6月27日説教「この名による以外、わたしたちの救いはない」

2021年6月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編118編20~29節    

  使徒言行録4章1~22節

説教題:「この名による以外、わたしたちの救いはない」

 使徒言行録4章8~12節では、ユダヤ最高議会の裁判でのペテロの弁明が語られています。3章1節以下に書かれていたように、エルサレム初代教会のペトロとヨハネは生まれつき足が不自由だった人を主イエス・キリストのみ名によって立ち上がらせるという奇跡を行いました。エルサレムでそれが大きな騒ぎとなったために、ユダヤ人の指導者たちが二人を捕え、獄に入れました。翌日、ユダヤ最高議会での裁判の席で語ったのが8節以下のペトロの弁明ですが、彼はここで自分たちの無罪を主張して弁明しているというよりは、主イエス・キリストの救いの恵みを語る説教をしていると言うべきでしょう。 誕生したばかりの初代教会が最初に経験した迫害、それはユダヤ人からの迫害ですが、その迫害の場が、主キリストの福音を宣べ伝える宣教の場となったのです。主キリストの福音を信じ、神のみ言葉を語るキリスト者にとっては、この世のいかなる迫害をも恐れず、世の権力や暴力の脅かしにも決して臆することなく、またわが身の死の危険をも超えて、大胆に、力強く主キリストを証しすることがゆるされます。なぜなら、神の言葉はこの世のいかなる鎖によってもつながれることはないからです。神の言葉、神の真理はわたしたちを真の自由人にするのです。  この説教でペトロは、生まれつき足が不自由だった人が歩き出したのは、神が死者の中から復活させられた主イエス・キリストの名によるのだということを説教しましたが、彼の説教はそれにとどまらず、そのいやされた人にとってだけではなく、あなた方にとっても、いやだれにとっても、すべての人にとって、主イエス・キリストの名による以外には救いはないと12節で語ります。「わたしたちが救われるべき名は」の「べき」と訳されている言葉は、主イエスが福音書の中でご自身の受難予告をされた際に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け……殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ福音書8章31節)と言われた箇所の、「必ず、することになっている」と訳されているのと同じ言葉です。これは神の強い意志、神の決断、神の永遠の救いのご計画を表現する言葉と言われています。神はご自身のみ子、人となられ、おとめマリアからお生まれになり、わたしたちの罪のために苦しまれ、十字架で死なれ、そして三日目に復活された主イエス・キリストによって、ご自身の永遠の救いのご計画を成就されたのです。ただ、この主イエス・キリストによってのみ、すべての罪びとをお救いくださったのです。これ以外のどこにも、だれにも、救いを求めることはできません。  「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。この12節のみ言葉には、非常に強い意味が込められています。主イエス・キリストのみという、この狭い、ただ一筋の道だけが、わたしたちすべての人の救いの道であるとペトロは説教します。宗教改革者たちも「主キリストのみ」を強調しました。このように救いの道を狭めること、限定することは、救いの恵みを小さくすることでは全くありませんし、わたしたちが救いの道を進むことを困難にするのでもありません。いやむしろ、わたしたちの救いの道を確かなものにし、救いの恵みを豊かにし、それを信じる人に大きな慰めと平安を与えるのです。  では、ここで否定され、拒絶されている他の救いの道とは何でしょうか。主イエス・キリストのみ名を信じる信仰の道以外のすべての道のことですが、その主なものを考えてみましょう。世の多くの人々はさまざまな神々に救いを求めます。しかし、聖書の神は言われます。それらのすべては人間が造りだした偶像であって、真に人を救うことはできないと。ユダヤ人は神の律法を守り行うことによって救われると考えました。しかし、使徒パウロが言うように、律法によっては、それを守り行うことができない人間の罪がいよいよ明らかにされるだけです。多くの人々は、究極的に信じられるのは自分だけだと言います。しかし、その自分とはいったい何者でしょうか。時に迷ったり、時に人を傷つけたり、時に悲しんだり、時に肉体が病んで痛みを覚えたり、そして最後には死を迎え、朽ちていく存在、そのようなものに救う力などあるでしょうか。ある人は哲学、科学、知識や知恵に、宇宙的な原理とか真理とかに、何かの思想、信条に、救いを求めます。しかし、それらはひと時人間の腹を満たすことがあっても、魂の永遠の救いを与えることはできません。  そのようなすべての道によっては得られなかったまことの救いの道を、神は主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに備えてくださいました。主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、わたし自身には全く救われる望みも可能性もないのに、神から与えられる一方的な恵みによって、わたしたちが信仰によってそれを信じ受け入れることによって、神はわたしに罪があるままで、主キリストのゆえに、わたしを義と認め、わたしの罪をゆるし、救ってくださるのです。  13~14節には、ペトロのこの説教を聞いた最高議会の議員たちの反応が書かれています。【13~14節】。議員たちはペトロの証言を聞いて不思議に思い、驚き、また戸惑っています。けれども、彼らの心はかたくなに閉ざされたままです。彼らの前には今、一本の救いの道が備えられています。彼らは今、法廷に立つ二人の囚人を裁くべき裁判官であるというよりも、ペトロの説教によって救いへと招かれている一人の罪びとなのです。けれども、彼らは神の救いへの招きの言葉に心を閉ざし、かたくなに自分たちの立場を守ろうとし、体面を取り繕うことだけに心を用いています。  