5月26日説教「信仰と生活との誤りのない審判者」

2024年5月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(33)

聖 書:詩編119編1~16節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「信仰と生活との誤りのない審判者」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。きょうはこの文の最後「信仰と生活との誤りのない審判者です」という箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 この箇所では、キリスト教教理の「聖書論」が取り扱われていますが、わたしたちプロテスタンと教会とカトリック教会との大きな違いがこの「聖書論」に現れていると言えます。宗教改革者たちが強調した「聖書のみ」は「神の恵みのみ」「信仰のみ」とともに、宗教改革の中心的な教えでした。それは、ローマ・カトリック教会が聖書のほかにも、教会の伝統、あるいは伝承、すなわち、歴代の教皇が出した教理に関する文書、勅令、勅書と言われますが、それらが聖書と同じ権威を持っているとされていることに対する反論、否定でありました。聖書に書かれている神の言葉以外には、どんなに権威ある人の言葉であっても、それは神の言葉ではない。したがって、わたしたちが信仰をもって服従しなければならない言葉ではなく、また、わたしたちの救いにとってなくてならない言葉でもない。ただ、聖書の言葉だけがわたしたちが聞くべき神の言葉であり、ただ聖書の言葉だけがわたしたちを救う神の言葉である。そのことをルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちは強調したのです。

 きょう学ぶ「信仰と生活との誤りのない審判者」という告白に関しても、このことを今一度確認しておくことが重要です。神の言葉である聖書と、それをとおして語っておられる聖霊だけが、わたしたちが信じ、従うべき神の言葉であり、また、わたしたちの信仰と生活全般においての唯一・最高の審判者なのであって、他の言葉は、たとえ教会という組織が作成した規則や命令であれ、偉大な人物とかすぐれた宗教家や哲学者が語った言葉であれ、それらはわたしたちを正しい信仰の道へと導くものではない。わたしたちをまことの命と真理に導く言葉ではない。そのことが、ここではまず第一に告白されているのです。

 もう一つ、あらかじめ確認しておくべきことは、この文章の主語についてです。「新・旧約聖書は神の言葉であり」、ここまでの主語は新・旧約聖書です。次の文からは主語が変わり、「その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示し」と「信仰と生活との誤りのない審判者です」という、この二つの文章の主語は、直接的には聖霊であると言えます。しかしまた、意味から考えれば、新・旧約聖書が主イエス・キリストを啓示し、証ししているのであり、また、同じように聖書の言葉が信仰と生活の審判者であると言えますので、実際には聖書と聖霊の両者が主語となっていると理解できます。

 わたしたちの『信仰告白』がこのような言い方をしている理由については、これまでも学んできましたが、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとを密接に結びつけ、両者を決して分離しないということに留意しているからです。聖書の本来の、また唯一の著者は聖霊です。聖霊が預言者や使徒たちをお用いになって神の言葉である聖書を著しました。それゆえに、聖書を読む場合も、聖霊のお働きとお導きとを求め、そのお働きを信じて読まなければ、それがわたしたちを罪から救い、まことの命に生かす神の言葉として読むことはできません。

 「わたしたちの誤りのない審判者である」と告白されているここでも同様です。直接に、「聖書が誤りのない審判者である」と告白されるのではなく、「聖書の言葉の中で働かれる聖霊が誤りのない審判者である」と告白されています。ここでも、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとが密接に結びつけられているのです。その理由を考えてみましょう。

 実は、聖書の言葉が直接的に誤りのない審判者であると告白されている信仰告白も世界にはかなりあるのですが、その際には、聖書の言葉が律法主義的に理解されて、聖書の言葉がそのまま教会の在り方や信仰の在り方を規制したり、あるいは、聖書の言葉をこの世の法律と同じように適用して、それによって軽々しく裁いたり、断罪したりする危険性が出てきます。聖書にこう書いてあるのに、それとは違うから、それは不信仰だと決めつけるという、律法主義がそこから出てきます。しかし、それは神の言葉を人間の言葉と同じように適用することであり、神の律法をこの世の法律と同じように適用することであって、そこでは聖霊なる神のお働きは全く無視されていると言わなければなりません。そのようが誤解や悪用を避ける意味でも、わたしたちの『信仰告白』は「聖書の言葉と、その中では働かれる聖霊なる神が、わたしたちの信仰と生活との誤りのない審判者である」と告白されているのです。

 では、具体的に聖書のみ言葉を読みながら考えていくことにしましょう。まず、「審判者」という言葉は聖書ではどのような意味で用いられているのかをみていきましょう。【使徒言行録10章42節】(234ページ)。もう一箇所【テモテへの手紙二4章7~8節】(394ページ)。この二箇所では、いずれも主イエス・キリストが、世の終わりの時、すなわち終末の時に、最終的な審判を下す裁き主であることが言われています。わたしたちはこのことをもしっかりと覚えておきたいと思います。わたしたちに信仰をお与えくださり、わたしたちの日々の信仰を導かれる主イエスが、最後の審判の時にわたしの傍らに立ってくださり、わたしに義の栄冠をお与えくださると約束されています。

 きょう学んでいる箇所は、聖霊が主語になっているので、また終末の時ではなく、今の時のわたしたちの信仰と生活のことが取り挙げられているので、この二か所とは少し違う意味で用いられていると思われます。わたしたちの『信仰告白』のもとになっている聖書の箇所は、きょうの礼拝で朗読されたテモテへの手紙二3章16節と思われますので、そこを読んでみましょう。【16~17節】(394ページ)。ここでは、聖書がすべて聖霊なる神に導かれて書かれているので、わたしたちに神の真理を教え、罪の道へと進むことを戒め、神が定めておられる正しい道、神の義へと導くために有益な働きをすると書かれています。そして、わたしたちが神に喜ばれるよいわざに励むことができるように整えると言われています。神の言葉である聖書は、聖霊なる神がお働きくださるときに、そのようにわたしたちを導くということを、「誤りのない審判者である」と告白していると理解できます。

 他の信仰告白では、多くの場合、審判者という言葉ではなく、「基準」あるいは「規範」という言葉を用いています。たとえば、1559年の『フランス信仰告白』第四条では「われわれはこれらの聖書が正典であって、われわれの信仰の確かな基準であることを認める」と告白されています。また、1647年制定の『ウエストミンスター大教理問答』問3では、「旧約と新約の聖書が、神の言葉であり、信仰と従順の唯一の規範です」と教えています。

このように、歴史的な信仰告白の多くが「規範、基準」という言葉を用いていますが、わたしたちの『信仰告白』があえて「審判者」という、より厳しい響きを持つ言葉を用いていることの積極的意味を読み取る必要があります。聖書がわたしたちの信仰と生活を正しく、また確かな道へと導く働きをするというだけでなく、神の言葉はまた、そこに聖霊なる神がお働きになって、信じる者と信じない者とを右と左に分け、命と死とに分けるという終末論的な働きをするということがここでは強調されているのです。ヘブライ人への手紙4章12節、13節に書かれているように、神の言葉は生きており、どんな諸刃の剣よりも鋭く、わたしたちの全身を刺し貫き、わたしたちの隠れている思いや考えを暴き出し、神のみ前に何一つ隠されているものがないほどに裸にする力を持っている。その神の言葉の計りしれない力を信じ、また恐れつつ、神の言葉である聖書を読み、聖霊のお働きを信じ、わたしたちの日々の信仰生活を続けるべきであることを強調しているのです。

次に、「誤りのない」という言葉について考えてみましょう。この言葉は、「永遠に変わらない真理と命を持つ」という意味です。この世には誤りの可能性がある言葉で満ちています。この世にあるすべての言葉はそうであると言うべきかもしれません。今この時に、ここで真実と思える言葉であっても、次の時代には忘れ去られ、消え去る言葉がわたしたちの周りには満ちています。一部のグループの人たちには真実であっても、他の人には通用しない言葉が、この世には満ちています。

けれども、聖書の言葉は永遠に変わらず、信じるすべての人を罪から救い、神の恵みで満たし、まことの命へ導き、慰めと平安を与えます。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とイザヤ書に書かれているとおりです(40章8節参照)。

1934年にドイツ福音主義告白教会が採択した『バルメン宣言』の第一条にこうあります。「聖書において証言されているイエス・キリストは我々がそれを聞き、生と死とにおいてそれに信頼し、従わなければならない神の唯一の言葉である。教会がこの宣教の根源として、この神の唯一の言葉のほかに、これと並んで、さらに何らかの事件や、権力、現象や真理をも神の啓示として認めることができるとか認めなければならないとかいうような誤った教えを我々は拒否する」。

この宣言は、1933年に台頭したナチス・ヒトラー政権に反対する告白教会の必死の抵抗として採択されたものです。当時はドイツの国民も、またほとんどの教会もヒトラーをドイツの救世主と仰ぎ、彼の言葉を神の言葉として聞き、彼をあがめ、彼に服従していた時に、しかし、告白教会だけはヒトラーもまた人間であり、彼の言葉は神の言葉ではなく人間の言葉であるにすぎない。われわれはただ主なる神の言葉である主イエス・キリストにのみ服従すべきだと、告白したのです。

いつの時代にも、朽ち果てる、死すべき者である人間の言葉が力を持ち、神の言葉から信仰者を引き離そうとする誘惑にわたしたちは遭遇します。神の言葉以外の何らかのスローガンや偽りの宝や光がわたしたちの目を惑わします。けれども、ただ聖書に書かれている神の言葉だけが永遠に真実であり、わたしたちが自分の全存在をかけて聞き、従うべき、唯一の救いと命の言葉であり、わたしたちの信仰生活全体の永遠の審判者です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちに信じさせてください。そのみ言葉を日々の命の糧とし、わたしの思いや行動、言葉のすべての審判者とさせてください。

〇主なる神よ、あなたのみ心が地においても行われますように。あなたの義と平和が実現しますように。混乱と困窮の中にあるこの世界を顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA