののちになって、教会が全世界に出て行って福音を宣教することの象徴であり、またその先取りでもあります。わたしたち教会の民は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、確かに人間の罪と死とがその終わりを告げられ、神の恵みと救いが勝利したことを知らされている者たちとして、全世界のすべての人々に主イエス・キリストの福音を宣教する使命を託されています。わたしたちは今、神の恵みと救いが支配する新しい時に生きている者たちとして、感謝と喜びとをもってその使命に生きているのです。

 主イエスは喜んで帰ってきた弟子たちに、20節でこのように言われました。【20節】。ここには喜ぶという言葉が2度用いられています。一つは否定的に、もう一つは肯定的に。それによって両者の喜びを比較しながら、後者の喜びがはるかに大きな喜びであることを強調しています。

 前者の喜びは、「悪霊があなたがたに服従する」という喜びです。この喜びが喜びではないはずはありません。もちろん、弟子たちが自分の能力や努力でそのことができたというのではありませんが。それは主イエスのお力であり、主イエスご自身のみわざです。そうであるとしても、悪霊の支配が終わり、もはや神の恵みのご支配を信じる人は悪霊の力を恐れる必要はないということは、何ものにも勝る大きな喜びです。しかも、それを自分たちの奉仕によって証しすることができるということは、この世の何かを手に入れるよりもはるかに勝る大きな喜びです。主イエスの救いのために奉仕する教会の民はその喜びを経験することをゆるされているのです。

 けれども、主イエスはそのような目に見える成果を喜ぶよりも、もっと大きな喜びがあることを忘れるなと言われます。わたしたちは目に見える成果にとらわれがちです。わずかな成果に有頂天になったり、反対に、成果が期待どおりでないと失望することもあります。そのような成功や失敗に、わたしたちの教会の働きや信仰の歩みが左右されてしまうことがあります。目に見える喜びだけにとらわれていると、それよりもはるかに大きな喜びを見失ってしまうことがあると、主イエスは警告されます。もっと大きな喜びは、「あなたがたの名が天に書き記されていること」です。主イエスはわたしたちの目を地上での成果ではなく、天の神へと向けさせるのです。天にある永遠なるものへと、わたしたちの心と思いとを導くのです。

 「名前が天に書き記される」、これと同じような表現は新約聖書の中にはいくつかあります。フィリピの信徒への手紙4章3節やヨハネ黙示録3章5節などでは、「命の書に名が記されている」と言われ、また、ヘブライ人への手紙12章23節では「天に登録されている」とあります。これは主イエスを救い主と信じる信仰者には、神の国における永遠の命が約束されているということを意味しています。名前を書き記すということは、その名がいつまでもそこで覚えられるということを意味しています。しかも、主なる神によって覚えられているということであり、地上の朽ちるものに書き記されるのではなく、天の永遠の書物に、消え去ることのない文字で書き記されるということです。これは何という大きな恵みであり、祝福であり、名誉であることでしょうか。それゆえに、ここで与えられる喜びは他のどのような喜びよりもはるかにまさった永遠の喜びであるのです。

 神の国の福音のために仕える働き人や、主イエスの十字架の福音宣教のために仕えるわたしたちには、今すでにこのような大きな喜びと祝福とが約束されているのです。わたしたちはこの地上にあってすでに天の喜びと祝福に招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、朽ち果てる者に過ぎないわたしたちを、あなたは永遠の命と救いの恵みとによって養ってくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを地上の過ぎ去りゆくものから離して、天に向けさせてください。わたしたちをあなたから引き離そうとして、滅びへといざなうすべての悪しき誘惑から、わたしたちをお守りください。

〇主なる神よ、地にあなたのみ心が行なわれますように。人間たちの悪しき思いや、欲望や、争いをあなたが取り除いてくださり、すべての国、すべての民族、すべての人たちがあなたにあるまことの平和と共存を創り出していくために仕える者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月28日説教「モーセの誕生」

2024年4月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記2章1~10節
    使徒言行録7章17~22節
説教題:「モーセの誕生」

