6月6日説教「貧しい人々は、幸いである」

2021年6月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編126編1~6節

    ルカによる福音書6章20~26節

説教題:「貧しい人々は、幸いである」

 ルカによる福音書7章20~49節が主イエスの「平地の説教」と呼ばれるのに対して、マタイ福音書5章1節~7章までは「山上の説教」と呼ばれます。ルカ福音書7章17節に、「イエスは山から下りて、平らなところにお立ちになった」とあるのに対して、マタイ福音書5章1節に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と書かれていることから、主イエスの説教の場所が両福音書では違っています。どちらが本当なのかと問う必要はありません。主イエスは山の上でも、平地でも、たびたび弟子たちや群衆に説教されたと思われるからです。それをルカ福音書は平地での説教としてまとめ、マタイ福音書では山上での説教としてまとめたと考えられるからです。

 ここには、二つの福音書の神学の違いが反映されていると思われます。マタイ福音書では、山の上から説教される主イエスの神のみ子としての権威が強調されています。主イエスは偉大な宗教家とか哲学者、あるいは知恵ある学者として説教されたのではありませんでした。人間となられた神が、天の権威をもって、この世の倫理とか秩序をはるかに超えた、神のみ言葉を説教されたのです。それゆえに、わたしたちは主イエスの説教を人間の言葉としてではなく、神のみ言葉として聞き、これに全精神を傾け、わたしの命を懸けて従っていくようにと招かれているということをマタイ福音書は強調しているのです。

 ルカ福音書が強調しているのは、主イエスは神のみ子でありながら、ご自身を低くされて、人間のお姿で、わたしたち罪びとの中に入ってきてくださり、わたしたちのために仕えてくださった、そのようなわたしたち人間と連帯される救い主として説教されたということです。しかしながら、主イエスがわたしたち罪びとのただ中に入って来られ、いわばわたしたちと同じ地平に立たれたということは、それによって主イエスの説教が神の権威を失い、この世的なものになったということでは全くありません。むしろ、主イエスの説教はわたしたちに直接に語りかけられることによって、その鋭さ、その厳しさがより増してくるのです。主イエスの説教はまさにわたしたちの現実に対して直接に鋭い挑戦状となって迫ってくるのです。これがルカ福音書の平地の説教の大きな特徴なのです。

 マタイ福音書では、「幸いである」という言葉が9回語られています。それに対して、ルカ福音書では4つの「幸いである」と、24節からの後半ではそれどれに対応して4つの「不幸である」が語られます。また、マタイでは「これこれの人は幸いである。その人たちは何々だから」と三人称で語られているのに対して、ルカでは「あなたがたは何々だから」と二人称で語られています。ここに、今挙げたルカ福音書の特徴が現れていると考えられます。主イエスは直接にわたしに対して「あなたは幸いだ」、「あなたは不幸だ」と語りかけ、しかも「幸い」と「不幸」の違いを際立たせているのです。今主イエスの説教を聞いているあなたがた、すなわち弟子たちや群衆に対して、それだけでなく聖書のみ言葉を聞くすべての時代のすべての人たち、きょうのわたしたちに対しても、直接に迫ってくる語りかけなのです。それは、わたしたちの現実に対する鋭く、厳しい挑戦だと言ってよいでしょう。

 では、その最初の鋭く、厳しい挑戦を読んでみましょう。「貧しい人々は、幸いである」(20節)。それに対して、「しかし、富んでいるあなた方は、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている」(24節a)。ここで主イエスが言われる「幸い」と「不幸」は、その内容を正反対にすべきだと多くの人は、いやすべての人は考えるでしょう。貧しいよりは富んでいる方がより幸いだとだれもが考えるのではないでしょうか。一般的に言ってそうだというのではなく、これがわたし自身に対して語られているのだとしたら、なおさらのこと、わたしにとっては貧しいよりはやはり富むことの方が幸いだと、だれもが考えるのではないでしょうか。いつの時代の人たちも、貧しさから抜け出すために一生懸命に働いてきた、幸いを求めて努力してきた、特にわたしはだれよりも頑張ってきたと言うのではないでしょうか。

 しかし、主イエスの説教は、そのようなわたしたちに対して、「いやそうではない、あなたの考えやあなたの生き方は正しくはない。そこには幸いはない」と言われるのです。これは、わたしの現実に対する主イエスの鋭く厳しい挑戦状です。

富を求めることに幸いを見いだそうとしてきたわたしの考えや生き方だけがここで問われているのではありません。さらに続けて読んでいきましょう。「今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる」(21節a)。これに対して、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」(25節a)。三つ目は、「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(21節b)。これに対して、「今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(25節b)。そして4つ目には、【22~23節】。これに対して、【26節】。

 主イエスは4つの「幸いである」に対して4つの「不幸である」を対比しておられます。それらのいずれもが、わたしたちの常識的な価値判断とは正反対な内容が並べられています。飢えているよりは満腹している方がよいと多くの人は考えます。泣いているよりは笑っている方がよいし、人々に憎まれるよりはすべての人にほめられる方がよいと、だれもが考えます。主イエスの説教はそのようなわたしたちの常識や価値判断に対する鋭く厳しい挑戦です。挑戦と言うだけでは不十分かもしれません。わたしたちの常識や価値判断の否定だと言うべきでしょう。

 なぜ、そうなのでしょうか。なぜ、主イエスはそう言われるのでしょうか。4つの例に共通していることがあるのに気づきます。幸いだと言われているのは、何かに不足している状態、満たされていない未完の状態、それゆえに何かを求めて手を差し伸べている人であるのに対して、不幸だと言われているのは、すでにそれを手に入れている、満たされている、それゆえにもはやこれ以上求める必要がなく、現状に満足している人のことであると言えるのではないでしょうか。

そこからさらに言えることは、主イエスは前者に対して約束を与えておられるということです。20節では、「神の国はあなたがたのものである」。21節では、「あなたがたは満たされる」。「あなたがたは笑うようになる」。そして23節では、「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」。これら4つの文章には、日本語訳では省略されていますが、「なぜならば」というはっきりとした理由づけの言葉がついています。

 それらのことを考慮してきょうの個所を言い換えるならば、このようになるでしょう。「貧しい人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに神の国を約束してくださるから。今飢えている人々は、幸いである。なぜならば、あなたがたは神によって満たされるから。今泣いている人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに笑いをくださるから。人々に憎まれとき、また、人の子(これは主イエス・キリストご自身のことですが)のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。なぜならば、その日には、天におられる神があなたがたに大きな報いをお与えくださるから。だから喜び踊りなさい」。主イエスはこのように言われるのです。

 ここから教えられることは、幸いだと言われている人とは、いつも神に対して開かれている人のことであるということです。自らは貧しい者、餓え乾いている者、悲しむ者であることを知っている、また、主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、この世にあっては憎しみや迫害を受けなければならず、それゆえにただひたすら主なる神の助けと救いとを願い求めなければならず、必死に神にしがみつき、神からすべてを与えられることを信じるほかにない人、神の憐れみによらなければ生きていけないことを知っている人、そのような人こそが幸いだと言われているのです。

反対に、富んでいる人は、その富に頼り、富の中に安住して、もはや神を求める必要性も覚えず、次第に富に心を奪われて神から遠ざかってしまう。それゆえに、神からは何も与えられず、受け取ることができないゆえに、あなたは不幸だと言われているのです。今満腹している人は、神から何も期待しなくなり、神なしで生きていこうとするゆえに、やがて飢えるようになった時に、神から見捨てられるゆえに、あなたは不幸だと言われています。今笑っている人は、今の生活を楽しみ、それに満足しているゆえに、真剣に神のみ心を尋ね求めようとせず、自分の思いのままに生きることができると考えているゆえに、やがて悲しみが襲ってくるときに、たちまちに倒れてしまうほかないから、あなたは不幸だと言われています。世の人からの誉れだけを求めている人は、神の真理や神の栄光のために心を砕いて生きることをしないゆえに、神からの報いを何も与えられず、だからあなたは不幸だと言われています。このような人たちは、たとえ自分自身がどれだけ豊かであり、今幸福感に充たされていようとも、神に対して心が開かれていない、神から何かを期待しようとしない、神のみ心と神の真理に少しも心を向けないので、神から与えられる幸いを受け取ることができないのです。

ここで改めて「幸いである」という主イエスの呼びかけを注目してみましょう。この言葉は文章の冒頭に置かれていて強調されています。その点を考慮して翻訳すれば、「何と幸いなことでしょう」と訳すのがよいと思われます。詩編1編1節や2編12節などでは、「いかに幸いなことか」と訳されています。

では、主イエスが「幸いである」を強調しているのはなぜでしょうか。それは、この幸いは人がこの地上で、日常生活の中で感じたり手に入れたりできる幸いとは比べものにはならないほどに、それらのどれよりもはるかに勝った、大きな幸いであるということなのです。

よりはっきりと言うならば、この幸いは、天から、神から与えられる幸いだということです。主イエスが言われる約束の言葉がそのことを証明しています。「神の国はあなたがたのものである」。神が唯一の王として支配しておられる神の国、そこでは罪と死とサタンの支配は終わりを告げられ、神の救いの恵みだけが支配している、そのような神の国が貧しいあなたがたに約束されているのです。また、神が飢えている人をなくてならない命のパンで満たしてくださり、神が泣いている人の悲しみと憂いを喜びと希望に変えてくださり、また神が迫害を受けている人の傍らに立っていてくださり、最後の勝利を約束していてくださる、そのようにしてあなたがたに天からの永遠の命を約束していてくださるのだから、あなたがたは幸いであると主イエスは言われるのです。この幸いは主イエスご自身が信じるわたしたちのために獲得してくださり、お与えくださる幸いなのだということが分かります。「あなたは幸いだ」と呼びかけてくださる主イエスご自身が、わたしのためにその幸いを創り出してくださり、その幸いの中へとわたしを招き入れてくださるのです。

主イエスはこの幸いへとわたしたち一人一人を招き入れるために、十字架の道を歩まれました。そして、十字架の死と三日目の復活によって、わたしたちにこの天にある幸いをお与えくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちを常にあなたと共にある永遠の幸いへと招きいれてください。わたしたちがあなたを離れて、この世の過ぎ去りゆくものに心を奪われることなく、固くあなたのみ言葉に結びつけてください。

〇大きな試練と苦悩の中にある日本の国と全世界のすべての人々を憐れみ、顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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