6月20日説教「我らの罪をも赦したまえ」

聖書: エゼキエル書   18章30~32節

    ルカによる福音書 11章 1~ 4節

説教題: 「我らの罪をも赦したまえ」  

説教者: 長老 柴田 理

 先ほどお読み頂いた新約聖書は、ルカによる福音書に記された“主の祈り”です。 主の祈りは、新約聖書のマタイによる福音書6章と、ルカによる福音書11章に記されています。  このうちマタイによる福音書では、山上の説教の中で主イエスが集まった人々にお教えになったとされています。  また、ルカによる福音書では弟子達が、“ヨハネの弟子達のように、私たちにも祈りを教えてください”とお願いしたことに答えて、主イエスがお教えになったと記されています。  いずれにも共通で大切なのは、人がこの祈りを考え出したのではなく、真の神でありながら真の人でいらっしゃる、主イエスが直接“このように祈りなさい”と教えてくださったことです。  ところが、主の祈りは、最も大切な祈りとされている反面、様々な場面で便利に用いられているのではないかと感じられることもあります。多くの場面で捧げられている主の祈りが、果たしていつも畏れをもって捧げられているかと問われると、自分自身のことも含めて自信を持って“はい”と答えられないように思います。  いろいろな集会の締め括りに、“主の祈りをもって終わります”として会を終えていたことが思い出されます。それはそれで理にかなったことかも知れませんが、その時の主の祈りの位置づけや重さをそれぞれが認識していたでしょうか。祈り会などは別にして、“いつでもどこでも主の祈り”と言った便利な役割を主の祈りに求めたりはしてこなかったでしょうか。  それは、主の祈りは皆様が数え切れないほど祈ってきたものですから、思考回路を通さなくても言葉が口をついて出てくることも一因と思われます。祈りに意味を乗せることなく、いわば“音”だけの祈りとなることもあります。このため、不謹慎にも祈りながらも他のことを考えることもできるのです。 “天にまします……ああ、雨が降ってきた。傘を忘れて来ちゃったな”とか、“日用の糧を今日も……今日はパンがなかったな”などと、考えることもできるのです。  遠藤周作という、カトリック信徒の作家がいました。彼はある随筆の中で、“畏れると恐れるの違いを若い人は知っていない”と書いています……聞くだけではおわかりにならないと思います。 “畏れる”と“恐れる”……声に出して読むと同じ言葉であり、辞書で“恐れる”を引くと、“畏れるとも書く”と同じ意味に見なされることが多いのです。しかしそれはちがうと遠藤周作は言います。一方の恐れるは恐怖の“恐”と書くものです。それを遠藤周作は、“強大な威力を前にして、怯え、縮こまること”としています。もう一方の畏れるは、畏怖の“畏”、畏まると書く字です。こちらは“自分を遙かに超える存在を目の当たりにして震撼し、おののくこと”としています。後の方の“畏れる”の顕著な例は、エジプトを出てシナイ山で十戒を受けるために主の前に立ったモーセのような様子でしょうか。私たちが主の前に立つ時、この世の全てを遙かに超える神様を前にして、深い畏れを持っているでしょうか。また、畏れを持って祈っているでしょうか。  短い祈りであっても、いえ、短い祈りであるからこそ、ひとつひとつの言葉に込められた意味があります。  神様が言葉によって世界をお作りになったことを初めとして、キリスト教は言葉を大切にしてきた宗教です。祈りにおいても、記されたひとつひとつの言葉を大切にしたいと思います。  マタイによる福音書6章7節に、“祈る時は異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼等は言葉数が多ければ聞き入れられると思っている。”と記されています。短い言葉に凝縮された祈り、研ぎ澄まされた祈りを、しっかりと噛みしめながら畏れを持って捧げていきたいと思います。  さて、先にお話ししましたように、主の祈りはマタイによる福音書と、ルカによる福音書に記されていますが、主の祈りについては、ルカによる福音書に記されている短い方が元の形に近いとされています。  今日はルカによる福音書を基に、主の祈りについて御言葉を聞きたいと思います。とりわけ、罪を赦してくださいという祈りに聞いてまいります。  罪についての祈りの部分は、ルカによる福音書には次のように記されています。 “わたしたちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから” この部分は二つの要素で成り立っています。ひとつは“わたしたちの罪を赦してください”と願う部分。今ひとつは、“自分に負い目のある人を皆赦しますから”と言う部分です。 ■ 初めに前半の部分を見ましょう。 “わたしたちの罪を赦してください”  罪を赦してくださいと願い、祈る時、その“罪”とはなんでしょう? もし、“あなたが赦して欲しいと願う罪とはなんですか?”と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。  それについては、主の祈りの初めにヒントがあるように思います。