 出エジプト記2章1~10節に描かれているモーセ誕生の時代の背景を今一度確認しておきましょう。族長ヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもたちとその家族70人でエジプトに移住したイスラエル人は、400年余りの間に急激にその数を増し、大きく強い民族になっていきました。エジプト王ファラオはイスラエル人が反対勢力になることを恐れて、彼らを迫害する政策を考え出しました。最初はイスラエル人の助産婦に、「男の子が生まれたらすぐに殺すように」と命じましたが、神を恐れていた彼女たちはその命令に聞き従いませんでした。そこで、ファラオは次に、「イスラエル人の家に生まれた男の子はみなナイル川に投げ捨てよ」という命令を全国民に出しました。イスラエル人とその家庭は、エジプトの全国民監視のもとで、ファラオの命令に従わなければなりませんでした。
 モーセが生まれたのはそのころ、イスラエル人に対する迫害が最も厳しい時代でした。この状況は、主イエスが誕生された時と非常によく似ています。マタイによる福音書2章によれば、当時のユダヤ人の王ヘロデ大王は、主イエスがお生まれになると預言されていたエルサレム近郊のベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子をみな殺すように命じました。ヘロデ王もまたエジプト王ファラオと同様に、やがて自分の王としての地位が脅かされるようになることを恐れて、最も弱い存在である子どもの命を葬り去ろうとしています。神を恐れず、この世の権力にしがみつこうとする者は、いつの時代にもこのようにして、本来は恐れるに値しない存在を恐れ、その恐れを振り払おうとして、最も弱い者たちを犠牲にするのです.
 しかしまた、主なる神はそのような、人間の罪が最もその罪悪と醜さを浮き彫りにする、まさにその時に、その人間の罪のただ中で、最も偉大なる救いのみわざを遂行なさるのです。奴隷の民イスラエルをエジプトから導き出すために仕えるモーセを誕生させ、そして全世界の民を罪の奴隷から救い出すためにお仕えくださる主イエスをこの世に誕生させたもうのです。迫害と死の恐怖のただ中で、神の奇しき摂理に導かれ、神の強いみ手に守られて、その幼い命が誕生したのでした。神はこのようにして、天地創造の初めから今に至るまで、そして終りの日のみ国が完成されるその時に至るまで、無から有を呼び出だし、死から命を生み出すようにして、驚くべき救いのみわざをなし続けられます。
 では【1~2節】を読みましょう。モーセの両親の名前や兄弟のことについてはここでは紹介されていませんが、6章20節によれば、両親はアムラムとヨケベドという名であり、またモーセにはすでにアロンという兄がおり、ミリアムという姉がいたということが、他の箇所から知られます。このあと2章4節以下で幼子の姉として登場してくるのがそのミリアムと推測されます。また、ミリアムは15章20節以下では、アロンの姉の女預言者として紹介され、いわゆる紅海の奇跡を歌っています。
 2節に「その子がかわいかったのを見て」と書かれていますが、「かわいい」と訳されているヘブライ語は「トーブ」という言葉ですが、この言葉は一般的には、「美しい、整っている」という意味ですが、創世記1、2章では神の創造のみわざについて繰り返して用いられています。1章4節、10節、12節などで、「神はこれを見て、良しとされた」と言われています。その他の箇所でも、「トーブ」というヘブライ語は、一般的に美しい、かわいいというだけではなく、神の創造の秩序に適っている美しさとか、神から与えられた特別な美しさというような意味を持っています。生まれてきた子どもは親にとってはみなかわいいのですが、モーセはそれだけでなく、神から与えられた特別な美しさを持って生まれたのでした。そして、両親はそこに神からの特別な恵みを見たのです。
 使徒言行録7章20節では、この箇所はキリスト教の最初の殉教者となったステファノが死の直前に法廷で証言した説教ですが、そこでは幼子モーセについて「神の目に適った美しい子」と言われています。また、ヘブライ人への手紙11章23節にはこのように書かれています。【23節】(416ページ)。モーセの両親は信仰によって、与えられた幼子に神の特別な恵みと、それゆえに神の特別なみ心を見たのです。そして、この世の王を恐れず、主なる神を恐れたのです。ヘブライ人の助産婦たちも同様でした。それゆえに、モーセの両親は自分の子をこの世の権力者の犠牲にすることによって自分たちの命を守るのではなく、主なる神のためにささげる決断をしたのです。パピルスのかごに入れてモーセをナイル川の葦の茂みに置いたのは、我が子を捨てたのではなく、我が子を神にささげたのです。
 【3節】。幼子が3か月を過ぎると、泣き声が大きくなり、もはや家の中に隠しておくことができなくなります。もし、泣き声をだれかに聞かれたら、直ちに密告されて、家族みんなの命が危険になります。だからと言って、幼子を殺すことはできません。そこで、両親は信仰の決断をします。防水を施したパピルスのかごの中に入れてナイル川の岸辺に置くことにしました。わが子を神ご自身に託したのです。
 3節で「籠」と訳されているヘブライ語は創世記6章のノアの大洪水の箇所で「箱舟」と訳されています。ノアとその家族とが大洪水の際に箱舟に入り、救われたように、幼子モーセもまた小さな箱舟の中で神に守られているのです。モーセの両親は信仰によって、幼子を神のみ手にゆだねたのです。そして、神は確かに不思議な導きによって、幼子モーセを守り、導かれました。
 【4~6節】。「その子の姉」は前にお話ししたように、ミリアムという名前だと思われます。彼女は弟がどうなるのかを見守っています。彼女もまた、信仰の家庭に育ち、信仰と兄弟への愛に満ちていました。
ファラオの王女がナイル川のほとりで水浴びをしているちょうどその時に、流れ着いたかごとその中にいた幼子を見つけました。王女はかごの中で泣いている赤ん坊に目をやり、その子に深い同情心を起こしました。泣いている赤ん坊を見てかわいそうだと思わない人はいないかもしれません。けれども、彼女はエジプト王の娘です。父の命令を知らないわけはありません。しかも、彼女は赤ん坊がヘブライ人の子だということを確かに認識していたと6節に書かれています。父の命令によって、その子は直ちに殺されなければならないのです。そうであるのに、彼女はその子に深い憐みの心を覚え、その子を生かしておこうと思ったのです。それは、なんとも不思議な導きです。そこには神のみ手が働いていたのだと、この箇所を読む読者のだれもが認めるでしょう。神は信仰深いモーセの両親とその家族を導かれたように、この時にもまたファラオの娘をナイル川の岸辺へと導かれ、彼女に憐みの心を起こさせ、その幼子をファラオの宮廷へと導かれたのでした。何と不思議な神の導きであることでしょうか。
 【7~10節】。ここではさらに不思議なことが次々と起こります。7節の「その子の姉」は4節で、「遠くに立って、どうなるかと様子を見ていた」モーセの姉ミリアムのことです。彼女は大胆にも王女に「その子にヘブライ人の乳母を呼んできましょうか」と提案し、しかも彼女の母、その子の実の母ヨケベドを連れてきました。母は王女に雇われて、手当を受け取って、実の子モーセを自分の母乳で育てることになったのでした。このようなことが起こりうるでしょうか。しかも、迫害する側の権力者と迫害される側の市民との間で、このようなことがいったい起こりうるでしょうか。しかし、ここでは、主なる神の見えないみ手の導きによって、この不思議なことが起こっているのです。信仰の家庭、信仰の民はこのようにして主なる神に導かれていくのです。
 迫害されていたイスラエル人の家庭に生まれたモーセが、神の不思議な導きによって、迫害するエジプトの宮廷の中で、迫害の命令を出した王の娘の子どもとして育てられ、ひとたび家から出して神にささげた母親の母乳とその愛の手によって養われ、育てられるという、人間の知恵では考えもつかないほどの奇しき神の救いのご計画の中で、モーセは成長していきました。イスラエル人の幼児虐殺の命令が出されたその宮廷で、モーセはエジプトのあらゆる学問を身につけ、やがてそのエジプトの地からのイスラエル人脱出の時に備えることになりました。神は人間の悪や罪のすべてをお用いになって、ご自身の永遠の救いのご計画を進められます。
 ここでわたしたちは、ヘブライ人への手紙が教えているモーセ自身のこののちの決断について、あらかじめ確認しておく必要があるでしょう。というのは、モーセは神の不思議なお導きによって、ファラオの宮廷で、エジプトの最高の学問を身に着け、何不自由なく成長していくのですが、しかし彼はイスラエル人ではなくなっていくのではありません、エジプト人になるのではありません。ヘブライ人への手紙11章24~26節にこのように書かれているからです。【24~26節】。モーセはこの時すでに主キリストを見ていたと書かれています。主キリストのご受難の道を、主キリストと共に歩んだのだと、この手紙の著者は言います。主キリスト誕生の1200年以上も前のこの時代に、神はご自身が選ばれた旧約の民に主キリストのご受難と十字架の恵みをお与えになっておられるのです。神の永遠の救いのご計画は、昔も今も、いつまでも変わることはありません。わたしたちがそれぞれの人生の中で経験しなければならない苦難や試練の中でも、神の救いのご計画は確かに進められていくのです。
 最後に、モーセという名前の意味についてですが、モーセとはもともとはエジプト語で「息子」という意味であったと考えられていますが、ここではヘブライ語の「引き出す」という意味の言葉と関連づけられています。モーセは水の中から引き上げられた者です。もちろん本来の主語は王女ではなく、主なる神です。神によって水の中から、死の危険から引き上げられ、救い出された者です。モーセはそのようにして神に救い出された者として、やがてイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出すために神に用いられるのです。

