2月19日説教「この人はいったいだれだろう」

2023年2月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:マラキ書3章19~24節

    ルカによる福音書9章7~9節

説教題:「この人はいったいだれだろう」

 ルカによる福音書9章1~6節では、主イエスが12人の弟子たちを呼び集め、特別な賜物を授けたうえで、神の国の福音を宣べ伝えるためにこの世へと派遣されたことが記されています。10節で、彼らが帰ってきて、主イエスに自分たちの働きを報告したことが書かれています。きょうの礼拝で朗読された7~9節は、その間に挟まれていて、弟子たちが派遣されたこの世、当時のイスラエルがどのような状況であったのかを報告しています。紀元30年代のガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのこと、またそのころの人々が主イエスをどのように見ていたのかについて書かれています。弟子たちはこのような世界へ、神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されていくのです。その中で、主イエスこそが、神がイスラエルの民に約束されたメシア・救い主であられ、イスラエルと全世界の唯一のメシア・救い主であられ、世界のもろもろの王たちの上に君臨しておられ、来るべき神の国の永遠の王であられることを証しするために彼らは派遣されていくのです。

 【7~8節】。領主ヘロデの正式な名前はヘロデ・アンティパスと言い、主イエスが誕生された時のユダヤ全土の王ヘロデ大王の3人の息子の一人です。ヘロデ大王は紀元前37年から紀元前4年まで、ローマ帝国の支配のもとでユダヤ全土を統治していたことが記録から明らかになりました。ちなみに、主イエスの誕生をのちになって紀元1年と定めた、いわゆる西暦が世界の暦として今日採用されていますが、マタイ福音書1章に書かれているように、主イエスがユダヤ人の王としてお生まれになったという学者たちの話を聞いたヘロデ大王が、自分の王としての地位が危険にさらされていることを恐れて、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子をみな殺しにせよとの命令を下したという話をわたしたちは聞いています。このマタイ福音書の記録から判断すると、主イエスの誕生は紀元前4年よりは前ということになります。

 そのヘロデ大王はユダヤ・イスラエルの政治的・宗教的権力の一切を掌握する独裁者であり、マタイ福音書1章の幼児虐殺命令からもわかるように、残忍で、猜疑心の強い人物であったと伝えられています。彼の死後、ユダヤは4分割にされ、彼の3人の息子たちとヘロデの妹サロメがそれぞれの領主として治めることになりました。ヘロデ・アンティパスはガリラヤ地方とヨルダン川東側のペレア地方の領主となりました。彼は父ほどには残虐ではないと言われますが、権力欲や独占欲が強く、自分の異母兄弟であるフィリポの妻ヘロディアを奪い取って自分の妻にし、それが旧約聖書の律法で禁じられていた近親結婚であり、姦淫の罪に当たるとして、洗礼者ヨハネの非難を受けることになりました。そのことで洗礼者ヨハネを憎み、彼を捕らえて処刑しました。そのことについては、マタイ福音書14章に詳しく書かれています。

 7節で、「ヨハネが死者の中から生き返った」と言われていたのはそのことを指しています。マタイ福音書14章2節には、ヘロデ・アンティパス自身が主イエスの評判を聞いて、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼の働いている」と言って、主イエスを恐れていたことが書かれています。そのヘロデ・アンティパスが主イエスの活動や弟子たちが各地に派遣されたことなどを知って、「戸惑っている」と書かれています。父ヘロデ大王がそうであったように、その子アンティパスも主イエスを恐れています。ヘロデ大王は、まだ生まれたばかりの幼子主イエスを恐れ、自分の王位が奪われるかもしれないとの恐怖心から、幼児虐殺命令を出しましたが、その子アンティパスは主イエスの活動とその福音が自分の領土に広がっていくことに不安と恐れを感じ、自分が首をはねた洗礼者ヨハネが生き返ったのだと、自分の過去の処刑命令におびえているのです。

 このように、この世の支配者たちは多かれ少なかれ、自らの権力の座にしがみつこうとして、自分が支配しているはずの民衆を恐れ、本来怖れるには値しないものを恐れて、不安を募らせるほかありません。主なる神を恐れない支配者は、みなこのようにして恐れるに値しないものを恐れるほかありません。しかしながら、主イエスを信じるキリスト者は、神以外のものを恐れる必要はありません。主なる神こそが、全世界の唯一の全能の支配者、まことの神、すべてのものの上にいます唯一の主であられます。しかも、この神は全人類を罪と死と滅びとから救い出すために、ご自身のみ子を十字架に犠牲としておささげくださるほどにわたしたちを愛された神であられるのです。わたしたちはこの神をこそ恐れ、この神にこそ従うべきです。それゆえに主イエスの弟子たちは、またわたしたちもまた、この世のいかなるものをも恐れることなく、主イエスの福音を携えて、この世へと派遣されていくのです。