“父よ”という呼びかけに続いて“御名が崇められますように”と記されています。 最も新しい日本聖書協会の新共同訳聖書では、“御名が聖とされますように”と訳されています。聖とすると言うことは、聖別する、別扱いすると言うことです。やさしく言うと、神様をそれ以外の作られたものとは全く別のものとすると言うこと、神を神とする、と言うことです。  私たちはどうして今、ここにいるのでしょうか? それは神が私たちを、今、この地にいるように創ってくださったからであり、全ては御心によるものです。世の存在のすべて、時間と空間の中で動いている全ては神の御支配の下にあります。その神を神としないことが罪であります。  主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、40日間、悪魔の試練にお遭いになりました。“パンを石に変えたら?”、“ここから飛び降りて神を試しては?”、“私にひれ伏したら?”。 ……全ては主イエスを神から引き離そうとするもの、主イエスが神様を離れて悪魔に仕える、神を神としないようにさせる企みでした。主イエスはその罪を斥けたのです。  神を神としない時、人はどのようになるのでしょうか。 ・ まず、自分自身を神のようにすることがあります。神などなくても生きられる、自分の力で未来を切り開いていると勘違いします。価値判断の基準は全て自分自身になってしまいます。 ・ また、神以外の物を神とし、それに囚われたり、ひれ伏したりすることがあります。財産、学問、思想、名声、人、等があります。もちろんそれぞれに価値があり、重要でありますが、それらは人によって作られた価値を超えるものではありません。 ・ また、主にあるきょうだいとしての隣人を愛さないことがあります。   肉親としてのきょうだいのみならず、隣人は自分自身と同じく神様に創られたきょうだいなのですが、そのことに目を注げなくなり、そのため隣人の傷に気が付かず、または素知らぬ振りをして通りすぎることがあります。   さらには教会から遠ざかってしまったりするのです。  このように私たちには、神を神とすることができない、神以外の物を、時には自分さえも神としてしまう罪があります。神を神としないことから多くの罪へとつながり、逆に多くの罪は神を神としないことと結びついているのです。  今日の箇所で“私たちの罪を赦してください”というところの“罪”という言葉は、マタイによる福音書では“負い目”とされています。“私たちの負い目を赦してください”。 負い目とは、金銭的な負債をも意味することがあります。  ある意味で、私たちは神様に対して大きな負債を負っており、それをきちんと返さないといけない責任があるのです。  マタイによる福音書18章に、“タラントンの譬え”があります。 主君の憐れみによって1万タラントンを帳消しにしてもらった家来が、100デナリオン貸した仲間の借金を帳消しにすることなく牢に投げ込むというものです。  1デナリオンは当時、一人の人が1日働いて得られる賃金でした。このため、100日分の賃金である100デナリオンは、現代風に、仮に時給800円で1日8時間働いたとして 64万円です。一方、1万タラントンは6千万デナリオンとなり、3,840億円になります。 普通に暮らす私たちには到底返せる金額ではありません。  もちろん罪の大きさを貨幣に換算することなどできませんが、私たちの神様に対する負い目は、どれだけ努力しても到底返せるものではないと言うことがイメージできるのではないでしょうか。どんなに努力しても、どれだけ良いことをしても、決して帳消しにされることはできない負い目。そして、神がどこまでも厳格な方であるとすれば、私たちを待っているものは滅びでしかないのです。  唯一解決できるとすれば、それは相手の一方的な好意、あるいは憐れみによってその負い目を帳消しにしてもらう、和解して頂くと言うことです。  そのような私たちの罪が赦されるために、赦して頂くためにできること、それは、ひたすら神の憐れみを請うことです。  自分の信仰を誇るファリサイ人から遠く離れて胸を打ちながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った徴税人(ルカ18:13)のように、ひたすら憐れみを請うことです。  赦して頂くとすればこの方にすがるしかない、この方以外に人を赦すことのできる方はいない、この方こそ私を赦してくださる唯一の方ということを信じて希うのです。  どうしてそのようなことを信じられるのでしょうか……それは、神が独り子イエス・キリストを十字架につけ、滅びるはずの人の命を買い取って下さった出来事です。  このように見ていくと、この部分は赦しを請う祈りの前に、信仰告白であると言うことができます。“あなただけが私の罪を赦してくださる方であると信じます”、“ですからあなたに請い願います。私を憐れみ、私の罪をお赦し下さい。”……“私の罪を赦してください”という一言に、信仰の告白と願いが込められているのです。  自ら十字架について死んでくださり、それによって私たちの罪を償ってくださった、本来であれば私たちが十字架に付くべきところを代わって付いてくださった、その主イエスが教えてくださったものがこの祈りです。 ■ 続いては後半部分、“我らに負い目あるものをすべて赦しますから”です。 前半と続けますと、“私たちの罪をお赦し下さい。 私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから”となっています。  自分に負い目のある人を皆赦しますから、私たちの罪をお赦し下さい。  ここは、私たちの罪を赦して頂くために、隣人を赦すことを条件としていると読むことができます。 私たちへの神様の赦しに比べたら、私たちの隣人への赦しは取るに足らないような小さなものです。まさに1万タラントンに対する100デナリよりもっと小さなものです。 私たちはその小さな赦しをもって、創り主への罪というとてつもなく大きな罪を赦してくださいと祈るのでしょうか。 再び振り返ってみます。 主の祈りは、人であり神の独り子である主イエスが“このように祈りなさい”と言って教えてくださった祈りです。 主イエスが、“私たちの罪をお赦し下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから”と祈りなさいと教えてくださったのです。 と言うことは、驚くべきことに私たちができるような小さな赦しであっても神様は“よし”としてくださり、認めてくださって、とてつもなく大きな負い目、罪を赦してくださるという事です。 マタイによる福音書25章には、終わりの日の裁きのことが譬えで記されています。王は、祝福された者達に言います。“お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいる時に訪ねてくれた”。 ……“私がいつそのようなことをしたでしょうか”と聞くと、王は“これらの最も小さい者達の一人に対してなしたのは、私に対してなしたのと同じことである。”と答えます。神は、小さい者のために行った小さなことさえ、祝福の基としてくださるのです。 もちろん私たちは、隣人の罪を赦すことによって私たちの罪が赦されることをあたりまえのこととして祈ることはできません。 しかし、「神様はこのような小さなことでも“よし”として下さる、そのように私たちの大きな罪をも赦して下さる」と言うことを信じ、告白することができるのです。 前半と合わせると、“あなたは、私たちが隣人の小さな罪を赦すことをも“よし”として下さいます。そしてあなただけが私の罪を赦したもう方です。そのことを信じ、讃美と感謝、悔いをもってお願いいたします。私たちの罪をもお赦し下さい。”と言うのが、主の祈りのこの部分の意味ではないでしょうか。 主イエスがお教え下さった、最も大切な掟がマルコによる福音書12章30節に記されています。 ・ あなたの全ての心から、あなたの全ての思いから、あなたの全ての命から、あなたの全ての力から、主なるあなたの神を愛しなさい。 ・ 第二はこれです。自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい。 ⇒ 神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つが今日聞いている、罪の赦しを願う祈りに凝縮されているのです。 今まで聞いて参りましたように、主の祈りの、その中の小さな1節だけでも、聖書の様々な箇所と結びつき、反響し合っています。聖書の御言葉の大きな集約が、この祈りにあります。 主の祈りが“小さな教会”と言われる所以がここにあります。  何度も申し上げましたように、主の祈りは私たち人間が作り上げた祈りではありません。 自ら十字架について私たちの罪を贖ってくださった主イエス、 そして今も神と我々罪ある人との間に執り成し手として立っていてくださる主イエスが、“こう祈りなさい”と教えて下さった祈りです。 その主が祈れと言われたとおりに祈ることは、必ず聞いていただけるのです。 “我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え” 喜びと感謝をもって信仰を告白し、また畏れつつ祈り続ける者でありたいと思います。

【祈り】  

 父なる神様、今日も私たちの思いを超えた、あなたの大きな恵みを聴くことができましたことを感謝いたします。  どうか私たちを、あなたに従い、あなたの御業に加わり、隣人のために働く者としてください。  今日、福島伝道所で御言葉を語る牧師を支え、その群れを祝してください。  この礼拝を覚えつつ、共に御前に立つことのできないきょうだいを省みてください。  小児洗礼を受け、まだ信仰告白を行っていないきょうだい、礼拝に出席しながら今は教会を遠ざかっているきょうだいをあなたの前に立たせてください。妨げがありましたらあなたが取り除いてくださいますように。教会員の子弟をあなたの前に集めてください。そのために働くきょうだいを支えてください。  戦争・災害・病・飢え・失業・差別などで苦しむきょうだいを助けてください。国々の指導者をあなたに従う者としてください。  この週の全てをあなたの御心の内に置いてください。  主の御名によって祈ります。アーメン   

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