5月3日説教「主イエスが受けられた洗礼」

2020年5月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記5章1~24節

    ルカによる福音書3章21~22節

説教題:「主イエスが受けられた洗礼」

 ルカによる福音書は主イエスのために道を整える先駆者ヨハネと、彼に半年遅れて登場されるメシア・キリストである主イエスとを、交互に並べて記述しています。彼らの誕生予告と誕生について1~2章で語られていましたが、3章では彼らの公の活動について、1~20節ではヨハネの活動がまず語られ、そして21節からは主イエスの公の活動が続けて語られます。ヨハネに関する記述の最後の19、20節では、彼が領主ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)によって捕らえられたことが書かれています。このことについてはマタイ福音書14章とマルコ福音書6章に詳しく書かれていますが、ルカ福音書ではここであらかじめそのことに触れています。それによってルカ福音書が強調していることは、先駆者であるヨハネとメシアである主イエスとのこれまでの並行関係、つながりは、ヨハネの逮捕と死によっても決して途絶えることなく続いていくということなのです。

 つまり、神がこの終わりの時に至って、ご自身の救いのみわざを完成されるために先駆者として遣わしたヨハネによって備えられた道を、そのあとにおいでになるメシア・救い主なる主イエスがその道を確かに進まれる。そして、神の救いのご計画を成就される。この世のどのような悪の力や人間たちの罪の力によっても、神の救いのご計画は決して変更されることも中止されることもない。神はそれらのすべてを貫いて、ご自身の救いのお働きを、ヨハネの時代にも、いつの時代にも、そして今日のこの時代にも、力強く進めておられるのだということを、ルカ福音書は強調しているのです。

 ヨハネは16節で来るべきメシアである主イエスについて、このように証言しています。「わたしは水で洗礼を授けるが、わたしよりの優れた方が来られる。わたしは、そのかたの履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。ヨハネのその証言が直ちに実現を見ます。

【21節】。主イエスの公の活動、福音宣教のお働きがここから始まります。23節には、「イエスが宣教を始められた時はおよそ三十歳であった」と書かれていますが、その公の宣教活動を開始された時の最初のお姿が、ここに描かれているように、洗礼をお受けになり祈っているお姿です。これは非常に印象的な光景です。民衆の中にまじって、ヨルダン川で洗礼をお受けになり、祈っておられるお姿を、多くの画家たちが絵にしてきました。主イエスはこのようにして、民衆の中に入られ、この罪の世においでになって、罪びとたちと共に洗礼を受けておられます。 

わたしたちはここから何を学ぶでしょうか。主イエスはおそらくは粗末な衣装を身にまとい、生活苦や多くの悩みを抱えた民衆と同じお姿で、もっとも多くの画家たちが描いた主イエスのお姿は何か光輝いて見えるのですが、それは画家の信仰の表れであって、実際の主イエスのお姿は粗末でみすぼらしい身なりだったに違いありませんが、主イエスはそのようにして民衆と全く同じお姿で、民衆の中の一人として、この世においでになられたのです。主イエスは神のみ子であられましたが、罪びとの一人として、この罪の世にくだってこられたのです。当時の政治家たちや宗教家たち、ヘロデ王家や貴族、祭司やファリサイ派、律法学者たちのようにではなく、彼らは生活に疲れた民衆を神から見放された「地の民」と呼んでいましたが、彼らの一人としてではなく、むしろ見捨てられ、見失われ、疲れ、倒れている人たちの一人として、主イエスはこの世においでになられ、この世での福音宣教のお働きを始められました。そのような主イエスの歩みは、そのご生涯の終わりのご受難と十字架の死へと向かっていくのです。

ヨハネが授けていた洗礼は、3節にあるように「罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼」でした。ヨハネは来るべきメシア・救い主の到来に備えて、人々が罪を悔い改めて神に立ち帰り、罪のゆるしを得るようにと、洗礼を授けていました。けれども、主イエスの場合、罪を悔い改める必要などあるのでしょうか。主イエスは罪のゆるしを必要とするのでしょうか。いいえ、そうではありません。主イエスは神のみ子で、罪なき方、聖なる方です。主イエスはヨハネが証しし、旧約聖書の預言者たちが待ち望んでいたメシア・救い主、わたしたちの罪をゆるす方です。マタイ福音書3章14節では、ヨハネが主イエスに対して、「わたしこそがあなたから洗礼を受けるべきなのに」と驚きの声を挙げています。

