5月9日説教「わたしたちが主とあがめるイエス・キリスト」

2021年5月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書33章1~9節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「わたしたちが主とあがめるイエス・キリスト」

 きょうから月1回程度の割合で『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストに学んでいくことにします。信仰告白は聖書のみ言葉に対する信仰の応答であり、聖書の教えの要約・まとめですから、信仰告白を学ぶということは聖書そのものを学ぶことにほかなりません。また、わたしたちが属する日本キリスト教会が今日のこの日本の状況の中で聖書をどのように読み、そのみ言葉にどのように応答して伝道活動と教会形成をしているかを確認することでもあります。すでに洗礼を受けた教会員は、自分たちの信仰をより深め強めるために、また、まだ洗礼を受けていない求道中の人は、この信仰告白をわたしの信仰として告白し、受洗へと導かれることを願って、ご一緒に学んでいきたいと思います。

 秋田教会が日本基督教団を離脱して新しく創立された日本キリスト教会に加入する決議をしたのが1951年(昭和26年)5月20日の定期総会でした。間もなく70回目の記念日を迎えることになります。2年後の1953年10月開催の第3回大会で『日本キリスト教会信仰の告白』が制定されました。これが「文語文」です。今わたしたちが礼拝で用いているのがその「口語文」で、2007年10月開催の第57回大会で制定されたものです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴の一つが、簡単信条であるということです。基本信条と言われる『使徒信条』に前文をつけるという、比較的短い文章です。これは、旧日本基督教会が1890年(明治23年)に制定した『日本基督教会信仰告白』の形式を受け継いでいます。宗教改革時代やそれ以後に作られた諸教会の信仰告白、信条、あるいは信仰問答書に比べるとずいぶん短くなっています。簡単信条では、聖書全体の教えをごくごく短くまとめてありますから、こまかな教理を正確に言い表すことができないという欠点がありますが、暗誦しやすい、礼拝などで朗読しやすいという利点もあります。「日本キリスト教会憲法」では、簡単信条を補うものとして信仰問答を保有すると規定していますが、まだ正式な信仰問答書は制定されていません。今の時代の中で、絶えず新しく神のみ言葉に応答して信仰を告白していくというのがわたしたちの教会、改革教会の特徴ですから、今後新たに信仰告白や信仰問答書を作成していくという務めがわたしたちに課せられています。

 では、信仰告白の本文に入ります。座席の前のボックスにあるプリントを参考にしてください。「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真(まこと)の神であり真(まこと)の人です」。これが信仰告白冒頭の文章です。冒頭にあるということは、この告白がわたしたちの信仰の核心、最も重要な部分であるということを意味します。この個所を数回に分けて学んでいくことにします。きょうは「わたしたちが主とあがめる」という箇所です。

 この冒頭部分は、1890年(明治23年)の(旧)『日本基督教会信仰告白』では、「我等が神と崇むる主耶蘇基督(しゅやそきりすと)は神の独子(ひとりご)にして」と告白されていましたが、新日本キリスト教会では「神と崇むる」が「主とあがめる」に変更されました。その変更の背景にあることについてはあとで触れますが、イエス・キリストを特に意識して「主」と告白することを「主告白」と言います。信仰告白の冒頭に「主告白」が置かれているということが、わたしたちの信仰告白の最も大きな特徴です。

 次に注目したいことは、この冒頭の文章では主イエス・キリストが主語であるということです。「わたしたちが主とあがめる」のわたしたちがこの文章全体の主語なのではありません。主イエス・キリストが最初の文章の主語であり、それだけでなく、この信仰告白のすべての文章の主語でもあります。それは、イエス・キリストが聖書全体の唯一の主語であるのと同様です。わたしたちが信仰を告白するということは、わたしが常に、どのような時にも、わたし自身を主として生きるのではなく、わたしのために十字架で死んでくださった、わたしの救い主であられる主イエス・キリストをわたしの唯一の主として生きるということなのです。

 「主」という言葉は、聖書の中で数多く用いられており、また多くの意味を持っています。旧約聖書での一般的な意味としては、土地や財産などの所有者、年長者、奴隷の所有者、妻に対する夫、家の主(あるじ)などが主と呼ばれます。イスラエルの王、預言者も主と呼ばれます。圧倒的に頻度が多いのは、神です。神を主と言い表す場合、二種類あります。一つは、旧約聖書ヘブライ語原典で神のお名前が書いてある部分、英語の表記に言い換えれば、YHVHの4つのヘブライ語の子音が書いてあるのですが、それを「主」と読むのが決まりになっています。というのは、神のお名前をどのように発音するのかを忘れてしまったからです。もう一つは、神がヘブライ語で主を意味する「アドナイ」と言われている箇所です。日本語の訳では神のお名前もアドナイも同じ「主」となりますから、そのどちらであるかを判断することはできません。

 旧約聖書で神を主と言い表す場合、そこには神に対する信仰告白が含まれています。神が天地万物の創造者であるという信仰、神が全世界と全被造物、すべての歴史、出来事の主であり、導き手であるという信仰、そして神が人間の生と死、生きることと死ぬことのすべての主であり、支配者であるという信仰、更にはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から強いみ手をもって導き出されたという信仰が言い表されています。

