2月7日説教「天地の造り主、いと高き神、アブラハムの主なる神」

創世記14章17~24節

マタイによる福音書6章9~10節

2021年2月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記14章17~24節

    マタイによる福音書6章9~10節

説教題:「天地の造り主、いと高き神、アブラハムの主なる神」

 創世記14章は前の章とも後の章とも直接的な連続性はないように思われます。12章から14章までは、族長アブラハムが神に選ばれ、神と契約を結んで、信仰の旅に出たことが、そして神が約束されたカナンの地に着いたことが書かれていました。15章からは再びアブラハムと神との契約について書かれています。ところが14章ではアブラハムの名前が出るのは章の後半12節になってからで、前半では当時のカナン周辺の地域に広がる諸国の戦争について描かれています。

 ではまず、前半で語られている諸国の戦争について簡単にまとめてみましょう。次に、13節以下から、アブラハムがどのようにしてその戦争にかかわるようになったのか。また、アブラハムの信仰の歩みにとってそれがどのような意味を持つのかについて読み取っていきたいと思います。

 1節に4つの王国とその王の名前が挙げられています。シンアル、これはバビロンとも言います。11章にバベルの塔の物語が書かれていました。他の3つの国々をも含めてこの4つはペルシャ湾の北に広がるチグリス川・ユーフラテス川流域の国々です。これら4つの王国はエラムの王ケドルラオメルを頭(かしら)として連合し、中東地域からパレスチナ地域に至るまでを支配していました。これをケドルラオメル連合軍と呼ぶことにしましょう。

 2節にはパレスチナ地方の5つの王国の名前が挙げられています。これには、死海(塩の海)近くのソドム、ゴモラが含まれています。13章10節以下には、アブラハムの甥のロトがこの地を選んでソドムに移住したことが書かれていました。これら5つの国をパレスチナ同盟軍と名づけましょう。

 パレスチナの5つの国は12年間エラムの王ケドルラオメルに支配されていましたが、13年目にパレスチナ同盟を結んでケドルラオメル王に反旗を翻しました。そこで、その翌年にケドルラオメル連合軍はパレスチナ同盟の反乱を鎮圧するために軍を送り、パレスチナ同盟の国々を攻撃し、最終的には8節以下に書かれているように、シディムの谷・塩の海周辺が決戦場所となり、パレスチナ同盟軍はそこで敗戦して、ソドムとゴモラの国は連合軍によって略奪され、アブラハムの甥ロトも捕虜にされたということが12節までに書かれています。

 わたしたちはここから、アブラハムと同時代の紀元前18~17世紀の中東とパレスチナ地域の国々の大規模な戦争について知らされます。今からおよそ四千年前のアブラハムの時代にも、それ以前にもそれ以後にも、地球上から戦争が絶えたことはありませんでした。21世紀の今日においても、期せずしてきょうの聖書の個所と同じ中東やパレスチナ地域には争いの火種が数多く存在しています。また今日では、直接に兵器を使用しなくても、冷戦というかたちで、さまざまな戦い、争いがあるのをわたしたちは知っています。この地球上から戦争をなくするにはどうしたらよいのか。わたしたちは聖書のみ言葉に聞きつつ、平和のために日々祈りつつ、主イエスが教えられたように、平和を造り出す人の幸いにあずかりたいと願います(マタイによる福音書5章9節参照)。

 わたしたち信仰者の信仰の父と言われるアブラハムは、彼が住んでいる地域の戦争の時代の中で、どのようにその信仰を持ち続けていくのでしょうか。彼は平和を造り出す幸いな人となるのでしょうか。13~15節を読みましょう。【13~15節】。

 これは言うまでもないことですが、彼はケドルラオメル連合軍とパレスチナ同盟軍の戦争に最初から参加していたのでは全くありませんでした。彼は平和を愛する人でした。13節に「彼らはアブラムと同盟を結んでいた」とありますが、この同盟は戦争のための同盟ではなく、このカナンの地で互いに平和に過ごすための同盟でした。また13章に書かれていたように、彼は甥のロトとの間で土地をめぐってトラブルがあった時にも、争いを好まず、年下のロトの方によいと思われる土地を先に選択する権利を譲るほどに、自分の権利を捨てて、またこの世の財産に対する欲望を捨てて、平和を造り出すことに心がけていました。

 13節で、アブラハムは初めて「ヘブライ人」と呼ばれていますが、このことも彼が平和を愛する人物であったことと関連しているように思われます。ヘブライ人とは、本来一つの民族や国民の名称ではなく、定住した土地を持たず、放浪していた貧しい人々を指す言葉だったと推測されています。そのヘブライ人という言葉が、創世記ではアブラハム・イサク・ヤコブの族長たちを指す言葉となり、出エジプトの時代には、エジプトで400年以上の寄留生活と奴隷の民であったイスラエルの民を指す言葉となり、そしてヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちによって形成された出エジプトの民、神の契約の民、イスラエル12部族を指すようになりました。アブラハムは放浪の民へブライ人として、他の国と争うような土地を所有してはいませんでしたから、カナンの地でできるだけ平和に生きていくことが必要だったし、また可能であったと思われます。

 そのアブラハムがケドルラオメル連合軍と戦うようになったのは、14節にあるように、捕虜として連れ去られた甥のロトを救い出すためでした。アブラハムはロトとその家族および財産を取り戻すと、それ以上連合軍を追撃することはせずに、すぐに引き返しています。彼はパレスチナ地域や中東の支配者になるために、また彼自身の土地や財産を増やすために戦争に赴いたのではありませんでした。ロトを救出するという一つの目的のためでした。彼は平和を愛する信仰者であり続けました。

