1月31日説教「初代教会の信者たちの生活」

2021年1月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教 聖 書:申命記6章4~15節     使徒言行録2章43~47節 説教題:「初代教会の信者たちの生活」  ペンテコステの日にエルサレムで世界最初の教会が誕生しました。この日に、ペトロの説教を聞き、罪を悔い改めて、主イエス・キリストのみ名によって洗礼を受けた人は三千人ほどであったと、使徒言行録2章41節に書かれています。主イエスの12弟子たちと主イエスの母マリアと兄弟たちを含めて、主にユダヤ人からなるこの教会を、一般にエルサレム教会と呼んでいます。もっとも、まだ教会堂も定まった集会場所もありませんが、彼らは主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって一つの教会の群れを形成しています。 42節からは、彼らエルサレム教会の信仰生活、教会生活について、まとめて報告されています。わたしたちはここから、最初に誕生した教会の様子を知ることができると同時に、今日のわたしたちの教会の在り方にとっても重要ないくつかのことを教えられます。この個所を2回に分けて学んでいくことにします。 【42節】。この42節を初めとして43節以下にも、信じる人たちが群を形成することを言い表す言葉が数多く用いられています。42節の「交わり」、44節の「皆一つになって」「共有にし」、45節の「分け合った」、46節の「心を一つにして」「集まって」「一緒に」、そして47節の「仲間に加え一つにされた」。彼らは信仰的に、精神的に、また実際的にも、一つの群れとなり、一つの共同体を形成しているということが強調されています。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人たちは、一つの群れを形成するのです。それは、彼ら自身の何かの共通点とか共通の利害関係とかによるのでは全くなく、彼らが信じている主がただお一人、彼らの群れの頭(かしら)、教会の頭がただお一人、主イエス・キリストであるからです。 わたしたちはここから、信じる人たちは群れを形成するということを第一に教えられます。わたしが主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白し、洗礼を受けるということはわたしの個人的な決断であり個人的な体験であるかのように考えがちですが、しかしそれは一つの主にある交わりの中にわたしが招き入れられること、わたしが群を形成する一人とされるということなのです。41節に「仲間に加わった」とあり、また47節にも「仲間に加え一つにされた」とあるように、わたしが信じてキリスト者になるということは主イエス・キリストの体なる教会の群れの中にわたしが加えられるということなのです。わたしが主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされ、神の民とされ、神と結び合わされ、主キリストの体なる教会と結び合わされる時、わたしたちは一つの群れとなって互いに結び合わされ、信仰共同体として結合されるのです。 日本キリスト教会では信仰告白がより具体的に教会を一つに結びつけると考えています。わたしが主イエス・キリストを信じるということは、より具体的にはわたしが『日本キリスト教会信仰の告白』を信じ、告白し、わたしがこの信仰告白の共同体の中に招きいれられるということであり、わたしたちはこの『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白することによって、共に一つの教会として結集するのです。 ここで、信仰共同体としての教会について少し違った視点から考えてみましょう。ドイツ語では教会の信仰共同体と、この世の社会共同体とを区別して別々の言葉で言い表します。信仰共同体はGemeinshaftと言い、社会共同体をGesellshaftと言います。信仰共同体・Gemeinshaftによって形成されている教会をGemeindeと言います。また、社会共同体・Gesellshaftを信仰共同体との違いを強調して、利益共同体と呼ぶこともあります。Gesellshaft社会共同体・利益共同体もGemeinshaft・信仰共同体も同じように一致や連帯を強調しますが、その目的とか内容は、両者は全く違います。Gesellshaftは社会の利益や幸福を追求するために一致します。しかし、Gemeinshaftの一致の目的は共同体内部にはありません。共同体の上におられる主イエス・キリストだけが一致の基礎であり土台であり、また目的です。さらに、両者の大きな違いは、Gesellshaft・利益共同体では共通の利益や幸福のために、時に個人の違いや個性が無視されたり、時にはまた人間の尊厳性が犠牲にされたりすることがあります。しかし、Gemeinshaft・信仰共同体ではその反対に、罪の中に見失われていた人間の存在や尊厳性が見いだされ、尊重されるようになります。というのも、わたしたちはみなかつては罪の奴隷であり、この世の何らかの束縛の中に生きており、神のみ前では見失われていた罪びとであったのに、主イエス・キリストの十字架の福音によって罪の暗闇から救い出され、神のみ子の尊い血潮によって買い取られ、贖われた価の高い一人一人であるということを知らされているからです。それによってわたしたちはすべての束縛から解放され、個としての存在意義を取り戻し、神のみ前でかけがえのない尊いわたしとされます。教会とはそのような神に見いだされた個と個とが主キリストによって一つに結び合わされている群なのです。 次に、42節には初代教会の4つの特徴が挙げられています。一つは使徒の教え、第二は相互の交わり、第三はパンを裂くこと、そして第4は祈り、これらのことを熱心にしていたとあり、43節からはその具体的な内容が書かれています。これらは今日のわたしたちの教会にも共通していることです。 まず、使徒の教えですが、使徒とはここでは主イエスの12弟子を指しています。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダに代わってマティアが選ばれたことが1章の終わりに書かれていましたが、彼らは主イエスと地上の歩みを共にし、直接に主イエスが語られた神の国の福音の説教を聞き、また主イエスの十字架と復活を目撃した証人たちでした。彼らはペンテコステの日に天から聖霊を注がれ、自らが主イエスの福音を語る人に変えられました。彼らの代表者ペトロの説教を聞いて信じた人たちによって最初の教会が建てられました。使徒たちは初代教会とのちの全世界のすべての教会の源であり基礎であり出発点です。 使徒の教えとは、その内容の具体的な例として14節以下のペトロの説教、またこの後に書かれているペトロの説教などによって知ることができます。その中心は、わたしたちがすでに学んだように、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。教会が誕生した紀元30年ころはまだ福音書は書かれていません。福音書が書かれたのは紀元60年以後と考えられ、パウロの書簡が書かれたのは50年代ですから、それ以前にはペトロを始め12弟子たちが語った説教が使徒の教えとして書きとどめられていったのではないかと推測されます。やがて使徒の教えは4、5世紀ころになって、今日わたしたちが告白している『使徒信条』にまとめられました。 使徒の教えに熱心であるとは使徒の教えに生きること、また使徒の教えを語り伝えることの両方を含んでいると思われます。初代教会は使徒の教え、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって生きる群であり、またそれを語り、宣教することによって生きる群でした。このことこそが、Gesellshaft ・社会共同体とGemeinshaft・信仰共同体とを明確に区別している最も大きな特徴と言ってよいでしょう。この世の共同体は自らの利益と幸福を求め、この世のパンを食べて生きている群れですが、教会は主イエス・キリストの福音を聞き、そのみ言葉が自分たちの罪をゆるし、新しい霊の命を与えることを信じ、またそのみ言葉を宣べ伝えることによって生きている群れ、信仰共同体です。  次の相互の交わりとパンを裂くことについては次回学ぶことにして、きょうは最後に、祈ることについて取り上げます。主イエスご自身が祈りの人であったということを、使徒言行録と同じ著者になるルカ福音書が強調しているということをわたしたちは学んでいます。ヨハネから洗礼をお受けになった時、荒れ野での誘惑と戦われた時、12弟子をお選びになった時、また一日のお働きの終わりに、主イエスは民衆を避け、弟子たちからも離れて、お一人になられ、父なる神に祈られました。また、弟子たちに祈りについてたびたび教えられ、祈りの手本として「主の祈り」を教えられました。 使徒言行録1章14節には、弟子たちが聖霊を受ける前に心を合わせて熱心に祈っていたと書かれていました。この日に誕生した教会は祈る群れ、祈りの共同体でした。そのことはこのあとの使徒言行録でも繰り返して強調されています。3章1節には、【1節】と書かれていますので、初代教会では当時のユダヤ教の伝統を受け継いで、日に3度、朝9時と昼と午後3時に祈りをささげていたことが推測できます。信者たちはエルサレムの神殿や信者の家に集まり、共同で祈りをささげていました。 教会が祈る群れであるということは、わたしたちの日本キリスト教会にも伝統的に受け継がれています。1872年(明治5年)3月10日に誕生した日本最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会は、宣教師たちが始めた新年初週祈祷会がそのきっかけでした。今でも、全国の諸教会では新年の最初の週に連日の祈祷会を行う習慣が残っています。また、毎週日時を定めて教会員が集い祈るという公同の祈祷会はほとんどの教会で行っています。 教会が祈りの群れであるとはどういうことを意味するでしょうか。祈りはまず第一に神への服従の行為です。教会は教会に集まっている信者たちの考えとか計画とかによって生きているのではありません。主なる神のみ心に聞き従い、その導きによって生きていきます。したがって、教会は絶えず神のみ心を伺わなければなりません。聖書のみ言葉に導かれつつ、神のみ旨を尋ね求め、神がお与えくださる恵みを感謝して受け取り、神が備えられる道を自由と喜びをもって進んでいくために、教会は絶えず祈り続けるのです。 祈りはまた神への願い求めです。信仰の歩みの中で経験するであろう試練や困難の中で神の守りと導きとを祈り求め、重い病や大きな禍の中で、他の何ものにも助けと救いを期待できないような時でも、全能の神が必ずや道を備えてくださることを信じて祈り求める、あるいはまた、悩める他者のために執り成しの祈りをする、日本、アジア、全世界の平和と救いのために祈る、祈りはわたしたちの信仰に無限の広がり、無限の豊かさ、無限の力を与えるのです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天におられて、わたしたちの必要のすべてをご存じであられます。また、わたしたちに今なくてならないものが何であるのかを知っておられ、それを備えていてくださいます。わたしたちがどのような時にも、あなたのみ心を信じて、祈り続ける信仰者としてください。 〇神よ、あなたが永遠の救いのご計画によってお建てくださったこの秋田教会を、どうぞ顧みてください。小さな、欠けの多い群れですが、あなたのご栄光を現し、この地で主キリストの福音を高く掲げて歩む群れとして成長させてください。群れに連なる一人一人の信仰をあなたが日々に養ってくださいますように。 〇礼拝後に行われる秋田教会定期総会の上に、主のお導きがありますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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