4月16日説教「神の子とされる」

2023年4月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(22)

聖 書:ホセア書11章1~4節

    ヨハネの手紙一3章1~10節

説教題:「神の子とされる」

 日本キリスト教会秋田教会は、1934年(昭和9年)4月15日(日)に教会建設式と教師紺野瀧一郎の牧師就職式を行いました。今年は教会建設から89年を迎えます。これまでの神のお導きに感謝いたします。当時の東北中会では、数年前から「自給十年計画」が実施され、外国ミッションからの経済的自立を目指して、自給独立の教会建設に励んでいました。

 その後、秋田教会は戦時中に日本基督教団に合同しましたが、1951年(昭和26年)5月20日(日)の秋田教会臨時総会で日本キリスト教会に加入することを決議しました。今わたしたちが学んでいる『日本キリスト教会信仰の告白』は1953年10月に開催された日本キリスト教会第3回大会で制定されました。

 『日本キリスト教会信仰の告白』の第二段落の最初の文章を読んでみましょう。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。ここでは、16世紀の宗教改革が明らかにした「信仰義認」の教理と、わたしたちの教会が属する改革教会の神学で強調される「選び」の教理が告白されています。この二つ、「信仰義認」と「選び」の教理に共通している重要なポイントは、わたしたちの信仰と救いの根拠、あるいは根源、土台、出発点は、わたしたち人間の側にあるのではなく、徹底して主なる神の側にあるということです。またそれゆえに、わたしたちの信仰と救いの確かさもまた徹底して神の側にあるということです。この文章の主語は「信じる人はみな」ですが、「信仰義認」と「選び」の主語は主なる神です。そのことを今一度確認しておくことが重要です。

 わたしがいくつかの宗教の中からキリスト教を選び、主イエス・キリストを信じる決断をして信仰の道に入ったというのではなく、わたしがそう決断するよりもはるか前に、神がこの取るに足りない罪びとであるわたしを、特別な愛をもって選んでくださり、捕らえてくださって、主イエス・キリストによる救いの道へと導いてくださったのだ。これがわたしたちの信仰です。また、そうであるゆえに、わたしの信仰の確かさ、わたしの救いの確かさもまた、わたし自身の中にあるのではなく、わたしを選び、愛してくださった神の側にあるのであって、わたしの信仰も救いも主なる神によって守られ、導かれているのだということです。

 わたしはその神の選びと信仰義認とを感謝をもって信じ、受け入れることによって、神がみ子主イエス・キリストの十字架と復活でなしてくださった救いのみわざが、わたしのための救いのみわざとなるのです。宗教改革者カルヴァンの表現によれば、主イエス・キリストの救いと義がわたしに分かち与えられ、わたしに転嫁され、あたかも罪びとであるわたしの上に主イエス・キリストの義という衣が着せられるようにして、わたしの罪がおおい隠され、主キリストの義と救いにわたし全体が包まれ、おおわれるのです。ここに、わたしの救いと義の確かさがあるのです。

 神の選びと信仰義認の教理の終わりに、その最終的な結果として、「神の子とされる」と告白されています。きょうはこの告白について詳しく学んでいきます。「神の子とされる」の「される」は文法的には受動態です。この文章の主語が、前にも確認しましたように、「信じる人はみな」ですから、「その人はみな神の子とされる」と受動態で表現されているわけです。意味上の主語はもちろん神です。神が信じる人をみな「神の子」としてくださるという意味です。つまり、わたしたち人間が「神の子」とされるということです。人間が「神の子」にされる、これはどういうことを意味するのでしょうか。

 まず、「神の子」という言葉が聖書の中でどのように用いられているかをみていきましょう。旧約聖書では、イスラエルの民や王、預言者を、あるいは人間を「神の子、神の長子、神の子たち」と表現している箇所は、実は、ほとんどありません。ただ1箇所、ホセア書2章1節に「彼らは……生ける神の子らと言われるようになる」と書かれているだけです。神がイスラエルを「わたしの子、わたしの長子、わたしの子どもたち」と呼ぶ箇所は多数あります。また、イスラエルの民や王、預言者を「神の僕(しもべ)」と表現している箇所もたくさんありますが、「神の子」という表現は、注意深く避けられているように思われます。

 その理由を、今日の研究者は、旧約聖書ではイスラエルの民や人間を「神の子」と表現することによって、人間が神と同じ位置に置かれることを警戒したからではないかと考えています。というのは、そもそも最初に創造された人間アダムとエヴァが神と同じ者になろうとしたことが罪の始まりであったからです。人間が神の戒めを聞き、神に服従して生きるべきであるのに、自らが善悪の判断をし、神のようにすべてを知ろうとして、禁じられていた木の実を食べたことが、人間の最初の罪、原罪であったからです。しかし、人間は決して神ではなく、神にはなれない。そうであるのに、人間はいつでも自ら神のようになろうとし、神のごとくにふるまおうとして罪を犯す。その罪の危険と誤解とを避けるために、「神の子」という表現を用いることに消極的だったのではないかと考えられています。