ここで、ユダヤ最高議会の法廷に立たされているペトロとヨハネの二人と、彼らを取り囲んでいる議長の大祭司と70人の議員たちとの、対照的な姿が浮かび上がってくるように思われます。一方では、この世の鎖につながれてはいるが、主キリストの福音によって全くこの世の権力とその脅しから自由にされて、大胆に主イエス・キリストを告白し、喜びに満たされて、勝利を確信して被告席に立っている二人の使徒たち。他方では、民の指導者であることを自認し、この世の権力を身にまといながら、根拠のない罪状で二人を裁こうとしている大祭司と70人の議員たち。しかし自ら裁くべき立場にありながら、神のみ言葉によって裁かれなければならないことを感じながらも、心をかたくなにし、困惑し、不安におびえている彼ら。その両者の対照的な姿がここで浮き彫りにされています。  13節に、「ペトロとヨハネの大胆な態度を見」と書かれています。「大胆な」という言葉は、このあと4章29節、31節などでも繰り返して用いられます。迫害の中にあっても、少しも恐れず、語り続ける使徒たちの勇敢さを言い表しています。彼らの大胆さはどこからくるのでしょうか。それは、言うまでもなく主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じている信仰と、それを支えている聖霊なる神のみ力からです。使徒たちは「無学な普通の人」(13節)であり、彼らを迫害している人たちのように政治的・宗教的な力をも持ってはいません。あるいはまた、自分たちの何らかの利益やこの世からの称賛を期待しているのでもありません。ただ、ひたすらに主イエス・キリストの福音を信じ、主イエス・キリストによって捕らえられ、それによってこの世のすべての束縛から自由にされ、死の恐れからも解放されている信仰者に与えられている大胆さであると言えます。  ユダヤ最高議会はペトロとヨハネを裁くことはできませんでした。なぜならば、彼らは主イエス・キリストのみ名を恐れていたからです。主イエス・キリストの福音を恐れていたからです。彼らは16~17節でこのように言っています。【16~17節】。彼らはここで注意深く「主イエス・キリスト」というお名前を口に出さないように、「あの名によって」と言っています。彼らは主イエス・キリストのお名前を口に出すことを恐れています。主イエスのお名前に偉大な力があることを彼らもまた認めざるを得ません。ペトロが生まれつき足の不自由だった人に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、その人はすぐに躍り上がって立ち、歩き出したと3章6節に書かれていました。また、4章12節でペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と説教しています。主イエスの名とは、主イエスご自身のことであり、主イエスの救いのみわざ全体のことでもあります。十字架につけられ、三日目に復活された主イエスこそが、奇跡の力の源であり、すべての人の救いの源であり、またペトロとヨハネを大胆な伝道者としている力の源なのです。ユダヤ最高議会の議員たちもそのことを認めないわけにはいきません。けれども、彼らは主イエスを信じることを拒みました。それだけでなく、自分たちの地位と名誉が危険にさらされていることを感じ、主イエスのみ名がこれ以上人々の間に広がることを恐れ、それをとどめることに必死になっています。主イエス・キリストを信じる信仰が広まれば、ユダヤ教の指導者としての自分たちの立場が失われることを恐れているのです。  それに対して、ペトロとヨハネはこのように答えました。【19~20節】。ここでも、ユダヤ最高議会の議員たちとペトロとヨハネの二人の使徒たちとが対比されています。対比されているというだけでなく、対決していると言うべきでしょう。それは、神に従うのか、それとも人間に従うのかという対決です。議員たちは主イエスの偉大なみ名を恐れ、自分たちの立場がくつがえされることを恐れ、また主イエスの福音を信じ始めている民衆を恐れています。それに対して、ペトロとヨハネはこの世のいかなる権力をも恐れず、迫害をも恐れず、自らの死をも恐れていません。主イエス・キリストが罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。ペトロとヨハネはこの世に属する朽ち果てるしかない人間の言葉に従うのではなく、救われた信仰者を永遠の命へと導かれる神のみ言葉に聞き従う道を選び取りました。  ペトロは言います。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と。かつての預言者たちも同じように告白しました。アモス書3章8節にはこうあります。「獅子が吠える、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか」。また、エレミヤ書20章9節にはこう書かれています。「主の名を口にすまい、もうその名によっては語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃えあがります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。神のみ言葉は預言者たちの中で激しく燃え上がる火となり、彼らを突き動かし、彼らの全身を支配し、彼らを神のみ言葉を語る者に造り変えるのです。それと同じように、神のみ言葉はわたしたちの中で力となり、命となり、希望となり、勝利となります。

(執り成しの祈り) 〇天の神よ、あなたの命のみ言葉を信じ、それに生きる者としてください。主イエス・キリストのみ名を信じ、その救いの福音によって生きる者としてください。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と預言者は告白しました。わたしたちもあなたの永遠のみ言葉の上に堅く立たせてください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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