9月25日説教「ステファノの殉教」

2022年9月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編31編2~9節

    使徒言行録7章54~60節

説教題:「ステファノの殉教」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノが、ユダヤ最高法院の法廷で語った弁明、または説教が使徒言行録7章1節から53節まで続いていますが、この説教は途中で中断されているような感じを受けます。52、53節でステファノは、あなたがたユダヤ人指導者たちは旧約聖書の預言者たちが預言した正しい方、神の律法を成就される方である主イエスを殺したのだと語りましたが、彼はこのあとさらに、主イエス・キリストの復活や救いへの招きについても語りたかったに違いありませんが、ユダヤ最高法院の71人の議員たちやその裁判を傍聴していたユダヤ人たちの怒りの声によって、彼の説教は中断させられたのではないかと思います。

 【54節】。たとえ、ステファノの説教が中断されたのだとしても、彼の説教の目的は十分果たされていたということが、ユダヤ人指導者たちの反応によって確認することができます。彼らはステファノの説教によって自分たちの罪の姿があらわにされたことを知らされました。しかし、その罪を悔い改めることはせずに、なおもその罪の中にとどまり続けようとしている、そのかたくなな罪がここで明らかになっているからです。自らの罪を知らされながらも、悔い改めることをしない人間の罪の本質を、わたしたちはここに見ることができます。ステファノと彼の説教に対する激しい怒りが、彼らの反応でした。

 それに対して、ステファノ自身については、55、56節にこのように書かれています。【55~56節】。ここでは、神に敵対する罪の人間の怒りに満ちた姿と、神に守られている殉教者の平安に満ちた姿とが対比されています。ステファノの目は怒り狂って自分を攻撃してくる人々に向けられていません。また、彼らの攻撃によって苦境に立たされている自分自身にも向けられていません。彼は、聖霊に満たされ、彼の目は天に向けられています。神の栄光を仰ぎ見ています。天にあるみ座で、父なる神の右に立っておられる主イエス・キリストの姿を仰ぎ見ています。わたしたちすべての罪びとたちのために、十字架で死なれ、その尊い血によってわたしたちを罪から贖い、三日目に死の墓から復活されて、罪と死とに勝利された主イエス・キリスト。天に昇られ、父なる神の右に座しておられ、神の国が完成される日まで、信じる人々のために執成しをされ、守り、導いておられる主イエス・キリストに、ステファノの目は注がれています。そして、平安と喜びと希望とに満たされています。

 55節と56節に、「神の右に立っておられるイエス」と書かれていますが、一般的には、その位に就き、支配者としての務めをしている場合には、「神の右に座す」という表現が用いられますが(『使徒信条』ではそのように告白されています)、ここで「神の右に立つ」と言われているのは、殉教者ステファノを天の勝利の教会に迎え入れるために、主イエスが両手を広げて立ち上がり、迎え入れてくださるお姿を強調しているためと思われます。ステファノは主イエス・キリストによって約束されていた信仰の勝利を確信して、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と叫んでいます。天におられる復活の主イエス・キリストは、死に至るまで忠実にご自身の証人となった信仰者に、最後の勝利を与え、神の国に迎え入れてくださるのです。

 使徒言行録に描かれているステファノの裁判と殉教の場面が、福音書に描かれている主イエス・キリストの裁判と十字架の死の場面と、共通している点がいくつかあることに注目したいと思います。第一の共通点は、主イエスおよびステファノと、二人を取り囲んでいる周囲のユダヤ人たちとの対比に共通点があります。主イエスを裁き、十字架につけたユダヤ人たちは、福音書に書かれているように、「彼を十字架につけよ、十字架につけよ」と叫びたて、主イエスをあざ笑い、憎しみと怒りをもって攻撃し、騒然としているのに対して、主イエスご自身は十字架につけられた肉体の痛みと人々の罪のためのお苦しみの中にあっても、すべてを父なる神にお委ねし、平安に満たされておられました。ステファノもまた、迫害と死の直前にあっても、泣き叫ぶことなく、恐れることなく、勝利者であられる主イエス・キリストにすべてを委ね、そのお姿を仰ぎ見つつ、平安に満たされています。このように、神の国の福音に仕える信仰者、主イエス・キリストの証し人として立つ信仰者は、聖霊によって強められ、最後の勝利を確信させられ、たとえ迫害と殉教によって地上の命が奪い取られようとも、その人には神の国での永遠の命が約束されていることを知るのです。

 第二の共通点は、マルコ福音書14章62節の主イエスのみ言葉と使徒言行録7章56節のステファノの告白との一致です。主イエスはユダヤ最高法院での裁判で、詩編110編1節のみ言葉を引用しながらこう言われました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。主イエスはこのみ言葉のとおりに、十字架の死の後、三日目に復活され、40日目に天に昇られ、父なる神の右のみ座につかれました。そして、終わりの日には、雲に乗って再びおいでになり、すべて信じる人たちの信仰を完成させ、神の国へとお招きになります。ステファのはその主イエスのみ言葉が今すでに成就しているのを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と告白しているのです。ステファノの地上の歩みは死によって終わるとしても、彼は地から天に移され、主イエスがいます天の勝利の教会へと招き入れられるのです。

 第三と第四の共通点は、主イエスの十字架上での七つの言葉のうち、二つがステファノの殉教の時に彼が語った言葉とほぼ同じであるという点です。59節の「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と60節の「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、この二つがルカ福音書23章が伝える主イエスの十字架上での言葉とほぼ一致します。その二つの言葉の意味についてはあとで学ぶことにしますが、主イエスの十字架の場面と最初の殉教者ステファノの死の場面に以上のような共通点があることは偶然ではありません。主イエス・キリストを信じる信仰者は主イエスご自身が歩まれた道と同じ道を歩むであろうことは、当然だと言えるでしょう。主イエス・キリストと同じ道を進むということは、信仰者にとっては大きな喜びであり、誇りであり、栄誉であり、そして勝利なのです。

 では次に、57節以下を読みましょう。【57~60節】。ステファノはここで石打の刑によって処刑されたように思われる。あるいは、ユダヤ最高法院での正式な判決が下される前に、怒り狂った人たちによって、いわばリンチのようにして石打で殺されたのかもしれません。使徒言行録の記述からは正式な判決が下されたのかどうかはっきりしませんが、石打の刑の仕方によって処刑されていることは確かです。レビ記や申命記に定められている律法の規定によれば、神を冒涜したり、重大な罪で死刑となった犯罪人に対しては、証人となった人たちがまず初めに犯罪者に石を投げ、次にまわりにいる人々が一斉に石を投げ、犯罪人が死ぬまで石を投げ続けるというのが石打の刑でした。ユダヤ人の間では死刑は石打の刑が一般的でした。しかし、主イエスの場合、石打の刑ではなく十字架刑であったのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の総督ピラトが最終的に主イエスに死刑判決を下したことから、ローマ帝国内で一般的であった十字架刑が執行されたことによります。

 57節に、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ」と書かれていますが、これはおそらく、ステファノが55節と56節で、主イエスを神のみ子と告白したことが人間を神と等しい者として、神を冒涜したと受け取られたからであろうと推測されます。人々はステファノの神を冒涜した言葉を聞かないようにと大声を出し耳をふさいだのであろうと思われます。もしそれを聞けば、自分たちも神を冒涜したことになると考えたからです。ユダヤ人たちはそれほどまでにステファノの告白と証言を恐れていたことが分かります。彼が告白した人の子であり同時に神のみ子であられる主イエス・キリストの福音を恐れていたのです。ユダヤ人たちは神のみ子、主イエスの十字架につまずきました。

 58節にサウロという若者が登場します。サウロ、のちのパウロはステファノの迫害と殉教の場面ではほんのわき役として、石打の刑を執行する人たちの上着を監視する役として現れるにすぎませんが、彼がこのあとで自らキリスト教会迫害の急先鋒となり、しかしまたそののちには、キリスト教徒に回心し、熱心な伝道者となり、使徒言行録の中心人物となるということを、いったいだれが予想しえたでしょうか。

 最後に、ステファノが死の直前に語った二つの言葉に耳を傾けましょう。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)。前にもふれたように、この二つは福音書に書かれている主イエスの十字架上でのみ言葉とほとんど同じです。ルカ福音書23章46節にはこう書かれています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた」。また、同じ福音書23章34節には、「その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです』」。

最初の殉教者ステファノはまさに主イエスが歩まれた道と同じ道を進んだということをわたしたちはここではっきりと確認することができます。それはただ単に、主イエスの生き方をまねて、同じように生きたと言うのではありません。主イエスが先だって開かれた道、主イエスによって備えられた道へとステファノは招かれていると言うべきでしょう。主イエスの十字架の死がステファノにこのような生き方を可能にしているのです。主イエスの十字架の死によって罪の贖いが完全に成し遂げられ、罪の支配から解放され、罪と死に対する勝利が約束されているゆえにこそ、ステファノはこの迫害と殉教の道を、全き服従をもって進み、しかも喜びと希望を抱きつつ、天のみ国へと招かれていることを告白しているのです。

「わたしの霊をお受けください」という祈りは、「わたしの命、わたしの存在のすべてをあなたにささげます」という祈りです。死に至るまで従順に服従した主なる神の僕(しもべ)であり、主イエス・キリストの証し人の最後の祈りです。それは救いと勝利と平安を確信した信仰者の最後の祈りです。わたしたち一人一人が地上の歩みを終える時の祈りです。

「この罪を彼らに負わせないでください」という祈りは、迫害する者や敵対する者をもゆるし、愛する祈りです。主イエス・キリストによってすべての罪をゆるされている信仰者はこのように祈ることができ、また祈るように命じられています。この祈りによって、信仰者はすべての罪と裁き合いと、憎しみと怒りに勝利していることを確信する祈りです。

「ステファノはこう言って、眠りについた」(60節)。新約聖書では信仰者の死を眠ると言います。それは復活の希望を暗示しています。信仰者の死は永遠の眠りではありません。信仰者にとって死は最後ではありません。復活への門です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを従順な者にしてください。あなたのお招きのみ声を聞いたなら、直ちに悔い改め、喜んであなたに従っていく者としてください。

○天の神よ、多くの試練や苦難の中にあるこの世界を、どうかあなたが憐れんでくださり、あなたのみ心が行われ、人々に平和と希望とが与えられますように。また、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を顧みてください。なたの救いのみわざのために、わたしたちの教会をお用いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月18日説教「風と荒波を静められた主イエス」

2022年9月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編23~32節

ルカによる福音書8章22~25節

説教題:「風と荒波を静められた主イエス」

 ルカによる福音書8章22節からこの章の終わりまでには、主イエスによる4つの奇跡のみわざについて語られています。22~25節には、ガリラヤ湖の風と荒波を静められた奇跡。26~39節には、ガリラヤ湖対岸ゲラサ人の地方で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出し、いやされるという奇跡。次の40~56節には、12年間出血が止まらず、長血を患っていた婦人をいやされた奇跡と、会堂司ヤイロの娘を死からよみがえらせたという奇跡。

 主イエスはこれらの奇跡によって、ご自身が神のみ子としての主権と権威と力とを持っておられ、自然と世界のすべてを支配しておられること、また悪霊やすべての病気、そして人間の死をも支配しておられることをお示しになられました。それと同時に、神の国が、神の恵みのご支配が、主イエスの到来と共に始まったのだということをお示しになりました。

 きょうは、その最初の奇跡のみわざについて学んでいきましょう。【22節】。湖とはガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムは主イエスのガリラヤ伝道の拠点でした。向こう岸とは、湖の東側の地方で、そこはデカポリス(10の都市という意味のギリシャ語)と呼ばれる地方で、多くはユダヤ人以外の異邦人が住んでおり、当時はローマ政府が直接支配していました。

 主イエスは何のためにこの地方へ行こうと言われたのでしょうか。続く26節以下には、「ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」と書かれてあり、この地で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出されたという奇跡のみわざが39節まで書かれていますので、これが主イエスの旅の目的であったと推測できます。主イエスが悪霊に取りつかれている男の人と出会ったのが偶然であったとしても、彼をおいやしになってからすぐにこの地方から立ち去っておられますので、結果的にはこの一人の人のいやしの奇跡を行うことが、この地にやって来られたことの目的であったことになります。

 ガリラヤ湖を舟で渡るという主イエスの旅は、観光目的とか、休息とか、何か他の目的のためではありません。主イエスが場所を移動される時、その目的は、ただ一つ、それは主イエスが天の父なる神のみもとからこの地に下って来られた目的と同じ、新しい地にも神の国の福音を宣べ伝えるため、人々を罪の支配から解放し、救うためにほかなりません。ガリラヤ湖の対岸がユダヤ人以外の異邦人の地であろうとも、そこではただ一人の人がいやされただけであろうとも、そこに救いを必要としている人が一人でもいる限り、主イエスはそこへと舟をこぎ出されます。たとえ、危険な航海が予想されるとしても、主イエスは一人の苦しむ人を救うために船出されます。

 ガリラヤ湖は海面よりも200メートルほど低い所にあり、夕方には周囲の山々から突然の吹き下ろしがあって、急激に気候が変化し、湖が荒れることがあると言います。そのような危険が待ち構えている海であっても、主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるため、一人の傷つき病める人の魂を救うために、船出されます。

 その際に、主イエスは弟子たちを伴われます。弟子たちも主イエスと共に危険が待ち構えている海へ船出しなければなりません。主イエスの弟子である教会は、静かで安全な港の中にとどまっていることはできません。この世の荒波へと漕ぎ出さなければなりません。主イエスの十字架の福音を宣べ伝えるために、罪びとが一人でも救われるために、不信仰なこの時代のただ中へと漕ぎ出し、厳しい信仰の戦いを続けていかなければなりません。もし、わたしたちの信仰が自分を守るためだけの信仰であるならば、危険な海へと漕ぎ出して行き、他の人の救いのために命をかけて仕える信仰でないなら、わたしたちは主イエスの弟子ではありませんし、そのような信仰はやがて衰え、あるいは歪み、ついには命を失ってしまうほかないでしょう。主イエスはわたしたちにも呼びかけて言われます。「わたしと一緒に向こう岸に渡ろう」と。

 【23節】。「イエスは眠られた」と書かれているのは聖書の中でここだけです。これは意味深い一節です。二つの意味を考えてみましょう。一つには、この一句は主イエスの人間性を言い表しています。主イエスは神のみ子であられますが、いわば超人的な強さや完全さをもってこの世においでになられたのではありません。主イエスはわたしたち人間と全く同じように、人間としての肉体を持ち、肉の弱さを持って生まれ、生きられました。主イエスはわたしたちの人間としての弱さや、疲れや、痛み、悲しみのすべてを知っておられました。時には、空腹を覚えられ、疲れて眠られ、時には涙を流され、時には怒り、叫ばれました。主イエスはまことの人間として、人の子として、わたしたち人間が持つすべての弱さを経験されました。それゆえに、主イエスはわたしたちの弱さを思いやることがおできになるのです。

 もう一つは、主イエスが眠られたということは、父なる神への全き信頼のお姿を表しています。詩編4編の詩人は、主なる神が苦難の中にあるわたしの祈りを聞いてくださるゆえに、「わたしは平和のうちに身を横たえ、眠ります」(詩編4編9節参照)と告白しています。安らかな眠りは神への全き信頼によります。神の守りと導きとを信じる信仰によって、主イエスは波風に揺れ動く舟の中で、すべてを神にお委ねして、安らかに眠っておられます。

 けれども、主イエスの眠りは怠けている人の惰眠ではありませんし、一緒に舟に乗っている弟子たちに無関心であったり、彼らをお見捨てになったのでもありません。主イエスは目覚めるべき時には、たとえ弟子たちがみな眠っていても、ただお一人目覚めておられます。わたしたちは受難週の木曜日の夜、ゲツセマネの園でのことを思い起こします。弟子たちは疲労と恐れと緊張のあまり、みな眠ってしまい、主イエスによって3度も起こされましたが、起きて祈っていることができませんでした。その間、主イエスだけがお一人目覚めておられ、汗を血の滴りのように流され、父なる神に祈られ、激しい信仰の戦いをされ、ご自身に備えられた十字架への道を進み行く決意をされました。主イエスはわたしたちがみな罪の中で眠りこけていた時に、ただお一人目覚めておられ、わたしたちの罪のために戦われ、祈られ、そして罪に勝利されたのです。

 23節から、もう一つのことを教えられます。わたしたちが主イエスと共に、主イエスに従って信仰の旅路に船出する時には、激しい嵐に出会うことがあるということです。キリスト者となって主イエスに従って生きるということは、人生の悩みや試練、苦難には決して出会わないという保証を得ることではありません。この世の偽りの宗教やご利益宗教は、この世での安全や繁栄を約束します。多くの人たちはそのような宗教に飛びつきます。けれども、それは人間の欲望や自己追及を満足させ、利己主義的な生き方を認めるだけであって、そこには本当の救いはありませんし、人間が共に生きる幸いや、互いに重荷を負い合う喜びはありません。

 わたしたちが主イエスに従い、信仰の道を歩むということは、むしろ荒波の中に漕ぎ出していくことであり、苦難や試練の中で主イエスが共にいてくださることを教えられ、希望と勇気を与えられ、また実際に主イエスの助けと守り、導きを経験し、いつもどのような時でも神に感謝することができる生き方に変えられ、主イエスのためには試練や苦難を少しも恐れず、それらに耐え、ついには主イエスの勝利にあずかる、これがわたしたちの信仰の歩みなのです。

 次に【24節】。激しい嵐の中でも目を覚まさなかった主イエスでしたが、弟子たちの助けを呼び求める声をお聞きになります。そして、目を覚まされ、起き上がられます。主イエスはいつまでも眠っておられるのではありません。わたしたちの苦悩の叫びをお聞きになられます。わたしたちを救うために、目覚め、立ち上がってくださいます。わたしたちをすべての苦難から、死の危険から、救い出してくださいます。

 弟子たちは嵐を恐れています。12弟子の中の少なくとも4人はこのガリラヤ湖の漁師でした。ここを仕事場にし、湖のことや舟の扱い方をよく知っていました。しかし、このような状況になって、彼らの経験や知識は少しも助けにはなりませんでした。死の危険の前で、彼らはあわてふためき、なすすべを失っていました。彼らを死の危険から救い出してくれるものは、何もないかのようでした。

 その時にこそ、主イエスは立ち上がられます。弟子たちの叫びにお答えになります。そして、彼らを死の危険から救い出されます。人間の知識や経験、知恵や力のすべてが無効になった時でも、いやその時にこそ、主イエスはわたしたちの救いとなってくださるのです。

 主イエスは直接に風と荒波にお命じになりました。ルカ福音書にはその時の主イエスのお言葉は書かれていませんが、マルコ福音書4章では、「黙れ、静まれ」とお命じになったとあります。すると、風も波も静まって、なぎになりました。これは、主イエスが主なる神と同じ権威と力とを持っておられ、自然を支配しておられる神であることを明らかにしています。

 古代社会では、旧約聖書と新約聖書の世界でもそうですが、海や水は人間がコントロールできない大きな魔力を持つと考えられ、恐れられていました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみわざの中で、神が第二日に天の水と地の水とを分けられ、第三日に陸と海とを分けられましたが、ここでは海とその水とを支配される神の偉大な力が暗示されています。また、詩編では、しばしば大きな苦難が「大水、大波」にたとえられ、神は信じる人をそのすべての大水、大波から守ってくださることが告白されています。

 主イエスはここで直接に風と荒波とのお命じになり、それを静められました。主イエスは神の権威と力とをもって、この世界とそこに住む人間たちを支配しておられ、救いのみわざを行ってくださるのです。

 最後に、【25節】。主イエスはここで弟子たちの信仰を問題にしておられます。重要なのは、人間の経験とか知識、あるいは知恵や技術ではありません。信仰こそがあらゆる試練と苦難の中で、わたしたちを恐れや不安から解放し、救うのです。主イエスがわたしと共にいてくださる、わたしの人生という舟に共に乗っていてくださる、わたしたちの福音宣教の旅路に伴っていてくださるという信仰が、わたしたちの険しい信仰の歩みを守り導くのです。主イエスがわたしと共にいてくださるのなら、わたしはすべての試練と苦難とにすでに勝利しているのです。死の危険にも勝利しているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、大きな試練と苦難の中にある世界の教会と、全世界のすべての国民とをお救いください。この地において、あなたのみ名があがめられ、み心が行われ、み国が来ますように。

○神よ、この秋田の地で、福音宣教を開始して130年目を迎えたわたしたちの教会を、あなたがいつの時代にも必要なものを備えてくださり、新しい信仰者を生み出してくださり、今日に至るまでお導きくださいましたことを、心から感謝いたします。さまざまな欠けや破れを持ち、弱く小さな群れですが、あなたがこの教会を憐れんでくださり、この教会をお用いくださって、み国の福音を宣べ伝える務めを果たさせてください。今集められているわたしたち一人一人を祝福し、恵みと平安をお与えください。さらに新しい信仰者を増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月11日説教「ヤコブとラケルの結婚」

2022年9月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記29章1~30節

    ローマの信徒への手紙5章1~11節

説教題:「ヤコブとラケルの結婚」

 創世記29章1節にこのように書かれています。【1節】。「東方の人々の土地」とは、28章2節などではパダン・アラムと言われ、27章43節などではハランと言われている地のことで、ユーフラテス川の上流の地域で、パレスチナからは北東へ7、800キロメートル離れています。ヤコブは双子の兄エサウの殺害計画から逃れるために、母リベカの勧めに従って、母の兄ラバンの家に身を寄せようとして、一人で長く困難な旅を続け、今ようやくその地ハランに近づいてきました。

 きょう朗読された29章から31章までは、ラバンの家でのヤコブの20年間について語っています。当初は、この逃亡の旅は少しの間で終わるはずでした。27章43節以下で母リベカはこう言っていました。【43~45節】。ヤコブ自身もそう思っていたに違いありません。けれども、母と息子の予想に反して、少しの期間のつもりが20年間になりました。「あとでまたお前の顔を見よう」と願っていた母は再び愛するわが子に会うことはありませんでした。

 ヤコブの20年間のうちの最初の7年間は、愛するラケルとの結婚のために働いていたので、20節には、「ほんの数日のように思われた」と書かれているように、あっと言うに過ぎました。しかし、彼はさらに7年間、姉のレアのために働かなければならなくなり、それからさらにラバンの家畜のために6年間、計20年間、ヤコブはラバンの家で労苦し、忍耐して働き続けたのでした。

 この20年間はヤコブにとってどのような意味を持つのかということを、わたしたちはあらかじめ確認おきたいと思います。叔父ラバンの家とは言え、故郷を遠く離れて一人、ラバンの思惑通りに働かされてきたこの20年間は、ヤコブにとっては信仰の訓練の時だったと言えるのではないでしょうか。これまで父イサクの家では、何でも自分の思いどおりになる、わがままな子でした。母の愛を一身に受けて、ついには母と組んで父と兄とを欺き、長男の特権を自分の手に入れました。けれども、これからのヤコブは、ラバンの家ではすべてが自分の思いどおりには運ばないのだということを学ばなければなりません。彼のわがままと傲慢が打ち砕かれなければなりません。

そして何よりも、あらゆる人間の思いをはるかに超えて、神のご計画が進められていくということを学ばなければなりません。叔父ラバンの家で労苦して働き、ラバンのたび重なる欺きにも忍耐して、彼に忠実に仕え、そうすることによって、彼が最後に仕えるべきお方が主なる神であるのだということを学ばなければなりません。また、彼のすべての労苦を顧みてくださるお方が主なる神であるということを学ばなければなりません。そのために、ヤコブにとってはこの20年間の訓練の期間がぜひとも必要だったのです。主なる神が愛する者を訓練し、愛するすべての子らをムチ打たれるとヘブライ人への手紙12章に書かれているとおりです。

 さて、ヤコブの旅には兄エサウから逃れるということと同時に、もう一つの目的がありました。28章1節以下に書かれてあるように、カナン地方の娘と結婚することを避けて、母の兄ラバンの娘の一人と結婚するということでした。父イサク自身もラバンの妹であるリベカと結婚していました。29章2~24節に描かれているヤコブの花嫁探しの光景は24章の父イサクの花嫁探しの時とよく似ています。いずれの場合にも、二人の出会いの場所は村の郊外にある井戸の周辺。家畜に水を飲ませる時が旅人と娘との出会いの機会となります。娘は親切な旅人と出会い、走って家に帰り、ラバンにそのことを報告します。ラバンが二人の結婚に際しての条件を出します。イサクの場合もヤコブの場合も、ラバンは抜け目のない計算高い人物として描かれています。24章では、妹リベカを嫁がせる時にはたくさんの金銀を手に入れました。今度は娘を嫁がせるにあたって20年間のヤコブの労働力を手に入れることになります。

 しかし、両者の共通点とともに、違う点もいくつかあります。イサクの花嫁探しの時には、彼自身ではなく、アブラハムの家の年長の奴隷がその役を担いますが、ヤコブの場合には、彼自身が、しかも逃亡の身となって、一人寂しく孤独で困難な旅に出なければなりませんでした。また、イサクの花嫁探しの場合には、金銀などたくさんの贈り物を持参したのに対して、ヤコブの場合には、つえ一本のほかには何も持たずに家を出ました。そのために、結婚するには彼自身の労働力を差し出さなければならず、しかもその期間が20年間にもなることが必要でした。おそらく、ここには、わたしたちが先に確認したように、ヤコブに対する神の試練と訓練の意図が反映されているように思われます。ヤコブはラバンの家での彼の結婚をとおして、彼のわがままで傲慢な思いが神によって打ち砕かれ、すべては自分の思いどおりにいくと考えていた彼の人生に神の試練が与えられることによって、彼は神のみ前に謙遜にされ、彼の思いを超えて、神ご自身の計画が実現していくのだということを学ばされているのです。

 家畜の水飲み場での場面には当時の遊牧民の慣習が描かれています。井戸の口には大きな石が置かれていました。これは強い太陽光線や汚染から井戸の水を守るためであり、家畜や旅人が誤って井戸に落ちないためでもあり、またほかのグループに水を奪われないための役割もありました。大きな石のふたであったので、数人がかりでないと動かせません。その井戸の権利を持つグループがみな集合してから、石のふたを動かす決まりになっていました。

 ヤコブは羊飼いたちがハランから来たと聞いて、早速ラバンの消息を尋ねます。幸運にもすぐにラバンの情報が手に入っただけでなく、彼の娘ラケルが羊の群れを連れてこれからやってくるとのこと、それは何という幸運でしょうか。ヤコブはラケルが羊の群を連れてやってくるのを見るとすぐに、重い大きな石を一人で持ち上げて井戸から取り除き、彼女の羊たちに水を飲ませます。

 11節に、【11節】と書かれています。ヤコブの感動の大きさが表現されています。長い孤独な逃亡の旅を続けてきたヤコブ、そしてようやく親族に会うことができた安心感と喜び。また、もしかしたらこの娘が自分の結婚相手かもしれない人と出会った感動、芽生え始めた娘への愛、そのようなヤコブの興奮がこの感動的な場面を創り出しているように思われます。

 やがて、ヤコブはラバンの家に着きます。ラバンは身内としてヤコブをあたたかく迎えます。一カ月が過ぎてから、計算高いラバンがヤコブに話しかけます。【15~20節】。ヤコブは愛するラケルと結婚するために7年という長い年月の労働をラバンに提供することを申し出ました。古代社会では、いわゆる花嫁料が支払われる習慣があったとはいえ、これはずいぶん高い値のように思われます。ラケルの父ラバンからの欲深い提案であったとはいえ、これはまたヤコブのラケルに対する愛の大きさをも表していると言えるでしょう。しかも、その愛の大きさのゆえに、ヤコブにとってはその7年間の労働提供はほんの数日のように思われたと書かれています。愛とはこのようなものなのでしょう。神への愛もまたそのようなものでしょう。神への愛の大きさのゆえに、生涯神に仕え、多くの労苦を重ね、数々の試練をも経験しながら、振り返ってその長い信仰の生涯がわずか数日のように思えるほどに、神を愛し、神に仕えることに熱中する、それが真実の愛いというものでしょう。

 ところが、その期間が満ちた時、新しい事態が生じます。ラバンはヤコブが愛したラケルではなく、姉の娘レアを彼の妻として与えました。結婚の祝宴が終わった翌日の朝になって、ヤコブはラバンにだまされたことを知りました。でも、ラバンはそれが約束違反ではなく、この地方の習慣では妹を姉より先に嫁がせることはしないと言い訳をします。その説明を聞いたヤコブは、きっと自分自身のことを思い出したに違いありません。と言うのも、彼自身一般的は慣習を意図的に破って、父と兄とを欺いて、長男の権利を兄から奪った経験があったからです。かつて父と兄とを欺いたヤコブが、今同じように、身内のラバンによって欺かれているのです。

 この世の人間的な知恵によって勝利しようとする人は、やがてはさらに大きなこの世の知恵によって打ち負かされるほかにないのだということを、神はラケルの悪知恵をお用いになってヤコブに知らしめ、彼をムチ打ち、懲らしめ、教育されるのです。ヤコブがこの世の知恵によって生きるのではなく、神の恵みと導きによって生きるべきであることを悟らしめるのです。

 ヤコブはラケルと正式に結婚するために、さらに7年間働かなければならなくされます。ヤコブはラバンの言うとおりに、服従します。それによって、ヤコブは彼の魂の父であられる主なる神に従順に服従し、仕えるべきであることを学んでいくのです。

 最後に、31節以下に目を注ぎたいと思います。ここにはヤコブ(のちにイスラエルと改名しますが)とレアとの間に生まれた4人の子どもたちのことが書かれています。のちにイスラエル12部族を形成することになる4つの部族の子孫です。ヤコブはここにおいても、事が自分の思いどおりには運ばないことを、いやただ神のみ心だけが行われるということを学ばなければなりません。ラケルに対する彼の大きな愛によっても、彼の願いどおりに、ラケルには子どもが与えられません。彼の願いに逆らうようにして、神は疎んじられているレアの方を顧みられ、彼女に多くの子どもをお授けになりました。

 いや、それのみか、レアから生まれたユダの子孫から、のちにダビデ王が生まれ、ダビデの子孫から、死にかけた木の切り株から芽が出るように、ガリラヤに住むヨセフが生まれ、彼の子として主イエス・キリストがお生まれになったのだということを、わたしたちは知っています。アブラハムから受け継がれた神との契約は、その子イサク、その子ヤコブへと受け継がれ、ヤコブとレアの子として生まれたユダからダビデ王へと、そして主イエス・キリストへと至って、神と全人類との救いの契約が成就したのです。ラバンの策略と欺きも、またラケルに対するヤコブの大きな愛も、神の救いのご計画を変えることはできません。それらのすべてを貫いて、それらのすべてをはるかに超えて、神の救いのご計画は前進していきます。人間たちのすべての罪を貫いて、それらのすべてをはるかに超えて、終わりの日のみ国の完成に至るまで、神の救いのご計画は前進していきます。

(執り成しの祈り)

○天に父なる神よ、あなたの恵みと慈しみは天地創造の初めから世の終わりに至るまで、変わることなく、すべての人に豊かに注がれています。どうか、わたしたちがそのことを覚え、感謝し、あなたの恵みと慈しみとに応えて、あなたと隣人とに心から喜んで仕える者としてください。

○天の神よ、重荷を負っている人を顧みてくださり、その重荷をあなたが取り除いてくださいますように。病んでいる人の傍らにあなたが共にいてくださり、励ましといやしとをお与えください。悲しんでいる人、孤独な人、道に迷っている人、すべてあなたの助けを必要としている人たちに、あなたがみ手を差し伸べてくださり、希望と光をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月4日説教「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

2022年9月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:列王記上8章27~34節

    使徒言行録7章44~53節

説教題:「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノがユダヤ最高議会の法廷の被告席で語った弁明、説教が、使徒言行録7章に書かれています。きょうはその最後の個所44節以下のみ言葉を学びます。

 ステファノがユダヤの長老たちや律法学者たちによって逮捕されることになった理由は主イエス・キリストを宣べ伝えたことにありますが、具体的には6章13節以下にあるように、エルサレムの聖なる場所である神殿を打ち壊すと語って神殿と神を冒涜した罪、また旧約聖書の律法を軽視した発言をしたという罪であったが、きょうの個所でステファノは彼が裁かれている告発と罪状に触れながら語っています。

彼の説教の結論を先取りして言うならば、ステファノは神殿と律法を汚したという罪で告発され、裁判を受けているのですが、ステファノが旧約聖書のみ言葉に導かれながら語った説教によれば、その罪を告発され、神の裁きを受けなければならないのは、むしろ彼らユダヤ人指導者たちの方であり、彼らこそが神殿の本来の役割を理解しておらず、神の律法を語った預言者たちを迫害した先祖と同じように、神が預言の成就としてお遣わしになったメシア・キリストを十字架につけて殺したではないかという、彼らユダヤ人の罪がここでは明らかにされているのです。ここでは、裁判官の席に座っているユダヤ人指導者たちが裁かれており、被告の席に立たされているステファノが神のみ言葉によって彼らを裁いているという逆転が起こっているということをわたしたちは気づかされるのです。

 同じような立場の逆転は、4章5節以下のペトロとヨハネが裁かれた法廷でも、また5章27節以下の使徒たちが裁かれた法廷でも起こっていたことをわたしたちはすでに確認してきました。神のみ言葉の証人として立つ信仰者が迫害を受け、この世の法廷に引き出されることがあっても、信仰者は少しも恐れる必要はありません。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によってもつながれることがないからです。それゆえに、神のみ言葉の証人として立つ信仰者は、この世のいかなる裁きをも恐れる必要はなく、この世のいかなる権力によっても決して倒れることがないのです。

 さて、ステファノはこれまで族長アブラハムから始まるイスラエルの救いの歴史について、旧約聖書のみ言葉を解き明かしながら語ってきたのですが、44節からは荒れ野での証しの幕屋について語ります。出エジプト記によれば、モーセはエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が荒れ野の40年間の旅を始めるにあたって、神のご命令によって幕屋を造りました。神はモーセにこのように言われました。「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。またその所でわたしはイスラエル人々と会うであろう」と。幕屋の中には、神のご臨在のしるしとして契約の箱と十戒を刻んだ証しの板2枚が収められていました。これは臨在の幕屋とか証しの幕屋、また会見の幕屋とも呼ばれました。

 証しの幕屋は木材を組み合わせ、それを布で覆って造られる移動式の礼拝所でした。イスラエルの民は荒れ野を40年間移動しながら旅を続けましたが、幕屋も彼らと共に移動しました。主なる神がイスラエルの民がいる場所に常に伴ってくださり、荒れ野の旅を導かれ、彼らに必要なものすべてを備えてくださることを信じながら神を礼拝する場所、それが幕屋であったのです。

 神がイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出し、すぐに約束のカナンへと導かれなかった理由は、彼らが荒れ野の何もない場所でただ主なる神だけに頼り、主なる神からすべてを期待して、ただひたすらに神を礼拝する民として生きる訓練のためだったのです。申命記8章3節で神が言われたように、「人はパンだけで生きる者ではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」のです。

 モーセは荒れ野の旅の終わりに約束の地を踏まずして死にましたが、ヨシュアが証しの幕屋を引き継ぎ、約束の地カナンに入ってからもイスラエルの民は証しの幕屋を礼拝の場とし、そこで生ける神と出会い、神のみ言葉を聞き、祈りの場として、士師の時代からイスラエルの最初の王サウルと次のダビデ王の時代に至るまで、幕屋はイスラエルの民の礼拝の場でした。

 ダビデ王の終わりの時代になって、神のためにもっと立派な宮、神殿を建てようとする機運が出てきました。そのことについて、ステファノは46節以下で次のように語っています。【46~50節】ここには、神の家である神殿を建設することの是非について、つまり、神殿建設は神の本来のみ心なのか、それとも神殿は永遠で普遍な存在である神をその中に閉じ込めておこうとして人間が勝手に造ったものなのかという、旧約聖書の中にある難しい神学的な問題があるように思われます。

サムエル記や列王記には、神殿を建設することが神のみ心であるのかどうかという議論が当初からあったことをうかがわせる記述がいくつかあり、49~50節でステファノが引用しているイザヤ書66章でも、神は人間の手で造った神殿の中に住まうことはないと言われているように読めます。神は確かに、神殿という建物の中に縛り付けられることはありませんし、エルサレムという一か所だけにとどまっておられる神でもありません。そのことは、エジプトを脱出したモーセ時代から荒れ野の40年間、そしてカナンに入ってからダビデ王の時代に至るまでの300年あまりの間、イスラエルは移動式の幕屋で礼拝をしていたという過去の事実に照らしても明らかであると、ステファノは語っているのです。

 そのことを、旧約聖書の中から確認してみたいと思います。サムエル記上7章を読んでみましょう。【7章1~7節】(490ページ)。神はここで明らかに、荒れ野の時代からの移動式の礼拝所であった幕屋に言及しつつ、「人間が造った

家は、それがどんなに立派な家であれ、わたしはその中には住まない。だから、神殿を建てるには及ばない」、とダビデ王に言っておられると理解されます。

 もう一カ所は、列王記上8章27節以下です。この個所は、神殿が完成して、それを神にささげる奉献式の時のソロモンの祈りです。【27~30節】(542ページ)。ソロモンは自分が造った神殿の中に、永遠で普遍の存在である神がお住まいになることはないと告白しつつも、この神殿でささげるイスラエルの民の祈りを神がお聞きくださるようにと、そしてイスラエルの罪をおゆるしくださるようにと必死に祈り求めています。ここにも、エルサレム神殿建設に対する否定的な考えが反映されているように思われます。

 これらの聖書の記述から、神殿建築が果たして神のみ心にかなっていたのか、それがイスラエルの信仰にとって有益なのかどうかという議論、葛藤が当初からあったということは確かだと言えます。しかし、神は最終的にはソロモンの神殿建築を容認され、その神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をイスラエルの民のために備えられたのでした。イスラエルの民はエルサレム神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をとおして、信仰の民として生き続けたのでした。そのようにして、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来を待ち望んだのです。

 では、エルサレム神殿とそこで行われていた礼拝は何を目指していたのでしょうか。わたしたちはそれを主イエスご自身がなされたみわざによって知ることができます。主イエスが受難週の最初の日、棕櫚の日曜日にエルサレムに入場された時、神殿の境内に入って、そこで神にささげる動物の売り買いをしていた商売人をみな追い出され、神殿でささげる貨幣に両替する両替人の台を倒されたことが福音書に書かれています。また、主イエスは「人間の手で造った神殿を打ち倒し、三日目には人間の手によらない新しい神殿を建てる」と言われました(マタイ福音書26章61節参照)。

 これは何を意味しているでしょうか。主イエスは当時の神殿での礼拝が商売人のお金もうけのために利用されたり、礼拝そのものが偽善的になり、神に対する真実の服従と献身を伴わない形式的な礼拝になっているという現実を批判されただけではありませんでした。主イエスはエルサレム神殿での礼拝そのものを、またエルサレム神殿そのものの役割を終わらせたのです。神の救いの恵みをエルサレム神殿だけに集中させ、その中に閉じ込めてしまっていた彼らの信仰を終わらせ、また動物を犠牲としてささげ、動物の血による贖いによって罪のゆるしを与えられるという神殿での礼拝を終わらせたのです。

 主イエスはご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架でおささげくださることによって、その血の贖いによって、すべての人の罪を永遠におゆるしくださったのです。もはや、繰り返して動物の血を犠牲としてささげる必要はありません。また、主イエスは世界の至る所に、ご自身の体である教会をお建てくださり、すべての人を教会へとお招きくださいます。主イエスは教会の礼拝をとおして、み言葉と聖霊とによってすべての人に、すべてのところで出会ってくださり、救いの恵みをお与えくださいます。

 ステファノの説教はエルサレム神殿とその神殿での神礼拝が主イエス・キリストによってその最終目的に達した、神が計画しておられた救いが成就したということを語っています。そうであるのに、すでにその役目を終えたエルサレム神殿にしがみつき、古い律法に縛られているユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさを明らかにしているのです。

 律法について、ステファノは51節以下でこう語ります。【51~53節】。イスラエルは神から律法を与えられ、その律法に心から喜んで聞き従うことによって神との契約関係に生きる民とされたのでしたが、彼らはかたくなで不従順であり、神が遣わした預言者たちを迫害したと、ステファノは彼らの罪を告発します。それだけでなく、神がすべての預言の成就としてこの時にイスラエルに派遣されたメシア・救い主であられる主イエスを殺すという大きな罪を犯しているではないかと、厳しく彼らを告発します。

 52節の「正しい方」とは、神の律法を完全に成就された義なる方、主イエス・キリストのことです。主イエスこそが旧約聖書のすべての預言者たちが証しし、待ち望んだ神の律法の成就者、完成者であられます。その主イエスを十字架につけて殺したあなたがたユダヤ人指導者たちこそが律法の違反者なのではないかと、ステファノは言うのです。

 主イエス・キリストの十字架の福音の証人としてユダヤ最高議会の法廷に立つステファノが語った説教は、その後の2千年間のキリスト教会が語るべき福音の原型であり、基本であると言えます。教会での真実の神礼拝をとおして、わたしたちは生ける神と出会い、神の命のみ言葉を聞き、終わりの日の完成を目指しながら、この世での荒れ野の旅を続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人の人生の歩みに常に伴ってくださり、すべての必要な物を備えて、わたしたちの道をお導きくださいます。どのような試練や苦難の時にも、ただあなたにより頼みながら、心安んじてあなたの服従する道を進ませてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月28日説教「逃亡するヤコブを導かれる神」

2022年8月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記28章10~22節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「逃亡するヤコブを導かれる神」

 きょうの礼拝で朗読された創世記28章13節以下にこのように書かれています。【13~15節】。この神の約束のみ言葉は最初アブラハムに語られ、次にその子イサク語られ、そして今イサクの子ヤコブにも語られます。アブラハム契約はその子イサクへ、またその子ヤコブへと受け継がれます。アブラハムを選び、彼と契約を結ばれた主なる神は、イサクの神となられ、そして今ヤコブの神となられました。13節で神が言われたとおりです。

神が最初にアブラハムと結ばれた契約はこうです。「わたしはこの地カナンを永遠にあなたとあなたの子孫とに受け継がせる。わたしはあなたの子孫を夜空の星の数、海辺の砂の数ほどに増やす。そして、わたしはあなたを万民の祝福の基とし、あなたの子らにわたしの祝福を受け継がせる。」創世記12章から始まったいわゆる族長物語の中で、わたしたちは何度このみ言葉を聞いてきたことでしょうか。そして今一度、このアブラハム契約がヤコブにも語られます。

では、ヤコブがどのような状況の中にいる時に、どのようなヤコブに対して語られているのかを確認しておきましょう。前の28章で、わたしたちは一つの家庭内で演じられたある出来事について聞きました。ある説教者はこれを「聖なる悲劇」と名づけました。登場人物は神に選ばれた民イスラエルの父祖である族長イサクの4人の家族。年老いて目がかすんできた父イサク、妻のリベカ、そして双子の兄弟。兄のエサウは野の獣を獲る活発ではあるが少し思慮が浅く、父イサクに愛され、弟ヤコブは物静かであるがずる賢さを持ち、母リベカに愛されていました。そのような両親の偏った愛、偏愛と、二人の子どものあまりにも違った性格が、この家庭に一つの悲劇をもたらしました。母リベカが考え出した策略に弟息子ヤコブが同意し、二人で夫であり父である、年老いて目がかすんできたイサクを欺き、本来長男であるエサウが受け継ぐべき長子の特権と祝福とを彼から奪い取ったのでした。この悲劇によって、家庭は分裂し、だまされたと知った兄エサウは弟ヤコブを憎み、その命をねらおうとしたために、母は愛する息子ヤコブを遠いハランの地にいる兄ラバンのところに逃げるように勧めました。

10節に、「ヤコブはベエル・シュバを立ってハランへ向かった」とあるのは、そのような「聖なる悲劇」の結果なのです。神に選ばれた族長イサクの家族は引き裂かれてしまいました。神の契約を受け継ぐべき選ばれた「聖なる家族」はこの「聖なる悲劇」にもかかわらず、なおも「聖なる家族」であり続けることができるのでしょうか。アブラハム契約がその子イサクに受け継がれてきましたが、イサクのあとアブラハム契約はどうなるのでしょうか。「聖なる家族」の分裂によって、アブラハム契約もここで中断されてしまうのでしょうか。

わたしたちはそのような疑問と危機感を持ちながらこの個所を読むのですが、否それ以上に、ヤコブ自身の不安や恐れ、危機感はどれほどのものであったでしょうか。命の危険を覚えながら、一人家を出て、見知らぬ異国へと旅立たなければならなくなったヤコブは、孤独と不安の中で夜を迎えたのでした。

【11~12節】。この個所は「ヤコブの夢」とか「ヤコブのはしご」と言われます。聖書では、「夢」、「天にまで達する階段」、「神の御使い」、これらはいずれも天におられる神が地に住む人間にご自身を啓示される手段として、神が人間と交わる具体的な方法として用いられます。ここではその三つが同時に描かれていて、非常に印象深く、また鮮明に読者の目に訴えてきます。天におられる神がこれほどまでに多くの手段をお用いになって、地に住む人間たちと交わりを持ってくださるのであり、人間たちに語りかけ、人間たちの歩みに伴っていてくださるのです。それを実際に経験しているヤコブにとってはなおさらにそのことが強く感じられたであろうと、推測できます。一人家を出て、家族から離れ、不安と孤独の中で暗い夜を迎えたヤコブ、しかし彼は決して一人ではありません。主なる神が彼と共におられ、彼の逃亡の道に伴ってくださることを知らされたのです。

そのような状況の中で、主なる神はヤコブに現れ、彼の傍らに立たれ、そして彼にみ言葉をお語りになります。それが13節以下のアブラハム契約の更新です。アブラハム契約がイサクからその子ヤコブへと受け継がれたことになります。しかし、これは当時の習慣からすれば正常なことではありません。ヤコブの家に生まれた長男はエサウですから、本来ならばエサウが長男の特権を持っており、父の財産と神の祝福とを受け継ぐべきでした。28章では、母リベカと次男ヤコブとが結託して、父と長男とをだまし、長男の権利を奪い取ったのだとしても、それは人間社会の中でのことであり、しかも不正を働いた結果であるのですから、神がそれをよしとされるはずはありません。

ところが、今ここで神はイサクの家庭の中での聖なる悲劇として演じられた人間の不正と欺きの行為をそのまま承認されたのです。27章27節以下で、年老いて目がかすんで長男のエサウと弟のヤコブとを取り違え、兄に与えるべき祝福を弟ヤコブに与えてしまった父イサクが語った祝福の言葉を、今ここで神ご自身がいわばそれを批准され、承認され、神ご自身の約束のみ言葉としてお語りになったということです。

これは、何ということでしょうか。神は母リベカと弟ヤコブの不正と欺きの行為をよしとして承認なさるのでしょうか。神の祝福がこのような人間による不正と欺きによって受け継がれ、継続されていくことをよしとされるのでしょうか。わたしたちはそのような疑念を抱かざるを得ないのではないでしょうか。

しかしながら、わたしたちはさらにさかのぼって、神のみ心がどこにあったのかを探ってみなければなりません。リベカの胎内に双子が宿った時の神のみ言葉を思い起こしましょう。【25章23節】(39ページ)。この時点で、すでに神の永遠のご計画が語られていたということをわたしたちは思い起こします。ヤコブが進むべき道は彼が母の胎内にいた時からすでに神よって決められていたのだということをわたしたちは思い起こします。そして、イサクの家の「聖なる悲劇」をとおして、彼らの夫婦の愛、親子の愛、兄弟の愛がみな破れ、人間の邪悪と不信実によって家族が分断されていくという人間たちの罪の現実の中で、しかし不思議にも、神はそれらすべての人間たちの罪のただ中で、ご自身の当初のご計画、永遠の救いのご計画を実行なさったのです。

13節に、「わたしは、あなたの父祖アブラハム、イサクの神であり、主である」という神ご自身の宣言が語られていますが、今ここで神はヤコブの神となられたのです。アブラハムを選ばれ、その子イサクを選ばれ、今またその子ヤコブを、長男エサウではなく次男ヤコブを選ばれた神は、アブラハムと結ばれた契約を、不思議な道のりを経て、今ヤコブへと継続されたのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現がこれからのちイスラエルの歴史の中で何度も繰り返して用いられます。それはまた新約聖書で主イエスご自身に受け継がれているということをわたしたちは知っています。

マタイによる福音書22章31節以下で、主イエスはこの表現の中に神の永遠の命の約束があり、復活の命の約束があることを教えておられます。【22章31~32節】(44ページ)。神の選びと契約は一人の信仰者の生涯を超えて永遠に続きます。神の祝福と救いの恵みもまた一人の信仰者の生涯を超えて永遠に続きます。主イエスはそこに神の復活と永遠の命の約束があることを見ているのです。そして、実際に主イエスは十字架で死んで、三日目に復活され、罪と死とに勝利され、永遠の命をわたしたち信仰者のために勝ち取ってくださいました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は主イエスの父なる神であられ、主イエスの十字架と復活によって、わたしたちに永遠の命をお与えくださる「わたしたちの神」となられたのです。

さて、「アブラハムの神、イサクの神」が、今この時から、故郷の家から逃亡しなければならなくなったヤコブの神となられたということは、ひとたび死んでいたヤコブに新しい復活の命が与えられたと言ってもよいのではないでしょうか。父イサクの家で繰り広げられた「聖なる悲劇」の中で、夫婦の愛や兄弟の愛が破れ、傷つき、人間の欺きや不正、罪がその家全体を破壊し、死に支配されたかのようになっていた時に、神は今一度ヤコブを恵みをもって選ばれ、彼と契約を更新してくださったのです。「アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神」となってくださったのです。

神は故郷の家から逃亡するヤコブと常に共にいてくださり、ヤコブのすべての道を守り、再びこの約束の地へと連れ帰ると約束されます。なぜならば、15節の終わりに書かれているように、「あなたに約束したことを果たすまでは決してあなたを見捨てない」と神が決意されたからです。神の選びと神の契約の確かさのゆえに、そしてまた、ヤコブが神の契約を担う人として選ばれているゆえに、その約束が成就されるまでは神は決してヤコブを見捨てることがないと言われているのです。神の約束を担うために選ばれた信仰者は、神がその約束を成就さるまでは決して見捨てられることはなく、神ご自身がその成就へと導いてくださるのです。

【16~19節】。眠りから覚めたヤコブは、そこに神がおられることを悟りました。神が自分の逃亡の道のすべてに伴ってくださることを知らされました。彼は大きな恐れに襲われました。その場所が大きな恐れに包まれました。神がいます所、神が人間と出会われる所、そこには大きな恐れが生じます。ヤコブは父を恐れず、父を欺いてきました。また神をも恐れない傲慢な者でしたが、この試練をとおして、今神をこそ恐れるべきであることを学んだのです。

「ベテル」という地名は、ヘブライ語の「ベト」(家の意味)と「エル」(神の意味)の合成語で、「神の家」という意味になります。ベテルはエルサレムの北方約20キロメートルにあります。創世記12章8節によれば、アブラハムがカナンの地に着いた当初、ベテルに祭壇を築いて神を礼拝したと書かれています。ベテルはそれ以後、イスラエルの民にとっての重要な礼拝場所になりました。

わたしたちにとっての神の家は、言うまでもなく教会です。教会で主の日ごとに礼拝をささげ、生ける神との出会いを経験し、主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、この神の家からこの世への旅路へと派遣されます。「神の国が完成される終わりの日まで、わたしはあなたがたと共にいる」と言われる主イエスの約束のみ言葉を信じながら。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人の地上の歩みに常に伴ってくださいます。わたしたちが孤独と不安に襲われる時にも、わたしたちの試練の時にも、わたしたちが病んでいる時にも、そしてわたしたちが年老いて地上の歩みを終えようとする時にも、あなたはわたしたち一人一人と共にいてくださり、わたしたちの道を導いてくださいます。そのことを信じて、あなたを恐れつつ、また喜びつつ、希望を抱いて信仰の歩みを全うさせてください。

○主なる神よ、あなたの義と平和をこの地にお与えください。争いや殺戮、貧困と不平等をこの地から取り去り、救いの恵みと喜ばしい共存とをこの地にお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月21日説教「神は契約を実行される」

2022年8月21日  

マラキ書3章1−5節「神は契約を実行される」    神学生 熱田洋子

 マラキ書は旧約聖書の一番最後にあリます。まだ預言の時代です。次のページは新約聖書、イエス・キリストが登場し、預言が成就する時代が始まります。

 マラキは、聖書のこの位置にあることから最後の預言者と言われます。イスラエルの歴史上、大きな出来事であったバビロン捕囚から帰国し、復興の困難の中にあったイスラエルの人々に対して、マラキは待ち望んでいる救い主を指し示します。

  バビロン捕囚にふれると、紀元前587年、バビロニアによってエルサレムが占領されてユダ王国が滅亡し、イスラエルの多くの人々が捕らえられてバビロニアに連れていかれました。バビロン捕囚となった人々は、50年後の538年にバビロニアを滅ぼしたペルシアのキュロス王の勅令により、また520年、ダレイオス一世のもとで大部分の人々がイスラエルに帰ってくることができました。しかし、イスラエルの神を信じる人々にとって、信仰を支えるエルサレムの神殿は壊されたままで礼拝を守れるような状態ではありません。これを憂慮して、預言者ハガイとゼカリヤが人々を励まして神殿再建をさせます。しかし515年に神殿が完成しても約束されていた救いの時はまだ来ていません。イスラエルは、異教徒の支配のもとにあって、国の再建を目指していても政治的に宗教的にもまだ混乱が続きます。その中で、人々の神に向かう態度も分かれます。信仰に熱心で救いの日への希望を持ち続けて礼拝と律法を守る人々がいる一方で、神に疑いを持ち先祖以来の信仰に背を向ける人たちがおり、また、信仰に無関心で全く世俗的に生きる人たちもいたのです。

