2月27日説教「罪をゆるす権威を持っておられる主イエス」

2020年2月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編32篇1~11節

    ルカによる福音書7章36~50節

説教題:「罪をゆるす権威を持っておられる主イエス」

 きょう朗読されたルカ福音書7章36節以下には、一人の婦人が主イエスのお体に香油を注いだという、いわゆる油注ぎのことが書かれています。これとよく似通った油注ぎの出来事は、マタイ福音書26章、マルコ福音書14章、ヨハネ福音書12章にもあります。これら三つは、主イエスのご受難の直前にベタニア村であったという点で一致していますが、細かな点では違いもあり、またルカ福音書とは時期や場所、登場する人物などで大きな違いがみられます。一つの油注ぎの出来事が違ったかたちで伝えられたのか、あるいは二つの出来事だったのかについては分かっておりません。しかし、中心的なメッセージは共通しています。すなわち、主イエスはこの婦人の油注ぎを非常に喜ばれ、その奉仕を受け入れられたという点、それに対して周囲の人たちはこの婦人の行為を無駄遣いだ、不謹慎な行為だと非難したという点、そこで主イエスはこの婦人の油注ぎの真の意味を明らかにされ、主イエスの十字架の福音がそこで語られたという点、これらのことは四つの油注ぎの出来事に共通しています。

 きょうのテキストに入る前にもう一つ確認しておきたいことは、この罪ある婦人の油注ぎの出来事は、すぐ前の34節のみ言葉と関連しているということです。【34節】。これは当時のユダヤ人指導者たちが主イエスを非難する言葉としてここでは紹介されているのですが、この言葉はそのままで主イエスの福音そのものを言い表しているということが、36節以下で明らかにされるのです。すなわち、主イエスは食卓に招かれたら、だれとでも喜んで共に食事をされ、また「罪の女」と言われている婦人の油注ぎの奉仕を喜んでお受けになり、そのことによって、ご自身が旧約聖書で長く待ち望まれていたメシア・キリスト・救い主であられることをここで証しされるのです。主イエスはすべての人を喜びの食卓にお招きになっておられます。主イエスはすべての罪びとたちの仲間となってくださいます。それによって、すべての信じる人を到来する神の国での救いへと招いておられるのです。

 では、【36節】。このファリサイ派の人の名前はシモンであるということが40節で分かります。福音書ではほとんどの場合、ファリサイ派や律法学者は主イエスに反対するユダヤ教の一派として登場しますが、今回は必ずしもそうではありません。シモンは主イエスをユダヤ教の巡回説教者・教師として、ある種の尊敬をもって食事に招待しました。この章の16節に書かれてあったように、主イエスが旧約聖書に預言されていた大預言者ではないかと期待する気持ちもあったということが39節の彼の言葉から推測できます。当時のユダヤ教の教えでは預言者や巡回説教者を食卓に招くことは、特別に称賛される愛の行為、信仰深い奉仕だと言われていましたので、シモンにはそのような自分の行為を誇ろうとする思いもあったのでしょう。彼は最初から主イエスに敵対心を抱いていたのではありませんでしたが、かといって、主イエスから何か教えを乞うとか、主イエスを救い主と信じたいという願いがあったというのでもなかったようです。

 しかし、そうであったとしても、主イエスはシモンを拒否されませんでした。ファリサイ派のシモンと一緒に食事をされました。主イエスは罪びとたちや貧しい人たちと食事を共にされことが多くありましたが、たとえファリサイ派であっても一緒に食事をされることを嫌ったわけではありませんでした。主イエスはすべての人のための救い主であられ、すべての人を終わりの日の神の国での祝宴にお招きになります。貧しい人であれ、富む人であれ、学識のある人であれ、宗教家であれ、すべての人が主イエスの救いを必要としているからです。ファリサイ派シモンもその例外ではありません。

 ところがその食事の席に一人の婦人が入ってきました。【37~38節】。37節の冒頭には、日本語では訳されてはいませんが、「そして、見よ」という言葉があります。何か重要なことが起こる時とか、注意を促す時に、聖書ではしばしば用いられます。ここでは、全く驚くべきことが起こっているのです。当時の慣習によれば、ユダヤ教の教師たちが集まっている場所に婦人が出入りすることは、慎むべきことでした。ましてや、この婦人はこの町でも名の知れた罪深い婦人と言われていた娼婦でした。みんなに軽蔑され、人前に出るのも恥ずべき婦人でした。その婦人が、当時の常識を破って、ファリサイ派シモンの家に入ってきたのです。何のためでしょうか。なぜ、そのような驚くべき大胆な行動に出たのでしょうか。

 37節に、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席についておられるのを知り」と書かれています。彼女はシモンに会うために彼の家に行ったのではありません。主イエスがその家におられるのを知ったからです。そして、その主イエスこそが、身も心も汚れている罪深い自分を受け入れてくださる方であり、わたしを罪と悲惨の中から救い出してくださる方であり、それゆえにわたしのすべてをささげてお仕えすべき、まことの救い主であることを信じたからです。その信仰が、彼女を常識外れの、驚くべき大胆な行動をとらせているのです。彼女のすべての恥や恐れを取り除いて、人々の冷たい目や非難の声にも妨げられることなく、主イエスに近づき、あのような行動をする勇気を与えたのです。