 8節のエリヤは、旧約聖書列王記上17章以下に登場してくる、イスラエルの預言者活動初期のころの預言者です。紀元前9世紀半ばに北王国イスラエルで活動した預言者です。彼はカナン地方の異教の神バアルの預言者たちと戦い、イスラエルの主なる神の勝利を証ししました。彼は彼の後継者である預言者エリシャの目の前で嵐の中を天に引き上げられたと列王記下2章に書かれていることから、のちの人々は神がイスラエルの救いを完成される時にエリヤを再び地に派遣されるであろうと信じました。マラキ書3章23~24節に(これは旧約聖書の最後のページになりますが)、このように預言されています。「見よ、わたしは大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。新約聖書では洗礼者ヨハネが来るべきメシアに備えてこのエリヤの務めを果たしたのだと証していますが、人々はまだ主イエスがそのメシア・救い主だとは気づいていませんでしたから、もしかしたら主イエスがエリヤの再来ではないかと考えていました。

 「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と考える人もいました。主イエスの時代のイスラエルには、このような復活信仰を持つ多くの敬虔なユダヤ人がいたことが知られています。イスラエルの民は長い間苦難の歴史を歩んできましたので、その中で復活信仰は芽生えたのではないかと考えられています。迫害によって殺された預言者たちや、死に至るまで熱心な信仰を持ち続けて殉教していった信仰者を、神は決してお見捨てにはならない。ご自身の救いが完成される終わりの日には、神は彼らをよみがえらせてくださるに違いないという信仰が芽生えていったのではないかと推測されています。

 ヘロデ・アンティパスが主イエスの活動とその福音宣教の働きに戸惑いを覚えたり、当時の人々が主イエスを旧約聖書時代の預言者の再来ではないかと考えたということは、主イエスの登場とそのお働きが確かに多くの人々に大きな衝撃を与えていた、そこには何か神の偉大なみ力が働いていることを感じさせていたということを、わたしたちは確認することができます。けれども、それらは主イエスに対する正しい信仰告白ではありませんし、正しい復活信仰でもありません。彼らの主イエスに対する評価は、人々の驚きや期待ではあっても、いまだそれらは真実の信仰ではありません。主イエスこそが旧約聖書で預言されていた来るべきメシア・救い主であり、人間の罪とに完全に勝利される、十字架と復活の主であり、神の国の永遠の王であるという信仰告白には至っていません。

 わたしたちが信じ、告白しているように、主イエスは罪のない神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとが受けるべき神の裁きをお受けになり、苦難の道を歩まれました。父なる神のみ前で従順な僕として、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に服従され、それによって父なる神のみ前で義と認められ、完全な罪の贖いを成し遂げられたのです。そして三日目に復活して、ご自身が罪と死とに勝利され、信じるすべての信仰者に永遠の命の保証をお与えくださったのです。これがわたしたちの復活信仰であり、これがわたしたちの救いです。わたしたちはこの福音を携えて、この世へと派遣されていくのです。

 【9節】。ここに、マタイ福音書14章2節とは別のヘロデ・アンティパスの言葉が引用されています。いずれも主イエスに対する驚きと恐れを言い表しています。洗礼者ヨハネの首をはねたという彼の過去の行為に多少の良心のとがめを感じていたのであろうと思われますが、その彼の悪と罪を気づかせているのが主イエスとその福音なのです。主イエスとその福音は、人間の中に潜んでいる罪を気づかせます。そして、わたしたちに決断を迫ります。「あなたは主イエスを何者と言うのか。主イエスはあなたにとって何者かのか。あなたは主イエスの存在とその福音を受け入れるのか、それとも拒否するのか」という決断を迫るのです。ヘロデ・アンティパスがその問いかけに真剣に答えるには、彼が今固執している権力の座から降りてこなければなりません。ただ、遠くから耳に入るうわさとして聞くのではなく、自分に語りかけられる主イエスの招きの言葉として聞かなければなりません。

 「イエスに会ってみたい」との彼の願いは、期せずして主イエスの裁判の席で実現することになります。ルカ福音書23章6節以下にその時のことが書かれています。しかし、その時にも彼は自分の権力の座から降りてはきませんでした。それゆえに、主イエスとの真実の出会いも起こりませんでした。

 「この人はいったい何者だろう」。わたしたちも常にこの問いの前に立たされています。この問いに対して信仰告白するように常に迫られています。自分が固執している自分の立場や権利、知恵や力、富や名誉のすべてを捨てて、主イエスのみ前に謙遜になり、「主よ、あなたこそが、ただあなただけが、わたしの唯一の救い主、わたしのすべてをささげてお仕えするべき唯一の主です」と告白するようにと招かれています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはこの世にあるさまざまなものを恐れています。それによって不安になったり、希望を失ったりします。しかしどうか、恐れるべきはただお一人、主イエス・キリストの父なる神であられるあなたのみであることを信じさせてください。その信仰によって、どのような困難な時、試練の時にも、暗く寂しい道をも、希望と喜び抱いて歩ませてください。

〇主なる神よ、重荷を負っている人、病んでいる人、孤独な人、すべてあなたの助けを必要としている人に、あなたがその近くにいてくださり、慰めと励ましを与えてくださり、必要なものを備えてくださいますように。

エス・キリストのみ名によって。アーメン。

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