5月12日説教 「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

2019年5月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    フィリピの信徒への手紙1章1~2節

説教題:「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

 フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがマケドニア地方のフィリピという町に建てられた教会にあてて書いた手紙ですが、これには二つの別の名前が付けられています。一つは「喜びの書簡」、もう一つは「獄中書簡」です。「喜びの書簡」と言われるのは、この手紙の中に「喜び、喜ぶ」という言葉が10数回用いられており、手紙全体の内容も喜びと感謝に満ち溢れているからです。きょうの礼拝で朗読されたすぐ後の4節には【4節】とあり、また18節にも、「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と書かれています。さらに、25節にもこのように書かれています。【25節】。

4節と18節は、この手紙の差出人であるパウロの喜びであり、25節では手紙の受取人であるフィリピの教会の信徒たちの喜びについて語っています。この手紙では、パウロもフィリピの教会員も、共に喜び合い、喜びに満たされています。主イエス・キリストの福音を信じる人たちは、どこにいる人たちであれ、どのような状況に置かれている人たちであれ、またお互いがどのような関係にある人たちであれ、同じように、共に喜び合い、共に喜びを分かち合い、互いに喜びを与え合うことができる、そのような交わりが与えられているのだということを、この手紙を学び始めるにあたり、わたしたちはまずそのことを確認しておきたいと思います。

したがって、この喜びはパウロやフィリピの教会の人たちが自分たちで勝ちとったり、作り上げた喜びではなく、主イエス・キリストの福音からパウロとフィリピの教会の人たちに与えられた喜びなのであって、それゆえにパウロが今どのような状況にあるかとか、フィリピの教会がどうであるかということには関係なく、あるいはわたしが、わたしたちの教会がどのようであるかということにも全く関係なく、それらがどうであれ、それらのすべてをはるかに超えて、天の神から、わたしたちの主イエス・キリストから、すべて信じる人に与えられている大きな、永遠の喜びなのだということ、そのことをもあらかじめ確認しておきたいと思います。

次に「獄中書簡」についてですが、パウロはこの手紙を獄中から書いていると推測されることからそう名付けられています。12、13節やその他の個所からもそのことが推測されます。パウロは紀元48年か49年ころに、第2回世界伝道旅行に出かけ、その途中で小アジア地方からヨーロッパの入口に当たるマケドニア地方に入り、フィリピ、テサロニケ、アテネ、コリントで伝道活動を続けました。そのことは使徒言行録16~18章に書かれています。その後パウロはユダヤ人からの迫害を受け、何度か投獄されました。この手紙は、エフェソかローマで捕らえられた時に書かれたと推測されています。他にも「獄中書簡」と言われるのは、エフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙があります。

そこで、この手紙につけられた二つの名前、「喜びの書簡」と「獄中書簡」の関連について考えてみましょう。本来、この二つは相反する内容をもっていて、一つのことを同時に説明する言葉としてはふさわしくないように思われます。獄に捕らわれの身となることは、だれにとっても喜ばしいことではあり得ません。パウロにとってもそうであったに違いありません。全世界に主キリストの福音を宣べ伝え、多くの人々の魂を救いたいとの彼の願いは、投獄によって中断されざるを得ません。彼が福音の種をまいた諸教会を訪ね、群れを励まし、その信仰の成長を助け、主キリストの体なる教会を堅固に建てていくために仕えるということも、妨げられます。それに、彼の裁判の時が迫っており、そこでは死刑の判決が下されるであろうということも、この手紙から推測されます。そのような状況の中で、いったいだれが喜ぶことなどできるでしょうか。

けれども、パウロは今喜んでいます。彼の身を案じているフィリピの教会の人たちにも、繰り返して「あなたがたも喜びなさい」と命じています。では、このパウロの喜びがどこからきているのか、それはわたしたちがすでに確認したことですが、パウロやフィリピの教会の現状からではなく、そのすべてを越えて、そのすべてを突き破るかのようにして与えられる、主イエス・キリストの福音がもたらす喜びなのです。パウロが今どのような困難な状況に置かれていたとしても、フィリピの教会が今どのような不安や恐れや戦いの中にあろうとも、この世のあらゆる鎖や壁や鉄格子を断ち切って、信じる人たちを天からの喜びで満たし、それらのすべてから解放し、自由にする大きな喜びなのです。

したがって、「喜びの書簡」と「獄中書簡」という二つの呼び名は、主イエス・キリストの福音によってこそ、互いに固く結びつけられているのです。そして、そのことはわたしたちの日々の信仰生活においても起こります。主イエス・キリストの福音は、わたしたちを縛り付けているこの世のすべての恐れや重荷や苦悩からわたしたちを解放し、自由にし、喜んで神と隣人とに仕えていく道を切り開いていきます。わたしたちはきょうから学び始めるフィリピの信徒への手紙から、そのような力強い神のみ言葉を聞き取っていきたいと思います。

さて、1~2節では、この手紙の差出人と受取人が紹介され、次に差出人から受取人への祝福の言葉が書かれています。これは当時のギリシャ社会の手紙の書き方に倣っています。パウロの多くの手紙も同じような書式で始まります。ただ、パウロは当時の一般的な書式をそのまま踏襲しているのではありません。パウロ独自の、福音的な内容が込められています。

1節の差出人の紹介にその特徴が最もよく表れています。「キリスト・イエスの僕(しのべ)であるパウロとテモテから」、これが手紙の差出人の自己紹介です。きょうはこのみ言葉に集中して学んでいきます。

まず、「パウロとテモテ」という二人の名前が、共同発信人として挙げられています。パウロの他の多くの手紙でもそうです。その理由についてはいくつかのことが考えられます。一つには、テモテはパウロの最も近くにいて共に福音伝道のために仕えた弟子であり、特にフィリピ伝道の際にはパウロはテモテをぜひとも一緒に連れていきたいと願ったことが使徒言行録16章に書かれています。テモテはパウロと共にフィリピ教会誕生のために仕えました。教会の人たちにもよく知られていましたから、彼を共同発信人として名を連ねることは、教会員にとって信仰による交わりを強めることになります。

テモテが実際にこの時にパウロのそばにいて、獄中のパウロの世話をしていたのかどうかについては確認されてはいませんが、パウロがテモテを手紙の共同発信人に挙げているさらに大きな理由は、この手紙でパウロは単に個人的な意見を述べているのではなく、主キリストの福音の証しとして、主キリストから遣わされた使者として、天からの権威と豊かな恵みを語っているということを強調するためでした。主イエスは12弟子を神の国の福音を宣教するために遣わすにあたって、二人を組にして派遣されたということが、マルコによる福音書6章7節等に書かれています。それは、旧約聖書に「重要な判決を下す場合には、二人、または三人の証言によらなければならない」と定められているからです(申命記19章15節以下等を参照)。パウロがこの手紙で語っていることは、すべて真実であり、真理であり、主なる神がフィリピの教会に対してお語りくださる神のみ言葉なのであり、彼らはその神のみ言葉を命のみ言葉として、彼らを罪から救う主イエス・キリストの福音として聞くべきなのです。わたしたちにとってもそうであることは、言うまでもありません。

「キリスト・イエス」とは、「イエスはキリストである」という初代教会の信仰告白です。イエスは、ヨセフとマリアの子としてクリスマスの時に誕生された子どもの名前です。ユダヤ人には一般的な名前でした。しかし、この子の名前はこの子が誕生する前に神によって定められていた名前でした。またこの子は、ヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、聖霊によって宿った神のみ子でした。神はこのみ子によって、ご自身の救いのみわざを成し遂げるために、この世にお遣わしになりました。それは、神が旧約聖書の中でイスラエルの民と結ばれた契約の成就でした。

それを示す言葉がキリストです。キリストはヘブル語メシアのギリシャ語訳です。ヘブル語のメシアとは、「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王、祭司、預言者がその務めにつく時には就任式でオリブ油を頭から注がれました。主イエスの時代には、神がやがてイスラエルにお遣わしになられる、まことの王であり、まことの祭司であり、まことの預言者である救い主を「油注がれた者」メシアとして待望していました。主イエスこそがそのメシア・キリストです。全人類の救いのために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、今も生きて教会の主として、わたしたち一人一人の救い主として導いておられる主イエスこそが、神から遣わされた永遠の油注がれたメシア・キリストである、まことの王、まことの祭司、まことの預言者であるという信仰告白が、「キリスト・イエス」、あるいは「主イエス・キリスト」という言葉の意味です。

わたしたちが主イエス・キリストという場合にも、十字架と復活の主イエスこそがわたしの唯一の主であり、わたしを罪から救ってくださる唯一の主であり、したがって、わたしが聞き従い、わたしのすべてをささげつくしてお仕えするべき唯一の主であるというわたしの信仰を告白しているのです。

最後に、「キリスト・イエスの僕(しもべ)」という言葉について聖書のみ言葉からその深い意味を探っていきましょう。パウロはローマの信徒への手紙1章1節でも、自分をキリスト・イエスの僕と紹介しています。僕とは文字通りには奴隷という意味です。今日、奴隷制度はどこの国からも消え去りましたが、かつて奴隷制度が認められていた社会にあっては、奴隷はその所有者である主人の持ち物であり、主人はその命をも意のままにすることができました。奴隷はその存在と命と働きをすべて主人のためにのみささげるのです。奴隷には人間としての権利は一切与えられていませんでした。

聖書で信仰者が神の僕、主イエス・キリストの僕と言われる場合にも、同じような意味が含まれますが、しかしさらに大きな意味があります。何よりも重要なことは、信仰者の主人は、主なる神であり、主イエス・キリストであるということです。旧約聖書では、アブラハムや(詩編105編42節)、モーセ(同26節)、ダビデ(同89編3節)などが神の僕と呼ばれています。それは特別な信仰者に与えられた名誉ある名前でした。彼らはその主人である神の所有として、ただ神のためにのみ仕え、働き、神のみ心に完全に服従し、それによって信仰の道を全うしたのでした。それゆえにまた、その全生涯が神によって受け入れられ、導かれ、祝福され、神によって必要なすべてのものが備えられたのでした。信仰者が神の僕であるときにこそ、神は彼のすべての道を導き、守り、あらゆる災いや試練の時にも彼と共にいてくださったのです。

パウロが自分を主キリストの僕であると告白するときには、さらに深い意味が付け加わりました。パウロはかつてはユダヤ教の律法の奴隷になっていました。それゆえにまた罪の奴隷でもありました。しかし今や彼は主キリストの奴隷です。主キリストがご自身の十字架の死によって、神のみ子としての清い御血潮をもって彼を罪の奴隷から贖い、救い出してくださり、彼を主キリストのものとしてくださったのです。主キリストが彼の新しい主人であられるとき、パウロはもはや何ものの奴隷でもありません。この世のいかなる権威も、迫害も、試練も、獄の鉄格子も、彼を縛りつけることはできません。彼は本当の意味での自由人として、この世のいかなるものからも自由になって、喜びと感謝をもって、主キリストの福音のために仕え、神と隣人とのために働くことができるのです。

(祈り)

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