 ここでいくつかの疑問が生じてきます。一つには、ロトは自分から分かれてソドムの地を選んだのですから、いわば自業自得で、アブラハムはわざわざ危険をおかしてまでも救出する必要はなかったのではないのか。わずか318人の戦争を未だ経験したことがないにわか兵士で、連戦連勝のケドルラオメル連合軍と戦うなんて、まったく無謀なことではないのか。しかしそれにもかかわらず、アブラハムが勝利するとは、奇跡ではないのか。そのような問いを持ちながら、次の17節以下を読むと、ここには確かにわたしたちにはわからない主なる神のお働き、お導きがあったのだということに気づかされるのです。

 神はアブラハムと同じ信仰によって旅立ったロトをお見捨てにはなさいません。ロトには19章でソドムの滅亡の時まで、なおも悔い改めの期間が残されています。神はわずかな兵力しかなかったアブラハムを守り、導いて、敵を前後から挟み撃ちするという知恵を与えて、彼に勝利をお与えになったのです。そのような神の奇跡が、17節以下のアブラハムとメルキゼデクとの出会いの場面を生み出していきます。

 【17~24節】。ここにメルキゼデクという不思議な王が登場します。彼はサレムの王と言われていますが、サレムは2節のパレスチナ同盟には属していませんでした。彼がここで突然に現われて、「いと高き神の祭司でありサレムの王であった」と紹介され、彼が「天地の造り主、いと高き神」のみ名によってアブラハムを祝福し、それに対してアブラハムが「すべての物の十分の一を彼に贈った」と書かれているのはいったい何を語っているのでしょうか。この謎に満ちた場面を他の聖書の個所を参考にしながら読んでいきましょう。

 まず、サレムですが、詩編76編3節には、「神の幕屋はサレムにあり/神の宮はシオンにある」と書かれています。サレムとはエルサレムのことであることが分かります。またサレムとは、ヘブライ語のシャロームと同じ、平和を意味しています。エルサレムとは「神の平和」という意味です。メルキゼデクとは「義の王」あるいは「王の義」という意味です。この名前は詩編110編4節に出てきますが、新約聖書ヘブライ人への手紙ではこの詩編のみ言葉を引用して、主イエスこそが永遠の大祭司であるメルキゼデクに等しい祭司であると語っています。【ヘブライ人への手紙5章5~10節】(406ページ)。また、【7章1~4節】(407ページ)。

 ここに、新約聖書の理解が語られています。すなわち、メルキゼデクとは、義なる王であり永遠の王、また永遠の大祭司であられる主イエス・キリストを暗示しているのであり、アブラハムは彼自身そのことを知らないまま、来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストのみ前にひれ伏し、十分の一をささげて主イエスを礼拝したというのが、ヘブライ人への手紙の理解です。

 この手紙ではさらに続けて大祭司キリスト論を語ります。イスラエルの大祭司は年に一度エルサレム神殿の最も奥にある至聖所に入り、自分と民全体の罪をあがなうために動物の血を神にささげますが、まことの永遠の大祭司であられる主イエスは動物の血ではなく、ご自身の神のみ子としての汚れのない尊い血を十字架でおささげくださいました。この一回で完全な主イエス・キリストの血の贖いによって、全世界のすべての人の罪が永遠に洗い清められ、ゆるされ、救われるのだと教えています。

 創世記に戻って、サレムの王メルキゼデクは19節で「天地の造り主、いと高き神」によってアブラハムを祝福しています。その神がアブラハムの手に敵を渡されたのだと告白しています。メルキゼデクはカナンの王ですから、ヘブライ人ではありませんが、ここでは異邦人の口を通してヘブライ人の神が告白されているのです。22節ではアブラハム自身の口で「天地の造り主、いと高き神、主」と告白されており、メルキゼデクの告白がアブラハムによって承認され、繰り返されています。この告白はアブラハム時代の古い信仰告白でしたが、それが出エジプト以後にカナンに定着したイスラエルの民の信仰告白となり、さらには主イエス・キリストの教会の信仰告白となって受け継がれていったのです。

 アブラハムの神、イスラエルの神、そして主イエス・キリストの父なる神は天地万物の創造主なる神です。天地のすべてはこの神によって成り、この神によって存在し、この神によって生きるべき道を見いだし、この神のご支配のもとにあります。また、この神はいと高きにいます神です。天におられる神です。この地上にあるすべての物よりもはるかに高く、はるかに力強く、はるかに大きく、偉大なる神、全能の神です。主イエスは「主の祈り」で「天にましますわれらの父よ」と祈りなさいと教えられました。わたしたちはどのようなは困難の中でも、どのような暗闇の中でも、心と目を高く天に向けて、「天にましますわれらの父よ」と祈ることがゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは天地万物とわたしたち一人一人をみ言葉によって創造されました。わたしたちの命はあなたの中にあります。あなたを離れてはわたしたちはまことの命を生きることはできません。主よどうか、わたしたちをあなたの恵みのご支配のうちに置いてください。あなたを離れて、罪と死と滅びへと向かうことがありませんように。

〇天の神よ、あなたはこの世界の悲惨な現実を天からご覧になっておられます。どうぞ、苦しみ、痛み、病んでいるこの世界を憐れんでください。あなたからのいやしと平安とをお与えください。

〇神よ、あなたがこの地にお建てくださった秋田教会を顧みてください。群れに連なる一人一人の信仰を養い、その道をお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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