11月27日説教「福音がエルサレムからサマリアへ」

2022年11月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    使徒言行録8章4~13節

説教題:「福音がエルサレムからサマリアへ」

 エルサレム初代教会は誕生して間もなくから繰り返してユダヤ人からの迫害を受けましたが、ついに最初の殉教者を出すに至ったということが、使徒言行録7章の終わりに書かれています。エルサレム教会の7人の奉仕者として選ばれた中心人物であったステファノの殉教は、誕生して間もないエルサレム教会にとっては大きな衝撃であり、また打撃であったことは言うまでもないことですが、それにとどまらず、その同じ日に、教会に対する大迫害が起こったと8章1節に書かれています。12人の使徒たち以外の多くのユダヤ人の教会員がエルサレム市内から追放されるという大きな困難が教会の試練と苦難に追い打ちをかけるようになったのです。それは、エルサレム教会の存亡の危機と言ってよいでしょう。

 けれども、神はこのような教会の大きな危機の時を、何と、教会の大きな発展の時に変えてくださったということを、わたしたちはすぐに続けて読むことができるのです。【4~5節】。迫害によってエルサレムから散らされていった信徒たちは、恐れて身を隠すようなことはしませんでした。彼らは主イエスによって立てられた「地の塩、世の光」として、主イエスとその福音の証し人であることを止めませんでした。主イエスが天に上げられる直前にお命じになった使徒言行録1章8節のみ言葉に忠実に従ったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この主イエスのみ言葉が、エルサレム教会を襲った大迫害を契機として成就されていくのです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決して繋がれることはありません。神のみ言葉に生きるキリスト者もまた、この世のいかなる鎖にもつながれることはありません。

 エルサレムから追放された信徒たちは、町々村々を巡り歩きながら各地に主イエスの福音を宣べ伝えましたが、使徒言行録8章ではこの後、その一人であるフィリポの働きについて報告しています。フィリポは6章に書かれてあったようにエルサレム教会の奉仕者として選挙された7人の一人です。6章5節では、殉教したステファノの次にその名が挙げられています。

 フィリポはサマリアの町に降って行ったと書かれています。サマリアはエルサレムの北、主イエスの故郷であるガリラヤの南に位置しますが、エルサレムの都からは降るという言い方をします。当時の信仰深いユダヤ人はエルサレムからガリラヤへ降る際には、サマリア地方をまっすぐに通り抜ける道を選ばずに、ヨルダン川の東側を迂回して行くのが普通でした。と言うのは、サマリアにはユダヤ人以外の民族がたくさん移り住んでおり、伝統的なユダヤの民族的な伝統も信仰も失われてしまっていたために、サマリアは異邦人の地、宗教的に汚れた地と考えられていたからです。

 その事情について少し説明しておきましょう。ユダヤ人とサマリア人との民族的・宗教的対立は、紀元前922年にイスラエル王国が南北に分裂した時にさかのぼります。そして、紀元前721年に北王国イスラエルが(その首都はサマリアでしたが)アッシリア帝国に滅ぼされ、アッシリアはその地に外国人を移住させるという占領政策をとったために、サマリア地方には他国の文化と宗教が入り込むようになったという次第です。その後も、長い間ユダヤ人とサマリア人との対立は続き、深まっていきました。ルカによる福音書10章で主イエスが語られた「親切なサマリア人のたとえ」はそのような歴史を背景にしています。

 迫害によって散らされていったフィリポがサマリアの人々に主イエスの福音を宣べ伝えたことによって、ユダヤ人とサマリア人の間の幾世紀にもわたる深い対立と分裂が、いま乗り越えられたということを、わたしたちは知らされるのです。しかも、そのことが、エルサレム教会を襲った大きな試練と災いという出来事をとおして実現されることになったのです。これは、まことに奇しき神のみわざ、神の奇跡というほかありません。神の救いのご計画はこの世にあるあらゆる抵抗や攻撃にもかかわらず進められていきます。いや、むしろ、神はそれらをお用いになって、人間の予想に反して、ご自身の永遠の救いのご計画を成就されるのです。主イエス・キリストの福音は、あらゆる民族的・宗教的対立の壁を突き破って、全世界のすべての民に宣べ伝えられていきます。なぜならば、主イエス・キリストの福音はゆるしと和解の福音であるからです。神が主イエスの十字架の福音によって、すべての人間の罪を取り除き、神と人間とを隔てていた罪という壁を、また人間と人間との間にあった罪という壁を取り除き、神と人間とを和解させ、人間と人間とを和解させてくださったからです。フィリポはこの和解の福音を携えてサマリアへ散らされていったのです。この和解の福音は、すべての時代の、すべての教会にも託されています。

 エルサレム教会に対する大迫害をきっかけにして散らされていったフィリポをはじめとした使徒たちの伝道活動を、きょうの個所ではいくつかの違った表現で語られています。4節では「福音を告げ知らせる」、5節では「キリストを宣べ伝える」、12節では「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせる」とあります。フィリポが語った説教の内容については具体的に記されてはいませんが、これらの表現から、その内容が推測されます。

 フィリポがサマリアの人々に語った説教の内容は、第一には、神のみ言葉、神の福音であったということが分かります。この世の知恵ではありません。ユダヤ教の律法の解説でもありません。天の神から語られる神の言葉、天の神から与えられる喜ばしいおとずれであり、地にある悲しみや痛み、恐れや不安を取り除く天の神から与えられる福音です。朽ちるこの世の命ではなく、永遠の命を与える神の言葉です。異邦人の地としてユダヤ人からはさげすまされていたサマリアの人々は、今やこの福音によって生きる道へと招かれているのです。

 第二には、主イエスの十字架と復活によって、すべて信じる人は罪と死と滅びから救い出され、永遠の命の約束を受け取ることで許されるという福音をフィリポは語りました。すべてのユダヤ人、すべての人は律法を行うことによってではなく、この福音を信じる信仰によって救われるという福音です。

 第三には、神の愛と恵みのご支配の時が始まり、神の国が到来しているという福音です。主イエスが最初にガリラヤで宣教活動を始められた時に語られたみ言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、この説教をフィリポもまた語ったのです。

 そして、彼が語った福音にはしるしが伴っていました。そのことが6節以下に書かれています。【6~8節】。福音書に書かれている主イエスのいやしの奇跡がそうであるように、フィリポが行った汚れた霊からの解放や病める人のいやしは、主イエス・キリストの福音による罪のゆるしの目に見えるしるしであり、神の国が到来したことの目に見えるしるしです。

サマリアの町に大きな喜びがあったと書かれています。ユダヤ人からは異邦人と言われ、辱めを受けていたサマリアの町、憎しみや敵意が満ちていたサマリアの町に、今や主イエス・キリストの福音によって与えられる喜びが満ちています。主イエス・キリストの十字架の福音が長い間の民族的・宗教的対立と憎しみに勝利したのです。

 主イエス・キリストの福音の勝利は次の9節以下にも語られています。【9~13節】。ここでは、主イエス・キリストの福音が魔術師シモンの魔術に勝利したことが語られています。サマリアにはさまざまな異国人が住んでいたために、さまざまな宗教がはびこっていました。その中でも、特に魔術師シモンは長年にわたってその驚くべき魔術を行って、人々の関心を集めていました。彼自身もまた自らを神のような偉大な者だと自称し、多くの信奉者を集めていました。子どもから大人まで、あらゆる年代の人々が彼の周りに群がっていました。

 人は目に見える物や感覚でとらえられるものにはすぐに関心を示します。人間の能力を超えた不思議なわざとか、いわゆる超能力とか、だれもが驚くような魔術、あるいは現実的な利益を約束する言葉などには、だれもが飛びつきます。けれども、それらはいずれも、人間の能力をいくらかは越えてはいても、人間のわざであり、本当に人間を救うことはできません。魂の平安を与えることはできません。なぜなら、それらはいずれもやがては朽ち果てるしかない人間から出たものであるからです。

 魔術師シモンは自分の優れた能力や人を驚かせるような魔術によって、自らを神の位置に高めようとしてしていましたが、しかしそれはいずれにしても人間から出たものに過ぎません。神から出たものではありません。人間が創り出した偶像は、人間に好まれるものではあっても、人間を根本から造り変えることはできません。人間を罪の支配から救うことはできません。

 それに対して、フィリポが語った神の国と主イエス・キリストの福音は、永遠なる神、全能なる神から与えられた命の言葉であり、人間の罪を打ち砕き、人間を新たに造り変え、新しい神の国の民とする命の言葉です。天におられる神が地に住むわたしたち人間を罪と死から救うために、ご自身が地に下って来られることによって成し遂げてくださった救いの福音です。

 サマリアの人々はフィリポの説教を聞いて、ここにこそ真実の救いがあると悟り、主イエス・キリストの福音を信じ、洗礼を受けました、魔術師シモンもまた信じて洗礼を受けたと書かれています。シモンとサマリアの人々は罪の支配から解放されました。異教の魔術からも解放されました。彼らは主イエス・キリストのものとなれました。神の国の民とされました。神の愛と恵みのご支配のもとに移されました。

 わたしたちもまた主イエス・キリストの十字架の福音によって罪から救われ、この世のさまざまな偶像から解放され、神の国に生きる自由へと招き入れられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、この世はわたしたちの目を惑わす多くの偶像や罪の誘惑に満ちています。わたしたちは愚かで弱い者であり、たちまちにしてそれらに目や心を奪われてしまいます。神よ、どうか弱いわたしたちをお守りください。あなたのみ言葉によって武装させ、主キリストの福音によって、それらと戦う知恵と力とをお与えください。

○神さま、病んでいる人、弱っている人、道に迷っている人、試練の中にある人、孤独な人を、どうぞ顧みてください。主キリストにあって、平安と慰めと希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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