6月2日説教「モーセの逃亡」

2024年6月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記2章11~25節

    使徒言行録7章23~29節

説教題:「モーセの逃亡」

 出エジプト記2章11節の冒頭に、「モーセが成人したころのこと」と書かれています。この時のモーセの年齢がいくつであったかについては出エジプト記では何も書かれていませんが、使徒言行録7章の殉教者ステファノの説教では、モーセの120年の生涯を40年ずつ三期に区切って、きょうの礼拝で朗読された23~29節はその第二期、40歳から80歳までの期間のことが語られており、それが出エジプト記2章11~25節までの記録と一致しています。

 このモーセの第二期は、彼がエジプトを去って、遠いアラビアのミディアン地方に逃れていた期間であり、モーセが80歳になって、出エジプト記3章で、神に召されてエジプト脱出のリーダーとされるまでの、いわばその準備の期間であったと言ってよいでしょう。それは、モーセがイスラエルの民の指導者として出エジプトという神の偉大な救いの事業に仕えるために、ぜひとも必要な準備の期間であったのです。神はご自分の僕(しもべ)モーセを訓練するために、彼をミディアンの地へと逃亡させられたのです。

 そのことを学ぶ前に、モーセの生涯の第一期を振り返ってみましょう。エジプトに移住したヤコブ(イスラエル)の子どもたち60人は、400年の間に増え続け、エジプトの中で大きな勢力となり、脅威を与えるほどになったために、エジプト王ファラオはついにヘブライ人たちを迫害する政策を実行し、生まれた男の子はみなナイル川に投げ込んで殺せという命令を出しました。モーセが誕生したのは、そのような迫害の中でした。不思議な神のお導きにより、モーセはファラオの娘の子として、エジプト王宮の中で育てられました。

 そして、40歳になった時、11節に書かれているように、「彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た」のです。ここでわたしたちが気づくことは、モーセは40年間エジプトの王宮で育てられましたが、しかし決してエジプト人にはならなかったということです。彼は王宮でエジプトの最高の教育を受けたことでしょう。エジプト人の慣習や文化にも慣れ親しんだことでしょう。けれども、彼はエジプト人になったのではありませんでした。かつて、400の間イスラエルの民がエジプトの地に寄留していても決してエジプト人にはならなかったように、ヘブライ人であり続けたように、モーセもまたヘブライ人であり続けたのです。

 彼は王宮の中に留まってはいませんでした。そこを「出て」、同胞の民の所へと出かけました。そして、同胞の民が重労働に服しているのを「見た」、と書かれています。遠くから眺めていただけではありませんでした。傍観者でいたのではありませんでした。モーセ自身はこれまでは王宮の中にいて、同胞の民の迫害と苦しい労役を実際に経験してはいませんでした。でも、彼には同胞の民の苦しみに共感し、それを自分の苦しみとして受け止める心はありました。同胞の民ヘブライ人への愛がありました。モーセはヘブライ人であることをやめてはいませんでした。そこには、隠れた主なる神のお導きがあったということをだれが否定しえるでしょうか。ここでも、神はご自身の救いのみわざを確実に進めておられたのです。

 モーセは、同胞の民が重労働を強いられている現場で、エジプト人の監督から鞭うたれて死に瀕している一人のヘブライ人を目撃しました。それは、モーセにとってどんなにかショッキングな光景だったことでしょうか。自分はこれまでエジプト王宮の中で何の不足も不自由もなく、幸いを享受していたが、王宮の外では自分と同じヘブライ人がこれほどの迫害と苦難を受けていることに、激しい怒りと、また同時に強い正義感がモーセを突き動かしました。そして、その激しい感情を即座に行動に移し、その現場監督を殺して、砂の中に埋めました。モーセのこの行為は、彼が迫害する支配者・エジプト王ファラオの側に立つのではなく、迫害されている側、ヘブライ人の仲間であるということをはっきりと自覚させる行為であったと言えます。

 ところが、そのようなモーセの強い同胞意識と正義感は、同胞の民ヘブライ人には理解されませんでした。「翌日、また出て行くと」と13節に書かれていることから、前日のエジプト人殺害の行為がモーセの一時的な感情から出た突発的な行為ではなかったことが分ります。モーセは同胞のことを気遣っています。同胞の苦難の歩みと連帯したいと願っているようです。しかし、モーセのそのような願いと行動は同胞のヘブライ人には理解されませんでした。彼はヘブライ人を守るために、彼らと連帯するために、エジプト人の現場監督を殺害したのでしたが、それを見ていたヘブライ人は、モーセが自分たちを支配しようとしている、裁こうとしていると言って、非難します。このヘブライ人はモーセがエジプト王宮で育ったことを知っていたのかもしれません。

 モーセがエジプト人を殺したことがファラオの耳に届きました。ファラオはモーセを殺そうと手配したと15節に書かれています。モーセは同胞のヘブライ人からは拒否され、義理の父のような存在であったエジプトの王からは追われる身になりました。モーセはエジプトの地では自分の身を安全に守ることができなくなりました。そこでモーセはミディアンの地方に逃れることになります。ミディアンの地がどこなのか、正確な位置は分かっていませんが、シナイ半島のアガパ湾周辺と考えられています。また、なぜモーセはこの地に来たのかについても、聖書は何も語っていません。ここにも、見えない神のみ手が働いていたのでしょうか。

 16節からは、ミディアンの地にある井戸の傍らでのモーセと祭司レウエルの7人の娘たちとの出会いの場面が描かれています。この場面は、創世記24章1節以下のイサクとリベカの出会い、また29章2節以下のヤコブとラケルの出会いの場面とよく似ています。彼らは水くみ場での出会いをきっかけにして、それぞれ夫婦となりました。古代の遊牧民にとっては井戸や水汲み場は彼らの生活の中心であり、交わりの場、情報交換の場でした。また、男女の出会いの場でもありました。モーセはここで妻となるツィポラと出会います。

 ミディアンの祭司で7人の娘たちの父であるレウエルは3章1節や4章18節などではエトロとなっています。レウエルは氏族、部族の名前ではないかと考えられています。モーセは祭司レウエル(またはエトロ)の家で、彼の娘の一人ツィポラと結婚し、ここでエトロの羊の群れを飼い、40年近くを過ごしました。

これが、使徒言行録のステファノの説教で言われていたモーセの生涯の第二期です。おそらくモーセはこの第二期の40年間で、それまでのエジプト王宮の40年間では経験できなかった多くのことを経験し、そこでは学ぶことができなかった貴重な多くのことを学んだと推測されます。

 その一つは、義理の父エトロが祭司であったということに関連しています。祭司とは、もっぱらに神に仕える務めを行ないます。エトロが仕えていた神が、族長アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわちイスラエルの神であったのかどうかはよく分かりません。レウエルという名は、ヘブライ語では「神の友」あるいは「神の羊飼い」の意味であろうと推測されます。ヘブライ語の「エル」はイスラエルの神を言う場合にも、一般的に神を指す場合もありますので、そのどちらであるかを判断することはできません。そうであるとしても、モーセは祭司エトロのもとで、神にお仕えすることを学んだことは、はっきり言えます。この世の王に仕えるのではなく、神にお仕えし、主なる神をこそ恐れることを、モーセはエトロから学んだのです。やがて彼がイスラエルの主なる神から召し出され、神の偉大なる救いのみわざにお仕えするようになる準備が、ここでなされたのです。

 モーセがここで学んだもう一つのことは、彼がエトロの羊の群れを飼っていたということです。3章1節からそのことが分ります。これもまた彼にとっては意義ある経験だったと言えましょう。彼はのちに、エジプトを脱出したイスラエルの民の荒れ野の40年間の旅を、迷える羊の群れを導き、約束の地カナンへと連れて行く羊飼いとしての務めを成し遂げたのです。

 モーセは長男が誕生した時、その子をゲルショムと名づけます。「ゲルショム」とは「そこに寄留する者」という意味です。モーセは自分がアブラハム、イサク、ヤコブの族長たちと同じ、地上での旅人、その地での寄留者であることを告白します。しかし、エジプトが帰るべき地であるということではありません。神の約束の地カナンこそが目指すべき目的地です。その神の約束のみ言葉を信じつつ、その約束の地を目指しつつ、地上を旅する信仰者であることを、モーセはミディアンの地で教えられたのです。そして、やがてイスラエルの民と共に、約束の地カナンへと進む時がくることを信じつつ、モーセはこの地で備えていたのでした。

 最後の23節以下を読みましょう。【23~25節】。ここでわたしたちは、これまでのモーセのすべての歩みの上に、神の見えざる救いのみ手が働いていたということを、確かに知ることができます。神はエジプトで苦しむイスラエルの民を救うというご計画を、至る所で進めておられたのです。モーセの同胞に対する愛やあるいは正義感よりも、はるかに大きな神の救いのみ心がそのことを成し遂げるのだということを、わたしたちはここから知らされます。

 神はイスラエルの人々の嘆きの声をお聞きになります。神は族長たちとの契約を思い起こされます。神はご自身が選ばれた民イスラエルを顧みられます。神は彼らをみ心に留められます。「聞く」「思い起こす」「顧みる」「み心に留める」、これはいつの時代にも変わらないわたしたちに対する神の大いなる愛です。神は今もなお、苦しむ者たち、悩む者たちの叫びと祈りをお聞きになります。そして、それに応えられ、最も良き道へとお導きくださいます。神はまた、主イエス・キリストによって教会の民と結ばれた新しい契約を覚えられます。信じる人たちを神の国へと導き、永遠の命を受け継がせてくださいます。神は貧しい人たち、病める人たち、重荷を負う人たちを顧みられます。神のため、主キリストのため、主の教会のために労苦する人たちを顧みられます。その労苦は決して無駄に終わることはありません。また、神はわたしたちの弱さや破れ、欠けやつまずきのすべてを知っておられます。そして、常にわたしたちの傍らに立ってくださり、支え、励ましてくださいます。その神を信じて、従っていきましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠の救いのご計画の中にわたしたち一人一人をもお招きくださいますことを感謝いたします。わたしたちがどのような時にも、あなたのみ言葉を固く信じ、あなたが最も良き道を備えてくださることを信じて、信仰の道を全うできますようにおみちびきください。

〇あなたの義と平和がこの地に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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