5月5日説教「ルカが伝えた福音」

2019年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記6章4~9節

    ルカによる福音書1章1~4節

説教題:「ルカが伝えた福音」

 本日から、ルカによる福音書を連続して読んでいきます。新約聖書には四つの福音書があります。いずれも、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストのご生涯とそのお働き、主イエスが語られた説教と救いのみわざが描かれています。最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ福音書を共観福音書と呼びます。形式や内容が非常によく似ていて、お互いに参考にしたか、あるいは同じ資料を参考にして書いたと推測されるからです。今日の研究によれば、マルコ福音書がオリジナルで、紀元60年代に書かれ(つまり、主イエスの十字架と復活からおよそ30年近くたってから書かれ)、マタイとルカはマルコを参考にしながら紀元70年代以降に書かれたと考えられています。わたしたちが今日福音書を読む場合にも、これらの三つの福音書を互いに参照しながら読むことは、理解の助けになります。ちなみに、ヨハネ福音書は共観福音書とはかなり違った形式で書かれています。これを第四福音書と呼ぶこともあります。しかし、その中心的な内容は、共観福音書も第四福音書も、まったく同じ主イエス・キリストであり、主イエス・キリストによる救いのみわざであることは言うまでもありません。

 著者はルカという人だと伝えられています。実際にはこの福音書の中にはその名前は記されてはいませんが、彼は、後でも触れますが、使徒言行録の中でパウロの世界伝道旅行にしばしば同伴した医者のルカであろうと考えられます。ルカは教養のあるギリシャ人であったらしく、ルカ福音書はきれいなギリシャ語で書かれ、文学的に見ても優れていると言われています。また、時々医学の専門用語が用いられていることからも彼が医師であったことが分かります。

 きょうは1~4節の序文を学びます。【1~4節】。ここには、この福音書が書かれた動機、その材料、その内容、その目的が書かれています。まず、1節冒頭には「わたしたちの間で実現した事柄について」と書かれています。これが、この福音書の内容を意味しています。その事柄とは、もちろん主イエス・キリストによる救いの出来事のことです。神はご自身の独り子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、この主キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださいました。ルカはその事柄をこれから書こうとしています。

 「わたしたち」とは、ルカと同時代の人たちだけを指すのではなく、ルカ以前に主イエスの地上の歩みと十字架の死と復活を共に経験し、目撃した人たち、またルカ以後のすべての時代のすべての民族の、すべての人たちをも含んでいます。主イエスの救いのみわざはそのすべての人たちにとって有効であり、意味ある出来事だからです。もちろん、きょうこの礼拝に集められているわたしたちをも含んでいます。ルカがこれから描こうとしている主イエスの救いのみわざは、わたしたち一人ひとりにとっても、救いのみ言葉であり、命のみ言葉です。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、過去の2千年前の出来事であるのみならず、今ここで、この礼拝に集められているわたしたちの間で実現している事柄でもあるのです。それが、神のみ言葉である聖書を読むということです。

 「実現した」とは、成就した、完成したという意味も含みます。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に対して約束された契約が、主イエス・キリストによってすべて成就しました。したがって、「実現した」の主語は神です。自然現象とか歴史の必然とかによって引き起こされた事柄ではありません。神が天地創造の初めからご計画しておられ、ご自身がお選びになった人々によって進めてこられた救いのみわざを、それらは旧約聖書に記されていますが、そのすべてが主イエス・キリストによって成就し、完成し、最後の目標に達したということなのです。

 「実現した」の主語が神であるということを確認しておくことは非常に重要です。人間はこの事柄に、主体としては全く関与していません。いやむしろ、人間は神に背き、神の救いのご計画をくつがえそうと何度も何度も神に敵対してきました。けれども、神はそのような人間たちの罪の中でご自身の救いのみわざを力強く推し進めてこられました。人間たちの罪を打ち破るようにして、神の救いのみわざは実現されました。「わたしたちの間で実現した」とは、そのような意味をも含んでいます。

 さらに、もう一つ重要なポイントは、ルカは自分で成し遂げた事柄についてこれから書こうとしているのではないということです。ルカが教養あるギリシャ人で、医師でもあったと推測されています。彼自身もその時代の中で誇りえる何がしかの働きをしていたのかもしれません。けれども、ルカはそれをこれから書くのではありません。彼自身のことではなく、主なる神が彼と全人類のために成し遂げてくださった救いのみわざについて、彼自身も信じて救われた主イエス・キリストの福音について、彼が全世界に宣べ伝えるようにと神から命令された主キリストの福音について、ルカは書くのです。

 2節からは、ルカが福音書を書くために用いた資料について言及されています。「多くの人が既に手を着けています」とあります。前にもお話ししましたように、マルコ福音書が最も早く紀元60年代に書かれていました。そのほかにもいくつもの資料がルカの手元にあったことが分かります。ルカはマルコ福音書を最も重要な資料として用いたことが、両者に共通している箇所が数多くあることからも推測できます。

 ルカはマルコ福音書やその他の多くの資料を参考にしながらも、彼自身の明確な意図をもって、3節で言われているように、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて」、新たな福音書をしたためようと決意したと述べています。ルカはこれまでに主イエスのことを書き記してきた人たちに敬意を表しながらも、彼独自の努力を重ね、彼独自の意図と目標をもってこの福音書を書くという強い決意をここで語っています.その意図とは何であるのかについては、これからルカ福音書を読み進めていけば明らかになるのですが、あらかじめ一つのことに触れるならば、それは、主イエス・キリストの福音がユダヤ地方のエルサレムから始まり、やがて当時のローマ帝国のいたるところへと、全世界へと広がっていくという、世界的な視野をもって福音書を書くという意図を挙げることができるでしょう。

 そのことは、ルカが書いた続編である使徒言行録へと受け継がれていきました。【使徒言行録1章1~2節】(213ページ)。パレスチナの一角、エルサレムでの主イエスの十字架と復活の出来事は、やがて主イエスの弟子たち、使徒たちによって全世界へと告げ広められていくようになる、主イエスは全世界の唯一の救い主である、ローマ帝国の皇帝であれ、世界の諸国の王であれ、だれであれ、人間を罪から救うことができる救い主は、主イエス・キリスト以外にはおられない、そして、やがて全世界に主イエスを救い主と信じる人々の群れである教会が建てられるであろう、ルカはそのような世界的な視野をもってこれから新たな福音書を書こうとしているのです。

 ルカはパウロの第二回世界伝道旅行の途中、使徒言行録16章10節からパウロに同伴したと思われます。というのは、ここから「わたしたちは」という書き出しになっているからです。【使徒言行録16章10~11節】(245ページ)。「わたしたち」とは使徒言行録の著者であるルカとパウロの一行を指していると考えられます。この後にも、何回か「わたしたちは」という文章が出てきます。

 さて、ルカが福音書を書くにあたって用いたマルコ福音書やその他の資料は、さらにさかのぼれば、「最初から目撃して御言葉のために働いてきた人々」にその源泉があります。この人々とは、主イエスの12弟子たちや直接に主イエスの説教を聞き、奇跡のみ業を見た人たち、また特に主イエスの十字架の死と復活を目撃した人たち、そしてそれを信じた人たちを指しています。ルカ福音書だけでなく、パウロ書簡も、新約聖書のほとんどは直接に主イエスにお仕えした弟子たちによって書かれたものではありません。ルカもパウロも地上の主イエスのお姿を直接に見たことはなかったろうと思われます。でも、彼らが福音書や手紙に書いた事柄は、その出来事を直接に目撃した人たちの証言に基づいていました。架空の作り話ではありません。だれかの創作、空想でもありません。それは歴史的な出来事です。多くの証人たちが、主イエスのお姿を見て、その説教を聞いて、その軌跡のみわざを目の当たりにして、そして主イエスの十字架と復活の目撃者となり、それを神の救いのみわざと信じ、主イエスのために自らの全生涯をささげ、信仰と喜びとをもってその福音を宣べ伝えたのです。そして、資料として文字に書き記しました。聖書はそのような最初の目撃証人たちの証言という、確かな基礎、源泉を持っているのです。わたしたちはその証言を信仰をもって受け入れ、わたしの信仰とするのです。

 「御言葉のために働いた人々」とあります。彼ら最初の目撃証人たちはひたすらに御言葉に仕えました。ここで御言葉と訳されているギリシャ語は、先週の礼拝で私たちが読んだヨハネによる福音書1章1節の「初めに言(ことば)があった」という個所のギリシャ語と同じ「ロゴス」です。このロゴス・言葉は、普通の人間が語る言葉ではなく、神のみ言葉、また神のみ言葉そのものであられる主イエス・キリストを言い表しています。彼ら最初の目撃証人たちは皆、徹底して主イエスご自身のために、神のみ言葉のために働き、奉仕しました。彼らが目撃者として語ったこと、文字に記したことは、それによって自分自身が文筆家として名をあげたり、財を築くためでは全くありませんでした。彼らはみな、み言葉のために、主イエス・キリストのための奉仕者として働いたのです。それゆえに、彼らの働きは少しも無駄にならずに、全世界の教会を建てるために用いられ、多くの信仰者を罪から救うために用いられているのです。わたしたちもまたその恩恵を受けています。

 ルカ福音書は続巻の使徒言行録とともに、テオフィロという人に献呈されています。それが執筆の直積的な動機、目的になっています。テオフィロという人の素性については全く分かっていません。テオフィロというギリシャ語は「神の友」という意味を持っていますが、彼がすでに洗礼を受けてクリスチャンになっていたのか、求道者だったのかについてもわかりません。ローマ帝国の中でかなりの地位にあった人であったことがその呼び名で分かります。彼は主イエスの福音に対してよい理解を示していましたが、彼の理解がより深まり、主イエスを救い主として信じる信仰がより一層強められることを願って、ルカはこの福音書を書き、これをテオフィロに献呈すると述べています。

けれども、それだけが執筆の目的でないことは明らかです。テオフィロ一人だけでなく、彼以後の時代の、この福音書を読むすべての人が、そしてまた今この福音書を読んでいるわたしたちも、この執筆の目的は当てはまります。わたしたちが礼拝でルカによる福音書を聞くことによって、わたしたちの信仰の確信がより強められ、また求道中の方たちがこのみ言葉を聞いて、洗礼を受ける決意へと導かれること、それがこの福音書が書かれた目的であり、わたしたちが主の日ごとにささげる礼拝の目的でもあるのです。

(祈り)

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