 「神の子」と言う表現は避けられていますが、神ご自身がイスラエルの民を「わたしの愛する子、わたしの大切な長子」と呼びかける例は、数多くあります。最も頻繁に出てくるのは出エジプト記です。神はエジプトの地で長く奴隷の民であったイスラエルを、「わたしの子どもたち」と呼びかけ、「わたしはわたしの愛する子どもたちを、エジプトの奴隷の家から贖いだし、解放し、わたしの民とする」と言われました。イスラエルはエジプトの王ファラオのものではなく、主なる神のものであり、神が選んだ、神の宝の民とされたのです。

 ここにおいても、イスラエルの民が最初から「神の子」だったのではなく、かつては奴隷の民であり、小さな弱い民であったにもかかわらず、神がイスラエルをお選びになり、神がこの民を愛されてご自身の契約の民とされたがゆえに、イスラエルは「神の子」とされたということが強調されているのです。

 きょうの礼拝で朗読されたホセア書11章1節では、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」と言われています。イスラエルが「わが子」すなわち「神の子」と呼ばれるのは、神の選びと大きな愛があったからです。それによって、イスラエルは「神の子」とされたのです。

 次に、新約聖書では、信仰者、キリスト者が「神の子」と呼ばれている箇所が少なからずあります。ヨハネの手紙一3章1節を読みましょう。【1節】。わたしたち人間はみなかつては罪びとでした。罪に支配されていた罪の子たちでした。それが今や「神の子と呼ばれるほどに」されているのです。それは、何という驚きでしょうか。そう呼ばれるようになるために、何という大きな愛を父なる神から賜ったことか、それをよく考えてほしいとヨハネの手紙は訴えているのです。その神の大きな愛とは、ヨハネによる福音書3章16節のみ言葉によれば、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれているような神の愛であり、またローマの信徒への手紙8章32節によれば、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われている神の偉大な愛のことです。その神の愛によってこそ、わたしたちは「神の子」とされたのです。

 ヨハネの手紙一4章7節以下で、この神の愛についてさらにこのように語られています。【7~10節】。この神の愛によって、わたしたちは罪の子であった者たちが「神の子」とされているのです。

7節に、「神から生まれ」とあります。ヨハネ福音書とヨハネの手紙にはキリスト者が「神から生まれた」とか「神によって生まれた」という表現が何度か用いられています。でも、この表現には注意が必要です。というのは、神から生まれた神のみ子は主イエスただお一人だからです。正確に表現すれば、キリスト者は 神の愛によって生まれた者です。キリスト教教理では神の独り子なる主イエスがただお一人神からお生まれになった神のみ子であるのと区別して、キリスト者は神の養子とされたと言い表しました。あるいは、子たる身分を授けられたと表現しました。主イエスが神のみ子であることと、わたしたち信仰者が「神の子」とされることとは全く違ったことであることを確認しておくことが重要です。

ここでわたしたちは、先に旧約聖書を学んだ際に、イスラエルの民や人間を「神の子」と言うことを慎重に避けていたことを思い起こします。ところが、新約聖書では非常に大胆にも、多くの箇所でキリスト者を神から生まれた「神の子」と表現しているのです。それはなぜなのでしょうか。その理由は、神からただお一人お生まれになった神の御独り人子、主イエス・キリストにあります。神のみ子主イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちは罪から贖われ、「神の子」とされているからです。神の選びによって滅ぶべき罪のこの世から選び分かたれ、み子を賜うほどの大きな愛によって、神によって買い取られ、神の所有、神のものとされ、神によって新たに生まれた者とされ、「神の子」とされているのです。

新約聖書の中で、わたしたちキリスト者が神のみ子主イエスと同じ「神の子」と呼ばれていることの積極的な意味について、ヨハネの手紙一3章2節ではさらにこのように言われています。【2節】。終わりの日、神の国が完成されるときには、「神の子」とされたわたしたちがみ子主イエス・キリストに似た者とされると言われています。また、ローマの信徒への手紙8章29節にはこうあります。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」。わたしたちは神の国において、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)新しい国で、み子主イエスと同じ姿に変えられ、朽ちず汚れずしぼむことのない栄光の体に変えられるという約束を与えられているのです。「神の子とされる」という告白は、そのような驚くべき、偉大な神の真理と救いの恵みを言い表しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中にあって朽ち果てるほかになかったわたしたちを、み子の十字架の血によって罪から贖い、み子の復活によって新しい命に生きる希望をお与えくださいましたことを感謝いたします。願わくは主よ、あなたが日々に新たな命を注ぎ込んでくださり、命のみ言葉をもってわたしたちを導き、育て、訓練してくださり、終わりの日に備えさせてください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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