2月5日説教「主キリストにあって義と認められる」

2023年2月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

            『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解⑲

聖 書:創世記15章1~6節

    ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

説教題:「主キリストにあって義と認められる」

 

 『日本キリスト教会信仰の告白』の第二段落は、「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」と告白されています。この告白は、16世紀の宗教改革の伝統を受け継ぐわたしたちプロテスタント教会の信仰の中心であるといってよいでしょう。きょうは、「キリストにあって義と認められ」の箇所について、『信仰告白』のもとになっている聖書のみ言葉を読みながら学んでいきます。

この個所は、すぐ前の「この救いの御業を信じる人はみな」という告白と合わせて、「信仰義認」と言われる、宗教改革が強調した教理を告白しています。つまり、主イエス・キリストの十字架による救いという福音を信じる人は、その信仰によって、神に義と認められ、罪なしとされ、罪から救われるというのが、わたしたちプロテスタント教会の信仰の中心です。

「信仰義認」という教理は、宗教改革者たちが初めて発明した教理ではありません。それは旧約聖書時代から証しされ、新約聖書の中で主イエス・キリストによって成就された、聖書全体の中心的な教理、教えであり、宗教改革者たちはそれを再発見したのです。したがって、「信仰義認」について教えているみ言葉は、旧約聖書にも新約聖書にも数多く見いだすことができますが、その代表的な個所を新約聖書から挙げてみましょう。

まず、きょうの礼拝で朗読されたガラテヤの信徒への手紙2章15節以下です。【16節】(344ページ)。ローマの信徒への手紙3章21節以下もその代表的な一つです。【22~24節】(277ページ)。このほかにも「信仰義認」の教理を証しする聖句は、新約聖書に数多くあります。ヨハネによる福音書3章16節のよく知られている聖句もそれに加えることができるでしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

「信仰義認」の教えは主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしたちに与えられた救いの恵みを言い表す教理ですが、すでに旧約聖書の中にも暗示され、約束されています。創世記15章のアブラハムの信仰について、6節ではこのように書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。また、パウロがローマの信徒への手紙1章17節で引用したハバクク書2章4節には、『口語訳聖書』の翻訳では、「義人はその信仰によって生きる」と書かれています。

以上のように、旧約聖書・新約聖書の主な個所を一読しただけでも、「信仰義認」という教理が間違いなく確かな聖書の教えであり、しかも中心的な教えであることが明らかです。しかし、この教理は中世のローマカットリック教会では見失われていました。16世紀の宗教改革がそれを再発見したのです。

M・ルターから始まった宗教改革を特徴づける標語が3つあります。一つは「聖書のみ」、二つは「信仰のみ」、三つは「万人祭司」。この2番目の「信仰のみ」とは、別の側面から言えば「神の恵みのみ」ということですが、わたしたち人間はすべて生まれながらにして罪びとであり、だれも自分で自分を救うことができず、ただ主・イエスキリストの十字架の福音を信じる信仰によってのみ、すなわち、主イエスがわたしのために十字架で死んでくださり、ご自身の尊い命をわたしの罪の贖いの供え物としておささげくださった、その福音をわたしが信じることにより、ただその信仰によってのみ、神から一方的に差し出される恵みによって、わたしは神のみ前で義とされ、罪ゆるされた者とされ、救われるという、「信仰義認」の教理、それが「信仰のみ」「神の恵みのみ」です。

宗教改革者ルターが「信仰のみ」「神の恵みのみ」を強調したのは、当時のローマカトリック教会が、人が救われるには信仰だけでなく、人間の愛の業も必要だという考えに基づいて、免償符なるものを発買し(これは一般的には免罪符と言われますが)、救いをお金で買い取ることができるような安っぽいものにしてしまった、そのような堕落した教会を改革するために、改めて聖書を読み返した結果、聖書から再発見した真理、それが「信仰のみ」によって救われるという、「信仰義認」の教理だったのです。

先ほど読んだガラテヤの信徒への手紙2章16節では、「ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」とあり、「ただ」という言葉が用いられていますが、この個所を直訳すると、「イエス・キリストを信じる信仰による以外によっては、人は義とされない」という文章であり、イエス・キリストを信じる信仰がここでは強調されているので、日本語訳では「ただ」という言葉を補って「ただイエス・キリストを信じる信仰によって」と翻訳しています。

では、聖書が書かれた時代、パウロが「信仰のみ」という言葉で強調しなければならなかった、彼が対決していた相手、つまり誤った理解とはどのようなものだったのでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙2章16節では、「律法の実行によってではなく」という言葉が3回も繰り返されていることからも明らかなように、それは、ユダヤ教の律法主義者たちであり、また彼らに影響されて教会内にも律法主義的信仰を持ち込もうとしていた偽りの教師たちでした。彼らは主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰だけでなく、旧約聖書の律法の行いもまた救いには必要だと教えていました。

それに対してパウロは、旧約聖書の中にすでにアブラハムの信仰による義認が書かれており、またハバクク書にはわざによってではなく、「信仰によって義人は生きる」と書かれていることを取り上げながら、だれも律法を行うことによっては神のみ前で義とされることはない、いや、そもそも、だれも神の律法を完全に実行できない罪びとなのだということを強調したのです。それゆえに、わたしたち罪びとである人間は自らの中に救いの可能性を全く持っていない。ただ、神の裁きと滅びにしか値しない者なのだ。しかし、そうでありながら、そのようなわたしたち罪びとたちのために、ご自身がわたしたちの罪を代わって負われ、罪と戦って苦しまれ、わたしたちに代わって父なる神の裁きをお受けになった神のみ子、主イエス・キリストの十字架の死と、その死に至るまでの完全な従順によって、神に義とされた主キリストの義のゆえに、その主イエス・キリストの十字架の福音を信じる者を、神は義と認め、その罪をゆるされ、救われるのだということをパウロは語ったのです。

パウロのこのような正しい信仰を守るための戦いは、16世紀の宗教改革者たちの戦いでもありました。では、宗教改革の際に再発見され、また日本キリスト教会の特色でもある「信仰義認」という教理は、どのように理解され、信じられるべきなのかということを、さらに具体的に学んでいくことにしましょう。

「義」という言葉は 元来法廷用語であったと考えられています。罪ありとして法廷に訴えられ、裁判を受けた被告人に対して、裁判官が「あなたには罪がない、義である、正しい」と、無罪を宣告することを意味しています。

その言葉が、旧約聖書と新約聖書の中で用いられるようになって、新たな意味がつけ加えられました。その一つは、義はこの世の法廷ではなく、神の法廷での神の判決であるということ、もう一つは、神との関係において、神のみ前で義である、正しいという意味です。義とは関係概念であるとも言われます。神の義と言えば、神ご自身が義なるお方である、正しい公平な方であると同時に、神はご自身がお選びになったイスラエルの民と義なる関係を築いてくださるという意味があります。

ローマの信徒への手紙3章25~26節、先ほど読んだ続きの箇所ですが、そこには神の義のこのような二つの側面が語られています。【25~26節】(277ページ)。神はご自身が義なる正しい裁き主であるにもかかわらず、わたしたち罪びとが受けるべき当然の有罪判決を下されるのではなく、ご自身のみ子であられる主イエス・キリストをわたしたちの罪を償う供え物としておささげくださることによって、わたしたちの罪をおゆるしくださいました。ご自身の独り子さえも惜しまれずにわたしたちの罪を贖うために十字架の死におささげくださった神の大きな愛、それによってわたしたちの罪を無条件でゆるし、わたしたちを無罪としてくださることによって、神はご自身の義をお示しくださったのです。そして、この主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰者を義としてくださるのです。

もう一人の宗教改革者であるカルヴァンは、義認ということを別の言葉で言い表しています。「キリストの義を(衣服を着るように)わたしの上に着る」とか「キリストの義がわたしたちのものであるかのごとくに、わたしたちに帰せられる」、あるいは「キリストの義が、価なしに、わたしたちの義に転嫁される」とカルヴァンは言います。これらは、パウロが聖書の中で「キリストにあって」と言い表していたことの具体的な説明と言ってよいでしょう。

主キリストにあって義とされるとは、主イエス・キリストご自身が十字架の死で成就された義を、主キリストご自身の義を、わたしに着せられるということ、すなわちわたしの罪という存在の上に主キリストの義の衣が着せられ、それによってわたしの罪が覆い隠され、わたしの中には義のひとかけらもないのに、主イエス・キリストの十字架と復活によってかち取られた義を、あたかもわたしのものであるかのようにみなしてくださる。主キリストが父なる神に対して成し遂げられた義をあたかもわたしのものであるかのように、わたしに転嫁される、そのことを信じるときに、その信仰によってわたしたちは神のみ前に義と認められ、罪ゆるされ、救われるのです。主キリストご自身の義がわたしに無償で贈与され、主キリストの義がわたしの義に数えられる、そのことを信じ、感謝と喜びとをもって受け入れる、それが「信仰義認」です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、義であり真実であられるあなたのみ前では、死と滅びにしか値しない罪多いわたしたちを、あなたのみ子の十字架の御血潮によって、罪を贖い、あなたの愛と憐みによって義としてくださいました恵みと幸いを心から感謝いたします。願わくは、わたしたちが絶えずあなたのみ言葉に聞き従い、あなたがお示しくださる信仰の道を迷うことなく歩むことができますようにお導きください。あなたが天に備えておられる、朽ちず、汚れず、しぼむことのない財産を受け継ぐものとしてください。

○あなたが主キリストの御体としてお建てくださったこの教会を顧みてください。多くの欠けや弱さを持っている貧しい群ですが、あなたがここに集められている一人一人を豊かに祝福し、その信仰を強め、導いてください。

○また、あなたによって創造されたこの世界を顧みてください。争いや分断、貧困や病、不安や恐れの中にあって苦しんでいるすべての人々を慰め、励まし、真実の救いをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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