 いや、それ以上にここで重要なことは、主イエスがこの罪深い婦人を受け入れられ、その奉仕のわざを喜ばれ、彼女の行動が神の大いなる愛と救いのみわざを証しするものであるとお語りになられたことです。この婦人の油注ぎの奉仕が、主イエスの十字架の福音を指し示していることが、ここで語られているのです。

 ファリサイ派の人はもちろん、ユダヤ教の教師や指導的立場にある人であれば、このようないかがわしい罪の婦人を寄せつけることはしないでしょうし、その婦人に自分の足を洗わせたりするはずはないでしょう。シモンはそう考えました。【39節】。位の高い宗教家であれば、このような罪や汚れから注意深く身を遠ざけるべきであると、彼が考えたのは当然でした。

 けれども、主イエスはそうではありませんでした。主イエスは罪ある婦人を受け入れ、その奉仕を喜ばれました。「彼は罪びとの仲間になった」(34節参照)と非難されるほどに、主イエスは罪びとと共に歩まれました。ここにすでに、主イエスの罪のゆるしがあります。罪びとを招き、受け入れるという主イエスのゆるしがあるゆえに、罪ある婦人の主イエスに対する信仰と奉仕があるのです。これが、きょうのみ言葉の最も中心的なメッセージであり、福音なのです。

 そこで、主イエスは一つのたとえを語られます。【41~43節】。このたとえ話には三つのポイントがあります。一つは、二人とも借金をしている負債者だということ、しかも、それを返済する能力がないということ。二つには、ところがその負債の全額を二人とも帳消しにされたということ、あるいは、二人の負債をすべて免除する人がいるということ。三つには、多くの借金を免除された人が多く愛するようになるということ、多くのゆるしが多くの愛を生み出すということ。この三つのポイントについてさらに深く考えていきましょう。

 主イエスが負債者とそれをゆるす人のたとえを語られる場合、マタイ福音書18章の一万タラントの負債をゆるされた人のたとえでもそうであるように、そこでは常に神と人間との関係が考えられています。つまり、人間はみな神に対して大きな負債を負っている罪びとである。神に背き、神との契約を破って、日々に神に対して罪を重ねている負債者である。しかも、だれもその負債を神に返済することができないということが、これらのたとえではまず最初に語られているのです。

 第二には、その人間の負債を神はすべて無条件で免除し、ゆるしてくださった。そのために、神はみ子主イエスをこの世にお遣わしになられた。主イエスの十字架の死によって、すべての負債を、罪を、無条件で、完全にゆるしてくださった。

 第三には、自分の罪を告白し、悔い改めて神に立ち返り、主イエスの十字架の福音を信じて罪ゆるされた信仰者は、自分がゆるされた罪の大きさを知らされ、罪ゆるされた感謝と喜びをもって神を愛し、神に仕える新しい歩みを始める。これが、主イエスが語られたたとえ話の意味なのです。

 44節にこう書かれています。「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。この人を見ないか」。主イエスはシモンにこの罪深い婦人を見るように命じます。罪多く、だれからも顧みられず、見捨てられていたこの婦人、しかし今、主イエスと出会って、主イエスに迎え入れられ、すでに罪ゆるされた信仰者として主イエスに愛の奉仕をしているこの婦人を見るようにと促しておられます。ここにおいて、罪ある婦人の前に立たされているファリサイ派シモンの不信仰が浮き彫りにされます。主イエスを教師・預言者として尊敬し、食事に招待していながら、自らの罪を悔い改めることをせず、主イエスを救い主として受け入れることをしない彼の不信仰が明らかにされます。

 【48~50節】。44節でシモンに「この人を見ないか」と言われた主イエスは、48節ではこの婦人に対して「あなたの罪はゆるされた」と言われました。いずれも主イエスが主語であり、主イエスが語っておられます。主イエスはここではっきりと罪のゆるしの宣言をされました。この家の主人であるシモンではなく、この家に招かれた主イエスこそが、ここではシモンと罪ある婦人の主であられ、すべての人の罪をゆるす権威を持っておられる唯一の、まことの主なのです。

 いつの時点でこの婦人の罪がゆるされたのかという疑問は重要な意味を持ちません。主イエスがシモンの家におられることを彼女が知って、この家に入ってきた時か、主イエスのみ前に涙を流しながらひれ伏した時か、主イエスの足に香油を注いだ時か、あるいは「あなたの罪はゆるされた」と主イエスが宣言された時か、それらのいずれかを特定することは無意味ですし、するべきではありません。主イエスはいつの時点であっても、この婦人の救い主であられ、すべての人の罪をゆるす権威を持っておられる神のみ子だからです。主イエスがいます所にはいつでも罪のゆるしと救いがあるのです。

わたしたちがそのことを信じて、主イエスにすべてをお委ねする時、どのような状況にあっても、罪ゆるされ、救われた信仰者として、平安な道を進むことができるのです。「安心して行きなさい。あなたの道には主イエスが伴っておられます」。このみ言葉を聞きつつ、わたしたちも信仰の道を進むことがゆるされています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、迷いや罪の誘惑の中にあるわたしたちを憐れんでください。救ってください。主イエス・キリストと共に歩む平安へとお導きください。

〇深く病み、痛み、混乱しているこの世界を、主よ、どうか憐れんでください。あなたからの平和と義をお与えください。いやしと平安をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA