7月7日説教「昼と夜の創造」

2019年7月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章14~19節

    使徒言行録17章22~31節

説教題:「昼と夜の創造」

 きょうの礼拝で朗読された創世記1章14~19節には、神の天地創造の第四日目のみわざについて書かれています。【14~19節】。第四日目も、「神は言われた」という14節の言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることから、第四日目が始まります。この日だけではありません。天地創造のこの日までの3日間も、またこの日以後のすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まります。それだけではありません。神の天地創造から今日に至るまでの全世界のすべての日々も、またこれ以後のすべての人にとってのすべての日々も、「神は言われた」という言葉で始まるのだということ、始められなければならないのだということを、わたしたちは知っています。人間が何かを語りだすよりも前に、人間が何かをなすよりも前に、神がまずみ言葉をお語りになる、そして人間がそれを聞く、そのようにして一日が始められるとき、15節にあるように、「そのようになった」というみ言葉を聞くことができるし、さらには、その日の終わりには、18節に書かれているように、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉をも聞くことができるのだということを、わたしたちは知っています。

もし人が、神なしで、神のみ言葉を聞くことなしで、自ら語り、自ら何かをなそうとするならば、それは実りのない、むなしく消え去っていくしかない一日、空虚な時になるほかないでしょう。わたしたちのきょうの一日が、わたしの生涯の日々が、満たされた時、確かな実りを約束された日々となるために、そしてすべての時が、すべての日々が、神によしとされるために、わたしたちはまず神ご自身がお語りになり、わたしがそれを聞くということが第一に重要なのだということを、覚えたいと思います。わたしが自分の生涯を終えようとするとき、「神はそれを見て、良しとされた」というみ言葉を聞くために、何よりも重要なことは、「神は言われた」というみ言葉を聞き続けることなのです。

第四日目の創造のみわざを語る際に、聖書は非常に注意深い用語を用いていることに気づかされます。14、15節の天の大空にある「光る物」、また16節の「二つの大きな光る物」のうちの「大きな方」とは、あきらかに太陽のことです。当然、「小さな方」とは月のことです。つまり神はこの四日目に、太陽と月、星々を創造されたのですが、聖書は太陽と月という言葉を直接には用いていません。これには大きな理由があります。

古代社会においては、今日でもそうですが、太陽や月は信仰の対象とされ、神として礼拝されていました。たとえば、イスラエルと様々なかたちで、隣国としての関係を持ってきたエジプトでは、太陽神「ラー」が長い間、国家の中心的な神でした。また、アブラハムの生まれ故郷であった古代メソポタミアでは、月神「シン」が礼拝されていました。その他、あらゆる国で、あらゆる時代に、太陽と月は神として崇められていました。今日でもそうです。

しかしながら、聖書では、イスラエルでは、太陽も月も、そして星々も、主なる神によって創造された被造物に過ぎず、神が大空にそれらを配置され、それらの運航と役割とを神が定め、支配しておられるのです。それらは決して神として礼拝されることはありませんし、それらが人間の運命を左右したりすることも全くあり得ません。古代エジプトやのちの中国などで発達した占星術は、イスラエルにおいては全く愚かで幼稚なものとして投げ捨てられました。このような正しい創造信仰は、わたしたちをすべての偶像礼拝から守ります。きょうの聖書の言葉の一つ一つには、それらの異教的な偶像礼拝や信仰に対する対決、否定が含まれているのです。

14~18節までのすべての文章は、神が主語です。神がお語りになり、神がみわざをなさいます。「神は言われた」で始まるこの日一日は、神がすべてお語りになり、神がすべてのみわざを行われます。神が「あれ」と命じられ、神が「そのようになれ」とお命じになるのです。

では、神は何のために、だれのためにこれらの創造のみわざをなさるのでしょうか。きょうの個所でそのことがより一層明らかになります。神は前日、三日目には、乾いた所、陸地を創造されました。海の水が陸地を覆ってしまわないように、海と陸とを分けられました。神は陸地に、草や果樹を芽生えさせられました。それは、やがて神が第六日目に創造される人間アダムをその陸地に住まわせるため、彼にその草と果樹を食物としてお与えになるためであるということを、わたしたちはのちに知らされます。神は人間アダムが生きるための舞台として陸地を整えてくださったのです。天地創造の神はその創造のみわざの初めから人間アダムを愛され、彼のために配慮してくださいます。

そのような視点から、きょうの四日目の創造について改めて読み返してみると、新たなことに気づかされます。14節に「昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ」と書かれており、15節には「地を照らせ」とあります。神によって創造された太陽と月は、人間アダムの時を刻み、季節ごとの地の実りをもたらすために仕えているのです。神の創造の世界にあっては、太陽と月は人間が礼拝する神々としての対象ではなく、むしろ人間に奉仕するために神によって創造された被造物です。主イエスは言われました。「あなたがたの天の父である神は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(同6章30節)。わたしたちは神が創造された被造世界を見て、そこに現わされた人間に対する神の大きな愛を知らされるのです。

