2月6日「7人の食卓の奉仕者の選出」

2022年2月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記27章15~23節

    使徒言行録6章1~7節

説教題:「7人の食卓の奉仕者の選出」

 紀元30年代、ペンテコステの日に誕生した初代エルサレム教会はユダヤ人からの2度の迫害を経験しながらも、むしろその迫害を教会のさらなる成長と発展の新しいエネルギーとしていきました。5章の終わりには驚くべきことが書かれていました。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び」と41節に書かれています。彼らは迫害を喜んでさえいるのです。それゆえに、彼らは「イエスの名によって語ってはならない」(28節、40節参照)というユダヤ最高法院の命令に2度も逆らって、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせ」(42節)たのでした。

 6章からエルサレム教会の新しい展開が始まります。主イエス・キリストの福音がエルサレムのユダヤ人だけでなく、パレスチナ全域へ、さらにはユダヤ人以外の異邦人へと拡大されていく基礎ここでが築かれていきます。エルサレム教会内で起こった日々の分配の問題に対処するために選ばれた7人の奉仕者たちが、教会内の食卓の奉仕に当たるだけでなく、彼らの多くは教会の外へ出て、異邦人への宣教のための役割をも担うことになったということを、わたしたちはこれから知らされるのです。神は、教会の外からの迫害をもお用いになって、教会の成長・発展へとお導きくださいました。また、教会内の問題をもお用いになって、教会の福音宣教の働きをより拡大させてくださるということを、わたしたちは使徒言行録で何度も繰り返して教えられます。

 では、6章1節から読んでいきましょう。【1節】。エルサレム教会にはギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語あるいはアラム語を話すユダヤ人とがいました。前者を一般にヘレニストと呼びます。彼らは離散していたユダヤ人・ディアスポラと言われ、世界各地に住み着き、当時の世界共通語であったギリシャ語を話していましたが、この時期にエルサレムに移住してきました。当時、ユダヤ人に間にメシア待望の信仰が強くなっていて、メシアがエルサレムに現れることを期待した人々が世界各地から移ってきました。それに対して、以前からエルサレムに住んでいたユダヤ人は、当時パレスチナで流通していたアラム語を話していました。その両者の間には多少の緊張感があったようでした。エルサレム教会ではもともとこの町に住んでいたユダヤ人が主流であったと思われますが、ギリシャ語を話すユダヤ人の側から、自分たちの未亡人が日々の分配で不利益を被っているとの申し出があったということです。

 前にも学びましたように、エルサレム教会では、教会員が所有していた財産を共有にして、必要に応じてそれを教会にささげ、みんなに分配するという財産共有生活をしていましたから、貧しい人たちや社会的立場の弱い人たちに対しては日々の食糧の分配など、特別の配慮が必要とされました。けれども、教会員の数が3千人から5千人、さらにそれ以上に増えていくにつれて、一人一人への食糧の配分が大変な労苦になり、不公平が生じるようになったと思われます。

 そこで、この問題を解決するために教会の指導者であった12使徒たちが、教会員のすべてを招集して教会の会議を開催することになりました。【2~4節】。ここには、のちの世界の教会が取り入れたいくつかの制度の手本があります。その一つは、これがエルサレム教会で開催された最初の教会会議であったということです。わたしたちの教会の制度から言えば、教会総会と言ってよいかもしれません。初代教会は、教会内の諸問題を解決するために、あるいは教会の宣教活動を進めていくために、会議を開き、教会の指導者と教会員との話し合いと合意を大切にしたということを、わたしたちはここから教えられます。一部の指導者たちが、上からの権威によって事を決めるのではなく、教会員みんなの話し合いと合意によって、教会会議によって、教会の運営を行っていくという形式は、今日のわたしたちの教会にも受け継がれていると言えます。

 ここから教えられる第二の点は、教会の会議で代表者が選ばれ、その人たちに教会の務めが委託されるということです。実は、すでに12人の弟子たち、使徒たちも、以前は主イエスによって選ばれ、1章ではユダに代わる使徒が選挙で選ばれています。教会会議で教会の務めに当たる代表者が選ばれ、そこで選出された人たちにその務めを委ねるという形式も、わたしたち長老主義教会の在り方とよく似ています。似ているというよりは、わたしたちの長老制度がエルサレム初代教会を手本にしていると言うべきですが、この点において、わたしたちの教会は監督制度の教会や会衆派の教会とは違って、より初代教会に近いと考えています。

 宗教改革の時代にはこれを万人祭司と呼びました。聖職者とか監督という一部の指導者だけで教会を運営するのではなく、すべての教会員、信徒たち一人一人が教会の頭なる主イエス・キリストにお仕えする祭司となって、主キリストの体なる教会を建てていくために自分自身をささげて奉仕をする、それが長老主義教会の特徴です。

 ここから教えられる第三の点は、教会の務めの多様性ということです。すでに選ばれていた12人の使徒たちは「祈りとみ言葉の奉仕」がその務めでした。今回選ばれた7人は「食卓の世話をする」のが務めです。教会員が増えるにつれて、教会内の務め、働きも増してくるとともに、多方面での奉仕、働きが求められ、また可能になってきます。しかしそれは、務めの違いであって、何らかの上下関係ではありません。教会内の多様な務めは、すべて主キリストの体である教会を建てていくために仕えるのです。主キリストの体の成長のためになくてならない大切な務めです。