 マラキは、混乱する状況の中にあっても、神の言葉に忠実に耳を傾けます。イスラエルの栄光の日々、救いの歴史の中に神が働いておられたように、救い主が来られてイスラエルが再建されるのを待ち続け、この試練の日々にも神は共にいてくださると信じています。神は真実な方であり、神を信じるイスラエルの民に対する計り知れない神の愛は変わりないことを確信しています。そして人間の営みのただ中で、人間の理性では知ることはできなくても、神は救いのご計画を実現されることを語ります。マラキ書には信仰深い告知や警告の言葉が記されています。それは新約聖書のイエス・キリストが来られる道備えになっていき、さらに、新約聖書の時代を生きるわたしたちにまで続いています。マラキの預言は今のわたしたちを超えて終末の時に最終的に成就するのです。イエス・キリストは十字架で死んで、復活し、また来ると約束して天に昇っていかれました。イエス・キリストが再びおいでになる終末の時、その救いの完成する日をわたしたちは待ち望んでいます。その時わたしたちが主の御前に立つ者となれるようその備えがここに用意されています。順に見ていきたいと思います。

3章1節に、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」と書かれています。この「使者」とは誰でしょうか。ここには名前も由来も書かれていません。預言者マラキ、という説や3章22節で「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と書かれているので、エリヤのことだという説もあります。

エリヤについて、新約聖書を見ると、マタイ福音書11章14節で、主イエスは、洗礼者ヨハネが、使者として現れるはずのエリヤのことだと言っておられます。ヨハネは人々に悔い改めを促し、イエス・キリストを証ししたのですから、ここでは洗礼者ヨハネを使者とすることがふさわしいように思います。

 エリヤは紀元前9世紀に偶像礼拝をする異教バアルの預言者と闘ってイスラエルの信仰を守った預言者であって、洗礼者ヨハネも不信仰な民を悔い改めへと導き、来るべき救い主への道備えをしました。

 使者の役割は、エリヤ、そして洗礼者ヨハネの働きから考えると、救いにもれる人がないように救いへの道をきれいに整え、道筋をまっすぐにするということです。

 そして、3章1節の後半は「あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ 彼が来る」と続きます。

 突如というのは即刻差し迫っていることを伝えています。

「見よ 彼が来る」の「見よ」という言い方は、主が必ず来られること、救いの確かさを表しています。マラキは、イスラエルと人々の信仰が混乱のままであっても、必ず主が来られることを信じて疑うことなく預言するのです。

ここに「契約の使者」とあります。契約は、旧約聖書の中で、アブラハム契約から始まり、シナイ契約、ダビデ契約などがあげられます。いずれも神とイスラエルとの契約で、「契約の使者」はこれらの契約のすべてを成就する使者と考えられます。

また、神は突然神殿に現れる、というのですから、次のことは偶然ではないのです。

 まず、新約聖書の福音書において、「使者」として洗礼者ヨハネが現れたこと、そしてイエス・キリストが突然その民のところに「主」としてこの地上に来られたことが記されています。福音書は、そこにマラキ書の言葉が実現したと見ています(マタイ11:10,マルコ1:2,ルカ1:76,7:27)。

それに続いて、わたしたちは、天に昇られた主イエスがまたおいでになる時に備えているのですから、主が突然来られることを心に留めておくことが大事です。

 主イエスは弟子たちに、常に、主が来られる時を前にして、「目を覚ましていなさい、あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と注意し、備えるように戒めておられます(マルコ13:37,マタイ25:1-13)。また、パウロは、教会が「キリストの日」に備えて、信仰によって清く汚れなくあるように気遣っていた(フィリピ1:6,10,Ⅰコリント1:8)こともそのためです。

2節に入り、「だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。」と問われます。1節で出てきた「契約の使者」が、その契約をすべて成就されるために来られます。そのとき彼はさばきをもって臨まれます。

さばきをくぐり抜けなければ救いは成就しないのです。

2節から3節にかけて

「彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。」

「彼は精錬する者、銀を清める者として」座す、というのは、さばきの神は、さばきを行う権威をもって、その座につき、金滓を溶かし出す火の如く、また全ての汚れを取り去る灰汁のように徹底的に罪を清められます。偽りの神礼拝や偽りの信仰の根本にある罪の思いや悪をさばきます。

厳しいさばきに、苦痛のほかはないのです。その日に耐えることができる者、踏みとどまることができる者はいるだろうかと問われるほどです。しかも、そのさばきは誰も避けて通れないのです。

 その時、神ご自身がその民を救おうとされるのでなければ、神のみ前に誰ひとり「わたしはここにいます」と立つことのできる者はいないということです。

 神のみ前に立つためには、まず、私たちの罪が徹底的に清められなければなりません。なぜなら、ほんとうの救いは、真実のさばきを通してやってくるからです。マラキはそのことを待望して預言しています。新約聖書の時代に生きるわたしたちは、イエス・キリストが、ご自身は罪のない方であったのに、十字架に死んで、わたしたち罪ある者たちを罪から救ってくださった、そのことによって救いが成就されたのを知っています。まさに救いはさばきを通して実現されるということを覚えておきたいと思います。

次に3節には、「レビの子らを清め」と書かれていて、レビの子らに対するさばきが示されます。

 当時の礼拝の状況は、十分の一のささげ物を偽っていたこと、また、レビの子らの祭司は、汚れたパンや、傷ついた動物をささげていたことがマラキ書に書かれています。人々が神を畏れないで神を欺いていたことに留まらず、レビの子らの背きの罪がここで取り上げられています。さばきは、神礼拝に携わる者から始められます。救いは礼拝から始まるからです。礼拝において、神を畏れず、神の名を汚していたレビの子らこそが神のさばきを受けて清められなければならない、とマラキは警告します。

 なぜなら真実の神礼拝の中から本当の信仰が始まり養われていくからです。レビの子らは神と民との仲介者として、民の偽りの礼拝を回復して真実の礼拝へと導く務めについています。このように民を指導するのがレビの子らの祭司です。レビの子らがまず神のさばきを受けて罪を清められ、真の救いへの道を民に示すことができるようにするのです。それは人々が終末の時にさばきの神のみ前に耐えられる者となるためです。

このことは、イエス・キリストにより本当の神礼拝が示されて明らかになります。

3節の終わりに、「彼らが主に献げ物を 正しくささげる者となるためである。」とあり、礼拝を本当の礼拝へと改める目的、目指すところが書かれています。

それは、「正しくささげる者となるため」です。「正しくささげる者」という言葉は、ヘブライ語で読むと「義をもってささげる人」となります。この当時の礼拝の様子から、信仰を伴わない偽りの礼拝があったのです。神は礼拝においてささげる者の信仰を通して、神にまったく聞き従う者であるかどうかをご覧になります。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ。あなたは侮られません。」(詩編51:19)とのみ言葉が心に迫ってきます。

神が喜ばれるのは、わたしたちがさばきを通して清められ、義をもって、神との正しい関係を保ちつつ正しい礼拝をささげることです。そこから神は救いへと導かれます。

それでは、わたしたちにとって、義をもってささげる礼拝、義をささげる礼拝、とはどのようなことでしょうか。

それは、み言葉への完全な服従、神へ徹底して自分をささげるということです。フィリピの信徒への手紙2章6節から11節のキリストの姿に表されています。「キリストは、神の身分でありながら、・・・かえって自分を無にして、・・・

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。・・・」

義という言葉は、神と人との正しい関係のことです。父である神に、御子イエスは罪のない方であったのに十字架の死まで、全く服従されたのです。このことが義をもってささげるということを最もよく教えてくれます。

また、礼拝における神への完全なささげ物はイエスキリストにおいて完成されています。

イエス・キリストは神のみ心を行ってご自身をいけにえとして献げて人間の罪を取り去ってくださった、それは律法に従って献げられていた礼拝のいけにえやささげ物を廃止したことです。

ヨハネ福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このみ言葉を忘れてはならないのです。

そして、わたしたちは、イエス・キリストの十字架によって贖われ罪の赦しを得ているのですから、「霊と真理とをもって礼拝する者」となるように招かれています。

わたしたちも、神を畏れ敬い、清められた者として、イエスキリストの十字架と復活を信じる信仰をもって、神に喜ばれる礼拝とささげ物をささげることです。それが、4節の終わりにあるように、マラキが約束していた「主にとって好ましい礼拝」となるでしょう。

5節では「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき 直ちに告発する。」と言われます。

さばきの目指すところが示されます。神は、人を罪に定めて滅ぼすことだけを目的としてはいません。罪ある者をさばき、徹底的に清められる方は、神の正義により、罪人が悔い改め、神に好ましい者に作り変えられることを期待してさばきをされるのです。

「裁きのために」とは神のこのような思いが込められています。

レビの子らの祭司と神に不平を言う人々は、神は来られるという約束を実現しないと非難しました。今度は、預言者が神の立場に立って彼らの不義を並べます。ここには具体的に書かれています。これらの行いや態度のほとんどは、契約や十戒・律法に対する罪です。「呪術を行う者」「姦淫する者」「偽って誓う者」など、神の御心をあなどる罪を犯す者たちが示されます。

貧しい人、やもめ、みなしご、外国人などは、不信仰な思いで神を求める人たちに踏みつけられ、だまし取られてきた人たちです。神は虐げられている人たちを保護し愛する一人ひとりのために正義を行われます。そのような悪を行なった者たちに対して、神は近づいて来て直ちにさばきを行われます。虐げられた人々に代わって不正を訴える証人や裁判官となり、また刑罰を下すことをされるのです。

ここでさばかれるのは、主を畏れぬ者たちです。

神を畏れるという言葉は、旧約聖書の中心的な信仰を言い表しています。み言葉に「・・彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、」(申命記5:29)とあり、また、「主を畏れ、心を尽くして、まことをもって主に仕えなさい」(サムエル記上12:24)とあるように、神の命令に従順に従うようになるために「神を畏れる」ことは欠かせないものです。また、神を畏れることは、すべての人を敬い、きょうだいを愛することにつながっていきます。ここから神と隣人に仕える者に変えられていくのです。

いま、わたしたちは、マラキによって預言され、イエス・キリストの十字架の福音によって成就された救いの道へと招かれ、さらに歩みを進めていきます。

終末の時には、再び「契約の使者」が地上に来られ、最終的に神と全人類との間に立てられた全ての契約が完成されます。このことを信じて待つわたしたちです。その時に至るまで、真実の礼拝を守り続けつつ来たりたもう主を待ち望む者でありたいと思います。

お祈り

天の父なる神さま。イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰をもって生きるわたしたちが、救いの完成される日、主のみ前に清い者として立つことができますように。その備えとして、わたしたちがささげる礼拝が神さまに喜ばれるものでありますように、聖霊が導いてください。

神さま。今も戦禍にあって、またいたるところで虐げられて嘆き苦しむ人々の命と平安を守ってください。信仰をもって祈るわたしたちが平和をつくる人になれますように。わたしたちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

8月14日説教「神の言葉によって結ばれた家族」

2022年8月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章4~9節

    ルカによる福音書8章19~21節

説教題:「神の言葉によって結ばれた家族」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書8章19節のみ言葉から、主イエスが家族を持っておられたということを、わたしたちは改めて知らされます。

【19~20節】。主イエスは神のみ子、神の独り子ですが、いわば天から舞い降りてきた天使のように忽然とこの世に現れたのではありません。主イエスは地上で肉にある家族を持っておられました。母マリアと父ヨセフの長男としてこの世に誕生され、何人かの弟たち妹たちと一緒に、一つの家庭の中でお育ちになりました。マタイ福音書13章には、父の職業が大工であり、男兄弟にはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダがおり、妹たちもいたと書かれています。父ヨセフは主イエスが成人するころにはこの世を去っていたらしく、主イエスは父の職業を受け継ぎ、大工の仕事をして母マリアとその家族を支えていたと推測されています。

 このように、主イエスはわたしたちのだれもがそうであるように、家族を持ち、家族の一人として生きられました。職業を持ち、それによって家族を支えて生活されました。ヘブライ人への手紙が繰り返して書いているように、主イエスはわたしたち人間と同じお姿でこの世に来られ、罪をほかにしては、すべての点でわたしたち人間と同じになられ(ヘブライ人への手紙4章15節参照)ました。そのようにして、主イエスはわたしたち人間の中に入って来られ、わたしたちの家庭の中へ、わたしたちの職場の中へ、わたしたちの人生の中へと入って来られ、わたしたちと共に歩まれるメシア・救い主として、いわばわたしたちの罪のただ中へと入って来られ、罪の中にいたわたしたち一人一人を罪から救い出される救い主としてお働きになられたのです。

 ところで、ローマ・カトリック教会はマリアを崇拝する誤った信仰によって、マリアが永遠に処女であったという根拠のない説をとなえ、きょうの個所や他の福音書にも書かれている「兄弟たち」とはマリアが産んだ子ではなく、マリアの親戚の子であると説明しています。しかし、それは聖書には何の根拠もない作り話であるだけでなく、マリアを崇拝するあまり、主イエスがわたしたち人間と同じお姿でこの世においでになり、わたしたち一人一人と歩みを共にされた救い主であるという事実を薄めてしまい、主イエスの救いそのものの恵みの豊かさを小さくしていると言わなければなりません。わたしたちプロテスタント教会はマリア崇拝とそれにかかわる諸説に対しては反対しています。

 では、主イエスはそのような家族とのつながりの中で、どのように生きられたのでしょうか。また、わたしたちが今持っている家族とのつながりの中で、どのように生きるべきなのでしょうか。きょう与えられたみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 ルカ福音書のこの個所は、並行個所であるマタイ、マルコ福音書に比べると、半分ないしは3分の2ほどに短くなっています。マタイ福音書12章46~50節、マルコ福音書3章31~35節の方では状況がもう少し詳しく書かれていますので、それらを参考にして読んでいきましょう。

 19節で「母と兄弟たち」とあり、父ヨセフが出てきませんので、すでに世を去っていたと思われます。彼らが何のために主イエスに会いに来たのか、その理由は容易に推測できます。一家の大黒柱として働いてきた長男が、ある時に家を出て、宗教活動にのめりこみ、家に帰らなくなったとすれば、心配して家に連れ帰ろうとするのがこの世の親であり、家族でしょう。マリアと兄弟たちも同じような考えで主イエスを探しに来たのであろうと思われます。マルコ福音書3章21節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と書かれています。

母マリアをはじめ兄弟たちはこの時にはまだ主イエスが神から遣わされたメシア・救い主であるということに気づいてはおらず、信じてもいませんでしたので、この世の家族が考えるのと同じように主イエスを見ていたのでした。わたしたちがのちに知らされるように、母マリアや兄弟たちが主イエスを救い主と信じたのは、主イエスの十字架と復活のあとであったということが、使徒言行録や使徒パウロの書簡に書かれています。主イエスの兄弟ヤコブは初代エルサレム教会の中心人物として仕えたことが知られています。

 さて、母マリアと兄弟たちが主イエスを探しに来た時、主イエスは群衆に囲まれ、神の国の福音の説教をしておられました。19節後半に「群衆のために近づくことができなかった」と書かれていますが、彼らが主イエスの説教を聞くために近づこうとしていたのではなかったということは、次の20節からも明らかです。マタイとマルコ福音書では、最初から彼らは群衆の外に立って、人をやって主イエスを呼ばせたとはっきりと書いてありますので、彼らに主イエスの説教を聞く意志が全くなかったということがここからもはっきりします。主イエスの家族は主イエスから最も離れた位置に立っています。彼らはファリサイ派や律法学者のように主イエスと論争するために近づいて来るのではありませんが、徴税人や、病める人、罪びととして非難されている人々のように救いを求めて主イエスに近づくのでもありません。群衆のように主イエスを取り囲んで主イエスの説教を聞くのでもありません。群衆の外に立って、しかも自分たちは主イエスの家族であり、最も近い関係にあると思い込んでいます。そうであるゆえに、自分たちには主イエスの説教を中断させる権利があるとさえ考えているのです。

 しかし、実は彼らが主イエスに最も近い関係にあると思っていた家族の関係、肉にある関係こそが、彼らを主イエスから、主イエスのみ言葉の説教を聞くことから遠ざけていたということをわたしたちは知らされます。人間の肉にある関係の近さが、かえってわたしたちを主イエスの福音から遠ざけることになるということを、主イエスご自身が最もよく知っておられました。

それゆえに、主イエスはマタイ福音書10章34節以下で、大胆にもこのように言われたのです。【34~39節】(19ページ)。また、19章29節ではこう言われました。【29節】(38ページ)。主イエスは神の国の福音の妨げになる家族という肉にある関係をひとたび断ち切るためにこの世においでになられました。わたしたち人間がその中でぬくぬくと安住している偽りの平和を打ち砕くために、鋭い剣を地上に投げ込まれました。わたしたちが神の国を受け継ぎ、永遠の生命を与えられるために、家族という肉の関係を、財産というこの世の朽ちるものをひとたび捨てるようにとお命じになるのです。

それは、何と厳しいお言葉でしょうか。古くから家族という血や肉によるつながりを大切にしてきたわたしたち日本人にとって、それは非常に衝撃的で、また攻撃的な言葉でもあります。明治の初期に、プロテスタント信仰が初めて日本に入ってきたころ、多くの日本人が聖書のこのみ言葉を聞いて、キリスト教は家庭を破壊する邪教であると誤解したと伝えられていますが、同じような誤解は今でも起こり得ます。

 けれども、よく考えてみれば、それはある意味では誤解ではなく、真理を含んでいるのではないでしょうか。ただ、誤解だと言えるのは、キリスト教が家族関係を破壊することだけを目的としていると考えた点については誤解だと言わなければなりませんが、主イエスが最終的に目指しておられたのは、わたしたちの肉にある関係を破壊することによって、永遠の幸いに満ちた霊による関係を築くためなのであり、偽りの平和を打ち砕くのは、真の、永遠の平和をわたしたちの間に築くためなのであるという真理を、わたしたちはそこに見いだすことができるからです。

 きょうのみ言葉の最後、21節を読みましょう。【21節】。ここに、新しい家族関係があります。神のみ言葉を共に聞き、それに聞き従い、共に神のみ言葉に生きることによって結ばれた新しい家族があります。神の家族、主イエス・キリストによる、神のみ言葉と神の霊によって固く結ばれた新しい家族がここに築かれます。そしてここにこそ、救われた者たちの本当の喜びと平安と感謝に満たされた、共に生きる交わりの生活があります。

 肉にある家族という関係には本当の救いはありません。むしろ、それは主イエス・キリストの福音による救いを妨げます。わたしたちはその肉にある家族という関係から解放されなければなりません。否、主イエス・キリストの福音がわたしたちをすべての肉の関係から自由にするのです。そして、神のみ言葉を聞くことによって一つの群れに結びつけられ、主イエスの福音によって共に生きる新しい人間関係を可能にするのです。

 主イエスは十字架におつきになり、ご自身の肉の死によって人間のすべての肉なるものの関係とその力とを滅ぼされました。そして、復活して、すべての肉なるものの支配と力とに勝利されました。この主イエスの十字架の福音を信じ、主イエスの勝利にあずかる者にとっては、肉はもはや力を持ちません。霊による関係が肉による関係に勝利しているからです。

 そして、それまでは肉にあって対立していた者たちが、霊によって兄弟姉妹とされ、神の家族とされているのです。肉にあっては破れ、傷ついていた者たちは、再び破られることのない霊の関係によって一つの群れとされるのです。わたしたちが主の日の礼拝で神のみ言葉を共に聞くことは、そのような新しい霊による関係、神の家族としての関係の基礎であり。出発点なのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、なたが主イエス・キリストの十字架と復活によって築いてくださったわたしたちの霊の関係を、いよいよ固くし、強くしてください。さまざまに分裂しているこの世界にあって、あなたが一つの霊によって真実の和解と一致とを与えてください。全世界のすべての国民を、霊によって結ばれた一つの神の家族としてください。

○天の神よ、病んでいる人をいやしてください。弱っている人を励ましてください。苦しんでいる人の重荷を取り去ってください。暗闇で迷っている人をまことの光で照らしてください。そして、罪の中にあるすべての人を罪から救ってください。

○日本とアジアと全世界に、まことの平和を与えてください。わたしたち一人一人を平和を造り出す人たちとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月7日説教「平和を告げ知らせる使者」

2022年8月7日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和記念礼拝)

聖 書:イザヤ書52章7~10節          (駒井利則牧師)

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

 8月6日は広島原爆記念日、8月9日は長崎原爆記念日、8月15日は終戦記念日、少しさかのぼって6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結した記念日、わたしたちは日本に住む者として、これらの記念日を覚え、平和への願いと祈りとを特に強くしています。そして、いつの時代にも思うことは、わたしたちの祈りにもかかわらず、現実のこの世界は、いつもどこかで戦いと殺戮と破壊とが絶えることなく、今もまたそうであるということを、わたしたちは認めざるを得ないのです。しかし、たとえそうであるとしても、わたしたちは一人の地球人として、それ以上に一人のキリスト者として、日本とアジアと世界に、真の平和が訪れる時が来ることを信じつつ、祈り続けるようにと神に命じられています。

主イエスはマタイ福音書5章9節の山上の説教でこう言われました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。キリスト者はすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の子どもたちとされているのですから、平和を実現する幸いへと招かれているということを強く覚えたいと思います。きょうの世界平和記念礼拝では、聖書で教えられている真の平和についてご一緒に聞き、平和を実現する人としての祈りをより一層強くしたいと願います。

 イザヤ書52章7節にこのように書かれています。【7節】。ここには、イスラエルの民に良い知らせを伝える使者の足の美しさが強調されています。使徒パウロはローマの信徒への手紙10章15節でこのイザヤ書のみ言葉を引用して、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える使者の足の美しさについて語っています。きょうは旧約聖書の良い知らせを伝える使者と、新約聖書の福音を宣べ伝える使者について、そのよい知らせ、その福音の内容は何か、またそれを伝える人の足が美しいと言われているのはなぜか、そのことを聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 ではまず、イザヤ書の方から読んでいきましょう。7節冒頭の「いかに美しいことか」は美しさを強調していますが、ヘブライ語では「まあ」と発音します。日本語とよく似ていますね。「まあ、なんて美しいんでしょう」「これほどに美しい足はほかにはない」と言う意味です。なぜ美しいんでしょう。それは、彼の足が「良い知らせ」を運んでいるから、その人が良い知らせを伝えているからです。

 では、そのよう知らせの内容は何か。次に続いて書かれているように、それは「平和」であり「恵みの良い知らせ」であり「あなたの神は王となられた」ということです。さらに8節以下に書かれているように、「主がシオンに帰られるから」であり、「主がその民を慰め、エルサレムを贖われた」からであり、「主は聖なる御腕の力を国々の民のめに現わされたから」であり、そしてまた「すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」からであると説明されています。

 これは具体的にはバビロン捕囚からの帰還という出来事を語っていると考えられます。紀元前6世紀ころのイスラエルの歴史について少し説明しましょう。旧約聖書の民イスラエルは主なる神に選ばれ、神と契約を結び、主なるお一人の神だけを礼拝する信仰の民でしたが、やがて彼らは異国の神々をも礼拝するようになり、主なる神に背いて罪を犯したために、神の厳しい裁きを受けて、国は滅ぼされ、エルサレムの神殿は焼き払われ、王も指導者も民たちも捕虜となり、1千キロも離れたバビロンの地に捕らえ移されました。これをバビロン捕囚と言います。

 けれども、主なる神は罪のイスラエルをお見捨てにはならず、60年後には彼らを再び故郷の地イスラエルへ、神殿があったエルサレムへ(8節ではシオンと言われていますが)連れ戻すであろうという預言を、預言者イザヤの口を通してお語りになりました。その預言がイザヤ書40章から何度も繰り返して語られているのです。51章から52章のきょうの個所でもバビロン捕囚からの帰還が預言されています。そして、良い知らせを伝える者とは、このバビロン捕囚からの帰還、捕囚の地からの解放、神の救いのみわざを伝える預言者イザヤ自身のことを語っていると考えられます。

 では、その預言者イザヤの足がことさらに美しいと言われている理由について考えてみましょう。それは彼自身が健脚であるとか速く走れるからという理由によるのではなく、彼が持ち運んでいる知らせ、彼がイスラエルの民に伝えるようにと神から命じられている救いの恵みが何にもまして美しく、喜ばしく、高価で尊いものであるからにほかなりません。彼が持ち運んでいる神の救いの良い知らせこそが、彼の足を強くし、たくましくし、美しく光り輝く足にしているのです。

 ここで、足は象徴的な意味を持っています。つまり、預言者の足とは彼自身、彼全体を象徴していると考えられます。彼が一人の預言者として、一人の人間として美しい、尊い存在であるということです。それは彼が神の救いのみ言葉、解放のみ言葉、平和のみ言葉を神から託されているからであり、それをイスラエルの民に語るようにと命じられているからなのです。

イザヤ書を読むと、多くの場合、人々はイザヤの預言に耳を傾けませんでした。時に、彼は民から迫害を受け、大きな苦悩を味わいました。伝説によれば、彼は民に迫害され、殉教したと伝えられています。彼の生涯は決して美しくはなく、汗と涙と労苦とに染まっていたと言えます。けれども、そうであるにもかかわらず、彼が神の救いのみ言葉を持ち運ぶ務めに忠実である時に、彼は最も美しく、最も幸いであり、最も祝福されているのです。

 7節には、「良い知らせ」、「恵みの知らせ」、「救いを告げる」などの言葉と共にで「平和を告げ」という言葉があり、これらがこの1節の中に同じ意味を持つ言葉として並べられています。イザヤ書では、また聖書では「平和」をどのように教えているのかを、これらの言葉を参考に見ていきましょう。

 ヘブライ語の平和は「シャローム」と発音します。このヘブライ語は旧約聖書では非常に重要な言葉であり、230回余り用いられています。日本語では多くは「平和」と訳されていますが、「平安」「繁栄」「健康」「和解」などとも訳され、広い意味を持っています。欠けているところがない状態、満たされている状態を言い表している言葉です。ですから、単に戦争や争いがないというだけでなく、7節のほかの言葉のように、それは良い状態のこと、神の恵みに満ちている状態、神の救いと解放が実現している状態、そして主なる神が唯一の王なる神として支配している状態、それを平和、シャロームというのです。

 わたしたちはこの点から、今日の世界の平和とは何か、世界の平和のためにわたしたちはどう祈るべきか、そして主イエスが山上の説教で教えられた平和を実現する人々とはどのような人のことかをさらに深く探っていきましょう。

 新約聖書では平和についてどう教えられているのでしょうか。エフェソの信徒への手紙2章14節では、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と厳かに、力強く語られています。主イエス・キリストこそが唯一の、真実の、永遠の、わたしたちすべての人たちの平和であるという意味です。また、主キリストがわたしたちのために平和を創造し、わたしたちをその平和の中に招き入れ、あらゆる意味でのわたしたちの平和の源となられたということです。

 では、その主キリストの平和はどのようにして生み出され、与えられたのかについて、この手紙は14節後半から16節で、このように説明しています。【14節b~16節】(354ページ)。

 ここで教えられている重要なポイントをいくつかにまとめてみましょう。一つは、主キリストによる平和が実現される以前は、人間はみな互いに敵意という隔ての壁を持ち、二つに分断されていた。それゆえに、人間たちの間には、この世界には、平和がなかったということがあらかじめ暗示されているのです。聖書はそれを罪と言います。1章7節にこのように書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪ゆるされました」。これが、神のみ子主イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、罪をゆるされたわたしたちに与えられている恵みのことです。この恵みを与えられる以前には、わたしたちはみな神と敵対し、互いにも敵対していた罪びとたちであったのです。つまり、人間社会は、この世界は、罪に支配されており、互いに敵意を持ち、互いを分断し、そこには真の意味での平和はなかったということを聖書は言っているのです。真の平和とは何かを考えるにあたって、わたしたちはまず人間の罪の現実について知らなければならないということを教えられます。

 二つ目のポイントは、罪とは人間とこの世界の分断した状態を言うのですが、その罪の源は神と人間との分断にあるということです。18節に「神と和解させ」と書かれているように、主キリストは神とわたしたち人間とを和解させるために十字架で死んでくださったのです。神と人間との間を隔てていた罪という壁、断絶、分断を取り除き、神と人間を和解させるためには、罪のない神のみ子主イエス・キリストの清く尊い十字架の血が流されなければなりませんでした。その神のみ子の血によって、わたしたちの罪が完全にあがなわれ、わたしたちは罪の奴隷から解放され、神の子どもたちをされるのです。

 神と人間との和解があるところに、人間同士の真実の和解が成立します。共に一人の主なる神によって罪ゆるされている共同体としての和解と一致、平和が与えられるのです。人間と人間の間にあった敵意という壁は取り除かれ、お互いを神からの罪のゆるしの恵みをいただいている人たちとして認め合い、一つの罪ゆるされた共同体とされるからです。

 真の平和はこのようにして、主キリストの十字架の死による罪のゆるしを土台としているということをわたしたちは教えられます。イザヤ書で教えられていたバビロン捕囚からの帰還によって与えられる平和にも、イスラエルに対する神の罪のゆるしが土台となっていたことにあらためて気づかされます。真の平和は、旧約聖書においても新約聖書においても、神による罪のゆるしの恵みの上に基礎づけられていることをわたしたちは教えられます。

 預言者イザヤはイスラエルの救いの福音を携え、それを持ち運ぶ預言者であったので「その足は何と美しいことか」と言われていました。使徒パウロがそのみ言葉を引用したとき、主イエス・キリストによるすべての人の罪のゆるしの福音を宣べ伝える人の足はそれ以上に美しいことを強調していたのです。

 最後にもう一つのことを付け加えたいと思います。イザヤ書では救いの福音、平和と並んで、主なる神が王となられたことが言われていました。神が全世界の唯一の王としてご支配されるところ、そこに世界の平和が打ち立てられます。人間一人一人が小さな王となるところには、平和は成立しません。すべての人が主なる神のみ前にひれ伏し、恐れおののき、神のみ前に罪の自分が打ち砕かれなければなりません。神への真の恐れのあるところにこそ、真の平和が実現するのです。

 わたしたちは主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしの福音を聞き、その福音を携えて、きょうの礼拝からこの世へと派遣されます。平和の福音に生きる人として、平和の福音の証し人として、平和の福音を宣べ伝える使者として、この世界へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

○ご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

2022年8月7日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

7月31日説教「神の委託事業」

マタイによる福音書25:14-30「神の委託事業」 2022.7.31 神学生 熱田洋子

今日の聖書の箇所は、「ある人が旅行に出かけるとき、しもべたちを呼んで自分の財産を預けた。」というところからはじまります。この直前を見ると「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」いうたとえ話しがあって、その話につながって書かれています。ですから、この箇所も、天の国のたとえ話しであること、今は、天に上がられた主イエスが再び来られるのを待っている時ということができます。ここに、ある人、主人として登場するのは、主イエスのことで、しもべたちは、主イエスの弟子たちのことです。主人は出かけていて、ここにはいません、その時はわからないのですが、必ず帰って来ます。それまでの間、しもべたちだけが残されています。出かけるに当たり、主人はしもべたちに、自分の財産を預けます。主人が帰ってきた時に、それをどのように用いたのか、しもべたちは、主人の前で、清算をすることになります。その時は、弟子たち、そして、わたしたちキリスト者にとって終わりの日の審判の時です。主が来られた時に、わたしたちは、主の前に立って、キリスト者として生活してきたことを報告し、主イエスから、それが御心にかなっていたのかどうか判決を受けることになります。このたとえ話から、その時の備えとしてわたしたちに示してくれることを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

このとき、しもべたちは主人に呼ばれて、主人からタラントンを預けられます。15節に、「それぞれの力に応じて」とありますので、主人は誰にも多すぎる要求をしていないことがわかります。そのことは、11章30節に、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われているとおりです。

さて、このタラントンとはなんでしょうか。タラントンは神の賜物のことで様々なものがあります。わたしたちは一人ひとり、顔や姿、性格、考えていること、役割などが違っています。それと同じように、神の賜物も一人ひとりそれぞれに種々あるということです。タラントンを額の大きさでいうと、1タラントンは、当時の1日の賃金の6,000日分に相当するくらい大きいものです。ここでは、教会と弟子たちに預けられた賜物がどれほど貴重なものであるかを気づかせるために額で示されています。それらのすべては神から預けられたものですから、主人のために用いるのはもちろんのことです。そのことを知っておくことが大事です

こうして、弟子たちは主イエスからタラントンを預けられましたが、これまで従ってきた主がいない今、どのような働きをすることになるのでしょう。まず、弟子たちは、主と共にいた時のこと、主がどのような方であったのかを振り返ります。そして、主が教えてくださったことにならうことになるのです。主イエスは弟子たちと一緒にいた時に、弟子たちの足を洗ってくださったことを思い出します。そのことによって、弟子たちに、互いに足を洗い合うようにと模範を示されました。ヨハネ13章に記されています。そして、神の独り子である主イエスは、父なる神の御心にまったく従われて、罪人のわたしたちを罪から救うため十字架にかかり、わたしたちを贖ってくださいました。わたしたちを愛し、わたしたちのために命を差し出してくださった主のことを弟子たちは思い出し、主の働きである神と隣人に仕えていくのです。

み言葉に、「自分の十字架を取って、わたしに従わない者はわたしにふさわしくない」とあります。10章39節です。働きをするに当たり、弟子たちは、このみ言葉によって、主に忠実に従っていくことを心に決め、時には自分の命の危険があるかもしれないことも覚悟したことでしょう。

 その際、主イエスは、弟子たちに、単に、タラントンを残しただけではありません。それとともに、主イエスご自身が持っておられたものを弟子たちに託されます。すなわち、主イエスの御霊により助けがあること、たくさんのみ言葉によって支えられること、主の平和と平安が残されていること、主イエスの御名で祈ること、また、一人ひとりは神の子とされているので神の憐れみのうちにあることも弟子たちに与えられます。

 この時、しもべたちには進むことのできる二つの道があります。

 5タラントン預けられたしもべと2タラントン預けられたしもべは主人の意図したことをよくわかっています。それで、二人のしもべたちは、主人から預けられた賜物を働きに生かし、新しいものを作り出すことであると真剣に受け止めています。主に服従し、主が来られるのが早くても遅くても関係なく、その時のために備えようという姿が見られます。二人は早速この働きを始めます。

16節に「商売する」とありますが、ここでは必ずしも金を稼ぐことではありません。神から預けられたものを有益に用いようとするとき、そのために努力したり力を発揮することになります。そのような努力や力というような賜物は商品とみなされます。そのことによって生み出される利益は、人々を救いへと導いて神の栄光を示すものとなり、それがさらにタラントンを増やしていくことになると考えられているからです。

 一方、1タラントンを預けられた第三のしもべは、このような二人とは違って主のために働くことを拒否します。このしもべは天の国に預かりたいと願ってはいますが、主イエスのものを増やそうとせず、主イエスを崇めようともしません。また、自分が預かったものを他に与えようともしていません。思うこと、行うことが他の二人のしもべとは正反対です。

主イエスは、ご自身の働きを共に行うようにすべての人を招いておられます。その際、働きがさまざまに違っていることを主はご存じですので、一人ひとりに授けられたものを知って、それを大切にして精一杯のことを行うことがわたしたちにできることです。主は働きの大小ではなくその人の心根をご覧になっています。そう考えると、第三のしもべのように、主から預けられた賜物を自分のためだけに持っていることはその福音を無にすることで、わたしたちがそれを広く隣人に与える時にのみ主のために用いたと言えるのです。

 やがて、長い時間が経ち、主人が来て、しもべたちと清算をはじめます。ここでしもべたちは主人に忠実であったかどうかが問われます。

まず、5タラントン預かったしもべと2タラントン預かったしもべは、主人の前に、働きの実を差し出します。そうすると、主人は、二人を忠実な者とみなされます。それまで働いて稼いだ額の大きさは関係なく、報酬は倍になり、主人と一緒に喜びに招かれます。二人は主人の意図したことに従って働いた奉仕者にすぎません。預けられたものはもともと主人のものであり、忠実であったことから生み出したものも含めて主人に返すことになります。このようにしもべたちの働きは自分たちの手柄ではありません。

二人は「少しのものに忠実であった」と言われています。この世での業、努めは、主イエスの持っておられるものや天の国におけるものと比べると少しのものなのです。そのように少しのものでも、主は忠実であったと受け取られ、天の国のはるかに大きな喜びと祝福を与えてくださいます。小さな働きに用いられた賜物も神の栄光のために生かされていくということを覚えておきたいと思います。これは、5章15節・16節のみ言葉に、「燭台の上にあなた方の光を輝かせなさい。あなた方の立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」ということに表されています。

 一方、第三のしもべは、主人の厳しさを恐れたために働きをしなかったと言って、自分をよしとし、正しいとしています。キリスト者の義務を忘れ、それを厳しい働きとさえ呼んでいます。もとより主人が彼に財産を預けたことに感謝もありません。主を愛すること、主に服従することを嫌がり、命を脅かされるのは避けたいとして主に従おうとしない姿は、臆病なものと言われています。

 このしもべのように、わたしたちが主を愛することを忘れて主を非難するなら、主イエスが再び来られる時、わたしたちは、いのちと栄光を勝ち得るでしょうか。このしもべは、主人は厳しいと言っていますが、教会のキリスト者たちは、彼らの主が柔和で、彼の「軛は負いやすい」こと、湖で溺れ死にそうになった時には、ともにいて助けてくれることを知っています。そして、忠実なしもべたちを祝福し、彼らの働きのゆえに喜びを分かち合いさらに高い務めを授けているのですから、少しの働きでも無駄になることはないのです。

主から預けられたということは、その賜物は貴重なもので、それを十分に利用して主の働きのために生かすことをキリスト者に求められています。それは神の委託事業と言えるのではないでしょうか。神から信頼されてその事業を預けられたことを感謝して、自分のためではなく、主イエスのために働き、その結果を清算することになります。わたしたちは、主に対する愛をもって、神に仕え隣人にも忠実に倦むことなく仕えることに精一杯励みます。そのようにして神の委託に応えることになるからです。

さらに第三のしもべの言い逃れは難しいことが示されます。

第三のしもべについて詳しく書かれているのは、主に忠実でないということはどういうことで、その結果、清算のとき主の判決がどのようにくだされるのかをわたしたちに気づかせるためと考えられます。

このしもべのように、主から預けられたタラントンを地に埋めて隠すことはしてはならないのです。少なくとも銀行に持って行っていれば、利子を産んだろう、また、自分でしないなら他の人に渡して働かせることもできただろうに、と言われます。このことからも、主イエスからわたしたちの中に点された愛から出てくる愛の働きを覆い隠してはならない、おろそかにしてはならないことがわかります。み言葉に「神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。」とあります。ヨハネの手紙一5章3節、訳は協会共同訳です。そのとおりです。

 そして、この不忠実なしもべにも判決が言い渡されます。他の二人の忠実なしもべに対する判決と正反対になっています。他の二人のしもべのために主人がその働きを祝福し、喜びを分かち合ったこととまったく逆に扱われていきます。第三のしもべは、預けられたものを取り上げられ、さらにそれまで持っているものまで取り上げられ、闇の中に放り出されます。忠実なしもべたちは、新たにもっと大きなものを与えられ、主人の喜びに招かれているのと比べて恐ろしいほどの違いです。主イエスは忠実なしもべたちをご自分のものとして御許に引き上げられますが、第三のしもべのように賜物を必要としないならば、その賜物まで取り上げられて、さらに天の国に入れられません。このようにならないためには、神の賜物を休んだままにしておいてはならないのです。それを生かし、わたしたちは働かなければならないということです。

