6月13日説教「神のひとり子イエス・キリスト」

2021年6月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:詩編2編1~12節

    ヨハネによる福音書1章14~18節

説教題:「神のひとり子イエス・キリスト」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。わたしたちが属している日本キリスト教会にはどのような特徴があるのか、どのような信仰を告白し、どのように教会を形成し、宣教活動をしようとしているのかをご一緒に学んでいきたいと思います。きょうはその3回目、信仰告白の最初の文章「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真(まこと)の神であり真の人です」の「神のひとり子イエス・キリスト」の個所について学びます。

 信仰告白の冒頭にはその信仰告白の最も大きな特徴、一番強調したい内容が語られます。その一つが、「わたしたちが主とあがめる」という「主告白」であるということを前回学びました。わたしたちが信じ、あがめ、礼拝している救い主イエス・キリストは、教会と世界における唯一の主である。ほかに主はいない。国家であれ、天皇であれ、軍隊であれ、あるいは自分自身であれ、他のいかなるものであれ、それらは決して主ではない。主とはなり得ない、という「主告白」が、戦後新しい日本キリスト教会を建設した先輩たちの熱い思いだったということを確認しました。

 それに続いて「神のひとり子イエス・キリスト」という告白がなされています。ここにも、信仰告白の特徴が表されています。「神のひとり子イエス・キリスト」は信仰告白の後半の『使徒信条』の第二項、「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白と一致しています。つまり、『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で『使徒信条』の中心的な告白との共通性が強調されているということが分かります。日本キリスト教会は、初代教会、中世の教会、宗教改革の教会、近代の教会との連続性の中に建てられているということをここで確認できます。

 日本キリスト教会は、戦後日本基督教団から離脱して以来70年、旧日本基督教会時代から数えても150年足らず、世界の教会の歴史と規模からみれば幼く未熟で小さな教派に過ぎませんが、その信仰的伝統は2千年の世界の教会に連なっている教会であり、使徒的教会、公同の教会であるということをここで告白しているのです。秋田教会もその枝枝の一つです。きょうのわたしたちの礼拝も、2千年の教会の歴史に連なり、全世界の諸教会の礼拝に連なっているということを覚えたいと思います。さらに言うならば、きょうのわたしたちの礼拝は終わりの日のみ国が完成される日の神の国における盛大な祝宴へと連なっているということも覚えたいと思います。

 では次に、告白の内容ですが、「神のひとり子」とは、父なる神と子なる神イエス・キリストとの特別な関係を言い表しています。その意味は、第一には、主イエス・キリストは神からお生まれになった神であるということです。第二には、主イエス・キリストはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であるということです。

 第一の意味についてもう少し詳しく見ていきましょう。神からお生まれになった神のみ子であるということは、主イエスは父なる神と本質を同じくする神であるということ、人間から生まれた子が人間であるように、神からお生まれになった神のみ子イエス・キリストは神であられます。

 その関係はいつから始まったのでしょうか。永遠の昔からです。父なる神が永遠の昔からおられたように、み子もまた永遠の昔から父なる神と共におられました。ヨハネによる福音書1章1節以下では、神のみ子が「言(ことば)」(ギリシャ語ではロゴス)と言われています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1~2節)。永遠から永遠に父なる神と共におられた「言」である主イエス・キリストが、時が満ちて、人間となられてこの世にお生まれになったことを、14節では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。これが、クリスマスの出来事です。永遠の昔から父なる神と共におられた神のみ子が、肉となられ、人間のお姿でこの世においでになり、マリアの胎内から人間としてお生まれになりました。神のみ子は人間となられたのちにも、神のみ子であり、神であることには変わりはありません。そのことについては、次の「真(まこと)の神であり、真の人です」という告白で学ぶことになります。

 「ひとり子」という告白のもう一つの意味は、ひとり子であるから、ほかには神の子はいないということです。主イエス・キリストだけが神の子どもであり、ほかにはだれ一人神の子である者は存在しない、神と本質を同じくする者はいないということです。人間であれ、他の生き物であれ、他の何かであれ、それは神ではありません。他のすべてのものは、自らそう名のろうとも、他からそのように名づけられようとも、それは神以外のものであって、それらはすべて神によって創造された被造物であり、したがってわたしたちの信仰の対象ではなく、礼拝の対象でもありません。この告白もまた「主告白」と並んで重要な意味を持つ告白です。

 「ひとり子」のもう一つの意味をつけ加えるとすれば、神はご自身のひとり子によって、ご自身を最もよく、最もはっきりと、わたしたちにお示しになられたということです。ヨハネ福音書1章18節ではこのように語られています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。神はご自身のひとり子である主イエス・キリストによって、ご自身がどのような神であられるのかを最も完全に啓示されました。わたしたちは神のひとり子であられ、人となってこの世においでになられた主イエス・キリストによって、彼の地上でのご生涯と、お語りになったみ言葉、みわざによって、特にそのご受難と十字架の死と復活によって、神とはどのようなお方であるのか、神がわたしたち人間をどのように愛しておられるか、そしてわたしたち人間を罪から救うためにどのような救いのみわざをなされたのかを、最もはっきりと知らされ、信じることができるようにされているのです。

