6月9日説教「なぜ教会に行くのですか」

2024年6月9日(日) 秋田教会主日(伝道)礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編95編1~11節
    ローマの信徒への手紙12章1~2節
説教題:「なぜ教会に行くのですか」

 秋田教会は今年で伝道開始から132年目、また自給独立の教会を建設してから90年目を迎えます。日本のプロテスタント教会の歴史152年の中ではかなり長い歴史ですが、世界の教会の歴史2000年から見れば、まだ生まれたばかりの子どもと言えるでしょう。わたしたちは今年度「礼拝」をテーマにして二度の研修会を計画し、第一回は4月14日の秋田教会建設記念礼拝後に、そして第二回をきょうの伝道礼拝後に行います。そこで、礼拝後の研修会のテーマとの関連で、きょうの礼拝説教の題を「なぜ教会に行くのですか」としました。キリスト者が教会に行く主な目的は主の日・日曜日の礼拝をささげるためであるということはだれもが認めることですが、「なぜ教会に行くのか」という問いは、「なぜ神を礼拝するのか」という問いと密接に関連していると言えますので、その両方を考えながらきょうの問いの答えを探っていくことにしましょう。
 「なぜ教会に行くのか」という問いは、すでに洗礼を受けているキリスト者と、まだ教会に行った経験がない人とでは、問の立て方もその問いで期待される答えも、根本的に違うと思います。まだ教会のことをよく知らない人は、それぞれにいろんな目的をもって、最初に教会の門をくぐります。人生に悩んで、その解決に教会を選ぶ人もいます。教会で人との出会いを期待する人もいます。キリスト教や聖書について学んでみたいという人も多いでしょう。あるいは、わたくしのようにアメリカ人の宣教師と英語で話したいと思う学生もいるでしょう。それぞれに求めるものは違ってはいても、教会に入ってすぐにわかることは、そこでは礼拝の儀式が行われているということです。あるところでは厳粛に、あるところでは楽しく楽器を鳴らしながら、みんなが同じ声を発し、みんなが同じ方を向いて説教を聞き、みんなで一つのことに集中していることに気づきます。ある人にとっては堅苦しく、息苦しく感じられるでしょう。ある人にとっては理解できず、場違いな感じを受けるでしょう。またある人は、そこに何かの真理がありそうだと感じるでしょう。いずれにしても、教会の中で行われていることは、人間の日常的なこととは違った、宗教的な、人間以上の存在者である神がそこでは崇められ、礼拝されているということを、初めて教会に入った人は感じることでしょう。日曜日の教会に、落語を聞きに来る人はいません。音楽や絵画、陶芸などの芸術を求めてくる人もいません。体を鍛えるための運動をしに来る人もいません。教会では神を礼拝します。そのために教会に行きます。
 すでに洗礼を受けているキリスト者の問いは、これもその問いの立て方や期待される答えは千差万別と言えるかもしれません。そのすべてのケースについてきょうは考えることはできませんので、いくつかのポイントに絞って考えてみたいと思います。
 最初に、教会とはそもそも何かということから入りましょう。一般には教会とは建物、教会堂を指すと考えられていますが、聖書ではそうではありません。新約聖書で教会を意味するギリシャ語「エクレーシア」は「呼び出された人たち」という意味です。建物ではなく、集まっている人間集団・集会を指します。旧約聖書のヘブライ語でも、イスラエルの民の礼拝・祭りを意味するヘブライ語の「エーダー」や「カーハール」は、日本語では「共同体」、「会衆」と訳され、人々の集まり・集会を意味しています。
 ですから、そもそも教会とは、また旧約聖書の集会は、信じる人たちが共に集まる、共に同じ行動をするということを本質とし、目的としているのです。そして、そこで重要なことは、集まる人たちがそれぞれに目的をもって自由な意志で集まってくるというよりは、ギリシャ語のエクレーシアやヘブライ語のカーハールの本来の意味から明らかなように(文法的にはいずれも受動態の名詞)、その人たちは「呼び出された人たち」、「召し出された人たち」であり、主なる神によって、それぞれの生きている場から「こっちに来い」と声をかけられ、この世から選び分かたれ、主なる神のみ前に召し集められたのです。それが教会です。
したがって、そこには、ある意味での場所の移動が必要です。今まで生きていた場、住んでいた場から、場所を移して、聖なる神のみ前に進み出る。今まで働いていた場から、今まで、労苦し、悩み、笑い、迷っていた場から抜け出して、主なる神のみ前に進み出、主イエス・キリストがいます場へと集められる、それが教会であり、礼拝なのです。
 主イエスはこう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18章20節)と。また、使徒言行録2章によれば、ペンテコステの日に「一同が一つになって集まっていると」(1節)その集まりの上に天から聖霊が降り、彼らは神のみ力に満たされて、主イエス・キリストの福音を大胆に語り出しました。ここに、世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生しました。初代教会の信者たちは、まだ定まった教会堂がありませんでしたが、信者の家々に集まり、共に礼拝し、共同の食卓を囲み、共に祈り、交わりを深めていたと、使徒言行録に繰り返して語られています。
