6月30日(日)説教「恵みと平安があなたがたにあるように」

2019年6月30日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:民数記6章22~27節

    フィリピの使徒への手紙1章1~2節

説教題:「恵みと平安があなたがたにあるように」

 フィリピの信徒への手紙は、当時のギリシャ世界の手紙の書式にならって、手紙の差出人と受取人に続いて祝福の言葉が語られています。【2節】。手紙の冒頭で、手紙の差出人が受取人に対して祝福の言葉を書くという古代社会の習慣には、今日のわたしたちが考える以上に深い心の交流があったと思われます。今のように、交通が便利ではなく、頻繁に顔を合わせることができない時代に、また電話とかの電子による通話ができなかった時代に、遠く離れた相手に自分の願いや思いを伝える唯一の手段であった手紙に、その冒頭で、要件を書くよりも前に、まず一字一字に深い祈りと思いとを込めて祝福の言葉を書くということの重要性を、わたしたちは気づかされます。

 しかし、この手紙の差出人である使徒パウロは、単に当時の一般社会の習慣に従っているのではありません。パウロの祝福の言葉は、それは短く簡潔な文章ですが、そこにはキリスト教信仰の中心が表現されています。【2節】。ここには、パウロの信仰と神学、主イエス・キリストの福音が端的に言い表されています。

第一に重要なポイントは、この祝福の言葉は手紙を書いている人の社交辞令とか個人的な願いとかではなく、天の父なる神から、また十字架につけられ、三日目に復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから、手紙の差出人と受取人の両者にすでに与えられている恵みと平和を感謝して受け取りなさいという、神の恵みと平和への招きなのであり、また神の恵みと平和による信仰者の深い交わりの確認というような意味も含まれているのだということです。この2節のみ言葉には、当時の一般社会での手紙の書式とは違った、パウロの、キリスト教信仰による、全く新しい意味が含まれているのだということを、わたしたちは第一に強調したいと思います。

手紙の冒頭で、相手に思いをはせて、「あなたに祝福があるように、あなたの健康が守られるように」、あるいは当時のギリシャ社会であれば、「ローマ皇帝カイザルの恩恵があるように」と祈り、願う、それが手紙を書く時の習慣でした。でも、パウロの手紙ではそれ以上です。「そうあったらいいね、そうなってほしいね」というのではなく、「すでに、父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和が、確かに、豊かに、あなたがたに与えられている。だから、そのことを覚えて、神に感謝しなさい。また、わたしと一緒にその恵みと平和を共に分かち合いましょう」、そのようにしてパウロは、手紙の冒頭で神の恵みと平和の中へ教会の民を、わたしたちを招き入れているのです。このパウロの祝福の言葉は、祝福を祈るというよりも、祝福を与える言葉であると言うべきでしょう。

ではここで、他のパウロ書簡のあいさつと祝福の言葉を調べてみましょう。【ローマの信徒への手紙1章7節b】(273ページ)。これはフィリピの手紙と全く同じです。【コリントの信徒への手紙一1章3節】(299ページ)。これも全く同じです。実は、他のパウロ書簡でも、祝福の言葉はみな同じです。【テサロニケの使徒への手紙一1章1節c】(374ページ)。これだけがより簡潔な表現になっていますが、この手紙はパウロ書簡の中で最も早くに、紀元50年ころに書かれたと考えられていますので、これがパウロの初期のころの祝福の言葉であり、そののちにフィリピやローマの手紙のように、「神とキリストから」という言葉が付け加わっていったと推測できます。

ところで、皆さんは手紙の冒頭にどういう言葉を書きますか。相手がクリスチャンであれば、「主にあって」とか「主のみ名を賛美します」と書いておられる人が多いと思います。それでよいのですが、パウロの書簡を読んでいるわたしたちは、パウロにならって、【2節】と書いてもよいのではないでしょうか。「あなたとわたしが、神と主キリストから与えられている豊かな、確かな恵みと平和の中に招き入れられている。その恵みと平和による豊かな交わりによって結ばれている」、そのことを覚えて感謝しつつ、手紙を書くというのはどうでしょうか。

次に重要なポイントは、「恵みと平和」の源泉、それが出てくるのはどこかという点です。「わたしたちの父である神」と「主イエス・キリスト」がその源泉です。この点においても、一般社会の手紙の祝福の言葉と根本的に違っています。この世においては、得体のしれない偶像の神々とか、自然や他の被造物とか、ローマ皇帝とかのこの世の支配者や他のだれかとかがその源泉になるでしょうが、聖書においては、「恵みと平和」は、「父なる神と主イエス・キリスト」からきます。天から与えられます。地上の朽ちるほかない、過ぎ去るほかない、もろもろの恵みとか平和ではありません。それだけでなく、わたしたちが前に確認したように、恵みと平和はすでに父なる神と主イエス・キリストから豊かに、確かに与えられているということを、わたしたちは知っています。

ここでは、「わたしたちの父なる神」と「主イエス・キリスト」がどのような関係にあるのかについては、何も語られてはいません。父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストと聖霊なる神とが、三つの位格を持つ一人の神でいますという、三位一体の教理はパウロ書簡ではまだ明確に形成されてはいません。後にキリスト教教理の中心となる三位一体論は、2世紀後半から4世紀にかけて次第に形成されていきました。三位一体という言葉そのものは聖書の中にはありませんが、それは聖書の証言とは違ったことを初代教会が勝手に創作したということではありません。福音書に記されている主イエスの教えとお働き、またパウロなどの使徒たちの証言と信仰を土台として、それらの聖書のみ言葉から導き出された結論として三位一体の教理が形成され、今日のすべての教会の中心的な教理となったのです。パウロの手紙にも三位一体論の基本があることは言うまでもありません。

