2月4日説教「神の国にふさわしく生きる」

2024年2月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章4~15節

    ルカによる福音書9章57~62節

説教題:「神の国にふさわしく生きる」

 ルカによる福音書9章57節に、「一行が道を進んで行くと」と書かれています。「道を進む」とは、51節で、【51節】と書かれていることと関連しています。つまり、主イエスがエルサレムへ向かう道の途中にあるということです。57節以下では、「従う」という言葉が57節と59節、そして61節に用いられており、「主イエスに従う」ということが主題になっていますが、ルカ福音書はその主題を主イエスのエルサレム行きと関連付けて語っているのです。すなわち、「主イエスに従う」とは、エルサレムで苦しみを受け、十字架につけられる主イエスに従うことなのだということを、ルカ福音書は特に強調しているのです。

 では、そのことに注目しながら、主イエスに従って生きるわたしたち信仰者の生き方はどうあるべきなのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。57節以下には、主イエスに従う志を持った3人が登場します。一人は、自分の方から主イエスに従いたいと申し出ました。しかし、主イエスはその人に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、あたかもその人の志をくじくような、あなたに従いたいとの願いを拒絶するようなお言葉を語られました。

 二人目は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになりますが、その人は「その前に、亡くなった父を葬りに行かせてください」と答えています。三人目は、主イエスに従って行きたいが、まず家族に別れを言ってからにしますと申し出ます。主イエスはこの二人目と三人目の人に対して、そのような従い方では本当にわたしに従うことにはならないと言われ、弟子になりたいという二人の申し出を拒絶するような言い方をしています。

 以上から分かるように、この三人はいずれも主イエスに従いたいとの願いや志を持ってはいましたが、正しい姿勢で、正しい仕方で主イエスに従って行くことができなかったということが明らかにされています。

では、主イエスに従うということは、それほどに難しいことなのか。高いハードルを越えるようにして、高く強い志と覚悟を持っていなければ、主イエスに従って行くことはできない、主イエスの弟子になることはできないと、主イエスはここで教えておられるのか。そのように考えるかもしれません。

けれども、そうではありません。主イエスがここで教えておられることは、主イエスに従うことの困難さについてではありません。また、主イエスに従うには、わたしたちの側に大きな決断や高い志が必要だということでもありません。説教の最初に、51節と57節の冒頭のみ言葉で確認したように、主イエスご自身がわたしたちに先立って、堅い決意をもって、先頭に立たれ、エルサレムに向かって行かれたのです。主イエスがわたしたちのために苦難を受けてくださり、救いの道を開いてくださったのです。そして、わたしたちをその道へとお招きくださっておられるのです。わたしたちは主イエスによって備えられた道を、主イエスが先立って進まれた道を、主イエスのあとに従い、主イエスに導かれて歩むのです。

そのことをあらかじめ確認したうえで、きょうのみ言葉をさらに深く学んでいきましょう。まず、きょうの箇所でテーマになっている「主イエスに従う」ことの「従う」という言葉ですが、この言葉の本来の意味は、「だれかのあとについて行く、追従する」という意味で、そこから「服従する、従順に従う」という意味になりました。ほとんどは福音書の中にあり、「主イエスに従う」という文脈では70回用いられているということです。ルカ福音書でも、これまでに何回も用いられてきました。5章10節では、主イエスがシモン・ペトロに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われると、彼はすぐに「すべてを捨てて主イエスに従った」と書かれていました。また、5章27節では、主イエスがレビという徴税人をご覧になって、「わたしに従いなさい」とお命じになると、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、主イエスに従った」と書かれていました。

ここでも、注目すべきは、主イエスによって弟子として選ばれたペトロやレビの側の決意とか志とか、あるいは資格とか能力とかは全く問題にされておらず、主イエスの強く権威ある招きのみ言葉だけが強調されているということです。きょうのみ言葉を理解するうえでも、そのことは参考になるでしょう。

さて、きょうの箇所に登場する3人の中の最初の人は、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と主イエスに申し出ています。ここには、この人の並々ならぬ覚悟と決意が言い表されています。どんなに困難な道でも、どんな苦労でも、わたしは耐えて、あなたに従いますから、あなたの弟子にしてください。彼はそのように表明しています。

マタイ福音書8章19節では、そのように申し出たのが、ある律法学者であったとなっています。おそらく彼は主イエスを巡回伝道者と考え、多くの人々をひきつけ、また多くのいやしのみわざをなさっておられるのを見て、自分もまたそのように人々から尊敬を受ける巡回伝道者になりたいと願っていたのかもしれません。彼がこの世での称賛とか名誉とかを期待し、それによって自分の生活の安定を求めていたらしいということは、58節の主イエスのみ言葉からも推測されます。

 「人の子」とは、主イエスがご自分のことを指して言われる場合にしばしば用いる言い方です。主イエスは神のみ子であられましたが、天から下ってこられ、人の子となられ、人間の肉をまとわれました。わたしたちの罪と弱さのすべてをご自身に担われ、父なる神のみ前で徹底的に貧しくなられ、弱くなられ、ご受難と十字架への道を進まれました。そのような「人の子」主イエスには、野の獣や空の鳥にでさえも与えられている休息の場すらなく、この世での生活の保障も、命の保証すらないと主イエスは言われます。否むしろ、罪びとたちのためにご自身の命を捨てることこそが、ご自身の使命であるということを、主イエスはここで語っておられるのです。

 それゆえに、主イエスのあとに従う弟子たち、わたしたち信仰者は、この世での名誉や報酬を期待するべきではなく、あるいはまたこの世での生活の安定とか喜び、楽しみを求めるべきでもありません。だれしもが追い求めているこの世での名誉、報酬、喜び、楽しみ、それらよりもはるかに尊く、はるかに祝福された宝、十字架の主イエスから与えられる朽ちることのない、永遠なる宝を約束されているのだということを、主イエスはここで暗示しておられのです。

 第二の人の場合は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになります。それに対してこの人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と応答しています。この人も主イエスに従う用意も決意も十分にあり、主イエスを自分の人生の主と信じる信仰もあるように思われました。けれども、その前に、彼にはしなければならないことがありました。彼は今、亡くなった父親の葬儀の途中です。それを済ましてから、主イエスに従うつもりです。モーセの十戒に、「あなたの父と母を敬え」と命じられています。愛と敬意をこめて親を葬ることは子どもの重要な務めであり、何をおいてもまずしなければならない子どもの大切な義務と考えられていました。

 けれども主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。これはどういう意味でしょうか。ここでも、わたしたちはエルサレムに向かう途中にある主イエスを思い起こさなければなりません。主イエスはエルサレムでわたしたちを罪から救うために苦しみを受けられ、十字架で死なれ、三日目に復活されました。それによって主イエスはわたしたち罪びとたちの罪と死とを滅ぼされ、罪の奴隷からわたしたちを贖い、死のとげを抜き取られ、罪と死とに完全に勝利されたのです。

 それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることはそれまでとは全く違った意味を持つようになりました。ヨハネ福音書11章で、主イエスはベタニア村のラザロの死と葬儀に直面された時、ラザロの姉マリアや葬儀に参列している人たちがみな泣いているのをご覧になって、「心に憤りを覚えられた」と33節と38節に二度繰り返されています。そして、墓に納められていたラザロに「ラザロ、出てきなさい」とお命じになると、彼は墓から生き返って出てきたことが記されています。主イエスは、死の前で何もなしえず、死に屈服するほかない人々に対して、激しい憤りを覚えられました。そのようにして、主イエスはただお一人死と戦われ、そのためにご自身の血を流されるほどに死と格闘され、そしてついには死に勝利されたのです。それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることは新しい復活の命への入口なのです。信仰者にとっての葬儀は、人間の命の敗北の儀式なのではなく、新しい復活の命への招きなのです。

 主イエスが続けて、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とお命じになったのは、そのことを意味しています。罪と死が支配するこの世の国からあなたは救い出され、常に神が共にいてくださる救いの恵みと命に満たされた神の国へと、あなたは招かれているという福音を語り伝えることこそが、主イエスに従う信仰者の新しい使命になるのです。

 三番目の人は、自分の方から、「主よ、あなたに従います」と申し出ますが、その前に家族に別れを言いに行かせてくださいと言います。先の二人と同様に、彼にも主イエスに従う決意と覚悟はありました。でも、まだこの世の人間関係に縛られています。この世でやり残した仕事やこの世での肉の欲望に未練を持っています。

 しかし、主イエスは言われます。「神の国にふさわしく生きなさい」と。主イエス従うとは、主イエスによってl始まった新しい神のご支配に生きることです。この世の朽ちるものによって生きるのではなく、永遠に変わることのない神の命のみ言葉を聞き、主イエスによって与えられた救いの恵みに生きることです。終わりの日に完成される神の国に、今すでに招かれている者として、いわば終りの日を先取りするようにして、終わりの日の神の国の完成を基準にして生きることです。エルサレムで十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、父なる神の右に座していたもう主イエスが、わたしたちのためにすでに開いてくださり、備えてくださった道を進むこと、それが主イエスに従うわたしたち信仰者の生き方です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ国の民としてお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを来るべきみ国へと向けさせ、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼむことのない財産へと向けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月28日説教「旧・新約聖書は神の言葉である」

2024年1月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(29回)

聖 書:詩編119編105~112節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「旧・新約聖書は神の言葉である」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。この告白の冒頭の箇所、「旧・新約聖書は神の言(ことば)である」について、きょうから数回にわたり、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいくことにします。

 最初に、『信仰告白』について学び始めたときにも触れましたが、聖書と信仰告白の関係について、一般にこのように言い表します。「聖書はすべてを規範づける規範であり、信仰告白は聖書によって規範づけられた規範である」。聖書は、キリスト教会とわたしたち信仰者のすべての信仰と生活を規範づける唯一の、最高の規範であることは言うまでもありません。この文章の最後で、「信仰と生活との誤りのない審判者です」と告白しているのは、そのことです。

 信仰告白は、『日本キリスト教会信仰の告白』はもちろん、すべての信仰告白、あるいは信条と呼ばれているものは、聖書によって規範づけられています。

聖書を唯一の規範としていない信仰告白、他の何かを手本にしたり、他の何かを基準にしている文章は、それがどんなに優れた魅力的な言葉や思想、文学、哲学、あるいは神学で表現されていても、それは教会の信仰告白とは言えません。それは、健全な、また正統的な教会を立てるためには役立ちませんし、わたしたちの信仰を生み出したり、養ったりすることもできません。

 信仰告白は、聖書を唯一最高の規範とし、聖書の教え、教理、神の救いの真理を的確で明快な表現で言い表し、神の言葉である聖書に対する正しい信仰の応答として、教会の同意を得て、まとめられたものでなければなりません。そのような聖書に対する応答として、初代教会時代から今日に至るまで、多くの信仰告白、信条と呼ばれる文書が作成されてきました。

 そのようにして作成された信仰告白が、わたしたちの信仰の在り方を正しく方向付け、教会を健全に成長させ、また教会の一致を堅くするのです。

 次に、「旧・新約聖書」という表現についてですが、1953年に制定された文語文では、「新・旧約聖書」となっていたのを記憶しておられると思います。1985年の「口語文」でその順序が入れ替わりましたが、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』ではこう告白されていました。「新旧両約の聖書のうちに語り給う聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」。1953年の『信仰の告白』はそれを受け継いでいることが分ります。

 それが、1985年の「口語文」で「旧・新約聖書」と変更する際に議論になったこと紹介しておきます。1890年の『旧日本基督教会信仰の告白』で「新旧両約」と、新約聖書を先にした理由は、旧約聖書を軽んじていたからでは決してなく、旧約聖書を読む際には新約聖書の光の下で読まなければ、その本来の意味が理解されないのであり、新約聖書で主イエス・キリストによって預言が成就されたからこそ旧約聖書の預言が意味を持つのであって、旧約聖書だけで完結するのではない。新約聖書の成就によってこそ旧約聖書もまた完結する。そのことを強調するために、あえて歴史的な順序を逆にして「新旧」としたのでした。それが、旧日本基督教会の信仰であったし、1953年の『信仰の告白』はその理解を継承しています。これが一方の意見でした。

 他方、世界の信仰告白の中で「新・旧訳聖書」と言い表しているものは一つもないので、一般的な言い方で、「旧・新」とするのがよいのではないかという意見があり、最終的にはその意見が通りました。でも、これまでの理解が否定されたのではありません。わたしたちは旧約聖書も新約聖書も同じ神の言葉と信じ、それに優劣をつけることはありませんが、それとともに、旧約聖書はそれだけで独立してあるのではなく、新約聖書と一緒になり、両者が一つの神の言葉である聖書として理解しなければなりません。そうでなければ、旧約聖書だけを正典とするユダヤ教と同じになるからです。旧約聖書は新約聖書の光の中で、主イエス・キリストの十字架の福音の光の中で読まれなければなりません。そうである時に、旧約聖書は神とイスエルの民との古い契約の書であり、その契約が、主イエス・キリストによって立てられた新しい契約によって成就されている預言の書としての重要な役割を果たすことになるのです。

 そこで、旧約聖書と新約聖書との関係について少し付け加えておきたいと思います。旧約聖書を預言の書、新約聖書を成就の書と言い、旧約聖書の時代は待望の時、新約聖書の時代は想起の時という言い方をする場合もあります。預言と成就、また待望と想起、それは言うまでもなく、全世界の唯一のメシア・救い主なる主イエス・キリストの預言とその到来による成就のことであり、主イエス・キリストの到来を待望する時と、その主イエス・キリストの十字架と復活によって全人類の救いが成就したことを想起する時を指しています。

 したがって、旧約聖書も新約聖書もそこで語られている中心的な内容は主イエス・キリストです。宗教改革者カルヴァンは、「わたしたちは聖書を読むとき、その中にキリストを見いだそうとする意図をもって読まなければならない」と言っています。聖書は、旧約聖書でも新約聖書でもその全ページにおいて主イエス‣キリストを証しているのです。主イエス・キリストを語っているのです。

 旧約聖書は全部で39巻、新約聖書は27巻、計66巻、これがプロテスタント教会が一致して認めている正典です。その数の覚え方ですが、3×9=27、合わせて66と覚えてください。できれば、その全巻の順序と名前も覚えてください。覚え方は「鉄道唱歌」の曲に合わせて覚える方法があります。詳しくは、日曜学校の教師にお尋ねください。

 正統的な教会はこの66巻を正典と呼び、これ以外に教会と信仰を規範づける神の言葉はありません。教会とわたしたちの信仰のすべてはこの聖書に起源を持ち、聖書からすべての命と恵みを受け取ります。わたしたちが神の真理、まことの救い、永遠の命を得ることができるのはこの聖書からだけです。また、この聖書だけで、わたしたちが聞くべき神の言葉は十分です。ほかの何かは必要ではありません。宗教改革者たちはこのことを「神の言葉のみ」と表現しました。

 今日のキリスト教の3大異端と言われるグループは、みな聖書のほかにも彼らが正典とする書物を持っています。統一教会は聖書以外に『原理講論』を持っています。ものみの塔は、創始者のラッセルという人が書いた『われらの主の再臨の目的と方法』、その他の書物があり、モルモン教は『モルモン経典』等を聖書のほかに信じています。彼ら異端的教派が聖書だけで不十分であると主張することは、そもそも聖書を神の言葉と信じていないからであり、聖書に書かれている神の言葉だけでは人間の救いには不十分であるということを認めていることにほかなりません。それはキリスト教ではありません。

 しかし、わたしたちの信仰は、聖書は神の言葉であり、神は聖書においてわたしたちの救いにとって必要なすべてのことを語っておられる。だから、この聖書からなにも何も差し引かず、この聖書に何も付け加えるべきではない。この聖書の中に神の救いと神の真理、神の命のすべてが書かれていると信じ、告白するのです。申命記4章2節で神はイスラエルの民にこのように命じておられます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ付け加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」。神はイスラエルの民が信仰によって神の民として生きるために必要なすべての言葉を語ってくださるので、そのほかの人間の言葉や知恵に頼るべきではなく、頼る必要もないのです。

 このように、旧約聖書の民イスラエルは神がお語りになるみ言葉に聞くことによって生きる信仰の民でした。今日わたしたちが読んでいる旧約聖書が最終的に編集されたのは、バビロン捕囚期以後、紀元前5世紀以降と考えられていますが、それ以前からイスラエルの民はそれぞれの時代で、預言者や祭司たちをとおして語られる神の言葉を聞いて、生きてきました。そのことを証しする旧約聖書のみ言葉を2箇所だけ取り上げてみましょう。一つは申命記8章3節です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。

 エジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって導き出されたイスラエルの民は、荒れ野の40年間の困難な旅で、他に頼るべきものが何もない砂漠の生活の中で、ただひたすらに主なる神のみ言葉に聞くことによって生きるべきであり、生きることができるということを学んだのでした。

 詩編119編105節にはこのように書かれています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」。暗い闇の中を、光なしには一歩も進むことができないように、聖書で語られている神のみ言葉はわたしのたどたどしい歩みを力強く導きます。困難や迷いが多い道を、重荷を抱えて生きなければならないわたしたちの人生の歩みの中で、神のみ言葉はいつどのような時にも、わたしを導き、支え、励まし、希望を与える命のみ言葉です。神はわたしたち一人一人に聖書をとおして語ってくださいます。

 新約聖書からも2箇所読みましょう。【ペトロの手紙一1章23~25節】

(428ページ)。この世界にあるものすべては、やがて移り行き、朽ち果てていくしかありません。しかし、神はわたしたちを永遠に朽ちることなく、変わることのない生きたみ言葉によって日々養い育ててくださいます。ここに、わたしたちの本当の命があります。来るべき神の国に至る永遠の命があります。

次に、【テモテへの手紙二3章14~17節】(394ページ)。わたしたちを罪から救う信仰を与えるのは聖書のみ言葉しかありません。どんなにすぐれた文学であれ、芸術であれ、あるいは高度な技術や高価な宝石であっても、わたしたちを罪から救うことはありません。わたしたちの罪のために、罪なき神のみ子が十字架で死んでくださったという福音こそが、わたしたちを罪と死と滅びから救うのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いと命のみ言葉をわたしたちにお語りくださいましたことを感謝いたします。弱く、倒れやすく、愚かな者に、どうぞ常に必要なみ言葉をお与えください。そのみ言葉に耳を傾ける信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月21日説教「神は万事を益としてくださった」

2024年1月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記50章1~26節

    ローマの信徒への手紙8章26~30節

説教題:「神は万事を益としてくださった」

 2019年4月28日から、わたしたちは創世記を主の日の礼拝で読み始めました。それから5年近くをかけ、きょうは創世記の最後の章、50章を読みました。その中で、わたしたちは次のような非常に印象深いみ言葉を聞きました。【19~20節】。

 このみ言葉は37章から始まったヨセフ物語のまとめであり、結論であると言えます。それだけでなく、12章からの族長アブラハム・イサク・ヤコブの全生涯と、創世記全体のまとめでもあり、さらには旧約聖書と新約聖書全体を貫いている主題であり真理であり、聖書全体において神がご計画しておられる救いの歴史のすべてを語っているみ言葉であり、そしてまたこれこそがイスラエルとの民とわたしたち教会の民の信仰の中心であると言ってもよいでしょう。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章28節以下で、この神の救いのご計画が最終的に主イエス・キリストによって、完全に成就したと語っています。【28節】(285ページ)。創世記50章でヨセフが語った言葉、「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民の命を救ってくださった」。そして、パウロが語った言葉、「神を愛する者たち、ご計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように働くということを、わたしたちは知っている」。神はそのようにして、旧約聖書においても新約聖書においても、人間たちの罪の歴史の中で、神の永遠の救いのご計画を確実に進めておられます。

 それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙で続けて語っているように、どのような艱難も苦しみも剣も、死ですらも、主キリストにあってわたしたちに注がれている神の強い愛から、わたしたちを引き離すことはできないし、したがって、それらを恐れる必要はなく、わたしたちはそれらすべてにおいて勝ち得て余りあるのだということを確信することができるのです。

 わたしたちが創世記を読み始めたとき、1章3、4節にこのように書かれていました。「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた」。そして、31節にはこうありました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。神が創造されたすべてのものは、神のみ心にかなった良きものでした。人間アダムとエヴァはことさらに神に似せて、神と共に歩む者として創造されたのでした。

 けれども、わたしたちはすぐにも、創世記3章で人間の罪と堕落について聞くのです。罪を犯した人間は神から姿を隠して生きねばならず、神の裁きを受けて額に汗して働き、ついには土に帰る、死すべき者となったのでした。しかし神はそれでもなお、人間を求めてやまず、「アダムよ、どこのいるのか」呼びかけてくださると聖書は語ります。

 創世記4章のカインとアベルの兄弟殺しの物語、7章からのノアの大洪水の物語、そしてまた11章のバベルの塔の物語と、人間の罪の歴史は続きました。けれどもまた、神はそのような罪の人間とこの世界とを決してお見捨てになることなく、なおも愛と憐みとをもって救いのみわざをなし続けてこられたことを、わたしたちは読みました。

 創世記12章からのアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語では、神の救いのご計画はより一層明確な神の契約として族長たちに受け継がれていきました。時に、彼らが疑ったり、道をそれたり、失敗したり、悪意や欺きによって争い合ったりした時にも、神はそれらのすべてをお用いになって、そのすべてを益にしてくださって、永遠の祝福と救いへと彼らを導かれたということを、わたしたちは何度も確認してきました。ヨセフが創世記50章20節で告白しているとおりです。

 わたしたちはここから一気に約2千年のイスラエルの歴史を飛び越えて、新約聖書へと目を移すとき、まさに主イエス・キリストの十字架においてこそ、その救いの真理が最もよくあてはまるということに気づかされます。「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民を救ってくださった」という救いの真理が、主イエス・キリストの十字架においてこそ最終的に成就され、神の永遠の救いのご計画がその最終目的に達したのです。すなわち、罪のない神のみ子が罪びとたちの悪意によって十字架に引き渡されるという、人間の罪のわざの頂点を、神はその罪のわざをもお用いになり、全人類の罪を贖うという、救いのみわざの頂点に変えたもうたのです。神は確かに愛する信仰者のために万事を益としてくださいました。

 さて、創世記50章は父ヤコブの死のために泣くヨセフの場面に始まり、ヨセフ自身の死の場面で終わります。この章には、何度も人間の死と葬りについて、またそれを嘆き悲しむ人間の姿が語られています。人間についての一つの物語の終わりが死であり、葬りであり、嘆き悲しむことであるということは、いつの世も変わらず、わたしたちすべてにも当てはまります。

しかし、ここでもまたわたしたちはその中で語られている20節のみ言葉を思い起こすべきです。「神はそれを善に変え、多くの民の命を救ってくださった」。神は人間の死と悲しみを越えて、そこでもまた救いのみわざをなしてくださるにだということをわたしたちは信じてよいし、信じるべきです。そしてまた、わたしたちはここにおいても、主イエス・キリストにおいてこそ、そのことが成就され、完成されたということを知っています。わたしたちが『使徒信条』によって、「主は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し」と告白しているとおりです。

 【1~3節】。ヨセフの父ヤコブの葬りの準備は、ヤコブ一族が寄留していたエジプトの流儀で行われました。エジプトでは死者をミイラにして長く保存する習慣がありました。死者が同じ肉体をまとって墓から出てくると考えられていたからです。エジプトの王たちが自分の体をミイラにしてピラミッド型の大きな墓に葬らせた歴史的遺産を今日わたしたちは目にすることができます。

 しかし、ヤコブの体に薬を塗ったのは、ミイラにしてエジプトの墓に葬るためではありませんでした。4節以下に詳しく書かれているように、彼の体を神の約束の地カナンにあるアブラハムの墓に葬るために、それまで保存しておくための処置でした。ヤコブの体はエジプト流儀で処理され、彼の葬儀もエジプトの王と同じほどの国葬級の盛大な規模で行なわれましたが、それは彼がエジプト人になって、エジプトの墓に葬られるためではありませんでした。ヤコブは寄留の地エジプトで死んだのですが、しかし彼は神に選ばれた民の一人であり、神の約束のみ言葉を信じて生き、そして死んだ、信仰者であることを決してやめることはありません。ヤコブは、父祖アブラハム、イサクと同様に、神の契約の民の一人として、神の祝福を受け継ぎ、神の約束の地を受け継ぐ信仰者として、カナンの地に葬られました。ヤコブの死によっても、神の約束のみ言葉は決して効力を失うのではありません。ヤコブの死を越えて、神の契約はなおも成就へと向かっていきます。

 前の章、49章29節以下で、ヤコブは死の前にその信仰を告白し、息子たちに自分をカナンの地にあるアブラハムの墓に葬るように命じていました。ヨセフはその父の遺言をエジプト王ファラオに告げ、王の許可をもらって父を葬るためにカナンへの旅に出ます。50章4節から14節までに、その様子が詳しく描かれています。ヨセフはエジプトに来てから長くこの地に住み、エジプトではファラオに次ぐ最高の位についたとしても、彼もまた父ヤコブの信仰を受け継ぎ、父ヤコブの命令に従っています。否、それ以上に、神の約束のみ言葉に聞き従っているのです。そして、アブラハムがカナンの地で妻サラを葬るために購入したマムレの墓に父を葬りました。

 次に、【15~21節】。父ヤコブの死は彼の子どもたちに数十年前の弟ヤコブに対する罪を呼び起こしました。37章に書かれていたように、兄たちが父にかわいがられていた弟ヨセフをねたみ、彼をエジプトの商人たちに売りとばしたということが、ヤコブ物語の始まりでした。最後の章で、そのことがもう一度思い起こされています。父ヤコブが死んで、ヨセフが自分の権威を自由に発揮できるようになったら、ユセフは自分たちに復讐するかもしれないと兄たちは恐れました。

 16節以下で、兄たちがヨセフに、父が死ぬ前にこのように言っていたと告げていますが、それについてはこれまで何も書かれていませんでしたから、もしかしたら、何とかして弟ヨセフにゆるしてもらおうとする兄たちの作り話であったのではないかと想像する注解者もいます。そうであるとしても、17節後半の言葉は真実です。「どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と兄たちは言います。父の遺言だから赦してほしいと願っているだけではありません。互いに一人の神に仕える僕たちであるゆえに、互いにゆるし合わなければならないのであり、また事実ゆるし合うことができるのです。肉による父と子、兄弟たちというつながりによるだけではなく、それ以上に強い信仰によるつながりがあるゆえに、互いにゆるし合い、和解し、真に一つの信仰者の群れとされるのです。一人の主なる神ゆえに、その神を信じる信仰のゆえに、その神に共に仕える僕たちであり、一つの群れであるゆえに、わたしたちもまた互いにゆるし合う者たちとされているのです。主キリストがこの弱い兄弟のためにも死んでくださったゆえに、わたしたちは互いにゆるし合い、受け入れ合うことができるのであり、そうするように招かれているのです。

 ここにこそ、人間同士の真の和解が成立します。神が唯一の主なる神として信じられ、礼拝されるところに、すべての信仰者がこの神の僕として仕え、また互いに仕え合うところに、真の和解が与えられます。19節以下のヨセフの兄たちに対する寛容なゆるしの言葉も、その根底にあるのは主なる神への信仰です。主なる神がすべての人間たちの罪や悪や欺きや憎しみをも越えて、それらを貫いて、あるいはそれらをお用いになって、すべてを善に変え、すべてを益とされ、ご自身の救いのみわざをなしてくださるという信仰こそが、ゆるしの思いを生み出し、和解を生み出していくのです。

 22節からはヨセフの死と彼が最後に言い残した遺言が書かれています。【24~25節】。ヨセフの死によってヨセフ物語の主題が終わるのではありません。神と族長たちとの契約、神の約束のみ言葉が消えてしまうのではありません。神の救いのみわざ、神の救いの歴史はなおも続けられます。わたしたちは次回からは、創世記に続く出エジプト記を読んでいくことになります。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのみわざは、人間たちの罪やつまずきや不信仰によっても、とどまることはありません。この世界のさまざまな争いや混乱、わざわいや困窮によっても、あなたの救いの恵みは失われることはありません。どうか、この苦悩する世界を顧み、救ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月14日説教「異邦人のペンテコステ」

2024年1月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書32章15~20節

    使徒言行録10章44~48節

説教題:「異邦人のペンテコステ」

 カイサリアに駐留するローマ軍の兵士コルネリウスとその一家が洗礼を受けてキリスト者となったという出来事が、使徒言行録10章1節から11章8節まで書かれています。これは一つの出来事としては使徒言行録では最も長い記述になっています。また、同じ場面が何度も繰り返して記録されています。この出来事が初代教会にとって非常に重要な意味を持っていたということを示しています。

旧約聖書では、神はイスラエルの民を選ばれ、この民をとおして救いのみわざをなさいましたが、新約聖書に至って、主イエスがこの世においでくださったことによって、神の救いのみわざは全世界のすべての民、すべての人々へと拡大されていったのですが、その大きな変革と言うか、転換と言うか、しかしそれは本来の神のご計画であったのですが、その大きな転換が初代教会の中でどのように行われていったのかということを、わたしたちはここから知ることができます。

 前回学んだ10章34節から43節までの、コルネリウスの家での使徒ペトロの説教を少し振り返ってみましょう。この説教は、使徒言行録に記されているいくつかのペトロの説教の中でユダヤ人以外の異邦人を対象にした唯一の説教です。ペトロの説教は、2章に書かれていたペンテコステの日の説教をはじめとして、すべてはユダヤ人を対象にしていましたが、ここでの異邦人を対象にした説教では、少しの変化が見られます。ペトロの説教の中心は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音であることは彼の説教のすべてに共通していましたが、42節からは、主イエスの救いのみわざが全世界のすべての人を対象にしていることが語られています。

 【42~43節】。まず42節では、ペトロをはじめとして主イエスに選ばれた12弟子たちは、主イエスの救いのみわざを宣べ伝える証し人として、この世へと派遣されているその使命について語られています。実は、これこそが神によって先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人全体の使命なのです。イスラエルも12弟子も、何らかのすぐれた点があったから神に選ばれたのではありませんでした。小さな奴隷の民、貧しい一人一人であったにもかかわらず、神の愛と憐みによって先に選ばれ、神の救いにあずかる恵みを与えられているのです。それは、先に選ばればれた人たちが他の人々に神の救いの恵みの証し人となるためです。ここに集められているわたしたち一人一人にとっても、事情は同じです。

 42節で語られているもう一つのことは、ペトロたちが語るように命じられた内容は、主イエス・キリストが「生きている者と死んだ者との審判者」として父なる神によって定められているということです。わたしたちが『使徒信条』で告白しているように、主イエスは「十字架で死んで、三日目に復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」。全世界のすべての人が、終わりの日の審判の前に立たされるのです。

 それとともに、43節では、主イエスを信じる人はだれでもみな主イエスのみ名によって罪をゆるされるという福音が、すでに旧約聖書の中で預言者たちによって預言されていたということが語られています。

 このようにして、ペトロの異邦人に対する説教は、主イエスの十字架と復活の福音が、今や全世界のすべての民、すべての人に宣べ伝えられているということが高らかに宣言されているのです。主イエスの十字架と復活の福音は、それを聞いて信じる人には罪のゆるしと救いを与え、信じない人には永遠の裁きと滅びをもたらすのです。そのことにおいては、ユダヤ人であるか異邦人であるかの区別はもはやなくなったのです。

 では、このペトロの説教を聞いて、コルネリウスとその一族はどのように応答したのかについて、44節以下を読んでいきましょう。

 【44~46節a】。この44節以下の出来事は、「異邦人のペンテコステ」と言われます。2章に書かれていた、エルサレムでの弟子たちとユダヤ人の上に聖霊が注がれ、最初の教会が誕生したのと同様に、ここでは異邦人の上に聖霊が注がれ、カイサリアに異邦人教会が誕生したからです。

 44節に「ペトロが……なおも話し続けていると」と書かれているのは、彼の説教が中断されたようにして、彼ら一同の上に聖霊が降ったことを表現しているように思われます。でも、ペトロの説教が中途半端で、未完成であったというのではありません。ペトロは語るべきことを語り、一同は聞くべきことを聞いたのですが、そのような人間の行為をはるかに超えた力をもって聖霊なる神が働かれたということをここでは強調していると思われます。「主イエスを信じる者はだれでもその名によって罪のゆるしが受けられる」との43節のペテロの説教がすぐに成就したのです。主イエスの福音が語られるところでは、その語られたみ言葉と共に聖霊が働き、人間の能力や願いをもはるかに越えて、聖霊が救いのみわざをなしてくださるからです。

 この時に起こった異邦人のペンテコステを、2章に書かれていたユダヤ人のペンテコステと比較しながらみていきましょう。最初に、ペンテコステが起こった場所ですが、2章ではエルサレム市内にある主イエスの弟子の一人の家でした。ここでは、エルサレムから北へ80キロほどの地中海沿岸の都市カイサリアにあるローマ軍の百人隊長コルネリウスの家です。聖霊は場所が変わり、時代が変化しても、常に変わらず、み言葉と共に働いてくださいます。

 次に、聖霊が注がれた対象は、2章では主イエスの12弟子をはじめ、主イエスに従ってきた120人ほどの信者たちとペトロの説教を聞いた数千人のユダヤ人。彼らの多くは主イエスの十字架の死と復活を実際に見た人たちでした。この10章では、先に神に選ばれた民ユダヤ人ではなく、彼らからは異邦人と呼ばれていたコルネリウスと彼の家族、彼の親族や部下たち、正確な人数は分かりませんが、27節では「大勢の人が集まっていた」と書かれていました。

 ユダヤ人は、聖霊の賜物は神に選ばれた民ユダヤ人にだけ注がれると考えていました。しかし今、ユダヤ人以外の異邦人にも聖霊が注がれたのです。45節には、ペトロと一緒に来たユダヤ人たちがそのことを実際に目撃して、大いに驚いたと書かれています。主イエスの福音がユダヤ人と異邦人の区別を取り除いたのです。主イエスの福音が全世界のすべての人に語られ、すべての人に救いの道が開かれたのです。

 三つ目に、2章では、聖霊を受けた弟子たちはいろいろな他国の言葉で主イエスの救いの出来事について語り出したと書かれていました。ここでは、「異邦人が異言を話し、また神を賛美している」と書かれています。2章と10章で起こった現象が全く同じだったのかどうかについてはよくわかりませんが、2章4節で「ほかの国の言葉で話しだした」の「言葉」と10章48節の「異言を話し」の「異言」とは同じギリシャ語ですから、同じと考えてよいのではと思われます。いずれにしても、聖霊を受けた人は人間の知恵や知識では語りえない、神から直接に与えられた言葉を語り、主イエス・キリストによってなされた神の救いのみわざを大胆に、力強く語るということにおいては一致しています。

