8月1日説教「教会の大きな祈り」

2021年8月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書40章5~11節

    使徒言行録4章23~31節

説教題:「教会の大きな祈り」

 ペンテコステの日に誕生した世界最初の教会、エルサレム教会は、誕生してすぐにユダヤ人からの迫害を受けました。ペトロとヨハネは主イエス・キリストの福音を説教し、特に主イエスの復活を語ったために、新しい教えによって民衆を惑わした罪に問われ、逮捕され、ユダヤ最高議会での裁判を受けました。使徒言行録3章と4章に描かれている初代教会の宣教活動と最初の迫害の記録は、のちに全世界へと拡大されていくキリスト教会の本質、その基本的・典型的な姿であると言ってよいでしょう。ここには、教会とは何か、教会はどうあるべきかという、今日のわたしたちの教会にとっても共通する教会の本質が語られています。その点に注目しながら、4章23節以下のみ言葉を読んでいくことにしましょう。

 23節にこう書かれています。【23節】。二人とは、初代教会の指導者ペトロとヨハネのことです。彼らはエルサレム神殿の前で人々に施しを乞うていた生まれつき足が不自由な男の人に対して、「あなたが期待している金銀はわたしにはないが、わたしたちが持っているものをあなたにあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、彼はたちまち躍り上がって立ち上がり、神を賛美しながら神殿に入っていきました。主イエス・キリストのみ名によって、神の奇跡が起こったのです。神はユダヤ人たちによって棄てられ、十字架につけられた主イエスを、死者の中から復活させられた「死から命を創造される神」です。

3章12節以下のペトロの説教と、4章8節以下の裁判でのペトロの弁明、これも説教と言ってよいのですが、その説教の中心は、主イエス・キリストの十字架の死と復活であったということを、わたしたちはすでに何度も確認をしました。も一度その個所を読んでみましょう。【3章13~15節】。また【4章10~12節】。これ以後の使徒言行録に書かれているペトロやパウロの説教もすべてその中心は主イエス・キリストの十字架の死と復活です。そして、これがのちのすべての教会の説教の中心でもあります。もちろん、わたしたちの教会の説教も同様です。

 ところが、キリスト教会が力を込めて説教した主イエスの十字架と復活の福音はユダヤ人からの迫害を招くことになりました。主イエスの十字架と復活の福音は、当時のユダヤ教指導者たちにとっては耳触りの良いものではなかったからです。ユダヤ教2大教派の一つサドカイ派は復活を否定していましたから、主イエスの復活の福音は彼らの教えに反するものでした。ファリサイ派や律法学者は、律法を守り行うことによって神の国の民とされ救われると教えていましたので、主イエスの十字架の福音を聞いて信じることによってすべての人が救われるという福音は自分たちの教えを根本から否定するものでした。そこで彼らはペトロとヨハネを捕え、裁こうとしました。

けれども、ユダヤ最高議会は彼らを釈放せざるを得ませんでした。21節には、議員たちは「民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかった」と書かれています。他方、ペトロとヨハネはユダヤ最高議会の裁判の席でも恐れることなく大胆に主イエスの十字架と復活の福音を語り続けました。二人は主なる神に従うことによって、この世の権力者をも恐れない力と勇気とを与えられたのでした。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれないことを、彼らは証ししたのです。教会にとって迫害の時は、また同時に力強い証しの機会となり、さらなる福音の前進の時となったのでした。

 「二人は仲間のところへ行った」と書かれています。「仲間」とは、エルサレム教会の教会員、信者たち、教会の群れのことです。のちに使徒パウロは「兄弟姉妹たち」とか「聖徒たち」と呼びました。彼らはどのような種類の仲間なのか、何のために、どのようにして仲間になり、一つの群れとされたのでしょうか。そのことを考えることは教会の本質を考えることです。この仲間は、この世の何らかの利益を求めて集まった人たちではありません。趣味のグループでもありません。彼らは主イエス・キリストの福音を聞いて、信じ、それによってこの世から、ユダヤ人の中から選び分かたれて、教会の民とされた人たちです。それゆえに、この世のもろもろのグループとは根本的に違っています。彼らは主イエスの十字架と復活の説教を聞き、信じ、罪を悔い改め、洗礼を受け、罪ゆるされた仲間です。それゆえに、彼らは神の救いの恵みによって生かされ、聖霊によって一つに結ばれ、共に神を礼拝し、共に祈り合い、そしてまた苦難をも共にする仲間です。

 ペトロとヨハネは仲間のところに帰って自分たちに身に起こったことを報告しました。24節以下には、この時のエルサレム教会の祈りが記されています。【24節】。多くの聖書注解者は24~30節の祈りを「教会の大きな祈り、新約聖書の中でもっと偉大な祈り」と名づけています。誕生して間もない若い教会、その最初の宣教活動の中で経験しなければならなかった最初の迫害、しかしその時教会は、少しも恐れることなく、たじろぐことなく、黙することなく、むしろより一層大胆に、力強く、勇気と希望とに満ちて、このような大きな祈りをささげている。ささげることができた、ささげることをゆるされている、ということを、わたしたちは驚きをもって知らされるのです。

 「これを聞いた人たちは心を一つにし」とあります。ここでは教会の一致が強調されています。ペトロとヨハネが経験したことは教会のみんなの共有の経験です。二人の宣教活動、二人が受けた迫害、そのすべてを教会の仲間みんなが共有し、共に一つの大きな祈りへと導かれていくのです。

 彼らの祈りは、まず天地万物を創造された神への強い信頼から始まっています。その神は今もなお、強いみ手をもって造られた世界のすべてを治め、支配しておられます。何ひとつとして神のみ心とは無関係なことは起こり得ないという信仰がここでは言い表されています。この世からの迫害を最初に経験した教会は、その迫害からどのようにして逃れようかとか、迫害に合わないためにどうすべきかということを語り合ったのではありませんでした。彼らがなしたことは共同の祈りでした。共に神に祈ることでした。祈りこそが、迫害や困難を乗り越えて、教会がなお前進し、主イエスの福音を語り続ける勇気と希望とを与えられるための最も確かな武器なのです。

 そして、その祈りは神のみ言葉に導かれた祈りでした。25~26節は詩編2編1~2節のみ言葉です。【25~28節】。神は主イエスの十字架と復活によって、この詩編のみ言葉を成就されただけでなく、教会の迫害を通してもこの預言を成就されたのだと彼らは祈っています。祈りは自分たちの願いを神に押しつけるためのものではなく、神のみ心を尋ね求め、そのみ心に従うためのものです。それによって、新たな命と力とを神からいただくのです。

 この祈りには、これまでペトロが語った3回の説教、ペンテコステの説教、エルサレムの神殿前での説教、そしてユダヤ最高議会での説教のいずれにも共通しているポイントが二つあります。一つは、ユダヤ人指導者と異邦人指導者とが結束して神がお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を偽りの裁判によって裁き、十字架につけて殺したという、彼らの罪を明らかにしています。人間はみなメシア・救い主を受け入れないという罪で一致します。しかし第二には、神は彼らの罪と反逆とをお用いになって、ご自身の救いのみわざを成就されたのだということです。彼らのこのような罪と反逆によっても、神の救いのご計画は変更されず中止されず、彼らの罪を貫いて、彼らの罪をはるかに超えて、神は主イエスの十字架の死と復活によって全人類のための救いを成就されたのです。彼らは自ら知らずして神の救いのみわざに仕えることになったのです。

 神の救いのご計画は今もなお罪びとたちのどのような攻撃や反逆にもかかわらず、神のみ心のままに、終わりの日の神の国の完成の時に向かって前進していくのだということを、わたしたちもまた信じるべきであり、信じてよいのです。

 29節からは、教会が直面した新しい事態、迫害という困難な事態について祈っています。【29~30節】。教会は初めて経験したこの迫害という困難な事態をどうとらえ、どう対応したのでしょうか。29節の「彼らの脅しに目を留め」とは、教会が不信仰なやからによって脅かされている現状を神がご覧くださるようにという意味です。彼らはここで教会の迫害と主イエスのご受難とを重ね合わせているのです。教会が経験している迫害は主イエスが経験されたお苦しみの続きなのです。主イエスが罪と戦われ、苦しまれたように、教会も今罪の世と戦い、苦しんでいるのです。神は教会のその苦しみを、困難な戦いを知っていてくださいます。そのことが教会の大きな励ましであり力です。

 それゆえに、教会は迫害の中にあっても、なおも「思い切って大胆に御言葉を語ることができる」のです。教会はそのような力を祈りによって与えられます。人間的な知恵や力によってではなく、経済力とか団結力とかによってでもなく、祈りによってこそ、教会は困難な事態を乗り越えていく希望と力を与えられるのです。祈りによって、主なる神にすべてをお委ねし、神の助けと導きを信じ、願い求めることによって、教会は困難を乗り越え、前進していくことができるのです。

 最後に31節を読んでみましょう。【31節】。これは教会の祈りに対する神の応答です。揺れ動いたとは地震のことです。地震は神のご臨在のしるしです。そこに力強い神が臨在しておられ、働いておられることの確かなしるしです。聖霊が注がれることは、その神の力強いお働きが教会を動かす力として具体的に作用することの保証です。神は教会の祈りに確かに答えてくださいました。24節以下の祈りが「教会の大いなる祈り」と呼ばれるのは、その祈りの内容によるというよりは、この神の応答が驚くべき偉大なものであったからです。神は、いわば大地を揺るがすほどの大きな力をもって教会の祈りに応えてくださったのです。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはありません。それゆえに、わたしたちもまたどのような時代にあっても大胆に神のみ言葉を語ることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにも聖霊を注ぎ、あなたのみ言葉を大胆に語らせてください。全世界の教会を聖霊で満たし、主イエス・キリストの福音宣教の働きのために派遣してください。

○困難や試練の中にある教会、紛争や貧困、災害の中にあって苦しい戦いを強いられている教会を、あなたが特に顧みてくださり、勇気と希望と力をお与えください。

〇天の神よ、日本とアジアと世界の諸国が、いまなお新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされ、恐れ、傷つき、病んでいます。どうぞこの地を憐れんでください。いやしと慰めとは励ましとをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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