12月19日説教「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

2021年12月19日(日) 秋田教会礼拝説教(クリスマス礼拝)

(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ヨハネによる福音書1章6~18節

説教題:「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

 ヨハネによる福音書はクリスマスの出来事を1章9節で、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と表現しています。『口語訳聖書』の翻訳の方が分かりやすいので紹介します。「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」。また、14節では、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。この二つのみ言葉から、ヨハネ福音書が語るクリスマスの意味についてご一緒に学んでいきましょう。

 クリスマスは神のみ子であり、全世界のすべての人の救い主としてこの世に誕生された主イエスの誕生を祝う日です。ヨハネ福音書はその主イエスを「まことの光」、また「言(ことば)」として言い表しています。先に、「言」について少し説明を加えながら、14節のみ言葉の意味を考えていきたいと思います。新約聖書の言語であるギリシャ語では「ロゴス」と言います。一般的な意味として、言葉のほかに道理、理性、理由などの広い意味を持っています。そのロゴスという単語に、特定の意味を持った単語につけられる定冠詞「ホ」、英語では「the」をつけて、「ホ・ロゴス」という言葉で、聖書は主イエス・キリストを言い表しているのです。日本語の翻訳では「言葉(ことのは)」の「こと・げん」一字で「ことば」とルビをつけるのが一般的です。

 その「言」(ホ・ロゴス)が肉となって、わたしたち人間の間に宿られた、この世界に来られたと14節は語っています。キリスト教の用語ではこれを「受肉」と言います。天におられる永遠なる神が人間の肉をまとわれ、人間となってこの世界に、時の中に入って来られた、神が人間になられたということです。それがクリスマスの出来事、主イエス誕生の出来事です。それは、何を意味しているでしょうか。

 一つには、天におられた神が地に下って来られ、わたしたち人間が住むこの地上においでくださった、わたしたち人間のごく近くに、わたしたち人間と共におられる神となってくださったということです。マタイ福音書ではこれを「インマヌエル、神我らと共にいます」という言葉で表現しています。しかし、天におられる神と地に住む人間との間には無限の隔たりがありました。神は聖なる神、罪も汚れもなく、全能の神、永遠の神であられたにもかかわらず、神に背き、罪ゆえに死すべきものとなった人間のただ中においでくださったのです。それは、人間を罪から救うためでした。

 わたしたちはもはや神を求めて天に登る努力をする必要はありません。救いを求めて、あれこれと探し回ったり、何らかの宗教的・信仰的な訓練を積み重ねたりする必要も全くありません。神ご自身の方からわたしたちに近づいて来てくださったからです。わたしたちがその神を信じて受け入れるなら、主イエスによる罪のゆるしが与えられ、救われるのです。

 神が人間になられたことの第二の意味は、ヨハネ福音書では主イエスを「ホ・ロゴス」、神の言葉と言い、その神の言葉が肉となられた、受肉したと表現することによって、神の言葉が現実となり、成就したということを言い表しています。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に約束されたメシア・キリスト・救い主が今クリスマスの出来事によって、主イエスの誕生によって、出来事となった。神の救いの預言が成就した。神の言葉、神のみ心、神の救いのご計画がわたしたちの間で実現した。わたしたちはそれを確かにこの目で見て、信じることができるようにされているということを意味しています。

 もう一つの意味を付け加えることができます。聖書では「肉」という言葉は、弱く、はかなく、朽ち果てるものという性質を言い表します。天におられる神は、聖なる神、永遠なる存在であられるにもかかわらず、人間の肉を身にまとわれ、弱く、朽ち果てるもの、死すべきものとなられたと、ヨハネ福音書は語っているのです。

 宗教改革者カルヴァンはこのように言っています。「神のみ子がその天的な高みから、我々のために、それほどに低い、打ち捨てられた状態にまで下って来られたのだ」と。天におられる罪も汚れもない聖なる神が地に下って来られ、罪の中に入ってきてくださり、死すべきわたしたち人間と同じお姿になるほどまでに、ご自身を低くされ、貧しくされ、卑しくされて、わたしたち一人一人と共におられる神となられたということです。

 この神の低さは、主イエスの十字架の死に至るまで続きます。神は罪びとの一人に数えられ、わたしたちの死をも共にされたのです。それは、罪ゆえに死すべきわたしたちを罪と死から救い出すためでした。これほどまでにわたしたち罪びとと共にいてくださる神の偉大な愛について、ローマの信徒への手紙5章ではこのように教えられています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。……わたしは確信します。死も、命も、天使も、支配するもの、現在のもの、未来のもの、力あるもの、高い所にいるもの、低い所にいるもの、他のどんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(5章32節以下参照)。わたしたちはこれほどまでに強い愛によって神と結ばれているのです。

 これまで学んだことから明らかなように、クリスマスの出来事の意味を正しく理解するためには、わたしたちは人間の罪とその罪からわたしたちを救う主イエス・キリストの十字架の死という出来事と、その二つと主イエスの誕生という出来事とを結びつけて考えなければなりません。ヨハネ福音書1章9節のみ言葉がそのことを教えています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。これが、ヨハネ福音書が語るもう一つのクリスマスの意味です。

この日に誕生した主イエスは、まことの光であると言われています。光は闇を照らし、闇の中で輝きます。明るい場所では、光には気づきませんし、光を必要ともしません。「まことの光が世に来て、すべての人を照らす」とは、この世が暗闇であり、すべての人が暗闇の中に住んでいるということを暗示しています。あるいはこうも言えるでしょう。まことの光に照らされる時、この世は、またすべての人は、今まで自分たちが暗闇の中におり、暗闇の中を歩んでいたのだということに気づかされるということです。

 聖書では、暗闇とはしばしば神を失っている世界、罪に支配されている世界と人間を象徴する言葉として用いられます。イザヤ書9章1節にはこのように預言されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。紀元前7世紀の預言者イザヤの時代だけでなく、主イエスの時代も、そして今日も、世界はまことの神を失い、神無き暗黒の中を歩んでいます。

 けれども、神はこの世界をなおも愛しておられます。この世界が罪の中で滅びることをおゆるしにはなりません。神は世界のすべての人を上から照らすために、まことの光なる主イエスをお遣わしになりました。最初のクリスマスの夜に、羊飼いたちは天からの神のみ声を聞きました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と。

クリスマスの日に天から与えられたこの光は、イスラエルの一部の地域だけを照らすのではありません。イスラエルの民だけが救われるのではありません。「すべての人を」とあります。すべての人を照らす光です。すべての人が主イエス・キリストの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の民とされます。この光で照らされない人は一人もいません。主イエス・キリストの福音派すべての人に与えられ、すべての人がその救いの恵みへと招かれています。

また、この光は「まことの光」と言われています。この光は罪に支配されているこの世の暗闇を照らし、その中に住む一人一人を光の中に導き、神の真理へと導き、わたしたちにまことの命を与えます。主イエスの十字架の死による罪のゆるしと、主イエスの復活にあずかる永遠の命を与えます。

(執り成しの祈り)

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

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