5月26日(日)説教「神の前に正しい人」

2019年5月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨブ記1章1~8節

    ルカによる福音書1章5~7節

説教題:「神の前に正しい人」

 ルカによる福音書は、他の福音書に比べて、主イエスの誕生について非常に詳しく描いています。それだけでなく、他の福音書には書かれていない洗礼者ヨハネの誕生についても詳しく報告しています。それがこれから学ぶ5~25節と57~80節に書かれています。洗礼者ヨハネの使命、務めについては、その個所に詳しく書かれていますが、短くまとめると、来るべきメシア・救い主であり、彼のすぐ後に誕生される主イエスのために道を備え、人々を悔い改めへと導き、メシアを迎え入れる準備をすることでありました。

 ヨハネの使命、務めがそうであるように、彼の誕生の次第もまた主イエスの誕生を指し示しています。5~25節には洗礼者ヨハネの誕生予告があり、続く26~56節には主イエスの誕生予告が、そして57~80節にはヨハネ誕生の記録、続く2章1~20節には主イエス誕生の記録というように、ヨハネと主イエスが互いに関連付けられながら描かれています。

 内容的にも、両者にはいくつもの共通点があります。それについてはこれから学んでいくことにしますが、ヨハネは彼の誕生の時から、また彼の全生涯を通して、来るべきメシア・救い主であられる主イエスを指し示し、証しし、主イエスのために道を備えるという役割りを果たしています。

 洗礼者ヨハネだけではなく、実は、聖書に登場するすべての人物は、何らかのかたちで必ず主イエス・キリストと関連性を持っています。主イエスと関連を持たない人物というのは、聖書の中には一人もいません。旧約聖書に登場する最初に神によって創造されたアダムとエヴァから始まって、族長アブラハム、イサク、ヤコブ、また、サウル、ダビデ、ソロモンなどの王たち、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たち、その他すべての旧約聖書の登場人物は、来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストを預言し、指し示し、待ち望むという使命を神から与えられているのです。洗礼者ヨハネはその預言と待望の列の一番最後に立って、最も近くで、すぐ後においでになるメシア・キリストを指し示し、証しし、その救い主に実際にお仕えするという、大きな使命を与えられているのです。

 新約聖書に登場する人物たちが、主イエスに関連しているということは、あらためて言うまでもないことです。それだけではありません。さらに、わたしたちひとり一人も、新約聖書のそれらの証し人たち、仕え人たちと連なって、主イエス・キリストとの関連性を与えられています。今わたしたちが置かれている時代の中で、社会の中で、主イエス・キリストを証しし、この主にお仕えするという使命を与えられています。主イエスと関連性のないわたしの歩みというものは全くありません。主イエスと関連性のないわたしの一日もありません。

 さて、きょうの礼拝で朗読された5~7節には、洗礼者ヨハネが誕生した時代のイスラエルの王の名前と彼の両親の名前が紹介されています。「ユダヤの王ヘロデ」とは、後にヘロデ大王と呼ばれるようになった王のことです。ユダヤの王とありますが、この時代イスラエル・ユダヤ地方はローマ帝国の支配下にありましたから、本来の王はローマ皇帝カイサルでしたが、ヘロデはローマ政府の許可のもとで、ユダヤ人を治める権限を委託されていました。いわば傀儡王でした。

 ところで、ヘロデ大王は今日の歴史資料から紀元前4年に死んだことが分かっていますので、ヨハネの誕生がこの時から1年以内、主イエスの誕生はその後半年後ですから、主イエスの誕生は紀元前6年よりは前ということになります。教会は主イエスが誕生した年を紀元1年と定め、それが今日世界で用いられている西暦となったのですが、その数え方の基準になった年は今日の研究とは少しずれているということになります。とはいっても、主イエスが誕生した時から世界の歴史が新しく始まったという意味は、全く変わりません。

 ヨハネの父はザカリア、母はエリサベト。ザカリアは祭司の職にありました。妻エリサベトも大祭司職を受け継ぐアロン家に属していました。祭司の務めは、この後の8~9節に書かれているように、神の民イスラエルを代表してエルサレム神殿で神のみ前に立ち、香をたいて神に祈りをささげ、あるいは動物や農作物をささげ、民全体の罪のゆるしを願い求め、そして次に、神からのみ告げを聞き、神から与えられた罪のゆるしのみ言葉を民に語る、そのようにして、神と民との間に立って仲立ちをし、仲保者の役割を果たす、それが祭司の務めでした。

 したがって、イスラエルにおいては、祭司職は非常に重んじられておりました。祭司の務めがないなら、イスラエルの人々はだれ一人神のみ前に立ち、神を礼拝することができないからです。神と人との間には罪という大きな壁があって、だれも自分の力や他の何らかの方法によっても、神に近づくことも、神と交わることもできません。ただ、神によって選ばれ、神の特別の恵みによって立てられた祭司が、罪をあがなうための動物の犠牲を携えていくことによってのみ、神と人間との交わりの道が開かれるのです。祭司の職がなければ、神の民イスラエルは、信仰の民として、礼拝の民として生きていくことはできません。ザカリアはレビ部族の家に生まれ、父からこの祭司の職を受け継ぎました。それは、神の大きな恵みによる選びでした。

 【6節】。「正しい人」とはどのような人のことでしょうか。それはまず第一に、「神のみ前に正しい人」のことです。人の前でとか、あるいはこの世では、自分自身の前ではというのではないということです。人の前で、この社会の中で自分がどう思われるかということに心を用いて生きるのではなく、あるいは自分で自分を正しいとしたり、自分の願いや欲望のままに生きるのでもなく、神のみ前に生きること、神のみ前でどうあるべきかを考えて生きること、それが正しい人の生き方の基本です。

 「正しい」という言葉は、他の個所では「義」と訳されています。義、正しい、という言葉は関係概念を言い表している言葉だと言われます。神と正しい関係を持っていることを聖書では義と言います。そのような人を義人と言います。

 では、どのようにして神との正しい関係は築かれるのでしょうか。6節に続けて書かれているように、「主の掟と定めをすべて守る」ことによってです。「主の掟と定め」とは旧約聖書に記されている神の律法のことです。出エジプト記20章に書かれているモーセの十戒を初めとして、イスラエルが神の民、信仰の民として生きるための礼拝のささげ方、信仰生活のあり方について、神がお命じになった様々な戒めのことです。「主の掟と定めをすべて守る」とは、別の言葉で言えば、神のみ言葉を聞き、神のみ心に従って生きるということです。

 以上のことからもわかるように、その人が人間的に立派な人物であるとか、社会的な評価を受けているとか、そのようなことには関係なく、たとえ弱さや欠けを持っていても、貧しく力なく、時に迷うことがあっても、ひたすらに神に信頼し、神の恵みと憐れみを願い求め、神のみ心を聞いて生きる人、それが神のみ前に正しい信仰者の生き方です。ザカリアとエリサベトは二人ともそのような人であったと書かれています。

 続けて【7節】。イスラエルでは、古い時代には一般的にそうであったように、たくさんの子どもが与えられることは神の祝福のしるしだと考えられていました。そのために、子どもがいないということは、特に信仰深い家庭にとってはつらいことでした。しかも、ザカリアは祭司の家庭でしたから、その職を受け継ぐ子どもがいないということは、神から託されている大切な務めを失ってしまうことにもなりますから、神のみ前に正しい歩みを続けてきた二人にとっては、どれほどの大きな痛みであり、重荷であり試練であったことでしょうか。

 でも、子どもがいないということと神のみ前に正しく歩むということは、この夫婦にとっては決して矛盾することでも対立することでもありませんでした。子どもが与えられないという神の厳しい試練を受けていたこの夫婦は、そうでありながら、いやそうであるからこそ、より一層熱心に、忠実に、神のみ前に正しく生きるために、神のみ言葉を聞き続けていたのです。

 7節の冒頭に、「しかし」と書かれています。原文のギリシャ語では一般的に文章と文章をつなぐときに用いられる「カイ」という言葉で、普通は「そして」と訳されますが、ここでは前の6節で言われていることと7節の内容が対立しているかのように思われるので、「しかし」と訳しています。つまり、この夫婦は神のみ前に正しく生き、神のみ言葉に熱心に聞き続けてきたけれども、しかし残念なことに、そんなに信仰深い夫婦であったにもかかわらず、子どもがいなかった、しかもすでに年老いていたと理解できるかもしれませんが、しかし、聖書がここでわたしたちに語ろうとしていることは、6節と7節を対立する内容として言っているのではなく、その二つのことはともに関連し合いながら、この夫婦の信仰をより深め、強め、より純粋にしているということを強調しているのです。ザカリアとエリサベトは年老いるまで子どもが与えられないという大きな神の試練の中でこそ、いよいよ神のみ前で謙遜にされ、いよいよ神に熱心に祈り求め、いよいよ忠実に神のみ言葉に聞き従うようにさせられているのです。それもまた神の尊いみ心なのであり、人間の目には隠された神の奇しきご計画なのです。神はそれによって、彼らの信仰を鍛え、清めてくださるのです。ザカリアとエリサベトはやがてその神の奇しきみ心を知らされ、その成就を見ることになるでしょう。

 わたしたちはここで旧約聖書のヨブを思い起こします。神のみ前に「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブ、しかも多くの子どもたちと財産に恵まれていたヨブが、一瞬のうちにそのすべてを失ってしまったときに、彼はこのように告白しました。【21~22節】(776ページ)。ヨブがこの信仰へと導かれるために、神は彼からこの世のものすべてを、愛する家族たちをも取り去られたのです。ヨブはこの大きな試練の中で、主なる神のみ名をほめたたえているのです。わたしたちにすべてのものをみ心によってお与えくださる主なる神、また、み心によってわたしたちからすべてのものを取り去られる主なる神、わたしたちはその神のみ心を尋ね求めて、そのみ名をほめたたえる者となるように導かれているのです。

 子どもがなく、二人ともすでに年老いていたザカリアとエリサベト、そうでありつつ神のみ前に正しく歩み、忠実に神にお仕えしているこの夫婦、神は彼らをお見捨てになるでしょうか。いや、決してそうではありません。わたしたちは後で13節でこのような神のみ言葉を聞くでしょう。【13節】。このようにして、ザカリアとエリサベトの長い、長い祈りが聞かれ、彼らに子どもが与えられるとすれば、それこそが神の奇跡に他なりません。人間の側の可能性が全く消え去り、もはや人間の力が無にされたときに、無から有を呼び出だすかのようにして、死から命を生み出すかのようにして、全能の神が彼ら夫婦のために、イスラエルの民のために、そしてわたしたちのために、救いのみわざをなしたもうのです。

(祈り)

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