このようにしもべたちに対する審判を見てくると、わたしたちキリスト者にとって、審判の時はとても大事な時としていつも備えていることが必要であることを思わされます。わたしたちは主の前で、この世でどのような生き方をしてきたのかによってさばきを受けることになるからです。主イエスがどのように判断をされるのか、聖書の中の、金持ちとラザロの話、ルカ福音書16章にありますが、その話が頭に浮かびます。ここでは、金持ちと、その門前に横たわっていた貧しく悲惨な状況のラザロが比べられます。やがて、ラザロは死んで、天の国の宴席に連れて行かれますが、一方の金持ちは死んで、陰府でさいなまれています。金持ちは、憐れみを大声で求めるのですが、金持ちに「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」と言われて、ラザロには慰めが与えられているのに、金持ちは、憐れみから外され、もだえ苦しむままに置かれます。この時、主イエスは、金持ちに対して、そばにいたラザロに助けが差し迫って必要だったのに、愛の働きをする機会であることに気づかず、目もくれなかったことをさばいておられるのです。第三のしもべが、預けられた賜物を隠して、主の働きに用いようとしなかった姿に通じるものがあります。また、この話から、わたしたちは、もう一つ大事なことを気づかされます。天の国にはラザロにも喜びの宴席が用意されているということです。主イエスは、この世の業や働きをご覧になるだけではなく、そのようなことに関われないラザロのような一人ひとりにも目をとめておられ、そのままに天の国に迎え入れ、憐れみ、慰めを与えてくださっています。神はどのような一人をも分け隔てをなさらないで救いへ招き入れくださるのです。わたしたちにははかり知ることのできない神の恵みの深さを覚え主を崇めます。

29節に、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とは、どういうことを言っているのでしょうか。この時代、ローマ社会において、「金持ちはますます金持ちになり、貧しい人はますます貧しい人になる」と一般に言われていたようです。当時の資本主義社会では起こりえることだったのでしょう。ここでは主イエスは全く違って、わたしたちキリスト者に福音的な意味で語っておられます。わたしたちは与えられている恵みを感謝している一人ひとりです。たくさん与えられている人は、感謝が増していき、さらに恵みもより豊かになるのです。一方、恵みが感謝に価するものだと気づかなければ、感謝が乏しくなって、さらに無駄にしてしまうことになる、ということだと思われます。神からのタラントンについても、この世で多くあっても天の国では少ないものとはいえ、それは神から与えられるものです。そのことを神に感謝して生かしていくとき、タラントンは増えていくのです。

わたしたちは神からさまざまな賜物を授けられていることを感謝します。

わたしたちは神と人を愛し、神と隣人に仕えるために

わたしたちはそれぞれの賜物を十分に用いているでしょうか

わたしの持っているものは小さくて、とても役に立たないからと思って、しまっておいたりしてはいないでしょうか。

主は、今日の聖書の箇所に続く35節で「わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」、最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだと、言われます。そして、この働きをした正しい人たちは永遠の命にあずかるのです。

一人ひとりにその人の能力に応じたタラントンを授けられています、主に忠実に従って神と隣人に仕えていくとき神の国で祝福が用意されていきます。

わたしたちには小さいと思える働きも、神に感謝して行っていくとき、忠実なものとして喜んで受け入れ祝福してくださるということをこの箇所から学んできました。

主イエスがわたしたちに与えてくださったものを、たといそれが少なかろうと多かろうと信仰深く、感謝に満ちて忠実に受け止め、主の栄光のために役立てていきたいものです。

お祈りします。

天の父なる神様。わたしたちに委ねられた賜物を感謝して、神と隣人に仕えていくことができるよう、私たち一人ひとりに聖霊を注いでください。

世界の中、戦火のもとで、また虐げられて、嘆き苦しんでいる人々の声を

主よ、お聞き入れください。各国の為政者たちが、民の命を守り、平安な生活を支えることを第一として道を選ぶように、平和への働きかけをする人たちに力を与えてください。そして平和の神のご支配が世界中にあまねく行き渡りますように。私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

7月24日説教「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

2022年7月24日(日)秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記24章1~8節

    使徒言行録7章36~43節

説教題:「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

 ステファノは初代エルサレム教会で選出された7人の長老、あるいは執事の中の一人でしたが、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによってユダヤ人からの迫害を受け、石打ちの刑で処刑され、キリスト教会最初の殉教者となりました。7章2節から53節までのステファノの長い演説は、処刑される直前にユダヤ最高法院の裁判の席で語った彼の弁明ですが、その内容は彼が自分の無罪を主張するための弁明と言うよりは、主イエス・キリストの父なる神がイスラエルの民をとおしてなしてくださった救いのみわざについての説教であると言ってよいでしょう。

 アテファノの説教全体を貫いている中心的なテーマを二つにまとめることができます。一つは、アブラハムから始まる神の民、イスラエルの2千年近くの歴史を導かれたのは主なる神であり、その歴史は神の救いの歴史であったということ。もう一つは、その神の救いの歴史のすべては、神が約束されたメシア・キリスト・救い主を待ち望み、またその救い主を証しする歴史であったということ、さらに言うならば、そのイスラエルの待望と証しは、ユダヤ人たちが十字架につけて処刑した主イエス・キリストによって成就したのだという十字架の福音、これがステファノの説教の中心でした。そして、これが彼が迫害され、殉教することになった理由となったのです。

 ステファノの説教には主イエス・キリストというお名前は一度も出てきませんが、彼の説教は旧約聖書で預言され、証しされている主イエス・キリストのことを語っているのであり、またそれを聞いていたユダヤ最高法院の議員たちも自分たちが十字架で処刑したあのナザレ人イエスのことをステフアノは語っているのに違いないということをよく理解していました。

きょうは、36~43節に記されている彼の説教から主イエス・キリストの福音を聞き取っていきたいと思います。36節を読みましょう。【36節】。「この人」とは、これまでに語られてきたモーセのことです。「この人」という言葉が強調されています。前の節で言われていたように、同胞のユダヤ人が「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒み、殺そうとしたそのモーセを、神はイスラエルの「指導者また解放者」としてお選びになり、イスラエルの救いのためにお遣わしになったのであり、またそのモーセをこそ、紅海の奇跡によってイスラエルの民をエジプト軍の追っ手から救い、40年間の荒れ野の困難な旅を安全に導く指導者としてお立てになったのだという、神の驚くべき選びのみわざをステファノは強調しているのです。

 同胞のユダヤ人からは拒絶され、見捨てられたモーセを、神はお選びになられ、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出すための指導者としてお立てになられたのです。ステファノがこのモーセの姿、モーセの使命と働きに、主イエス・キリストの預言を見ていたということは明らかです。神がご自身の民イスラエルと全世界のすべての人たちを罪の奴隷から救い出すために人間のお姿でこの世にお遣わしになられた神のみ子主イエスを、ユダヤ人の宗教的・政治的指導者であった長老たち、律法学者たちや祭司たち、またすべてのユダヤ人が、神を冒涜する者、律法と神殿を軽んじ、否定する者として裁き、十字架につけて処刑した。けれども神はその主イエスによってこそ、すべての人を救おうとされた。その主イエスの十字架の死によってこそ、すべての人の罪を贖おうとされた。モーセはこの主イエスを預言し、証ししている。そしてまた、主イエスを投げ捨てたあなたがたの背きと罪が、ここで明らかにされている。ステファノの説教はそのことを語っているのです。彼らユダヤ人指導者たちに悔い改めを迫っているのです。

 次の37節でも同じように、主イエスを十字架に引き渡したユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさが指摘されているように思われます。【37節】。これは申命記18章15節に記されているモーセの言葉ですが、モーセはここでイスラエルの民に対してこう命じています。「わたしはイスラエルの民に対して神のみ言葉を語り伝える預言者として神に立てられたが、やがて神はあなたがたの子孫の中から一人の偉大な、最高の預言者をお立てになるであろう。あなた方はそのまことの預言者が語る神の言葉に耳を傾け、聞き従わなければならない」と。ステファノは、そのまことの預言者こそが主イエスであると語っているのです。そうであるのに、あなたがたユダヤ人は主イエスのみ言葉に聞き従わず、むしろ主イエスを投げ捨て、十字架につけて葬り去ろうとしたのではないか。そこにあなたがたの罪があるのだ、とステファノは語るのです。

 ユダヤ最高法院の裁判で、裁かれるべき被告席に立たされているステファノが主イエス・キリストの福音の証し人として立つとき、裁くべき立場にあると思い込んでいたユダヤ人指導者たちが裁かれなければならない罪びとであることが明らかにされていくのです。

 38節以下でも、モーセに聞き従わなかった当時のイスラエルの罪が語られます。【38~41節】。モーセはシナイ山で神からの十のみ言葉、十戒を授けられました。十戒は、神によってエジプトの奴隷の家から救い出されたイスラエルの民が、神の民とされ、神のみ心を行い、神を礼拝する民として生きていくための導きとなるべき道しるべです。十戒は出エジプト記20章に記されています。きょうの礼拝で朗読された24章には、十戒をはじめ20章22節からの契約の書に基づいた神とイスラエルとの契約締結の儀式が記されています。イスラエルの民はこの神との契約によって生きる民となったのです。ステファノは38節で、これを「命の言葉」と呼んでいます。命の言葉とは、神から与えられた十戒と契約の書が命を持ち、また命を与える神のみ言葉であるとともに、イスラエルの民がそのみ言葉に聞き従う時に、まことの命に生きる民とされるという意味を含んでいます。

 しかしながら、イスラエルの民はモーセの命令に聞き従わず、彼がシナイ山から帰るのが遅いのにいら立ち、モーセと神のみ言葉に導かれることを不安に思い、もっと確かな目に見える神々を造ることを欲し、アロンに金の雄牛の像を造らせたということが、出エジプト記32章以下に書かれています。神の命のみ言葉に聞き従って生きるのではなく、口のきけない、目の見えない、自ら歩くこともできない、金や銀、石や木材によって作られた偶像、死せる偽りの神々によって生きようと欲したのです。

 けれども、イスラエルの民を強いみ腕をもってエジプトの奴隷の家から救い出されたまことの神を捨て、その神の命のみ言葉に聞き従わなければ、イスラエルはまことの命を生きていくことはできません。やがて彼らは、約束の地を追われ、神礼拝の中心であった神殿をも失い、遠い異教の地バビロンに捕囚となるであろうと預言したアモスの預言が成就されることとなるのです(42~43節参照)。アモスは紀元前8世紀中ころの預言者ですが、モーセの時代、紀元前13世紀に荒れ野でモーセの命令に聞き従わなかったイスラエルの民の反逆の中に、ステファノはすでにバビロン捕囚による神の最終的な裁きを見ているのです。

 したがってまた、神が最後にお遣わしになった偉大な預言者であられる主イエスのみ言葉に聞き従わず、主イエスの神の国の福音の説教を受け入れず、主イエスの奇跡やいやしのみわざをも受け入れず、主イエスを十字架に引き渡した彼らの罪は必ずや神の厳しい裁きを受けるであろうということが、ステファノの説教では暗示されているのです。彼らもまた確かにそのことを聞き取りました。そうであるのに、彼らは自らの罪を悔い改めず、むしろ、自分たちの義を主張して、ステファノを処刑しようとするのです。

 ここでわたしたちは、ステファノが指摘している彼らユダヤ人指導者たちの罪と、その罪から救われるためのわたしたちの信仰の道を、三つの点から見ていきましょう。第一に、37節でモーセが語った神の約束についてです。「神はあなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる」。申命記18章ではこのあとこう続きます。「あなたがたは彼に聞き従わなければならない。彼はわたしが命じるすべてを彼らに告げるであろう」(18節参照)。

 神は最後にお遣わしになった最も偉大な預言者であられる主イエス・キリストによって、イスラエルの民に、また全世界のすべての人々に、彼らの救いのために必要なすべてのみ言葉をお語りになりました。だれであっても、主イエス・キリストがお語りになった神の国の福音、主イエスがわたしたちの救いのためになしてくださった十字架の福音を聞くならば、ただそれだけで、それを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ救われるのです。このほかに何も付け加える必要はありません。

しかし、ユダヤ人は主イエスに聞き従いませんでした。彼らは主イエスの低さと貧しさにつまずきました。彼らは軍馬にまたがった力強い英雄を期待していました。ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、民衆を貧しい生活から脱出させるための奇跡を行い、悪や不正義を力で打ち倒す、この世の英雄を期待していました。彼らは、十字架につけられた主イエスに対して、「自分で自分を救え、そうしたたら信じよう」と言って、十字架の主イエスをあざ笑いました。

ユダヤ人たちは主イエスの十字架の福音につまずきました。彼らは、見に見えるしるしを求めました。これが第二の点です。ステファノは40節以下で、自ら偶像を造り、目に見えるものに頼ろうとする彼らの罪について語っています。ユダヤ人のみならず、人間はみな目に見えるものを手でつかみ取ろうとします。自分で作った偶像を追い求めます。自分たちの手柄を喜び、それを誇ろうとします。けれども、この世にあるもの、目に見えるものはすべて、移り行くものであり、やがて消え去り、限りあるものであることに気づこうとしません。そのことを認めようとしません。しかし、そこには救いはありません。そこにあるものは滅び以外ではありません。この世にある者を追い求める人は、この世が滅びる時に、共に滅びるほかありません。

第三に、38節の「命の言葉」をこそわたしたちは聞き、信じなければなりません。神は最後の最も偉大な預言者、それどころか、すべての預言の成就であられる主イエスによって、わたしたちが生きるために必要な一切をお語りくださいました。わたしたちの罪のために、ご自身の汚れのない聖なる血をささげ尽くして、ご自身の神のみ子としての命を注ぎ出されて、わたしたちを罪と死と滅びから救い出され、わたしたちにまことの命をお与えくださったのです。この主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、この主イエスに従って生きる時に、わたしたちにまことの命が与えられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、滅びにしか値しないわたしたちのために、あなたが独り子をさえ惜しまぬほどに愛してくださり、罪と死と滅びとから救い出してくださいましたことを、心から感謝いたします。どうかわたしたちがみ子の十字架の血によって贖われたものにふさわしく、あなたの僕(しもべ)として、あなたのご栄光と隣人の救いのために仕えていく者としてください。

〇父なる神よ、日本とアジアと全世界のすべての国民にあなたの義と平安と救いとが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。