 新約聖書では、主はもっぱらイエス・キリストに対して用いられます。イエス・キリストが主であると告白される場合には、旧約聖書で神が主であると告白される例とは少し違った意味が込められています。その何個所かを読んでみましょう。【ローマの信徒への手紙10章9~13節】(288ページ)。同じ【14章8~9節】(294ページ)。もう一個所【フィリピの信徒への手紙2章7~11節】(363ページ)。これらの箇所に共通している点は、主イエス・キリストの死と復活です。イエス・キリストはご自身の死と復活をとおして主となられた、ご自身が唯一の主であられることを最もはっきりとお示しになったと、新約聖書は繰り返し語っています。

 主イエスは神のみ子であられたが、人間の姿となり、罪のこの世においでになった。しかも、主としてのすべての威厳も栄光をもお捨てになり、僕(しもべ)となって、わたしたち罪びとたちのためにお仕えくださった。そして、十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、ご自身の尊い命を十字架に犠牲としておささげになった。それによって、わたしたちの罪を完全に贖い、わたしたちを罪の奴隷から救い出してくださった。父なる神は主イエスを三日目に死の墓から復活させられ,天に引き上げられ、ご自身の右の座につかせられた。それによって、主イエス・キリストは罪と死とに勝利された唯一の主となられ、今も生きてわたしたちの主として、わたしたち一人一人の上に君臨しておられ、わたしたちを愛によって支配され、命の道へと導いておられる。これが、わたしたちの主イエス・キリストです。

 それゆえに、このイエス・キリストを主とあがめ、わたしの救い主としてそのみ名を呼び、信じる人はすべて罪と死の支配から解放され、救われるのだと、聖書は告げています。そして、わたしがイエス・キリストはわたしの主であると信じ、告白するとき、主イエス・キリストの救いのみわざがわたしのための救いのみわざとなり、わたしの救いとなるのです。

 今読んだローマの信徒への手紙10章9節とフィリピの信徒への手紙2章11節に、「イエス・キリストは主であると告白し」と書かれています。コリントの信徒への手紙一12章3節やその他にも同じような言い方が記されています。「イエス・キリストは主である」という告白が、初代教会の最初の信仰告白であったと考えられています。「イエス・キリストは主である」という信仰告白を中心にして、それを核として、それに他の告白がつけ加えられていき、内容が豊かになって、『使徒信条』やその他の古代教会の信条が作成されていったと考えられています。

 わたしたちが普段に、主イエス・キリストと言う場合には、実は「イエスは主であり、キリスト、すなわちメシア・救い主である」という信仰告白を言い表しているのです。

 初代教会の「イエスは主である」という告白は、十字架と復活をとおして罪と死とに勝利された主イエス・キリストという意味と、もう一つの重要な意味が込められていました。紀元64年、ローマ皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害がありました。その後、90年代になって、皇帝ドミティアヌスによる大規模な迫害が始まりました。皇帝は自らを主と称し、各地に自分の像を造り、人々にそれを礼拝するように強要しました。キリスト教徒にも皇帝礼拝を迫りました。しかし、キリスト者は、皇帝は主ではない、ただおひとり十字架につけられ復活されたイエス・キリストだけが主であるという告白を貫き、皇帝礼拝を拒否しました。そのために多くのキリスト者が殉教しました。「イエス・キリストは主である」という信仰告白は、このように、キリスト者の命をかけた信仰の戦いを背景にしているのです。初代教会でもそうであったように、いつの時代でも、今日のわたしたちにとっても、「イエスは主である」という信仰告白は、厳しく激しい、わたしの全存在をかけた、文字通り命をかけた信仰の戦いを伴う告白なのです。

 1951年に新しく日本キリスト教会を建設した先輩たちは、1953年に制定した『信仰の告白』の冒頭で、「我等が神と崇むる」という古い告白を「わたしたちが主とあがめるイエス・キリスト」に変更したことを前に紹介しましたが、その背景について簡単に説明しておきます。戦時中、日本国家が「皇国史観」に基づいて、アジア侵略戦争を推進していったことに対して日本キリスト教会は明確に反対の姿勢をとらずに、戦争に協力していったのは、信仰告白が弱かったからである、特にイエス・キリスト以外のだれをも主とはしないという「主告白」が弱かったという反省があったから、冒頭に「主告白」を置いたのだと先輩の諸先生から聞いています。

 「あがめる」とは礼拝するという意味です。他の何ものの前でも決して膝をかがめない、礼拝しない、イエス・キリストのみがわたしの唯一の主であり、わたしが生涯かけて礼拝すべき唯一の主であると告白し、礼拝し続けていく。それによって、わたしたちもまた今の時代の中で、力強く信仰の戦いを続けていくことができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストだけをわたしの唯一の主とし、また全世界の唯一の主とする信仰をお与えください。

〇神よ、日本とこの世界を憐れみ、お救いください。あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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