3月14日説「イエス・キリストの名によって歩きなさい」

2021年3月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編23編1~6節

    使徒言行録3章1~10節

説教題:「イエス・キリストのみ名によって歩きなさい」

 ペンテコステの日にエルサレムに誕生した世界最初の教会が、エルサレムからパレスチナ地方全域へと宣教範囲を広げ、さらに北の小アジアからヨーロッパへと宣教し、全世界に教会が建てられていった次第について、使徒言行録は描いています。その最初のエルサレム神殿を舞台にした宣教活動が3章に書かれています。この時、ペトロとヨハネが生まれつき足の不自由な男の人をいやしたという奇跡が語られ、12節からはペトロの説教が記されています。この最初の宣教活動は、そののちの初代教会の宣教活動の在り方の基本となるべき象徴的な意味を持っています。それはまた、その後2千年間の世界の教会と今日のわたしたちの教会の宣教活動の基本をも示しています。

 ペトロは6節で、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、生まれつき歩いたことがなかったその人がすぐに躍り上がって立ち上がり、歩き出し、神を賛美しながら神殿に入っていったと書かれています。これが教会の最初の宣教活動であり、またその成果、実り、収穫です。教会は神のみ言葉の権威をもって、罪の中で倒れ、死んでいる人に、まだ本当の救いの道を歩いていない人に対して、「あなたはナザレの人イエス・キリストの名よって立ち上がり、歩きなさい」と命じる務めに仕え、そのみ言葉を聞いてイエス・キリストのみ名によって歩く人を誕生させるために仕え、そのようにして、教会はいつの時代にも宣教活動を続け、教会を前進させてきました。

教会はイエス・キリストのみ名によって歩く信仰者たちの群れとして誕生し、また生きるのです。他の何かによって歩くのではありません。教会は他の何かによっては決して立つことも、歩くこともできないということを知っている人々の群れです。教会は2千年の間、そして今もなお、ナザレの人イエス・キリストのみ名によって立ち、歩く以外にありません。わたしの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利された主イエス・キリストのみ名を信じて、ここにこそわたしの生きる土台があり、わたしが進むべき道があり、そしてわたしの最終の目的地があると告白する人たちの群れ、それが教会です。そしてまた、教会はこの世の人たちに向かって、「あなたも主イエス・キリストのみ名を信じて立ち上がり、本当の救いの道を歩きなさい。そこにこそ、あなたの生きる土台があり、あなたの進むべき道がある」と宣べ伝える人たちの群れ、それが教会です。

 では、使徒言行録3章に書かれている最初の奇跡はどのようにして起こったのでしょうか。【1~2節】。ペトロは主イエスの十二弟子のリーダーでしたが、エルサレム教会の最初の指導者でもありました。ヨハネは十二弟子の一人ゼベダイの子ヤコブの兄弟ヨハネと考えられています。二人一緒に行動しているのは、福音書に書かれているように、主イエスが弟子たちを二人一組で宣教に派遣されたことを受け継いでいるのかもしれません(マルコ福音書6章7節参照)。

 エルサレム神殿では当時、日に三度、朝9時と正午と午後3時に祈りがささげられていました。午後3時には動物の犠牲がささげられていたので、多くのユダヤ人が神殿に集まってきました。その時刻に合わせて、一人の生まれつき足の不自由な人が運ばれてきて、美しい門のそばに置かれていました。この人は自分では一歩も歩けません。でも幸いなことに、彼には助けてくれる家族か友人がいました。彼は毎日彼らに運ばれてきて美しい門のそばに置かれ、神殿に集まってくる人々から施しを乞い、それによって命をつないでいたのでした。信仰深いユダヤ人は貧しい人や社会的弱者を見捨てることはしませんでした。ユダヤ教では施しは祈りとともに最も敬虔で信仰深い行為とされていました。この人は信仰深いユダヤ人の憐みにすがって生きていくしかありませんでしたし、またそれを期待することもできたのです。

 けれども、毎日そのことを繰り返しても、それは本当の意味での彼の救いにはなりませんでした。彼が、救い主であられる主イエス・キリストに出会うまでは。ここに、古いユダヤ教の信仰の限界が示されているように思われます。キリスト教会の最初の宣教におけるこの奇跡の出来事が、エルサレム神殿を舞台にしているということの象徴的な意味を、わたしたちはここで考えることができるように思います。エルサレム神殿を中心にしたユダヤ教の宗教の時代が今や終わって、主イエス・キリストのみ名を信じる信仰によって生きる新しい教会の歩みがここから始まったのです。主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしを信じる教会の信仰がここから始まったのです。

 エルサレム教会はまだ定まった礼拝場所や教会堂を持っていませんでした。神殿や信者の家々が集会の場所でした。ペトロとヨハネも当時のユダヤ人の習慣にならって、神殿で祈りをささげていたと思われます。ここには古い宗教とキリスト教との連続性が示されているようにも思われます。ペトロが語った主キリストの福音はユダヤ教の教えとははっきりと違っていましたが、それはまた同時に、ユダヤ教とは全く別の所からやってきた教えであるのではありません。神がイスラエルの民ユダヤ人を選んでお始めになられた神の救いのご計画が、今主イエス・キリストによって成就し、完成を見たのです。わたしたちはここから、旧約聖書と新約聖書の連続性をも読み取ることができます。

 次に、【3~6節】。3節から5節に「見る」という言葉が計4回用いられています。これらは原文のギリシャ語ではみな違う言葉です。少しずつ意味も違っていると考えられています。それぞれの意味の違いを見ていきましょう。3節の「見る」は、生まれつき足の不自由な人が、通りかかったペトロとヨハネを見て、施しを乞うという場面です。この「見る」は、足の不自由な人がいつもと同じように目の前を通り過ぎていく人たちを見ていることであり、ここではまだ人間と人間との出会いは起こっていません。ある人はそのまま通り過ぎていくし、ある人は立ち止まって何がしかの施しをする。そして彼は感謝する。けれども、そこではまだ真実の出会いは起こっていません。

 次に、4節で、ペトロとヨハネが彼を「じっと見る」ですが、この言葉は注視する、凝視するという意味を持ち、相手の人間を強く捕らえる目であり、その人の全人格を受け入れ、その人との交わりを持とうとする目のことです。その人の魂を捕え、魂の渇きを受け入れる目です。この目は、福音書の中でしばしば描かれている主イエスが人を捕え、ご自身へとお招きになる目にも似ています。主イエスはガリラヤ湖のほとりで網を繕っていたペトロをご覧になり、「あなたを人間を取る漁師にしよう」と言われると、ペトロはすべてを捨てて主イエスに従って行ったと書かれています。主イエスはまた収税所に座っていたレビをご覧になり、「わたしに従ってきなさい」とお招きになると、彼はすぐにすべてを捨てて主イエスに従ったと書かれています。木の上に登っていたザアカイをご覧になり、「急いでおりてきなさい。今夜あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。主イエスの目に捕らえられた彼らは、主イエスとの真実の出会いを経験し、そして救いと奉仕への道を歩み出しました。

 ペトロとヨハネは、足の不自由な人の前を通り過ぎませんでした。二人は彼をじっと見て、彼のすべてを受け入れて、「わたしたちを見なさい」と言いました。この「見る」は目を開いてみる、注意して見るという意味です。「わたしたちを見なさい」とは、いつもと同じように、あなたの前を通り過ぎていく人たちとは違って、あなたの前で足を止め、あなたに新しい救いの恵みをもたらすであろう主イエスの福音を携えているわたしたちを見なさいという意味が込められています。

 ここで、互いに立ち止まって相手を見る、相手の姿だけではなく、互いの人格と存在全体を見る、ここから人間と人間との出会いが始まります。奇跡はここから始まります。キリスト教の宣教活動はここから始まるのです。主イエスの福音を持ち運んでいる人と、その福音を必要としている人の出会いがこのようにした始まるのです。

 5節の「見つめる」は何かを期待している目です。もっともこの人は、この時にはいつもと同じように何がしかの施しを期待していたのでしたが、その期待を裏切るかのようにして、6節でペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じました。ここでは、人間と人間との出会いから、神のみ言葉との出会い、主イエスの福音との出会いが起こっています。いや、それだけではありません。罪と死とに勝利された復活の主イエス・キリストと彼との出会いが起こったのです。ここで、神の奇跡が起こりました。主イエス・キリストの福音による救いの出来事が起こりました。

 【7~10節】。生まれつき足の不自由だったこの人が、一度も自分の足で歩いたことがなかったこの人が、主イエス・キリストのみ名によって立ち上がり、歩き出しました。この奇跡は、主イエス・キリストのみ名の力によるのであり、主イエス・キリストの福音そのものが持っている救いの恵み、救いの力によるものです。ペトロはこのあとの説教でそのことを説明しています。【12~16節】。主イエス・キリストによる新しい救いの時が始まりました。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、すべての罪から救われ、いやされ、新しい救いの道を歩みだす歩みが、エルサレム教会から始まり、全世界の教会へと拡大されていくのです。

 不自由だった足がいやされ、立ち上がり、歩き出したこの人はどうしたでしょうか。立ち上がった足で、急いで家族や友人の所へ帰ったのではありませんでした。これまではできなかった散歩や山登りを楽しんだのでもありません、彼はまず最初にすべてのことに先立って、立ち上がった足で踊りながら神を賛美し、また神を礼拝するために神殿に入っていきました。これこそが、彼の足がいやされ、彼が救われた第一の目的だったからです。彼に今丈夫な足が与えられた第一の目的だったからです。そして、そのようにして彼は全身をもって神を賛美し、神を礼拝するために生きること、いやされた彼の足と救われた彼の全身を用いて神と主キリストのために生きること、それが「ナザレの人主イエス・キリストのみ名によって歩く」ことなのです。

(執り成しの祈り)

〇主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの足と歩みとを強めてください。主キリストの福音を持ち運ぶ足としてください。その福音を道に迷う人たちに宣べ伝える歩みとしてください。わたしたちの教会の宣教活動を強め、導いてください。

〇主なる神よ、この世界とその中に立てられている主キリストの教会を顧みてください。希望を失い、不安と混乱の中にある人々に、教会が真実の光を掲げ、まことの救いの道を示していくことができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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