8月11日(日)説教「共に恵みにあずかる者たち」

2019年8月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「共に恵みにあずかる者たち」

 使徒パウロの「喜びの書簡」また「獄中書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。きょうは1章7節からです。【7節】。パウロは3節からの手紙の本文の冒頭で、神への感謝と喜びの祈りをささげています。その感謝と喜びの第一の理由は、5節に書かれているように、フィリピの教会が主イエス・キリストの福音にあずかっているからです。パウロがこの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いてからこの時に至るまで、フィリピの教会は主キリストの福音によって生きてきました。これからも主キリストの福音を聞きつつ、生きていきます。主キリストの福音によって罪ゆるされている民として、来るべき神の国に招き入れられているとの約束を信じつつ生きていきます。神は必ずや、その約束を成就してくださるでしょう。そのことを感謝し、喜びつつ、パウロはフィリピ教会が終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ生きていくようにと、執り成しの祈りをささげているのです。

 続いて7節では、その感謝と喜びのもう一つの理由を語ります。それは、パウロとフィリピ教会の人たちが共に恵みにあずかる者たちであるということです。7節の翻訳で少し触れておきたい点があります。新共同訳では省略されていますが、7節後半には「わたしの」という言葉があります。これをどこにつなげるかで翻訳が違ってきます。。「共に」にかけると「わたしと共に」ということが強調されていることになります。「恵み」にかけると「わたしの恵み」ということが強調されます。いずれの理解も可能ですが、ここでパウロがあえて「わたしの」という言葉を付け加えた意図を確認しておくことが重要です。

 つまり、ここで強調されている「わたし」パウロはどういう人物なのか、今どのような状況にあるのかということを考えながら、そのパウロとフィリピ教会との密接な関係がここでは語られているのです。

 では、「わたしと共に」という点を強調して考えるとどうなるでしょうか。パウロは今獄にとらわれています。主キリストの福音に反対するユダヤ人の迫害か、あるいはローマ政府の権力による迫害かはわかりませんし、囚われている場所がどこかもはっきりしていませんが、パウロは今自由を奪われ、鎖でつながれています。フィリピ教会とは何百キロも離れています。けれども、そうであるにもかかわらず、パウロとフィリピ教会は共にいるのだということをパウロは強調するのです。しかも、獄にとらわれているこのわたしと、あなたがたは今共にいるのだというのです。

 ここではいくつかの内容が考えられます。一つには、キリスト者はどこにいても一つの主キリストの教会に聖霊によって連なっている聖徒たちの交わりの中にあるという信仰です。これは「使徒信条」でも告白されています。より具体的には、フィリピ教会が獄にとらわれているパウロのために日夜祈っている、パウロも彼らのために祈っている、共に祈りによって一つに結ばれている、互いに祈りによって、パウロとフィリピ教会が同じ体験、同じ時間を共有し合っているということです。あるいは、フィリピ教会がパウロを支援するために援助物資を集め、教会の代表を派遣して獄中のパウロに届けるということによって、信仰にある兄弟姉妹が一つに結ばれていることを実感するということです。実は、この手紙はその感謝を伝えるためにパウロが書いたのだということが4章10節以下から推測されるのですが。そのようにして、フィリピ教会は獄中の「わたし」パウロと共にいるということがここでは強調されているのです。

 「わたしの恵み」という点に強調点を置いてみたらどうでしょうか。パウロが神から、また主イエス・キリストからいただいている恵みにフィリピ教会の人たちも共にあずかっているというのです。ここでも、いくつかの内容が考えられます。一つには、パウロの使徒としての務めに与えられている恵みのことです。パウロは復活の主イエス・キリストに出会う以前は、熱心なユダヤ教徒ファリサイ派として、キリスト教会を迫害する急先鋒に立っていましたが、主キリストと出会ってからは主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされました。それは、全く神からの一方的な恵みによる務めでした。パウロはこの神からの大きな恵みに応えるためには、あらゆる労苦と危険と戦いをいといませんでした。

 それゆえに、今彼が迫害を受け、牢につながれているとしても、それもまた神の恵みであることをやめないとパウロは言うのです。否それのみか、わたしに与えられているその大きな神の恵みに、あなたがたフィリピの教会も共にあずかっているのだとすら言うのです。これはどういうことでしょう。前にもふれたように、フィリピ教会が獄中のパウロに援助物資を送り、それによってパウロの使徒としての務めに共にあずかっている、共に主キリストの福音宣教の働きに参画しているということが考えられます。それだけではありません。フィリピの教会はパウロが受けている迫害の苦しみ、労苦、戦いを共にすることによってパウロの使徒としての恵みの務めに共にあずかっているのだと、パウロは言うのです。1章29~30節でははっきりとこう言っています。【29~30節】。このときに、フィリピの教会が実際に迫害を経験していたのかどうかは分かりませんが、それには関係なく、彼らは今このとき、牢獄にいるパウロと共に、主キリストの福音のために共に労苦し、共に戦っているのであり、パウロの使徒としての恵みに共にあずかっているのです。主キリストの福音に仕えるキリスト者には、苦難をも共にする恵みが与えられているのであり、これほどまでの連帯性、一体性、深い交わりが与えられているのです。彼らはみなすでに来るべき神の国の民として一つにされています。

 以上のことからも推測できるように、7節の「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」とは、別々の違った状況について語っているのではなく、今パウロが監禁されているこのときにこそ、福音を弁明し、立証する絶好の機会となったのだという意味に理解されます。そのことについては、12節以下で具体的に語られます。

パウロにとっては、あらゆるとき、あらゆる機会が、主キリストの福音を弁明するとき、それを立証するときでした。パウロは使徒言行録の記録によれば、計3回にわたって、世界伝道旅行に出かけましたが、その中で何度も迫害を受け、獄に捕らわれの身となりました。しかし、獄にとらわれたときには、宣教の自由、語る自由を奪われた沈黙のときでは決してありませんでした。むしろ、そのときにこそ、自分が何のために、なぜとらわれの身となっているのか、それにもかかわらず、なぜその主張と信仰とを捨てず、なぜ弱らず、くじけることをせず、より一層力を込めて、確信をもって、主キリストの福音を語ることができるのか、語るべきなのか、そのことを裁判を司っている国家の権威者たちの前で、また裁判を見ている多くの人々の前で、臆することなく、大胆に語り、証しすること、このときこそが最も力強く福音を弁明し立証する機会になるのだとパウロは考えていたのです。

使徒言行録の終わりの個所で、彼はローマ皇帝カイザルに上訴し、囚人としてローマに護送されていくことになったことが書かれています。彼がなぜローマ皇帝に上訴したのかについては使徒言行録にはっきりと書かれていませんが、わたしたちには容易に推測できます。当時の世界の中心都市であるローマ、そこに君臨していた全世界の頂点に立つカイザル、その町で、この世の王の前で、しかし世界の主はただおひとり、わたしたちのために十字架で死んでくださり、全人類の罪を永遠にゆるしてくださる、主イエス・キリスト、この方こそが唯一の主である、ローマ皇帝カイザルが主なのではない、十字架につけられた主イエス・キリストこそが全世界の唯一の主なのだということを証しするためでありました。

8節からもパウロの祈りは続きます。【8~11節】。この個所ではまず「愛」という言葉に注目したいと思います。8節の「愛の心」と9節の「愛」とはもともとは違う言葉ですが、ここでは区別する必要はないと思います。重要なことは、8節でパウロは「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で」と言っている点です。「愛の心」とは本来はパウロ自身のフィリピ教会に対する愛の思いを言っているのですが、それを彼は「キリスト・イエスの愛の心」と言い換えているわけです。パウロがここで強調しようとしているのは、自分の愛はキリスト・イエスから出ている愛である、キリスト・イエスの愛と同じ愛であるということです。キリスト・イエスがフィリピの教会を、またパウロを、そしてすべての人を愛しておられる、そのためにご自身の尊い命を十字架におささげくださった、その愛と同じ愛をもってパウロはフィリピ教会を愛している、フィリピ教会のために祈っていると彼は言っているのです。

すべての人間の愛は主イエス・キリストの愛にその原型があり、その源があり、その手本があります。9節の「あなたがたの愛」もそうでなければなりません。9節の愛は、ギリシャ語でアガペーという言葉です。「神の愛、神は愛である」と言われるときに用いられるギリシャ語と同じです。すべての人間の愛は、この神の愛、アガペーにその源泉があります。神がその独り子であるみ子主イエス・キリストを、わたしたち罪びとたちに賜った、ここに愛がある、この神の愛によって、わたしたち人間にも愛の道が開かれたのです。それゆえに、聖書では神の愛の場合も人間の愛の場合でも同じアガペーというギリシャ語を用いています。

人間の愛は、いつでも、どれでも、不完全であり、破れており、傷ついています。そこにはどうしても人間の罪が付きまとっているからです。罪びとの愛だからです。それゆえに、わたしたちの愛は常に神の愛、主キリストの愛を出発点とし、その上に基礎づけられ、その愛を目標としていなければなりません。パウロがここで言ってるのも、そのような愛のことです。その愛の特徴を二つにまとめてみましょう。

一つは、「キリストの日に備えて」、すなわち主キリストが再び地に下って来られ、神の国を完成され、わたしたちの救いを完成される日に備えた愛、終末を目指した愛であるということです。真実の愛はこの世での完成はありませんし、それを望むこともありません。真実の愛はこの世での報いを望みませんし、この世での完成もありません。むしろ、この世では未完成であり、途中であるということを知っています。しかし、そうでありつつ、終わりの日の完成を目指しています。神の国での完成を約束されています。

もう一つのことは、真実の愛は「神の栄光と誉れ」とをたたえます。自らの満足を求めたり、他の人の称賛を求めたりすることはありません。「すべては神の栄光のために」、これがわたしたち改革教会の源泉である、宗教改革者カルヴァンのモットーでした。わたしたちの小さな愛の一つ一つも、「神の栄光と誉れ」のための愛であるようにと願います。

(祈り)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA