3月28日説教「12弟子の選び」

2021年3月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:ヨシュア記4章1~7節

ルカによる福音書6章12~16節

説教題:「12弟子の選び」

 教会の暦ではきょうは「棕櫚(しゅろ)の主日」、今週は受難週です。ルカによる福音書を続けて読んでいるわたしたちは、主イエスのご受難の意味を考えながら、きょう与えられている6章12節以下の12弟子の選びの個所をご一緒に学んでいきたいと思います。

 【12節】。ここでもわたしたちは主イエスの祈りのお姿を見ることができます。ルカ福音書は他の福音書に比べて主イエス祈りのお姿を数多く描いていることをわたしたちはすでに確認してきました。特にここでは、「祈って夜を明かされた」とあります。徹夜の祈りです。徹夜の祈りと言えば、わたしたちは受難週のゲツセマネの園での主イエスの祈りを思い起こします。ルカ福音書では22章39節以下にオリーブ山での祈りとして記録されていますが、主イエスは受難週の木曜日の夕方から弟子たちと過ぎ越しの食卓を囲まれた後、オリーブ山で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。弟子たちがみな眠っていた間にも、主イエスは苦しみもだえながら、汗を血のように滴らせて祈り続けられたと書かれています。それに引き続いて、祭司長や長老たちによって捕らえられ、裁判を受けることになりましたので、これもまた主イエスの徹夜の祈りと言ってよいでしょう。罪の中で死すべきである弟子たちが、いまだ自分たちの罪に気づかず、眠りこけている時に、罪なき神のみ子主イエスがただお一人、罪と戦っておられ、そのために汗を血のように滴らせながら祈っておられ、事実このあとでご自身の血を流されたのです。主イエスはわたしたちのために「罪と戦って血を流すまで抵抗」してくださいました(ヘブライ人への手紙12章13、14節参照)。

 実に、主イエスは祈りの人でした、主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスの救いのみわざは祈りに支えられていました。オリーブ山での祈りからも明らかなように、祈りとは第一に神に対する服従の行為です。神のみ心を尋ね求め、そのみ心を知り、それに服従することです。「父なる神よ、み心を行ってください」、これがすべての祈りの基本です。主イエスのご生涯は、その初めから終わりまで、徹底して父なる神のみ心に従う歩みでした。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、父なる神への服従で貫かれていました。

 「祈るために山に行き」と書かれています。この場合、山には二つの意味が含まれています。一つには、人里を離れ、人々からも離れ、ただお一人になって父なる神と対面する場所であるということです(5章16節参照)。人間の目や思いにとらわれず、この世の価値や現実からも離れて、ただひたすらに神に向かう、そして神のみ心を尋ね求めるためです。第二には、山は聖書では神の啓示の場(神がご自身を人間に現わされる顕現の場)であるということです。出エジプト記19章に書かれてあるように、モーセはシナイ山に登って、山の頂で神のみ声を聞き、十戒を授かりました。山は、神が人間の近くにいますことを強く感じさせる場、神が人間にご自身のみ旨を親しくお語りになる場です。

 【13節】。主イエスがなぜ、何のために山で徹夜の祈りをされたのか、その理由がここで明らかになります。それは、神のみ心にかなった12弟子をお選びになるためであり、12弟子と共に福音宣教のお働きを更に強め、広げるためでした。このことを、すぐ前の11節との関連から考えてみましょう。主イエスが安息日の律法を破ったことを訴えようとしていた律法学者たちが怒り狂って主イエスの命をねらったとき、主イエスは山に退かれ祈られたのですが、それはご自身の命を守ろうとされたからではなく、また危険を避けて公のお働きを止めるためでもなかったということが分かります。むしろ、父なる神のみ心に服従され、父なる神から託された救いのみわざをいよいよ推し進めるため、ご自身のご受難への道を前進するためであったということです。そしてそのことは、17節以下で、主イエスが山を下りられたあとになってから、より明確にされます。主イエスは徹夜の祈りののちに、再び罪と死とに支配された病めるこの世へと帰って行かれました。そして、ご自身の救いのお働きをなおも続けられました。

 徹夜の祈りのあとで12弟子をお選びになったということから、それが主イエスの福音宣教のお働きにとって、また神の救いのみわざ全体にとって、いかに重要な意味を持つことであったかということが推測できます。特に、ルカ福音書の特徴からその意味を考えてみましょう。ルカ福音書を書いたルカはその続編として使徒言行録を書きました。ルカは神の救いの歴史を(これを救済史と言いなすが)、旧約聖書時代のイスラエルの選びから主イエスの神の国の福音宣教へと続く歴史として、更に主イエスの十字架と復活のあとの教会の宣教の歴史へと続く救済史として描いているように思われます。

主イエスの12弟子の選びは、その一連の救済史の中で旧約聖書と新約聖書とを結びつける役割を果たしています。12人の弟子はイスラエルの12部族を象徴しています。旧約聖書の民イスラエルがヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちからなる12部族で形成されていたように、新しい教会の民もまた全世界に派遣された12弟子たちの宣教によって形成されていくのです。12弟子は地上の主イエスから直接に福音を聞かされ、また復活された主イエスから世界宣教へと遣わされました。実際に、使徒言行録を読むと、ペトロを始めとした12弟子たちが初代教会の中心的な働き人であったことが分かります。神がイスラエルの民を選ばれ、この民と契約を結ばれたことによって始められた神の救いの歴史・救済史は、主イエスによってその成就を見、その頂点に達し、更に主イエスによって選ばれた12弟子から世界の教会へと受け継がれていくのです。

13節で用いられている3つの言葉、「呼び集める」「選ぶ」「使徒」これらの言葉から、弟子の選びの意味と教会とは何かについて、わたしたちはより深く学ぶことができます。

まず、「呼び集める」ですが、これは「召し集める、招集する」という意味の言葉です。原文のギリシャ語では「彼に」という言葉がついていますから、詳しく訳すると「彼のもとへ、主イエスのもとへ、召し集める」となります。ルカ福音書にはこれまでに5章1節以下でガリラヤ湖の漁師シモン・ペトロとヤコブ、ヨハネの召命記事があり、27節以下では徴税人レビの召命記事がありました。このレビは15節のマタイと同一人物と考えられていますが、彼らも今また改めて12弟子として主イエスのもとへ召し集められたのです。

のちの教会も、またわたしたちの教会も、12弟子と同様に主イエスによって、主イエスのもとへと召し集められた信仰者の群れです。主イエスによって名を呼ばれ、この世の罪の中から召し出され、主イエスのみもとへと召し集められた一人一人です。他の何かの理由や目的によって集まっているのではありません。他のだれかや何かによって集められたのでもありません。わたしたちを罪から救い出してくださる唯一の救い主イエス・キリストのみが教会の民の招集者であり、教会の頭(かしら)であり、教会の牧者です。

 次は「選ぶ」です。もちろん主語は主イエスですから、主イエスがお選びになります。父なる神のみ心にかなった一人一人を選ばれます。選ばれる側には何の理由も根拠もありません。実際に選ばれた弟子たちのリストを見てもそのことが分かります。ペトロからヨハネまでの4人はガリラヤ湖の漁師でした。マタイは徴税人でした。当時の徴税人は罪びとの仲間、神の民を異邦人の王に売り渡す売国奴と呼ばれていました。その他の弟子たちもみなガリラヤ地方の社会的地位も名誉もないような人たちであり、宗教的・政治的指導者ではありませんでした。選ばれた弟子たちには選ばれるに値するものは全くありませんでした。したがって、選ばれた弟子たちはただ選ばれたことを感謝するだけです。そして、選んでくださった方を喜ばすためにお仕えしていくのです。

申命記7章6節以下には、神がイスラエルを選ばれた理由について書かれています。【6~8節】(292ページ)。また、主イエスはヨハネ福音書15章16節で、弟子たちをお選びになった理由についてこのように言われました。【16節】(199ページ)。

わたしたち一人一人が選ばれ、この教会に召し集められているのも、同じ理由からです。そしてまた、ここにこそわたしたちの選びの確かさがあります。もしわたしが自分の判断や好みでこの道を選んだのであれば、わたしの判断が間違っていたかもしれない、別の道、別の生き方があったかもしれないという迷いや疑いが生じることもあるかもしれません。けれどもそうではありません。わたしがこの道を選んだのではなく、わたしを罪から救い出してくださる主イエスが、わたしをまことの命によって生かしてくださる主イエスが、わたしのためにご自身の尊い命を十字架にささげてくださるほどにわたしを愛される主イエスがわたしを選び、この教会へと召し集め、救いの恵みをお与えくださったのです。それゆえにまた、豊かな実りが約束されているのです。

「使徒」とは遣わされた者という意味です。その人を遣わした主人の全権大使です。主人の権威によって、主人の意志を伝え、また行い、主人に忠実に仕える代理人です。新約聖書では使徒という言葉は12弟子のほかにパウロなどのわずかな人に限定されて用いられています。地上を歩まれた主イエスに直接にお仕えし、主イエスの十字架と復活を直接に目撃し、証しした人が使徒と呼ばれます。彼ら主イエスの目撃証人たちの証言によって、初代教会が建てられました。

「名付けられた」と書かれています。名づけるとはその人を新しく創造することを意味しています。弟子たちは使徒という新しい名を与えられることによって、新しい人間に創造されたのです。自分たちを派遣された主イエスのために生きる、主イエスの十字架と復活の証人として生きる、主イエスの福音を携え、主イエスによってこの世へと派遣され、主イエスの権威によって主イエスの福音を語る人として再創造されるのです。主イエスの福音を高く掲げ、地の塩として、世の光として生きる人とされます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが主イエス・キリストによってわたしたちを選び、み国の民として召し集めてくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。わたしたちはみな暗闇の中をさまよい、罪と死とに支配され、滅びるほかにない者たちでありましたが、今はあなたのみ光を受け、あなたの命にあずかる者とされています。土の器でしかないわたしたちですが、どうかあなたの尊い救いのみわざのためにお用いくださいますように。あなたのご栄光を現わすものとなりますように。

〇道に迷っている人、重荷を負っている人、病んでいる人、孤独な人、試練の中にある人を、あなたがあわれんでくださり、一人一人にふさわしい道を備えてくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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