 聖霊なる神はわたしたちに主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語る言葉を授けてくださいます。また、聖霊はその語られた説教を聞いて信じ、救われるという恵みを与えてくださいます。それらのすべては、聖霊のお働きです。神はわたしたちの欠けの多い言葉をもお用いになって、救いのみわざをなさいます。聖霊はまた、わたしたちのかたくなで悟るに鈍い魂に働きかけ、主イエスの福音を信じる信仰へと導いてくださり、わたしたちのすべての罪をゆるし、わたしたちを罪と死と滅びから救うという驚くべきみわざをなしてくださいます。聖霊はそのようにして、わたしたちとこの世にあって、神とわたしたちとを隔てていたすべての壁や溝を取り払い、わたしたちを神との豊かな交わりの内に導き、わたしたちを神の子どもたちとしてくださるのです。

 47節以下を読みましょう。【47~48節】。異邦人にも聖霊が注がれるのを見たペトロは、彼らもまたユダヤ人と同じように、洗礼を受けキリスト者となる道へと招かれていることを悟りました.ここにおいて、ユダヤ人と異邦人との間にあった壁は取り除かれ、異邦人もまた主イエス・キリストの福音によって救われる道が完全に開かれたのです。

 2章のユダヤ人のペンテコステにおいては、ペトロの説教を聞いたユダヤ人およそ3千人が悔い改めて、洗礼を受け、罪のゆるしの恵みを与えられ、そののちに聖霊の賜物が与えられると約束されていましたが、ここでは先に聖霊の賜物が異邦人に与えられ、そののちに洗礼を受けたという順序になっています。洗礼を受けることと聖霊の賜物が与えられることの順序が逆になっています。しかし、これには本質的な違いはありません。聖霊は主イエスの福音を聞いて信じる信仰を与え、洗礼を受ける決意を与え、また洗礼を受けた信仰者の信仰生活を導かれるからです。そのすべてが聖霊のお働きだからです。

 最後に、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」ということについて考えてみましょう。2章38節のエルサレムでのペンテコステの時にも、ペトロはこのように言っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していだたきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。また、8章16節でも、「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていた」とあり、19章5節でも同じ表現が用いられています。初代教会では「主イエス・キリストの名による洗礼」が行われていたようです。のちになって、今日のように「父と子と聖霊のみ名によって」と、三位一体の神のみ名による洗礼が行なわれるようになっていきました。

 「主イエス・キリストのみ名による洗礼」の深い意味について、パウロはローマの信徒への手紙6章で、「主イエス・キリストに結ばれるための洗礼」と表現して語っています。その個所を読んでみましょう。【6章3~5節】(280ページ)。主イエス・キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活にあずかり、わたしが古い罪の自分に死に、新しい復活の命に生かされるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたは主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって新たに生かしてくださり、あなたの民として神の国へとお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、あなたが永遠にわたしたちと共にいてください。わたしたちを日々新しい聖霊の賜物によって満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月7日説教「エルサレムに向かう主イエス」

2024年1月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    ルカによる福音書9章49~56節

説教題:「エルサレムに向かう主イエス」

 わたしたちが続けて読んでいるルカによる福音書を含めた初めの3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカを「共観福音書」と言います。この3つの福音書は主イエスのご生涯を描いている記事の順序が同じだけなく、時には一字一句が同じ個所もたくさんあります。そこで、これら3つを4番目のヨハネ福音書と区別して「共観福音書」と呼ぶようになりました。

 今日の研究によれば、マルコ福音書が最も早く、紀元60年代に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にしながら、他の資料をも加えて70年代に書かれたと推測されています。ちなみに、ヨハネ福音書は少し遅れて80年から90年代に書かれたとされています。

 きょう朗読されたルカ福音書9章50節までは、マルコ福音書とほとんど同じ順序で書かれていますが、51節からはマルコの順序からは離れ、またマタイとも違って、ルカ特有の記事が続くようになります。それが、9章51節から19章27節まで続きます。この長い箇所は「ルカの大挿入」と言われます。ルカ独自の資料がこの箇所に多数加えられています。また、この箇所は、主イエスのガリラヤ地方での伝道が終わり、エルサレムに向かって進んで行かれる途中の出来事が記されていますので、「主イエスのエルサレム旅行記」とも言われます。

 51節にこのように書かれています。【51節】。この文章からも分かるように、エルサレムへの旅行とはいっても、それは観光目的とかだれかに会う目的の旅行ではもちろんありません。主イエスが「エルサレムに向かう決意を固められた」のは、「天に上げられる時期が近づいた」からです。「天に上げられる」とは、主イエスの昇天を指していると思われますが、ここでは、主イエスがエルサレムで経験されるすべてのこと、つまり、受難週の初めの日に苦難の僕(しもべ)としてロバに乗ってエルサレムに入場され、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、偽りの裁判で裁きを受け、人々からの辱めと屈辱と嘲笑の叫びの中で十字架につけられ、死んで三日目に復活され、40日目に天に昇られるまでのすべての出来事を含んでいます。それはまた、主イエスがすでに2度ご自身の受難予告で語っておられたことです。父なる神がお定めになったこの受難への道を、主イエスは今、固い決意をもって進み行かれるのです。

 ルカ福音書がエルサレムでの主イエスのこれらのみわざを「天に上げられる」と表現しているのは、それによって神の救いのみわざが成就されるという意味を含んでいます。主イエスはユダヤ人指導者たちの悪意や憎しみに敗北してしまうのではありません。人々の罪や拒絶によって、神の救いのみわざが挫折してしまうのではありません。主イエスは罪に勝利されます。すべての人間たちの過ちや憎しみや拒絶に勝利されます。そして、神の救いのご計画を成し遂げられます。その勝利のしるしとして主イエスは天に上げられたのです。

 では次に、主イエスがエルサレムへの旅を開始される直前の49節以下と、その直後の52節以下に記されていることについて、今学んだ51節のみ言葉との関連性を考えながら学んでいくことにしましょう。

 【49~50節】。ヨハネは主イエスの12弟子の一人です。5章10節によれば、ガリラヤ湖の漁師で、ゼベダイの子ヤコブの兄弟です。この二人の兄弟の名前は54節にも出てきます。ヨハネはペトロとともに、12弟子の中での中心的な存在でした。でも、その中心的な存在であるヨハネが主イエスのみ心を正しく理解してはいなかったことが、ここと、また52節以下でも、明らかにされているのです。

 ヨハネの誤解がどこにあったのでしょうか。そのヒントが49節の「お名前を使って」という言葉にあります。お名前とは主イエスのお名前のことです。ここでは、主イエスのお名前が持っている大きな権威と力が重要な意味を持っています。それは、すぐ前の48節にも共通しています。「主イエスのみ名のために」一人の小さな子どもを受け入れることが、重要なのです。子どもそれ自体に何らかの価値があるからではなく、主イエスがその小さな子どもを愛され、その子どもを受け入れてくださるからこそ、その小さな者を受け入れる信仰者こそが、神の国では大きな者と認められるのです。主イエスのお名前が、48節でも49節でも、決定的に重要な意味を持っているのです。

ところがヨハネは、ある人が主イエスのお名前を使って、そのお名前の権威と力によって悪霊を追い出していたのを見、自分たち、すなわち12弟子たちの集団に加わって一緒に行動するようにその人に要求したが、その人はそれを断ったので、主イエスのお名前を使って悪霊を追い出すことをやめさせたというのです。それに対して主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。

なぜならば、主イエスのお名前が持つ天からの権威と力が悪霊に勝利しているからです。悪霊に勝利できるのは、神のみ子である主イエスのほかにはだれもいません。その主イエスのお名前以外の何ものによってもそれはできません。主イエスのお名前が権威をもってその力を発揮しているところには、神のご支配が、神の国が始まっているからです。

ところが、ヨハネは自分たちの集団を大きくすることをより重要だと考えていたようです。あるいは、37節以下に書かれていたように、自分たちには悪霊を追い出すことができず、主イエスからお叱りを受けたことがあるのを覚えていたのかもしれません。でも、重要なことは主イエスのお名前です。主イエスのお名前のもとにすべての救われた人たちが集合するのです。主イエスのお名前を信じ、主イエスのお名前によって洗礼を受け、主イエスのお名前によって集められた教会に、すべての信仰者は結集するのです。

51節以下に書かれる主イエスのエルサレム行きは、そのことをよりはっきりさせます。主イエスの十字架のもとに、全世界のすべての民、すべての人々が、罪ゆるされ、救われた神の国の民として、結集するようになるのです。

52節以下を読んでみましょう。【52~56節】。主イエスはエルサレムに向かわれる時にサマリア地方を通って行かれました。当時、ガリラヤからエルサレムへのルートは二つありました。一つは、ガリラヤからまっすぐに南下してサマリアを通過するルート、この道だと100キロ余りを3日くらいかかります。もう一つは、いったんヨルダン川を渡って東へ迂回していくルート、この道ではさらに1日から2日が必要になります。

なぜこのようなう回路が必要になったのかと言えば、ユダヤ人とサマリア人との長い間の民族的・宗教的対立が原因していました。紀元前721年に北王国イスラエルとその首都サマリアはアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは征服した地に外国人を移住させ、サマリアには多くの外国人が移り住むようになりました。そのために、サマリアのユダヤ人は異教の人々と混じり合い、民族的にも宗教的にもユダヤ人としての純粋さを失うことになったのです。南王国ユダはダビデ王家の王たちによって治められ、民族的・宗教的にユダヤ人としての純粋性を重んじてきましたから、サマリア人を異教徒に身を売り渡した軽蔑すべき異邦人とみなし、対立するようになったのです。両者の対立が決定的になったのは、紀元前4世紀ころ、サマリア人はエルサレムの神殿に対立してゲリジム山に独自の神殿を建ててからでした。

そのようなわけで、ユダヤ人はサマリア地方を通り抜けることを避けて、わざわざ遠回りをして、ヨルダン川東側のう回路を通るようになりました。けれども、主イエスはサマリアを通って行かれました。その理由は書かれていませんが、サマリアの町々村々でも神の国の福音を宣べ伝えるためであったことは明らかです。サマリアの人々も神の国の福音を聞き、信じて、救われるために、主イエスは信仰深いユダヤ人ならば避けて通るであろうサマリアへの道をお選びになったのです。そして、弟子のヤコブとヨハネとを先に派遣して、自分たちの宿や食事の手配などをさせました。

しかし、サマリアの人たちは主イエスの一行を歓迎せず、宿を提供することを拒みました。特に、主イエスの一行がエルサレム神殿に向かっていると知った彼らは、彼らが建てたゲリジム山の神殿が無視されていると感じて、敵対心をむき出しにしました。

そこで、主イエスと自分たちの道を邪魔されたヨハネとヤコブは、天からの裁きを求めてサマリア人を焼き滅ぼすことを主イエスに提案しました。この提案には、ユダヤ人のサマリア人に対する長い憎しみや敵対心が現れているのは明らかです。弟子たちは主イエスを迎え入れようとしないサマリア人に神の裁きが降るのは当然だと考えていました。けれども、主イエスは弟子たちの提案を拒否されました。主イエスが今エルサレムに向かっておられるのは、まさにそのような民族間の敵対心や対立を取り除くためであったからです。弟子たちにはまだそのことが理解されていませんでした。

最後に、主イエスがエルサレムに向かう決意を強くされ、その道を進み行かれたことが、この箇所でどのような意味を持つのかを2つのポイントにまとめてみたいと思います。一つには、弟子たちの信仰の無理解と誤解を取り除き、彼らが真実に主イエスの弟子として、福音宣教の使者として世界に遣わされていくため訓練のためであったということです。エルサレム行きの直前の48節以下では、彼らはだれが一番大きいかと論じ合っていました。49節以下では、主イエスのお名前の権威と力とを理解せず、自分たちのグループを大きくすることに関心を向けていました。エルサレム行き直後のきょうの箇所でも、彼らは主イエスのエルサレム行きが裁きのためではなく、すべての人の救いのためであることを理解していませんでした。主イエスの十字架の死と復活、そして昇天と聖霊降臨は、それらの弟子たちの無理解と誤解を取り払い、彼らを初代教会の使徒として固く立たせたのです。

第二には、主イエスの十字架と復活は、神とわたしたち人間との間の罪という深く大きな溝を取り除き、わたしたちを神のみ前で罪ゆるされ、救われた神の民として迎え入れる救いのみわざであるとともに、その十字架の福音によってすべての民族や人々の間にあった分裂や憎しみ、対立をも取り除き、主イエスの十字架のもとにすべての人を一つの神の民、一つの礼拝の民とする救いのみわざでもあるということです。主イエスは10章25節以下で、親切なサマリア人のたとえをお話になりました。ユダヤ人からは軽蔑され、救いから除外されていたサマリア人こそが、今や主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって救いへと招き入れられているのです。わたしたちもまた異教の民であり、小さな取るに足りない一人一人でしたが、主イエスの十字架によって救いへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子の十字架によって全人類をお救いくださったことを感謝いたします。どうか、この混乱と分断と試練の中にある世界にあなたからの和解と平和と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月31日説教「神の国に入る」

2023年12月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:詩編96編1~12節

    ヨハネによる福音書3章1~15節

説教題:「神の国に入る」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「神の国に入る」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 この文章は、文法的には二重否定になっています。「神の恵みによならければ」は否定分です。「神の国に入ることはできません」も否定分です。このような二重否定は、意味を強調するために用いられます。ここでは、救いの道、神の国に入る道を厳しく限定しています。この道以外には救いの道はない、この道以外には神の国に入る道はない、他のどのような方法や手段によっても、それは全く不可能である、ただこの道だけである、ということを強調しているのです。

 それはまた、この道を無限大に広げていることにもなります。つまり、その人に、ほかに何がなくても、ほかにどのような欠点や破れがあろうとも、弱さや未熟さがあろうとも、「この三位一体なる神の恵み」さえあれば、これさえあれば、あなたの罪はゆるされ、救われる、あなたは神の国の民として迎え入れられるということでもあります。

 ここで告白されている信仰は、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の信仰の大きな特色です。宗教改革者たちはそれを「神の恵みのみ」という言葉で表現しました。ローマ・カトリック教会が、罪びとが救われるためには主イエス・キリストの福音を信じる信仰とともに、人間の良きわざも必要だと教えていたのに対して、ルターやカルヴァンは「いや、そうではない。聖書が教えている正しい救いの道は、罪びとは良きわざが全くないにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神から差し出されている一方的な恵みによって、罪ゆるされ、救われる。聖書はそのように教えている」と語って、カトリック教会に抗議したのです。「神の恵みのみ」、これがプロテスタント教会の信仰の基本です。

 『日本キリスト教会信仰の告白』では、その宗教改革の基本線をさらに強調するために、「この三位一体なる神の恵みによらなければ」という表現を用いて、「神の恵み」を「三位一体なる神の恵み」として、より強く神の恵みの豊かさを告白しています。つまり、主イエス・キリストの救いのみわざの恵みと、父なる神の救いのみわざの恵み、そして聖霊なる神の救いのみわざの恵み、そのすべての恵みが、わたしの救いのために働いているということを告白しているのです。ここに、わたしの救いの確かさがあります。救いの永遠性があります。

 では次に、「神の国に入る」という告白について学んでいきましょう。「神の国」という言葉は新約聖書で数多く用いられています。もとのギリシャ語を直訳すれば、「神の王国」となります。これは、神が王として支配している場所、そのような状態を言います。ただし、マタイによる福音書だけは、神という言葉を避けるために「天の国、天の王国」と言います。その他の福音書、書簡等では「神の国、神の王国」です。

 主イエスがお語りになった説教の内容は神の国の福音が中心でした。マルコ福音書1章14節以下にはこのように書かれています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(14~15節)。

主イエスはまた神の国について、多くのたとえをお用いになって説教されました。マルコ福音書4章には種をまく人のたとえが書かれています。種をまくとは、神の言葉をまくことであり、良い地にまかれた種は30倍から100倍もの豊かな実りをつけると語られています。また、26節以下では、土に種をまくと、その種が芽を出し、成長して、その葉の陰に空の鳥が宿るほどに大きな枝になると、語られています。主イエスの説教の多くが神の国のたとえでした。

これらの神の国のたとえの中心は、主イエスご自身が天の父なる神の言葉をお語りなる最初の種まきであり、また主イエスご自身が神の言葉が肉となって、人間のお姿になってこの世においでになり、豊かな救いの恵みをお与えになって、多くの人々を新しい神のご支配のもとへと招き入れてくださる救い主であるということが、証しされているのです。

そのほかに、主イエスがなさったさまざまな奇跡のみわざ、回復が見込めない重い病気をいやされるとか、悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出されるとか、あるいは湖の嵐を沈めるとか、しかもそれらの奇跡を権威あるみ言葉をお語りになることによってなさることにより、新しい神の恵みのご支配が今や到来したことの目に見えるしるしを現わされたのです。主イエスのご生涯全体が神の国がこの地に到来し、神の新しい恵みのご支配が始まっていることのしるしであったと言えるでしょう。

主イエスが説教された神の国到来の福音は、旧約聖書における神の国の理解と共通点があります。旧約聖書の中では神の国という言葉は用いられてはいませんが、神が王としてイスラエルと全世界とを支配しておられるという神の国の考え方は数多くあります。たとえば、詩編93編から100編は、神が王として即位する即位式の詩編と言われていますが、これらの詩編では、神が全世界を支配される唯一の、永遠なる王としてその位に就く儀式が想定されていると言われます。詩編96編10~13節を読んでみましょう。【詩編96編

10~13節】(934ページ)。

旧約聖書時代のイスラエルの国は、繰り返して外国からの攻撃を受け、民の多くが諸外国に散らされ、苦難の歴史を歩んできました。紀元前721年には北王国イスラエルが滅ぼされ、587年には南王国ユダも滅ぼされ、ダビデ王国は完全に消え去りました。イスラエルの民はそのような苦難の歴史の中で、神がやがてイスラエルと全世界の唯一の王として君臨し、すべての民を義と平和ですべ治め、神の国を完成されるであろうと期待しました。神はそのために、油注がれたまことの王であるメシア・救い主を世にお遣わしになるであろうと信じました。その旧約聖書の待望が、今や、主イエス・キリストによって成就の時を迎えたのです。わたしたちが先週のクリスマス礼拝で聞いたルカ福音書のみ言葉がそれです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章1節)。

けれども、ここでわたしたちは一つの重要なことを確認しておかなければなりません。それは、主イエスがどのようにして神の国の王となられるのか、またどのようしてすべての人をすべ治められるのかということです。それは、当時の多くのユダヤ人が期待していたのとは全く違ったものであったということです。すなわち、多くの人が期待していたのは、たくましい軍馬にまたがり、手にはするどい剣を持ち、イスラエルを支配していたローマの軍隊を追い出し、イスラエルを異教徒の王の支配から解放する英雄的な王としてのメシアでした。

しかし、主イエスはそのような王ではありませんでした。主イエスは受難週の最初の日の日曜日に、軍馬ではなく柔和なロバに乗ってエルサレムに入場されました。剣をもって権力をふるう王ではなく、人類の罪ためにご自身が苦しまれ、わたしたち罪びとのためにお仕えくださる僕(しもべ)として、十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。わたしたちの罪のためにご自身の命を贖いの犠牲としてささげ尽くされました。それによって、罪と死とに勝利され、三日目に復活されたのです。主イエスは十字架で死んでくださった救い主であり、また愛と恵みとをもってわたしたちを復活の命へと導かれる主として、神の国の王となって君臨されます。わたしたちは十字架と復活の主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によって、神の民とされ、神の国に入ることが許されているのです。

次に、ヨハネ福音書3章で、主イエスはユダヤ教ファリサイ派の学者ニコデモとの対話の中で、「神の国に入る」とはどういうことかを教えておられます。

【3節】。また【5節】。ここでは「神の国を見る」あるいは「神の国に入る」という表現が用いられています。パウロの書簡などでは「神の国を継ぐ」とも言われています。これらの表現からも分かるように、神の国に入ると約束されているのはわたしたち信仰者ですが、それはわたし自身の意志や努力や能力によってなされるのではないことは明らかです。神の国、神のご支配は、天におられる神からわたしの方に近づいて来る、あるいは到来するのですから、わたしはそれを受け入れる、あるいは迎え入れる、それを受け取って自分のものにすることによって、神の国に入ることが許されます。

 主イエスはそれを「新たに生まれる」ことによって、また「水と霊とによって生まれる」ことによって可能になるのだと、説明しておられます。それまでの罪に支配されていた自分と別れて、その古い自分に死んで、新たに天の父なる神から与えられる霊によって生きる者に変えられる。そして、主イエスの十字架の死と復活に合わせられる洗礼を受け、水によって古い自分を洗い流し、新たに主イエス・キリストの救いの恵みによって生きる者へと変えられる。そのようにして、わたしは主イエスによって開かれた神の国に入ることが許されるのです。

 神の国では、神が永遠にわたしたちと共におられます。神とわたしとの交わりを妨げるものは何もありません。神の国では、もはや死はなく、悲しみや痛みもなく、すべての不安や恐れは消え去り、常に、永遠に神が共におられ、主イエスのみ顔を仰ぎながら、感謝と喜びに満ちた祝宴の席に連なることが許されるのです。

 わたしたち信仰者は、今すでに、この世にあって、来るべき神の国に生き始めているのです。罪と死に勝利された主イエスが、天の父なる神のみ座から、わたしたちのために執り成していてくださるからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、み子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちをあなたの救いと恵みのご支配のもとへと招き入れてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、あなたの強い愛と聖霊のみ力によって、わたしたちを永遠にあなたの御国の民としてください。

○主なる神よ、あなたが恵みと憐みとをもって秋田教会の一年の歩みをお導きくださいましたことを覚え、感謝いたします。また、教会に連なる一人一人をもお導きくださいましたことを感謝いたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月24日説教「わたしたちのための救い主の誕生」

2023年12月24日(日) 秋田教会クリスマス礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章8~14節

説教題:「わたしたちのための救い主の誕生」

 クリスマスという言葉が「キリスト」と「ミサ」の二つの言葉が合体して作られたということをお聞きになったことがあるかもしれません。キリスト・ミサ、つまり、主イエス・キリストというこの日にお生まれになった一人の人間と礼拝とが結びついた言葉です。その意味は、この日は、主イエス・キリストを礼拝する日であるということであり、この日お生まれになった主イエス・キリストを礼拝してお迎えするということです。もう少し言葉を替えて言えば、この日を祝う最もふさわしい仕方は、この方を礼拝することであるということであり、あるいはまた、この方をわたしが礼拝すべき方としてお迎えするということです。

 実は、きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書で、羊飼いたちが聞いた天使の言葉の中に、そのクリスマスという言葉の意味が語られているのです。10節から読んでみましょう。【10~11節】。「だから、あなたがたはこの方を礼拝してお迎えしなさい。この方をあなたが礼拝する神として信じ、受け入れなさい。そうすれば、あなたは救われ、クリスマスの恵みと祝福にあずかることができます。それがクリスマス、キリスト・ミサの意味なのです」と、神の使い、天使が告げているのです。