きょうの個所でも、わたしたちの父なる神のほかに、もう一人の主なる神として主イエス・キリストがおられるということが言われているのではありませんし、主イエス・キリストが父なる神とは違った別の存在であるとか、別の人間であるということが言われているのでもありません。父なる神と主イエス・キリストは一体です。おひとりの神です。切り離すことはできません。パウロ書簡の他の個所では、主イエスは「神のみ子」と言われ、神は「主イエス・キリストの父である神」と呼ばれています。父なる神とそのみ子であられる主イエス・キリストから、同じ恵みと平和が一緒になってわたしたちに与えられる、父なる神とみ子なる神は一人の神であって、同じ救いのみわざのために働かれるという、三位一体論の基本をここに読み取ることができます。

旧約聖書時代からの伝統によれば、全世界の唯一の主である父なる神からすべての恵みと平和が与えられます。パウロはそれに主イエス・キリストを付け加えています。なぜでしょうか。それは、神が主イエス・キリストによって、わたしたちの父となってくださったからであり、また父としての大きな愛によって、わたしたちに恵みと平和をお与えくださったということを言い表しています。神がご自身のみ子主イエス・キリストによって、イスラエルの民のみならず、全世界のすべての人にとっての真実の、永遠の父として、その豊かな愛と憐れみによって、ご自身の恵みと平和をわたしたち一人一人にお与えくださったのです。神は主イエス・キリストによって、わたしたちのための救いのみわざを成し遂げてくださいました。それ故に、わたしたちは主イエス・キリストをわたしたちの唯一の救い主と信じ、父なる神にすべてのご栄光を帰して、礼拝をささげるのです。

恵みは、ギリシャ語ではカリスですが、当時のギリシャ社会で一般に用いられている普通のギリシャ語でした。ギリシャ人は日常のあいさつで、「カイレ」、「恵みあれ」と言って言葉を交わしました。ちなみに、今日のギリシャ語では、カリスと日を意味するメーラを合わせて、「カリメーラ」(良い日)とあいさつするそうです。日本語の「こんにちは」と同じような意味あいでしょうか。

しかし、聖書では、恵みという言葉には特別な意味がこめられました。特に、パウロ書簡では「恵み」という言葉は100回以上も用いられ、パウロの信仰と神学を特徴づける重要な言葉になっています。

では、聖書の中での恵みにはどのような意味が込められているのでしょうか。恵みとは、本来それを受けるに値しない人に、神の側から、神の憐れみによって、無償で差し出される良きもののことであり、人間はその恵みをただ感謝と恐れとをもって受け取り、その恵みの圧倒的な豊かさと力とに驚きつつ、その恵みに応えて、新しい自分となって神と隣人のために生きるようにされる、そのような恵みを言います。

パウロにとっては、その恵みは、第一には、罪びとに与えられた罪のゆるし、救いの恵みです。人間はみな罪びとであり、神の裁きを受けて死すべき者であるにもかかわらず、神のみ子主イエス・キリストが罪びとたちの罪をすべて背負ってくださり、罪びとたちに代わって十字架で神の裁きを受け、死んでくださった。ご自身の汚れなき血を贖いの供え物として、父なる神におささげくださった。それによって、すべての人の罪が贖われ、すべての人の罪がゆるされている。だれでも、主イエス・キリストの十字架の福音を信じるならば、恵みによって、一方的に神の側から差し出されている恵みによって罪がゆるされ、救われる。これが、救いの恵みです。これこそが、わたしたち人間に与えられている最も大きな、高価で、尊く、偉大な恵みです。その恵みが、わたしたちの父となってくださった神と主イエス・キリストから、わたしたちひとりひとりに与えられているのです。

次に、平和という言葉ですが、これは旧約聖書のヘブル語の伝統を受け継いでいると考えられています。ヘブル語では「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」です。当時のユダヤ人は、あいさつの言葉として「シャローム」と言っていました。今日でもそうだそうです。このシャローム「平和」という言葉も、旧約聖書と新約聖書の中では特別な意味を持つようになりました。パウロの書簡でも重要な概念としてたびたび用いられています。

旧約聖書ヘブル語のシャロームという言葉には、戦争や争いがない状態という意味のほかに、繁栄、健康、充足(満ち足りていること)などの意味があります。欠けのない状態、満たされている状態をいいます。

では、パウロはこの言葉をどのような意味で用いているのでしょうか。ローマの信徒への手紙から代表的な箇所を読んでみましょう。【5章1~2節】(279ページ)。ここでは、平和は神との正しい関係を言い表しています。10節では「神との和解」という表現もあります。罪によって神から離れ、神なしで生きていた人間、それだけでなく神と敵対して生きていた人間が、み子主イエス・キリストの死によって、罪ゆるされ、神との敵対関係が終わり、神との和解を与えられた、それが平和です。この神との平和の関係は、どのような第三者の力が外から加わっても、決して破られることのない永遠の平和です。神のみ子がご自身の死をもってわたしたちのために築いてくださった平和だからです。

もう一か所、【14章17節】(294ページ)、それに【15章13節】。5章1節でもそうでしたが、ここでも平和は義と結びつけられ、また喜びとも結びつけられています。平和は、主イエス・キリストによる罪のゆるし、救いの恵みと固く結びついています。罪ゆるされている人に与えられる神との和解、神との正しい関係、神との霊的な交わり、それゆえに与えられる平安、喜び、希望、それが平和です。この神との平和が与えられているのならば、わたしたちには何も欠けるものがありません。すべてにおいて満たされています。

 (祈り)

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