16節に、「大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた」と書かれています。神はお創りになった太陽と月とをお用いになって、昼と夜とを創造されます。神はこの日に時を創造されたといってよいでしょう。神は先に人間アダムのために彼が住む陸地を創造されましたが、この四日目には彼が生きる時を創造されました。わたしたち人間が生きる場所も生きる時間も、神から与えられたもの、神の賜物です。わたしたちはその両者を神に感謝しながら、わたしが生きる時とわたしが生きる場所を神のみ手から受け取り、神の創造のみ心に従ってそれを用いるべきです。

しかしながら、今日多くの人がそのことを忘れて、神がお創りになったこの地を、あたかも自分の手で獲得できるかのように、自分の手でさらに広げることができるかのように思い、他の人の地までを略奪し、そのために神から賜った地に多くの人間の赤い血を染み込ませてきたのではないか。あるいは、神がお創りになった時間を、あたかも自分たちの自由に管理できると思い込み、他者の時間までも金銭で買収できると考えたり、あるいは、むしろ時間の奴隷にされたりしているのではないか。そのことを反省させられます。

朝には太陽が昇り、昼の光が明るく世界を照らし、すべて命ある者たちにその光が及ぶ。夜には、月の光のもとできょうの一日を終え、小さな光が優しく人々を安らかな眠りへといざなう。そのようにして、日から日へと、夜から夜へと一日が巡っていくこと、そこに創造主なる神の尊いみ心があり、特にも人間アダムに対する深い愛と配慮があるのだということ、そのことを神に感謝して日々を歩む者でありたいと願います。

神は昼と夜とを創造されたとともに、季節をも創造されました。季節ごとの地の豊かな実り、暑さ寒さもまた、天地創造の神の賜物です。創世記8章22節で、ノアの洪水ののちに神はこう言われました。「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない」と。神は時と時間と季節とを創造され、それをみ心によって支配され、それぞれの時に応じて、豊かな恵みをお与えくださいます。わたしたちはまた次のようなコヘレトの言葉3章のみ言葉を思い起こします。【1~8節】(1036ページ)。神はそれらのすべての時を、わたしたちのために創造され、支配しておられるのです。

イスラエルの民にとっては、時と季節は特別に重要な意味を持っていました。それはイスラエルの礼拝と深く関係していました。イスラエルでは、春に祝われる過ぎ越しの祭りと種入れぬパンの祭りは、本来は大麦の鎌を入れる収穫祭だったと推測されています。それから50日目に祝われる五旬節・ペンテコステは小麦の収穫を感謝する祭りです。秋に祝われる仮庵の祭りはブドウの収穫を感謝する祭りです。イスラエル3大祭りは、時と季節を創造され、その季節にふさわしい実りを大地にもたらしてくださる神への感謝の礼拝なのです。そのほかに、新年の礼拝、新月の礼拝なども、時に関連した礼拝です。信仰の民にとって、時は神礼拝と密接に結びついています。

14節に、「昼と夜を分け」とあり、また18節には、「光と闇を分けさせられた」と、ここにも「分ける」という言葉が2度用いられています。同じ言葉がすでに4節、7節でも用いられておりましたし、同じような意味を持つ「呼ぶ」という言葉も何度も出てきました。分けるとは、区別すること、境界線を引くこと、両者が互いの領域を侵略しないように定めることです。どれほどに夜が長く続き、闇が深く感じられるような時があろうとも、夜がその日全体を支配することはありませんし、闇が光を永遠に追い出すこともありません。夜と昼、闇と光を創造された神は、その両者を支配しておられます。神は必ずや夜の時を終わらせ、闇を追い払われます。光の昼を来たらせたまいます。

旧約聖書の詩人たちは、試練や悩みの夜を迎える時、夜の深い暗闇を恐れながらも、必ずや神が光の朝を来たらせてくださることを信じて、「主よ、わたしは身を横たえて眠り/また目覚めます。主がわたしを支えてくださるからです」(詩編3編6節)と歌い、また、「見よ、イスラエルを守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない」(詩編121編4~6節)と歌いました。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙13章11節以下で次のように書いています。これは、中世の偉大な神学者アウグスチヌスが長い放浪の旅に終止符を打ち、回心するきっかけとなったみ言葉としても有名です。【11~12節】(293ページ)。

14、15、16節で用いられている「光る物」という言葉について、もう少し触れておきたいと思います。この言葉は、古代の近東諸国で神として崇められていた太陽、月という言葉を直接に用いることを避けるために「発行体」というような意味で用いられていますが、しかし、それ自体が光を放っているとは決して言われているのではなく、創り主であられる神から与えられている光、あるいは神からの光を反射している光のような存在として描かれています。3節ですでに学びましたように、神は創造の第一日目に光を創造されました。この光は、きょうの第四日目の「光る物」とは明らかに違います。創世記1章の中では、3節の光ときょうの「光る物」との違いについては何も説明してはいません。わたくし自身もその違いについてわかりやすく説明することはできません。

それでも次のことは明らかです。新約聖書においては、主イエス・キリストがすべての人を照らすまことの光としてこの世においでくださったとヨハネ福音書1章で証しされており、また、主イエスご自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われたことをわたしたちは知っています。わたしたちキリスト者にとっての光とは、わたしたちの救いであり命である主イエス・キリストのことです。

(祈り)

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