 したがって、食卓の世話をする務めだから、信仰の質とかは問題にならないということではなく、3節に書かれているように、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」でなければなりません。教会の務めは、み言葉の奉仕者であれ食卓の奉仕者であれ、その他どんな務めであっても、すべては聖霊なる神から与えられる霊の賜物を用いてなされるのであり、聖霊なる神のお導きにより、天の神からの知恵によってなされる務めです。そしてまた、選ばれる人は、教会全体の中で信望が厚く、信頼されている人であることが求められます。すべての務めは主イエス・キリストのみ名のために、主のみ名によってなされる奉仕であるゆえに、だれも主のみ名を汚すようなことがあってはなりません。すべてが主のみ名の栄光のために、主のお体を建てるためになされる務めなのです。それゆえにまた、すべての務めは誉れあり、尊い務めなのです。

 もう一つここで注目すべきは、7人の奉仕者は選挙で選ばれたらしいということです。どのような選挙かははっきりと書かれていませんが、教会員全員の意志と賛同によって選ばれたことは確かです。指導者たちの親戚とか知り合いが選ばれたのでななく、経済力や社会的地位を基準にして選ばれたのでもありません。したがって、選ばれた人は何らかの権力を行使するとか、自分自身の誉れを求めてその務めに就くのでもありません。教会全体のために仕え、教会の頭である主イエス・キリストの栄光のために、仕えるのです。

 ところで、この時選ばれた7人が具体的にどのような働きをなしたのかについては、使徒言行録には書かれていません。教会の伝統的な理解では、ここで選ばれたのは今日の執事に当たると考えられてきましたが、実際には少し違っているように思われます。5節に挙げられている最初の人、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」は、8節以下に記されている内容から判断するならば、彼は使徒たちと同じようにみ言葉の説教者であり、伝道者として働いていたと思われます。7章には、彼が迫害を受け、ユダヤ最高法院で行った長い説教が記録されています。そして、彼は7章の終わりで、教会の最初の殉教者となりました。

 次のフィリポは8章5節以下に書かれているように、サマリア地方で主イエスの福音を宣べ伝えました。彼はまた21章8節以下では、「例の七人の一人である福音宣教者フィリポ」と呼ばれ、パレスチナの地中海沿岸の町カイザリアに移り住み、その町でパウロと一緒に宣教活動をしています。他の人についてはこの個所以外には記録が残っていませんが、彼らの名前はみなギリシャ名であり、いわゆるヘレニストであり、ギリシャ語を語るユダヤ人であったと思われ、ほかの人たちも、ステファノやフィリポと同じように、異邦人伝道のために仕えたという可能性が大いにあります。

 以上のことから推測すると、ここで選ばれた7人の務めは、エルサレム教会内で日々の配給や食卓の世話をする執事というよりは、説教者、伝道者であったと考えられます。8章1節に、エルサレム教会に対しての大迫害によって使徒たちのほか主だった人たちがエルサレムから追放されたことが報告されていますが、その時に、ここで選ばれた7人もパレスチナ全域に散らされたために、本来は執事として選出されたけれども、結果的に宣教活動へと変えられていったのかもしれません。

 いずれにしても、エルサレム教会の食卓の問題や大迫害という不幸ともいえる事件をきっかけにして、主イエスの福音がエルサレムの外へ、パレスチナ全域へ、そして異邦人へ、そして全世界へと拡大していくことになったのでした。わたしたちはここでも神がなせるみわざの不思議を思わざるを得ません。神のみ言葉、主イエス・キリストの福音の命と力の大きさを改めて教えられます。神のみ言葉はこの世の鎖によっては決して繋がれることはありません。

 そのことは7節にはっきりと語られています。【7節】。特にここでは、「祭司も大勢この信仰に入った」と書かれたいます。祭司の多くはユダヤ教サドカイ派に属し、彼らは復活を否定していました。最初の迫害がこのサドカイ派の訴えがきっかけだったことを4章の初めで聞きました。ペトロたちが主イエスの復活を語っていることに腹を立てて、彼らはペトロとヨハネを捕えて獄に入れました。その最初の迫害の先頭に立っていた彼らの多くが、今や主イエスを信じ、主イエスの十字架と復活による罪のゆるしと永遠の命を信じて、キリスト者となったというのです。それはまさに神の奇跡です。神のみ言葉の勝利です。

 わたしたちもまた、今日、多くの人たちがキリスト教に対して無関心であり、主イエス・キリストの十字架と復活を信じようとはせず、罪に支配されているこの時代にあって、しかし希望を失うことなく、神のみ言葉の勝利を信じて、福音宣教の務めを果たしていきたと、決意を新たにしたいと思います。神のみ言葉はいかなるものによっても決して繋がれることはないと信じて。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す全能の力を持っていることを信じます。どうか、あなたのみ言葉によって、暗い世界を明るく照らしてください。深く病み、傷ついている世界をいやしてください。争いのあるところに平和を与えてください。孤独と絶望があるところに愛と希望をお与えください。罪と死と滅びに支配されている人たちに主イエス・キリストにある罪のゆるしと朽ちることのない永遠の命をお与えください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメ

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