 次に、新約聖書のパウロの書簡などでは、教会は主キリストの体であると表現されていますが、これも「なぜ教会に行くのか」という問いに対する答えを含んでいるように思います。教会は主イエス・キリストのお体が、まさにそこにあり、主イエスご自身がそこにおられる場なのです。主イエス・キリストとは、わたしたちの罪のためにご自身が代わって十字架を背負ってくださり、わたしたちの罪のために代わって神の裁きを受けて死んでくださり、それによってわたしたちの罪を帳消しにしてくださったお方であり、また三日目に復活されて、罪と死とに勝利されたお方であり、信じる人に永遠の命の保証を与えてくださるお方です。その主イエスのお体である場、その主イエスがおられる場、その主イエスとお会いできる場、その主イエスの救いの恵みを受け取る場、それが教会、それが礼拝なのです。
 「あなたはなぜ教会に行くのですか」。そうです。その答えは、「わたしのために十字架に死んでくださった主イエス・キリストがそこにいますゆえに、主イエス・キリストとそこでお会いできるからです」。
 教会が主イエスの体であるという表現には、たくさんの意味が含められていますが、ここではもう一つのことに注目してみましょう。体はたくさんの器官から成り立っています。頭、手、足、内臓など、どれ一つも体が生きていくためには欠かせません。パウロは手紙の中でしばしばその比喩を用いて、教会の意義を語っています。教会に集められてくる一人一人は、皆それぞれにかけがえのない大切な存在として、主イエスの体を形成しています。というよりは、わたしたちが集まって主イエスの体を形成していくというよりは、わたしたちは主イエスの体の中に植え込まれるようにして、移植されるようにして、主イエスの体に接ぎ木されるようにして、主イエスの体である教会に召し集められているのです。わたしたちの救いのためにすべてのみわざをなしてくださった主イエスのお体がそこにあり、そこへとわたしもまた招き入れられ、主イエスの体の大切な一つの器官とされているということです。だれ一人として、そこでは不必要な存在ではありません。そしてまた、すべての器官に主イエスの血管が通っており、主イエスの命の血によってつながれており、一つの体を形成しているのです。
 もし、どこかの器官が病んだり痛んだりすれば、それは体全体に伝わります。共に痛みを共にし、また喜びも共にします。体の中で弱っている部分があれば、みんなでそれを支え、いたわり合います。共に励まし合い、共に慰め合い、また共に仕え合って、体の健康を保つように心がけます。もし、だれかが体から離れていれば、もしだれかがきょうの礼拝に顔が見られなかったら、その人は体全体にとって気がかりになります。その人も一つの、この体を形成している大切な枝枝であるからです。
 そのようにして形成された主キリストの体は、今ここに存在する、目に見える教会だけではなく、聖霊によって、無限の場所的・時間的広がりを与えられていることも聖書から教えられます。病院や施設に入所して、あるいは他の何かの事情によって、共に礼拝の場に集まることができない人もまた、主キリストの体である教会とそこでの礼拝に連なっている一人であることを聖霊なる神によって教えられます。それだけでなく、今はこの世を去り天に召された信仰者も、天にある勝利の教会でわたしたちと共に礼拝しています。また、今はまだ神を知らず、教会をも知らないすべての人も、こののちには教会の民の一人とされるであろうことをも聖霊なる神は約束してくださいます。それらのすべての人々が、終わりの時に、神の国が完成される時に、一つの教会の民、一つの礼拝の民とされるであろうとの約束をも、わたしたちは聞いているのです。
 最後に、きょうの礼拝で朗読された二つの聖書のみ言葉に目を向けましょう。詩編95編はイスラエルの神礼拝を歌った詩編です。「なぜ、教会に行くのか、なぜ神を礼拝するのか」という問いに対する答えがここで答えられています。なぜならば、主なる神こそが天地万物を創造された神であり、今もなお万物を強い御手をもってご支配しておられる神であり、すべてのものに命を注ぎ、すべてのものをみ心にかなって養われ、わたしたちに日々聞くべきみ言葉をお語りくださる主なる神であられるからです。この神がおられる教会に、この神を礼拝するために、この神がお語りになる礼拝に、わたしは喜びと感謝とをもってでかけて行くのです。
 ローマの信徒への手紙12章では、パウロは11章までで語った人間の罪と神の救いのみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じて救われた人が、感謝のささげものとして、自分自身の体を聖なる生けにえとして神にささげて、礼拝しなさいと命じています。わたしたちは主イエス・キリストによって罪ゆるされ救われている。その大きな恵みを忘れないように、神に感謝をするのです。わたしたちが教会に行く理由、目的がここにあるのです。わたしたちが神を礼拝する理由と目的がここにあるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたはわたしたち罪びとを罪と死と滅びから救い出すために、ひとりごなるみ子を十字架に引き渡されました。そのあなたの偉大な愛によって、わたしたちは救われ、あなたの民とされ、教会の群れの中に召し集められ、まことの命に至る道へと導かれておりますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちにあなたを信じる信仰と教会の霊の交わりに生きる愛とをお与えください。
〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。あなたの恵みと祝福が、すべての人たちに与えられますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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