(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの奇しき摂理によって、奴隷の民イスラエルを導き出すための指導者モーセを誕生させ、あなたの救いのご計画を押し進めてくださいました。あなたは必要な時に必要な働き人を起こしてくださり、あなたの民を絶えずお導きくださいます。どうか、わたしたち一人一人をもあなたの救いのみわざのための仕え人としてお用いください。全世界の教会、アジアの諸教会、日本の諸教会をお導きください。それぞれの地で、あなたのご栄光を現わすためにお仕えする群れとなりますように。
〇天の神よ、試練や苦難の中にある人、重荷を負っている人、病んでいる人、飢え乾いている人、迫害を受けている人、すべてあなたの助けを求めている人に、あなたの力強い助けのみ手を差し伸べてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月21日説教「聖書はイエス・キリストを証しする」

2024年4月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(32)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    ルカによる福音書24章44~49節

説教題:「聖書はイエス・キリストを証しする」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。きょうはこの中の「主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し」という箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、この文章の主語は何かを、改めて確認しておきましょう。「主イエス・キリストを顕らかに示し」の主語は、すぐ前の「聖霊」ですが、その聖霊は「その中で」、すなわち「旧・新約聖書の中で」語っておられると、いう具合に、順に前の方につながっていく文章になっています。一般的には、「旧・新約聖書はイエス・キリストを顕らかに示している」と告白されるべきところを、「旧・新約聖書の中で語っておられる聖霊なる神が、主イエス・キリストを顕かに示している、あるいは証ししている」という告白になっていることが分ります。このように、聖書に書かれている神の言葉と聖霊なる神のお働きとが固く結び合わされているという点が、わたしたちの『信仰告白』の大きな特色です。

 前回も学んだように、聖書の第一の著者は聖霊なる神です。聖霊なる神が、旧約聖書時代の預言者や信仰者たちをお用いになって、また新約聖書の福音書記者たちや使徒たちをお用いになって、彼らの筆によって聖書が書き記されたのです。そして、聖霊なる神は今もなお、書かれた聖書の言葉によって、わたしたちに語りかけておられるのです。それゆえに、わたしたちが聖書を読む場合には、聖霊なる神のお導きによらなければ、聖書を正しく理解することはできず、聖書が与える救いの恵みを正しく受け取ることができないということです。聖書の正しい理解者は聖霊であり、またその聖書の言葉によってわたしたち一人一人に信仰を与え、救いの恵みを与えるのも聖霊なる神です。

 次に、「顕らかに示し」という言葉についてですが、1953年制定のいわゆる「文語文」では、「主イエス・キリストを顕示し」となっていましたが、2007年に制定された「口語文」では、漢字をそのまま用いて「顕(あき)らかに示し」と読ませています。この「顕示する」という言葉は、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』で用いられていました。ただ、その場所は、今の『信仰告白』のように「聖書論」の中ではなく、一段落前の「聖霊論」の箇所で、「父と子と共に崇められ、礼拝せられる聖霊は我等が魂にイエス・キリストを顕示す」と告白されていました。「聖霊がわたしたちに主イエス・キリストを顕示する」と言われていたのが、今の『信仰告白』では、「聖書が、そこで語っておられる聖霊によって、主イエス・キリストをわたしたちに顕示する」というように変更され、「聖書論」の中で、聖書と聖霊と主イエス・キリストとを結びつけて理解すべきことを強調しています。日本キリスト教会の特徴がより明確にされていると言えます。

 「顕示する」とは、明らかに、はっきりと示す、疑いの余地がないほどに明確に表わすという意味ですが、1890年の『(旧)信仰告白』で最初に用いられましたが、なぜこの言葉が用いられたのかについては分かっていません。わたしたちの教会の大先輩である林三喜雄先生によると、「顕示するとは、教示または指示ではない。人格的顕現である。主イエス・キリストは聖霊においていまここに現在し、活ける主として、聖書をとおして語りかけ給うのである」と解説しています。

 『日本キリスト教会小信仰問答 1964年版』の第5問では、「聖書とは何ですか」という問いの答えとして、「聖書は旧約聖書・新約聖書66巻からなっていて、預言者や使徒たちが聖霊に導かれて書いたものです。それはイエス・キリストを証しし、わたしたちの信仰と生活との誤りのない基準です」と教えています。ここでは、「証しする」という言葉が用いられています。顕示する、証しする、あるいは啓示する、いずれの言葉でも大差はないと思います。重要な点は、わたしたちが何度も確認したように、また林三喜雄先生が強調しておられたように、聖書のみ言葉が生ける、また命と力とを持つ神のみ言葉として、今ここでわたしたちに語りかけられ、またわたしたちに救いの恵みを与える、そのような命と救いのみ言葉として、わたしたちが聞き、信じ、受け入れることができるように、聖霊なる神が働いてくださるのだということです。

 それでは次に、旧約聖書と新約聖書が主イエス・キリストを顕示する、証しするという、『信仰告白』の中心部について学ぶことにしましょう。

 新約聖書が主イエス・キリストを顕示する、証しするということについては改めて説明を必要としないでしょうが、旧約聖書の中にはイエス・キリストというお名前が一度も書かれていないのに、なぜそのように告白されるのでしょうか。

きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書24章44節以下で、復活された主イエスが弟子たちにお姿を現されてこのように言われました。【44~47節】(161ページ)。「モーセの律法」とは旧約聖書の最初の5つの書を指しています。それに「預言者の書と詩編」で、旧約聖書全体を言い表わしています。つまり、旧約聖書はその全体が、「わたしについて」すなわち主イエス・キリストについて書いている。主イエスのご受難と十字架の死と三日目の復活、そして悔い改めと罪のゆるしの福音が全世界へと宣べ伝えられることが書かれている、そのように主イエスご自身が言われました。また、ヨハネ福音書5章39節でも、主イエスはこのように言われました。「あなたたちは聖書の中に(旧約聖書の中に)永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ」と。そのほかにも、主イエスご自身が「旧約聖書はわたしについて書いてある、わたしのことを預言している」と語られている箇所がいくつもあります。旧約聖書は創世記の最初の1ページから最後のマラキ書まで、全39巻、その全ページが主イエス・キリストを証している、主イエス・キリストの到来を預言している、来るべきメシア・救い主である主イエスを待望しているということを、主イエスご自身が何度もお語りになりました。

 創世記1章で神が天地万物と人間を創造されたその時から、神はこの世界を救うために主イエス・キリストをこの世界にお遣わしになるご計画を始めておられたのです。最初の人アダムとエヴァが罪を犯したその時から、神の救いのみわざは始められていました。アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代、モーセ、ダビデなどの旧約聖書の信仰者たちは、やがて来たりたもうメシア・キリスト・救い主を待ち望んでいました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たちは、永遠の王、まことの預言者、唯一の大祭司である、油注がれた者、メシア・キリストの到来を預言しました。

 その預言の一つ、イザヤ書53章3節以下を読んでみましょう。「苦難の主の僕(しもべ)」と言われる箇所です。【3~10節】(1149ページ)。この預言はまさしく新約聖書の福音書が語っている主イエスの十字架のお苦しみのことであり、その主イエスの十字架によってなし遂げられた罪の贖いとゆるしの福音のことです。預言者イザヤは主イエスが誕生されるおよそ700年以上も前に、神の永遠の救いのご計画を知らされ、この預言をしたのです。他の預言者たち、旧約聖書の信仰者たちもまた同様です。

旧約聖書は、このようにして、預言というかたちで、また待望というかたちで、来るべきメシア・キリスト・救い主であられる主イエス・キリストを顕示し、証ししています。わたしたちが聖霊なる神のお導きによって旧約聖書を読むとき、そこでわたしたちの救い主であられる主イエス・キリストと出会うのです。

次に、新約聖書は4つの福音書、使徒言行録、パウロの書簡、その他の書簡、そして最後のヨハネの黙示録まで、全27巻。主イエスの誕生から、そのご生涯、ご受難、十字架の死、葬り、三日目の復活、40日目の昇天、聖霊降臨と教会の誕生、初代教会の発展、そして主イエス・キリストの再臨の時、終末の神の国完成の時に至るまでのことが描かれています。主イエス・キリストが新約聖書全体の主人公、中心人物、また主語であられる、新約聖書全体が主イエス・キリストを顕示し、証ししているということは全く疑う余地はありません。

しかし、もちろんそこで聖霊なる神のお働きがなければ、だれも本当の意味で主イエスを知ることはできませんし、主イエスとの生ける出会いを経験することもできません。主イエス・キリストから差し出されている救いの恵みを受け取ることもできません。新約聖書のみ言葉をとおして働かれる聖霊なる神のお働きによって、主イエスのお苦しみがわたしの罪のためであったことを、主イエスの十字架の死によってわたしの罪が贖われていることを、そして主イエスの復活によってわたしに復活の命が約束されていることを、わたしが信じる信仰へと招き入れられていることを知らされるのです。

主イエス・キリストを顕示し、証しする旧約聖書と新約聖書との関係について、いま一度まとめておきましょう。旧約聖書は主イエス・キリストを預言し、その到来を待望する書、また主イエス・キリストによる救いの完成を待望しながら歩んだイスラエルの民の信仰の書であり、新約聖書は主イエス・キリストの到来によって成就された救いと、その救いに生きた教会の民の信仰の書であると言えます。わたしたちは旧約聖書においても新約聖書においても、聖霊によって聖書を読む時に、そこで主イエス・キリストと出合うのです。わたしたちの信仰の創始者であり、また完成者であられる主イエス・キリストが、聖書のみ言葉と聖霊によって、常にわたしたちと共にいてくださり、わたしが健やかな時も、わたしが病める時も、そしてわたしの死の時にも、常にわたしと共におられ、終わりの日までわたしをお導きくださることを信じるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちが朽ちるこの世のパンによって生きるのではなく、あなたの生けるみ言葉によって真実に生きる者となりますように。聖書のみ言葉がわたしの命の糧となり、苦難の時の希望の光となり、死の時の慰めの言葉となりますように。

○全能の父なる神よ、この世界にまことの平和をお与えください。憎しみや復讐ではなく、愛とゆるしをお与えください。飢え乾いている人たちに食糧を、家を失っている人たちにテントと毛布を、傷ついている人たちに適切な医療を、孤独な人たちに共に歩む友人を、重荷を負う人たちに主キリストの愛をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。