2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

2019年7月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記18章1~15節

    ルカによる福音書1章5~25節

説教題:「神の約束の成就を待ち望む」

 主イエスのために道を備える先駆者の務めを果たす洗礼者ヨハネの誕生予告から、ルカによる福音書は始まります。1章5~25節までのヨハネ誕生予告は、それに続く26~38節までの主イエスの誕生予告と、多くの点で類似点があります。そのいくつかを挙げてみると、エルサレム神殿でザカリアに語りかけるのが天使ガブリエルであり、ナザレのマリアに語りかけるのも同じ天使ガブリエルです。天使とは主なる神ご自身のことです。天におられる神が、地に住む人間に語りかけられるときに、聖書ではしばしば天使、あるいはみ使いがその役割を果たします。ガブリエルは6人いる天使長の一人であり、最も重要な神のみ言葉を告げる際に登場します。

年老いたザカリアとエリサベト夫婦に子どもが与えられるという、神の奇跡による洗礼者ヨハネの誕生も、まだ結婚前のおとめマリアに聖霊によって子どもが与えられるという、主イエスの奇跡による誕生も、いずれも主なる神が計画しておられること、主なる神がなされる救いのみわざであるということが、強調されています。

次に、二人の子どもの名前が、二人が生まれる前から神によって決められていたという点です。普通は、子どもが生まれて八日目に父親が名づける習慣でしたが、ヨハネの場合も主イエスの場合も、まだ母親となるエリサベトとマリアにその自覚が全くないときに、すでに神によって定められていました。ヨハネとは、「神は恵み深い」という意味です。イエスとは「神は救いである」という意味です。神はこの二人の人物を通して、神が実際に恵み深い方であり、イスラエルと全世界のすべての人々のために恵み深いみわざをなしたもう、また、全人類のための救いのみわざをなしたもうという固い決意を、彼らの命名によってお示しになったのです。

そのことと関連して、この二人の子どもは、その生涯と務め、働きもまた、生まれる前からすでに神によって定められているということです。ヨハネの使命については15~17節に書かれています。主イエスの使命については32~33節に書かれています。神の奇跡によって生まれた子どもは、その誕生が神によっているように、その生涯全体もまた神のためにあります。

四つ目の共通点として、神の約束を聞いたザカリアは18節で「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」と天使に問いかけています。マリアもまた34節で、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と問いかけています。神の恵み深い約束のみ言葉を聞かされた人間は、だれであれ、それを直ちに信じることはできません。神のご計画は人間の理解をはるかに超えています。神がなさることは人間の予想をはるかに超えています。

では、きょうは洗礼者ヨハネの使命、働きについて予告されている15節から学んでいきます。「彼は主の御前に偉大な人になり」とあります。主とは、ここでは直接には神を指しています。ヨハネは主なる神のみ前にあって生きる人です。主なる神のために、主なる神から託された任務に仕えることによって、彼は偉大な人となります。彼自身が努力して立派な人になるのではありませんし、他の何かが彼を偉大にするのでもありません。さらに、主とは主イエスを暗示しているとも言えます。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのみ前にあり、主イエスのために道を備え、主イエスを証しすることによって、偉大な人となるのです。ヨハネの誕生がそうであるように、彼の生涯は徹底して来るべきメシア・主イエス・キリストと結びつけられており、主イエスに仕えることが彼の使命です。そうであるときにこそ、彼は偉大な人となるのです。

ヨハネは「ぶどう酒や強い酒を飲まない」とあります。旧約聖書では、神のために重要な働きをする大祭司や預言者、また神に誓願を立てたナジル人は酒を断つと書かれています。彼らはお酒によって元気づけられるのではなく、神の霊、聖霊によって命と力とを与えられて、神から託された務めを果たしました。それと同じように、否それ以上に、ヨハネは「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされている」と書かれています。ヨハネの誕生と命の根源には神の霊、聖霊があります。また彼の全生涯とその務め、その働きのすべても、神の霊、聖霊によって支えられ、導かれていると預言されています。これほどまでに徹底して、ヨハネの生涯は主なる神に依存し、主なる神のためにあり、また彼の後から誕生する主イエス・キリストのためにあるのです。そうであるときに、ヨハネはたとえ彼の生涯が試練と苦難に満ちているものであろうが、彼の命が暴虐なヘロデ王によって奪い取られることになろうが、彼は主の御前に偉大な人となり、豊かに祝福された生涯となるのです。

16節からは具体的にヨハネの使命が語られます。【16~17節】。この16、17節に3度「主」という言葉があります。「その神である主のもとに」「主に先立って行き」「主のために用意する」、これはいずれも、主なる神のことでありまた同時に主イエス・キリストのことでもあると理解すべきです。ここでも、ヨハネの生涯とその使命は、徹底して主なる神のためであり、来るべきメシア・主イエス・キリストのためであるということが強調されています。

また、ここで語られているヨハネの使命は、旧約聖書の最後の書であるマラキ書に預言されている内容が背景になっていると考えられます。マラキ書では、神が古くからイスラエルの民に約束されていた救いの完成の時が、今、間近に迫っている。神はこの世の終わりの時に、すべてを新しくして神の国を完成するメシア・救い主を世に遣わすであろうという預言が終末論的な視点で語られています。そのいくつかを読んでみましょう。【3章1~3節】(1499ページ)。【19~24節】(1501ページ)。

このマラキ書の預言で語られている預言者エリヤの務めをヨハネは果たすとルカ福音書は告げているのです。終わりの日、主の日に、神は最後の審判を行い、救いを完成される。その時神は義の太陽であるメシア・救い主をお送りくださるが、その前に、救い主のために道を整える使者として預言者エリヤを派遣する、それがヨハネであると告げています。ヨハネは、旧約聖書の預言者たちの列の最後に立って、来るべきメシア・救い主の最も近くにいて、神の約束の成就の時のすぐ前で、その成就を待ち望み、いや待ち望むだけでなく、事実その成就を彼自身も見、そしてそれを指し示し、彼の全生涯によってメシア・救い主を証しする、それがヨハネの使命です。この使命を託されているがゆえに、ヨハネは主の御前に偉大な人なのです。

ところが、ザカリアはこの神の約束のみ言葉を信じることができなかったと18節に書かれています。それもそのはず、ザカリアとエリサベトには長い間子どもが与えられず、しかも二人ともすでに年老いて、人間的には子どもを生む能力が全く失われていたからです。人間の限界と不可能性の中で、それでもなお神の奇跡を信じるということは、だれにとっても困難です。創世記18章には、90歳近くになったサラに子どもが与えられると語った神のみ使いに対して、サラは笑ったと書かれています。17章17節には、百歳になろうとしていたアブラハムも笑ったと書かれています。アブラハムとサラのこの笑いは、確かに不信仰による笑いであると言ってよいでしょうし、ザカリアが「何によって、わたしはそれを知ることができるか」と言って確かなしるしを求めたことも、彼の不信仰に由来すると言ってよいかもしれませんが、しかし、そうであるとしても、だれもアブラハムやサラ、またザカリアを責めることはできないでしょう。

神の天使は、しるしを求めるザカリアを直接に避難してはいないように思われます。【19~20節】。ここでは、ザカリアの不信仰が非難されているというよりは、ザカリアの不信仰にもかかわらず、神の約束のみ言葉が確実に成就していくであろうということが何度も強調されていることに気づきます。「わたし、ガブリエルはこの喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのだ」。「この事が起こる日まで」。「時が来れば実現するわたしの言葉」。神のみ言葉は一つとしてむなしく語られることはありません。神のみ言葉は人間たちの不信仰の中でも必ずや出来事を生み出し、成就します。

ザカリアは祭司の務めにあったゆえに、だれよりも早くに神の救いのみわざの喜ばしい知らせを聞くことが許されました。にもかかわらず、彼は信じることができませんでした。彼はやはり不信仰ゆえの神の裁きを受けなければならないでしょう。ザカリアが口がきけなくなり、言葉を失ったというのは、確かに神の裁きであるといってよいかもしれません。祭司であるザカリアが言葉を失うことは大きな痛手です。しかも、彼はこの日の礼拝で、組を代表して聖所に入り香を焚き、民全体の祈りを神に届け、それから神のみ旨を伺い、神から与えられる罪のゆるしと恵みと祝福の言葉を民に語らなければなりませんでした。しかし、彼は言葉を失い、その務めを果たすことができませんでした。そのことが、21節以下に書かれています。

けれども、わたしたちはここでもう一つのことを気づかされます。それは、不信仰なザカリアが言葉を失った、口をきけなくなったということは、実は神の約束のみ言葉が確かであることのしるしであるということなのです。なぜならば、信じなかったザカリアが言葉を失うことによって、いよいよ神ご自身がみ言葉をお語りになり、疑ったザカリアが祭司としての務めを果たし得なかったことによって、神ご自身がみわざを行い、み言葉を成就されるのであるとの希望がより確かになっていくからです。ザカリアはただ黙して神の約束の成就を待ち望む者とされているのです。

信じなかったザカリアは語ることができません。否、語るべきではありません。不信仰な人や信じない人は神について語るべきではありません。その人はむしろ、沈黙することによって、神ご自身に語らせるべきです。不信仰なザカリアは口がきけなくされることによって、全く無力な者とされ、それ故に、ただひたすらに神からの助けと憐れみとを待ち望むほかにない者とされ、いよいよ全能の神のみ言葉を待ち望むほかにない者とされ、神がもう一度圧倒的な力をもって彼の人生に介入される時を待ち望む者とされているのです。それは、ザカリアがのちになって64節以下で、特に67節以下のザカリアの賛歌を彼が歌うことによって、明らかにされます。ザカリアはこのようにして、年老いてから子どもが与えられるという神の奇跡と、神をほめたたえるために彼の口が再び開かれるという、二度の奇跡を経験することがゆるされるのです。

神はザカリアの不信仰を超えて、それを突き破って、またそれをお用いになって、ご自身の約束のみ言葉が確かに成就するということをお示しになりました。神のみ言葉は時が来れば必ずや成就します。ザカリアはただ黙して約束の成就を待ち望む者とされました。それは神の裁きであったと同時に、神の大きな恵みでもありました。神の約束の成就を待ち望む者は必ずやその成就を見るからです。

(祈り)

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