1月26日説教 「わたしはこの目であなたの救いを見た」

2020年1月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ルカによる福音書2章22~38節

説教題:「わたしはこの目であなたの救いを見た」

 ルカによる福音書は主イエスの誕生の記録に続いて2章21節では生まれて8日目の割礼と命名の儀式について、それから22節以下では40日間の清めの期間を経てからの初子の奉献の儀式(23節)と清めの儀式(24節)について記しています。これらは旧約聖書の律法に定められていたいたことであり、イスラエルのどの家でも長男が誕生した際には行われる習わしでした。主イエスはおとめマリアの胎から聖霊なる神によってお生まれになった神のみ子ですが、一人の人間として、人の子として、神がお選びになった神の契約の民イスラエルの一人としてお生まれになりました。主イエスはまことの神であられ、同時にまことの人となられました。ここではまずそのことが確認されます。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節で使徒パウロはこのように書いています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。主イエスは神のみ言葉である律法の下にお生まれになり、その律法を完全に成就され、それによって律法の下にあったイスラエルの民と全人類の罪を贖われ、すべての人の罪をゆるす救い主となられました。ルカ福音書2章に記されているこれらの儀式は、ヨセフとマリアという一つの家庭内で行われている小さな儀式ですが、そこにはすべての律法を完全に成就される主イエスの救い主としてのお働きがすでに暗示されていることをわたしたちはきょうのみ言葉から知らされます。

 21節には、生まれて8日目の割礼と命名の儀式について書かれています。【21節】。割礼はイスラエルの家に生まれた男子が神に選ばれた契約の民であることのしるしとして受ける儀式です。主イエスは神の契約の民の一人として誕生されました。しかも、契約の民イスラエルが旧約聖書の中で長く待ち望んできたメシア・キリスト・救い主として誕生されたということが、次の命名の儀式で暗示されています。「イエス」(これはギリシャ語ですが)、ヘブライ語では「ヨシュア」、その名の意味は「神は救いである」という彼のお名前は、本来は父親が付けるのですが、主イエスの場合には、すでにわたしたちが1章31節で聞いたように、彼がお生まれになる以前に神によってあらかじめ決められていたお名前であり、そこには神の永遠の救いのご計画と強い意志が言い表されていました。すなわち、神はご自分がイエス、神は救いであると名づけられるご自身のみ子によって、ご自身の救いのみわざを完全に成就されるという神の強い意志が、この命名によって明らかにされているのです。この日にヨセフとマリアの家で行われた割礼と命名の儀式は、他のイスラエルの家で同じように行われる儀式とは違った、特別の意味を持っていたということをわたしたちは知らされるのです。

 22節の清めの期間についてはレビ記12章に定められています。男の子を出産した婦人は40日間宗教的な汚れの状態にあるとされました。その期間が過ぎてから、エルサレム神殿で1歳の雄羊かあるいは2羽の山鳩ないしは家鳩をささげることで清められると定められていました。ヨセフとマリアは結婚して間もない貧しい家庭でしたので、例外で認められていた2羽の鳩をささげたと24節に書かれています。

けれども、貧しくても、汚れの期間が終わり再び神との交わりが回復されることへの喜びは大きかったと推測されます。二人はガリラヤのナザレからエルサレムまでの100キロ以上もの困難な旅を、清めの期間が終わるや否や、神へ感謝のささげものをするために、幼子を抱いて出かけるのです。2章の初めに書かれていた2か月近く前にエルサレム近郊のベツレヘムに旅した際は、ローマ皇帝の権力に強制されてでしたが、このたびは違います。神から約束されていた男の子が与えられたことに対する感謝と、清めの期間が満たされて再び神との豊かな交わりがゆるされたことの感謝の思いに満たされて、二人は信仰の喜びの中をエルサレムへと向かいました。

23節に書かれていることは「初子の奉献」と言われる儀式です。初子の奉献の起源は出エジプトの出来事にあります。神はエジプトで長い間奴隷としての労役に苦しめられていたイスラエルの民を救い出すために、ある夜エジプト全土に滅ぼす者を遣わし、エジプト人の家庭に生まれた長男の命をすべて奪い取られましたが、滅ぼす者はイスラエルの家の前を過ぎ越して、イスラエルの家は神によって守られたということが出エジプト記12章に書かれています。これがのちの過ぎ越しの祭りの起源となりました。この救いの出来事から、イスラエルの家に生まれた長男の命は神のものであるゆえに神にささげられなければならない。ただし、動物の血を贖いの供え物としてささげることによって、買い戻すことができると定められていました。

主イエスの両親であるヨセフとマリアはこの律法の規定に従って長男を神にささげ、贖いの供え物をささげて神を礼拝したのです。ここで律法の規定を満たしているのは親であるヨセフとマリアですが、しかしわたしたちは知っています。初子の奉献の律法を本当の意味で、完全に成就されるのは主イエスご自身であるということを。

また、ここで行われている清めの儀式と初子奉献の儀式は、ヨセフとマリアというガリラヤ地方の小さな新婚家庭内で起こっている出来事ですが、しかしそれは一つの家庭内にとどまらず、神の契約の民イスラエルとさらには全人類とにかかわっているできごとなのだということを、わたしたちに予感させます。すなわち、清めの儀式は、やがて主イエスがご自身の十字架の死によってわたしたちのためになしてくださる罪の汚れからの清め、罪のゆるしと救いをあらかじめ先取りしていると言ってよいでしょう。また、初子奉献の儀式は、主イエスがご自身のご生涯全体とそのお体とその命そのものを父なる神に完全におささげし、ご自身が聖なる贖いの供え物となられることによって、すべての人を罪と死の奴隷から贖い出し、救ってくださるということを目指していると言ってよいでしょう。

そのことが、さらにこのあとに続くシメオンとアンナという二人の預言者によって、より明らかにされていきます。シメオンについては、【25~26節】。また、アンナについては、【36~38節】。この二人の預言者がエルサレム神殿で幼子主イエスと出会うことによって、この幼子こそが旧約聖書でイスラエルの民が長く待ち望んできたイスラエルと全人類の救い主、メシア・キリストであるということを証しするのです。

この二人の預言者に共通している第一の点は、二人とも神の約束が成就される時を待ち望むことが彼らの生涯の、また彼らの預言者活動の中心であったということです。いや、それがすべてであったと言うべきでしょう。シメオンは、神がイスラエルの民と結ばれた契約が成就され、イスラエルと全人類の救いをもたらすメシア・キリスト・救い主が到来する時を待ち望んでいました。しかも、そのメシア・キリストに出会うまでは死ぬことはないという約束まで与えられていたのでした。彼は彼の全生涯をかけて、文字どおり彼の命をかけて、救い主をひたすらに待ち望んでいたのでした。

女預言者アンナは夜も昼も一日中神殿で神にお仕えし、祈りと断食の日々に明け暮れていたと書かれています。彼らにとっては、待ち望みつつ神に仕えていたというよりは、神の約束の成就の時を待ち望むことこそが最もよく神に仕えることであったのです。それゆえに、待ち望んでいるメシアに会うまでは彼らの生涯は決して満たされることはありません。

待ち望むということは、ある意味では、とてもつらい務めです。いまだに確かな事実を見ることができずに、確実な実りを手にすることなく、いつまでたっても満たされることがない、それゆえにいつも餓えと乾きを覚えながら、ただひたすらに約束を信じて待ち望む以外にないからです。詩編42編の詩人はこのように歌っています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(1節)と。また、詩編130編の詩人も待ち望む信仰とそのつらさを歌っています。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにも増して」(5~6節)と。

それでも彼ら二人の預言者には、ほかにこの世の楽しみを見いだそうとはしませんでした。家族とくつろいだり、旅行をしたり、おいしい食卓を囲んだりなどということには、全く楽しみも喜びも見いだそうとはせずに、ただひたすらにメシアを待ち望みました。そのことだけに、唯一の楽しみと喜びとを求め、そうすることで彼らは年老いてからも生き生きとした信仰に生きていたのです。

彼らがそうできたのはなぜでしょうか。それは、待ち望む信仰者は、彼自身の可能性とか忍耐力とか、あるいは信仰の強さとかによって生きているのではなく、待ち望まれている神の約束の内容、その対象であるメシア・キリストに引っ張られるようにして、待ち望まれているその方の力と恵みによって生きているからなのです。イザヤ書40章31節に書かれているように、「主の望みを置く人は、新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。そのように、待ち望まれているその方に捕らえられつつ、その方から絶えず新たな力を与えられつつ、常に若々しく、生き生きとと、待ち望む信仰に生きることができるのです。

二人の預言者に共通している第二の点は、彼らは待ち望みながら、何もしないで、暇を持て余して待っていたのでは決してなかったということです。シメオンは常に聖霊なる神に導かれながら、約束のメシアに出会う日を今か今かと希望をもって待ち望み、神殿での礼拝生活を続けていました。アンナは毎日熱心な祈りと断食とに励みながら神にお仕えし、一日一日が決して無駄に終わることがなく、確かな成就の時へと向かっている大切な、かけがえのない日々であることを信じて生きていました。神の約束の成就を待ち望む信仰者の歩みは、決して空しく終わることはありません。

第三に、二人の預言者たちの待望の時は、今や幼子主イエスと出会って、その成就を見たということです。長く、つらい待望の期間がついに終わりました。彼らの待望は確かに空しく終わることはありませんでした。彼らは人生の終わり近くになってようやくその最後の目標に到達しました。と言うよりは、彼らが待ち望んでいたメシアに出会ったことによって、彼らの生涯が満たされ、最後の目標に達したと言うべきでしょう。それゆえにシメオンは29、30節でこのように告白するのです。【29~30節】。

信仰者にとっては、いやすべての人間にとっては、救い主に出会うことによってこそ、その人生が本当の意味で満たされたものとなります。他の何かによっては、この世のいかなるものによっても、真の慰め、本当の平安を得ることはできません。この世にあるものはみな罪と死とに支配されているからです。

しかし、ただお一人、主イエス・キリストこそがわたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死の墓から復活され、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。この主イエス・キリストに出会うとき、わたしの人生は本当の意味で満たされます。死によっては終わらない復活の命が約束されているからです。

わたしたちは今その成就の時に生きています。「わたしはこの目であなたの救いを見た」というこのみ言葉から教会の歩みは始まります。わたしたち一人一人のきょうの一日、この1週の歩みが始まります。そのようにしてわたしに与えられている一日一日を希望と喜びをもって歩むことがゆるされるのです。

(祈り)

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