6月2日(日)説教「主キリストにある聖なる者たち」

2019年6月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記7章6~11節

    フィリピの信徒への手紙1章1~2節

説教題:「主キリストにある聖なる者たち」

 フィリピの教会はパウロの第二回世界伝道旅行の際にその基礎が築かれました。使徒言行録16章によれば、パウロは小アジア地方での伝道活動の途中で、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という祈りを聞き、トロアスからエーゲ海を渡ってヨーロッパの玄関口フィリピに入り、その町で主イエス・キリストの福音を語り、何人かのキリスト者が誕生しました。しかし、まもなくパウロは迫害によってこの町を出ることを余儀なくされましたが、パウロとフィリピ教会とはその後も非常に親密な交わりを持ち続けました。パウロは伝道活動のための個人的な経済支援を原則受けませんでしたが、フィリピ教会だけは例外でした。この時にもローマかエフェソで投獄されているパウロのための援助の贈り物をエパフロディトという教会員が届けてくれたことに対して、パウロは心からの感謝を伝えるためにこの手紙を書いています。

 手紙の冒頭には、当時の手紙の書式にならって、差出人と受取人の名前が書かれ、そのあとに祝福が祈られています。前回は差出人について学びましたから、きょうは1節後半の手紙の受取人について、当時のパウロとフィリピ教会の状況を考えながら学んでいくことにします。

 「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」(1節b)。これが手紙の受取人です。ここでは、教会という言葉(ギリシャ語ではエクレーシア)は用いられてはいませんが、フィリピの町に建てられた教会、パウロが第二回世界伝道旅行の際にその基礎を築いたフィリピ教会のことです。「フィリピにいて」(あるいは、「~にあって」)とは、その教会が建てられている特定の場所を示しています。主キリストの教会は全世界に一つです。これを「公同の教会」と言います。教会の主はおひとり、主イエス・キリストであり、教会が信じている神は唯一の神でありますから、教会は各地に建てられていますが、本来はただ一つの公同の教会です。「日本キリスト教会」というわたしたちの教派の名称もそのような意味です。英語の表記では、Church of Christ in japanです。秋田教会も同じ意味です。

 したがって、ポイントは「フィリピにある、あるいは日本にある」というところにではなく、「主キリストの」という方にあります。教会はどこにあったとしても、主キリストの教会です。主キリストの教会として、それぞれの地に建てられているのです。この順序を逆転させることは危険です。かつて、ドイツ第三帝国時代のドイツの教会では、ドイツ・キリスト者運動といわれる勢力が教会の本質をゆがめていきました。ドイツ民族こそが世界の中で最も優秀な民族であり、自分たちの教会はこのドイツ民族のために仕えるのだというスローガンのもと、ナチス・ヒトラー政権を支援し、ヨーロッパでの戦争やユダヤ人大量殺戮に協力しました。このような運動や考え方は、いつの時代にも、どこの地域にも起こり得ます。日本でもそうです。わたしたちは教会の本質がどこにあるのか、教会はそもそもだれに属するのかという点を、見失わないようにしなければなりません。

 そのことを明確にしているのが、次の「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉です。この個所は元のギリシャ語原典では、「キリスト・イエスにある」、英語では、in Jesus Christです。口語訳聖書では「キリストにある、キリストにあって」と訳されていましたが、新共同訳ではほとんどが「キリストに結ばれて」と訳しています。パウロは彼の手紙の中で、この「キリストにあって」という表現を何十回も用いています。それぞれの個所で、いろいろな意味が込められているように思われます。ここではどうでしょうか。ここではフィリピ教会のこと、主キリストにあるすべての聖なる者たちのことが言われていますので、「主キリストを唯一の主と信じている、主キリストによって神のみ前に呼び集められている、主キリストによって罪のこの世から召し出された、主キリストによって救われ、神のものとされている、主キリストによって一つの群れとされている、主キリストのうちにあってまことの命に生かされている」などの内容が考えられます。いずれにしても、教会の存在と命、生活と活動のすべての源泉、土台、基礎、出発点、そして目標が主キリストにあるということです。

 次に、パウロはここでは教会という言葉の代わりに「すべての聖なる者たち」と表現しています。パウロはしばしば教会を「聖なる者たち、聖徒たち」と表現します。【ローマの信徒への手紙1章7節】(273ページ)。【コリントの信徒への手紙一1章2節】(299ページ)。この個所については、後ほどもう一度触れます。【同二1章1節】(325ページ)。【コロサイの信徒への手紙1章2節a】(368ページ)。これ以外にも多数の例があります。

パウロはこの「聖」という概念を旧約聖書のイスラエルの信仰から受け継ぎました。それによれば、神ご自身が聖なるお方です。神は天のいと高き所におられ、罪と死と滅びに支配されているこの地上からは遠く隔てられた聖なる所におられる永遠なるお方です。それゆえに、神の民イスラエルも神のみ前に聖なる者とならなければなりません。そのために、イスラエルは神に動物の命を聖なる贖いの供え物としてささげ、自らの罪をゆるしていただかなければなりません。聖なる供え物としてささげられる牛、羊、山羊などの動物は、前日から群れとは区別され、傷がないか、元気でよく肥えているかが吟味されました。それを聖別と言います。ここから、聖なるものとか聖別するとは、神にささげられるために、この世から選び出され、この世のものからは区別されて、神のものとされるという意味を持つようになりました。

イスラエルの民が聖なる民、神にささげられたものとされたのは、しかし、イスラエルが大きな、力ある民であったからでは全くなく、いやむしろ最も小さな民、奴隷の民であったイスラエルを神が一方的に選び、愛され、ご自身の宝の民とされたからでした。イスラエルが神の聖なる民とされたのは、神の恵みと愛の選びによってでした。イスラエル自身には何の誇るべきものもありません。神の愛の選びによって聖なる民とされたイスラエルは、常に神のみ前に謙遜になり、神の恵みの選びに感謝し、神の大きな愛に応えて生きていくのです。

パウロが教会の民を聖なる者たち、聖徒たちと呼ぶ場合にもこのことが強調されています。教会が聖なる者たちの集まりであるのは、神が主キリストによって彼らをこの世から聖別してくださったからにほかなりません。先ほど読んだコリントの信徒への手紙一1章2節で、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と言われているとおりです。神は主キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち教会の民を罪の奴隷から贖われ、解放してくださり、神の新しい民としてくださり、主キリストの体なる教会に属する聖なる者たちとしてくださいました。わたしたちはもはやこの世のものではありません。罪の奴隷でもありません。

しかし、神によって選ばれたイスラエルの場合もそうであったように、教会の民の場合にも、選ばれたわたしたちの側には選ばれる理由、根拠となるものは何もなく、自らに誇りえる何ものもなく、それゆえにまた何か他の人よりも優れた点があるとか、何も欠点がなく、完璧な人間だから聖なる者と呼ばれているのではないということです。否むしろ、自ら罪びとであることを知り、告白し、しかしそうでありつつ、主キリストによって罪ゆるされていることを信じ、主キリストのものとされていることを感謝している、そうであるからこそ、いよいよ神のみ前に謙遜にされ、神のみ心を熱心にたずね求める者とされている、それが「キリスト・イエスにある聖なる者たち」という意味です。

したがって、わたしたちはもはやこの世に属する者ではありません。他のだれかや他の何かに属する者でもありません。罪と死に支配されている者でもありません。主キリストの十字架と復活によって、主キリストのものとされていることによって、それらのすべてから解放されています。主キリストのもの、神の民とされています。それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙12章1節で勧めているように、わたしたちは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげ」、神を礼拝する民とされているのです。

「すべての聖なる者たち」とはフィリピ教会の信徒、教会員のみんなを指しています。パウロはそのあとで、「監督たちと奉仕者たち」とを特に指定して挙げています。この時代のフィリピ教会がどのような組織になっていたのかははっきりとはわかっていませんが、「監督」と訳されているギリシャ語が今日の教派の分類でいう監督教会と同じような意味での聖職者としての監督を指すのではなく、むしろ教会員の中から選ばれた長老を指していると考えられます。奉仕者は今日のわたしたちの教会の執事と同じ働きをしていたと推測できます。パウロがこの二つの役職名を特に挙げているのには理由があると考えられます。最初にも少し触れましたように、この手紙が書かれた目的は、獄中にあるパウロへの個人的な援助に対する感謝を伝えるとにありましたから、そのことは具体的には手紙の終わり箇所、4章10節以下に書かれていますが、そのパウロへの支援のために実際に労苦した教会の指導者として監督たちと奉仕者たちを挙げて、感謝の思いを言い表そうとしたのだろうと推測できます。監督であれ長老であれ、あるいは奉仕者、執事であれ、教会の中で選ばれて指導的な役割を託されている人たちは、教会の頭であられる主キリストに率先してお仕えすることはもちろん、教会の中の教会員一人一人やまた教会と教会との交わりやこの世のための奉仕のためにも進んで仕えていく務めを託されています。それもまた聖なる者たちに与えられている自由で、喜ばしい務めです。

「キリスト・イエス」という言葉が、手紙の差出人にも受取人にも同じようにつけられています。「キリスト・イエスの僕であるパウロとシラスから、キリスト・イエスにあって聖なる者たちへ」。キリスト・イエスがその両者を固く結びつけています。パウロが投獄されている場所が小アジアのエフェソであればフィリピからは北西に500キロメートル、ローマであればさらに西へ直線距離で1千キロメートル以上も離れていることになりますが、しかもパウロは鉄格子の中に閉じ込められているのですが、しかし主キリストにある信仰者はこの世のすべての壁や山や海をも超えて、あるいは時代をも超えて、強い交わりによって一つに結び合わされています。一つの神の民とされています。来るべき終わりの日の神の国の民とされているのです。主キリストこそがわたしたちキリスト者の交わりを強固で永遠なものにします。

「キリスト・イエス」については前回も学びました。本来は、「イエスはキリスト・メシア・救い主である」という初代教会の信仰告白です。ナザレの村にヨセフとマリアの子としてお生まれになった神のみ子主イエス、わたしたちの罪の贖いのために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、今も天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちの救いの完成のために執り成し、導いておられる主イエス・キリストこそが、全人類の、わたしたちの、そしてわたしの唯一の救い主である」、これがわたしたちの信仰告白の中心です。

(祈り)

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