 神のひとり子なる主イエス・キリスト以外によっては、わたしたちは神を正しく知ることはできません。神がお造りになった被造世界によっても、幾分は神について知ることができます。しかし、それは不十分です。自然や宇宙、あるいは歴史や世界の出来事から、哲学とかその他の学問によっても、神について知りうることは不十分です。ただ、聖書に証しされている主イエス・キリスト、人となられた神、神のひとり子あられる主イエス・キリストからのみ、わたしたちは神についてはっきりと、そしてすべてを知ることができるのです。したがって、わたしたちは主イエス・キリスト以外のところには神を尋ね求める必要がないのであり、また尋ね求めるべきでもありません。主イエスはヨハネ福音書14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。神の一人り子なる主イエス・キリストによってこそ、この主によってのみ、わたしたちは神に至る道を進むことができ、神の真理と神の命に至る道を見いだすことができるのです。

 「神のひとり子」という告白にはもう一つの意味が込められています。わたしたち人間にとっても、ひとり子は親である者にとっては、大切で欠けがえのない、尊い宝であり、自分の命そのものにも等しいと言えます。神にとっても当然そうでしょう。神はそのひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたち罪びとである人間の救いのために、十字架におささげくださるほどにわたしたちを愛されたのです。神のひとり子という言葉は、そのような神の偉大な愛を表す言葉でもあるのです。ヨハネ福音書3章16節に次のようなよく知られたみ言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。神はご自身の最愛のみ子を、ご自身の命そのものであるひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたちを罪から救うために、十字架の死に引き渡されました。わたしたちはこれほどに大きな神の愛によって愛されているのです。これほどの大きな愛によって、罪から救われているのです。わたしたちが「神のひとり子イエス・キリスト」と告白する時、このような救い主をわたしの主と信じ告白するのであり、この信仰によって救いにあずかるのです。

 主イエス・キリストだけが神のみ子ですが、聖書では信仰者が神の子、神の子たちと呼ばれている箇所がいくつかあります。ローマの信徒への手紙8章15節、エフェソの信徒への手紙1章5節などです。そこでは、わたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、神の愛と豊かな恵みによって罪ゆるされ、神の子とされていると言われています。わたしたち人間は神から生まれたのではなく、神によって造られた被造物です。しかも、父なる神の家を離れ、神を知らず、時に神に反逆し、罪と死と滅びの中をさまよっていた罪びとでした。そのようなわたしたちを、神はひとり子なる主イエス・キリストによって与えられた大きな愛と恵みとによって、見いだしてくださり、神の家に招き入れてくださり、神の子としてくださったのです。信仰によって父なる神との、いわば養子の関係に入れられたということです。

 したがって、わたしたちはもはや罪の子たちではありません。滅びの子たちではありません。神から与えられた新しい命によって生かされている神の子たちです。罪の奴隷から解放され主イエス・キリストの僕(しもべ)として、喜んでわたしの新しい主にお仕えしていく、神の子たちです。わたしたちはもはや闇の子たちではありません。主イエス・キリストによって真の光に照らされ、光の中を歩む者とされている神の子たちです。主イエス・キリストによって神の家に招き入れられ、神の国の民とされている神の子たちです。

 最後に、イエス・キリストについてですが、イエス・キリストとは、苗字と名前ではありません。これ自体が「イエスはキリストである」という、信仰告白なのです。おとめマリアの胎からお生まれになり、ナザレの町に住まわれたイエス、最後に十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスこそが、キリストである、メシア・救い主であるという最も原初的で根本的な信仰告白なのです。

 イエス、これはユダヤ人には一般的な名前です。旧約聖書のヘブル語ではヨシュア、ヨシア、「神は救い」と言う意味です。ルカによる福音書1章およびマタイによる福音書1章によれば、主イエスの誕生の時に、神ご自身が命名されました。神の強い意志、永遠の救いのご計画が表されていました。神は実際に、このイエスによってご自身の救いのご計画を実現されたのです。

キリスト、これはヘブル語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルにおいては、預言者・祭司・王がその務めに任じられるときには、頭からオリブ油を注がれました。それは、神からの恵みと祝福が注がれるしるしであり、神の選びによって、神からの務めを託されたしるしです。主イエスは、真の預言者、真の祭司、真の王として、旧約聖書で待ち望まれていたメシア・救い主であるという意味で、キリストと呼ばれます。

この主イエス・キリストによって、わたしたちの救いが成就され、わたしたちは神の子たちとされ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、父の家を失い、父から遠く離れて暗黒と死の中をさまよっていたわたしたちを、あなたはみ子主イエス・キリストによって見いだしてくださり、あなたの子どもたちとしてくださった幸いを、心から感謝いたします。わたしたちが再び魂の父であられるあなたを離れて、失われることがありませんように、あなたの生けるみ言葉によってわたしたちをつなぎとめてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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