 では、最初にこのクリスマスのメッセージを聞いた羊飼いたちはどうしたでしょうか。15節以下にこのように書かれています。【15~17節】。そして、【20節】。羊飼いたちはすぐにベツレヘムの町にでかけ、幼子が生まれた場所を探し当てました。そして、実際に神をあがめ、賛美したと書かれています。彼らはこの日お生まれになった幼子主イエス・キリストが、天使がお告げになったように、神から与えられた自分たちの救い主、主メシアであると信じました。彼らは最初のクリスマスを祝った人たち、主イエス・キリストを礼拝した人たちとなったのです。そればかりでなく、彼らはそのことを人々に告げ知らせた最初の伝道者となったとも書かれています。

 そこでわたしたちは、クリスマスの日にお生まれになった「あなたがたのための救い主、主メシア」とはどのような方なのか、なぜその方は礼拝されるべきなのかについて、さらに深く学んでいくことにしましょう。

 「救い主」とは、一般的には広い範囲に及ぶ助けとか解決法を与える人を言います。「救世主」という言葉も用いられます。たとえば、この薬は難病で苦しむ人たちの救世主となるというように、いろいろな場面や分野で用いられることがあります。しかし聖書では、ほとんどの場合、人間を罪から救う人を指しており、しかもその人はすべての人々にとっての、ただ一人の、唯一の救い主であることを意味します。それが、クリスマスの日にお生まれになった主イエス・キリストであると聖書は語っているのです。

 罪からの救いとはどういうことでしょうか。まず、罪とは何かといえば、罪とは神と人間との関係が壊れていることを言います。聖書によれば、神は人間をご自分の形に似せて創造されました。神と親しく交わり、神のみ心をわきまえ知り、そのみ心に喜んで従って生きる者として、神は人間を創造されました。そうである時に、人間は一組のアダムとエヴァとなって、互いにふさわしい助け手となり、共に歩むパートナーとして、人間同士もまた親しい交わりをもつ共同体となるのです。

 ところが、最初の人アダムとエヴァが神の戒めに背いて罪を犯し、神から遠ざかり、神に逆らって、罪の中で生きる者となってしまいました。これが原罪と言われるものです。人間の罪は全人類に及んでいます。それによって、争いや憎しみ、戦争、殺戮、破壊、分断といった醜い、不幸な人類の歴史が始まり、また今も繰り返されているのです。

 けれども、神は人間の罪の歴史をそのままにはしておかれません。人間が罪の中で滅びていくことをお許しにはなさいません。神は人間を罪から救うために、神がお選びになったイスラエルの民と預言者たちや王たち、また祭司たちによって、神の救いのみわざを行なわれました。そのことを記しているのが旧約聖書です。それらの預言者、王、祭司は、その職に任じられる際に、頭からオリブ油を注がれるという油注ぎの儀式を行いました。それは、神の霊と恵みがその人の上に豊かに注がれ、それによって託された務めを果たすことの約束、しるしでした。

 神はそのようにして、ご自身の永遠なる救いのご計画を進められ、ついにはこの時に、まことの、そして永遠の預言者、王、祭司であられる、油注がれた者、それをヘブライ語でメシアと言いますが、そのメシア・救い主をこの世にお遣わしになったのです。その方こそが、クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストなのです。

 主イエス・キリストは全人類を罪から救うために、父なる神への全き服従の道を歩まれ、わたしたちの罪のために苦難を受けられました。そして、わたしたちを罪の支配から解放し、わたしたちの罪を贖うために、ご自身の罪なきお体を十字架に犠牲としておささげになりました。わたしたちはこの主イエス・キリストの十字架の福音を信じ、主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、受け入れるならば、だれでも罪から救われ、死と滅びから救われるのです。これが、「あなたがたのための救い主、主メシア」の具体的な内容です。

 人間の罪は神に対して犯された罪ですから、それをゆるすことができるのは神のみです。主イエス・キリストはまことの人間としてこの世にお生まれになりましたが、ご自身はまた罪も汚れもない神のみ子でした。神のみ子が人となってこの世においでくださったのです。それがクリスマスの日の出来事でした。それゆえに、わたしたちはこの救い主イエス・キリストを、わたしの罪をゆるす権威と力とを持っておられる唯一の神としてあがめ、礼拝するのです。

クリスマスの日に最も重要なことは、わたしたちがこの日に神と真実な出会いを経験することです。わたしが神のみ前に立つということです。そして、神のみ前で自分自身の罪に気づかされるということです。しかも、その罪がすでに神によってゆるされているということを信じることです。神とわたしの関係、神と人間との関係が正しく回復されなければ、人間のすべての営みは曲がったもの、歪んだものになるほかにありません。人間と人間との関係も、人間が共に住む社会も、地域も、家庭も、また人間の経済活動とか政治とか、教育とか、あらゆるものもまた、神と人間との関係が正しくなければ、それらのすべては歪んだもの、不健康なものにならざるを得ないのです。

このクリスマスの日に、神ご自身の方から、人間との関係回復のために、人間との交わりを正常に戻すために、神のみ子が派遣されてきたことを、わたしたちは感謝と驚きとをもって知らされました。わたしたちの救い主としてこの日にお生まれになられた主イエス・キリストを、わたしを罪から救う唯一の救い主と信じ、神とわたしとの関係を正しく回復していただく。そして、わたしが正しく神を礼拝し、神にお仕えしていく。そこから、わたしの新しい歩みが始まります。わたしは神との間に平和を与えられている平和の使者として、この世にあって真実の平和を創り出すために遣わされていくのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、暗黒と死の陰に覆われていたこの世界に、天からのまことの光でこの世を照らしてくださり、救いの恵みをお与えくださいましたことを心から感謝いたします。この日にお生まれになられたみ子主イエス・キリストがすべての人の救い主であることを、世の多くの人々に信じさせてください。この世界は深く病み、痛み、悲しんでいます。争いや、憎しみ、分断が多くの人々の命を奪い、家々や自然を破壊し、人々の生活を破壊しています。主よ、どうかこの世界を哀れんでください。救ってください。真実の和解と平和をお与えください。クリスマスの日に天から与えられる大きな喜び、恵み、祝福を、多くの人々が経験することができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月17日説教「ヤコブからヨセフの子どもたちへ受け継がれた神の祝福」

2023年12月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記48章1~22節

    ヘブライ人への手紙11章17~22節

説教題:「ヤコブからヨセフの子どもたちへ受け継がれた神の祝福」

 エジプトに移住することになったヤコブ一族は、エジプト北部のゴシェンの地で、羊などの家畜を飼う民族として、400年以上の長い期間を寄留の民として過ごすことになりました。けれども、彼らはアブラハムから受け継いだ信仰を捨てることなく、エジプトの神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、のちのイスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神に対する信仰を持ち続けました。彼らの400年以上にわたるエジプトでの生活については聖書は全く語っていませんし、聖書以外の資料も残ってはいませんが、エジプト王朝の絶対的な権力のもとで、なぜ、どのようにして彼らが長くその信仰を維持することができたのかを考えてみれば、それは全く驚くほかはありません。この驚きについては、説教の終わりでもう一度触れたいと思います。

 前回読んだ46章には、世界規模の激しい飢饉が2年も続いたために、ついにヤコブが一族を挙げてエジプトに移住することになったことが書かれていました。次の47章には、ヤコブがエジプトの王ファラオと会見し、ゴシェンの地、またはラメセスの地に定住する許可を得たこと、それに、ヨセフが7年間続いた飢饉の中で知恵を発揮し、エジプトの繁栄のために貢献したことが語られています。

 きょうの礼拝で朗読された48章では、死ぬ時が近づいたヤコブがヨセフの二人の子どもを祝福したこと、また次の49章ではヤコブが12人の子どもたち全員を祝福したことと、ヤコブの死について描かれています。きょうは48章と49章から、ヤコブの祝福について学んでいくことにします。

 48章8~9節を読んでみましょう。【8~9節】。また、【20節】。49章では、ヤコブの長男ルベンから始まって、末の子ベニヤミンまでの12人の子どもたち一人一人の名前を挙げてヤコブが祝福の言葉を語ったことが記され、その最後の28節に、このように書かれています。【49章28節】(91ページ)。ヤコブはこのようにして、自分の子どもたちと孫にあたるヨセフの二人の子どもを祝福しました。族長ヤコブが死の直前に子どもたちを祝福したこと、そのことの意味、意義、重要性のことをまず取り上げてみたいと思います。

 信仰者がその人生の終わりに臨んで、最後になすべきことは何でしょうか。族長イサクがそうであったように、その子ヤコブも、すでに目がかすんで見えなくなり、足腰が弱って立たなくなり、体のすべての機能が衰えてきた時に、その最後の力を振り絞って、彼が死ぬ直前になすべきこと、それは子どもたちを祝福することでした。神からの祝福を子どもたちに受け継ぐこと、床に足を伸ばし、息絶えるその直前に、歯が抜け落ちたその口から洩れる最後の言葉が、神の祝福を祈る言葉であるということ、それこそが信仰者の生涯の最後になすべきことであり、また信仰者の生涯の中でもっとも偉大なわざであるのではないでしょうか。

 なぜならば、神の祝福はヤコブの死を越えて、信仰者の死を越えて、子どもたちに、次の世代へと受け継がれていく、最も偉大な財産であるからです。49章33節にこのように書かれています。【33節】(91ページ)。子どもたちに神の祝福を受け継いで、ヤコブの生涯は全うされました。彼の生涯は、47章28節によれば、エジプトへ移住してから17年、147年であったと書かれていますが、その信仰の歩みは試練に満ちたものでした。しかしまた、アブラハム、イサクから受け継いだ神の祝福を信じ続け、多くの子どもを賜り、事実、神の祝福をいっぱいに受けた生涯でありました。彼は死にます。しかし、受け継いだ神の祝福は、また彼が子どもたちのために祈った神の祝福は、彼の死を越えて、子どもたちへ、次の世代へ、イスラエルの民へ、そしてさらに、主イエス・キリストの教会へ、わたしたちへと受け継がれていくのです。永遠に消えることのない神の祝福、それを持ち運んだヤコブの生涯、そして彼の死の直前に、その神の祝福を子どもたちへと受け渡したヤコブ、これが創世記48章と49章に貫かれている大きな主題なのです。

 では、ヤコブはどのようにして神の祝福を受け渡したのかを、もう少し詳しく見ていきましょう。ヨセフは父ヤコブが病気だと聞いて、二人の子ども、マナセとエフライムを連れて、一族が移住してきたエジプト北部のゴシェンの地へと向かいました。2節にはこのように書かれています。「イスラエル(これはヤコブの新しい名前ですが)は力を奮い起こして、寝台の上に座った」。ヤコブは残されている命のすべてを振り絞るかのように、わずかな力を奮い起こして、神の祝福の担い手としての務めを果たそうとしています。彼は言います。【3~6節】。ヤコブはここで、28章10節以下に記されていたベテルで見た夢のことを思い起こしています。彼はその時、兄エサウから逃れて家を出、一人孤独な旅をしていました。ある夜に、神が夢に現れ、彼を祝福され、約束のみ言葉をお語りになったことを思い起こしています。そして今、彼が地上の旅路を終えようとしている、その最後の時に思い起こしているのが、彼自身の数々の失敗とか成功のことではなく、彼が経験した喜びや悲しみのことでもなく、あのベテルでの神の祝福の恵みなのです。その神の祝福こそが、彼のこれまでの全生涯を貫いていた揺るがない真実であり、彼の生涯を満たす永遠の真理であることを、彼は今告白しているのです。

 5節はのちのイスラエルの12部族の歴史と関連しています。ヨセフ部族は、のちになってエフライム部族とマナセ部族になってイスラエル12部族を形成することになります。本来のヤコブの12人の子どもたちに対する祝福は49章に書かれています。その12人の名前を確認しておきましょう。49章3節と4節が長男ルベンに対する祝福の言葉、5節から7節はシメオンとレビ、このレビ部族はカナン定着後は祭司の務めを担うことになるので、土地の分配からは除外され、その代わりに22節から26節のヨセフ部族がエフライム族とマナセ族の二つに分けられることになります。次が、8節から12節のユダ族、このユダに対する祝福の言葉は他よりも長くなっていますが、のちになってイスラエル王国が南北に分裂した際に、ユダは南王国を形成する中心的な部族となり、この部族からダビデ王が出ることになり、さらにはダビデの末裔から主イエスがお生まれになるわけです。10節以下を読んでみましょう。【10~12節】(90ページ)。

 13節はゼブルン、14節と15節はイサカル、16節と17節はダン、20節はアシュル、21節はナフタリ、そして27節は12番めの子ベニヤミン、それぞれに対する神の祝福の言葉が語られています。このように、ヤコブ・イスラエルは神に祝福された人であり、また神の祝福を持ち運び、それをのちの世代へと受け継がせる務めを果たし、その生涯の終わりに12人の子どもたちに神の祝福を受け渡し、その祝福の言葉によって来るべきメシア,主イエス・キリストを証しし、預言しました。ヤコブはこの使命を果たすことにおいて、もっとも祝福された信仰者であったと言えます。

 もう一度48章に戻りましょう。ヤコブがヨセフの二人の子どもを祝福した時に、不思議なことが起こりました。【13~19節】。ヨセフは長男マナセの方がより大きな祝福を受けるべきだと考えて父ヤコブの右手の方に座らせました。しかし、ヤコブは自分の手を交差させて、弟のエフライムを右手で祝福したのです。ヨセフは驚いて父の右手と左手を変えようとしました。父の目がかすんできてよく見えていないと思ったからです。けれども、ヤコブはこれでよい、これは神のみ心なのだと答えます。ヤコブの肉の目は見えなくなっていましたが、彼の信仰の目ははるかかなたの神のご計画を見ていたのです。すなわち、のちになってイスラエルが南北に分かれた際には、エフライム族は北王国を形成する中心的な部族となったのです。旧約聖書では北王国はしばしばエフライムと呼ばれています。

 ここではもう一つの不思議なことが起こっています。ヤコブはかつて若いころ、兄エサウを欺き、また目がかすんで見えなくなっていた父イサクをも欺いて、長男の特権を奪い取ったことがありました。創世記27章に書かれていました。しかし今、年老いて目が見えなくなったヤコブが、信仰の目で神の永遠のご計画を見ており、自分の子どもたちとヨセフの二人の孫たちを祝福しているのです。自分の意志や悪しき策略を用いて神の祝福を奪い取ったヤコブが、今や神のみ心に完全に服従し、神の祝福を語り、それを分け与えるヤコブへと変えられているという、奇跡をわたしたちは見るのです。神の祝福はこのようにして信仰者をみ心にかなう者へと造り変えていくのです。

 最後に、説教の冒頭で言及した驚きについて考えてみましょう。宗教も文化や生活習慣も全く違う異教の地エジプトで、400年以上にわたって自分たちの信仰を持ち続けることができたのは、いったいなぜなのか。歴史的資料や神学的考察からは直接答えを得ることはできないとしても、創世記を続けて学んできて、やがてその学びを終えようとしているわたしたちは、それは族長アブラハム、イサク、ヤコブによって受け継がれてきた神の祝福なのではないか、そして特に、創世記48章と49章で何度も繰り返して語られている神の祝福こそが、それを可能にさせたのではないか。そして、その神の祝福を、異教の地、ゴシェンでも、幾世代にもわたって自分たちの子どもへと受け継いでいった彼らの信仰の歩みが、それを可能にさせたのではないだろうか。創世記を学んできたわたしたちには、そのように思えるのです。

 人は言うかもしれません。神の祝福は少しも腹の足しにはならないではないか。神の祝福は世界の経済活動に何の影響も与えず、人類の発展のために何の貢献もできないではないかと。

 しかし、神の祝福はイスラエル12部族のエジプトでの400年余りの信仰を導いたのみならず、その後のイスラエルの民の千数百年の歩みをも導き、そしてついに、全世界の救い主、主イエス・キリストの到来へと、信仰の民を導いたという事実をわたしたちは見ているのです。

 主イエスは福音書の初めで弟子たちや人々を祝福してこう言われました。「幸いなるかな、心の貧しき人たち。神の国は彼らのものなり。幸いなるかな、心の清い人たち、彼らは神を見る。幸いなるかな、平和を創り出す人たち、彼らは神の子と呼ばれる」と(マタイ福音書5章3節以下参照)。わたしたちもまた主イエスによってこの祝福の中に招き入れられているのです。主イエスの祝福のみ言葉の中にこそ、真実の救いと命とがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたち一人一人を天からの豊かな祝福で満たしてください。全人類の救い主としてこの世にお生まれになった主イエス・キリストの救いの恵みが、この待降節の時、すべての人々に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月10日説教「神が主キリストによって告げ知らせた平和の福音」

2023年12月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    使徒言行録10章34~43節

説教題:「神が主キリストによって告げ知らせた平和の福音」

 使徒言行録10章の、異邦人コルネリウスの回心と言われる出来事を続けて読んできました。きょうは、コルネリウスの家でのペトロの説教の箇所を学びます。この説教は使徒言行録に記されているペトロのいくつかの説教の中で、異邦人に向けて語られた最初の説教です。初代教会で異邦人伝道がどのようにして始められたのかを知るうえでも、貴重な内容を含んでいます。

 ペトロの説教は、彼がどのようにして異邦人であるコルネリウスの家に説教者として招かれてきたのか、そのきっかけとなった出来事を思い起こしながら語り始めています。【34~35節】。「神が人を分け隔てなさらない」ことは、すでに28節で、コルネリウスの家に入ってすぐのあいさつの中でも語られていました。そしてこれが、10節以下に書かれていたペトロが見た幻の本来の意味なのです。今一度、彼が見た幻の本来の意味を確認しておきましょう。

 ペトロが見た幻は、旧約聖書で定められていた宗教的に汚れた動物、それゆえに食べてはならない動物と、食べてもよい清い動物の区別、いわゆる「食物規定」に関連していました。でもその本来の意味は、先に神に選ばれた民イスラエルとそうではない異邦人との区別のことであり、神がすべての食べ物が清いと言われたように、異邦人もまた今や神の選びの中に加えられ、清い民とされているということがそこで明らかにされたのです。これが、ペトロが見た幻の本来の意味であったということに、ペトロはあとで気づきました。と言うのは、主イエス・キリストの福音がイスラエルの民ユダヤ人にだけでなく、全人類に、すべての人に宣べ伝えられるようになったからです。もはや、イスラエルの民と異邦人との区別は不必要になったからです。

 だれであっても、神を恐れ、神を礼拝する人、神のみ言葉に聞き従う人を、民族の違いやその他の人間の側のあらゆる違いにかかわらず、神はすべての人を同じようにみ前にお招きくださるとペトロは語ります。天地万物を創造された主なる神はイスラエルの神であられるだけでなく、すべての民族、すべての人の神でもあられ、すべての人を罪から救い、神の国へとお招きになる唯一の主なる神です。神はそのことを人の子としてこの世にお遣わしになったみ子、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって明らかにされました。

 ペトロは続いて主イエス・キリストのことを語ります。【36~37】。36節では二つの重要なメッセージが語られています。一つは、「イエス・キリストこそがすべての人の主である」ということ、もう一つは、「主イエスは平和を告げ知らせた」ということです。この二つのことについて、もう少し詳しくみていきましょう。

 「イエスは主である」、これが初代教会の信仰告白の土台であり核であり、出発点であると言われています。聖書の中で一般的に用いられている「主イエス・キリスト」という表現は、その信仰告白を土台にしています。つまり、ガリラヤ地方のナザレでお生まれになったヨセフの子イエスは、全世界の唯一の主であり、神が旧約聖書で約束しておられた「油注がれたメシア・キリスト・救い主」であるという信仰がこの言葉で言い表されているのです。この「イエスは主である」という告白をもとにして、今日わたしたちが告白している『使徒信条』などの告白文章が形成されていったと考えられています。

 「主」という言葉には多くの意味が含まれます。第一には、「救い主」という意味です。キリストはギリシャ語ですが、もとのヘブライ語はメシアです。本来「油注がれた者」という意味ですが、イスラエルの民は神が油を注いだまことの王、まことの祭司、まことの預言者として、イスラエルを救ってくださるメシアを待ち望んでいました。主イエスこそがそのメシア・救い主・キリストであるという告白が「主イエス」という表現には含まれているのです。ペトロがこのあと説教の中でその主イエスの救いのみわざについて詳しく語っています。しかも、その中で重要なポイントをあらかじめ指摘しておくと、主イエスはイスラエルの民にとっての救い主であるだけでなく、全世界のすべての民、すべての人にとっての救い主であるということを、ペトロは強調しています。

 「主」という言葉のもう一つの意味は、すべての偶像の神々、偽りの神々が否定されているということ、また、人間が神に代わって自らこの世界の主として支配しようとする、人間のすべての悪しき権力が否定されているということです。主イエスのみ前にあっては、すべての偶像の神々、偽りの神々はその力と栄光を失います。人間はみな主イエスのみ前にあっては、罪の中で滅びるほかにない土くれに過ぎない者であることを知らされます。この世界にあるすべての被造物はこぞって主イエスのみ前に首(こうべ)をたれ、ひれ伏すほかにありません。

 次に、「主イエスは平和を告げ知らせた」というメッセージについてですが、これについてもペトロのこのあとの説教で詳しく語られるのですが、あらかじめポイントとなる二つのことに触れておきたいと思います。

一つは、平和とは、まず神と人間との間の平和のことです。それは、罪のゆるしによって与えられる神と人間との和解のことです。イザヤ書52章7節にはこう預言されています。

いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は

平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

 ルカによる福音書1章10節以下には、最初のクリスマスの日にその預言が成就したと書かれています。

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。……すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高みところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』(10~14節参照)。

主イエスの十字架の福音によって人間の罪がゆるされ、神と人間との間に平和が実現したのです。

 平和のもう一つの意味は、神と人間との平和によってさらに人間と人間との間の平和もまた実現しました。人間の罪が取り除かれたところに、真の意味での人間と人間との間の平和、民族と民族との間の平和、世界全体の平和が実現するからです。共に神によって罪ゆるされている人たちとして、もはやお互いを裁き合う必要がなくなるからです。

 あるいはここには、ユダヤ人と異邦人との平和と言うことも暗示されているのかもしれません。エフェソの信徒への手紙2章11節以下では、主イエスの十字架の血によって、異邦人とユダヤ人と間の平和が与えられ、両者が一つの新しい人に造り上げられたと書かれています。主イエスの十字架の福音が、地上のすべての分断、分裂、差別、偏見を取り除き、真の和解と平和と創り出すからです。

 37節から、ペトロの説教は主イエスのご生涯とそのお働きについて進んでいきます。「あなたがたはご存じでしょう」とは、主イエスの地上でのお働きについてカイサリアの人たちがすでに聞き知っていたということです。カイサリアは地中海沿岸にありますが、南部のユダヤ地方と北部のガリラヤ地方の中間に位置していますから、もしかしたらコルネリウスの家に集まっている人の中には直接主イエスのお姿を見たことがある人もいたかもしれません。また、エルサレム教会の大迫害で市外へと散らされた一人のフィリポがすでにカイサリアにまで足を運んで福音を宣べ伝えていたと8章40節に書かれていましたから、彼から主イエスのことを聞いた人もいたでしょう。

 ペトロは38節から具体的に主イエスのお働き、救いのみわざについて説教します。【38~41節】。38節の「油注がれた者」が先ほど説明したヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストです。神が旧約聖書で約束されたまことの救い主のことです。ここでは、具体的に主イエスの洗礼を指していると考えられます。主イエスが洗礼をお受けになった時に、ルカ福音書3章21、22節にこのように書かれています。「イエスが洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た」。主イエスは父なる神からの聖霊を受けて、神の力と権威を与えられ、数々のいやしの奇跡を行われ、悪霊を支配され、神の国が到来し、神の恵みのご支配が始まったことを実証されました。

 そして、39節と40節では、主イエスの十字架の死と復活、復活の顕現について語られています。ペトロの説教は、これまでユダヤ人対象に語ってきた説教がいくつかありましたが、その説教も、またここでの異邦人に向けて語られた説教でも、その中心的な内容は主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。そのことは、対象がだれであれ、あるいは時代がどのように変わろうとも、全く変わりません。今日の教会でわたしたちが聞くべき説教も、主イエス・キリストの十字架と復活の福音です。教会の福音宣教の働きが困難な時代であれ、世の人々の好みが変化し、教会に足を向ける人が少なくなった時代であれ、あるいは高度なテクノロジーが発達し、人間の生活の多くがデジタル化されたり、宇宙に飛行船が飛び交うようになったとしても、教会が語り、聞くべき言葉は、主イエス・キリストの十字架と復活の福音以外ではありません。

 なぜならば42節以下にこのようにあるからです。【42~43節】。主イエス・キリストこそが終末の時、この世が終わり、新しい神の国が完成される時に、「生きている者と死んだ者」のすべてを最終的にお裁きになるために、再びわたしたちの前に立たれる裁き主だからです。

 また、主イエス・キリストを信じる者は、だれであれ、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、若者であれ、老人であれ、悲しんでいる人であれ、孤独な人であれ、病や痛みや重荷に苦しむ人であれ、そのほかだれであれ、すべての人がその信仰によって罪ゆるされ、救われ、神の国での永遠の命を受け継ぐことが許されるからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画の中にわたしたち一人一人をも招き入れていてくださいますことを覚え、心から感謝し、あなたの尊いみ名をほめたたえます。だれもあなたの救いから漏れる人はいません。主よ、どうか教会の宣教の働きを強めてください。わたしたち一人一人をも主イエスの復活の証人としてお用いください。

○主なる神よ、あなたの義と平和とによって、この世界から争いや分断、殺戮や破壊、憎しみや怒り、不安や恐れを取り除いてください。主キリストにある喜びと平安とで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月10日説教「最も小さい者こそ、最も大きい」

2023年12月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編130編1~3節

    ルカによる福音書9章46~48節

説教題:「最も小さい者こそ、最も大きい」

 教会の暦では、きょうからアドヴェント(待降節)に入ります。アドヴェントとは、「到来、接近」を意味するラテン語に由来しています。全世界の救い主イエス・キリストの到来・接近のことです。日本語では、それを待ち望む人間の側から見て、主キリストの到来を待つ期間という意味で「待降節」と呼んでいます。

 また、教会の一年の暦は待降節から始まっています。きょうは待降節第一主日、次週から第二、第三、そしてその次の24日が降誕節(クリスマス)礼拝、その後、降誕後第一主日、第二、というように数えていきます。このように、教会の暦が待降節から始まるというのは、教会の本質を言い表しています。つまり、教会は常に待望する教会である。待ち望む信仰者たちの群れだということです。主キリストの降臨を待ち望む教会、そして、主キリストの再臨の時を待ち望む教会、神の国の完成の時を待ち望む教会、それが教会です。

 使徒パウロはそのような待ち望む信仰者と教会の特徴を、フィリピの信徒への手紙3章12以下でこう言っています。「わたしはすでにそれを得たとか、すでに完全な者となっているのでもない。ただ、何とかして捕らえようと努めている。なぜなら、自分が主キリストによって捕らえられているから。だから、なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が主キリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることだ」(12~14節参照)と。わたしたちもまた特にこの待降節に、天に約束されている永遠に朽ちない宝が与えられるのを切に待ち望みながら、教会の歩みを、また一人一人の信仰の歩みを続けていきたいと願います。

 ルカによる福音書を続けて学んでいますが、きょう朗読された箇所の少しあとの51節に、【51節】と書かれています。この51節から、主イエスのエルサレムに向かう旅が始まります。と言うことは、その前の46節から50節は、主イエスのガリラヤ地方での伝道の最後になります。その締めくくりと言うべき箇所です。

 しかし、その締めくくりの箇所では、ガリラヤ伝道の成果や実りがどれだけあったかとか、弟子たちがどれほどに訓練されて、来るべき神の国に入るための備えができたかとか、そのようなことがここで語られているのではなく、きょうの箇所では、弟子たちが「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」を論じ合っていて、主イエスにとがめられている様子と、49節以下でも主イエスのみ心に反したことを弟子たちが行なっていたことが書かれています。ここでは、ガリラヤ伝道の成果について語られているのではなく、むしろ弟子たちの未熟さ、不信仰が語られているというべきでしょう。ガリラヤ伝道も弟子たちの訓練も、いまだ未完成であり、いまだ道の途中であるということがここでは明らかにされているのです。しかしまた、そうであるからこそ、主イエスはエルサレムでのご受難と十字架の死へと向かって前進なさるのだと言わなければなりません。それによって、弟子たちの信仰もまた完成されるからです。

 【46節】。弟子たちがなぜこのようが議論をし始めたのか、その理由ははっきりしませんが、すぐ前の44節の、主イエスの2回目の受難予告との関連で考えてみると、その意図が浮かび上がってくるように思われます。主イエスは言われました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と。また、9章22節の1回目の受難予告では、【22節】と言われました。ところが、45節に書かれていたように、弟子たちにはこの主イエスのお言葉の意味がよく分かりませんでした。その意味が彼らには隠されていました。また、その本当の意味を知ることを弟子たちは恐れていたとも書かれています。

 つまり、主イエスのご受難と十字架の死を理解できず、それを正しく受け止めることができず、主イエスがこれから進もうとしておられるエルサレムへの道を恐れていた弟子たち。むしろ、その主イエスのみ心とは正反対のことを考えていた弟子たち。そのような弟子たちの無理解と不信仰をより明らかにしているのが46節から50節なのだということに気づかされるのです。

 では、そのような視点からきょうのみ言葉を学んでいきましょう。46節で「一番偉い」と翻訳されているもとのギリシャ語は「メガス」という言葉の比較級です。「メガス」は形が大きいとか、質的に豊かであるとか、あるいは社会的な地位が高いという意味でも用いられますが、きょうの箇所では大きいか小さいかが議論されているので、「偉い」という評価を抜きにして、単純に「大きい」と翻訳するのが良いと思われます。

 したがって、48節の主イエスのお言葉も、「最も小さい者こそ、最も大きい」と翻訳するべきと思われます。そうしないと、大きいか小さいかが問題になっている箇所に、人間の価値判断で偉いか偉くないかという別の評価が持ち込まれて、両者が混同されてしまうからです。後でまた触れますが、主イエスはここで、人間の目から見てどちらが偉いか、偉くないかとか、どちらが人間的に価値が高いか、低いかということを問題にしているのではなく、主なる神がその人を大きいと見てくださるのか、それとも小さいと見られるのかということが重要だからです。

 そのことをより深く理解するために、マタイ福音書の並行箇所を参考にしてみたいと思います。マタイ福音書18章1節にはこう書かれています。「その時、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」。それに対する主イエスのお答えが3節に書かれています。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(3~4節参照)。

 このマタイ福音書から明らかなように、ここで問題になっているのは、天の国、すなわち神の国にはどのような人が招かれているのか、また神の国においてはどのような人が大きいとされるのかということなのです。もっとも、ルカ福音書がきょうの箇所で「神の国では」という言葉を省いているから、ルカ福音書では神の国のことが論じられているのではなく、この世でのことが言われているのだと結論づけることは間違っています。この世でのことと来るべき神の国でのことは、全く違った別々の基準で見られるのではなく、この世でどのように生きるかということと、神の国で神ご自身がどのようにそれを見てくださるのかということは密接に結びついていることだと、聖書全体が教えているからです。

 したがって、わたしたちがルカ福音書を読む場合にも、ここでは神の国のことが問題にされているのだということを常に意識していることが必要です。もう一度確認しておきますが、主イエスはここで、人間としての価値とか、この世での社会的な評価とかを問題にしておられるのでは決してないということ、神ご自身がわたしたち一人一人をどうご覧になっておられるか、神がわたしたちに何を約束しておられるのか、また実際に神の国において神がわたしたちをどのようにお迎えくださるのか、そのことがここでは重要だということです。

 では次に、【47~48節】。弟子たちは主イエスには悟られないように、隠れて、「だれがいちばん大きいか」と議論していたようです。けれども、主イエスは弟子たちの心の中にある傲慢や欲望や競争心といった、人間の罪の根源をすべて見ておられ、知っておられます。そのような人間の罪が、他者を押しのけ、あるいは犠牲にし、あるいは否定し、自分一人だけが高くに登ろうとして、ついには神をも押しのけてしまう結果に至るということを主イエスは見ておられ、知っておられます。旧約聖書以来、聖書の全巻がそのような人間の罪について語っているからです。

 そのような罪に支配されている弟子たちには、主イエスの受難予告は理解できず、受け入れることはできません。罪なき神のみ子であられながら、ご自身が罪びとの一人に数えられ、それだけでなく、すべての罪びとたちの罪をお引き受けになって、罪びとたちの手から手へと引き渡され、偽りの裁判で裁かれ、弱々しく、全く小さな、無力な存在となられて、十字架で死んでいかれる主イエスを神から遣わされたメシア・救い主と信じ、受け入れることは、罪に支配されていた弟子たちにはできません。

 そこで、主イエスは一人の子どもをお招きになります。そして、この子どもを主イエスのみ名によって受け入れる人こそが、主イエスを信じ、受け入れる信仰者であると言われ、またそのような信仰者こそが神の国に招き入れられるのだと言われました。

 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる」とは、主イエスがこの子どもと同じ存在であることを信じる、あるいは主イエスをこの子どもと同じお方として信じ、受け入れるということを意味します。子どもは親や大人の手助けがなければ、自分で自分の衣食住を手に入れることはできず、死ぬほかにありません。全く力なく、無力で貧しく小さな存在です。その存在と命のすべてを親や大人に依存しています。主イエスはまさにそのような神のみ子であられました。天の父なる神の助けなしには何もなしえず、すべてを父なる神に依存し、父なる神に期待し、それゆえに、すべてにおいて父なる神に服従して生きるほかにない神のみ子として、主イエスはご受難と十字架への道を進まれたのです。

 主イエスがそのようにして、神のみ子として、最も小さな貧しい神の僕(しもべ)として、父なる神に全き服従をささげて十字架への道を進もうとしておられる時に、弟子たちはその道とは全く正反対の道を目指し、自らを高く、大きくしようと競い合っていたのです。けれども、主イエス・キリストの十字架はそのような人間の傲慢や欲望や競い合いのすべてを打ち砕き、その罪の道に終止符を打つのです。

 そのような主イエスを、神から遣わされたメシア・救い主として受け入れ、全人類の唯一の救い主と信じることが、わたしたちの信仰です。ご自身を全く無にされ、ご自身のすべてを父なる神にささげつくされ、そしてわたしたちのためにその命をおささげくださった主イエスこそが、わたしの救い主であると信じる信仰、主イエスの十字架の死にこそわたしの罪のゆるしと救いのすべてがあると信じる信仰、そのような信仰を主イエスは求めておられるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがわたしたちの罪のために、み子を十字架に引き渡され、それによってわたしたちの罪を贖い、救ってくださいましたことを感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたのみ前で謙遜になり、悔い改める者としてください。

○主なる神よ、あなたの義と平和によってこの世界に真の和解と共存をお与えください。