5月22日説教「種をまく人のたとえ」

2022年5月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編1編1~6節

    ルカによる福音書8章9~15節

説教題:「種をまく人のたとえ」

 ルカ福音書8章4節以下の「種をまく人のたとえ」の個所を、前回に引き続いて学んでいくことにします。4節から15節までの全体の構造を確認しておきましょう。4~8節では、主イエスがお語りになった「種をまく人のたとえ」、9~10節では、主イエスがたとえを用いて語ることの意味について、11~15節では、主イエスご自身による「種をまく人のたとえ」の解説が語られています。この構造は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)に共通しています。ルカ福音書はマタイ、マルコ福音書よりも半分ほどに短縮されています。

きょうはまず、主イエスが神の国の福音を、たとえを用いて語ることの意味について学びます。【9~10節】。9節の弟子たちの問いに対する主イエスのお答えは、直接には11節に続いています。11節に、「このたとえの意味はこうである」とあるからです。主イエスはたとえの意味を説明される前に、たとえを用いて語ることの意味、あるいはその目的について10節で語っておられます。「種をまく人のたとえ」だけでなく、他のすべてのたとえにもこの原則は適用されます。では、主イエスが神の国の福音を多くのたとえを用いて語るのはなぜなのか。けれども、わたしたちが主イエスのお答えからそのことを理解するのは必ずしも簡単ではないように思われます。

というのは、何かの真理についてより分かりやすく、初心者にも理解できるために、身近かな例やたとえを用いて語る、それがたとえで語ることの意味であり目的であると多くの人は考えます。ところが、主イエスのお答えは違っています。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためであると主イエスは言われるからです。これはどういうことでしょうか。主イエスのお答えには大きな謎が隠されているように思われます。その謎を読み解いていきましょう。

ここで問題となる第一点は、主イエスが十二弟子たちと他の人々とをここで区別していることです。十二弟子たちは主イエスと常に共にいて、神の国の秘密について何度も聞き、それを悟ることが許されているが、群衆はそうではないからたとえで語るのだと主イエスは説明しておられます。しかし、実際にはどうかと言えば、9節で弟子たちは「このたとえはどういう意味か」と質問しています。マルコ福音書4章13節には、「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」という弟子たちに対する主イエスの叱責の言葉が記されています。弟子たちもまた、主イエスの期待に背いて、このたとえを十分に理解してはいなかったことが分かります。主イエスがお語りになった神の国のたとえが大きな謎であるのは、弟子たちにとっても同様であると言えます。

ここで主イエスが十二弟子と群衆とを区別しておられるのは、弟子たちが神の国の福音をより深く理解できるとか、ファリサイ派が考えたように、弟子たちの方が群衆よりも神の国に近い所にいるという理由によるのではありません。むしろ、弟子たちの無理解を強調するためであったと言うべきでしょう。彼らは主イエスに選ばれ、主イエスと常に共にいて、親しく御言葉を聞く機会が与えられていたにもかかわらず、彼らもまた群衆と同じに、神の国の奥義、その秘密を正しく理解することができていなかったのだと言うべきでしょう。

次に、謎の核心に迫りましょう。10節後半のみ言葉は二重かぎかっこで囲まれていて、これが旧約聖書からの引用であることを暗示しています。マタイ福音書13章ではっきりとこれがイザヤ書6章の預言であると明記されています。その個所を読んでみましょう。【13~15節】(24ページ)。イザヤ書のこの預言は、「心をかたくなにするメッセージ」と言われます。イザヤが神のみ言葉を語れば語るほどに、イスラエルの人々は心をかたくなにして、自分たちの罪に気づこうとせず、悔い改めることをしない、そしてついに、神の厳しい裁きを受けて、国は滅び、民は異教の国に捕らわれの身となるということが、イザヤ書では記されています。

そのように、主イエスが神の国の福音について、その奥義・秘密についてたとえを用いてお語りになることによって、だれもがその内容をよく理解し、神の国の福音を受け入れて救われるようになるのかと言えば、そうではなく、むしろそれによって主イエスの説教を聞いた人の目が見えなくされ、その心がかたくなにされ、弟子たちも群衆も、同じように救いから遠い所に立っていることが明らかにされるのだと主イエスは言われるのです。主イエスの説教によって神の国の福音がたとえで分かりやすく語られたとしても、それで神の国の秘密がだれにでも理解でき、信じることができるようになるのではなく、まただれもが救われるようになるというのでもありません。説教の内容が分かりやすいということと、説教を聞いて救われるということは同じではありません。

主イエスがここで問題にしておられることを二つの側面から見ていきましょう。一つは、神の国が今やわたしたちのすぐ近くに到来し、種をまく農夫の所にも、台所に立つ主婦にも、道を歩く旅人にも、すべての人に近づいて来ているということです。主イエスがこの世界の日常的な出来事や行動をたとえに用いて神の国の秘密を語られたことによって、神の国という、地から遠く離れた天の父なる神のご支配が、だれでもが経験し、生きているこの現実に関係づけられ、わたしたち一人一人の現実と密接にかかわる事柄となった、神の国がわたしの身近になった、わたしの生き方に直接かかわる事柄となったのです。今やわたしたちはわたしのすぐ近くに来ている神の国、神の恵みのご支配に対して、態度表明をするべく迫られているということです。

主イエスがたとえで神の国の奥義をお語りになることのもう一つの重要なポイントは、神の国の奥義・秘密を悟ることをしない、あるいはできない、人間の無知と罪と、また悔い改めることをしない人間のかたくなさのことです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われる主イエスの招きのみ言葉を聞いても、それを受け入れず、なおも自分が好む道を進もうとし、罪を悔い改めることをしない人間のかたくなさが、ここでは問題にされているのです。

主イエスがたとえで神の国の福音をお語りになることによって、神の国の福音がわたしの問題、わたしの課題となり、わたしがそれに対してはっきりと態度表明をするように迫られます。その時、神からの一方的な恵みとして差し出される神の国の福音を受け入れるに値しないわたしの罪が明らかにされるのです。神の国の福音を聞くよりも、自分の欲望や傲慢な声に耳を傾けようとしている自分の罪とかたくなさに気づかされるのです。深い罪の自覚と悔い改めなしには、だれも主イエスがお語りになる神の国のたとえを聞くことはできません。

そこで、わたしたちは主イエスがお語りになったこの理由、目的を基準にして、11節以下のたとえの解説を読んでいくことが必要です。前回にも確認したように、このたとえの中心は神のみ言葉の種をまかれる主イエスご自身です。主イエスは天の父なる神のみもとから地に下って来られ、人間のお姿となられてこの世においでになりました。そして、日夜、至る所に神の国の福音を、み言葉の種をまかれます。主イエスの奇跡のみわざを見るために集まってきた人々にも、重い病気で病んでいる人たちにも、きょう一日の生活にあくせくしている人たちにも、宗教的・政治的権威に寄りすがっている人たちにも、主イエスはすべての人に迫り来る神の国について語られ、神の国の福音へとお招きになりました。そのことがたとえの中心点です。

11節からの主イエスの解説では、どちらかと言えば、種をまく人よりはまかれた土地の違いの方に重点が移っているように思われるかもしれません。しかし、それは読む側のわたしたち自身の偏見や差別的価値判断からくる誤った理解なのです。この個所を読んで、わたしたちはすぐにあの人は道端のようだとか、わたしは石地のようだ、この人は茨のようだ、こんな人が良い土地のことだなどと考え、人や自分をその枠に当てはめることをしがちです。そして、ある時には他の人を裁き、またある時には自分を弁護するのです。

しかし、ここで語られている重点はあくまでも種をまく人であり、そしてまかれた種のことです。11節に「種は神の言葉である」と説明されており、12節と13節、14節、そして15節に、「御言葉を聞く」と繰り返されています。種をまく人はあらゆる場所に種をまき、すべての人に神の国の福音を語り、多くの人がそれを聞くことができるようにと働きます。多くの種が芽を出さず、語っても語っても聞かれず、種まきの労苦が無駄に終わるとしても、あるいは、み言葉に対する抵抗や反撃が予想されるとしても、種まきはすべての人にみ言葉の種をまき、神の国の福音を語るのです。

第二に強調されている点は、み言葉の種が持っている生命力です。み言葉の種がこの地にまかれると、そこにある変化が生じます。道端にまかれると、悪魔の激しい攻撃にあいます。石地にまかれると、み言葉のための試練や迫害が起こります。茨の中にまかれると、この世の思い煩いや富の誘惑、欲望が心に入り込み、み言葉に抵抗します。これらはみな、神のみ言葉そのものが持っている偉大な力と生命力によって引き起こされる現象です。神のみ言葉が持つ力と生命力は、この世のものではなく、神から来る力、生命力であるゆえに、この世を支配しているサタンや罪の力、悪しき欲望からの抵抗と攻撃を受けざるを得ません。教会の説教者が語る言葉が、この世のものであるならば、この世から時に歓迎されもし、そのような激しい抵抗や攻撃を受けることはないのかもしれません。しかし、神のみ言葉は罪に支配されているこの世を破壊し、変革していく力を持っていますから、多くの抵抗や反撃を受けざるを得ません。けれども、ついには神のみ言葉の種は良い地に落ち、聞かれ、信じられ、豊かな実りをつけるのです。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。神のみ言葉を語る教会はこのような主イエスの約束を与えられているのです。

ここで教えられる第三の点は、わたしたちはここでもまた自らの罪とかたくなさ、弱さと愚かさによって、何としばしば神の命のみ言葉を無駄にしているかを告白しなければならないということです。神のみ言葉の力と生命力とを信じないために、わたしたちは何としばしば罪の誘惑に屈し、迫害を恐れ、おのれの欲望に敗北してしまっていることでしょうか。み言葉の種をまく務めをおろそかにしていることでしょうか。

 主イエスはこのようなわたしたちのために十字架で死んでくださったことを思い起こすべきです。ヨハネによる福音書12章23、24節で主イエスはこのように言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスはわたしたちの中にみ言葉の種が深く根付くために、わたしたちに豊かな収穫を得させるために、そしてまた、わたしたちがみ言葉の種をまく務めを大胆に果たしていくことができるために、十字架で死んでくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。そのみ言葉によって生きる者としてください。どうか、全世界のすべての人が、朽ちるパンのために生きるのではなく、あなたの命のみ言葉によってまことの命を生きる者たちとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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