12月26日説教「アブラハムのイサク奉献」

2021年12月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記22章1~19節

    ローマの信徒への手紙8章31~39節

説教題:「アブラハムのイサク奉献」

 創世記22章には、アブラハムのイサク奉献のことが書かれています。神はアブラハムに神の約束の子であり、彼の独り子であるイサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさいとお命じになります。アブラハムは神の命令に黙々と従います。ここに描かれている内容は、非常に深刻であり、衝撃的であり、また感動的でもあり、しかも信仰的、神学的に大きな課題と問題点を多く含んでいます。

 デンマークの哲学者キェルケゴールは『恐れとおののき』という書物で、愛するひとり子イサクを神に燔祭としてささげる父アブラハムの信仰の試練と戦いのことを詳しく論じています。古代から、多くの画家たちがこの場面をテーマにして感動的な絵を描いています。わたしたちキリスト者はここから、ご自身の愛する独り子主イエス・キリストをさえも十字架に犠牲としておささげくださるほどにわたしたち罪びとを愛された神の偉大な愛を読み取ります。それらのさまざまな課題に思いを馳せながら、この個所を2回に分けて読んでいくことにしましょう。

 1、2節を読みましょう。【1~2節】。1節の冒頭に、「これらのことのあとで」と書かれています。「これらのこと」とは具体的に何を指しているのかを考えてみると、すぐ前の21章前半に書かれていたイサクの誕生のことだけを指すのではなく、これから起ころうとしている重大な出来事との関連で考えるならば、アブラハムの信仰の歩みがが始まった創世記12章からのすべてのことを含んでいると理解すべきではないかと思います。12章以下のアブラハムの歩みを簡単に振り返ってみましょう。神はアブラハムを選び、召して、彼と契約を結び、約束の地へと導かれました。「あなたとあなたの子孫とにこのカナンの地を永遠の嗣業として与える。あなたの子孫は星の数ほどに増え広がり、わたしが与える祝福を永遠に受け継ぐであろう」。これが神の約束でした。アブラハムは何度も神の約束を疑い、神に背き、罪を犯しましたが、神はそのたびにアブラハムをゆるされ、彼との契約を更新されました。彼が最初の神の約束を聞いてから25年後、彼が100歳になって、ようやくその約束の一つが成就し、彼に約束の子イサクが与えられました。そのようなアブラハムの信仰と迷いの生涯、神への服従と失敗の歩み、それらのすべてのあとで、これから新たな展開が始まるという意味で、「これらのことのあとで」と書かれていると考えられます。

 1節の次の言葉は「神は」ですが、この言葉は原文のヘブライ語のテキストでは非常に強調されています。これから起こる出来事はすべては神が主語となり、神が主導しておられるということなのです。もちろんわたしたちはここでアブラハムが受けている大きな信仰上の試練ということをも真剣にとらえなければなりませんが、それ以上に、神が主導権をもっておられ、神がここでは行動しておられる、神のみ心が行われているということを聖書は強調しているのです。

 「神はアブラハムを試された」とあります。神がアブラハムを試みておられる、神がアブラハムに信仰の訓練を与えておられるということがまず語られているのです。このことは、神は本気でアブラハムに子どもを犠牲としてささげること(いわゆる、人身御供)を命じておられるのかどうかという問題に一定の答えを与えているように思います。聖書では明らかに人身御供は神によって禁じられているのに、ここではそれをご自身が要求しておられるのだとしたら、神の側に何か不正があるのではないか、という神学的な疑問に対して答えていると言えましょう。聖書の神は他の神々のように、人間の命をご自身にささげるように命じることはありませんし、信仰の行為として人間の命を要求されることもありません。神は初めからすべてをご存じであられ、み心のままにアブラハムを導いておられるのです。そして、彼に信仰の訓練をお与えになるのです

 とはいえ、この神の命令がアブラハムにとっていかに厳粛な神の絶対的な命令であるか、そしてそれが彼をどれほどに苦しめ、厳しい信仰の戦いを強いるものであるかということが、否定されることは全くありません。彼には隠されている神のご計画がまだ全く見えていません。キェルケゴールが言うように、アブラハムは主なる神に対する大いなる恐れとおののきとをもって、この神の命令と向き合っているのです。ようやくにして与えられた彼の子どもイサクを神のみ手によって奪い取られようとしているという、避けられない厳しい現実に彼は恐れおののいています。

 「焼き尽くすささげ物」とは一般に燔祭と言われます。英語ではホロコーストと言います。のちに、イスラエルの礼拝の形式となりました。エルサレムの神殿では毎日燔祭の犠牲がささげられました。まず、聖別された家畜、羊や山羊、牛などの首をナイフで切り、その血を祭壇に注ぎます。血は命であり、本来神のものなので、それを神にお返しするのです。肉は内蔵とともにすべてを火で焼いて、その香ばしい香りを天におられる神にささげます。一頭の家畜のすべてを神にささげるのが燔祭です。

 ところが、ここで神がアブラハムに命じておられるのは家畜をではなく、彼の独り子イサクを燔祭としてささげよと言われるのです。これは何と厳しくまた理不尽とも言える命令ではないでしょうか。イサクは彼が長く待ち望んだ子どもでした。神はこの子を授けるまで、25年間も長い間アブラハムを待たせたのでした。彼が100歳になって、ようやくにして授かった子どもです。彼の生涯はイサクの誕生を待ち望み、この子の成長を見守ることがすべてであると言ってよいでしょう。イサクはアブラハムにとっての命そのものでした。しかし、神はその子を燔祭としてわたしにささげよと言われるのです。病気や事故で一人息子を失うということはすべての父親にとって大きな苦悩であり、試練であるのは言うまでもありません。しかし、ここでは父親であるアブラハム自身がわが子を自分の手でその首を切り、その体を火で焼かなければならないのです。今だかつて、アブラハムはこれほどの大きな試練を受けたことがあったでしょうか。これまでに幾度も信仰の戦いをしてきたアブラハム、年老いたアブラハムにとって、これはあまりにも過酷で、厳しい試練ではないでしょうか。アブラハムはこの大きな試練に耐えることができるでしょうか。

 いや、ここにある問題の深刻さは、それだけではありません。アブラハムにそのことを命じるのが、ほかならない神なのです。アブラハムにその子を与えると約束され、事実その約束を成就された神ご自身が、その子を燔祭としてささげよと言われるのです。イサクはほかでもない、神の約束の子です。その子を通して、後の時代のすべての民が神の祝福を受け継ぐと約束されている子です。神は今、ご自身の約束を、ご自身の手で廃棄されるというのでしょうか。アブラハムはこの大きな試練の前で恐れおののいています。

 次に、3節を読みましょう。【3節】。アブラハムは無言で神の命令に従い、旅立ちの準備をします。わが子イサクを燔祭の犠牲としてささげるための旅に、無言で、黙々として、出発します。「朝早く」とは、アブラハムの決断と服従の素早さ、その堅さ、断固とした姿勢を言い表しています。彼は、何のためらいも迷いもなく(わたしたちにはそのように見えるのですが)、神の命令に服従しています。これが、後の世のすべての信仰者たちの信仰の父と呼ばれるようになるアブラハムの信仰です。

 神はなぜ、アブラハムに対してこのようなむごいとも思えるような試練をお与えになるのでしょうか。2節で、神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを」と言われます。神はアブラハムがイサクをどれほどの愛しているか、彼にとって独り子イサクがどれほどにかけがえのない大切な存在であるかを、よくご存じです。そうでありつつ、いや、そうであるがゆえにこそ、神はアブラハムに「あなたのその最愛の子をわたしにささげなさい」とお命じになるのです。

 それはなぜでしょうか。なぜ神はアブラハムに過酷とも思えるほどの、あるいはだれの目から見ても理不尽としか言えないような、大きな試練をお与えになるのでしょうか。その答えは、2節の神のみ言葉の中に暗示されています。「あなたの息子、あなたの愛する、あなたの独り子イサク」、ここに「あなたの」という言葉が3度繰り返されています。イサクはアブラハムにとっての最愛の子です。神はまさにそのアブラハムのイサクに対する愛を問題にしておられるのです。わが子イサクに対する愛が神を愛する愛よりも大きくなることを問題にしておられるのです。もし、イサクに対する彼の愛が、神に対する愛よりも大きくなるとすれば、それは彼にとっての大きな信仰の危機となるかもしれないからです。

 イサクはアブラハムの最愛の子ですが、それ以上にイサクは神の約束の子です。イサクによって後の世のすべての信仰の民が祝福されるのです。父アブラハムに約束された神の祝福が、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、ついには主イエス・キリストによって全世界のすべての教会の民へと受け継がれていく、これが神の救いのご計画です。この神の救いのご計画のために、アブラハムもイサクも、そしてすべての信仰者は仕えるのです。神はアブラハムに、「あなたは最愛の子イサクをささげるほどにわたしを愛するか。あなたの最愛の子イサクをもわたしの救いの計画のためにささげる用意があるか」と問われるのです。

 わたしたちはここで16節の神のみ言葉をあらかじめ先取りするようにして理解することができます。「わたしは自らにかけて誓う。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子をすら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。……あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(16~18節参照)。

 わたしたちはまたここで主イエスのみ言葉を思い起こします。マタイによる福音書10章37節以下を読みましょう。【37~39節】(19ページ)。

 さらにわたしたちは、ヨハネ福音書3章16節以下のみ言葉を思い起こします。【16~17節】(167ページ)。アブラハムのイサク奉献の出来事は、主イエス・キリストの十字架の死と、そこで表わされた神の偉大な愛を指し示しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ。あなたがこの一年間、豊かな恵みと憐れみとをもってわたしたちの教会とわたしたち一人一人をお導きくださったことを覚えて、心から感謝いたします。わたしたちの不忠実や怠惰や傲慢で悔い改めることをしなかった罪を、どうぞおゆるしください。

〇主なる神よ、さまざまな困難な課題をかかえながら苦悩するこの世界の民を顧み、憐れんでください。あなたのみ心が行われ、義と平和が地において実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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