これはどういうことでしょうか。どうして主イエスは罪びとが受けるべき洗礼をお受けになったのでしょうか。わたしたちはここで、神のみ子であられた主イエスが、人のお姿でこの世のおいでになられたことの意味をはっきりと知るでしょう。主イエスはご自身罪なき神のみ子でありながら、ご自身を低くされ、卑しくされて、わたしたち罪びとたちの中に入ってきてくださり、罪びとの一人に数えられるまでに、わたしたちと連帯してくださったのだということを。主イエスはそのようにして、罪びとが受けるべき神の裁きと呪いとを忍び通され、ご受難と十字架への道を進み行かれたのです。

さらに言うならば、主イエスご自身が受けられた洗礼は、わたしたちの洗礼への招きであり、わたしたちが主イエスを信じて洗礼を受けることへの招きです。わたしたちが受けるべき洗礼は、主イエスご自身の洗礼にその出発点を持ち、根拠と土台を持ち、またその完成も主イエスの洗礼にあるのです。ある人はこう考えます。信仰は心の中の問題だから、洗礼を受けるという儀式は必要ない。わたしが心の中で信じていればそれで十分なのではないかと。でもそれは、主イエスご自身の洗礼を軽視することにもなるのではないか。それは、主イエスがわたしたち罪びとの一人となってお受けになった洗礼を否定することになるのではないか。わたしたちはだれであっても、主イエスのお招きに応えるべきですし、応えてよいのです。

次に主イエスの祈りのお姿に注目したいと思います。ルカ福音書は特に主イエスの祈りのお姿を強調しています。ルカ福音書は受洗の時をはじめ、5章16節では一日の終わりに人里を離れてお一人で父なる神に祈られ、6章では12弟子をお選びになる時にも祈られ、その他、重要な場面ではいつも主イエスの祈りのお姿を描いています。主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスはわたしたちをも祈りの生活への招いておられます。感謝の時、喜びの時に天の神に心を向けて祈る。苦難の時、試練の時に、天の神からの助けを信じて祈る。悲しみの時、恐れや不安の時に、天の神にわが身をゆだねて祈る。すべての時を神がご支配しておられることを信じ、すべてのことに神の深いみ心があることを信じて祈る。主イエスはわたしたちと共に、わたしたちに先立って、わたしたちのために祈っていてくださるのです。ここに、わたしたちの祈りの確かさがあり、力と希望があります。

「天が開いた」と書かれています。天におられる神と地に住むわたしたち人間との間に道が開かれました。主イエスの受洗によって、主イエスがわたしたち罪びとの世界に入ってきてくださったことによって、それまでは人間の罪によって天の門は閉じられており、神と人間との間には厚い壁があったのですが、主イエスによってその門が開かれ、その壁が打ち砕かれたからです。わたしたちは、道であり、真理であり、命であられる主イエスによって、天の父なる神との聖霊による、豊かな命の交わりへと招かれています。主イエスによって、わたしたちもまた神に愛されている神の国の民の一人一人とされているのです。

23節以下の系図について少し触れておきます。この系図は主イエスの父となるヨセフから始まって、最初に神によって創造されたアダムまで77人の名前が連ねられています。きょうの礼拝で朗読された創世記5章を始め、旧約聖書には数多くの系図が書かれています。創世記5章の系図はルカ福音書36節のセムから38節のアダムまでと、時間的には逆になっていますが、その名前はほぼ一致します。旧約聖書にはこのほかにも数多くの系図があります。イスラエルの民は系図を重んじました。聖書の中で系図はどんな意味があるのでしょうか。

第一にそれは、神の選びの歴史であり、神の救いの歴史です。神はアダムとエバを創造され、彼らが罪に堕ちると直ちに救いのみわざをお始めになりました。神はその救いのみわざを、選ばれた民、イスラエルによって継続されました。そのためにイスラエルと契約を結ばれ、この民に救いのみ言葉をお語りになりました。時にイスラエルが神に不従順であった時にも、神はご自身の契約を忠実に守られ、この民を愛し、導かれました。そして、ついにイスラエルの民の中からメシア・救い主を誕生させられました。このメシア・キリストである主イエスによって、神はイスラエルの民だけでなく、全人類のための救いのみわざを成就されたのです。

したがって、旧約聖書に記されているすべての系図は、またルカ福音書とマタイ福音書に記されている系図も当然そうですが、それらの系図はすべて主イエス・キリストを目指しています。主イエス・キリストですべての系図は完成するのです。それゆえにまた、主イエス以後には、聖書の中には、また教会の歴史の中では、系図が新たに書かれることは全くありません。主イエス・キリストを信じるわたしたちはすべて、国籍に関係なく、身分や職業に関係なく、家柄とか能力とかにも関係なく、すべての人は神の国の民として登録されるのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、み子なる主イエス・キリストによって、わたしたちをあなたの民

としてお招きくださいますことを感謝いたします。あなたの招きのみ声を聞くとき、喜んで、従順に聞き従うことができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

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